日本では内戦が起きている。

紀里谷:断言してもいいけど、いま日本国内では内戦が起きていると言えますよ。

どういうことかというと、“がんばって行動する人たち”と“しないヤツら”の内戦。“何かに情熱を傾ける人たち”と“それをバカにするヤツら”の内戦。インターネットが普及して以降、ここ10年くらいに起こった日本の衰退は、“ヤツら”のほうに耳を傾けすぎてしまったことによる衰退だと思いますね。

これをしたら、なんか嫌なこと言われるかもしれない、デメリットがあるかもしれない、炎上しちゃうかもしれない…。そうやって耳を傾けすぎて、姿の見えない第三者の言いなりになってる。でも、そいつらは誰なの?なんなの?

実際にそいつらの住所をつきとめて会いに行ったとしたら、きっと笑い転げると思いますよ。こんなくだらないヤツらだったのかって。こんなヤツらの言うことを気にして真に受けてたのかって。

いい加減、目を覚まそうよ。そういうヤツらは、一体何人いるの?人数としては、すごく少数だと思うよ。そんな少数のヤツらのせいでどれだけの人たちが苦しんで、どれだけの人たちの夢がつまれて、どれだけの人たちが傷ついてるんだよ、って話です。


http://spotlight-media.jp/article/212818255800746516#/
「日本では内戦が起きてる」圧倒的な迫力に言葉を失った紀里谷和明氏インタビュー
Interview 2015.11.14

清 義明2015年12月09日 08:08「しばき隊」とはなんだったのか −21世紀のダーティー・ハリーの栄光と没落 1/3
http://blogos.com/article/148887/



うまくいえないのだが、この二つにはつながりがあるように思えるんですよね。1)正義とは何か?という問い、そして、2)善悪二元論を超えるためには具体的になればよいか?という問いを、このブログでずっと問いかけているし、評価と解析を考えるときのベースとなっている文脈です。

1)と2)はリンクしていて、正義とは何か?と問いかけると、悪だと思っていた敵側にも理由と背景があることがわかり、立ちすくんでしまい、行動のための動機が失われてしまう。だって、目的と正しさの確信が無ければ、人は動けないもの。


これらの流れは、宮崎駿さんが少年を主人公に描けなくなったと語ったように、少年の夢、のあるべきモデル、ロールモデルが失われていく過程を示しているとおもうのです。少年の夢というのは、世俗的にいえば立身出世であり、成長物語になる。目的に対する正しさの保証がないので、目的が設定されず、動機が失われて何もしない動機レスな無気力、ニヒリズムに支配されてしまう。もちろん、成長なんかしない!という話になってしまう。


もっとも基本的な、正義をのもとで悪者をやっつける!という物語類型、ドラマトゥルギーが深刻な問題点を抱え込んでしまっている、、、というのが、僕の見立てでした。



そうしたなかで、この議論を展開するならば、現実の反原発でもヘイトスピーチでも何でもできるのですが、どうもそういうのは、そもそもビジネスをすることが自分の人生の過半を占めるので、どうもやる気がおきない。僕のブログは消費豚として、より物語を楽しむためだけにやっているので、現実に話をあまり入れすぎても仕方がないなーと思うんですよね。でもそれ以上に、ここらで行われている現実のイデオロギーの空中戦というか洗脳合戦に参入しても、なんだか、しんどいなって思うからなんですよね。何かものを考えるには、立場や思想はある程度必要であるし、そこから無批判ではいられないとは思うのですが、「そこ」がなんだかしんどい。


たぶん、僕は、ビジネスで世界に貢献する道を選んだので、自分の正義を貫くならば、ビジネスで、という答えがすでに出ているので、具体的な行動論における、僕の実践は既に選択されているので、いちいちそこの論争にかかわる暇があれば、自分でやるべきことをやるべきだと思うからです。たぶん、ここを抜けるひとつの道は、これなんだろうと思います。実践における選択肢を決めてしまうこと。悩むのは、この具体的な実践の中で悩むこと。実践の前に悩んでも何も結果が出ないから。


とはいえ、ブログで話して考えていると、どうも、この根本命題をめぐって、物凄い戦いがあるようなんですね。僕も、、、それを何だ???という風にはわからなかったのですが、自分の中でも、正義が正しさを保証されない中で、それでもどの方向に正義を振り向けるか、ということで、強い葛藤がある。例に、救われることがありえない想定上の層を、どのように救済するか?問いうといですね。実践家の僕としては、自己努力しない人は切り捨てられるしか方法がないし、どうしようもないと割り切ります。リソースがない中では、そうするしかない。プラグマティツクにはそうなる。でも、もし自分がその層だったら?という自己規定を、リフレームさせると、そんな単純でいいのか?と思います。なんでも自分にひきつけないで考えるのは、卑怯なので。また誰もが強者であり弱者であって、今の時代そんな簡単に、役割や立場を確定できないからこそ、正義がややこしい話になるんですから。


その争いを、、、、なるほど、内戦、という強い言葉を使うと、僕は非常に納得しました。なんだかね、この洗脳合戦って、内戦って極端な言葉がしっくり来るんですよね。なんだか、戦前のテロリズムと似ている気がするんですよね。空気を形成するためのレバレッジとして、こういう価値観戦争が起きている感じ。このあたりをもう少し追って考えてみたいな、と思う今日この頃です。


ここでは、“がんばって行動する人たち”と“しないヤツら”の内戦。“何かに情熱を傾ける人たち”と“それをバカにするヤツら”の内戦、という言い方をしていますが、強者と弱者という問いかけも、まったく同じに重ならないところ難しいのですが、微妙に重なります。ようは、ここでは馬鹿にするやつら、といっていますが、正しさが保証できないから行動する動機がない、またやりたいことがそもそもあるという層自体の特権意識による弱者の踏みにじりだという視点ですね。これ、物凄く似ていて、そして違う。なので、単純に同じではないけれども、、、、という感じです。