『勇者のお師匠様』 三丘洋 著  勇者が救ったそのあとの世界は具体的にはどうなるのか?という重要な命題を展開しつつあるオリジナルな物語

勇者様のお師匠様 I

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)


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たくさんのファンタジー小説を見ていると、かつ、小説家になろうのような中央集権的なランキングシステムを見ていると、物語には、時代や場所に「類型」というか「型」があることがわかってくる。人間の想像力は、それほど突飛ではないのだ。その中から時間を超えて生き残っていくものが、本当にすばらしい物語だといえよう。物事の楽しみ方には、同時代性やリアルタイム性を楽しむことや、そうした同じ類型の「差異」を楽しんだり、様々な方法があるので、古典を、最も優れて生き残った作品を読むことだけが、至高の読書というか物語体験というわけではないと僕は思う。


ただ、多くの物語を見ていると、たまに、「なるほどそこに注目したのか?」というような、オリジナルの骨太な「型」の重要なブレイクスルーを見せてくれる作品を見ることがある。


例えばいい例が、魔王と勇者という仕組みの中で、「魔王と勇者」という善と悪が二元的対立をして、最終的には勇者が魔王を倒すという物語の基本類型が骨太の幹として存在する中で、、、、ちょっとまって、「魔王と勇者」が最後に殺しあって戦った「そのあと」は本当にどうなるの?という発想を徹底的に展開した橙乃ままれさんの『まおゆう』などがいい例だ。もちろんこれには、ドラゴンクエストシリーズという「魔王と勇者」が二元的に戦うファンタジーの王道の類型があってこそ、その系譜の中で生まれてきたものですが、橙乃ままれさんの生み出した「魔王と勇者のその後」というのも、既になかなか凡百の物語作家には作りだすのは難しいとはいえ古典的なフォーマットとして物語世界に君臨しつつあります。この「魔王と勇者のその後」という設定は、橙乃ままれさんによって、その可能性をほぼ展開され終えていますが、ここに胚胎されている様々なイメージは、その後の物語のイメージの大きな基礎となり、時代を形成していると僕は思っています。


それは、「魔王と勇者が手を取り合って日常を過ごす」というイメージの類型です。これは、系譜の歴史的に、二元的殺し合いの物語が、やりすぎて飽きを見せていたこと、マーケットがあまりにこれらのパターンを積み重ねすぎて蓄積過ぎたがゆえに、生産者(=小説家)も消費者ともに、メタ的にそのルールを超える作品を構想するだけのリテラシーが高まったがゆえに生まれた現象だと思います。時代背景的にも、米ソの対立や90年代の終末的な時代が終了して、日本が高度成長の「頑張れば報われる」あの「坂の上の雲を目指そう」というような、戦って勝つぜ!ランキングトーナメントで1位を目指すぜ!、勝つことが成長することが正義だ!というような素朴な成長マッチョイズムが終了して、その次の生き方の転換を目指さなければならなくなったことに起因するのだと思います。


ラスボスのいなくなった世界では、日常が続いていく関係性の物語へと変化する
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130622/p4



田中芳樹さんの『アルスラーン戦記』が物語における奴隷解放の扱いを一変させてしまったのと同じように、引き返せない楔として、一度物語世界にそのエピソードや類型が現れると、巨大な影響を与えて、それが支配してしまうような物語があります。これは、そういうたぐいのもだと僕は思います。


この三丘洋さんの『勇者のお師匠様』が、どれくらいの影響がある(=売れるか?)というのは、現時点ではわかりません、


ただ、ペトロニウスの名にかけて!(←久々にでた!)この作品は、傑作です。


そして、この作品は、僕が物語の類型として長年疑問に思っていた大きなポイントに対して、誠実に丁寧に、その問題を解きほぐそうとしています。僕はこの作品に、非常に大きな可能性を見ています。



それは、勇者が救った後の人類世界は具体的にどうなったか?という問題です。



『まおゆう』の最初のシーンで、戦争に依存した経済になっている社会は、もし戦争が終われば、テクノロジーのイノヴェーションがなければ、人類が滅びることを予測していました。また政治的にも、殺し合いが普通の人類社会にとっては共通の敵を喪失することは、バラバラになって不毛な内ゲバの争いを続けることが自明でした。また、これは、この『勇者のお師匠様』の大きなテーマで、先の第二次大戦を経験している日本にはとても馴染みのある、腐敗した軍官僚の暴走、彼らが大戦争を遂行するために構築した全体主義的システムをどうするか?という戦後処理の課題が、勇者が単独で世界を救った後には、巨大な課題として残るのです。日本は、官僚による全体主義的システムこそ崩壊しませんでしたが(アメリカが守った)、しかし国土はほとんど灰になり、旧世代は追放され死に絶え、様々な巨大な権益が一瞬にして消失したおかげで、逆に言うと新陳代謝が非常に進むという皮肉な現象を見せました。


この戦後処理の問題を、どうするか?というテーマは、勇者によって世界が守られるというテーマには大きく隠れていると僕はずっと思って浮いました。『まおゆう』がいみじくも喝破したように、勇者が一人で魔王を倒しに行く、、、軍隊ではなくて戦争を終わらせるのが個人というのは、非常に狂ったおかしな状況です。人類は、人類の滅亡という大きな課題に対して、人類の社会組織自体のアップデートではなく、一人の英雄(=個人)による救済というチート(=卑怯な逃げ)を選んでしまっているからです。


僕が何を課題に思ったかというと、ようは、勇者に世界を救って「もらって」しまったとすれば、人類社会の問題点や、魔王に対抗するために作り上げていたであろう「戦争依存経済体制」など、巨大な社会の諸問題が、何ら自浄作用されずに残ってしまうだろうということなんです。


僕は、それを見せてくれる物語はないか?ということを意識していました。


『まおゆう』は、それまでの課題や物語の類型をほぼ網羅して、いきなり最深奥まで展開した凄い物語でしたが、しかし、一気にステージを変えたがゆえに、、、あの丘の向こうを見たいと魔王が語ったことをテーマにしたがゆえに、「旧世界に残らなければいけなかった人の課題」、、、そこでどのように具体的に生きるのか?は展開されていません。

まおゆう魔王勇者 1「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」

まだ途中でもあるにもかかわらずこの『勇者のお師匠様』という作品を傑作と僕が結論してしまうのは、、、、特に、小説家になろうは、日常のセラピー的物語が多く、異世界転生モノの世界を作ろうとする「動機」から来ているのだと思いますが、要は作者が、体験できなかった「幸せ」を体験しようとするために作られている意識が強いので、「体験すること」が優先順位にきてしまい、物語がマクロ的にどう構造が辻褄まがあっているか?とか、物語のエンドをどのように設定するのか?という、物語を作る、設計するという意識があまりありません。なので、えたる、というそうですが、作品が終わらなくて途中で放置される傾向が多いのです。物語は、プロとしての見せ所は、最初のアイディアではなくて、どのように結論に収束されるのか?というところに、商業作家のプロフェッショナリズムの責任というか能力のコアを感じます。「物事を収束させていく」というのは、非常に苦痛でしんどいものだからです。商業でお金をもらっている圧力がなければ、なかなかこれはできないんです。なので、ウェブ小説で、特に小説家になろうのような「はじめる敷居がすごく低い」装置で書かれているものは、その「設計意識」が見えるかどうかが重要です。ないものは、途中で完結するかわかりません。


僕は、この作品には、『それ』があると思っています。


というのは、この作品の魅力は、2つに分けられると思います。


1)一つはまさにタイトルのアイディアの部分です。『勇者のお師匠様』というやつ。


このシュチュエーションのアイディアを考え出しただけで、この作品は面白いに決まっているんです。というのは、勇者が、年端もいかない若い女の子(もちろん美少女)であり、その師匠にあたる男の子が、魔法も使えない、勇者より全然弱いという設定だけで、この作品のミクロのドラマトズルギーは非常にドラマ性をはらみます。

両親を失いながらも騎士に憧れ、自らを鍛錬する貧しい少年ウィン・バード。しかし、騎士になるには絶望的なまでに魔力が少ない彼は、騎士試験を突破できず『万年騎士候補生』という不名誉なレッテルを貼られ、追い抜いていく後輩たちにまで馬鹿にされる日々をすごしていた。そんなある日、勇者が魔王を倒し世界を救った。見目麗しき美少女であった勇者の動向に世界中の注目が集まる。そして勇者は世界に向けて発信した。「私は師匠であるウィン・バードの元へ戻ります」と。
 この物語は落ちこぼれの『万年騎士候補生』から『勇者の師匠』になぜかクラスチェンジした少年の物語。★印の回には挿絵があります。



勇者様のお師匠様 作者:ピチ&メル/三丘洋
http://ncode.syosetu.com/n4890bm/


これは、内容の説明で最初に書いてあるあらすじですが、基本的にコメディーやドラマ性というものは、落差で生まれます。韓国ドラマがすごく面白いのは、貧乏に育った女の子(男の子)が財閥の後継者になった!とか、貧乏だった女の子が宮廷で大出世を遂げて王妃になっていく!とか、そういうソープドラマの基本を押さえているからなのですが、それっていうのは、ようは落差を見せてるっていうことなんです。なので、このシュチュエーション、ミクロの関係性だけで、コメディーにも、シリアスにも、いくらでも話が広がるのです。だって、すっげーーー弱いと思っている少年に、全世界を救って魔王を倒したという神か悪魔かというようなレベルの絶対強者の美少女が、お師匠様って慕うんですよ(笑)。しかも、、、、



レティが、お兄ちゃん!と呼びかけるシーンは、あまりの可愛さに、僕の腰は破壊されましたね(笑)。



けど、これだけだと、ただのシュチュエーションコメディというか、ミクロのアイディアだけなんです。けど、このミクロの関係性に隠されているマクロの構造に、非常に作者は敏感だと僕は思うのです。そこが、2)の最初に書いていた、



2)マクロの命題として、勇者が救った後の人類社会はどうなっているのか?


という問題です。これが、ミクロの1)と凄くリンクしている。というのは、ネタバレなんですが、ネタバレぐらいでこの作品の面白さは全く損なわれないので、書いちゃうとですね、ウィンは、魔法が使えないので、この世界の基準ではそんなに強くない男の子なんです。この世界では戦うときに魔法で身体を強化するのが前提だからなんですね。なので、彼は試験の基準から言うと、、、、世の中の基準から言うと、箸にもかからない落ちこぼれだし、弱い人なんです。けれども、貧乏のどん底から騎士に憧れて来る日も来る日も修練を積み続けた彼の剣技は、世界を救った超絶な英雄のレティとほぼ互角化、下手をしたら強いですよ。なので、魔法が使えなくなるような状況下においては、彼は、この世界の誰よりも強いかもしれないほどの剣士なんです。なので、だれもレティを顧みなかった薄幸の少女時代に、ずっと剣を教えていたことで、お兄ちゃんと、レティがなついてしまっているし、二人がどん底であっっ時に結ばれている絆なので、容易には崩れないんですね。


このミクロ構造から何が読み取れるかというと、ようはね、マクロの勇者が救った後の世界というマクロ命題の大きなポイントが隠れているんですよ。そしてその隠れているミクロとマクロのリンクに、作者は意識的に僕は感じるのです。ミクロだけを描く作家には、このような設計意識はありません。


A)勇者という巨大な権力はだれがコントロールするの?


これは、原子爆弾など世界を滅ぼしていまいかねない、それひとつで、世界のパワーバランスが、崩れてしまいかねないような超兵器のコントロール権をどう作るのか?という問題です。平和というのは、武力が均衡してお互いが責めるに攻めれない状況で生まれるというのが、パワーポリティクスの基本構造です。なので、レティという超兵器は、魔王という敵がいなくなった後の世界を滅ぼしかねない、やばいものなんです。このコントロール権は、唯一、レティの心を動かせる人に限られるわけです。すなわち、レティが好きで好きでたまらない、お兄ちゃんなんですよ(笑)。ここに、政治が発生するのはわかりますよね?。すなわちレティをコントロールするには、ウィン・バードを支配しなければならないんです。けど、ウィンは、事実上人類を滅ぼせるほどの武力を、独占しているような状況なんで、手が出せないんですよ(苦笑)。


B)世界を滅ぼせるほどの力を持った(=たづなのない)超兵器である勇者の心はだれがいやすの?


これは、核ミサイルなど人格がないならいいのですが、レティには人格があります。これは絶対権力を握った王などが、どうやってその巨大な力と、ミクロの感情の部分をバランスを取っていくか?というテーマの物語類型もあります。大きくはA)と関連していますね。



C)ウィン・バードが平民で且つ、通常の意味で強者ではないという部分


そして、これがこの勇者が人類社会を救った後、人類社会がどうなるのか?という部分なのですが、当然に、巨大戦争を遂行するためにデザインされた人類社会を構造的に変換させなければいけませんし、それまでに使われていた膨大な軍隊と兵士をなんとかしなければなりません。豊臣秀吉が国内でいらなくなった軍隊を外国の侵略に使用したように、保科正之が江戸を戦時とは異なる経済体制に変革させるために腐心したように、これは物凄い巨大事業なんです。その時に、この作者は、どのようにこの「魔王が滅んだあとの世界」がデザインされていくかについてのマクロの意識がとてもあります。A)とB)の巨大な武力をコントロールする権利を、平民(階級としてはすごい低い)かつ、単純に武力があるわけではないような人間が持つという構造は、どうしても、この二人が幸せに生きられる、、、しかもこの場合の幸せは、たぶん戦争で武を示すとか、そういった方向のものではなくて、非常にひねくれたものにならざるを得ません。


えっと、伝わるでしょうか、、、。ウィンが、レティのように、まおゆうの勇者や魔王のように、単純な意味での英雄で強者であれば、彼らのミクロの関係性の到達するべきところは、本質は「英雄たること」になってしまい、平和とは相性が悪いんですよ。彼らのような英雄は、戦いや乱世でなければ、その意味がありません。なので、まおゆうの魔王と勇者は、新天地に旅立つのです。だって、「そこ」に居続ければ、旧世界にとって迷惑なんですよ。だって、そんな一人で戦略核兵器クラスの力がある人がいれば、世界のパワーオブバランスが、めちゃめちゃになって、新しい秩序を創り出さざるを得なくなるし、、、その秩序は、まさに、英雄がいなければ成り立たない構造になってしまいます。これは、レティにもいえることなんです。彼は魔王を倒した後、あの世界には不必要な人なんです。むしろいてもらっては困る。


けれども、ウィンというコントロール者がいることによって、そこがポイントになるんです。ウィンが、普通の人である、というところがここに生きて来るんですね。なので、ウィンといる限り、レティは、基本的には幸せな、、、例えばかわいい奥さんとか(笑)、そういう夢が見られるんですよ。また、ウィン自体が、この魔王がいなくなった戦後社会で、軍事力に依存しない、全体主義国家でない世界を、どのようにデザインするかの重要なキーマンになります。だって、一人で戦略核兵器のボタンを持っているんだもの(笑)。しかも、その強大な武力は、ウィンのような英雄ではない平民が幸せに生きられる世界を設計しなければならない、生きなければならにという圧力をかけてくるのです。ようは、レティがウィンを好きというミクロの構造があれば、それがそのまま、マクロ的に、武力がない平民が幸せに生きていける社会を作らなければいけないという革命への圧力になるんです。伝わっているでしょうか、、、これ、もしウィンがいなかったら、レティは、できるだけ穏やかに暗殺されると思います(苦笑)。とにかく何としても殺してしまうのがいい。なぜならば、この強大な武力をコントロールすることができないからです。けど、ウィンがいると安定するんですね。レティが、ウィンが好きでたまらないことを世の中に示せば示すほど、ウィンがいればこの兵器が「コントロールできる」ということが各国の為政者には、マクロの管理者たちにはわかるはずです。巨大な武力の問題点は、それが「コントロールできない」ということ自体が恐怖なんですが、ウィンを通せばコントロールできるんですね。ウィンが、、、、しかも彼は平民で弱い存在なので、彼のことは為政者たちは怖くないんですね。彼は現在の世界の秩序に従って生きている人なので。その彼が、それなりに穏やかに生きれる社会にさえなれば、レティはコントロールされているので、この世界で生きているけるんですよ、、、この辺の微妙な説明がうまく伝わっているかわからないんですが、、、まぁ、時間がないので、この辺で。今度、ラジオででも喋りまーす。


というわけで、これは、見事な設計です。これらのミクロとマクロが交錯している部分に、この物語のドラマトゥルギーは設定されてあります。なので、、、、ずっとこの物語三昧を見ている人はわかると思いますが、僕が傑作と認定する条件の大きなものの一つに、ミクロとマクロがリンクするような物語、というのがあります。まさに、これなんですよ。


なので、とてもおすすめです。