『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話』 坪田信貴著 人生はそこで終らないので、その次に何をなしたか?ということが大事だと思うんだよ

学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

評価:★★★☆星3つ半
(僕的主観:★★★☆3つ半)


基本的に、とてもいいお話だったし、その手法もとても賛成するし、ここに出てくる塾の先生、お母さん、本人ともに素晴らしくいい人なんだろうと思う。なので、これは、個別攻撃とか、揶揄したいひねくれたイメージで取ってほしくないんだけれども、僕は、そうはいってもこの教育としては前提が間違っているんだな、と思いました。というのは、何をするにもまず「自己肯定感覚を得てから」というお母さんの教育は、原理的には正しいと思います。けれども、そのために、小学校高学年から中学、高校に至るまでの重要な成長の時期に基本的な、基礎教育が刷り込まれていないと、これほどまでに、それをリカバーするのに本人と周りの特別な努力がいる!ということの証左に感じました。こんな、特別な奇跡のような努力や結果は、まず確率的に再現しにくいものです。なので、まずすべきことは、この主人公のように、ここまで基礎知識が、正しい成長の年齢に従って、抜け落ちてしまわないように教育するのがそもそも主なんだろうと思います(苦笑)。それを取り返すのは、これほど奇跡がいる、ということですから。そんな、無理をしないと、軌道修正できない人生なんて、、、ちょっとしんどすぎます。それに、僕は、正しい教養がある人間であるのが、僕の好みです(=これは僕の趣味の話ですけどね)。なので、中学や高校時点で、歴史感覚がないような子供に育てるなんて、信じられない失敗だと思います。まぁ、この本のメッセージは、いつからでもどこでもやり直せるし!、とてもいい家庭であってもこうした間違えで袋小路によく落ち込むというのの、極端ケースなので、僕の意見は、的が外れているんですが、、、、まぁ読んで思ったことです。

この本単体としては、素晴らしい話なんです。結果も素晴らしいし過程も素晴らしい。受験で家庭教師を僕もたくさんしていたので、また自分が同じように受験を勝ち抜いてきた思い出からも、坪田先生の示している手法は、凄くしっかりしてて骨太です。ああ、なるほど!と自分ですら参考になります。けど、40年近く生きているので、昔とみる見方が変わったんだろうと思いますが、こういう偏差値が低い子が逆転していい大学に行く話は、いっぱい見てきました。実際自分が家庭教師した子で、偏差値40台ぐらいから1年で慶応に入れるとかは、それほど難しいことではなかったです。「手法」があるんですよ。それは、技術であって、方法論がきちっとしていて、そこに対して高い動機を投入すれば、それほど難易度の高いものではないのです。1年あれば十分です。ちなみにこの本の主人公の頭の悪さは、凄まじすぎて、、、ここまでベースがないところから1年半でレベルを上げた坪田先生と、主人公は、とんでもないけどね、さすがに(苦笑)。


とはいえ、先ほど言ったように、長く人生をやっているからでしょうが、受験というもの話に飽きてきたんだろうと思います、、、、自分も人生が、1周した(30年くらい?たった)りすると、いろんなことが繰り返しに見えます。現代は時間のサイクルも早いですし。また、10年ぐらい前までは、社会に出てからの実績も小さかったので、自分に取っ手人生で最も大きな獲得した実績というのは、一流大学に受かったことでしたからねぇ、、、悲しいことに、、、それくらいしか誇れる大きなことがないんですよ。大きなことって、だれもが認める社会が価値を認める実績のことです。就職活動で唯一意味をなすキャリアというか出来事って、社会的に評価がある実績だけなんですよね。、、、まぁこの話は長くなるので、置いておくとして、、、普通社会に出て10数年ぐらいは、なかなかそんな社会的に意味のある実績なんてあるはずもありません。そうすると、普通の平均値の真面目な学生(まじめで、普通で、平均で、何が悪い!!!)にとっては、いい大学を出た!(もしくは入学した!)ぐらいが心の支えなわけですよ。けど、みんなさすがに常識で考えれば、そんなことがそれほど価値が社会であるわけではない(=社会に出たら実力と結果がすべてです)ことぐらいわかるわけですよ。けどさ、、、という感じの、自分の「コアとなる自信」を社会で探していく、積み重ねていくというのが、社会人の新入生がすることなわけですよね。まぁ、このシステムは、学歴がない人に非常な重圧を与えてルサンチマンを生むので、それはそれで問題はあるんだけどね。でも、なんでも完璧にする方法なんてありませんから。


・・・そして僕は、一周まわっているので、もうこの大学の名前ぐらいが自信(笑)ってステージは終わっているんですよね。もう、そんなことに依存しなくても、自分の拠って立つキャリアはあります。。。が、なかなか人間、平均値で生きていると、そういうものに出会うのって難しいものです。・・・・そうして、一周して、俯瞰してみてみると、、、受験って、ペーパードラフトの仕組み、基礎学力を積み上げてコモンセンスのレベル、教養の土台を作ることは、僕は全く否定しません。もちろん、科挙のシステムを源流とするペーパードラフトによる社会選抜方式は、明治時代に形成された日本の国家システムの根幹なわけで、制度疲労がかなりありつつも、土台なのでなかなか根本的な変革は難しいでしょうね。ここは、要は国家観や思想の争点になるし、既得権益の奪い合いにもなるわけですから。


茂木健一郎氏、Twitterで偏差値批判「現代の学力観にそぐわない」日本人が偏差値が好きな理由とは?
http://www.huffingtonpost.jp/2014/03/16/kenichiro-mogi_n_4972904.html


とはいえ、当たり前の土台であって、それがすべてではない、というだけで、その重要度は全然下がりません。勉強ができたほうがいいに決まっているのです。この複雑な現代社会では、その程度の基礎学力は、当然であって、学校が偏差値がすべてではない!という意見は全く考慮にも値しません。現代社会のテクノクラートとしていい仕事を使用するならば、もう博士とまでは言わないが、大学院レベルの学力は当然なんだと僕は思います。それだけでは足りないといっているにすぎないんですよ、偏差値批判は。。。。少なくとも、大学、一流大学を目指すならば、ロールモデル、目標は、そこでないと、なんのためにそこを目指すかが僕にはよくわかりません。幸せに生きるのならば、そんなものは必要ないもの。このへんが、『ハウスワイフ2.0』とシェリサンドバーグとか『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』と松井博の話なんかの差になるんだろうねーと思います。


『企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン〜新しい統治者たちの素顔』 松井博著 これからの時代に必要なものとは?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130503/p3


企業が「帝国化」する アップル、マクドナルド、エクソン~新しい統治者たちの素顔 (アスキー新書)

また話がそれている、、、一周して俯瞰してみてみると、ようは、受験後時は、しょせんパーツの一部にすぎないんだってことがよく実感できるんですよ。パーツではあるので、基礎教養の土台が価値が低いものとは全く思いませので、学歴なんか意味がないとか!どういう極論というか、ふりはばが大きい話にしても仕方がないんですよねー。

パスポート・ブルー―Flight day (1) (少年サンデーコミックス)

ちなみに、僕が、受験を考えるときに、、、ずっと前からふとイメージするのって、この漫画なんですよ。『パスポートブルー』は大傑作で、、、石渡治さんは、『B.B』からのシリーズすべて好きなんですが、これは特に好き。いわゆる宇宙飛行士もの、何ですけれども、いわゆる宇宙飛行士ものと、少し違う感じがするんですよね。というのは、なんというか、『宇宙兄弟』でも宇宙飛行士ものは、日本の国やアメリカの国家というものがすごく見えてしまって、なんというか、宇宙飛行士になるためのルートがあるようななかでの戦いに見えるんですよ


、、、けど、僕はそれは本当ではない、って思うんですよ。


『パスポートブルー』でいいなっておもうのは、宇宙飛行士になりたい!と思う少年少女たちが、まずぶち当たる壁ってのは、、、、何をやったら宇宙飛行士になれるかが全く分からないっ!ってことなんです。けど、宇宙飛行士になりたいって!っていう目標だけはわかっている。なので、どうしても、臨機応変で、その場その場で最善を追求しながら、いろいろなものを、現実と照応しながら決めて積み重ねていくことになるんです。


主人公の少年は、子供のころから宇宙飛行士を目指して、英語や中国語、ロシア語まで子供のころから勉強しています。そして機械工学系の才能があったにもかかわらず、宇宙生物学の勉強がしたくてアリゾナ州立大学を受けることになります。僕は、ぞくぞく震えましたね。大学は、世界中にあるっ!ってしゃべる主人公のセリフに。高校受験で、どうすれば自分がやりたいことやれるか?を悩んだ時の選択基準です。


僕は思うんですよ、教育の、そして進路を決めるときの基準の、あるべき姿ってのは、こういうものなんだろうって。もちろん、これは、僕が言うようなオリジナルな生き方なので、参考になるかは微妙です。子供時代に宇宙飛行士を目指す仲間がいて、それにふさわしい原風景があるなんて、どんなに悲惨な現実であったとしても、生きる上で凄いオリジナルです。けれどもそこを除けば、この作品の通底に流れるのは、日本のローカルな基準をそもそも超えた、人類の最前線の課題に対する挑戦へ、どうチャレンジするか?そのためには、世界中に、それをするための同志があり、可能な教育機関があり、縁やつながりがあるという確信です。宇宙での巨大なトラブルを回避するのに協力した主人公のもとに、一通の電話が来ます。中国の国家主席からの感謝の電話でした。彼の親友は防衛大学校を卒業した戦闘機乗りで、もう一人はアメリカ空軍の少尉です。みんな、子供のころごみ溜めのような街で、宇宙に行きたいと誓った仲間たちです。こういうのって、いいなって思うんですよ。ボーダーを超えて、人類の挑戦を信じている、その課題へのチャレンジに加わりたいと、願う気持ち。


僕は、何かを目指すのに、こういう基準があってほしいって、いつも思います。特に、大学を選ぶときに、自分の進路を選ぶときに、その職業は、人類にとって、どんな意味があるものですか?って。えっと、人類に意味がなきゃ意味がないって言っているわけではなく、より縦と横の基準で広い視野から俯瞰した視点で、何のためにその経験が(=教育が)必要なのですか?、それはどんな職業に、どんな人生に、つながっているのですか?という問いかけです。受験のための受験であっては、そこで人生が終わってしまうのです。受験は、目的ではなく、ただの手段ですから。なので、手段であるものが意味を図られるのは、その後の人生にどういったことをなすか?そのために、その教育はどんな価値があったか?ってことだと思います。日本の教育は、そういう目標を問わないものなので、そんなこと言われてもわからない!と答える人が、子供が大半だと思います。けど、それじゃあ、人生は、だめだし、損するぜって、僕は思います。人生は、受験や学校的なるものだけで、終わるわけではないからです。しょせん、学校的なるものなんか、手段に過ぎないのです。100年あるはずのこれからの人生の、たった10年ぐらいのスパンのもの。



やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130603/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』  渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130406/p2


『シーラと呼ばれた子』だったと思うのですが(違うかな?)、虐待されておかしくなっていた子供を丁寧にかかわり、そして、その子が才能を開花させて人間として充実できるようになっていく過程を描いた話でしたが、作者だったのか、中の精神科医の人だったか、細かいことを忘れてしまったのですが、、、、この虐待されていた子は、心の平衡を取り戻し、才能を豊かに開花させていきます。そして、、、最終的には、この時点では、マクドナルドでバイトをしているか何かをしているのですが、、、、これも本当にあったかはっきり覚えていないのですが記憶はとても印象的で、、、作者は、ああ、、、これほど才能豊かな子が、マックのバイトをしているか、、、と残念につぶやくシーンがあるんです。読めばわかりますが、この虐待された子の可能性を信じ、ずっと彼女の才能が豊かに開花していくのを付き合った精神科医にすると、、、そして読者にすると、そう思うのです。僕も、当時そう思いました。


シーラという子―虐待されたある少女の物語

でも、今はわかります。このシーラということは、自分が「普通」になるためにエネルギーを使い果たしてしまっているんです。もちろん、普通になったので気力もあり、今後の人生も幸せに安定的に生きて、いろいろな可能性は掴むでしょう。けれど、それは、しょせん平均値への復帰です。もしこれがスタート地点が、虐待でめちゃくちゃに壊れた心などというボトムからではなく、平均値からのスタートであったとしたら、いったいこの子はどこまでいけたことでしょうか?。僕は本来の教育って、そういうことじゃないか?って思うんですよ。何もボトムから普通に戻すことだけが教育ではない。それもまた重要だけれども、その先が豊かで、さらに前に進むために、仕組みや目標や教育はあるべきだと思うんですよね、、、。


僕も自分自身も、受験戦争を潜り抜けてきて、たくさんの家庭教師をして、そして、大学、就職の面接のリクルーター、面接官、その後の人生をもずっと見続けてきて、いろいろな人の人生を自分なりに観察してきた感じでは、まったくもって、受験などというものは人生の一部のヤマであって、人生のすべてではないということです。前に、オレガイルの記事を書いたときに、とか、WA2とかで「そこで終わりじゃないんだよ」というロングスパンで見ないと、ダメなんだ、という話と同じ話です。


受験にこれほどの労力と気力をかけなければいけない時点で、僕は人生はかなり詰んでいると思うのです。それは、ちゃんとした成長の手順が全然積まれていない、ということだからです。オリジナルな生き方をする、ゲームで世界一になったり、孫正義や、ビルゲイツのようなオリジナルな人生を生きる人ならば、その「手順」がめちゃくちゃでも問題ないでしょうけれども、、、、そういうのは目的をもって生きる、一部の特殊な人生です。自分がそれに該当するか?と悩んだり、やりたいことがない?とか思う時点で、もうこういうオリジナルな人生ではありません(苦笑)。特別でない人生を生きる人は(笑)、、、、「きっと何者でもない僕ら」でも、パンピーな僕らでもいいけれども、そういう人生は、あんまり目的目的言わないで、バランス感覚と適度さの中庸が重要だと僕は思うんだよねー。


勝ち続ける意志力 (小学館101新書)

たとえば、僕は、大学に入学して、まずまっさきに気づいたことは、大学入学時点での勝ち組はだれか?ってことです。それまでは、いい大学に入った人が勝ち組のように感じられます。受験ですからね。でも、入学するとわかるんですよ、いままで勉強をしたこともなかったけれども、半年とか1年頑張っただけで、、、それも、特に極端な頑張りではなくて、、、慶応や東大に楽勝で入ってくる人がたくさんいることに。ようは、受験用の地頭が格段にいい人っているんですよ。そういう人は、キャパシティーに余裕があるので、大学に入学して、余裕もあるし、回り道を高校や中学でしているので、凄く経験も豊かで、、、超、勉強ができるんですよ。それに、友達も多くて、、、、とか、、、結構いい大学の1年生には自殺者とか、落ち込んで鬱になるケースが多いのですが、それは、勉強して勉強して、おれはすごいんだ!と一番だ!!!、何しろこんなすごい大学に合格したんだから!と入って来ると、既にゲームの勝負は偏差値ではなくて、違うルールと基準に代わっているんですよね。そうすると、実は、あまり勉強に頑張っていなかったのに、余力で大学に入ってきたテキトー君たちのほうが、はるかに優秀だってことに気づくのです。これ、それまでの受験人生の否定なので、凄いみんな凹んで、心を病む様です。特に、地方の高校で当然のごとく学校で一番しかとったことがなかった子供が、入ってくる大学だったりすると(僕の母校のケースですが、)、いきなりそこでは真ん中以下のよくて平均値になるんですよね。ましたや、大学の授業は、別に点数がよくても、優秀とは限りません。やりたいことがあったり、特殊な領域で特異な才能を示したりと、社会と似ている基準があるので、勉強ができれば全肯定はされません。そうでなくとも、学歴なんかより社会でいかに有用か?というオリジナリティが重要視されて、かつ、そもそも日本の学歴なんかほとんどグローバルには意味をなさなくなりつつある昨今の評価基準の中で、勉強のために、受験のために若い重要な時間を擦り切れるほど対応しなければいけないのって、もうそれだけで、かなり厳しいんですよねー。ペーパードラフトによるチャンピオン・トーナメン方式の基準の価値が凄い下がってきているんですね。まぁ、これは、大学に入ると、多かれ少なかれあった問題ですが、昨今は、グローバル経済のリンクとともに、ダイヴァーシティ(=多様性)が必要になってきて、日本国内の基準の陳腐化が激しいので、よけい厳しいと思うんのです。


なので、受験にこうした、ブーストをかけて、ものすごい努力を投入しなきゃいけない時点で、教育としては、かなり間違っているんだろうと思います。これは、その間違ってしまったり、いろいろ話が迷走しておかしくなってさえも、人はやり直せるというというメッセージなので、僕の意見は的外れですがね。。。いや、話自体は素晴らしいし、この個別の話は全くいい話なので、文句をつけるべきことじゃないんですが、、、、


もう40年ぐらい生きていると、こういう偏差値30から!とかいう話は結構な頻度で美談としてみるようになりました。偏差値40-50くらいからなら、僕も自分の家庭教師でやったことがあるし。けど、この受験の成功だけ切り取ると美談なんですが、こういう一時期の極端な努力をして受験に成功した話ってほとんどのケースは、人生のピークがそこだった、という話になってしまうんです。それでは、全然話にならない。すくなくとも、、マクロの教育としては、ほとんど意味がないことだろうと思います。なぜならば、たかが受験ごときで、それほどの極端なモチヴェーションと技術を投入しないと、いけないということは、そもそも日常の生活スタイルの中に、知的なものを底上げする習慣がないことをそもそも示していることが、ほとんどです。その家庭で、です。


エリートの家がエリートで続きやすいのは、家で行われている基準が、人生のすべての過程、習慣にわたって、かなり厳しい修練というかそういうことが日常化しているからなんですよね。べつに、本人は、厳しいとすら思っていないでしょう。僕は、歴史が大好きで、朝から晩まで語っているし、ドラマ見ているし、子供にも読ませて話あっているし、、、、と、この時点で、うちの子供は、そもそも日本史や世界史で困ることがあるとは思えません。僕の趣味ですが、自分の家族が歴史をわからないというのは、ものすごいヤなので、手を変え品を変え教えていたり、遊んだりしています。これ一例ですが、結局は、義務教育でできることは限界があって、どういう生活習慣をつけられるかってことによるんだろうと思います。


こうくると、家が豊かなところだけが、豊かになるのか?って、いうことになりますが、答えはYESです。そんなのもちろんじゃないですか。


しかし、流動性は激しいのが現代なんです。


なので、基準はめまぐるしく変わるので、昔の貴族のように、いったん獲得した財産やスキルや習慣が、何世代も続くようなことは、現代先進国家ではありえません。


制度がそういう風に設計されているのです。


それだけじゃなくて、環境が目真夢繰りく変わって、何が価値となるかがどんどん変化する時代なんです。



2014-04-04 競合という概念の消失(企業も個人も) Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20140404


なので、何でも旧態依然として同じことをしていればいいわけじゃないので、そのまま親の環境が引き継がれるわけじゃない。


とっても、いい時代だと思いますよ。


いつものごとく何が言いたいのかさっぱりわからない、こんがらがった話でした。


まぁ、よーは、ロングスパンでものを考えないとだめだよってことです。目の前の目標だけにとらわれていると、人生の目標を見失ってしまうよってことです。