希望を語る時の定義がよくわからない。

「日本のどこを探しても希望のかけらもない」村上龍最新エッセイにこめられた想いとは
http://biz-journal.jp/2015/04/post_9753.html?utm_content=bufferdda6a&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer


村上龍さんは、ずっと追い続けている作家で、ずっと凄いなんというか信奉というか、大好きだったんですが、この佐々木さんのコメントは、その通りだなーって最近はしみじみ思います。歴史のステージが変わったのだなーっって思います。


村上龍さんのエッセイは、そのコアの主張が、ニヒリズムにいかない、自立して、ナルシシズムに陥らない、でした。そして、彼がテニスによせるエッセイは、テニスのメンタルコントロールによって試合がひっくり返ってしまう部分をもって、集中力のコントロールが、生きていくには、重要だってことでした。サバイバルする=生き残るためには、というような生存競争的なことを重視するようなものの言い方も、ナルシシズムに落ちず、なにかに依存しない生き方は、動物として生き残れる「力」を強調することでした。これをマクロに描いた作品が、『愛と幻想のファシズム』ですよね。そして、この自立を重視する、非依存が、『5分後の世界』などの、アメリカと戦争してまで自尊にこだわった過去の日本のあり方に対して展開して、かつ、戦後それの別方向での展開になった企業、経済へコミットしていくことになったのは、村上龍さんは非常に一貫していると思います。


僕はこの村上龍のコアな主張に、凄いシンパシーを持って生きてきました。いまでも言葉にできなくらいの大ファンです。。。。けれども、これってやはり高度成長期の日本がまだ成長していた時代、仮に成長が弱くなってもまだ踊り場にいた時代の話なんだな、と思うんですよ。いま思うと。もちろん、むしろ低成長で、国力が相対的に落ちるいまでこそ、個人においては、村上龍さん的な動物としての強さを持って、自立して、ニヒリズムに落ちないで、成長目指して自立自尊で生きていけというのは、より意味のあるメッセージになるんですが、、、、しかしマクロ的には、どうなんだろう?って思うようになってきたんですよね。まだ言葉になっていないんで、なんとも説明しきれないんですが・・・・。



その疑問を一言で口にすると、佐々木さんのコメントなんですよね。さすが、鋭いです。これ古い意味での左翼にコミットする話ではぜんぜんありません。時代はもっと大変になっていきます。その中で、弱者が、20世紀や現代ほどカバーされる時代は少なくともぼくが生きている時代ではないと思います。世界は、大きな政府志向ではありますが、そのための財政が機能しなくなるからです。特に先進国で、それは深刻でしょう。人口が激減していくのですから。そして、なんというか、、、、弱者の定義が変わってきた気がするんですよね。過去は、わかりやすい貧困、病気、苦しみの水準があった気がしますが、インフラストラクチャーがいきわたり、かつ、リソースがさけなくなってくると、、、、そうことは単純じゃない感じがしていて、、、、。非常にわかりにくい時代になって生きているんだと思います。上記の佐々木さんの「できない人」ってのは、内発性や動機がもてない人の話をしているように僕は感じて、これって、単純な定義が難しい。なかなか難しい時代ですねー。



しかし、、、いつも思うんですが、いろいろなところで、希望っていう言葉が使われるんですが、、、定義があまりに曖昧すぎてよくわからないんですよね。。。うーん、、、。



ラストワルツ