『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』 デヴィッド ボーム、David J. Bohm著  日本社会の生産性の低さを上げるには?

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

この本は、グローバルなメーカーのCMOを勤める友人が、興奮して、これを読んでいないなんてだめだ!と叫びながら鼻息荒く紹介してくれた本です。その人は仕事の実力も、そういった情報に対するアンテナも天下一品でしたので、まったくなんの下準備もなく、一気に読みました。

そして、この本を読んだときに、その素晴らしさに感動して、一字一句味わうように読みました。しかしながら、いざこれ他の人に紹介すると、ほとんどの人が抽象的過ぎて、何をいっているのかわからない?という感想が帰ってきました。僕はいい本は紹介して、僕の持っているさまざまな人脈に流したときに、どのセグメント、どの年代の人がどう感じるか?を自分がその本を理解していくときのアンカーにしているのでよくこうやって聞くのです。その中でも、この本は、かなり難解で意味不明だ、という意見が多く帰ってきました。実際のところ、ちゃんと読みきった人はほとんどいませんでした。


僕は凄い興味深くて、かなり興奮して読んだのだけれども、何がその差を分けたのだろうか?と考えると、やはり、この本の抽象的なことを読み解くための「内在のテーマ」を持っているかどうかということなんだろうと思います。この本に書かれている、より充実したコミュニケーションを行い、コミュニケーションの実りを集団でどう得ていくか?という問題意識を持っていないと、とりわけ抽象的な技術論の視点で書かれているので、意味不明になってしまうのです。これを紹介してくれた友人は、マーケティング戦略を立案して、それを全世界に展開する立場の人でしたので、異なる背景の人々にどのように、イメージやブランド、戦略などの複雑な概念を共有させていくか?ということに腐心していた人であったという背景文脈からも、この本を理解するのに、何が必要なのかを示していると思います。


ビジネス組織での視点でいえれば、これは、ワークショップやファシリテーションの技術の哲学的な展開版(上位互換?)と思えばいいのだろうと思います。特に、ファシリテーションの技術は、生産性のある会議、アイディア出し、意思決定などをしていく上で、とても重要なスキルであるという認識は、既にビジネスの世界では浸透していると思います。どの時点でファシリテーションという言葉が生まれ広がったかはわかりませんが、ここ10年以内だと思います。それまでは聞いたこともありませんでしたから。日本的文脈で言えば、日本社会は、極めてムラ社会的なバイアスがかかる社会で、その仕組みと高度成長期(1960-80の30年間ほど)の親和性が高かったために、この集団の形成の仕方、組織の運営の仕方、意思決定や権力の生成の仕組みに、ほとんど疑問がもたれないまま、非常にレベルが低く且つ外聞環境の変化に適応柔軟性を欠いたままで現在に至ったいます。一言でいれば、ホワイトカラーや事務的な仕事の生産性が、世界標準からして著しく低いのです。


それをどう改善するか?どういうコミュニケーションが生産性を高めて、より実りある果実を得ることができるのか?という視点で読むと、この本は、とてもフルーツフルなものになるともいます。


なぜ改善しなければならないのか?といえば、2020-50年の日本社会は、労働生産性人口が急速に低下して市場縮退を劇的に経験します。これが高齢化の正体のひとつの側面。なので、この指数をマイルドにする施策は、どんなに国民がイヤでも、マクロ的には必須です。絶対にこの方向へ進みます。こういうのは、土台レベルのマクロ構造なので、逃げようがないんですよ、実際。それは、1)女性の社会進出、2)出産率の向上のためのフランスと同様の政策の実施、2)移民の拡大です。これ優先順位ですね。それと、もちろん同じレベルで、生産性の向上があります。その指数の構成で、日本社会で最も非生産的なものの一つは、ホワイトカラーの生産性の低さです。ですから、今後、効率的な組織運営へのニーズは非常に高くなっていくはずです。その時には、背景的に高まる老人世代(=既得権益者)と若者世代の軋轢と闘争にあわせて、家族形態の解体と再構成を伴う女性の労働市場進出と移民の増加、労働方法の変化(=子供を増やすための極端な施策の実施)が同時に来る中で、もっとも合理的で、かつ世界で戦い抜けるコミュニケーション技法の確立が要求されるからです。難しいでしょ?。


ちなみに、ホワイトカラー系統の仕事の生産性の低さというのは、日本の省庁、官僚、大企業という巨大組織の効率の悪さを示しています。ここって、大体「悪い話」でマイナス方面に語られるども、二つの側面から僕はそうは思いません。


一つは、世界に冠たる最先進国にまで成長していながら、物凄く駄肉にあふれた筋肉なんかぜんぜんない非効率者か社会なわけですよ、われらが日本社会は!。言い換えれば、ここまでの人類のフロントランナーとなっても、まだぜんぜん改善改善の余地がある、余裕にあふれた社会ってわけですよ。シンガポールが、見事な筋肉質のアスリートでありオリンピック選手であるとすれば、筋肉とかほとんどついていない運動したことない!とかいう日本くんは、それでも、彼らの少し後ろを走っているに過ぎないんですよ。超鍛えたら、自力がぜんぜん違うのは、当然でしょう?。もう一つは、ギリシャの社会や日本で言えば大阪府なんかもそうだけれども、共産主義的で、分配に溢れた社会って、物凄く古いものを重厚に抱えているのね。それって、効率の次元では語れない、その国や地域の文化の堆積なんですよ。文化の堆積が、いいものとは限りません。西日本に深く残る差別意識や弱者というレベルを使った既得権益による全体へのフリーライダーなど、効率的な資本主義社会からすると、もしくは人権的なリベラリズムの社会からすると、かなり微妙な社会です。けど、それって、歴史なんですよ。独自性のある文化でもあるんです。その社会の道徳や倫理、歴史の堆積、「正しさ」への感覚などを示すものだからです。歴史の堆積が深ければ深いほど、それだけ可能性というのも大きいと思うのです。それって独自性・唯一性だから。そして、そういうのは、弱者や古きものを単純に破壊して切り捨てなくても、巨大な後期資本制の近代社会が運営できるという、余裕を示してもいるのです。



ちなみに日本社会の文脈では、単純にグローバル標準のスキルを紹介、教育、浸透するだけではだめで、日本的ムラ社会のバイアスがどのように構造的にビルトインされているか、同時に、新しい技術がどのようにその文脈かで機能するか?ということを理解していないと、ほとんど効果がありません。それだけではなく、そういった改革や現在の仕組みに対する挑戦のリーダーシップをとった人物は、「出る杭は打たれる」的なムラ社会の排除といじめの対象になります。なので、こういった本を理解するときには、


1)この本自体が主張している新しい概念の、それが生まれた系譜と、主張するスキルの理解


という当たり前のことと同時に、


2)上記の系譜が日本的な文脈でどう機能するのか?、また新しいスキルの浸透には、どのような手順・ステップが必要なのか?


という2点が必要な視点だということは、まず先に指摘しておきましょう。ちなみに、今回の記事は、1)についての話なので、2)の具体的処方箋や実施のため、インプリテーメーションに必要なことは、書きません。それは、僕もいまだ実践中なので、うまくまとめられないので。


・・・・・・・・・以下、力尽きて書いてません。


■「対話」が目指す目的とは何か?


→集団のコミュニケーションから、より豊かな果実を得ること



■「対話」をするためには特殊な技術がいる


→集団をある意味文脈下におかないと「議論」になってしまう


■「対話」のための重要なポイントは、『大きな意味の流れ』を背景に共有しているかどうか

1)コミュニケーションコストを下げる=大きな意味文脈を共有する


2)感情的共有を高める


と、ここまで書かれて1年前に打ち捨てられていました・・・・。もったいないので、とりあえず掲載しておきます(笑)。