『Straight Outta Compton(2015 USA)』 F. Gary Gray監督 African-American現代史の傑作〜アメリカの黒人はどのように生きているか?

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■黒人初のバラクオバマ政権発足後のアメリカ社会の静かなる変容

ノラネコさんが、African-American現代史の文脈で強くお薦めされたので、これはいけなければと思って無理に時間を作って見にいきました。日本ではこの時点ではまだ公開未決定だそうで、これほどの傑作、しかもアメリカでは大ヒットしている作品が、日本で公開されないというのは、非常に悲しいです。そういえば、結局のところ大傑作のアニメーション『DRAGON2』も公開されませんでしたね。サブカルチャーの共有というのは、グローバルシティズンにとって、自分たちと、同胞だ、同世代だ、同じ価値観を持つんだと感じられる素晴らしいヘリテージなので、なるべくこういうずれはあってほしくないと思います。ましてや、これほどの傑作。


Straight Outta Compton (原題)・・・・・評価額1700円
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-858.html
ノラネコの呑んで観るシネマ

How to Train Your Dragon 2 海外版 (Blu-ray+DVD)

いまブログを書いている現代2015年。アメリカ社会は、僕が20年前に大学でアメリカのことを勉強したときと比較して、信じられないほど変容しています。多民族国家として、人類のフロントランナーにいるアメリカは、本当に外からでは見えにくい基礎的な部分が、まるでそれ以前と変容し続けています。この強烈な変化は、1960年代の公民権運動に端を発するアメリカ固有の文脈と、世界のグローバル化の視点による多様性が価値を持つ時代になった文脈が組み合わさっているもので、リベラリズムを基本軸とする近代国家の基本フォーマットなので、地域文脈とタイムラグこそあれ、日本でも必ず起きてゆく現象です。また人類の行く末を見るときに、とても興味深いものがあります。


それを端的にいうと、アメリカでは2009年大統領に黒人が選ばれました。また、2016年の大統領選の最有力候補として、ヒラリー・ロダム・クリントンがいます。東アジアでは歴史認識問題として、従軍慰安婦の問題がスポットライトを浴びていましたが、このことと、アメリカにおける女性の権利に対してのセンシティヴさは、まるで文脈が違っていることを理解しないと、とんでもない誤解が生まれやすくなると思います。特に、公民権運動から発するリベラリズムの展開として、女性やマイノリティに対しての権利拡張に、アクセルを踏み込んでいるアメリカ社会の現実を知らないと、非常におかしなディズコミュニケーションが発生してしまいます。また、なんらかの権利の拡張というのは、必ずしも既得権益の反発とゆり戻しを生むものなので、アファーマティヴアクションやポリティカルコレクトネスの経緯を見るとおり、アメリカは何でも極端に行き過ぎる傾向があります。なので、こうした超大国の固有の文脈に敏感であることは、大事なことなのだと思います。


President Obama's Election Night Victory Speech - November 6, 2012 in Chicago, Illinois

話が行き過ぎましたが、オバマ政権発足後、オバマ政権が何をやったかというと、いまいちよくわからない感じの華々しくない大統領なんですが、逆に言うと外交よりも内政重視で、じわっと内政の変化は既成事実がつみあがっているように僕は感じます。たとえば2015年4月に司法長官に指名されたニューヨーク連邦地検(東部地区)のロレッタ・リンチ検事正(55)が上院で承認されていますが、黒人女性で初ですね。こういう事実性の積み重ねって、じわじわ効いてきてくると思います。

これらの影響を受けてだと思うのですが、African-Americanを扱った傑作の映画が、たくさん生まれているように感じます。やはり黒人初の大統領ということもあり、African-Americanのルーツなどを再確認する作業が進んでいるのではないかともいます。『大統領の執事の涙』(2013米)『12 Years Slave』(2014米)などは、本当に大傑作です。またアメリカの歴史を知らないと少し理解が難しいですが『Selma/グローリー/明日への行進』(2015米)そして『Straight Outta Compton』(2015米)と、通してみると、18世紀から現代までのAfrican-Americanの足跡が深く追えるようになっています。同時に、映画としてもエンターテイメントとしても、素晴らしいのは、このジャンルが成熟してきたことを示していると思います。先ほどで言った、アメリ現代社会の変容は、公民権運動をルーツとするリベラリズムの社会での浸透です。そしてこの強烈な軸であり、最も見通しがしやすい物語が、黒人社会の歴史です。なので、多様で複雑なアメリカを理解するために、ぜひとも、これらにあげられた映画を順番に見ていくことをお薦めします。


President Obama Speaks in Selma

とはいえ、『Straight Outta Compton』が現時点(2015/9)日本で公開予定が無い、というのもわかるのです。なぜならば、2014年8月のミズーリ州ファガーソン事件(マイケルブラウン射殺事件)以降のアメリカ社会を揺るがし、連日報道される(日本ではほとんど報道されていないと思います)黒人の命に関するプロテスト、暴動の背景が、たいていの日本人には、まったく理解できないからなんだろうと思います。文脈や背景が理解できなければ、物語はまったく理解できません。『12 Years Slave』は、奴隷の人生を体験するというある種ののファンタジーとしてみることもできますし、『大統領の執事の涙』に関しては、アメリカの大統領を軸とするアメリカそのものの現代史、アメリカ史としてみることも可能です。『Selma/グローリー/明日への行進』は、さすがに偉大な指導者であったキング牧師のあり方を見ることができる。

『ヘルプ 』(原題: The Help 2011 USA) テイト・テイラー監督
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130114/p1

『Lee Daniels The Butler/大統領の執事の涙(2013 USA)』アメリカの人種解放闘争史をベースに80年でまったく異なる国に変貌したアメリカの現代史クロニクルを描く
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150207/p1

それでも夜は明ける12 Years a Slave(2014 USA)』Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150120/p1

大統領の執事の涙 [Blu-ray]

けれども、ギャングスタ・ラップ(Gangsta rap)の伝説のグループ、N.W.A.(Niggaz Wit Attitudes)では、そうでなくとも、背景がまったく共有されていないですし、たぶんこういう文脈を抑えていないと、何が描かれているのかが、まったくわからないと思うのです。そもそもが、ギャングスタ・ラップ(Gangsta rap)だけではなくラップ自体が日本ではマイナーだと思いますし、この音楽が黒人の魂の叫びとして出てきたことの背景は、ほとんど理解されていないと思います。というか、そもそも黒人ゲットーのような過酷な環境で隔離されて、希望がない状態で殺し合いに明け暮れるような、先進国での都市のスラムの日常なんて言うのは、日本ではほとんど想像できないんだろうと思います。


Everything We Know About the Shooting of Michael Brown by a Ferguson, Missouri Police Officer

ですから、このブログは、普段はあまり映画そのものの説明よりも感想や批評になりがちですが、今回はなるべく丁寧に物語を追って見たいと思います。そして、その後に、この黒人ゲットーの問題が、この物語三昧での分析の文脈である永遠の日常二度のように接続されていくのか、どのように関連を持って眺めることができるのかを、見ていきたいと思います。



■まっすぐCompton(黒人Getto)から出てゆくことの難しさ

タイトルの『Straight Outta Compton』とは1988年にリリースされたHIP HOPのアルバムからきています。ノラネコさんは、この作品を実録青春群像劇と評していますが、現在、音楽家や俳優、実業家として業界に大成功しているドクター・ドレーアイス・キューブらの青春時代からの栄光と挫折の自伝となっています。これは今は亡きイージー・Eを主人公格に据えて作られて群像劇の形式になっており、仲たがいしてバラバラになったメンバーが再結集して、プロデュースしていることも興味深い。

Straight Outta Compton by N.W.A. 【並行輸入品】

この映画を見ている時に感じていたのは、これが何の物語なのか?ということでした。なぜそんな問いが強く生まれるかといえば、この黒人の若者たちの日常が、あまりに僕ら日本人の生きている平穏な日常からかけ離れている暴力とドラックと売春に満ち満ちた、中世の復讐法が生きているような万人の万人に対する闘争のような、野獣の空間なのです。自分が住んでいて、非常に目になれているアメリカの都市の風景でなければ、ファンタジーとしてしかとらえようがないような、あまりに経験のない世界だからです。なので、日本人の1980−90年代というバブルの絶頂期から低成長で何も変わらない郊外空間での真っ白な世界で、「きっと何者にもなれない僕ら」という自意識の空虚さを感じて生きている息苦しさと全く違うような気がしたからです。けれど、その大きな違いにもかかわらず、一つ強烈にシンパシーというか共有されるなと思われるのが、「ここからでていきたいが、どこへも行けない」「この日常が永遠に続いて行く」「閉じ込められてどこへも行けない」という絶望でした。これは永遠に終わることも抜け出すこともできないスラムの日常を生きている黒人の若者たちの、ここから出て行きたい!、この悲惨な現実を世界に叫んで知らしめなければならない!という熱いほとばしりを強く強く感じました。ちなみに、黒人英語はその独特で強いアクセントとほとんどかなり激しい方言のようなもので、聞いていてもかなりわかりにくかったのだが、白人のプロデューサーや報道機関の人間のインタヴューアーなどが喋り出した途端普通に理解できるので、自分のヒアリング能力以前に本当にかなり違う言葉なのだ、と強烈に感じました。ここで、outta = out of なので、まっすぐComptonを出て行く、って意味です。


では、この「ここから出て行きたい!」ということの背景がどういうものなのか?


黒人の置かれている貧困の状況がひどいことや彼らの住むGettoが相当ひどいことだということはわかるでしょうが、なぜそうなのか?どういう構造を持っているか?などは、それを住んで経験していない、われわれ日本人いはなかなか理解がしがたい。また、この空間に生きていることがどれほどの尊厳を奪われることなのか、というのも、なかなか理解できないと思うので、少しアメリカの都市空間の構成について、補助線として説明してみましょう。




ゾーニングによる社会の分断〜同じ国に、都市に住んでいても共有されない現実

まずは、アメリカの都市がどのように建設されているかの歴史と構造を追ってみると、黒人ゲットーの現実が非常に具体性を帯びます。

話は、2007年にアメリカで話題になったIkeaがスポンサーになった『America At Home』の写真集から始まります。全米50州の普通の家庭にアマチュアカメラマンが入りこんで撮影するという企画です。ここで著者が強調していること、そして多分アメリカ人自身がこれを見て感じたであろうことは、多様性です。ちょっとHPのサンプルを見ているだけでも、その多様さに驚かされます。しかしながら、著者が言うように、この多様性は、たとえば日本人がアメリカに来て郊外の裕福な中産階級の住宅地に住んでいては、まったく実感することができません。アメリカは、とりわけこうしたゾーニング的な、住む場所からライフスタイルの在り方が異なると、その他の生き方がほとんど見えなくなっています。もちろん、あまりに多様すぎることや階級の差が大きいことから、少しでも見ないで済むように設計されているといっても過言ではないのかもしれません。現代で出てきたゲーティツド・コミュニティ(入口に監視員がいて大きな壁や仕切りで囲まれた住宅地。フィリピンなどで駐在員や富裕層のために作られたセキュリティ重視のよく見られる形態の住宅地)などもそうした意識が濃厚に出ています。ちなみに何も考えず当たり前だと思っていましたが、僕自身も郊外、特にエグザーブ(郊外のさらに外側に位置する郊外)のGated Communityに住んでいます。そこに住んで、州間高速道路(FreeWay)でダウンタウンに車で通勤する生活は、まさにこの多様性から切り離された無菌的な中産階級の生活をしているわけです。オフィスと高級住宅地のゲートコミュニティに住んでいては、もちろんのことこの多様性に触れる機会が極端に少なくなるわけです。


見えないアメリカ (講談社現代新書)



『見えないアメリカ』 渡辺将人著 選挙を通してみるアメリカの多様性と統合
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150408/p1

アメリカの都市は、まずDownTownと呼ばれる中心部が最初の入植時に何もない砂漠や草原に建てられて、それがどんどん外側に広がっていくという成り立ちが基本です。また、非常に特徴的なのは、その時に、Freewayという無料の高速道路によって、どんどんできて広がっていく郊外の住宅空間が接続されていることです。これは、鉄道や地下鉄などが発達している西ヨーロッパや東アジアとはまるで違うアメリカに特徴的なことです。この異常なまでの車社会の感覚は、住んでみないとわかりません。ちなみに、NYだけが特別に地下鉄などが発達していてとても東京の移動感覚と似ており、日本人がもっともたくさん駐在しているNYをみて、アメリカを分かったつもりになると、まるで見当違いになります。あれがアメリカの中で極端な例がいなので。さて、都市中心部の外側に郊外住宅地ができて、そこに金持ちが移り住んでいうことになります。さらにその外側の車で1時間以上もかかるようなエグザーブ(郊外のさらに郊外)に広がっていくという構造になります。この時に重要なのは、なぜ郊外に金持ちが、もっとはっきり言ってしまうと、白人の中産階級が大挙して出て行くかというと、アメリカは移民の国というのもあり、都市中心部には受け入れた移民ごとや民族ごとのコミュニティーが構成されて、そのコミュニティーが、新たなる移民を呼び寄せていくので、街がどんどん貧乏人であふれることになるのです。新規の移民は、ゼロからのスタートなので、お金がないものなんです。この過程で、アイルランド移民、イタリア移民、ドイツ移民など白人の移民たちは、メルティングポットといわれるような白人中産階級として吸収され、差異がわからなくなっていきます。この民族など出身国によって、都市のテリトリーを争い合うような、日本でいうと渋谷のチーマー的な?というか、イタリアのマフィア的なな構想は、たとえば、マーティンスコテッシ監督の『ギャング・オブ・ニューヨーク(Gangs of New York)』(2002USA)を見ると、最初期のアメリカの白人たちの差異が明確であったころの姿が見ることができます。

GANGS OF NEW YORK

豊かになると、メルティングポット機能が働いて、アメリカ人になってしまうので、出身ルーツによる記号の差別が、ただの文化的記号になってしまうんですね。これは、エグザーブ(最外延部の郊外の郊外)に住む人々を見ると、よくわかります。ここには、そもそも金持ちしか来れないので(土地と家が凄い高い)、一足先に金持ちになった人が、民族などの出身ルーツに関係なく、移住してきます。なので、サラダボウル上になるので、群れにくいのですね。あと、日本人、韓国人、中国人なの度の東アジアのお金持ちの移民は、アメリカ移民史の中では特殊な移民で、最初からハイスキルかつお金がある状態で移民してくる率が圧倒的に高いので、いきなり最高級住宅地に住みついてしまうんですよ。なので、エグザーブは、意外に東アジア人や成功したヒスパニックも多く、これまたアメリカっぽくなります。とすると、どうなるのか?というと、Downtownの高層ビル群の勤務地と、エグザーブの高級住宅地を、Freewayで結んで、「そこ」しか見たことがない人が出てくるんですよね。では、このDowntownとエグザーブの間にあるところがどうなっているか?ということなんです。

つまりは、お金があると、どんどん郊外に逃げ出していくということは、お金がなくて郊外に脱出できない人や民族などのグループが、そこに居ついてしまい、さらにそのせいで、中産階級とりわけ白人が外に出て知ってしまうという悪循環が生まれるわけです。具体的に言うと、本作の舞台となるコンプトンは、ダウンタウン・ロサンゼルスの南側で、治安の悪さでは有名な旧サウス・セントラルの南東に位置します。トーランスの北東ってところ。アメリカの大都市圏らしく、SouthBayの治安がよくて住みやすい郊外、エグザーブとダウンタウンを挟んだところにあります。ちなみに、コンプトンは、全米一危険なところとの称号がある街だそうです。部外者が昼間でも入ると、まず撃たれて死ぬとかいわれています。典型的なインナーシティで、ゲットーな町なんだけど、なんでかっていうと、LAX(ロサンゼルス空港)の着陸の軸線上にある町で、このあたりの上空で飛行機が旋回して待機したりするので、騒音がすさまじく、人がどんどん出て行ったらしい。そして出て行けない黒人が集中して住むようになったそうです。ちなみに、John Singleton監督の『Boyz N The Hood』(1991USA)は、ロサンゼルスのサウスセントラル地区を描いた話ですね。

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このように都市の発展の歴史で、エアポケットというか吹き溜まりというか、ある種その空間に隔離されているような空間の中に、特定の人が住んでいる状態になっているわけです。特に黒人は、その奴隷の歴史なの中で、プランテーションのオーナーが管理のしやすさのために、一か所に隔離して住まわせた経緯から、一族が深く結びついて、成功しても離れて暮らさないという傾向が強く、黒人が一人いると、どんどん集まってきてしまうがために、少しでも住民は黒人を排除しようとする暗黙のルールも存在するようで、例えば白人が多い高級住宅地では、誰かが家を買おうと調べに来ると不動産ブローカーが住民たちに知らせて、住民たちで先にお金を出し合って買ってしまって、買えないようにするなどということがよくあります。特に黒人、African-Americanは、集中した箇所に暮らす傾向が強いようです。



■アフロアメリカン現代史の傑作として位置づける〜現代の黒人はどうのように生きているか?

では、この黒人ばかりが住む隔離された空間はどういうところなのか?

僕は、『大統領の執事の涙』(2013米)『12 Years Slave』(2014米)で、日本人になじみの薄いAfrican-Americanの歴史を概観してきました。けれども、これを見ていても一つ抜けているところがあって、それは現代の黒人がどんなところに住んで、どんな生活をしているか?って部分です。African-Americanの現代史のクロニクルを見ていくうえで、ここが重要なのはわかります。

まず、とても衝撃的なのですが、この黒人Gettooの凄さというか、抜けられない悲惨さは、アメリカの平均寿命が75歳ぐらいだとすると、Gettoでは35歳といわれています。ほぼ発展途上国と同じ寿命ってのをみると、いかに貧困などが構造的にすさまじいかがわかると思います。これがわからないと、この映画やギャングラッパーたちの音楽、African-Americanの暴動や2014年8月以降のミズーリ州のファガーソン事件に発するBlcak Lives matter(黒人の命だって大事だ)の叫びの意味がぜんぜんわからないと思う。

なぜ、そんなに平均年齢が低いのかといえば、この成長から切り離され、隔離された地区での重要な産業は、ドラッグ、売春であり、当然のことながら若年層の失業率は非常に高い。なので若者たちがグループを形成して、そのグループ間で日常的に抗争しているのです。マフィア、ギャングの世界だと考えればいいと思います。ここでは、復讐法が生きている万人の晩に対する闘争のような世界で、誰か自分のグループのものが殺されれば、復讐でそれをやってグループの人間を殺す、という循環が延々と続いており、そのため若者がどんどん死んで行くため、平均寿命が引き下げられていくことになります。アメリカで、こうしたダウンタウン周辺の場所は昼間でも車でさえ足を踏み入れた瞬間に、ここはやばい!と感じるようなピリピリした雰囲気が漂っており、外部の住民は絶対に足を踏み入れません。

そしてそれ故に、この地域を巡回する警官は、ギャングたち以上に緊張しており、そこにいる黒人はすべて犯罪者であるように振る舞います。撃たれる前に撃ち、歩いている黒人はまず叩きのめして、這いつくばらせて武装解除しなければ、自分たちが殺されるからです。ファガーソン事件でも、丸腰の黒人少年が警官に射殺されましたし、1992年の4月に起きたロサンゼルス暴動は、ロドニー・キング事件と韓国人店主が、丸腰の黒人少女を泥棒と勘違いして背後から射殺したラターシャ・ハーリンズ事件がきっかけになっています。なぜ、このような無法とも思えるような、射殺事件が起きるかといえば、撃たなければ撃たれるような危険な地域で治安業務に従事している警官や、その賃金の安い地域からグローサリストアをはじめていた初期の韓国系移民が、怯えるような防衛意識で起こしたであろうという、その地域特有の背景を知らないと、まったく理解できないものになってしまうでしょう。ちなみに、このある特定地域の荒廃を知らないと、なんで治安が全体的にはいいアメリカであんなふうにギャングが殺しあっているのかがわからなくなってしまうと思うんです。1989年にスパイク・リーが監督nの『Do the right thing』などもおすすめです。これらのアメリカの緊張状態がわかると、ポールハギス監督の『クラッシュ』(2004)で描かれた皮肉が深く感じれるはずです。

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クリント・イーストウッドの『グラントリノ』も、もともと治安がいいダウンタウン住んでいたはずの主人公のおじいさんが、長い年月が過ぎた後、自分が住んでいる地域がアメリカとは思えないような荒廃したギャングの殺しあう地域になっているのを憎々しげに見ているのですが、それもこれを知らないと意味がわからないと思うんです。全部が荒廃したわけではなく、豊かな地域、住みやすい住宅街が郊外にうつっていったんです。なので、郊外は、素晴らしく治安が良く豊かなアメリカンウェイオブライフの世界なんです。

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しかし、それにしても、このStraight Outta Comptonで描かれるコンプトンの日常は、黒人の青年や子供たちにとって、信じられないほどの自尊心の破壊をもたらすのだ、というのが、見ていて痛いほどわかりました。イージー・Eが主人公格で描かれるのですが、スクールバスでちょっと調子に乗った男の子たちが、そのバスの隣の車に暴言を吐いてはやし立てた後、いきなりその車がバスの前に急停車して、降りてきた黒人が銃を構えながらバスに乗り込んできて、舐めた真似をするなと怒り狂う。たぶん、映画では撃たれなかったが、これで殺された人もたくさんいるのでしょう。スクールバスに乗っていた子供たちは、竦んで誰一人動けなくなる。また、歩いているだけで、、、特に若かりし頃のイージー・Eは、なんとなくギーク、オタク的で内向的な、何かの怒りを詩に書いているような青年で、なんとなくぼやっとしている感じの、それほど激しいタイプの人間には見えません(役者はすげぇそっくりで驚きました)。その彼が、ただ歩いているだけで、白人警官に殴りつけられ、手を頭に上げて、地面に叩き倒されます。何の理由もなく、ただ歩いているだけで、家の外に出ただけで、こうしたことが日常に起こります。見ていて、これらのことがどれだけそこに住む子供たちの、若者たちの自尊心をめちゃくちゃに破壊していくかは、胸に迫るほどでした。特にイージー・Eが、暴力的で激情に流されるタイプの怒り発散が型でないために、それが内に内に深く沈み込んでいくことを、深く体験していきます。この怒りが、音楽に爆発していくのです。

12 Years Slavesでは、主観体験型の一本道の脚本とカメラワークを絶賛しましたが、この作品は、群像劇であって3人称でとられているにもかかわらず、同じように主観体験をしているような気分に凄くなったのは、このコンプトンという黒人ゲットーの自尊心がめちゃめちゃに破壊されて、抱えた怒りがどこへも出て行けないくらい暗い思いを持つ、すべてのAfrican-Americanの若者の体験を感じさせるからだと思います。そういう意味で、現代の荒廃した都市に生きる黒人たちがどういう思いで日常を生きているか?ということがAfrican-American現代史の位置づけとして、見ることができると思うのです。

彼らには、この永遠い殺し合いが続くクソみたいな日常を抜け出すための方法がありません。唯一の道がギャングになることですが、なったとしても、別にコンプトンから出て行けるわけではなく、その生態系の一部となっていつかは殺されてのたれ死ぬだけなのです。そこでイージー・Eは、それを詩に書き留めるわけですが、この出口のない地獄での、やり場のない思いの出口として音楽を自己表現に選んでいく様は、まさに、African-Americanの歴史だと思うのです。モータウンの女性シンガーも、ジャズやブルースのミュージシャンも、皆同じです。よく、ラップなどの黒人音楽の魂の叫びはその背景を知らなければ理解できない、といわれますが、まさにそうだろうと思います。形だけ移植しても、全く似て非なるものでしょう。まぁもちろん、文化の移転や模倣は、それで十分なので、それがどこが悪いかとは思いますが、まったく背景が違い過ぎるということは、日本的な文脈との違いでは押さえておくべきポイントだと思います。

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ドリームガールズ』 ビル・コンドン監督作  アメリカの音楽の歴史教科書みたい
http://ameblo.jp/petronius/entry-10041454952.html

彼らが、音楽という自己表現を得て、成功の階段を上っていくときに、真っ直ぐにコンプトンを抜け出していくときに、fuck the policeと叫び、抑圧に対する抵抗の意志を表明する時、それは強烈な体制への反逆者になります。また暴力の強烈な肯定は、近代社会のルールへの挑戦です。彼らが全国ツアーで、やはり抑圧されている人々の、黒人や白人の垣根を超えて共感を得ていくときに、警官やジャーナリズムなどに強烈な批判にさらされます。いわく、秩序の破壊者である、と。ギャングやドラック、暴力を称揚するのは、おかしいのではないか?と。こうした態度を見せられ、ジャーナリズムに詰問されるときに、彼らはいらだちます。もちろん、若さゆえの過信や盲目さ、表現の拙さもあるでしょう。けどそれよりは、このコンプトンの日常で、めちゃくちゃに自尊心を破壊されてきたことを体験している観客も同時に、思います。これは、別に反逆でも何でもない。これは、彼らが過ごしているただの日常を描写しているにすぎないんだ、と。白人のジャーナリストがきれいな英語で質問をする時に、大前提として、彼らには、中産階級の幸せで満足のいく清潔で秩序だった帰るべきところが存在している。その安全圏が世界のすべてだと思いこんだ上で、それを破壊するものとして、黒人たちを詰問する。けれども、それは嘘なんだ。その安全な中産階級の生活世界のすぐ隣には、彼らが危険視するようなギャングが抗争する地獄が併存しているのだ、それが胸に突き刺さるように伝わってきました。だからこそ、ギャングスタラップといわれるこの過激な表現手段が、白人や黒人の垣根を超えて、抑圧されている現状の閉塞感い苦しむ人の大きな支持になっていくわけです。N.W.Aというグループ名は、“Niggaz Wit Attitudes”の略ですが、態度の悪い黒人とでも訳すのでしょうか。しかしこれは、態度の良い白人、成功して郊外の中産階級化している人々との対立として表現しているということでしょう。


■成功して駆け昇っていくうちにバラバラになっていく絆の再生

少し本筋それるのですが、とても気になった点があります。一つは、このグループを見出して売り出すことになる白人プロデューサーのジェリー・ヘラーのエピソードです。結局のところは、お金のことで彼と揉めて、N.W.Aの移籍や脱退などのお決まりの醜聞を描くことになるのだが、そうした、ある意味かつての敵を描く描写の中に、何ともやるせないせつないエピソードが描かれていたことです。一つは、何もないところ力もないイージー・Eに出会った時に、ジェリー・ヘラーは「君の才能は特別だ!」と叫ぶのです。お決まりの口説き文句かもしれませんが、その後のギャングスタラップの昇竜のような駆け昇り方を見ていると、この時の彼の審美眼は凄いものがあったと唸ります。また、あのコンプトンで、黒人など人間以下のような扱いを白人警官がするのが日常の世界で、真摯に対等な人間として、才能があるアーティストとして丁寧に遇しているジェリーの姿勢は、僕には驚きを感じました。またその後、成功してトーランスでレコーディングをしているときに、ちょっと気分転換に外に出てきたN.W.Aのメンバーを危険視して、警官が地面に這いつくばれと命令します。その警官の中には黒人警官もいて、白人に迎合するこれらの黒人警官を彼らはオレオといって蔑むのですが、それが故に、白人よりいっそう手荒い姿勢を持って同じ同胞に臨みます。そうしたなかで、白人警官が、こんな黒人どもは何をするかわからない危険な奴らだ!と叫ぶのを見て、白人のジェリーは、「なにを言う!、彼らはアーティストだ!」とケンカ腰で突っかかります。警官は銃も警棒も持っているので、それ以上は何もできない中、ジェリーはおろおろ立ち尽くします、、、、自分は白人なので伏せろとは言われません、、、そもそもトーランスは治安がいい場所です、、、そこでジェリーは、困ったような苦しいようなせつない表情で、「彼らはアーティストなんだ、、、」と半泣きになりながらつぶやきます。僕はこれがとても切なく感じました。結局は移籍話やお金の配分などでもめて、ジェリーは首になります。でもだからといって、何もない絶望の日常に生きるN.W.Aを見出してメジャーへの道を開いたのは彼で、彼が白人と黒人という枠以上に、音楽に携わるアーティストとして彼らを見て、絆を抱いていたことは感じ取れます。人間は、不思議な多面体で、何か一つだけでその人を表すことはできないのだろうと思います。基本的に黒人の抑圧されたものからの批判の視点で、且つ、ジェリーは、N.W.Aの脱退したメンバーからすれば裏切り者の様な敵なわけで、それにもかかわらずこういうエピソードを挿入しているところにとても品格を感じる映画に感じました。


もともとがギャングとほとんど変わりないような出身ですので、メンバーの脱退、離脱後の関係は複雑です。ノラネコさんは、これを『ジャージー・ボーイズ』に例を上げながらたとえてましたように、若さゆえの傲慢、行き過ぎ、過信が彼らの作り上げてきたものを壊していきます。しかし、上記のジェリーのエピソードもそうなのですが、これはすべてが終わった後から、描かれている作品で、その後の絆の再生を背景に描かれています。彼らコンプトンから真っ直ぐ飛び出した若者たちの青春の旅は、グループのリーダーであったイージー・Eの、HIVによる感染による死で終わりをつげます。見ていてあんなに仲が悪かったのに、と思ってしまう部分はありますが、この映画の旅をずっと寄り添ってきた観客は、なぜ彼らがいきなり情緒たっぷりに絆を取り戻していくのかは理解できます。それは、彼らが原点を思い出したからです。ロサンゼルス暴動に出会い、もう一度彼らの原点に戻った時に、彼らは彼らの日常を見ないふりをしているやつらに、ぶつけて告発することがその出発点だったことを思い出しており、それをもう一度、と思いだしたその刹那でした、イージー・Eの死は。彼らにとって、ここで青春の傲慢なまでの無鉄砲な旅は終わり告げたのです。彼らも、それなりの年齢で、家族も持ち、そして何よりも次の世代に何かのバトンを渡すべき時になったのです。その時に、もう一度原点に帰ってこのComptonの青春の時代を、彼らがどこから来て、どこへ向かおうとしたのかを描くのは、非常に通りにかなったことだったと思います。そういう意味で、大人になった彼らが再度原点を見つけ直して、その道筋をたどる青春ムービーであり、そしていまだ色あせることなく価値を放ち続ける彼らの告発の原点をAfrican-Americanのこの数十年の歴史を振り返りながら辿る素晴らしい映画になっています。これは本当におすすめです。このComptonの絶望が永遠に続くように思われる日常の風景を体感できなければ、アメリカの現代は、たぶん全く理解できないことでしょう。

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ちなみに、N.W.Aのメンバーすべてが、これだけ才能にあふれるメンバーがそろっていたことが、興味深かったです。通常日本のバンドなんかは、メインボーカルが歌詞も作曲もやって、彼だけに才能が集中しているケースが多い気がする。それで、いろいろ音楽性の違いだの理由はあるにせよ揉めて、バラバラになっていくんですが、このN.W.Aのメンバーは、メンバー全員が、特別な才能があるのがびっくりでした。映画俳優としても成功しているアイスキューブもいれば、ドクター・ドレーなんて、アップルにBeats by Dreが買収されたの億万長者ですよ。Beatsのヘッドフォン、凄いかっこいいですよね。知らない人いないですよね、Beats。僕はこれを見ていて、こんなに才能があるメンバーが、機会を与えられればこんなにも排出するのかと驚きを禁じ得ませんでした。

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映画の感想は、これで終わりです。次からは、このブログを長く読んでいないとさっぱりわからないので、読んでいない人は読まないほうがいいです。



■抜け出すことのできない永遠の日常の絶望の中で

さて、African-Americanの歴史を追うという文脈の中で、『大統領の執事の涙』(2013米)『12 Years Slave』(2014米)『Selma/グローリー/明日への行進』(2015米)『Straight Outta Compton』(2015米)という作品を紹介してきました。この記事でも、その他『Help』や『Do the right thing』『Boyz N The Hood』『ドリームガールズ』『クラッシュ』などを紹介しましたが、このブログの趣旨通りより深く物語を体感するには、見る軸を持ってより勉強していくと、より深い理解を感じることができると思います。ぜひとも、日本人がほとんど知らない、African-Americanの歴史を知るという文脈で、いろいろ見てもらえれば、きっとアメリカ映画の理解もさらに深まり、映画が面白くなると思います。特に、現代アメリカの理解に、African-Americanの歴史は主軸の一つであり、繰り返しですが、普通の日本人には全く体感できないものなので、ぜひとも意識してみられるのをお勧めします。ああちなみにここではあげませんでしたが、『ハイヤーラーニング』や『パンサー』『フォレストガンプ』などもこの文脈ではおすすめです。

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さて、ここまでは、病めるアメリカを観るのカテゴリーでの文脈読みです。ちなみに、このカテゴリーは、僕はアメリカが病んでいるからつけているというわけではありません(じゃあつけるなよ、といわれそう(苦笑))。アメリカという国家の強みは、実験国家であること、未来に歴史があるとランドルフボーンが喝破したように、未完であることを踏まえて前に進んでいく推進力をその国家の基本原理に内包していることです。なので、巨大な国内に全く正反対の方向の勢力や現象が同時に存在して、それが、巨大な振り子のようにいったりきたりします。その過程の、振り切れた極端さの一点を見ると、世の中の普通の国からすると考えられないような現象が起きるので、その部分が極端い病んでいるように見えるので、こういうカテゴリーを作りました。ようは、他の国には理解できないような極端な現象が起きる国なのです。ちなみにこの国の凄さは、止み方もすさまじい半面、その自浄作用も本気で極端にふれるところです。そのバランスがこの国の凄さなのです。ちなみにもう一つ加えておくと、実験国家というのは、この国が理念によって形成された国家であり、それが故に、「現実の積み重ねの事実性」ではなく理念によって訴えて、実験によって生活空間のそこまでを根こそぎ変えていこうとする力学が働いているからです。


実験国家アメリカの履歴書―社会・文化・歴史にみる統合と多元化の軌跡


先に書いたように、アメリカのAfrican-Americanの歴史は、日本人には理解しにくいものです。ここまで極端な奴隷制が長期にビルトインされていたり、人種間の対立が長きにわたって深刻に継続していたり、にもかかわらず黒人の大統領が生まれてしまったり、長い歴史のある日本やヨーロッパよりも過激なリベラリズムの人々が生きる生活空間への極端な浸透など、ちょっと体感的には理解不可能なものが多いからです。なんといっても似たようなものが日常の生活世界になければ、人は理解するのが困難です。なので、よくラップや黒人音楽などの形を日本に取り入れると、形だけで魂が全く理解できていないという批判をよく浴びるのでしょう。でもまぁ、それは不可能ですよね。だって身の回りに似たものが全くないんだもの。なので、僕も、これらの共通点は全くないものなんだな、と思っていました。


けど、物語三昧の様々な文脈の中で、90年代以降の日本のサブカルチャーの領域で、非日常から日常へ回帰していく過程で、永遠の日常に安らぎを見出していく流れが観察できました。それまでの強い動機に追われるように生きる、あらゆる極端なトラウマやそれへの反動の強い上昇志向やモチベーションを解体して、そこから脱出していくという流れが見えました。いろいろ細かい流れがありますが、『新世紀エヴェンゲリオン』から『けいおん』へという流れで平均化できると思います。

そうした中で、これらの強い動機が解体されていくことと、高度成長期の成長が正しいことである!という命題が崩れ去っていくこととの同期を、このブログでは見てきました。そうした動機が解体され、薄れていく過程の中で、同時に、何か目的に向かって生きていくような強い志向性を持った生き方が「できない」悲しさを、どうも新しい世代では感じるようだと僕は思っています。それは自分自身にも当てはまり、ようはこれ以上どんなに頑張っても、マクロが成長していかない環境の中に生きていれば、それが報われる確率は限りなく低いわけで、そうしたなかで、頑張っても報われないことはある種の定常状態であり、そのことへの絶望が、ある種のやる気LESS世代を生み出しているようなんです。このやる気が磨滅して、希望が見いだせないことへの恨みが、いわゆる動機が壊れた、社会参加の動機を持たない層なのではないか、と僕は考えています。ちなみに、これらの層は、時代の変わり目に生まれる一過性のものなので、あと10年もすれば消えていくと思われます。単純に、古い成長至上主義が成り立った団塊の世代と、新しい低成長が基本となったデジタル中世的な世界の永遠の日常を常識とする世代の、間のエアポケットだからです。まぁエアポケットといっても、1世代分30年ぐらいは支配する力なので、無視はできませんが、2010年代にほぼ消えていきそうな印象を僕は思います。1980-2010年代くらいにいる、ちょうど僕の年齢のぐらいの団塊のJrぐらいの世代の話なんだと思います。けれど、むしろ、重要なのはその先の世代。なぜならば、既に低成長、事実上の成長が亡くなった世代の中で生きる世代の方は、既に絶望を絶望として考えるのではなく、それこそが定常状態の常識として「永遠の日常が終わることがない」という「ここから出ることはもうできない」という諦念のなかに生きることになり、次の世代の、それも長く続く感性として、ここの分析が重要なのではないかと僕は思うのです。

「ここ」からみると、団塊のJrぐらいの成長しないことへの絶望を生きるアノミーなやる気LESS世代への回答は至極簡単です。ようは、きみら(=ぼく)は、絶望が足りないんだよ、ただ単に高度成長なんていく、マクロ的にみんながほぼ報われるような奇跡の時代は、二度と来ないんで、ちゃんとあきらめられていない君が甘いんだ、で終わりです。経済学を見ていると、人口に相関性のある成長がもう確実に終わっているんだな、、、特に日本ではそれが強烈であることが、もうはっきり見えます。今後50-100年の日本のトレンドは変わりようがありません。なので、そこへの処方箋は、簡単です。あきらめろ、しかありません。頑張れなければ、淘汰され無視されて社会からはじかれるだけです。

では、次に重要なのは、このマクロ的に成長することがないデジタル中世的な低成長の世界で、永遠の日常を生きるとはどういうことなのか?ということです。まだこの辺りはよくわかっていません。なぜならば、デジタル中世という言葉にもある通り、これは中世(=過去に時代が戻り、すべての成長が止まる)というわけではありません。日本以外のというか、グローバル規模では成長は継続するのです。先進国のような成長が停滞している地域と、高度成長でガンガン進んでいく新興国と、グラデーションがあるだけであるので、高度成長している世界はあるのです。また人類の最先端フロントランナーの企業群や組織は、これまでの時代ではありえなかったような超高高度の成長を継続していくはずです。その一方、グローバル経済のリンクを限りなく遠ざけて、できる限り閉鎖系のシステムで安定するような世界が形成されて、アメリカにおけるアーミッシュのような価値を守る共同体ごとの共同体としての独立維持をするようなものと別れていくのではないかと、思っています。


またもや話がずれ過ぎましたが、こうした補助線を入れると「永遠に続くであろう自分が埋め込まれた世界に対する脱出の怒り」というのは、実はこれからの大きな時代のテーマになるのではないかと思うのです。なので、僕は、アーミッシュなどの伝統を維持する共同体と、その外との格差の問題について非常に興味を持っています。このあたりは、ハリソンフォードの『ジョンブック目撃者』ぐらいしか映画がないので、残念です。ああでも、グレイズアナトミーとか現代ドラマでは定番でいろいろありますね、この手の話。アメリカでは普通なんですよね、これ。ワシントンDCとかにいくと、よく旅行でいっぱいきていますよ。アーミッシュの集団が。

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そしてもちろん、アメリカにおいて、成長から忘れ去れたかのように取り残される黒人Gettooもです。ここにおいて、日本における永遠の日常が「永遠に続く」ことに対して、そこに埋め込まれた世代は、どう感じるであろうか?ということは、僕は非常に興味があります。この補助線によって、希望と絶望、永遠の日常の継続からの脱出という項目が、僕にはコンプトンから出て行きたくなった若者たちの狂おしい叫びと重なります。いまのところ日本は、極端な貧富の差は、存在しません。傾向的に、マイルドヤンキーというような言葉に代表されるような地方と大都市の生活スタイルの差が大きくなっているものの、それ自体が、生活のクオリティオブライフに直結して、かつ「そこから抜け出すすことがほぼ不可能」なほどにはなっておりません。それが、どうしようもな貧富の差になって格差、階層、階級になっていくのか、それとも、緩やかにどっちにでも行けるようなつながりを持ったままのバランスを絶妙に維持するのかはわかりません。ちなみに、ここでもっとも日本にとって例となるのは、イギリス、大英帝国の衰亡の歴史だと思っています。また特に、現状は、サッチャー政権下の英国に起きた現象がもっともモデルになるのではないかなぁ、と思っています。『トレインスポッティング』とか『ブラス』、『リトルダンサー』とか、炭鉱の町の衰亡の歴史とかああいうのです。そう考えると、現代史におけるイギリス史のポジショニングは、やはり重要なのだな、と今更ながらに唸りました。極端なことを言えば、アメリカより進んでいるわけですから。先ほど「永遠に続くであろう自分が埋め込まれた世界に対する脱出の怒り」というのがありましたが、これはいろいろなパラフレーズが可能で「希望がない永遠に続く日常を楽しむ技術」でもいいわけです。ようは、自分が生まれてしまった空間時間に閉じ込められる傾向が、これからの世代は強くなっていくのではないか?と観察されるからです。しかし同時に、グローバル経済と人類の発展は、同時にとどまることを知らないはずです。そういった文明の中の全く異なる傾向を持つ生活圏がどういう風に接続されるのか、そういうのとても興味があります。などなど、いろいろインスパイアしてくれる素晴らしい映画でした。おすすめです。

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