『「当事者」の時代』 佐々木俊尚著  極端ではなく極をつなぐ中間領域を代表するリベラルの再構築を

「当事者」の時代 (光文社新書)

評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つplusα)


素晴らしかった。佐々木俊尚さんは、最近乗りに乗っているというか、脂がのっていますね。素晴らしい分析ばかりです。ここ数年の、いま読む人ですね。


ずっと自分で考えていた高度成長期とそれが終わった時代との「落差」の話をこれだけ見事に説明してくれた本はなかった。


ただし、きっとこれは、どの世代が読むか?ですごい意見が分かれるだろうと思う。


40台以上の人は、言い換えれば団塊のJr以前の人、もっと端的に言えば、団塊の世代が読んだら激怒する内容だろうと思う。一言で言えば、団塊の世代は高度成長期に現れる問題点が凝縮しただけで、何も特別な時代ではなかったといっているようなものだから。あの「熱き時代」を、どこでにでもある時代の話と言って、特別性や唯一性を奪う行為は、この時代の中心である団塊の世代にとって、許されざる蛮行であろう。


なので、たぶん、その辺の人には、凄い受けが悪いんじゃないかな、と思う。逆に、その下の世代には、なるほど!と思うところばかりだろうと思う。まぁ、どの道あと20年もたてばこの意見が主流になる。間違いなく。なぜならば、社会の権力ある立場から団塊の世代が去るからだ。思い入れがない人が冷静に判断すれば、世界共通の普遍性を見つけるのは間違いないと思う。


ちなみに、僕のこれまでのこのブログのマクロの分析の流れも基本「これ」と同じだ。部下や取引先のインドや中国の若者と話していて、なんだか過去にあった話とあまりに似ているのでなんでだろうと思っていて、また、ずっとビジネスで高度成長をひた走る新興国に通っていて、なんか、日本の高度成長と全く同じ現象が起きるんだなぁ、と思っていた。そう考えて見直すと、結局日本の問題点といわれているのが、高度成長期とそれが終わった低位安定期の落差に起きる現象にすぎないんだって思うようになったからだ。以前、『3idiots』の映画について、下記のような記事を書きました。


『きっと、うまくいく(3 idiots 2009 India)』 Rajkumar Hirani監督 高度成長を超えつつある新興国インドの現在
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130521/p1


ちなみに、読んでいる最中、下記の2冊が頭に浮かんでいたんだけれども、やっぱりあとがきで最もインスパイアされた本と出ていた。けれども、わかりやすさは、佐々木さんのほうが圧倒的。このわかりやすさと、ウェブなどで読むような物語的な口語体で書かれているところも、もうものすごくわかりやすくて、素晴らしくよかった。下記2冊は、読むのには相当歯ごたえがいるので、なかなか知識人とは言わないが、それなりに勉強していて、文語的なというか固い表現に慣れていないと、何言っているのかが???だと思うのです。

1968〈上〉若者たちの叛乱とその背景 敗戦後論


この本で目から鱗だっのは、「加害者としての日本人の発見」が、団塊の世代が中心だと思うのですが戦後の若者たちに与えたインパクトが、どれほど大きかったか?というところです。団塊の世代Jr以降の世代には、もう飽き飽きしているほど繰り返される「告発」、自己批判と自己解体なので、この当時、、、戦後の高度成長に入りかけの日本の若者にとって(=団塊の世代の人々ね)これが、このようなすさまじい新鮮さとインパクトと、世代的な文脈の意味を持っているとは、想像だにしていなかった。抽象的には、当たり前の話だが、それがとても生々しく、具体性をもって、この時代を経験していない僕らにもよくわかるように説明されていて、素晴らしい本だと思いました。団塊のJrの僕は、既に、この「加害者としての日本人」の激しいアピールに繰り返しさらされ、教育されてきた反動があるので、非常に正直うっとおしい感じがしています。もちろん、ロジック的にはわかるのだが、時系列的に、団塊の世代の人間のように、何も反省する意識も加害者意識もなかったところからの反動で発見した、という体感の経緯を経ていないので、どうしても体感的受け入れにくかった。しかし、この本で、なぜ彼らがそう感じたのか?どういう内的な体感感覚があったのか、そしてそれがどういう流れでこうなったのかを、シンプルに大枠で示してくれたおかげで、僕は非常に納得がいった。


シンプルに言えば、日本人の歴史感覚、自己認識が、1)被害者→2)加害者→3)被害者?加害者?という流れを経ているのだというのがとてもよく分かったからだ。3)の段階にいる団塊のJr以降の人間には、なんで、1)戦前の認識が被害者一辺倒なのかは理解に苦しむし、同時に2)団塊の世代を中心とした左翼の認識が、徹底的に加害者である日本人の告発に偏っているのかが、全然分らなかった。どちらも極端すぎて、その前の時系列の実体験がないと、抽象的には非常に気持ち悪く偏ったことを言っているからだ。どっちも、なんか狂信者に見えるんだもん。極端すぎて。



1)だと、日本は悪くなかった!日本は被害者で、白人に、アメリカにやられたのだ!という、なんというか、シンプルで子供みたいな自己正当化になる。たしかに一部嘘ではない部分はあるが、戦争(=マクロの競争)に負けておきながら、あまりにレベルの低い自己認識としか言えないと思う。本当の意味で、責任取り、マクロの競争で打ち勝つような強い国民や国家を作りたいとしたら、こんなレベルの低い自己認識は、話にならないと思う。日本は悪くなかった!という言説に、僕が強い反発を覚えるのはこの理由からだと思う。誇りある日本人として、正しく現実認識として被害者と加害者の両方の立場を強く理解して歴史意識と主体を考えなければ、よってたつところがレベルが低くて、話にならないと思う。



かといって、2)に偏ると、よって立つべき日本人の主体者意識を解体して貶めるので、過剰なまでに卑屈になって、逆に反発として強い子供じみたナショナリズムを反動で引き起こす。きちっとした自国への健全な右翼意識、誇り、主体者意識が育成されていないにもかかわらず、こういう主体を壊す行為をするのは非常に、全体の教育として歪みをもたらしかねない。加害者意識は、自己の責任と表裏一体なので、責任意識が育っていないと、ただの自己解体になる。なので、加害者である認識を持つべきだ!という自己批判認識は、より深い責任ある立場として正しく健全だと思うが、方法論としては非常にプアーな感じがする。ただ言うだけではだめだ。結果に結び付きにくいので。なので、一方的に「告発」を繰り返して、結果を意識しない無責任な告発は、虫唾が走る。だって、告発は、少なくとも2000年代ぐらいからは、実体験がほとんどない人に想像上の自己批判や解体を迫るもので、結果と意図が全くリンクしていない子供じみた態度だ。正しいことを言えば、正しいわけではない。逆の結果をもたらすとしたら、言うだけ有害だ。たとえば、加害者意識を持てという告発では、下記のような作品がある。

では、その『忘れられた皇軍』というのはどんな作品なのか。日本軍の兵士として戦争を戦ったり軍属として戦地で労働し、その末に敵の攻撃によって、手足を失ったり、目を失明した韓国人たちの活動を追うドキュメンタリーだ。彼らは「元日本軍在日韓国人傷痍軍人会」を名乗って、日本政府に補償を求める。日本の兵士として戦って負傷したのに、日本人の元兵士には与えられる軍人恩給を与えられない。このため、彼らは路上や電車の中で「物乞い」を小銭を集めて生きている。冒頭、主人公で両目を失明した在日韓国人の男性のサングラス越しの目もアップから作品が始まる。彼は混んでいる電車の通路を歩きながら、物乞いをしている。


「日本人よ、これでいいのだろうか?」と日テレが放送した大島渚ドキュメンタリーの衝撃


佐々木さん全体感をベースに、大島渚監督のドキュメンタリーなどを見ると、その位置づけ的な意味と文脈が非常によくわかる。それだけではなく、冷静に、このことの価値が評価できるようになると思うのだ。全体の文脈と、時系列的な位置づけがわかれば、このような自己解体の批判は、1)の無責任な意識を解体するのに非常に必要かつ重要なことだとわかる。けれども、1)が、戦後相当の時間が流れたにもかかわらず、健全な形で教育、設定されていないにもかかわらず、ただ単に加害者意識の「告発」を繰り返されれば、なぜこの僕がそんなことを言われなければならないのか!(戦争に行ってもいなし実際にもかかわっていない平和な日本で生まれ育った僕ら)と、強い反発を巻き起こしています。それは、この「告発」の意図を、無視していることになる。それどころが、むしろ日本のヤンキー化してマクロを意識していない層に対して簡単に右翼化するきっかけを与えてしまうだけです。


こういう構造があるとわかってみれば、大分冷静に見ることができると思うのです。時系列的な意味合いと、自分がどの世代に所属するの人間か?で感じ方が違うはずだという、前提を刷り込んでおけば、その意味を深く理解できるようになると思うのです。また、へんな反動が起きなくなると思うのです。



そういう意味で、このバランスがわかっているような、ポジションの勢力が、言い換えれば中間領域の人々が重要なんだろうと思う。そこで、次の佐々木俊尚さんのブログの記事を読むと、流石秀逸な分析が光っているとぐっときます。

先日もTwitterで書いたのだが、いまの日本は、「専業主婦が家庭で育児するのが日本の伝統的家族観」というような現実の歴史と反する勝手な史観を振り回すオレオレ保守と、反テクノロジー・反経済成長を言い募る懐古主義的な和式リベラルという極端な二つの党派が前景化しているという、非常な奇妙な状況になってしまっている。

わたしはこの両極端ではなく、その間にいる多くの中間領域の人たちが重要だと考えているし、この人たちこそが次世代の日本を背負う社会的中心層になるのは間違いないとも思っている。より具体的に言えば、経済成長を是とし、そのためのテクノロジーの進化も受容し、そのうえで分配政策を構築しなおして機会平等をこれからも実現していこうというような政治思想だ。政府に何でも頼るのではなく、自分たちであらたなコミュニティのあり方を模索し、若者を非難するのではなく、新世代の彼らが手探りで追いかけている新しい生き方をきちんと支援していく。つまるところリベラリズム自由主義)の本来の意味に立ち返り、新たなリベラルを再構築していこうということである。

しかしいまの日本では、こういう領域を代弁する政治家・政治党派が現時点では存在していない。


いま求められているのは、リベラルの再構築だ。 佐々木俊尚


とはいえ、人生の経験から考えると、何かをちゃんと作らなければいけない!という結論(分析)になった場合は、それは、間違いなく実現しません!。メッセージを出して喚起することは重要なのですが、何かが実現しないということは(それが必要であるにもかかわらず)何らかのそれを阻む力場が働いているということなのです。


なので、その構造を変えるようなリードや提案をするなり、仕組みを変えなければ、世界は変わりません。この阻む力場というのは、なんなんでしょうね?。


しかし、この、加害者と被害者の認識の行ったり来たりって、興味深い運動だなぁ。これ凄い発見な気がする。こういうのって、歴史上何度も起きているような気がする。100年単位ではね。別に日本の今だけの現象ではない気がします。とても普遍的な気がする。これ、今後歴史を見る時に、もしくは国同士のいさかいなどを見る時に、物凄く重要な原理のような気がします。


この本は、長年の僕の疑問にとてもよく答えてくれる、素晴らしい本でした。