『それでも夜は明ける/12 Years a Slave(2014 USA)』 Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作

12 Years A Slave/それでも夜は明ける

評価:★★★★★plusα星5つ傑作
(僕的主観:★★★★★plusα5つ)


2014年米アカデミー賞の作品賞。鑑賞後傑作だ、と絞るようにうめき出しそうなほど魂が震える傑作。鑑賞後、魂が揺さぶられて、自分の知っていた世界が揺らいでしまうような感覚を味わうことは、なかなかないが、これはそれを感じるほどの凄い作品でした。アメリカの歴史に興味がある人には、必須ともいえるような作品です。またそうでない人にとっても、黒人奴隷がどういうものだったのか?を、知識ゼロからで体感できる凄まじい作品です。


原作は1853年の自由黒人ソロモン・ノーサップによる奴隷体験記『Twelve Years a Slave(12年間、奴隷として)』。1841年にワシントンD.C.で誘拐され奴隷としてルイジアナプランテーションで働いた経験が描かれています。


カラーパープル』『アミスタッド』『グローリー』『ROOTS』『マンディンゴ』『夜の大捜査線』『国民の創生』『Help』『リンカーン』『大統領の執事の涙』などなど、南部を扱い奴隷制が描かれている作品は、たくさんあります。また、僕自身がアメリカに興味があったこともあって、一般の日本人よりは多少は歴史を知っているつもりだったのですが、それが粉々に打ち砕かれるというか、まったくその「凄まじさ」の強度が理解できていなかっただけではなく、黒人奴隷制のシステムが全くわかっていなかったのだ、と打ちひしがれるような作品でした。

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■“奴隷の人生を体験する”というコンセプト

僕は物語を常時たくさん経験している人だけれども、最近のその他の作品が一体何だったんだ、と愕然とするほどレベルの差を感じる素晴らしい作品でした。何が、これほどの「物凄さ」を感じさせたのだろうか?と考えてみると、やはりこれが一本道のプロットの最高レベルの脚本であったことにあると思います。言い換えれば、自己同一型の体験型の物語のことです。僕のの言い回しでは、主観体験型の物語。このことについては、僕が尊敬&いつも映画を見るときの拠り所としているノラネコさんの解説を抜粋してみます。

ジョン・リドリーの手による脚本は、一本道なプロットを生かした最良の例の一つだろう。
突然夫が失踪した訳だから、妻は当然探しただろうし、友人・知人たちも動いたかもしれない。
彼を買った白人の側にだって、本当は色々なドラマがあっただろう。
しかし、映画 は徹底的に主人公に寄り添い、彼の知り得る事柄、即ち農園の中で起こっている事以外の情報は一切遮断されるのである。
感情を突き動かされる物語だが、所謂感動モノとは少し違う。
サブプロットを極力排し、ソロモンの見たもの、聞いたこと、感じた事だけを描写する事で、観客は自然に彼と自己同一化し、自分もまた奴隷になったかの様な精神的苦痛と閉塞感を味わう。
彼の周りにいる、同じ境遇の奴隷たちの哀しみや絶望が綿密に、ステロタイプに陥らない様に注意深く描かれているのも、ソロモン自身が理解できる事だからである。


一方、白人たちのキャラクターは極めて類型的だ。
ソロモンが最初に仕える、寛大だが奴隷制にNOを言う勇気は無いベネディクト・カンバーバッチのフォードも、ポール・ダノ演じる粗野な負け組白人のティピッツも、愛を失った夫への鬱憤を奴隷にぶつけるサラ・ポールソンのエップス夫人も、そしてマイケル・ファスベンダーが怪演する奴隷たちの残虐な支配者、エドウィン・エップスも、この時代の南部にいたであろう、白人たちのそれぞれの一面のみを抽出した様な比較的単純なキャラクターに造形されている。
もちろん、これはあくまでもソロモンの心情に同化し“奴隷の人生を体験する”という本作の狙い通り。


http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-726.html
ノラネコの呑んで観るシネマ/それでも夜は明ける・・・・・評価額1800円


最後にある“奴隷の人生を体験する”というコンセプトが、まさにこの作品のコア中のコアといえると思います。


最初にワシントンD.Cに住む主人公ソロモン・ノーサップ(キウェテル・イジョフォー)は、成功したビジネスマンで、二人の子どもと愛する妻もいる社会的に地位にも恵まれている、とてもモダンな意味での近代人として描かれます。言い換えれば、生活のレベル、あり方が我々近代国家の資本主義国の中産階級の生活と何ら変わりのない生活をしているのです。インターネットやi-padはないかもしれませんが、その物質的レベル、生活水準、「生活の在り方」自身は、我々と全く異なっていません。


ちなみに、脱線ですが、1841年において、アメリカは既にヨーロッパ文明の形成した「現代の生活様式」が形成されています。日本の明治維新が1868年であると考え、ヨーロッパ文明の近代的な生活様式が浸透するのに30年を要したと考えると、アメリカの歴史というのは、いかに古いのかと感心したくなります。歴史全般という意味での長さは、日本の方が圧倒的ですが、こと近代的な国家、生活様式という意味では、日本より歴史のある国なのです。この辺りをの履き違えはあってはならない、といつも思います。tちなみに1870年代に近代国家、統一国家が成立しているクラブというか仲間には、明治日本とともにプロイセンドイツがあります。イギリスやアメリカよりも、少し遅めなんですね。


さて、その現代の我々とほとんど同じである主人公ソロモン・ノーサップは、ある時、ビジネスの相手に騙されて、奴隷として売られてしまいます。映画で出てくる、ソロモンを売った白人たちは、とても胡散臭いのですが、人間は万能ではないので、こういうことに人生騙されて痛い目を見ることは、一度や二度はあってもおかしくありません。けど、この「騙された」ことが、これほど人生を全く異なるものに変えてしまうとは、正直僕は驚きでした。


朝起きると、手錠をはめられ、いきなり家畜として扱われます。何一つ、人間としての権利が通じない。


この辺りは、上記で書いたように、ソロモンの体験を追体験する形の脚本になっており、また、最初に描かれているような「我々自身の生活の在り方」と何ら変わりがないところから、拉致されていきなり人生が転変するというシームレスな接続によって、自然に主人公と、観客(=我々)が自己同一化がされていくことによって、この没入(=同一化)の度合いは、非常に丁寧になされて生きます。

サブプロットを極力排し、ソロモンの見たもの、聞いたこと、感じた事だけを描写する事で、観客は自然に彼と自己同一化し、自分もまた奴隷になったかの様な精神的苦痛と閉塞感を味わう。

ノラネコさんがこう書かれていますが、まさに、でした。僕は、北朝鮮に拉致られた人々もこういうような体験をしているのだろうか?と、これが現代の話であっても、決しておかしくはないのだ、とずっと胸が締めつけられるような思いでした。「小説家になろう」などのアマチュア小説のいろいろなファンタジー物語を読んだり、ライトノベルでもアニメでもいいのですが、ファンタジーにはたくさんの奴隷というようなものが出てきます。しかし、この映画を見て、奴隷がどういうものか?ということがぜんぜんわかっていなかったのだ、と衝撃でした。もちろん、奴隷といっても、中国の宦官的なものやギリシアローマ帝国の奴隷のあり方など、奴隷にも様々な類型があります。ローマ帝国の奴隷などは、自分で自分を買い戻すこともできるし、そもそも財産として重要視されているので、使い捨てのような凄まじい扱いは受けにくいです。執事的な位置づけで、家の中で絶大な権力を持つ人もしばしば現れます。けれども、黒人奴隷の過酷さはまったく違うような気がします。近代的な産業(綿花栽培のプランテーション)構造に組み込まれていて、その労働条件の過酷さや管理の厳しさは想像を絶する感じがします。もちろん私もその差をちゃんと勉強しているわけではないので、感覚的なものに過ぎませんが、アメリカにおける黒人奴隷のシステムのありかたは、なんというか、救いようが無いような気がします。奴隷というものの、それぞれの実態はどういうものだったのか?というのは、少し気になる感じです。そういえば、幸村誠さんの『ヴィンランドサガ』における奴隷のあり方も、かなり過酷に感じましたね。けれども、塩野七生さんのローマ人の物語で描かれるローマの歴史では、そこまで過酷には感じなかったのはなぜだろうか?。疑問は尽きない。とはいえ、こういう表現はそぐわないかもしれませんが、これもいってみれば、僕にとって強烈なセンスオブワンダーでした。黒人奴隷のシステムが、その体験が、このようであったのか?というのは、想像もしていないような衝撃でした。これは、本当に素晴らしい作品です。ちなみに蛇足ですが、『ヴィンランドサガ』の農園に年季奉公人(インデンテュアード・サーヴァント)というシステムが出てきましたが、これは初期のアメリカ大陸奴隷制のスタート地点の一つであり、この時代を理解するのに重要な概念なので、覚えておくと歴史への理解がとても深まります。

ヴィンランド・サガ(1) (アフタヌーンKC) ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)


■黒人奴隷が置かれている死と隣り合わせの日常を表現する映画的なシーン


基本的に12年間のソロモンの奴隷生活を描くシンプルな作り故に、台詞も含めて決して饒舌な映画ではないが、その分画作りと演出は凄い。まさに名場面のオンパレードというべき本作の中でも、私は中盤と終盤の二つのカットが特に印象に残った。中盤では、自分に逆らったソロモンを、復讐に燃えるティピッツが吊るそうとする。別の監督官が気づき、ティピッツは逃亡するが、ソロモンはオーナーであるフォードが戻るまで半分首を釣られた状態で放置されてしまうのだ。シネスコの構図の中で、手前では瀕死のソロモンが必死に爪先立ちして生きるために戦っている。ところが目の前で人が殺され様としているのに、背後では奴隷たちも白人たちも何事も無かったかの様に日常の仕事をしていて、誰も助けようとはしない。奴隷の命がどれほど軽く、死が日常に潜んでいるか、ソロモンの置かれた状況の異常さを端的に表現した見事な描写だ。


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また、主観体験型の一本道プロットという構造を生かすというか、その制限された物語背景の情報量で表現をするために、ノラネコさんが主張するように、「台詞も含めて決して饒舌な映画ではないが、その分画作りと演出は凄い」。私も、中盤のソロモンが首をつられた状態で放置されるシーンは、忘れられない強烈なシーンだった。なかなか映画的な画面というのは、説明されてもよくわからないケースが多いのだが、このシーンは、見ていて強烈な印象を与えるので、特別な手法で特別に意味を込められて画面が作成されているのがよくわかるものでした。特に画面から意味を読みとらなくても、「ここで起きていること」がありえないほど異常なことなのだ、そして、それが当時の(この映画の中に人々)にとっては日常であり常識であり、あたりまえのこととして流れ受け入れられているのだということが、じわっとしかし圧倒的に伝わってくる。黒人奴隷が置かれている日常が、いかに死と隣り合わせなのか、それが日常の中に織り込まれて当然視されているのがよくわかる。


■壊れていく白人の支配者エドウィン・エップスが浮き浴び上がらせる南部の関係性

ふとこの作品を見ていて思い出した本がある。南部だけではなくアメリカを代表する小説家で、ヨクナパトーファ・サーガを書いたウィリアム・フォークナーです。彼は南部のミシシッピ州ラファイエット郡で障害の過半を過ごした、南部のことを描き続けた作家です。もうどの本だったかわからないのですが、夜な夜な南部の大農園の農場主である父が、黒人たちが寝起きする別棟に通っているのを不思議な気持ちで見ていた息子が、ある時意を決して、父親が何をやっているかを暴くために、父親を尾行するのです。そして、焚火の周りで、黒人たちと上着を脱ぎ捨ててレスリングというか相撲というか、取っ組み合いをしているのです。この時の裸の肉体同士がぶつかる汗のむせるようなにおいを、少年は生涯忘れなず、自分の故郷の子供時代の原風景となっているのです。僕も、この裸同士のぶつかり合る汗のシーンが強烈で(中学生の時に読んだと思います)他のあらすじはすっかり忘れているのにこのシーンだけ、妙に強く印象に残っていました。

これは、たぶん、エドウィン・エップス(マイケル・ファスベンダー)がパッツィー(ルピタ・ニョンゴ)という女性奴隷に好意を抱き性的な虐待行為を繰り返すのですが、それと同じく奴隷の主人と黒人の女性の奴隷との関係の暗喩でもあったのだと思います。また、『Help』という南部の農園の家庭の専業主婦やメイドたちの生涯を追った映画を見ている時に、アメリカの黒人奴隷解放には、女性による賛同が非常に強かったらしく、それは、一つには、自分の夫が自由に女性の奴隷を弄び浮気するのを見続けてきたことと、そして当然に子供ができるのですが、正式な妻との子供(跡継ぎ)と、奴隷の子供たちは、同じ血を引く兄弟姉妹でありながら、主人と奴隷の関係であり、この関係性の歪みが、教育によくないという主張だったそうです。そりゃそうですよね。

白人の傲慢な支配者であるエドウィン・エップスは、パッツィに好意を寄せるのですが、それは支配と被支配の関係に裏打ちされており、もちろんのことながら永遠に重なることもなく、何も通じるものはありえません。そのことにエドウィン・エップスは狂っていくのですが、歪んでいる一方的なものであったにせよ、それは愛情なわけであり、それまったく届かな、正しい形に収斂しない、もしくは正しい形で拒絶されないで肉体関係と所有関係だけが続けば、それは当然のことながらどんどん歪み拡大していきます。

こうした家父長制が強く生きている古い家族主義がある南部という空間で、そのユニット(農園主であり、奴隷の主人であり、夫であり父親)の頂点の支配者が、これだけ歪みを抱えて、その歪みを自由に行使できる立場にいれば、そこに住まう人々の関係性がどんどんおかしなものになっていくは、よくわかります。しかし、この関係性の在り方は文化として数百年維持されてきたわけで、そう思うと、非常に強い感慨があります。

とはいえ、いままでよくわからなかった黒人奴隷のイメージがこれ強くついたこともあり、もう一度ウィリアム・フォークナーを読み直してみようとかいろいろな意欲がわく作品でした。


ちなみに、この直後に、アメリカ縛りで『大統領の執事の涙』を見たいのですが、これが、1929年からオバマ大統領の誕生までを描いているのですが、ちょうど歴史のピースが埋まるように、つながったので、アメリカの人種解放闘争の歴史が非常にクリアーに一気通貫で感じました。連続で見てみるのをお勧めします。

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