人に会える、しゃべれる幸せ。

20代の時に、ずっと年上の人から「アドバイスをもらいながら食事もご馳走してもらう」みたいなことが続いても、それを悪いとか、申し訳ないと思う必要はまったくありません。

なぜなら、あなたに食事代とアドバイスの両方を提供してくれている目の前の人は、ほぼ確実に、若い頃、同じように「人生の先輩に奢ってもらいながら、貴重なアドバイスを受け取る」という経験をしているからです。

彼らは、時を超えて「昔、自分がおごってもらった分を、おごりかえしてるだけ」です。だから気にする必要はありません。


大事なコトは、自分が年をとった時、若者におごりかえせないヒトにならないよう、気をつけることです。

その気もお金もあるのに、若い人に奢ることができない人って、たくさんいるですよ。

だって、もし若い人が誰もあなたにアドバイスを求めに来なければ、ご馳走することもできないでしょ?


若い時は遠慮無く先輩にご馳走してもらいましょう。そしてその分を、しっかり次の世代の若者におごり返しましょう。

決して「若い頃はたくさんおごってもらったのに・・・今やおごり返す機会も得られない残念な人」に、なってしまわないように。



2015-07-19 おごり返せる人生を
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20150719

ひさしぶりに、ベイシックスキル。

先日、レスター伯が遊びに来たので、海の見えるめっちゃ高い(笑)レストランで奢ったんだよね。いやーぼく、なんか凄い幸せだったんだけれども、なんでかよくわからなかったんだよね。でもこのちきりんさんの記事を読んで、凄いわかった気がする。それは、レスター伯なんかは、もうけっこうなレベルの人で、そんな人が、会いたいといってくれたり、いろいろ話してくれるってこと、ぼくの話を聞いてくれることってのは、非常にレアなことなんだ、というのを実感したからなんだよね。この前、休暇で日本に帰ったときに、もう本当にいろんな人と会えた。海燕さんなどなど地方から出てきてくれる人もいたし、会社を休んでまで遊んでくれた人もたくさんいた。そして、いままであたためていた人間関係が、さらに広がったて、、、、。ああ、楽しいなって思ったんですよ。みんなめっちゃ無理してあってくれるというのは、それだけ、ぼくと話すことに価値があるって思っていてくれるわけじゃないですか。これって、めっちゃ充実感というか幸せ感があることだと思う。


と、自慢ばかりしていても、そうなんですねーといわれるだけなんだけれども、、、、では、なにが、同世代(僕は40台)のなかなかと持ちできないねーとか、仕事にしがみつかなきゃいけないとか、いう人と差になっているんだろうと思うと、僕経験では、やっぱりこのブログだよなって思います。ブログの位置づけは、この10年でかなり変わってしまっているので、同じことをして、同じことが達成できるかは分かりません。というか無理でしょう。けどぼくの経験は、やはりここに分岐点があったと思う。同じことを再現することはできませんが(時代が変われば同じ目的でもやれる具体的な方法は全然変わります)、どういう目的や機能があったかを振替って思い出してみたいと思います。



何が違うかっていうと、それは、自分のインボルブしている社畜サラリーマンの以外の世界へのアクセスポイントを継続して持ったということだと思います。結局これに尽きる気がします。人生楽しんでいる人は、会社に入って社畜になろうが、どれほど拘束されようが、なかなか自分が、自分の肩書などと違う「自分自身になれるところ」を手放さず、そこでコツコツ居場所を作ります。


それが、結局、40台頃になって、なんというか未来の可能性が亡くなってきたときに(人は、若いというだけで可能性はあるものです)、切実に聞いてくるんだろうと思います。60歳ぐらいで定年して、熟年離婚したり、友達がいなくてぼけちゃったりというのは、ようは、自分の居場所を複数投資することをを怠っているから起きる現象なんだと思います。もちろん、40台の僕は、仕事と家庭とでもうボロボロになるほどやることがあるので、個人の時間は全く削られて追い詰められるし、子育てがレベルが上がって大変になって拘束時間が増える半面、仕事ももっと厳しくなる頃なので、両立なんてほんとできるのかいな、というぐらい息も絶え絶えで生きているくらいなので、家庭、、、家庭がある人は、ふつうは仕事の次に家庭に時間と労力を投資するのでしょうが、それですら、ほとんど無理なくらい厳しいですよね。日本社会は高度成長期を過ぎて、大都市と地方の生活に分岐していくと思うのですが、僕は日本社会のこうした社畜や長時間拘束の組織運営方法は多分あまり変わらないのではないかと感じています。日本のサービスのきめ細やかさや現場指揮官の優秀さ、高い動機とモラールが組織の下部まで浸透することなど、日本の強さの裏返しなので、それらがもたらす成長と大きな場所に所属する高揚感や鳥瞰図的な景観、世界とつながる中での成長などを放棄することができれば、もちろん、人間の時間は戻ってきます。でもそこには成長がない、永遠の日常がいつまでも続くサブシステムの世界になると思うんですよ。お金があれば、自然から離脱することができるようになります。それは自由。でもその自由は、グローバルな資本主義のシステムの景気循環やスピードに支配されます。

里海資本論 日本社会は「共生の原理」で動く (角川新書)

でもそこから離脱して、自然と共生のサブシステムの世界に生きれば、それだけ「自然」に拘束というか支配されると思うんですよ。またその自然の中には、離脱可能性が非常に低い、流動性の低い人間関係も含まれるはずです。まぁ、田舎の世界に戻ると考えればいいわけです。


理想は、どっちの世界のも行ったり来たりできる自由を確保することです。けど、僕はそれは大多数には望むべくもないことだろうと思うのです。もちろん、こんな凄まじい自由は、かつて有史以来、どんな大貴族もなしえなかったもので、それがいまの富とテクノロジーがかなり大規模な人数が経験できるようなレベルまで上がっているとは思います。けど、それなりに特権階級で、自分がいつもそこに入れると思うほど、人生は甘くはないと思います。自由に行き来できる権利を手に入れられたら、それは、運も含めて本当に運がよかった、という感じですよね。まぁ、もちろん才能と努力に比例するのは、現代の競争社会では、常のことですが、スタート地点が同じでないのも、まぁ人類の社会ですよね。



さて、大きな話になってしまったので、もう少し具体的なものに戻りましょう。もちろん、でも単純にブログやったから、というだけではありません。まず、なんといっても10年近く僕はこのブログを書き続けています。当時一緒に書いていた人で、まだ現役で書いている人って海燕さんだけです。ようは継続は力なりなんです。かけている労力が圧倒的なんだと思います。これって、好きで、リターン無視でできることでなければ、とてもじゃないけど続けられなかったと思います。これって、クンフーとかそういう話とつながりますね。ようは、自分が好きで、利害を無視してやり続けられる「手ごたえ」や「手触り」を出おれだけ見つけられて、それを育てられるか?ってことなんだろうと思います。もちろん、この「手ごたえ」みたいなものを、マルチ展開で、仕事においても、趣味においても、どんな領域でも見つけ出せるような柔軟性を持たないといけないのではないかな、と僕は思います。僕は何でも、考え込んで全体の構造がどうなっているのか?というのを、考えて人としゃべるのが大好きです。これって、仕事に役に立たないと思っていましたが、結局この自分おやり方が、一番人に労力が少なく評価されるポイントで、これを常に仕事の軸に持ってこないと僕は勝てないし、そもそも労力が多すぎて途中でへばってしまうのがわかってきました。強みって、やつのことだと思うんですが、強みって、労力少なくして人に多大に評価されることじゃないと、割に合わないんですよね。頑張って、頑張って結果出ることって、短期的には必要なこともありますが、長期的には心と体を壊すんですよ。なので、「やり方」をどこでどういう風に適用するかの戦略的判断ができない人は、人生をうまく生き抜けません。なので、いま頑張る時なのか?、手を抜く時なのか?、それは何のために?、何が得たくて?とかそういう思考が、即答できない人は、戦略的視点がないってことなんです。考えるのはただなので、正しくコツコツしていると、羅針盤はいい方向を向かうと僕は思います。方向がわからなくて生きていることほど不安なことはないですから。話がぶれていますが、ようは、自分の好きなこと、長期間(最低10年以上)コツコツ続けられないと、居場所の確保って難しいですよ、ってこと。


もうひとつ具体的なことは、これがいいのか悪いのかは分からないんですが、僕は社畜サラリーマンと二束のわらじで、けっして会社を辞めようとか、そういうことは考えなかったんですね。ブログのエンターテイメントの世界で働きたいって思ったことは、ないんですよ。仕事もブラックまみれでしたが(笑)、まぁ現実そんなもんだろうというかんじで、淡々とやっていました。


なので、なかなか希少価値があるなぁと思うのは、僕はエンターテイメントとまるで関係ない世界に生きているので、そこでそれなりに成功してくると、異なる2つの世界でのポジションを獲得しているんですね。ブログの記事なんて、本当に批評家や学者からすると、言い張り可能なレベルの戯言ですが、それでも説得力や聞きたいと思ってもらえるのは、、、、特に直に会ったクリエイターやそういう仕事をしている人からすると、ものすごい新鮮かつ説得力があるようなんですね。ぼくのような社畜リーマン、、、というか、海外を走り回っているビジネスマンで組織で生き残っていた人で、かつ、アホみたいにエンターテイメント読み込んで、ずっと継続して話が通じる人っていうのは、なかなかお目にかかれないんですよ。普通、そんな組織で生き残ってグローバルなビジネスマンで出生している人は、漫画とか読まないし、深夜のアニメを見続けて、それをLDさんら濃い人と話し続けているのを10年とかしないですよ(笑)。


ようは、まったく異なる領域で、両方をブリッジできるというのはとても価値があることのようなんですね。また、ブログの世界では、まぁ、所詮ただのブロガーかもしれませんが、仕事では、まぁ、それなりに生き残っているので、やはり、言葉だけの人とは実際に話していると説得力が違うようです。文章に書くと、それは言い張り可能な世界になるし、いくらでも対等に批判できるかもしれませんが、現実の会話の中で、会議の中で、リアルなコミュニケーションにおいて、肩書きと経験値は絶大な力を及ぼします。


なので、実際に会った人は、まぁ、まず間違いなく、ずっと続く友達になります。過去、会いたい!(僕と相手の双方がね)という形であって、継続して人間関係が続いていない人は、ほとんどいないので、たぶん相性がいい人と会いやすいのもあるでしょうが、僕と会うことに相手にとってとてもメリット、意味があり続けているのでしょう。これは、なんというのですかねぇ、、、ビジネス的なジャーゴンでは、人脈的なものになるのかもしれませんが、人脈って言葉、、、僕は気持ち悪いので、あんまり使いたくないんですが、、、、、これは、やっぱり、2つのかなり重なりにくい領域で、それ相応の時間とキャリアを積み上げると、絶大な信用力となって、人間関係を拡大させることになります。だって、ぼく、異業種交流会とかそういうの行ったこともないけど、たぶん、けっこう凄い人脈持っていると思うんですよねー。使う気まったくなくて、セカンドラウンドライフの60以降にがんばろうと思っているので、まったく、いまなんかする気ゼロなところも、信用力をましているんだろうと思います。若い人なんかが人脈!とかいうときのあのがっつき方は、だめなんですよ。人脈って、「あなたと話したい!」と思われて、自然と広がっていくものなんで、出会いに投資する前に、自分の内面(もしくは経験値)に投資しないと。


もうひとつは、セカンドラウンドライフに話につながりますが、、、、長期的な戦略を持って、僕はブログやSNSやっています。ずっといっていますが、目的は、1)友達とのコミュニケーションコストを下げること、2)友達を作ること、です。そして、10年そのとおりのノウハウを蓄積してきました。ノウハウっていうとなんかビジネスっぽいですが、、、ようは、単純で、いっぱい長く記事書いていると、あなたと会いたい!とか言われることが時々あるんですよね。ファンとかじゃなくて、作者そのものとかそういう人から。んで、会う(笑)ってだけなんですけど(笑)。


けど、SNSサイトが興隆する前から、僕はブログを、自分の「いま考えていること」を、低いコストで共有する道具として使ってきました。なんというか、僕は営業マンでしたので、飲みの場所、接待の場所ってのが、エンターテイメントの舞台だとおもってるんですよ。そこで、最も僕という役者が求められていることは、僕の思考の過程とか、いま僕が何を考えているかなわけですよ、、、、だって、ブログ見て会いたいって、そういうことですから。なので、そのパフォーマンスが圧倒的に輝くように、来たからには、それが深くしみいることができるようにって、いろいろ準備しているんです。準備って、一番は、結局は、普段からなんでも考えて、エンタメを経験して、そんでアウトプットしておくことです。そうしておけば、自然体になって、努力が必要なくなるんですもの。最初に行った好きなことの手ごたえとつながっているので、リターンを気にせず日々積み上げるので、時間がない中で積み上げても数年で絶大な時間になります。そうすると、まったく準備してなくてふらっと、相手と飲みに行っても、普段通りに喋れば、圧倒的なパフォーマンスで話せるんですよ。特に背景説明がなくとも、相手もある程度はブログや僕の背景を読み込んでいる前提もありますし。んでもって、僕は最近は全くしてませんが、それなりに接待になれたリーマンなんで、食事の場所選びから、いろいろできるわけです。エンターテイメント業界の人は、特に、僕のようなグローバルな産業の最前線で生きている人はほとんどいないので、僕の普通の体験話が、物凄い圧倒的なリアリティと情報量を持って感じられるというのも、僕にとっても自分がただ喋っていればいいという意味で、凄い楽なんですよね。


まぁ、要は会った時のコミニケーションの有意味感が出る文脈に位置づけて、いろいろな機能を接続してきたわけですが、、、、、まぁ後付ですよ、もちろん。最初は、ただ好きなものの感想をブログで上げ続けていただけですから。いま同じことやっても、同じアセットは作れないと思います。時期、というものがあるので、そんなにブログがあまり表に出ていなかった頃だったからこそ、目新しさもあったのだろうと思います。まぁ、ブロガーのちきりんさんでも書いてありましたが、あの人も子供のころから文章を書く癖があるんですよね。なんというか、ブログをはじめよう!といった功利的な感覚ではだめなんだろうと思います。功利的な目的レスなところで、自分が積み上げているものを探さないと、自分の強みにならないし、低いコストで、高い評価を他人に得るものにならないんだろうと思います。凄い高い労力とコストで積み上げたもので評価されると、、、それはそれで凄いのですが、、、、疲れて息切れして、40前に壊れるようです(笑)。


またしても何が言いたいのかわからん感じになってきましたが、いいたいことは、長期的な視点で、いまって頑張る時なのか?、手を抜く時なのか?、、、それと、何を頑張るのか???それは、いま所属しているステージや家族や会社の奴隷になっていないか?、また、自分が食べていかなければならならないことがあるとしたら、いやでもそれはしなきゃいけないとして、そこに自分の好きなやり方は見いだせないか、、、、またそれとは異なってフィールドで自分が好きなことを少しでも蓄積できないか?、、、要は時間投資は異なるフィールドでできないか?。そういうことを考えながら、考えているだけではだめで、いろいろ試行錯誤して、前に踏み出して、また戻ったりを繰り返す中で、このやり方がある気やすいぞという「いい塩梅」を見つけ出していき、そして、自分の道を見つけていくのだろうと思います。


そして、その人生のデザインが、どういった効果を他人に及ぼすのか、自分の成長に及ぼすのか、、、僕は、こうして会った友達たちと、いろいろなことをして遊んできましたが、たぶんそれなりに正のフィードバックがあるからこそ、要はメリットデメリット、損得の話ですが、それが無理ない形であるからこそ、続いているんだろうと思います。問題がある場合は、さくっと離れていくものです。まぁ、それなりに壊れるものなのですが、、、、うーんどうだろう、、、僕は自分が望んだ関係で壊れたものがほとんどないので、、、もちろんある程度ダメになる場合はありますが、それは、もう結構最初から、ああ、これはもった3年ぐらいだなーとか思うもんですよ。。3年以上見てね。あんまり壊れるというのは、自分が何か普遍的に相手に与えられていない問題点がある可能性が高いと思ったほうがいいです。



うーん、、、思考の過程のたれ流しなので、もう一つ言いたいことの核心にうまくつながらない。。。内的な成長に投資していく方法(分散投資がいいよね)、その投資から最大限に安定して収穫してするためにはどうすればいいのかの仕組みづくり、内的な投資が、出会いとメンテナンスの人間関係の絆の構築に与える正のフィードバックへの意識、その絆が構築されていった人間関係を育ててメンテナンスして、そしてビルドアンドスクラップしていく、長い時間の中での意識。。。。こういうのがあって、幸せな人との人間関係の網の目のネットワークが生まれてくるんですが、、、またそれがセイフティブランケットとなって、ああ、何もない自分でも、何もなくなっても、このブランケットがあればきっと何とかなるだろうという、安心感と自信をもたらしていく、、、そういった生きることの喜びを感じやすい土台を作ることが、人生にはとても重要だろうと思うとかそういうことが、なんとなく思ったのでした。