『シャイニングハーツ しあわせのパン』 2012年 川崎逸郎監督 永遠の日常を生きることは幸せなのか?、それともこれ以上どこにも生きようがない袋小路の地獄なのか?

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評価:★★★星3つplusα
(僕的主観:★★★3つplusα

2012年の作品だそう。にしては、とても古い印象を感じる。古いというか、記憶喪失で閉じ込められた世界からの脱出の構造を、ベースにして日常の楽園を描くというファンタジーの形式は、90年代から00年代にいたるベーシックな構造だと思うので、それにとても忠実な気がした。『灰羽同盟』と同じ構造といえばいいのだろうか。押井守監督の出世作の『うる星やつらビューティフルドリーマー』やトムクルーズが主演していた『バニラスカイ』なんかも、閉じ込められた世界からの脱出ものですね。ちなみにネタバレですが、脱出しないんだけれども(苦笑)。

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なので、個人的には、2010年代の作品にしては古い構造だなーと思った。ただ、とてもシンプルに、日常と非日常の対比の中で、日常を生きることがどれほど大切なのか、美しいことなのかを淡々と描くことに成功している丁寧で安定した力量を感じるアニメーション。日常にフォーカスすることを「感じ取れる」ような感覚やセンサー、文脈がないと、見る意味が全くない作品でもある。そういう意味で、90-00年代の20年ぐらいの文脈だと、強烈にアピールした気がするが、、、、。とはいえ、丁寧だ。Tony氏のキャラクター原案もあって、キャラもとてもかわいいし、絵柄だけではなく性格や設定の安定度合いは非常に秀逸。個人的な感想は丁寧な秀作という感じ。ほんとは、大きな物語があって、その中のパーツの一部分という感じ。そこだけをクローズアップして作った感じの。

とはいえ、この構造は、ベーシックな王道の物語を作る時に、非常に秀逸なものなんだな、と感心した。


日常と非日常の構造を基盤において、日常を描こうと思うと、こういう構造になる。こういう、、、というのは、この物語では、勇者であったであろう戦士が、記憶喪失で島に流れ着いてパン屋をやっている。パン屋で、仲間と毎日のやるべきこと、、、お客さんがパンがおいしいといってくれる笑顔で、しあわせに満たされているの。しかし過去の自分の記憶がないだけに、自分の本当にやりたいことはこれでいいのか?、過去に使命があったのではないか?、と煩悶することになる。


非日常を一度でも生きてしまうと、そこには、目的、使命という軸が生まれて、そのドラマトゥルギーを生きることになるからだ。


もちろん、それが、「生き残る」というサバイバルになる場合もあるのだが、個人を押しつぶすようなマクロの出来事があり、それに乗るなり抗うなり、生きていれば、どうしても、生きている理由を持たざるを得ない。まぁ、別に日常であっても同じ。人が、特につよけあったり、特殊な才能があれば、なにかしらのドラマトゥルギーの結集店になっているかのせいは高い。なので、主人公は、なぜ俺に剣の才能が、技術が???と、剣の才能があったことで、非常に悩ましい気持ちになる。


日常を描こうと思うと、この目的意識を一旦消去してやらないと、素直に日常を生きることができなくなる。



日常を生きるということは、「今を生きる」ということで、これは時間感覚の変換を示している。



「〜へ向かって」生きる、目的をベースとする直線的時間感覚とは、隔絶する感覚なのだ。


なので、この直線的時間感覚を捻じ曲げるには、記憶喪失という設定はすごい重要なのだ。しかしながら、過去に生きた事実が消えるわけではなく、また物語であるからには、少なくとも過去に、使命を持って生きていたというドラマトゥルギーを抱える限りは、「このままでいいのか?」というドラマトゥルギーの種は抱えてしまうことになる。その対比が、物語を生むということになる。シャイニングハーツは、徹底的に日常によっていて、日常のパンを作る生活の美しさ「こそ」を書きたい作品だが、しかし、前に紹介した「小説家になろう」の「異世界迷宮の最深部を目指そう」の3章も同じ構造の記憶喪失ものだが、こちらは、そもそも、メインの目的を持って生きることのほうを「真実だ」としている設定なので、必然としてものすごく日常がウソにまみれた違和感のあるものになる。このあたりは、どちらを描きたいか?ということの差になるのだろうと思う。



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http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131124/p1


ただ、惜しむらくは、たぶん日常にフォーカスしようとした結果なのだろうと思うが、強烈なドラマトゥルギーが生まれないし、女の子たちの異邦人としての「落差」、いいかえれば、非日常の時に持っていたであろうドラマトゥルギーを押し出す脚本になっていないがゆえに、関係性も深く前に進むことがない。ある意味、ハーレムメイカーの極地的な安定した寸止め状態であって、「これ以上どこにも行きようがない」状態だ。これを、変わることがない地獄ととらえるのか、永遠と感じる安定の穏やかさ、と感じるかは、先ほど言ったように見るものの文脈次第になってしまうであろう。


■魔王と勇者のテンプレート〜使命を生きるべきか、そこから降りるべきか?

とはいえ、勇者と魔王的なテンプレートの作品の中で、勇者が一時の休息をとって、何のために自分がマクロの使命を、、、世界を守らなきゃいけないのかを、再確認する物語類型で、これって通常はパーツに過ぎないんだけれども、潔く、パーツではなくひたすら勇者が日常に埋没してしまう様を描いたのは、なんというか、英断だよな、と思う。12話だと、よほどのことがないと割り切らないと、物語というのは尺が足りなくなってしまうので。ちなみに、勇者や魔王が、自分のするべき使命を降りて、日常に埋没?戻ろう?とする系統のお話は、『はたらく魔王さま』や『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』などがあります。

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このあたりは、LDさんとかなり突っ込んで話したんですが、忘れてしまった…(苦笑)。僕の中で、この極地の一つが、橙乃ままれさんの『まおゆう』です。ようは、魔王と勇者という「役割」をどう降りるか?というのを、責任を放り出してやーめたと逃げるのではなく、責任を本気で追及するとなると、責任の役割を逸脱して、最終的な目的を達成する方法を見つけ出した!ということですね。それ以外の話は、どうしても中途半端になると思うんですよね。このあたりの議論は、僕のブログの大きなカテゴリーの一つである善悪二元論の解体の系譜の物語類型の思考を読み直してくれたり考えながら読むと、興味深いと思います。


ラスボスのいなくなった世界では、日常が続いていく関係性の物語へと変化する
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130622/p4

ヒックとドラゴン』 ディーン・デュボア クリス・サンダース監督 エンターテイメントを外さない善悪二元論の克服としては到達点の脚本
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110123/p2

二元論の超克〜三国志のパワーポリテクス/数字は2よりも3がすごい!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p2

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編(1)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/a58f2370c3f40af6e878fcdc2c97b64a

【絶対悪ってなに?(´・ω・`)善悪逆転編(2)】
http://blog.goo.ne.jp/ldtsugane/e/29ad97d6a163f7575a66e3e9b0bed5a9

メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1

英雄譚の類型の倫理的欠陥〜魔法騎士レイアイース(1993-96)に見る、全体主義への告発(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100511/p1

善悪二元論を超えるためには、歴史を語り、具体的な解決処方を示さないといけない (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100510/p1

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著  
その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p4


このテーマにはいろいろな質問の方向があるのですが、僕のメインの問いかけは、魔王と勇者のテンプレートがものすごく広まっている物語類型なんだけれども、仮にこれを概念的に善と悪とすると、これが殺し合いを続けても人類が滅びるだけで、袋小路なんだよね。また、仮に悪だと相手方を切り分けて線引きしたところで、相手がコミュニケーションをとれる存在(=戦争ができるというのはそもそもそういうこと)であるかぎり、相手の存在をどう考えるのか?という他者の共存を認めないのか?という問題は常に発生します。相手にとっては、自分が悪なのではないか?というのは考えればすぐわかることです。なので、勇者と魔王という対立構造軸は、その在り方に根本的な矛盾があるんですね。このあたりの問題意識をもって物語を見ると、とても面白いですよ。


ちなみに、この『シャイニングハーツ』や『はたらく魔王さま』や『勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました。』ってのは、いくつかの視点が枝分かれしていて、そもそも勇者は何のために戦おうとしているのか?という問いですね。答えは簡単で、人々が平和に暮らす日常を守るためです。しかし、勇者は、非日常の戦争の世界を生きていますから、日常の経験が人生のメインではないんですね。それで、それを気づかせる、という系統。『翠星のガルガンティア』なんかも似た構造を持っていますよね。


ちなみに、勇しぶがだめだなーっておもうのは、勇者が日常の尊さを知るのは時代的な流れなんだけれども、あれだと、、、勇者になれもしなかった落ちこぼれになってしまって、、、、なんというか、まったくこの世界に関係ないカスの話になってしまうんですよ。ワナビーではないんですが、はっきりいって勇者とか魔王とかいうマクロに何の関係もない人が、それに憧れて煩悶しているだけで、それって全く物語でもドラマツゥルギーでもなんでもないんですよ。もちろん「そういう」物語もあるんですが、これは、勇者と魔王の話じゃないですか、、、イタイタしすぎてみていられなかったですよ。魔王の娘が来るのも、女の子が降ってくるのは定番ですが、、、、それ、まったく意味ないから。君の手元には来ないから、それ、と思ってしまって。。。。あと、同時に家電の小さなお店という滅びゆく店で働いているのも、まったくもってナンセンスで、あれってもう存在価値がないんですよ。でも、サービスがいいとか人が優しいとか、もう消費社会や資本主義とは関係ないところで価値を主張していて、それって全体にとっても無駄だし、非常に分の悪い道筋でした。要は、仲間と戯れて絆を感じられる等身大の関係性がある「帰るところ(=ホーム)」がほしいといっているのだけで、それを主張するならば、家電量販店の組織なんかまったく意味がないんですよ。場所として。資本主義的な価値ではない価値を持つ場所や関係性なんかいっぱいあるのに、資本主義的な価値で負け犬の場所を選んでそうするって思いましたよ。。。物語として、あまりに未来がないのがわかりきっているところで描くのは、分が悪すぎる。なので、あまりに構造的な問題で、冷めてしまって。キャラクターはすごくかわいいので、楽しいのですが、、、いやー本当に冷めて、だめでした。


はたらく魔王さま』なんかは、似たようなダメな構造を持つのですが、これは意外に悪くなかったです。というのは、たぶん結論を出していないので、まだ物語的に宙ぶらりんで、どっちにでも行ける状況が、よかったんだろうと思います。あと、やっぱり魔王と勇者が日常で一緒に暮らして戦わないとなると、絶対お互いに、殺しあわないで日常を楽しむほうがいいよね、という話になるんですよ。よほど絶望的に価値観がずれていない限りは、ましてや男の子と女の子に設定すれば、、、、(笑)。そうすると、次には、「もう一度本質の役割と使命」に戻るんですよね。魔王として、勇者として何をするか?。そこにも出らなければ、ただ単に逃げ出して、マクロと使命と関係ないところに落ち着きました、というだけの話になる。なので、やっぱり日常で得た「日常の価値を尊く感じること」を、どう非日常の戦争の中で達成するか、というかだになるわけです。魔王と勇者、、、、互いの軍の司令官?もしくは有力者であれば、マクロの政治を考えるしかなくなるんですよ。二人が、共通の価値を目指すならば、どう世界の、マクロの構造を変えるか?という話。考えなければ、、、、そんな無責任なことは、ちょっとありえないですよっねっ!!!。

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■永遠の日常を生きることは幸せなのか?、それともこれ以上どこにも生きようがない袋小路の地獄なのか?


最近の僕の思考は、高度成長期の経済体制に支配された団塊の世代的思考、、、言い換えれば成長をメインとする生き方からの脱出という流れでものを考えて、どちらかというと、永遠の日常を生きるほうが正しいという方向で議論を進めてきている。けれども、ずっとこのブログを読んでくれている人はわかると思うのだが、僕はそもそもそういう日常はあまり好きな人ではないのです。非日常で、闘って成長するきらきらすることが好きなんです。一度しかない人生、そうありたいと思う人なんですよね。僕は、その両方を取ろうと考えたので、僕の本来の性質、ナチュラルボーンの気質は、成長を目指していないと心が病んでしまう人なので、、、ある種これって、ルサンチマンともいえるし、育ちともいえるし、変えられない本質とも、何でもいいのですが・・・僕の本質はこうなのです。良くも悪くも。


なので、僕の再度の等身大の視点、主観視点から眺めると、質問の仕方は、ではどうやって永遠の日常を生きるような感性手に入れることができるか?、「今を生きる」という喜びを感受する感性を手に入れるにはどうすればいいのか?という問いになります。これは、団塊のJrやずっと成長を目指している人の発する問いの形式です。


逆に言うと、たぶんこのブログをよく読んでいるような若い層からすると、逆の視点のほうが正しい見方かもしれません。ずっと「今を生きて」戯れているんだけれども、どうっやってきらきらするような成長の動機を持てるのか?という。全く同じ構造や出来事を見ていても、主観の視点から見ると見方は全く異なります。


まぁ、それはともかく、僕は、とっても生きるのが下手な人で、なかなか「今を生きる=日常を楽しんで関係性で戯れる」という感性がよくわかりませんでした。まるで、まっすぐ歩くことが難しいぐらいに、普通にそういうのが理解できないのです(笑)。暇になったり余裕ができると、凄く不安になって、もっともっとと次のことを計画したり準備したり、ガンガン強い動機を持って動いていないと、やばいんじゃないか!と不安になる、、、、こんなの僕の普通の姿を見て、友人は、そりゃー病気だよ(笑)と最初の頃は言っていました。けど、最近は、ああ、そういう人なのね、、、とあきらめが入っている気がしますが。


しかし、、、、では、どうなんだろう?。自分の主観的な問いを超えて、普遍的に、世界は、日本は、どこへ向かうのでしょうか?。それはどういう構造で、どんな所へ?。また人間存在の生き方として、幸せなバランスの地点というのはどこなのでしょうか?。日常で、自分の等身大の欲望をぶつけ合いながら、そのミクロの次元で赤裸々に生きていくことが、本当にいいのか?。確かに人間らしいが、、、、。マクロを見通すのが好きで、先をすぐ考えてしまう性癖のある自分としては、かなり納得しがたいのだが、、、、。などなど、そんなことを、最近考えます。さすがに何年も、考えてきたので、日常と非日常の対立構造の全体像は大体わかってきたんですよね。また、自分自身が、日常を楽しむ方法や、仲間と戯れる方法とか、、、そういう具体的な生活の感性がわかってきて実践できるようになってきたので、、、、そうすると、もう一度、いややっぱりキラキラした成長を目指す生き方だって、悪くないじゃん!と思えるようになってきました。両方あってこそ、人間だもん。では・・・・???、、、という感じです。


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