学校共同体のなかでスクールカーストの最下層でも、成長を本気で目指して失敗した断念を抱えても、それでもぼくらは。

イチゴーイチハチ!(1)   (ビッグ コミックス〔スピリッツ〕) (ビッグコミックス)

頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?
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さて、この記事の流れを読むと、やっと、ぼくがなぜ、相田裕さんの最新作が、素晴らしいというのかが、わかると思います。既に『バーサスアンダスロー』の評で、この断念の話はしているんですが、当時は読んでいる人も唐突になんで断念が重要なのかってのは、よくわかなかったかもしれません。でも、こうしてこれまでのライトノベルのフォーカスしたテーマの文脈を丁寧に読み取っていくと、主人公になれない灰色の日常で、それを受け入れていくことというのは、まさに、何かを「断念」することにほかならないとは思いませんか?。


前回の「頑張っても報われない、主人公になれないかもしれないことへの恐怖はどこから来て、どこへ向かっているのか?」という記事で、リア充じゃなくても、物語の主人公じゃなくても、動機がなくなってしまったからといって、それですべてが終わりじゃない。むしろそれは、とても当たり前のことで、そんな人を駆り立てるマクロの背景があった時代のほうが特別であって、むしろ「動機の無い、やる気の無い、物語の主人公じゃない」自分を受け入れて日常を生きていくことが、それが、あたりまえのことなんだ、という結論でした。


僕は、ここで平坂読さんの『妹さえいればいい』を、そうした自分が主人公でないことを受け入れていくと、日常が楽しいというような書き方をしました。


これは、ある種、事実です。ようは、苦しみは、リア充でなければいけない!といった同調圧力の脅迫観念から来ているものだからです。

妹さえいればいい。 (ガガガ文庫)


でも、じゃあ、受け入れたからといって、日常がキラキラ楽しくなるのかといえば、そんなことはないんですよ。


キラキラ日常が輝くのは、やっぱり自分の物語を生きて、成長に向かって全力疾走しているときだけなんです。


ここでいっているのは、灰色の日常をどうやって受け入れていうか?ということなんです。


そして灰色の日常は、そりゃあ灰色なんですよ。受け入れたからって、人生の本質的なつらさや孤独は変わることはありません。


そこで、重要なことは、そうした灰色の日常、、、いい返れば物語の主人公になれない自分を受け入れながら、運によって訪れてくる物語の主人公になるときをいかに待つか(死ぬまで来ないかもしれません)という話なんです。


しかも、自分が物語の主人公になれないと受け入れることは、それは、断念です。


ぼくが、永遠の日常の先に来る物語は、断念の物語だといったのは数年前。やっと、ロジックが全部つながって来た気がします。


それは、断念を受け入れて、世界が自分のためにあるわけじゃない、自分はいつでも主人公になれるわけじゃないのが、他者がいる世界なんだってことを、深く受け入れていくという、人間存在にとって当たり前のことを自覚的に受け入れていくことが、成熟につながることなんだと僕は思います。このことを思い出す時、僕はずっと忘れられない文章があります。池澤夏樹さんの『スティルライフ』の最初にある詩です。

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。


世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。


きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。


でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。


大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並びたつ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。


たとえば、星を見るとかして。


二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。


水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。


星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。


星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。

スティル・ライフ (中公文庫)


僕は、ずっと高校生の頃から、これを思っていました。水の味がわかるような人間になりたいってことです。


ちょっと詩的な表現になってしまったんですが(笑)、このことのロジックは、僕は、評論家の中島梓さんと心理学者の岸田秀さんの本で学びました。人間は壊れたラジオのようなもので生まれてくる。ちゃんと修理しないと、この世界に流れるたくさんの素晴らしい音楽や物語を聞くことができないんだ、と。水の味がわかるってのは、このちゃんと修理することなんだな、と僕は思っていました。ここで重要な気づきは、修理したりチューニングしたりする努力なくして、人間は正しく世界を受け止めることができない存在なんだということでした。


そして、栗本薫さん(中島梓さんと同一人物です)の物語の世界にある強い倫理として、苦しんだ分だけ人間は、価値ある存在になるというメッセージは、たとえそれがどんなに低い地点、マイナスからのスタートであっても、そのために自分をかけて戦うことは、より高い地点に生まれつく人の努力と比較して、何ら卑下することではないということでした。このことは、ぼくに強い誇りをもたらしたような気がします。


中島梓さんが『小説道場』で、変わっていかない人間を描いた物語は、下品だというようなことを、あまり人を強い批判をしない彼女には珍しく強い口調で書いていたのを見た時に、ああ、首尾一貫しているなぁと思ったものです。人間が成熟していくためには、自分が物語の主人公ではないという断念を自覚しないと、世界に自分一人しかいない唯幻論の世界に閉じ込められることになり、僕の言葉で云うナルシシズムの檻に囚われたままで人生を過ごすことになるからです。


そして、それは、恵まれている人、何の疑問や壁もなく生きる人の方が、より困難なことなんです。栗本薫の小説の中で、何もかもに恵まれている人を見て、何もない主人公が、ああ、あの人は世界に自分しかいない。そしてそれに気づくこともなく人生が過ぎ去ってしまうんだ、とつぶやくシーンをどこかで見たのですが、僕もそれにはとても共感します。僕はこの世界の美しさや気高さは、残酷さや悲惨さを知ることをなくして、成し得るとは思いません。

新版 小説道場〈1〉


さて、話が難しくなりました。ということで詩的に言うと「水の味がわかる」ようになりたい。では、もっと具体的にはどうやって?


様々なアプローチがあるのですが、この文脈では、そもままこのブログのメインテーマであるビルドゥングスロマンの成長物語の文脈の基礎にある、ナルシシズムの檻から脱出するというテーマとそのまま重なることになると思います。Basic Skillのカテゴリーもそうですし、ずっとそれが僕の人生のメインテーマなので、このブログの過去の記事にたくさん溢れているとは思うのですが、こんな読みにくいブログの超長文をいちいち読むのもしんどいと思うのですので軽くダイジェスト的に。


中学生、高校生の頃の僕が、どうしたら、この何もない自分を持てあます自分から、外に出ることができるだろう?と考えたときに、最も参考になったのは、ゆうきまさみさんの大傑作『究極超人あーる』でした。1985年から1987年にかけて連載された(昭和60年34号〜昭和62年32号)もので、もう30年近く前になる作品ですね。しかしながらこのテーマ、内容は、現代でこそ!通じるといっても過言ではないぐらい素晴らしいもので、ゆうきまさみさんの力の抜けた画風と合わせると、いま読んでも最先端の物語に見える、不思議で偉大な作品です。

究極超人あ〜る(1) (少年サンデーBOOKS)


春風高校という東京都練馬区の桜台と羽沢の間にある架空の町・諌坂町(いささかちょう)を舞台に描かれるスクールライフです。ここで描かれたテーマは、しびれるほど今でも輝きを放つもので、それは目的がない人生をどう楽しむかってことです。そして、重要なことは、たぶんかいた作者も、中に描かれるキャラクターたちも、そうした自意識のナルシシズムの病に全くかかわりがないってことなんですよね(笑)。ここでは、80年代以降の自意識の病であるナルシシズムのいやらしさが全く存在しないんです。だれも、まったく目的意識がなく、いまを楽しんでいて、この「いまを楽しむ」というテーマにありがちな、いいかえれば「先のことは考えない」というような裏のテーマもないんですよ。ただ単に、この日常が永遠という臭みのある表現を使うまでもなく、ずっと続くという意識があるんです。読んでみれば、よくよくわかると思います。そして、これは同じく都立の高校で青春を過ごした僕は、強い既視感をもってこのことをもいだします。そういえば『1518』を読んでいてすぐ思い出したのは、会計になった曲垣剛くんです(笑)。彼も中学の全国大会で優勝した野球のピッチャーですよね。でも、なんとなく、、、、彼には断念すらなく、そのまま光画部に入ってしまいます。


ここで描かれていることは、物語の主人公になるような成長のビルドゥングスロマンの物語でなくとも、人生は楽しく騒げるじゃないか、ということです。光画部の行動にはほとんどまったく大きな目的が存在していません。別に写真部で大会で、優勝するとかそういうものもまったくありません。意味不明にいく撮影旅行とか、戸坂先輩の無駄に修学旅行についていくところとか。もう、なんというか、意味不明すぎて(笑)楽しそうでたまらないんです。


僕は戸坂先輩を見ていて、本当にしみじみ思ったものです。


意味不明なことでも本気でやって人に迷惑かけていると、なんか楽しいんだなって。彼だけではなく、周りも、戸坂先輩が作りだす意味不明の場に、巻き込まれて行きますよね。そしてそれが、部活ってかたちでずっと続いているんですよね。彼らが卒業した後も。卒業した後顔を出してくるよくある迷惑なOBやOGですよね。


重要なのは、すかしてみないことなんだ!と僕はそこで悟ったんですよ。


斜にかまえて、こんなことやる意味がないとか、そういう先回りを考えてはだめで、とにかく、何でもやってみる、コミットしてみる、、、、やることがなければ、テキトーなことを思いついたら全力で、それが意味不明で価値がなくても、、、というかなければないほどいいかもしれません。やってみる。ここで重要な気づきは、もし目的に囚われた人生の奴隷になっている人は、むしろ無駄だと思えること、意味不明なこと、やると損なこと程いいんだってことです。意味不明なことに、死ぬ気で斜め上を行くような気持ちで全力でコミットしてみることが、自己の解放をもたらし現状にブレイクスルーをもたらすことなんだって!ていうプラクティカルな気づきです。ちなみに、僕はこの後、委員会でも何でも、やったら損と思えるようなこと、意味がなさそうに思えるようなことを、全力で頑張っていくことで、すかしてみないで世界を眺めていると、世界が少しづつ色鮮やかになっていくんだってことがわかりました。そして、無駄なことによって達成された「僕はやった!という自信」と「周りの人間がなんでそんな損なことやっているの?」という他者からの視線が、自分のステージを変えて、次にやる時にまるで物語の主人公のような、意味も価値もある難しいことにコミットして結果をもぎとっていく方法が、なんとなくわかり、なんとなく身の回りに訪れるようになった気がします。本気で何かをやっている人は、それが意味不明なことほど(笑)運をひきよせるようになるんじゃないかって、いまの僕は思います。人生は、運です。引きこもるの、リア充になる勝ち組になるのも(この手の言い回しはもう手垢にまみれましたが・・・)運次第の部分が大きくあります。やる気、動機は、ほとんど運によって設定されるものだからです。努力の問題じゃないんですよ、内発性は。でも、じゃあ、その運をどう引き寄せるの?という視点は重要だと思うんです。何もしていなければ、マイナスのことしか訪れません。何もなければ、何かを作りだすしかないんです。その何かは、なにもそんな大それたことでなくてもいいんだろうと思います。


この『究極超人あーる』という作品がバブル真っ盛りの頃に書かれたというのは、いやーゆうきまさみさん、凄いです。というか逆にそうだからこそ、本当のリアルライフって、こういうものだぜって、見せたかったのことかもしれません。バブルでブイブイいわせている人の人生が、いいかえれば究極のリア充のような金と成長にあふれた生活だけが、正しさではなく、そうでない生き方だって、いくらでもあるのだ。


この作品は、エポックメイキングな作品で、その後の自意識に縛られて、それがどんどん解放されてい行く様を描くことになる『げんしけん』などと比べて皆が見ると、興味深いです。木尾士目さんは『四年生』『五年生』から読むととても感慨深い。

げんしけん(1)

ちなみに、ひぐちアサさんのこの辺の作品とか、その後の『おおきく振りかぶって』などをみると、この時代の自意識の縛りのきつさ、それが解放されていく過程を見れるので、興味深いです。

ヤサシイワタシ(2)


また、『究極超人あーる』の凄いことは、たぶんきっと、けっしてこの春風高校は偏差値も高くそれほどないし、先輩たちが務めている仕事も、グローバル!(笑)とかにかかわりのない地元の役所や中小企業なんですよね。ようはこれって、スクールカーストが意識されていないんですよ。何かの序列や、世間で成功されているのはグローバルエリート!とかになることで、それから逆算して人間の価値の序列が決まっていくように見えることがみじんも入っていないんです。物凄くリラックスしてみんな生きている。


1980年代に書かれて、それが現代の2010年代の到達点の部分ととても重なってくることは、とても興味深いと僕は思うです。


さて、断念でしたね。『究極超人あーる』は、現在の到達点とほぼ同じことを描いています。けれども、別にこの30年間まったく無駄で戻ったわけではなく、テーマは深化していると思うんですよ。たとえばひとつは、やはりそうはいっても、成長すること、ビルドゥングススロマンに人生を乗せることは、凄いキラキラする世界を人にもたらすもので、そういうチャンスが来た時に、それを取らないというのも、また僕はおかしいんだと思います。なので、人間の人生というものは、成長を目指しては断念して、というサイクルを描いていて、その大きな流れの中で、断念も成長も等しく受け入れていくことが、とても安定している充実を生むんだということ。断念をこじらせて受け入れていくことでも、またそれは豊かな青春だってこと。これは『僕は友達が少ない』で描かれていたことですよね。

僕は友達が少ない<僕は友達が少ない> (MF文庫J)

また、断念と成長のサイクルには、後悔というキーワードが生まれます。なんであの時もっと頑張れなかったんだろう!という後悔が、人をさらに成長させていくからです。丁度のこの後悔の話は『響け!ユーフォニアム』でしていましたね。

響け!ユーフォニアム石原立也監督  胸にじんわりくる青春の物語
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150807/p1

響け!ユーフォニアム 1 [Blu-ray]

ちなみに、この断念がさらに行きつくことは、日常の中で生と死を等分に自覚しながら生きていくことという文学的なテーマに行きつくのですが、ここまでいってしまうと、ちょっとエンターテイメントを超える感じになりますが、それを非常に安定して描いているのは、吉田秋生さんですね。彼女の『吉祥天女』『カリフォルニア物語』から系譜を追うと、この話は凄い長くなりますが、やはりいまはこれですね。

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃 (flowers コミックス)


まぁこのテーマはいろいろな分岐を生んでいるのですが、もう一度シンプルに断念と成長のテーマを考えてみましょう。成長だけを目指していることが全肯定されている時代が終わり、断念が描かれるようになりました。その断念を抱えて、どうそれでも生きるのかというのは、まさにいま最先端の相田裕さん『バーサスアンダースロー』で『1518』で描かれていることです。けど同時に、僕は時代がビルドゥングスロマンに戻ってきていると思っているんです。新世界もののポイントである、この世界の残酷さをストレートに見せて予定調和を排するというのも、ではそれが過ぎれば次に何をするか?という問いになるはずだからです。そして、人間が成長を目指すということは、やっぱり人間の性だし、それ以上にキラキラすることはないと思うんです。ただ、過去のようにお気楽に、能天気に、予定調和的には、信じられない。そのなかで、成長を目指す峻厳さ、厳しさをどう描いていくか。また同時に、大きくテーマとして出てきた、動機がないこと、才能がないことを前提として、それでも君はいかに戦うか?ということがテーマに上ってきました。

ちはやふる(27) (BE LOVE KC)

典型的な成長を目指すビルドゥングスロマンがなぜか、ぼくには最近、少女漫画に多い気がします。最近めちゃくちゃはまって読み返している『ちはやふる』ですが、ここで僕はいつも真島太一のことを思い出します。彼は、スーパーリア充というくらいなんでも恵まれているんですが、残念ながらカルタの才能だけはないんです。けど、天才の新と千早に子供のころに出会ってしまった。これがセットしているだけで、ああ時代だなーと僕はぐっとくるんですよ。才能がない人間が、それでも、どうするか?といいうような歯を食いしばるような苦しみが、ずっとずっと描かれ続けています。届かないものに憧れてしまった、太一のせつない思いが、もう苦しくて、美しくて、、、。また、頂点に才能で君臨しているクイーンや名人たちが、絶対的な孤独の中にいることなど、たぶんこれが僕らの生きる現実なのですが、なかなか成長至上主義の物語では目が届かなかった果実が、これでもかと新しい世代の物語には深く挿入されています。

青空エール リマスター版 18 (マーガレットコミックスDIGITAL)

最新刊の18巻を読んで、もう読んでるそばから鼻水出そうなくらい泣けました。『青空エール』。これも、何もないところから、、、下手をすればマイナスから始める物語です。こういう視野狭窄の子供時代が幸せか?という問いは難しいでしょう。けれども、成長と断念の間には、神さまがくれたような休日の永遠の日常もあり、そうしたことが偶然運で訪れたり過ぎ去ったりが、人生なんだと思います。僕らはもう知っています。成長のない、キラキラとしたものがない断念の世界が、決して、幸せだけでもないことを。もちろん、キラキラしている成長の中に生きることの苦しさだって、悲惨ともいえるほどの過酷さです。『青空エール』にしても、吹奏楽をこれほど頑張ったからといって、人生が幸せになる切符を手に入れられるかなんてわかりません。『響け!ユーフォニアム』にもありましたが、受験をやったほうがなんぼも人生長く幸せになる可能性もあります。物質的に恵まれる可能性大きいですからね。でもそれは所詮可能性。いい大学行って、いい会社に入っても、友達がいなければ趣味がなければ、結局人生は楽しめません。また、人生を幸せにはするのは、過去のやり切った記憶でもあり、本気になって挫折したり、停滞失敗をしたりする試行錯誤の過程こそが、それに振り回される感情の上下こそが、人生に有意味を与えてくれることでもあったりします。

ベイビーステップ(37) (講談社コミックス)

昨日、最新刊の37巻を読んだのですが、えーちゃんもついにここまで来ましたね。彼も、ベースは、才能がない人が、スタート地点が遅れてしまった人が、それでもやれるの?という問いでした。また、難波江君のテーマもえーちゃんのテーマも、凄まじい才能を持った天才たちに、それでも勝とうと思う時に、平均値を突き詰めることで戦おうとします。これは、僕は素晴らしい慧眼だと思うのです。オールラウンドプレイヤー、、、いいかえれば、特に才能も特別なものもないこと。そして、それが突き詰められて、ある敷居を超えたときに、次々に天才と呼ばれる才能を打つ破っていくことになります。


最近は、こういう成長物語にもう一度、自分がシンクロしていくような感覚を持ちます。それはやっぱり人生が大きなスパンで、断念と成長の行ったり来たりだからなんだろうと思います。大事なのは、日常を楽しく生きていくことと、成長しようという小さな積み上げを、同時に人生の中に持つことなんだろうと思います。だって人生はバランスだもの。道端の足元の花の美しさを愛でながら、はるか遠くの壮大な山の頂の両方に心奪われて、何が悪いのか?と思うのです。そのバランスを見極めて、自分で頑張って意識していくことこそが、成熟した人生というものなのではないでしょうか。


もちろん、たぶん今までの動機が壊れた物語の類型、主人公になれないことを新世界的に、突然死のように世界の厳しさを描く物語が、この成長と断念の間にあったわけですし、これからもありつづけるでしょう。このゼロ地点やマイナス地点は、常にぱっくり人生の道に穴をあけて待ち構えているものだからです。それを描かずにして、世界の在り方は描けません。また常に、このことから生まれる途方もないルサンチマンは、負のエネルギーとして世界を脅かし続けるのだろうと思います。人間の中には天使と悪魔がいる、とか、陰と陽とはよくいったものだと思います。そういうものなんですよ、人間存在とは。


前の記事でぼくは、もうリア充対比リア充などの二項対立で人をカテゴリー分けすることにほとんど意味がない時代がやってきたことを言いました。単純な話、人はとても複雑なもので、一人の人の人生や心の中には、様々なグラデーションがあるので、あの人はこういう人、自分はこういう人間というような決めつけやレッテ張りは、ただの暴力であって、ほとんど意味をなさないからです。つまり見当違いなことで、みんな盛り上がったり、恨んだりして話しているんです。事実に基づかない行動は、本当に無駄なだけではなく害です。自分にとっても世界にとっても。


でも、じゃあ学校共同体のスクールカースト構造がないかといえば、そんなことありません。日本的共同体のコアなので、これは厳然として存在します。また時代が合わなくなってきているとはいえ、過去のアンシャンレジームに合わせて設定されている制度が、この問題点を量産し続けています。これを変える義務はだれにあるのか?と問えば、それはぼくらなんです。これで苦労したぼくらが、前の世代を恨んでも意味がないし、それを次の世代に押し付けてトラウマが続くようにしても仕方がない、僕らが引き受けて戦うしかないんです。いつの時代も、制度と世界のありようはずれがあり、世界そのものは凄い勢いで変わっていきます。別に苦しいのは今の世代だけじゃないです。明治維新があったときも、敗戦の時も、高度成長期の時も、その時代にはその時代に、ありえないような過酷さがあるもんで、みんな大変なのは変わらないんです(笑)。そういうのが当事者意識なんだと思います。過去が悪いと叫んでもなにもよくならないし、既得権益の権化となって未来の世代の可能性を収奪しても仕方がないし、だってなにもだれもしあわせにならないんだもん。当事者意識を持って、自分が旧世代の遺物によるマイナスを引き受けて、次世代へのバトンを少しでも良くして渡す。それは無駄で面倒くさいほんとうに地味な作業かもしれません、、、が、それを受け入れて地味に積み上げて戦う時に、きっと、その時その時を共有する他者との絆が結べるんだろうと思うんです。だって、現実の「いま」を受け入れる時、それを引き受けているのは、自分一人ではないんだもの。


断念を受け入れて、それでも前に進むしかないんだろうと思います。これからの物語には、単純な成長称揚ではなく、それがついてまわるはずだと思います。けれどもこのテーマは深化しており、ゆうきまさみさんの『究極超人あーる』になったような、この灰色で退屈な日常をどうやって楽しく過ごしていくかというテーマは、次の成長の時が訪れるまで(何度も言うけど訪れないのが普通であって、これらがただ待つだけの時間というわけではないんです)、『1518』のように断念を抱えながらどうやって生きていくの?、もし全く成長の可能性も、本当にやりたいことがなかったり、できなかったり、『ちはやふる』の太一のようにあったとしても全く才能がなかったりしていく中で、あなたはどう生きていきますか?っていうことをが、つねに背後に語られるはずだと思うのです。それが、生きていくってことだろうと思います。


まだいろいろ洗練された表現になっていませんが、だいぶこの辺の話がつながってきた気がします。来週ぐらいにはラジオをしたいなーと思うけど、仕事が忙しくて、身体がしんどくて、、、いつものごとく鼻水流しながら、逃げたしたいペトロニウスです。ふぅ。


■参考

GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語 (1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130103/p1

GUNSLINGER GIRL』 相田裕著 静謐なる残酷から希望への物語(2)〜非日常から日常へ・次世代の物語である『バーサスアンダースロー』へhttp://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130104/p1