戦前の日本の何が問題だったのか?悪かったのか?をちゃんと見据えないとだめだと思う。

実質的な意思決定を行なったのは(全体状況の見えない)現場の将校と課長級の官僚であり、彼らをあおったのは右翼の直接行動と新聞の戦争報道だった。東條も、そういう「空気」に押されてずるすると戦争に引きずりこまれたのだ。このような下からの現場主義で戦争が決まったため、議会はほとんど関与できず、大政翼賛会でさえ近衛文麿が失脚したあとは無力化した。

つまり日本の軍国主義は、ヒトラーのようなファシストが主権者としての議会を乗っ取ったのではなく、行政をコントロールする主権者を天皇という形骸化した君主にし、各行政機関をタコツボ的に細分化したため相互監視もきかず、軍が暴走してしまった行政国家の病なのだ。

今も行政を監視すべき国会はほとんど機能していないので、それを代行しているのはメディアだが、それは30年代のようにポピュリズムに走り、行政のゆがみを悪化させることが多い。当時のファシストに似ているのは安倍首相ではなく、慰安婦報道や「プロメテウスの罠」のようなデマで民衆を煽動する朝日新聞である。

http://agora-web.jp/archives/1643585.html

挫折したファシストがよみがえる
池田 信夫

ぼくはなるべく現実主義者でいたいと思っているし、政治に関係の無いパンピーなので、イデオロギーの論争をを考える気はあまり無いんですが、ものを考えるからにはいくつかの仮説というか、やはり信じているポイントが必要なんですよね。特にプラクティカルには、やっぱり日本以外の国と取引しているビジネスマンとして、日本以外の土地からどう見えるか?、日本というものを、日本人というものをどう説明するか?は、どうしても現実的に必要となってきます。特に海外に出て仕事をしていると、自分のちっぽけさや、語学力など、さまざまなもので、自尊心が失われていく傾向があって(笑)、海外に出た人や海外と常時接する人は、どうしても自分を日本人である!ということに強いアイデンティティを持つ傾向があります。持たないと、自己卑下の塊の劣等感とコンプレックスで身動きが取れなくなります。なので、学問的な厳密さではなく、大枠で、日本人とは何か?とか、日本とは?という部分で、ある程度の知識がいると思うんですよね。自分で、俺は日本人だ!とプライドを持とうと思えば、歴史の知識が無いければ、物凄く根拠の無い虚構になってしまいますので。あと、海外で主張するからには、それなりの知識と、相手がどういう文脈で見てくるかに対してのディスカッションというか受け答えができないと、これも意味がなくなってしまいます。まぁ、日本人は幸せなことに、根本的に国が豊かで飛んでいること、また海外にかかわっている日本人の普通の人々が、総じて非常に立派な振る舞いをしている人が多いので、現実的に日本人が嫌われる場面というのは、ミクロ的には、よほどのことが無ければないと思います。そういう意味では、イデオロギーとか政治力学が絡まない限り、世界中で日本人は、とても好かれている感じがします。



とはいえ、歴史の知識を背景に抑えて、日本人であること、日本を、説明しようと思えば、大きなポイントとして、先の戦争(WW2)は何であったのか?の総論は必要だと思うのです。歴史は勝者によって道徳的に支配されやすいので、善悪で論じるのはイデオロギー論争になって無駄だと思うので、そういうことは意味がありません。だけれども、まったく勝てそうもない戦争に突き進んでいったこと、、、、いいかえれば、負けたことは、反省せねばなりません。いや、別に勝つべきだったとかそういうことではなく、そもそも収束できる見込みもない手段に暴走していったことは、日本は、なぜそんなことをしたのか?のメカニズムの説明、理解把握、そして、それの国民的な意識の共有(教育ですね)は必須だと思うんです。


池田さんもいっていますが、歴史学の最前線では、日本にファシズムがあったかというと、ほぼそれはなかったという見解がコモンセンスです。なので、ファシズムとか体制翼賛会を責めるのは、日本を間違った道に誤らせたくないのならば、ほとんど意味がないワードであり見解です。では、戦前の日本の何が問題だったか?というと、総じていくつかのピントがありますが、


1)トップに責任がなく、現場レベル(=全体像を見ていない)が暴走して意思決断する構造


これは広く憲法レベルの欠陥から、あらゆる日本的な意思決定や組織のあり方に、いまだ根強く残っていて、まったく直されていません。自衛隊のが統合運用された指揮系統を持ったのも、確かほんの10-20年位前だったはずです。日本の組織はみんなこの悪癖を色濃くいまだ残しています。なので、日本に求められるは、通説とは逆で、いかに強いリーダーを生み出すか?、なのです。またリーダーが機能できるように、一般国民にいたるまで、リーダーに従い、リーダーとして振舞うことの大切さ、、、、常に自らがリーダーシップを取るべきで、取れない場合は、全体のリーダーシップが機能するように貢献できる振る舞いをすることが、日本にとっては凄く大事なのです。たぶん、普通の人が感覚的に思うこととの逆です。日本の問題点は、独裁者がまったく生まれないような、権力の頂点にある空白が問題のですから。



2)「空気の形成」によって現場レベルの支持を打ち出す。空気は、大マスコミが主軸になって形成されていく。


これもぼくが常々思っていたことなんですが、日本の最も悪いことは、空気の形成によって、1)の現場レベルの暴走を際限なく肯定していって、歯止めがかけられなくなることです。日本は、現場に権力がありすぎるのが問題なんです!。日本の企画系の職種の暴走(たとえば大本営とかそういうの)も、企画系の責任も取らない下っ端が暴走して、全体を見ずに物事を決めるのでおかしくなるので、企画系そのものが悪いわけではないんだと思うんですよ。なので、いかにリーダシップが完結して発揮されるような組織デザインにして、かつそういうものにコミットする人間を教育するかが重要なんだと思います。これは、通説で言われやすいことと逆です。現場の意見は聞くな!ということですから。性格には現場の意見を取り入れるのは当然なのですが、それぞれの組織の部署ごとの識見(責任)が無い人々の暴走を許すなって意味なんですけどね。んで、日本社会の国の舵取りの誤りは、現場が暴走していくことを、マスコミが煽りまくって空気を形成して、国民的な支持を与えてしまうことにあります。



過去の日本の何が悪かったか?というと、近代国家の建設の過程で、こういうう文脈を持ったにもかかわらず、それをリデザインできていないことにあるんだと思います。明治憲法も欠陥が途中ではっきりしてきた(大体30年持たないものみたい)にもかかわらず、不磨の大典としてそれを変更することができなかったがゆえに、時代に合わなくなってめちゃくちゃになりました。そして、この1)と2)の構造は、戦後の日本にも色濃く残されて、まったく改変されませんでした。


日本の歴史をずっと見ていると、これは相当自信を持ってもいいほど素晴らしいものだと思います(この辺は、いろいろ本を紹介していますよね)。また日本人も、素晴らしいと思います。近代化の過程も、今現在のわれわれの豊かな暮らしを見れば、総体として、かなりいいところまで先人ががんばってくれたがゆえに、このような平和で幸せな生活が営めるのです。戦争でめちゃくちゃだったのは、昭和のほんの短い数十年だけで、特に狂っていたのは数年だけです。それだけですんでいること自体が、近代100年の歴史を見れば、いかに凄いことか、われわれの先達たちが、見事な国家運営をしてきたかがわかります。他の国の歴史を見れば、わかるでしょう?。日本人は、素晴らしいと思います。これは、事実なんですよ。そうでなければ、経済力が世界で2-3位のレベルに今いないですよ、国が滅びておいて。しかし、そうはいっても、過去に建国した近代国家を、日本は一度滅ぼしているわけです。その時代の原因は、国民的合意で共有されて、国や日本人のあり方を変えていかなければならないと思うんですよね。


それがなにか?といえば、池田さんがいあっていることがまさに、だと思います。歴史学の最前線を見ていても、日本の戦前に悪かったのは何か?というと、ほとんどは国民なんですね。なので、サンフランシスコ条約や戦後の周辺諸国や米国と共有している、軍部が暴走したというのは、うそではないですが、実は一部しかいっていないのです。軍部の暴走を支えたマスコミのあおりと国民の支持があるんです。あの時は、日本を滅ぼしたりめちゃくちゃにしないため(米国の冷戦のとりでにするためとか)にああいう物語を作りましたが、大マスコミと右翼のテロによって形成された国民的合意の空気、またそれを押しとどめることのできない制度的な欠陥、特に憲法のりデザインができなかったこと(エリートや指導者の器によって時代の空気を押しとどめることはできないのだ!)によって、日本は暴走していったのです。この部分を共有しないと、間違った攻撃をして、まったく国が良くならないどころか、迷走しておかしくなると思ういます。まずは、この事実に戻ることが重要ですよね。この事実の分析、解析を通して、何をどうプラクティカル変えれば、批判すれば価値があるのかを考えなければ、まったく現実的ではないと思います。今の日本の原発の問題とか年金の問題とか、構造的には戦前の空気による暴走とぼくはそっくりに見えます。