人生におけるブログやSNSサイトの利用法〜幸せは承認の仕組みによって決まる

あなたの文章を私は読んでいます。 Chikirinの日記
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20101230

完全に匿名でブログを書くと、自分の思うことをそのまま素直に表現できるはず。誰にも遠慮せず、誰にも羞恥心を感じず気遣いもせず、思うがままにかけるはず。そのことが書き手の精神に与える安定剤としての役割は決して小さくないのでは?とちきりんは思ってます。

後から自分が過去に感じていたことを振り返ることもできるし、将来誰かに自分のことを理解してほしいと思った時に活用できるかもしれない。「自分が考えてきたことの記録」「自分が感じてきたことの記録」を、他者の目を気にせずそのままに保存しておくことは、自分の存在の記録であるといえます。


毎日のアクセス数が20だったら書く気がしませんか?

でも、実際に20人があなたが毎日感じていることや考えたことにじっくり耳を傾けてくれるなんてリアルではありえないでしょう?20人って(リアルな人間と考えれば)相当な数じゃないですか?その中からいつか“全く飾り気なく表現されたあなた”を理解してくれる人が現れるかもしれません。

ちきんさんのブログは大好きで毎日見ているのだが、12/30のこの「あなたの文章を私は読んでいます。」というのは、とてもインスパイアされるものがあった。僕が、この何年かブログやSNSサイトの自分なりの利用法をどう考えた来たかの中核にある考え方、、、いや違うな「実感」だったからです。


■ブログやSNSサイトを通して見つけた幸せな日常

2010年の最後の方のブログの記事やラジオを聞いてくれた人は、僕が「何か抜けた」ような「日常の楽しさを獲得した」みたいなことを口走る(ほざく)のを聞いていた人が多いと思います。ブログの記事の文脈に沿っていえば、ゆうきまさみさんの『究極超人あーる』や『げんしけん』とかに見た「目的レスで日常の輝きを仲間と共有する方法」という、当時中学生の僕にはほぼ不可能と思えた「楽しさ」を、ビックリ30歳も超えたいま実感している!獲得していた!という話です。もともと目的志向で、「何かに向かって努力する」というのが染み付いてた性格だったし、そういった目的レスのない日常の幸せを感じることってないんだろうなーと思っていました。それがなぜ、こんなことになってのか?。考察しています(笑)。人生それなりにリア充を満喫し、それなりに勝負に勝ち残って頑張ってきましたが、それと比較しても「これ」にまさる幸せ感というのはなかなかありません。なぜ、頑張って戦ってきて、勝ち上がってきたにもかかわらず、これまでの人生ではなかなか実現できなかったことが、こんなふうにふと訪れたのか?って。この「設問」というか「問い」は僕には凄く重要なんですよ。というか、「勝って勝って勝って・・・・」という道を歩んでいる人はたいてい自分がそういう不全感を持っていることに鈍感になってしまうか自己偽善で自分をだましちゃうんです。しかし、少なくとも僕は、「日常的にまったりと目的もない日常の輝き」というやつをナチュラルに感じられない自分に耐えきれなくて、どうせ幸せにならないならば、せめて勝ち上がってやるぅぅ!って努力を始めた人なので、初期の問題設定・・・中学の時に自分に設定した人生の問題(笑)はよく覚えていたのです。しかも結構真面目に考察する子供だったので、勝って勝って勝って勝って・・・・そうして登っていっても、まぁたぶん、そもそもそういう不全感を感じる「自己」そのものが問題(内面の問題)なので、きっと外面(=肩書獲得や金や、異性!もしくは志!!とか(苦笑))とかでは、幸せにはなれないだろうなーとは思っていました。けれども、当時中学生の僕は、自分の不遇感・不全感を取り除くために、「勝つ」ことしか手段が思い浮かばなかったです。だって、内面を変える方法って思いつかなかったんだもの。


■社会人は友達ができない〜会社と仕事に人生を盗まれるな!

少し遠回りします。社会人になった20代の真ん中ぐらいに思ったのは、「さびしいなぁ」でした。というのは、友達ができないことでした。20代の半ばは、僕はいったい何回やったか思い出せない合コン三昧で、彼女は常にいたし、仕事では自分がやりたかった仕事で抜擢で絶好調、偉い人とも後輩とも飲みに行きまくり、顧客の経営者などにも信頼されて、、、とたぶん世の中でいう「勝ち組」っていっても過言ではない「なにもかもがうまくいっている!」という状態でした。事実でいえば、仕事でもプラベートでも、人間関係はどんどん増えて、最高の時代でした。・・・・が、僕は、さびしかった。不思議な気がしました。だって、ダメな部分がほとんど思いつかないんですもの。けど、みんなチヤホヤしてくれるって「仕事ができる俺」や「合コンをたくさん持ってきて場を盛り上げてくれる俺」「頼りになって相談しがいのある彼氏」「いい結果を出してくれるビジネスマン」とか、そういう「うまくいっている俺」という役割を評価されているような気がして仕方がなかったんですね。それは、「等身大の自己」が認められていなって気がしたんです。「ほんとうの自分探し」ってやつですね(おおっ!!青春じゃぁぁぁぁぁ!!!!羽海野チカ風)(笑)。


仕事は、結果を求められます。言い換えれば、それは「あなたでなくてもいい」「役割」「機能」なんです。もちろん、それがうまくできる「手ごたえ」ってのは、自分を駆り立てて充足させるのに素晴らしい糧にはなります。けれども何かが足りないんですね。僕は仕事大好きで、その仲間も大好きで、そっちが悪いというふうには思えなかったので、「いったい自分の何が足りないんだ?」と考えたところ、個人の時間がほとんどが皆無なっていたことの気づきました。「素の自分に戻る」瞬間や「素の自分の好きなもの」を考えることなく、「常にこうあるべきだ!(=いまの自分ではダメだ)」と目的志向とビジョンを抱えて生きていたんですね。おお、このころの僕は、テレビも漫画も小説も映画も、何一つ数年間見ていないんですね!。この僕が!!!(←おかしいでしょう?)。考えてみると信じられない。そんな暇があれば仕事するか女を口説いていかにベットに連れ込むかを悩んでいました。いや「人生の勝とう」とか「目的志向」は、僕は大好きだし、その努力によって人生を苦境を打開して、素晴らしい体験をさせてもらっているので、「それがだめ」というのではなくて、そこに不足するものへの努力が甘かった!と気づいたのです。この理論を言葉にすると、


それはそれ、これはこれ


です(笑)。だって仕事も恋愛も上手くいっているんだもの、「それ」自体に疑問を思うのは馬鹿げています。何が足りないのだろう?さらに数年間、僕はわからないまま仕事に邁進していました。んで、ある時ブログに出会うんですね。当時は、Amebaブログでした。多少仕事が落ち着き、惚れに惚れ込んだ彼女(いまの僕の奥さんです)とGWに仕事で忙しくて海外のチケットが取れなかったんで都心のホテルでプチ贅沢をしている時でした。そういえば、やっと映画も見始めたし(結婚して住んだ家の横がシネコンだったんですね)、そもそも学生時代死ぬほど好きだったじゃん、感想とかどうせメモでは書いているんだし、、、、と。

そしたら、書くわ書くわ、、、、止まらなくなって(笑)。・・・よほど、「自分の素で好きなこと」「素でいいたいこと」がたまりにたまっていたんでしょうねぇ(苦笑)。いまでも基本スタイルとして、僕はブログの運営を「他人に読んでもらうもの」として書いていません。基本線は、自分が言いたいことを書く!素直に思いを、自分の考察を深めていくための道具としてとらえています。そうか、忘れていたよ、、、会社に人生を盗まれていた・・・・子供の頃の僕は、もっとより深く広く世界を理解したくて、自分が体験できない部分は物語の世界でもそれを追求して、「向こう側の世界」が大好きな少年だった筈じゃないか、リアルよりも物語を愛する、いやリアルだって物語の一つだぐらいの現実誤認の変人だったはずなのに、、、そして、自分の他者や世界の考察、、、、「この世界がどうなっているか?」を解き明かす面白さにあれほどハマった学生時代、なんでそういう知的な喜びを僕は忘れてしまったいたんだろう?って。まぁ一言でいえば、人生の過半を占める会社以外の自己表現の場がなかったんですね。会社という「舞台」でしか演じられないその幅の狭さに、逃げ道のなさを感じていたんだと思います。逆に、ブログで自分の感想を書くようになってから、会社で小うるさくいう頻度が減りました。会社で「必要なこと」と「素の自分が言いたいこと」を分けることができるようになったからですね。これは仕事にもいい結果で出ました。なぜならば、仕事に必要のない「自己承認」を仕事に求めていたら、全人格的なコミットになって、苦しくなってしまうからですね。


そして、孤独にブログを書き続けているうちに、、、、不思議な現象が起きるようになりました。そう、友達が、できた来たんですね。こんな効果全く気にしていなかったんですが、なぜか常時コメントをくれる、お互いにブログを見合っている友人ができました。だれとはっきり特定できます。とら兄貴、つなさん、いちみさんたちです。amebaの時代の友人たちです。この友人は、本当に純粋に友人と感じました。でもなんでだろう?なんで、こんなふうに会社ではあり得ないような充足感があるんだろう?って僕には不思議でした。



なぜって?。僕の学歴も肩書も能力も外見も何も知らない状況で、互いのブログの中身だけで話をしているから、役割の自分ではなくて「素の自分」で慕われている、相性が合うということが物凄くはっきりわかったからなんです。しかも愛する映画の話や小説の話を通して、、、。約2年目ぐらいのイメージです。最初の半年ぐらいは、たぶん誰も見てなかったぐらいじゃないのかな?(笑)。映画や小説の話なんて、会社でも合コンでもしたことありません・・・おおっ、考えてみれば、当時の彼女とすらこういう話しなかった!(いま思いだしてびっくり)。理由は簡単で、会話ってのは「お互いに興味があること」や「共有している現実」について話し合うもので、そもそも年間数百本の映画を見ていて、凄まじい読書家だった僕と、まともに話が合う人なんて、少なくとも僕の生活圏内には存在しなかったからですね。つーか、そういう「理解してほしい」という欲望は、中学のころに消え去りました。もう不可能だって(苦笑)。


さてここで、ちきりんさんの「実際に20人があなたが毎日感じていることや考えたことにじっくり耳を傾けてくれるなんてリアルではありえないでしょう?」というのは多くの示唆に富む指摘です。もう少し敷衍するならば、「「自分が考えてきたことの記録」「自分が感じてきたことの記録」を、他者の目を気にせずそのままに保存しておくことは、自分の存在の記録であるといえます」という部分が重要です。いったいどこのだれが、「素の等身大の自分」を、「長期間継続的」に、しかもちゃんと理解しようと「耳を傾け続けてくれる」ものでしょうか。リアルの世界でもほとんどあり得ないですよね。


けど、そう!。ブログは、違うんです。毎日、、、いまだったらこの物語三昧いったい何人の人でしょう。数百人は毎日見ていると思うんですよそれなりに真面目に読んでいる人だけでも。ラジオとかを見ていてもどんない急でも30−50人くらいはすぐかけつけるので、常時追っている人がいるんだと思うんですよね。読者でも約100−200ぐらいは常時読みこんでくれているヘビーユーザーがいると感じています。カウンターは、数千/dayくらいなので、もう少しいるかなー?。半年に一度くらい本気で記事を書くときは、万単位のカウンターが一日で回る時もあます。前回のぽろすけさんという読者に会った時に物凄い驚いたんですが、たぶんコメントしたことない本当に読むだけなんでしょうが、それで数年間読み続けてくれていて、、、その人と話していてわかるのは「ブログの隅から隅まで深く読み込んでくれている」ってことでした。それだけでなく、あそこまで読みこみ過ぎていれば、そりゃー人生にも影響与えるよなーってくらいで、その人がとても大きな人生の転機があって、まったく見も知らない人だったけど、「自分の声が世界に届いているんだ!!」とういう強烈な手ごたえとして、凄まじい感動がありました。はしくん、Sくんもそうです。それだけではありません。自慢じゃないですが(いや自慢です)、このブログはプロの人が見てくれている率が高いようで、個別のメールを頂いて、どれほどの人脈が広がったか信じられない思いです。まさか作者からメールが来るなんて!なんていうことが何度もあります。というか、結構確率高いです(笑)。漫画や小説映画が好きでしたが、正直この歳になってクリエイターやプロデューサーの人と友達になるなんて思ってもみませんでした。僕の職種は全然違うので、エンターテイメント業界なんて、まったく「この世に存在しているとは思えない」場所で、本屋や映画館に結果はあるけど、過程って本当にあるのかな?ぐらいに思っていたのですが、、、、。しかも、ただファンですという僕が一消費者に過ぎない立場ではなく、「あなたの話が聞きたい!」と言ってくれるし、「あなたのことはずっと読んで知っています!」とか「いってくれちゃったりするわけですよ」、自分が好きな作家さんとかそういう人が。泣いちゃいますよ。


理解されている!!!(笑)


と思ってもおかしくないですよねぇ?。思いあがりではないですよねぇ?(笑)。それもね、中学のころから「お前のいっていることは意味わからない!」とか「自分のことばかりしゃべらないで人のいうことを聞きましょう」的な、意味不明のことばかり口走るやつとして、ずぅぅぅぅぅぅーーーーと注意され続けた人生としては、俺の言葉って、すげぇ、世界に届くんだ!とか感心してしまいました。まぁ彼女からも、親友からも、昔の尊敬していた上司からも、みんな「ペトロニウスくんの話は、とにかくずーーっと聞き続けてないと、複雑すぎてわからないよね」といわれるので、基本僕は長く話に付き合ってくれる人としか友達になれません(笑)。


ちなみに世界で一番クラスに小説家の栗本薫さんを理解している自信があるんですが、僕の人生で『グインサーガ』をそこまで深く読み込んでいるやつはいない、けど、100巻以上20−30万部のヘヴィーファンがいるはずなのに、そもそも読んだという人を見たこと無かったのですが、あっさり海燕さんという人を見つけてしまったり、、、、栗本薫さんがなくなったことを妻のメールで知った出張の出先から思わず電話してしまうような、その「思いの深さ」を共有できる友人に。ブログだけではないでしょうね、インターネットが持つ不特定多数の人気に情報を出して検索できるという世の中の仕組みが変わっていたからテクノロジーが進歩したからこそ、こういうマニアすぎて繋がらない人が、低コストで繋がることができるようになったんだと思います。


ブログを始めて、自分が好きだったものや、それに対して「自分がどう思うのか」ということを常時理解してくれる人と出会えることになったんですね、、、なにこれ、なにこれ???もしかして、俺いま幸せかよ?とか思うようになりました(笑)。


■等身大の自分を理解してもらうこと

僕は、Twitter、ブログ、mixiFacebook、それぞれをやる時に、一貫してコミュニケーションコストを下げるため、という至上目的を設定しています。社会人になると、「機能」を求められがちだし、「役割を振る舞う」ことが要求されます。いや、まー人生どこでもすべてそうですね。けど、そすると、その場の空気に染まることが要求されるわけで、フリーに自分の好きなことをしゃべることってできなくなるんだよね。社会人になって恋愛ができないとか友人ができにくいと感じるのは、仕事に人生が拘束されているために、「自分の心の素直に行動する」ということが制限されること、そして、まとまった時間が取れないために、「同じ現実を共有する」こと「その現実に対しての解釈を共有すること」が凄く難しくなるからです。そうすると人間は、仲良くなれないし、お互いを理解することもありません。


えっと、友達というものは、、、というか親密圏の最深奥にいる友人というのは、「時間と空間を共有する」人だと思います。いや、これは友達じゃないな、これは家族や恋人、伴侶ですね。でも、意外に近過ぎる人は、「一緒の現実=空間は共有している」けれども、その「解釈を共有」していないことが多いです。その人間と深く愛し合う、もしくは関わり合うには、「同じものを経験して」その上で「それについてどう思ったかという感情と理解」を共有しなければなりません。これあらゆる人間関係、、、特により深い関係構築をする時の基本原理だと僕は思っています。


特に、男女間で大きな差になるのは、「感情の共有」について、男性側が不得手か意識が弱く、女性側が突出しているケースです。けど、これは有名ですよね。よくいわれること。でも逆もあるんですよ、「解釈の文脈の共有」ってやつです。感情というのは、「理解の文脈」に支えられて繋がっているものなので、このリンクについての意識がないと、楽しいこと気持ちいいことの再現ができにくいんです。たとえば、女性は感情の生き物だから、感情を共有しなければなりません、とかなんとかいう恋愛マニュアルはよくありますよね。けど、じゃあ実際どうやって?というのは、書いていないケースが多いんです。それは、千差万別個別ケースで、書きようがないからなんですが、感情というのは、「それが出てきた文脈」を抑えて「言葉にして理解し合うこと」で、実は再現できることが多いのです。だから、同じものを見に行って体験したら、「どうしてそう思ったのか?」「いったいどういう過去の体験からそういうふうに感じるようになったか?」ということを、事細かに話し合っていくのです。そうすると、「相手がどうしてそういう感情を出すのか?」というポイントが共有されてくるんですね。こうなってくると、一緒にて超楽&幸せです。自分にとっても、相手にとってもね。


けど、、、社会人は、分断された時間を生きるために、なかなかこの「感情と理解の文脈を共有する」ということにコストを賭けるのが難しい。コストとは手間と時間です。ムラ共同体の基本、共同体が形成される基本は時間と空間を共有することです。けど、時間を売るレイバーとして働く資本制の世界に生きる我々には、まとまった時間を確保して、他者と何かを共有していくという作業が凄く難しいのです。


ちなみに、等身大の自己を理解する、相手の等身大の部分を理解するということが、この「感情と理解の文脈を共有する」ということだというのはもうお分かりですよね。そして、ブログに自己の考えを投げていく行為が、わかりやすい「自分を理解してもらうための教科書」になっていることが分かりますよね。


■Social Networking Serviceによるコミュニケーションコストの下げ方

だから、twitter,mixi,facebook・・・・・

Twitterに人生を盗まれるな!




・・・・・とここら辺まで書いて力尽きている。まぁ、サブタイトルだけで、内容はわかるので、このままでいいか(苦笑)。ここまで文脈が書いてあれば、まぁ、わかると思うので。


たぶん1年ぐらい前の記事だ。もったいないので、とりあえず途中だけど、掲載しておきますー(笑)


これ、ほっといても続き書かないと思うので(苦笑)


いつものテキトー物語三昧クオリティーです。