いまの幸・不幸は誰によってもたらされたのか知りたければ、善悪の基準を排除して歴史を振り返って考えなければならない。それが自己責任的な、すべての問題を個に押し付ける無限ル-プからの脱出もたらす。

日本の「運命」について語ろう

評価:★★★★★星5つ+α
(僕的主観:★★★★★5つ+α)

まず一言でいうと、こんな素晴らしい本に出会えて(講演録だそうですね、マジで聞きたかったリアルで…)本当に幸せでした。めちゃくちゃ面白かった。だけではなく、なんというか知恵が詰まりに詰まった素晴らしい密度の本でした。


1)歴史を学ぶ価値はどこにあるのか?


それは、歴史に対する時の態度、がまず僕の理想とするところが余すところなく言葉にされていて、しかもただことばでこういう風に歴史を見ればいいよという抽象的なことだけではなく、具体的どの部分をどう見るといいうかというのが展開されていて、その果てに彼の小説がつながっているのは読めば具体的にわかるので、本当に素晴らしく感動した。まさに、まさに、僕がずっと歴史を好きで考えてきたときの価値の柱となるものの見方であって、ああ、さすが鼻血がが出そうになるほど大好きな『蒼穹の昴』『中原の虹』シリーズを書かれるだけのことはあるんだ、と驚きました。エッセイなどは読んだことがなかったんですよね。blogosの記事を見つけて、、、あれ、これめちゃくちゃよくないか???と驚いて引き込まれてすぐkindleで買ったので、いい出会いでした。これはせっかくなので、記事の引用をしつつもう少し説明後でします。


2)自分が不幸なこと、自分が幸せなことは誰のせいなのか?〜現代の答えは究極自己責任で、自分のせいだと答える無限ループに陥っている


どうしたって救いようのないものを救えるのか、それを描く価値はあるのか?という問いからちょっと考えてみる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150424/p1

こういう記事を書いた。僕は、ベイシックスキルという記事でけっこう勇ましというか身も蓋もない生きるための技術を書いているが、シンプルにいうと「人生には勝負時があって、それに勝たなければならい」「やらなければいけないときは、絶対に逃げては前に進めない」とかそういう感じのことを言っているわけです。そのためには、情熱と戦略を持って生きないと人生は失敗する、と。僕のこのブログの記事は、たくさんいいといってくれる、かなりコミットして好きになってくれる人がたくさんいる半面、その弱者切り捨て、自分は偉い的な言い方が許せない!と感情的に言われることが一貫してあります。別に言葉を選ぶつもりもなく赤裸々に自分の経験と思いを書いていいるので、こういう感情的な意見は、まぁ来ることはあるだろうとは思います。僕の答えは一貫して同じで、自分の人生を主体的に生きていない人は暇で、その無駄な遣いの時間を、生産性の悪い、他人の引きずり降ろしという比較級の世界に生きていて、人生が不幸になるだけですと答えて来ました。実体験的にも、確実にこれは事実なので、まぁ「そう」としかいえないよ、と思って冷ややかに見てきました。

けど、ほんとうに、こういう比較級の世界にいて、無駄な相手の引きずり降ろし、ある種のデモナイゼーション(相手を悪魔で、邪悪と切り捨てて自分の保身を図る方法)をする人は多いんですね、、、僕はこの方向性の技術というか世界に対する態度、行動は、自分の人生にとって本当にマイナスでしか無い悪手だと思うんですが、本当にこの手の人が多い。不幸にしかならないし、どこまで行っても自己満足すら訪れないので、どんどんエスカレートしておかしくなります。特に、僕のように、こういう足を引っ張るダメな人々は、自分の中でアクセスを断ち切ってすっぱり関わらないほうが得策なんだ!というの戦略的に判断してしまって、切り捨ててしまうと、もう数年すると、足元にも及ばない人生の差になってしまいます。きちっと生きることと、比較級の世界で、自分のことではなく他人のことにかまけていることの差は、若い時には絶望的なほどの差を生み出します。


基本的に、こういう他人の引きずり降ろしに汲々として、他人を悪魔かして悪だと声高に印象操作をする人々は、個人でのレベルの実行力がほとんど皆無なので、僕は無視すればいいんだろうと思っています。それがプラクティカルな生き方。それに海燕さんのところに来る差別的なメールとか、もうあまりにド汚く、品性というか礼が壊れている人は、自分がどれだけ醜悪で無駄で意味のない存在かわかっていないところがあります。本当に迷惑なので、関わらない、が一択です。なかなか現実では難しいですが、こういうのとまじめにかかわっていると、人生を損します。


ちなみに、海燕さんがこういう風に書くとよく来る反論で、世の中に意見を発表する人は、批判を聞く義務がある的なことがありますが、僕これは全く必要ないと結論付けました。それは、質の良いコミュニケーション(=ナルシシズムへの引きこもりを阻止する友達からの気づき)とノイズ(ただの意味のない生産性の無い、ルサンチマンの吐露だけの雑音)を区別していないんです。すべては結果です。この場合は、目的は、自分がナルシシズムに陥らないこと、健全な批判を受け入れて現実に即していくこと、極端になってしまわないことなどの目的があるとしたら、それができるようなコミュニケーションが保障されていたら、雑音ノイズなんか聞くに値しないですよ。しかも、このノイズの目的は、オレオレかまってくんですから、そもそも目的が違う。まったくコミュニケーションの質を上げ、行動の契機になるためには、意味がない。なので、批判として機能しないものなんですよ。そういうものは考慮する必要なんかないゴミなんです。なので、別口で、自分がちゃんと批判を受け入れられるコミュニケーションチャンネル(要は友達や家族ですね)の多様性を確保しておけば、それでいいのです。不特定多数の意見なんぞ聞く必要はありません。


話がずれました。


ようは、、、、人生に勝たなければ、だめだよ、、、という話ですよね、この流れ。これは事実だと僕は思います。それほど詳しくないんですが、この話をする時に、よく為末大さんのtwitterとか意見を思い出すんですよ。特に、勝負事には、アスリートの人は凄いこだわるので、勝ち負けの話になると、彼らの意見や生き方が凄い参考になるんですね。

合わせ技で勝負すればよい


 まずは、とても印象に残った為末さんの話。為末さんは子供のころから駆けっこで負けたことがなかった。高校でも日本一を取り続けた。しかし、世界の舞台に出て、自分の生きる道が初めてわかったという。それは、同世代(高校生)の駆けっこ自慢が世界中から集結するジュニアオリンピックだった。

 スタートしてから50メートル付近までは横一線。為末さんも「俺、世界でもやっぱりいけてんじゃん!」と一瞬思ったそうだ。が、そこから悲しい現実が待っていた。50メートル過ぎから、「あれ〜」という感じで、グイグイ引き離されたという。

 日本では負けなしだった為末さんが、この時初めて、「ただ走る」という地力競争では黒人選手に勝てないと悟ったという。そこで、どうすれば彼らに勝てるかを考え始めた。結論として、「合わせ技」に打って出た。ハードルの世界に入ったのだ。為末さんは子供の頃に器械体操をやっており、空中動作には自信があったという。そこで走ることと空中動作の「合わせ技」で勝負できる競技を探した。

 この話は非常に面白かった。素のフィジカルで勝負したら筋肉量や手足の長さや筋肉の質で勝る黒人選手に勝つことは容易ではない。けれども、それに空中動作という技術を合わせれば十分勝負できる。

 体格的に黒人に劣る日本人は、単純な肉体勝負ではかなわないかもしれない。でもそんなことを気にすることはない。人生において「素の肉体勝負」をする機会はまずない。現実の人生に存在するのは「合わせ技」の勝負だ。日本人は器用なので「合わせ技」勝負があっているかもしれない。短所は長所、長所は短所なのが人生だ。

 為末さんの決断は、私が敬愛する英国の政治家、ベンジャミン・ディズレーリーの「絶望は愚者の結論」という言葉を思い出させる。彼は投資や事業に失敗し続けた。政界入りに挑戦するも4回落選。しかし、史上初めてユダヤ人で英国首相となった。さらに2度も英国首相を務めている。一つの道がふさがった時に初めて行くべき道が見えてくるのだろう。

このへんのエピソードとか、凄いプラクティカルですよね。為末さんは、決して勝利至上主義的なランキングトーナメント上昇志向の持ち主だとは僕は思いません。常に、差別化して、勝てるフィールドでプラクティカルにしようという、執念が見えるからです。なんだかんだいっても人生は勝負であって、勝たないと人生は悲惨だよ、という風に僕も思います。これは、僕がよく言うグランドールの一つなんですよ(グランドルールは、一つだけじゃなくて矛盾するものも同時にあるんですよ、それが世界ですから)。勝つことがすべて正しいわけでもなければ、勝つことによって敗者が生まれているという事実を踏まえても、それが世界、それが、現実というやつだと思うのです。人間の世界が競争と公正さにあふれている活力のある健全な世界であろうと思えば、それしかないんだと思うんです。平等には二つあって、機会の平等と結果の平等があるんですが、両方があるレベルで機能していないとだめなんであって、大体の勘違いな人が言うのは、結果の平等にシフトしている議論をするんですね。水準の問題ですが、水準の問題、バランスの問題は、なかなか大衆レベルでは議論できないようなんです。たぶんそれが理解できるというのは知的レベルというよりは、EQ的な感情の成熟度合いに左右されるからのような気がします。今の先進国の知的レベルは高いもの。そういう問題じゃ人だろうなーと思います。


とはいえね、、、、ちょっと考えるとわかるんですが、彼ってものすごいレベルのアスリートなんですよね。しかも、このエピソードからいって、もうとんでもないほどの凄いレベルの人です。こういうのを聞くと、僕のようなパンピーでなくても、みんな思うと思うんですが、俺にはできないな、、、、この人は特別な才能を持った人だからできるんだ、と思うわけですよ。



この為末さんの非常に批判されたツイートだそうですが、これが物凄い反感をまったそうなんですね。さてさて、そういう中で、まぁ、かりに人生は勝たなきゃいけないと、負けるのは悲惨だぞ、という前提をアグリーしたとします。けど、そういうところで勝ち上がれる人間は、要は世界でいいものを独占できる人間は、もう生まれながらに決まっているんだ!という意見が出てくるんですね。これ同じことを僕もブログで批判されたんで、この流れはよくわかります。これは、何を言っているかというと、端的には努力を否定しているわけです。努力しても、才能なんだから、どうにもならないと。なので、努力を信奉する人からすごい反論があったんですね。


僕は見も蓋もないけど事実だと思いますし、為末さんの上の差別化の議論は、どれだけ本気で「勝てるためのフィールドを探しているか」「どれだけルールを考え抜いて勝つための差別化をするか」をやらないと、才能の差に一方的にやられちゃうよ、だから俺は努力する(=差別化する)という風に行ってきた人に言う批判じゃないだろう?(苦笑)と思うんですが、でも、非常に典型的な反論で、才能の差、生まれつきの差で決まっていることで、責められてもおれたち悪くないじゃん!ということがいいたいんですよ。


為末さんは、既に、そこは「戦うべきフィールドを選べ」、「隠れているもの含めてルールを見抜いて工夫し、差別化しろ」といっています。これは一つの答えなんですが、もっと安易に生きたい人、もしかは既にもう才能や努力の差が埋めようもなく開いてしまっている人からは、才能の差、というようなスタート地点の持ち分で結果に差が出るのは卑怯じゃないか!という反論が来るんですね。これは、なるほど、悪くない批判です。これに対する反論は、自己責任主義者・勝つこと至上主義者は、世界は公平にできていて、リソースは限られている。万人のナルシシズムを満足させるだけのキャパシティーはない。そういう社会にマクロ的にしていくことは重要だが、現時点で、才能をベースに極限の積み重ねをしてきた人が報われるのは道理だろう的な答えになります。


これ、僕がいつもベイシックスキルのカテゴリーで話している話と同じです。というか、僕の生き方がこうですからね。このロジックは正しいと思うし、実際のところ、具体的、現実的にこれ以上の方法ってないと思うんですよ。世の中で、現実の社会では、僕は「できること」以外にはあまり意味がないと思っていて、理想とか幻想、もうそうでは腹は膨れないと思うんです。


僕のこの、ナルシシズムに陥らないで、比較級の世界をから脱して、何かに依存をしないで、自立して生きていこうというメッセージ、信念は、究極のところは多分栗本薫さんの小説からきているんですが、そこは話すと長いのでおいておいて、もう少しわかりやすい例は、なんといっても村上龍さんです。村上龍さんのメッセージの究極は、そこです。彼のエッセーなどを読み続けていけば、そういう風に読み解けるはずです。僕は、彼にテニスに関するエッセイで、テニスに必要なメンタルコントロールと集中力が、比較級の世界で泥沼にいる自分を脱出させてくれるのではないか、と高校生ぐらいのときに、おおっと思って読んだのを覚えています。


基本的に彼のメッセージは、ずっと変わっていないですよね。

本書のなかで作者は、「希望のかけらもない」状況を、別れる直前に最後のワルツを踊っている恋人たち、寂しさの垂れこめる二人に重ねて、将来へのあり方を示唆しているように見える。「最後のワルツ、孤独な二人」とは、エンゲルベルト・フンパーディンクが歌う名曲「ラストワルツ」の詞の一節だ。これから先は、もはや誰にも依存しないで、一個人としてしっかり生きること。決してニヒリズムには行かないこと。それが希望へと向かう第一歩、生き抜くための必要条件だと、つよく暗示しているのだ。

 その突き放し方が、読者へのエールとなっているところが心地よい。


「日本のどこを探しても希望のかけらもない」村上龍最新エッセイにこめられた想いとは
http://biz-journal.jp/2015/04/post_9753.html?utm_content=bufferdda6a&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer

そして、最新作のエッセイでも、そうでした。



ただね、、、、ああ、時代は変わるんだ、と僕は思ったんです。最近、ぼくは昔ほど村上龍さんのこの結論に共感できないんですね。それは、僕自身が40を超えて、もうたぶん彼の言った通りの人生を歩んできて、ルサンチマンやそういったものは、ほぼ消滅して、幸せな生活を生きているのですね、、、、なので、一つには、そういう渇望が僕の中でかなり薄くなったというのがあります。たぶん時代的にも、とても成熟して、もうそんな貧乏な時代の成長途上国でなくなった日本では、もうこういうメッセージは、なんだか、ちょっと貧乏臭く感じるんです。貧困がなくなったというわけではなく、ストックで生きる経済に変わり、基本的なインフラストラクチャーがいきわたった日本において、そういうメッセージは、機能しないんじゃないかって。またチャンスがそれなりにあった時代(国が成長している)時はいいですが、社用になっている時代においては、そもそもチャンスが無いわけじゃないですか。そんな中で成長にかけるというのは、あまりに分の悪い賭け、、、というよりも、無駄な事なきがしてしまうんですね。


このへんのもやもや感は、まだ僕にはよく言葉にできていませんが、、、、


でも、このことをストレートにいま言える言葉で云うと、下記の佐々木さんの言葉になります。





そうなんだけど、できない人はどうするのか。



これ、凄い僕もシンパシーを感じます。救われない層をどう救うか?という話が、テーマになるのも、そこなんだと思います。



同時に、マクロ的にも、結構ややこしいことが起きています。


・・・たぶんWW2以降の世界的な社会民主主義の流れで、冷戦、対共産主義のために資本主義、自由主義陣営側が、再分配を強化していく流れがあったと思うのです。なんで、弱者による圧政と専制みたいな感じで、人権などのロジックを使って、これまで虐げられてきたり抑圧されていた層が権益を獲得していく時代だったと思うんです。けれども、アメリカのアファーマティヴアクションが経た流れと同じで、これを進め過ぎた結果、逆差別が起こってくるようになってきたんですね。弱者というロジックを使って既得権益の化け物と化して、リソースをフリーライドする方法が社会に蔓延る様になってきた。また、それでも高度成長などの社会のパイが極端に倍々ゲームで増えていく時期には、それでも問題が多い隠されたので特に問題はなかったんです。けれども、成長がマイナスか、現状維持になって、かつ人口がマイナスに転じてくる時点で、リソースの配分は、正しくフェアでなければいけないという風になってきたんですね。わかると思いますが、アファーマティブアクションは明確なる逆差別なので、そもそもフェアではありません。アメリカにおける黒人差別を例にとるとわかりやすいのですが、歴史の長きにわたって黒人が差別されたので、現在は黒人を優遇しようということです。けれど、そうすると、黒人以外の層、、、現代の白人、特にプアホワイトなどといわれる貧困層は、逆差別を受けるわけです。その人たちからするとひどい話で、過去のご先祖様のやったことを、現代の人が責任を取らされているわけです。これ、自分がその立場になったら、やり切れないですよね?。仮に、歴史的に考えれば、それが妥当で正しくても。いやでも、白人が黒人を虐げてきたのは歴史的な事実だから、いま責任を取るのはフェアだ、といったとします。まぁ、これはある一定の妥当性があるので、アメリカ社会でも受け入れられてアファーマティヴアクションが続いているわけです。。。。しかしね、、、これで何が起こったかというと、プアホワイトや白人層が、軒並み宗教や右翼にシフトしたんですよね。特に中産階級を形成していなかった貧困層の右翼への転び方は、すごかった、イラクアフガニスタン戦争を遂行したブッシュ大統領共和党の支持層は、まさにここですね。


えっと、何が言いたいのかというと、(1)勝利至上主義で、ちゃんと現実と闘って頑張った人が報われるべき!というのは、一つ目の正しさです。けれども、そうすると、(2)負けてしまった人々やそもそもマクロ的に頑張れない層が、才能の差によってもたらされたものをケアしろ!といってきます。これは、2つ目の正しさです。


そうして、(1)で頑張った人の努力を奪って再分配を(2)にするとします。そうすると、(2)の層は、その再分配を糧に、頑張る人と、何もしない人が出ます。ようは、(2)が、(1)に転じる人が出てくるんですね。そうなると、(2)で頑張らずに努力しなかった人へ、強い批判が集まります。特に、(2)から脱出した人が、凄い批判社になります、たいてい。これがスパイラルで何周回もしていきます。


ということをしていくと、社会的に不公平感が生まれてきて、特に頑張った層の中でも、それほど恵まれていない層が、右翼化するんですね。なんで、こんなにがんばっているのに、(2)の何もしない奴らに譲歩しなきゃならないんだ!!!って。さらに、(2)のなかでも、頑張らなかった層の中には、がんば『れなかった』人もいるわけです、社会マクロ的な要因や才能の差にしても、、、、そうすると、なんでできるやつにおれが責められなければいけないんだ!と怒り狂う。そんで、この人がルサンチマン化した左翼化になるようなんですね。あっ、ちなみに右翼化して、外国人や移民排斥などの、さらに弱者を探して叩くケースもよくあります。ちなみに、どちらかというと、ヨーロッパをみていると、現代の全地球的な傾向は、移民排斥をベースとした右翼の台頭が、基本のトレンドです。



・・・・・やりきれませんね。




ミクロ的にも、どういうメッセージが、有効かわからなくなってきている。個人の信条としては、差別化して、戦いに勝て!、生き抜け!、というのは正しいです。これは人類普遍の真理で、時代に左右されないと思います。けど、終着地点としての、非依存、ニヒリズムの脱却、ルサンチマンの削除などは、実際のところ、どうにもできないケースが多々あって、、、、国が人類が貧乏な時は、それは、貧、病、苦とかの物理的水準のせいだ!と誤魔化せたんですが、いまって、もうそれは大きな比率を占める原因ではあっても、なくなっても、解決しないんだというのは、みんなわかってきたんだと思うんです。



というのが、いま僕の思考のベースというか現在地点です。



少しずつ思考は前に進んでいますがこの先は、大きなアプローチとして、ちょっと道がよくわからずに暗中模索状態です。ちなみに、この上でいうスパイラルがどんどん進んでいったのが現代で、僕の友人が言っていたんですが、ここで最後まで取り残される層や、途中で完全に、このスパイラルの中で上昇志向を目指すことに意味も意義も見出せなくなるのが、ずっと前に宮台真司さんが「脱社会的存在」ってやつなんだろうと思うんです。社会にインボルブされる動機が喪失される。そして、それは社会への同化ではなく、世界への同化を求める。前にも書いたけれども、この『異自然世界の非常食』の選択肢は、画期的なものだと僕はおもっています。脱社会的存在を彼は、二種類に分けました。 「社会に害をなす脱社会的存在」と「社会にとって無害な脱社会的存在」。で、要は社会へ参加する同化する意義を見出せなければ、社会からつまはじきにあっても、「世界」を生きるという方法があるっていっていたんですが、、、、それって具体的にどういうことかよくわからいませんでした。黒沢清監督とか青山真治監督や岩井俊二監督がこの辺の映画をいくつか書いていましたが、僕にはやはり社会からの視点で、社会に同化できない何かを描いているように見えてるんですが、、、、どうしても補助線が、社会にあるように見えて、それは具体的ではないなーーって当時思っていました。けど、『異自然世界の非常食』は、とっても具体的で(笑)ああ、この辺の方向に答えの一つがあるのかーと感心しました。


『異自然世界の非常食』 青井 硝子著 めっちゃグロテスクで目が離せません(笑)。これ、凄いSFですね。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150418/p1


異自然世界の非常食 1


とはいえ、この先はいまだ暗中模索。世界への側のアプローチと同時に、そうはいっても、「社会をなかったことにする」=「世界に生きるアプローチ」は、ある意味、禁じ手の一つだろうと思うんですよ。禁じ手というか、そっちに行っては見も蓋もない(笑)。もちろん選択肢としてそっちの探索ももちろん必要だし、そういうアプローチによる全体感の拡大が、新しい問題解決の方法に光を当てるんだと思うんです。でも、、、社会の側の方策も探さなきゃいけない。まずは。



けど、、、、やっとここに到達したいんですが、このことについて、明確なアプローチ方法として、浅田次郎さんが言っていることが、まさにまさに!と思ったんで、僕は凄い感動したんです。自分が本能的にしていたことと、ばちっと結びつきましたし。


【浅田】歴史を学ぶ目的は、現在の自分の座標を確認すること、つまり「いまの幸・不幸は誰によってもたらされたのか」を知ることにある。日本人は「この不幸は誰のせいだ」と考えがちだが、同時に「この幸福は誰がもたらしてくれたのか」を確認しなくてはいけない。このとき注意したいのは、歴史を善悪で語ることだ。善悪で語ると、戦前の日本は悪だという一面的な見方にとらわれてしまう。歴史に成功と失敗はあっても、善悪はない。


日本はいま、戦前と同じ道を歩んでいるのか? −作家 浅田次郎
http://blogos.com/article/111128/

端的な答えはないんですが、自分が歴史を、自分のミクロの人生と接続するような理解の仕方で学ぼうと強く動機があったことが、なぜか凄い納得できました。


ちなみに、この記事には出てきませんが、浅田次郎さんのこの本を読むと、僕が自分の歴史認識として思っていることがまさにまさにてきて、感動しました。さすが、『蒼穹の昴』を書いた人だ!と。


それは、歴史を見るときに、イデオロギーや善悪で語らない。様々な角度で見る、、、具体的に言うと、(1)自分の敵だと思う側の視点を見る、(2)マクロではなくミクロ(個人)の属性で多様な立場から事実を集める、というようなやつです。



そして、このエッセイは、それがまさに具体的に展開します。読んでいて感動しました。これだ!これがみたかったんだ!!って。



まぁ、そこは上の文章と話が少しずれているんですが、ようはね、上記の様々なテーマが僕が本を読んだりする時にあるんですよ、日本の高度成長期を支配した(今も支配する)ランキングトーナメント勝利至上主義的な思考をどう解体して、次の時代にの成熟(幸せになる方法)を探すか?とか、人生は勝って生き抜かなければならないが、その自立、独立的な競争の社会にエントリーできないニヒリズムルサンチマンをどういう風に救済すべきなのか?、また、救済する必要性があるのか?。・・・・これにはもう明確な答えが出ています。救済しないと、社会のサスティビナリティが失われるので、しないとだめなんです。しかしながら、社会に対しての態度で差があって、社会に対して敵対的で害をなす場合は、排除する、衆目は完全に一致しています。社会に参加意識が無く、しかし、社会に対して無害なものは、ミクロの上では特になにもしない。また、一人の個人のなかに、勝ち組と負け組は、いろいろな次元で存在していて、何かの価値で断罪することは、結局人の個人の尊厳を壊すことなのだ、というのわかってきました。またちなみに、いま現時点の人を救うことはできません。社会的にマクロの流れを変えて、そういう人を生み出さないようにすることができるベストで、いま現在はもう救えないんです。いま現在は、自分で自分を救う以外はないんです。


とかとか、、、話がダラダラですが、こういうアプローチ、さらに具体的にどうするかは、歴史から学んでいくべきなんです。「いまの幸・不幸は誰によってもたらされたのか」ということは、歴史のつながりを考えていかないとわからないし、対処方法も見つからないんです。特にマクロから見ないと、話になりません。解決方法は、ミクロでは自己責任と自助努力しかならないからです。そこを超えて救済を考えるならば、マクロ支店で歴史を考えて、アプローチを考え出さないとだめなんです。



ということで、これからも、こつこつ歴史を勉強していこう!と思ったペトロニウスでした。



さて、以降余談というか具体的なことです。

──日本は近代化に成功したが、その後、多くの犠牲を出す戦争に突入してしまったことがわかる。「どこでボタンを掛け違えたのか」と思ってしまう。
【浅田】どのルートでいっても同じ結果になったのではないか。当時の資本主義は植民地経営を前提にしていた。植民地なしでも資本主義が成立するとわかったのは、第二次世界大戦で大きな犠牲を払った後だ。当時、列強と肩を並べることは、植民地支配される側からする側に回ることを意味する。その考えから朝鮮併合が起きたし、「ここまで国土が広くなるとソ連が攻めてくるかも」という恐怖感から満州国をつくった。ところどころで歯止めをかけるチャンスはあったが、大きな流れを見ると、運命的だったと思う。



──幕末のペリー来航以降の日米関係を長期的な視点でとらえているのが面白い。
【浅田】日本はGHQ占領政策アメリカ化したと考えている人が多いが、それは間違いだ。日米関係が始まったのは、1853年にペリーが来航してから。1858年には日米修好通商条約が結ばれ、アメリカは日本にとって最恵国待遇の国になった。じつはペリー来航の1カ月後にロシア艦隊がやってきたが、もしロシアが先に着いていたら、最恵国待遇を受けたのはロシアだったかもしれない。

アメリカが先に来たのは運命のいたずらにすぎないが、それから約160年、太平洋戦争の4年間を除けば、日本とアメリカはずっといい関係を続けてきた。1945年9月、東京湾ミズーリ号が来て日米が降伏文書に調印を行った。そのときマッカーサーの後ろに掲げられていたボロボロの星条旗は、ペリーが乗ってきたサスケハナ号に掲げられていたものだった。あの星条旗を掲げたのは「これだけ長い歴史の間仲良くやってきたじゃないか。水に流して元に戻ろうぜ」というマッカーサーのメッセージだったと思う。

僕この辺の視点が、、、、自分でめまいがしそうなほど、感動しました。


一つに、日本の明治維新以後から1945年までの、あの最悪のカードを引き続けるような出来事は、回避可能だったのか?。オルタナティヴな道があったのか?とずっと考えていたんですが、浅田さんぐらいの積み上げがあってなお、彼は、


どのルートでいっても同じ結果になったのではないか。


というんですね。このどこのルートというのが、平行世界(エロゲー?)になれた僕の思考から、いろいろな平行世界の可能性を考えても、これはないんだ!というような感覚になって、おおーーーーーと感心しました。




また、日本における右翼的な視点を考えるときに、必ず二つの視点が出てきます。それは、(1)反米と(2)反中国です。日本が、自立して生きていくには、日本有史以来常に、この二つのスーパーパワーとどう相対するかが重要だからです。なにも、反、じゃなくてもいいんですが(笑)。ようは、この二つとどう付き合うかが大事。



僕は、自分としては、過去の歴史を見て、自分の祖父や自分の生き方を見ても、アメリカとの同盟が正しいと思っていたんですが、日本とめちゃくちゃ戦争しているし(笑)日本の世論には根強い反米意識があります。いやなにも日本だけではないんですけれどもね。何しろ国力が圧倒的なので、付き合うと、どうしても屈従の関係にならざるを得ないんです。けど、うん、なるほど、、、、150年、、、日本は米国ととても仲がいいんです。これ、よくよく考えてびっくりしました。たしかにそうだなって。もちろん国力の桁が違うので、対中国ともそうなんですが、日本が圧倒的に従属的な立場になってしまうというジレンマを、どう解決するか?がこのことを考えるときに重要なことになると思います。


アメリカに来てセンスオブワンダーだったんですが、アメリカにおいて、歴史の連続性があるんですね。日本と比較すると、アメリカは、当然、1945年に断絶がない。なので近代国家としての近代史は、圧倒的に日本より長いんです。この連続間で近代史を眺めると、実はぜんぜん違った風景が見えます。日本が、異様に1945年に断絶がある特殊な世界の見方をしているんだって、凄く思います。



日本を、そういうふうに眺めて見ると



この二つは、僕にとっては、歴史を考える上で、素晴らしい知見でした。


いやー浅田次郎さん、素晴らしい。



ちなみに、この文章の大意というかいいたいこととは、ぼくは、このブログで何度もいっているように、特に教会やセグメントなしに、いろいろなものを楽しみたいと思ったときに、どういう大きなトレンドや流れがあるんだろう?という文脈を探して、一見つながりのなさそうな事柄の間にある「つながる文脈」みたいなものを見出したいと考えています。


そのときに、ぼくはサブカルチャーライトノベルやアニメ、ファンタジーなどが好きでそれに戯れて人生を生きることを決めているわけなんですが、こういうのをずっと読んでいると、、、特に、日本は平和がないことや、大きな高度成長の物語の終焉、技術的イノヴェーションよる断絶が生まれなくなって、すべての物語というかものの見方が永遠の日常的な、日常的なるものに回収される傾向があると思うのです。


そして、人間はえてしてとても飽きやすいこともあり、こうした大きな文脈が生まれればそのカウンターとして、たとえば、大きな意味でのSF作品などが好まれるというようなことが生まれると思うんです。ちなみに、にもかかわらず技術的なイノヴェーションの断層が大きくない、、、いいかえれば、今は発想されたことはほとんど実現してしまう時代なので、頭では思い描けるんだけれども、技術的に格差があってなかなか到達できないという事柄が凄く少なくなっている時代だと思うんですね。なので、SF的な想像力がなかなか物語を供給できないジレンマがあるとぼくは思っています。なので、ここをブレイクスルーできたら、すっごい売れるというかSF作品ができると思うのですが、、、なかなかです。


そして、永遠の日常の個別の人間関係に物語や見方が収斂してしまっているということは、マクロ的に物事を見る、言い換えれば歴史的に物事を見るというざっくりとした視点が失われていることでもあります。なので、物語は現実を反映しますので、なかなかサブカルチャーの分野では、出てきにくい傾向があると思うのですが、ぼくは歴史などを勉強したりすることがブームになるのではないかなというトレンドを考えてしまいます。逆張りです、すべては(笑)。人間、無いものが見たくなるんですよ。


それと、最近の資料の傾向を見ていても、ひとつの時代が終わったんだなーと思うのは、意外にいろいろ新資料や、新しい視点が出てきている気がするのです。これは、たぶん地政学的な構造というか、歴史のステージが新しい段階に入ったので、1945年以降の冷戦とその後の価値観では物事を評価できなくなった現実が直にあって、それに反映して、過去の時代が相対化されたんだろうと思います。いままでは、大日本帝国のころの話とかは、まだ歴史というには生々しかったんですが、それが歴史になり遠くなりつつあるので、逆に冷静にいろいろな見方ができるようになってきたんだと思います。特に東アジアは、ここ200年以上、この地域の覇権的支配者である中国がほとんど力を失っていたという特殊事情から、それが通常状態に戻りつつあるので、すくなくともここ200年ぐらいのこの地に住む人にとっては、初めての出来事が訪れはじめているわけです。なので、歴史って、今熱いんですよ。


いろいろなことに構造があって、たぶん直接的には、現在の日本の環境では、永遠の日常を生きるミクロの日常の関係性を扱ったものでないと、通常の一般人は理解できないし感情移入できないと思うんですよ。けど、だからこそ、それに慣れきってしまえば、それに対する不満や閉塞感が出てくるわけで、振り子がふれるようにSFや歴史にテーマや人気が移る「わけではない」と思うのですが、しかし構造上、こういう全体像があるわけで、、、、、たとえば、このブログはクリエイターの人がたくさん読んでいると思うんですが、ミクロの視点から描くものって相当で尽くしてしまって閉塞してしまうと思うんですよ、、、、だからといってマクロにいっても共感できない時代の感性がある、、、けれども、ミクロは飽きた、、、、という中で、何をどうするかは、腕の見せ所だと思います。ただし、それをするためには、もちろんマクロやSF的な科学技術的な知見とかがないと、なにもできません。



ということで、最近ぼくのお奨めは、歴史を勉強しよう!、SFを読もう!という感じです。



終わらざる夏 上 (集英社文庫)