『STAR WARS: THE FORCE AWAKENS』(2015USA) J.J. Abrams監督  現代的かつアメリカ的な映画としてのDisneyの新しいスターウォーズ

評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■物語三昧の評価は、条件留保なしで、これは傑作だと思います!

1977年の『スター・ウォーズ エピソード4 新たなる希望』(STAR WARS EPISODE Ⅳ A NEW HOPE)公開から、実に38年。2012年10月にウォルト・ディズニールーカスフィルムを買収して、ついにエピソード7が公開されました。ロサンゼルスのディズニーランドでは、既にスターウォーズの巨大アトラクションの建設予定が発表されたり、じわじわ、何か新しいことが始まるかもしれないという予感の高まりがありましたが、ついに、本編の上映です。星の評価で見てもわかるように、たぶん、これだけの巨大シリーズ、賛否両論は当然あると思いますが、僕は、大傑作だと判断します。

スター・ウォーズ / フォースの覚醒・・・・・評価額1800円/ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/

ちなみに、ノラネコさんも最高点で評価されていますね!。

George Lucas has apologised for remarks he made in an interview in which he referred to Disney as "white slavers".In the hour-long interview, broadcast in the US on Christmas Day, Lucas appeared to question Disney's choice of direction with the new film."They wanted to do a retro movie. I don't like that," he said. "Every movie, I work very hard to make them completely different, with different planets, with different spaceships, make it new." He added: "They weren't that keen to have me involved anyway, but if I get in there, I'm just going to cause trouble, because they're not going to do what I want them to do. And I don't have the control to do that any more.""When you break up with somebody... You have to put it behind you and it's a very, very, very hard thing to do," Lucas told Rose."These are my kids... All the Star Wars films. I loved them, I created them, I'm very intimately involved in them. I sold them to the white slavers that take these things."

George Lucas sorry for 'white slaver' comment
http://www.bbc.com/news/entertainment-arts-35209648



George Lucas on 'Force Awakens': It's like a "break up" (Dec. 25, 2015) | Charlie Rose

ちなみに CBSのinterviewでルーカスはこう語っています。僕は、このインタヴューを聞いて、ルーカスは、最初からこのような批判をしようと思っていたのではないか、と勘繰ってしまいます。なぜならば、Disneyに映画を売ってしまっあのならば、それは多かれ少なかれDisneyの脚本になるに決まっていて、自分の作品との差異と決別を印象づけるには、このタイミングでいうしかないと思うからです。また、レトロで懐古主義という部分は、『帝国の逆襲』『新たなる希望』のコピーである部分を指していうのでしょうが、はっきり売れる路線を目指す上で、しかもルーカスという巨匠の伝説を継ぐ時点で、これ以外の選択肢があったとは思えません。何を言われても批判を受けるのならば、売れる路線を選択するのは、商業(=大組織)なのだから当然だと思う。ルーカスがどのような方向にもっていきたかったのかは、僕にはよくわからないが、オリジナルのエピソード1-6以降の自由な展開を、ある種のパラレルワールドというか、分岐構造としてみればよく、その発展の自由度を確保したDisneyとJ.J. Abramsは、正しいと思う。というか、これ以外の選択肢があったとは思えないだよね。


また、Disneyの脚本のコアは、商業主義的であり、その意味する問いころは、アメリカのその時代の中心の最大公約数の意見をベースとして、そこからさまざまな解釈の展開を、米国的なリベラリズムに反応して広げていくという形をとるものです。であるから、最大公約数、いいかえれば白人中産階級で男性中心主義の驕りが常にその背後にはつきまとうのですが、同時に、そこから数歩進んで数歩後退するような遅々とした歩みで、少しずつ変化していくもので、ラジカルに、オーナーが自分のイメージだけで一気に前に進めるようなチャレンジは全くしません。具体的に言えば、Disneyの家族観はものすごい保守的ですが、それが時代ともに、少しづつ、家族も元からあるものではなく自覚的に選んでいくものという、昨今の同性婚の容認など結婚観の変化を微妙に受け入れていくところ、白人の王子様(男)がすべての幸せをもたらしてくれて、女性は従うものというような典型的な男性中心主義から、『FROZEN』のように、ちょっとずれて姉妹愛を真実の愛として、男性との普通の結婚が必ずしも真の幸せではないのだということにずらしてきたり、とにかく微妙に漸進的に進んできています。『ポカホンタス』のころのような、そりゃーないだろうというような、白人中心主義を何とか脱出しようとして、しかしコアの最大公約数の視点から描いた結果、よけいに白人中心主義が際立ってしまったり、本当に試行錯誤が微妙で、そして苦しい。しかし、20年前と小比べれば、明らかに前に進んでいる。まさに米国社会そのもののような、ものであって、そのスピードに合わせれば、まぁそりゃ、そうなるよなって思うんです。Disneyに権利を販売して、そうならないはずがないじゃないですか。そして、それでもけっして、数十年単位では、期待は裏切らないと思うのです。この後の分析にもありますが、僕は、さすがDisneyの脚本と思って唸りました。すべてが過去の焼き直しの、非常に古いスタイルの物語類型でありながら、キャラクターの配置などすべてが先鋭的に現代的。そういう意味で、僕は、ルーカスの批判のうわべだけ見ても、それは、別に当然のことであっていうほどのこともないじゃないの?と思うんですよね。でも、これをルーカスのオリジナルと別の分岐したものであるという印象づけと宣言という意味では、なるほどなと思いもします。


さて、以降、僕の初見の感想です。このインタヴューを受けても評価と内容は変わりません。


■『帝国の逆襲』『新たなる希望』の神話的構造を踏襲しつつも最先端に現代的かつアメリカ的な映画としてのDisneyの新しいスターウォーズ


僕は、スターウォーズに関しては、熱狂的なファンというわけでもないので、あまり細かいところから語ることができません。ただ、手持ちの情報と初見の感想で大枠の印象を書いてみたいと思います。僕が、傑作だと判断する理由、それは、2つの点で、とても現代的であり、かつ古き良いスターウォーズを裏切らないという矛盾を、見事に解決しているからです。

1)「新たなる希望」と「帝国の逆襲」のもつヒーローズ・ジャーニーの神話的構造をそのまま踏襲していること

2)新なる3人の主人公が、閉塞した世界に囚われて、人間的にも未熟であって、何も持っていないという地点から始まる物語であること

初見で見た時に、驚くほど過去の作品と同じ構造なのがわかった。ある意味古臭く、古典的ともいえるほど忠実な、初期3部作との類似性。それは、なんといってもスターウォーズの持つ魅力である神話的構造ヒーローズ・ジャーニーの反復になります。特に難しく考えなくとも、「新たなる希望」と「帝国の逆襲」と非常に似た物語だというのはわかると思います。この神話的、ご都合主義、アバウトだけど骨太で力強い部分こそがスターウォーズの良さであり、そこは見事な換骨奪胎だと思うのです。しかし、もちろんのこと、既に初期三部作の大成功を受けて、ヒーローズ・ジャーニーの解析は進み、いまではあまりに古臭い、あたりまえの構造になってしまいました。たぶん、そのまま構造をまねするだけだと、見るに堪えない古臭い作品になったはずです。実際、少し穿ってみると、商業主義の、どこにでもあるような作品ともいえます。


しかし、そうはなっていない、現代的なシャープさが感じられます。それはなぜか、というと、主人公の3人、カイロ・レン(ベン・ソロ)、レイ、フィンのキャラクター造詣が、非常に現代的だからです。何を持って現代的かというと、様々な仕掛けがあるのですが、その部分は後に書くのに譲ることとして、


閉塞した世界に囚われていて


人間的に未熟で深い内的葛藤を抱えている


という点です。これは、実は、ヒーローズ・ジャーニーの真逆のコンセプトであると思うのです。

基本は全体を三幕とし、簡単に著すと以下の様な流れを持つ。

1)特別な運命を持つ主人公は、天命を受けて別の世界へ旅立つ。

2)メンターとの出会い、悪の誘惑を経て、自らを特別な存在へと変化させ、課題を完遂。

3) 天命を完了し、英雄として故郷への帰還を果たす。


と、ノラネコさんはきれいにまとめていらっしゃいました。あまりネタバレになのはさすがにこの作品は避けたいのですが、3人ともに、どうも深く過去に囚われていて(そりゃープリクエルとして、あれだけ巨大なサーガと英雄譚があるわけですから、その子供たち孫たちはの世代は、存在がかすみますよね)、しかも、それに対してストレートに自己肯定ができない。カルロ・レンが特徴的ですが、明らかに彼はダース・ヴェーダーになりたいのですよね。でもあの圧倒的な悪の存在感が彼にはありません。ダークサイドとライトサイドで揺れる葛藤を抱える彼は、そこまで思い切れないし、だからこそ、ダース・ヴェーダーほど圧倒的ではない。


僕は現代の脚本は、「選ばれた特別な存在」という感情移入ポイントをなかなか受け入れがたい傾向に有るのではないか、と日米のサブカルチャーの最先端を見ていて思うのです。それはこのブログでずっと追っている文脈でいうところの、「特別でない自分」に悩むことこそが、現代都市社会の市民の共通した悩みであるからです。また同時に、善悪二元論の解体の文脈でも追ってきましたが、善と悪がはっきりしていて単純だった頃には、偉大なヒーロが存在することができました。米国でいえば、WW2は正義の戦争でした。でも、その後のベトナム戦争イラク戦争、そして911、その果てに出てきたISISによる世界的なテロの頻発。もうここまで来ると、素直な正義を信じるのが非常に難しくなっています。また、米国が良かれと思って世界の指導者として行ってきた数々の施策が、これらの結果に直結していることは、米国人から見てももう逃げようのないものとして認識されつつあり、正義とは?、という非常に難しい、しかし当たり前の苦悩が、考えられ始めています。日本では、既に大日本帝国の正義は、完膚なまでに破壊されて、まったく異なる国家となって戦後はスタートしています。こうした背景もあり、物語の世界であってさえも、単純に正義を、正しさを追求することができないが故に、英雄足りうることへの道も封じられて、何かを成すことにおける価値の両義性に苦しむ、内面的葛藤を抱え込むことになります。これは、少年の夢が描けなくなった宮崎駿監督の話でずっと書いて話ですね。


風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1


そういう現代的な最先端は、アメリカ映画でいうとクリストファー・ノーランのバッドマンやクリントイーストウッドの『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』など、日本でいうならばガンダムサーガシリーズ、『まおゆう』や『ガッチャマンクラウズ』など、さまざまな作品でこの文脈を追ってきました。その果てに、例えば日本の例でいうと、『メジャー2』というサンデーで連載されている漫画があるのですが、これは人気作品である『メジャー』の続編で、メジャーリーガーとなった主人公の息子の話になるんですが、この話が物凄く切ないんですよ。なんでかというと、そのメジャーリーガーの息子に、野球の才能がこれっぽっちもないんですね。しかも、野球が好き!という情熱すらない。あらゆるフラグが、英雄となること、選ばれた存在となることへの逆に立っているんですね。これって構造的に、どうしようもない作品になるんですが、最初の数巻を読んでいると、見事なくらい、抜け出る道をふさいで、主人公を追い詰めていくんですね。最近は、あまりにこれじゃ迷走するということで、路線を変えてきた感があるのですが、それでも「選ばれた存在ではない自分」「きっと何者にもなれない自分」という、存在自体に葛藤を抱えながら、しかも英雄になるためのヒーローズジャーニー(英雄への道)が閉ざされているような善悪のはっきりしない世界で、どう生きていくか?ということが問われるようになっているんだと思います。どうも最先端の作品を見ると、この深刻な葛藤を抱え込んで、自問自答しているうちに、物語が終わってしまうというような、迷走している作品を多く見る気がします。いってみれば、それそのものがコンセプトのコアであった、プリクエル3部作であるファントムメナスからのシリーズが、迷走した部分も、そこに有ったのだろうと僕は思います。しかし、これを追わない物語は、既にもう現代の作品としてはありえない、重要なコアの課題でもあります。なので、主人公たちは、何が正しいかがわからない、精神的な未熟さを抱えて、常に悩みながら物語を前に進ませようとする、という構造を持ちやすくなります。


ちなみに、僕は、あの作品(エピソード1-3)の方がはるかに初期の3部作(エピソード4-6)より好きで、かつ、時代にあった正しいコンセプトでったし、プリクエル(前日譚)としては、あれが正しいものであったので、僕は全肯定なのですが、ただ1点、スターウォーズ的なるものではないんだよなーというのは、当然の帰結なんですよね。英雄が堕ちていく物語なんで、そもそも、もともとのコンセプトが違う。今の時代は、こちらの方がテーマとしては、非常に正しいし、選ぶべきものなんです。ただし、絶対に人気出ませんけど(笑)。この話はずっと過去の様々な作品を追ってきて指摘している問題点ですよね。現代のコアのテーマを追求すると、結論が出なくなるので、エンターテイメントとして成立しづらくなって、人気が出なくなってしまう。


と、ここまでみると、スターウォーズ・エピソード7の主人公たちの、はっきりいいましょう、過去の主人公たちに比べると小物感があり、しかも、決断しきれないでぐじぐじ悩んでいて大物になり切れない感じ(笑)は、「きっと何者にもなれないだろうぼくら」の、まさに代表なんだろうと思うのです。ああ、僕らというのは、僕は年齢がいってしまっていると思うのですが、、、ようは、これからスターウォーズのこの作品を初めて見る新しい若い世代にとって、これは、新たなるスターウォーズであって、決して古き良きものを体現して過去の大人たちが愛したものではないんですね。僕は、圧倒的に新しい、現代的に、いまの若者たちこそが感情移入する物語だ!と感じました。


にもかかわらず、圧倒的にスターウォーズ的なるもののコアを持っている。この矛盾をちゃんと同時に抱え込めて描いたJ.J. Abrams監督は、素晴らしい傑作を作ってくれたと思います。



ちなみに、様々な仕掛けがあるのですが、古き良き神話の時代を思い起こさせるものとの接続が、シームレスといえるほどスムーズに描かれている、世代を超えて共有できる点もこの映画の傑作だろうと思います。楽しみ方が、物凄く多様性があるのです。オールドファンには、ハンソロのセリフとか、もう激しく興奮するものばかりでしたよね(笑)。


■エンターテイメントが世代を超えて安定して受け継がれるアメリ

さて、『バックトゥーザフューチャー』の2で描かれている未来が来た!と、2015年は、アメリカでは、ラジオやテレビで大盛り上がりでした。僕は、非常に感慨深かったのです。なぜなら、アメリカに住んでいて強く感じるのは、この国は近代の中に区切りというものがないのだな、ということです。どういう意味かというと、日本社会は、近代において、大きな区切りがたくさんあります。もっとも極端なものだけに限っても2回。明治維新と1945年の敗戦です。徳川幕府大日本帝国、日本国とまったく異なる国になっており、その基盤はもちろん変わらないのとしても、見かけ上はまるで違う国になっています。特に、日本においては、1945年にはっきりとした境目があって、戦後と戦前というのは、まるで異世界のごとく違う前提で構成されている、異なる国だという前提があります。しかしながら、こちらの博物館やさまざまな歴史の説明などを見ていると、近代における区切りがないんです。しいて言えば、独立宣言です(笑)。いきなり、18世紀までさかのぼってしまうんです。巨大な3帝国(フランス帝国スペイン帝国大英帝国)にはさまれた、ちっぽけな13州植民地という物語です。アメリカ社会が、歴史こそ浅いものの、その浅さは中世や封建社会を持たないという意味で、近代史においては、圧倒的な長さを誇り、その連続性が太く深く維持されているのです。なので、僕は近代史に限れば、近代国家としての感覚で言えば、アメリカにおける歴史の連続性のほうが、日本よりもはるかに深く長いように感じます。カリフォルニアの水不足は有名ですが、それは、フーバーダムによって緩和されたのですが、この建設意図は1920年代にさかのぼり、実際の建設は1930年代です。そして、それは、「ついこの前の歴史的事実」で「連続しているもの」なんです。この連続しているものというのは、凄い重要で、日本社会においては、1945年以前の倫理、道徳、ものの考え方、常識、地理概念といったものは、非連続で考えているんです。なので、自分たちの祖先、近代日本建国の父たちに対する価値観は、確定していません。なぜならば、「連続しているもの」ではないからです。そこには、いろいろな価値観の戦いがあるのです。でも、アメリカの展示物の記載、歴史の教科書、あらゆることの前提に、独立宣言以来、基本的にアメリカ的なるもの価値は、連続しているという前提に立っています。これ、住んでどっぷりつかってくると、じわじわと、日本とまったく違う社会なんじゃないか?という空恐ろしいというか、強烈な異世界感覚を感じます。「これ」がわからないと、まったく話がかみ合っていない可能性があるのだと思うのです。

そして、このあらゆるものが安定して継続していることが、エンターテイメントの世界においても、価値が断然しないで、世代を軽々超えて共有されて継続されていく傾向があります。『バックトゥーザフューチャー』や『スターウォーズ』シリーズに限らず、そもそもDesinyland自体が、3世代の家族が同時に同じものをワンセットで見れるように当時作られたものでした。価値が断絶していくであろう、世代間の壁を、共有するものを常に作り出そうとする強いアメリカ的なる意思が働くのです。

ディズニーランドという聖地 (岩波新書)

これは、その他の歴史が長い国にはない現象だと思うのです。というのは、仮に世代が断絶しており、内戦に近いような価値観の共有不可能があっても、日本人は日本人であることにあまり疑いを持ちません。それは、ネイションステイツの幻想が、それなりに強く生きており、同じ日本人という同胞感覚が、世代間の断絶があってさえも、同一化の幻想のほうが強くなるからです。しかしアメリカは違います。アメリカは、移民を前提とするので、アメリカ的なるものの「連続性」が失われると、アメリカ人ではなくなってしまいます。なので、そのための仕掛けが強くあり、かつ、息の長い支持を持つ物語が多いのです。

何が言いたいかというと、スターウォーズのように、初期から38年もたって新しい物語が描かれるとき、これは巨大なサーガになり、世代を超えた物語になっているわけです。世代が変わると支持されるものも、様々なる意匠もすべて変わります。しかし、スターウォーズという一つのパッケージに収められるです。なかなかアメリカ的ですよね。


フェミニズムの文脈から見る女の子の自然体でのヒーロー化

さて次のポイント。この作品を見て、強烈に連想したのは、ハンガーゲームのカットニスです。


もうここで書かれていることでいいたいことを言い終わっていますが、この作品が、アメリカ的なフェミニズムの文脈を反映しているんだなぁと深く感じます。この作品におけるヒーローであり、ジェダイの後継者であり、中心は、レイです。少女が、ヒーローなんです。決してヒロインでもトロフィーワイフでも、なく自然に普通に、ヒーローとのポジションでヒーローの役割を引き受けています。これは、アメリカにおける女性の表現の系譜を見ていると、本当に変わったなーとしみじみ思います。この話は、今度ハンガーゲームの記事で、コツコツしていこうと思います。


■アフロアメリカンの歴史的文脈から見る黒人のヒーロー像の変遷


今回の主人公は、フィンなんじゃない?。と思うほど、彼の主観で最初物語が進みます。見ていて、最初主人公は彼じゃないか?と思ってしまい、衝撃を受けました。



たぶんハンソロとレイアの位置づけに似ているので大切な友人なのだろうなぁとは思うんですが、それでもほとんどレイとカップルにしか見えないですよね。しかも、圧倒的に女の子の方が、立場が強い(笑)。しかし、つい数十年前までは、黒人男性と白人女性のカップルのメジャー級映画なんて考えられませんでした。そもそも、リンチやKKKの起源というのは、白人の女性に声をかけたという噂が立っただけで黒人を嬲り殺すのがその起源です。そういう隠されたコードが強烈にあったんですよ。

性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶 (中公新書)

しかも、上でも書いたのですが、フィンの造詣が、ちょっといけていない感じの田舎者っぽい感じが、また素晴らしくわかっていると感じました。黒人の中でも、選ばれたエリートではなく、ほんとうに下っ端の過去も何もない末端兵士が、それでも、と正しことに目覚めていく様は、まさに正統なる成長物語で、もっとも典型的なビルドゥングスロマンで、僕はぐっときまくりでした。彼が、ほとんど強くなくて、レイを守り切れないのに、全力て立ち向かっていく様こそが、僕は美しいと思いました。人の美しさは覚悟にあると思うんですよ。それができるかどうかではなく、しなければならないと自分が定めたことに、突っ込んでいくこと。

『Straight Outta Compton(2015 USA)』 F. Gary Gray監督 African-American現代史の傑作〜アメリカの黒人はどのように生きているか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150915/p1

『ヘルプ 』(原題: The Help 2011 USA) テイト・テイラー監督
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130114/p1

『Lee Daniels The Butler/大統領の執事の涙(2013 USA)』アメリカの人種解放闘争史をベースに80年でまったく異なる国に変貌したアメリカの現代史クロニクルを描く
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150207/p1

それでも夜は明ける12 Years a Slave(2014 USA)』Steve McQueen監督 John Ridley脚本 主観体験型物語の傑作
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20150120/p1



■エンターテイメントのシリーズが世代を超えるほど長く安定的に続くからこそ描かれる家族の物語としての大河ロマン


大サーガともいえるスターウォーズシリーズについては、いくらでも語る切り口があると思うのですが、僕は、家族という点から思ったことを書いてみたい。というのは、新シリーズのエピソード7の3人は、だれも家族を持たないんですよね。それに、シリーズ中、唯一、ヒーローズジャーニーの設定にそぐわず、メンターがいなかった。導く人が誰もいないなかで、3人は、それぞれの選択を自分の意思で選んで生きます。クローン?だよね?のストームトルーパーのフィンが、もっとも典型的で、彼は特に、家族もなければ、父親や母親から受け継ぐ「何かの連鎖」をまったく持たない中で、それでも、正しいことがしたい、と自分の道を選んでいきます。


スターウォーズは、熱狂的なファンではないので、うろ覚え的な部分があるんですが、


1)プリクリエ三部作 : アナキンの母親の喪失

2)初期三部作 : ルーク・スカイウォーカーの父親(ダースベイダー)との葛藤と乗り越え

3)新シリーズ : 家族自体の喪失


という感じを受けるんですよね。いや、レイの過去がまったく明かされていないし、メンターとして最後にルークが出てきたじゃん!という部分はあるんですが、なんだか、凄く時代的に、ロジカルというか順序だっている印象を受けたんですよね。カイロ・レンも、あっさり父親を殺すじゃないですか。彼の乗り越えるべきは、ダースベーダー(祖父)であって、関わってくれなかった自分の父親のことなんか、ほとんど意識していないように感じるんですよ。


僕は、女性が主人公というのは、日本のサブカルチャー特に巨匠宮崎駿が少年の夢を描けなくなったという文脈と非常に関連があると思っています。非常に、古きアメリカの理想、、、言い換えれば白人男性中心主義が主軸にあるディズニーの描写が多様性にふれていくときに、まずは、王子様との愛ではなく、姉妹愛を真実の愛という形に表現してきた『FROZEN』もそうなんですが、これまでの権力の座にあった、男性、少年が主人公とする成長物語に懐疑を持つことになると、成長物語を仮託するのが、女性になるというのは、どうも物語の傾向のような気がするんですよ。


というのは、ひとつには、女性は、まだまだ成長する余地がたくさん残っているんからなんだろうと思います。単純に、倒すべき敵がまだ十分にいます。権力の中枢には、男性中心主義という男性が君臨しているので(もうだいぶよわっちくなったとはいえ事実は事実)これを、倒すべきラスボスと考えれば、まだ解体しきっているわけではありません。十分敵として、魅力的です。


もうひとつは、そもそも父権社会の権力から疎外されて来たので、特に権力という現実と関わらないで、自由になっていく選択肢が、男性よりも多様にあるともいえます。皮肉なことに。そもそも、権力という現実は、現実におきていることにどうあっても責任を取って解決しなければならない!というものすごい責任が、ほぼ不可能な課題設定なのに要求されるので、物凄く厳しいと思うのです。女の子だけで、永遠の日常を戯れようと思うとき、そちらのほうが、だいぶ可能性が広いのは、これまでさまざまな日常系の物語を分析してきて、わかってきていることです。超無責任ではあるんですけどね。

ラスボスのいなくなった世界では、日常が続いていく関係性の物語へと変化する
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130622/p4

ゆゆ式』(2013) 原作:三上小又  監督:かおり 関係性だけで世界が完結し、無菌な永遠の日常を生きることが、そもそも平和なんじゃないの?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140504/p1

かといって、日本でいうならば『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジ君。アメリカで言うと、やっぱりクリストファーノーランのバットマンあたりだと思うのですが、男の子の成長物語を支える「正義とは何か?」というのが、さんざん破壊されて、解体されて、日本のサブカルチャーは、アメリカほどに現実に責任を持たないので(笑)、もういい!僕は現実世界から逃避して、世界は守らない!という宣言するにまでいたって、男の子は、少年の成長物語は壊れてしまっています。



これは、男性、女性に関わらず、構造的に、正しさを問えない中で、何をよすがにすべきかが、何を基準線にすればいいのかが、わからないということなんじゃないか?と思うんですよ。ようは、基準線としての家族の喪失です。先行者が、正しさを指し示せていないので、ロールモデルになりえないだと思うのです。後リベラリズムの浸透によって、父権を中心に固定化されてきた核家族のあり方が一旦解体されている。このあたりの、家族の自明性(=父権の正しさを疑わないで受け入れる)ことを解体していくことが、近代の先進国の課題だったと思うのですが、それがほぼ解体しつくされて、息詰まっているんだろうと思うのです。



えっと、ひとつには、ダースベイダーが典型的なんですが、倒すべきラスボス!的に描かれてきましたが、僕は、共和国のジェダイによる寡頭政治による軍事独裁政権と、人々の欲望をベースに競争を駆り立てるパルパティーンの政治は、どっちが正しいかっていうと、悩んでしまうんですよね。能天気に、民主主義万歳!とか共和国万歳!とか思えない。そもそも、ジェダイは、エリートによる寡頭政治なのだから、弟子の育成が最も重要なことなのに、ジェダイの重鎮であるヨーダって、弟子まともに育てられていないじゃないですか。ダースベイダーとか、超アダルトチルドレンだし。アナキン、あんなかわいい嫁さんいて、才能あっても、母親の不在という子供時代のトラウマを超えられなかったというのは、本人も相当だめだと思うけど、オビワンやヨーダも、父親代わりなんだから、もっと考えてやれよって思うよ。その程度の子育てもできないで、おいおい、少数のエリートを信じるジェダイによる統治なんか、ありえないだろうって思うんですよ。早期エリート教育による、指導者の選抜と育成ができなくて、何が寡頭政治だよって思う。これは、結局のところ、家族のメロドラマを超えるような「新しい共同体」によるエリートの育成という構造が機能しないっていっているに等しいのだと思います。であれば、ジェダイのエリートによる倫理的な寡頭政治なんか、ありえないでしょう?。


そんで、ようは、ルークもだいぶマシだったんだけど、、、、、もう新世代のキャラクターたちは、なんというか、家族の影が相当解体されているよねって思うんです。僕は、そのへんが、色濃くキャラクター造形に出ている点は、さすがだなぁ、と思いました。


もうひとつは、そもそも父親って乗り越えるべきなの?ってテーマ。


アダルトチルドレン的な80年代90年代の日本の物語類型をずっと眺めてくると、家族にトラウマの原因を求めるのって、もう無駄だし、まったく先がないってのは、みんなしみじみ判ったんだと思うんですよ。もう壊れるしかないし、一度解決した!といっても、幼少期のトラウマなんて、ずっと追ってくるもんなんで、そもそも解決しようとかそういう、何か救われる方法がある!とか思ったほうが、最悪の結末にいくってみんなわかってきていると思うんですよ。あきらめて絶望することが、すなわち、許しっていうことなんだと思うんですよ。これ無駄な無限ループの問いなんで。だって、父親や母親に自分がアダルトチルドレンになった理由を求めたら、それそのものは正しいのだけれども、その次には、その父親がそうなった理由を問わなければならずに、祟りは親子七代に継続するおいうような、要は、家族の怨念の継続の物語になるんですよね。この前、津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』という大傑作を読み直していましたが、ああ、これでもかというほど、親からの影響の連鎖というのは断ち切れないんだよなーとしみじみ思いました。なので、この大テーマを追うならば親子3代の話を書くような、家族大サーガにしなければならないんですよね。そういう美しい物語は文学にたくさんありますよね。


ともあれ、この家族の憎しみの連鎖から、その連鎖を断ち切るのが、この父親殺しの課題です。ちなみに、アメリカでは父親殺しになるのですが、日本では、母親への許しになるようです。これは、社会の傾向のようですね。父性的なるものと母なるものどっちが、母型(マトリックス)にあるかの違いで、どっちも多かれ少なかれ同じことですが。昨今の、日本のサブカルチャーの物語類型が、女の子だけの日常系に進んでいくことや、友達がほしい!という(恋人ですらねぇ!)となるのは、今ある自分を受け入れて、今を楽しむ以外、逃げられっこねーよという結論を感じたからだと僕は思うんですよね。日本では、父親殺しというようなテーマを持ちにくいので、ようは、自己肯定感覚を、どう環境から獲得するか(親や過去のトラウマの解決からは不毛なのでそこは無視が正しいんです)?ってことで、原因を家族に求めるのは、非常に筋が悪い姿勢ということなんでしょう。家族のテーマになると、すぐナルシシズムに囚われたアダルトチルドレンの不可能な脱出への挑戦という物語構造になってしまうので、そこに現実的な出口を見つけられなかったので、そうなったんだと思います。


カイロ・レンにしても、彼が乗り越えるべく設定しているのはダースベーダーであって、そもそも、ハンソロに対して父親という認識、本当にあるの?乗り越えるべきではなく、ようは自分を捨てた人なので、いまさらある程度目標と居場所が見つかって大人になってから、家族に戻ろうとか、甘えたこと抜かすんじゃねえよ!って思ったんだろうと思うよ。僕も、そう思ったもん。そういうのは、トラウマが残らない、幼少期に果たすべき責任であって、大人になってやってきても、余計こじらせるだけだって思うよ。しかも、ジネラル・レイアのように、帰るべき場所を作り上げているならばまだしも、ハンソロって自由人で生きてきたの明白じゃない?。そんなやつが、いまさら父親だから、家にかえろうとか言っても、その家をそもそもお前ちゃんと作ってこなかったんだろう!って思うんだよね。でも、もちろん、ハンロソは、自由な人であって、そもそも過程がつくれる人ではなかったということを、過去の彼の若かりし物語を知っている人は、みんなそう思うと思うので、まぁ、どうしようもないなとは思うんですよね。


この父親殺し、いいかえれば、父親を超えたい、父親のもたらす連鎖をどう断ち切るか?というのは、凄く重要なポイントです。特に米国にあっては、最大のテーマといってもいい。だとすると、カイロ・レンは、ダースベーダーの孫で、レイアの息子です。じゃあ、もう一人のレイは?っていうと、、、、ここは、ルーク・スカイウォーカーの家族の物語、家族のメロドラマこそがスターウォーズの主軸の物語なので、本来ならば、役割的には、ルークの娘としたいところです。しかしながら、それでは、僕は、たぶんこの家族を自覚的に作ることが家族だという家族の解体を逆手にとってリベラリズムの現代の最前線の答えからしておかしい。とすると、なぜ、レイが、フォースを扱えるのか?。いうなればジェダイの血筋なのか?といえば、僕は、フィンのように、何もなかったところから生まれたものだという説をとりたいところです。血がつながっていると、またそれか、要は選ばれた人だけの物語なのか?という問いになってしまうので。であれば、やはり幼少期に、ルークの手ほどきを受けて、フォースの才能を見出されたが記憶を封印されたとか、そういった、ルークにかかわりがあるが、家族の憎しみの連鎖から自由なポジションで、カイロ・レンの父親殺しの憎しみの連鎖と対決するというという構造を僕はおしたいところです。


アメリカにおける正義のあり方のへの最もアメリカ的な問いかけと回答

アメリカ社会とりわけDeisnyは、シンプルな勧善懲悪、神話的な、物語の原型的なものへの強いこだわりを持ち続けてきました。僕的な言い方でいうのならば、善悪二元論的思考を考えるときに、善と悪をはっきり設定する。それは、子供時代、ものを考える判断力がない子供には、たとえうそでもはっきりと正義を示す必要性があるという強固な価値観があるからです。この考え方は、子供に対するスタンスの違い、また世界観として善と悪が混交している思想がベースにある東アジア系の移民が急増する中で、実は相当変わってきています。とはいえ、アメリカ社会が、この複雑な世界の中で、シンプルに割り切る善を子供時代には設定(教育)すべきという教育上の理念があり、その延長線上として、アメリカの社会そのものがあることは、意識しておいたほうがいいことだとおもいます。Deisnyの作品を、単純に世界観が浅い薄っぺらい作品と捉えたがる傾向があるように思うのですが、それは違うのです。

その中で、今回のスターウォーズはどうだったのか?問うと、もちろん、3部作が終わってみないとなんともいえないですし、そもそも非常に古典的、神話的なヒーローズジャーニーの物語類型をしているわけで、善と悪が戦うという見かけ上の物語は変わりません。でも、そもそも、スターウォーズって変な作品なんですよね。銀河帝国パルパティーンって、グローバリズム資本主義(欲望の肯定)と民主主義を進める強い意思のある人で、民主手続きにも非常に慎重です。彼の帝国というのはローマ帝国の形式に近く、皇帝は民衆の支持の上に成り立つものです。それに比べると、ジェダイの騎士の統治というのは、人治です。議会手続きは明らかに無視しているし、どちらかというと軍部独裁政権を目指しているとしか思えません。岡田斗司夫さんが指摘されていましたが、中国的な賢人政治を目指しているんですよね。でもそれって、ジェダイという選ばれた貴族による寡頭政治です。僕は、圧倒的に、パルパティーンを支持しますよ、政治的には(苦笑)。


ヒックとドラゴン』(原題: How to Train Your Dragon)』 ディーン・デュボア クリス・サンダース監督 エンターテイメントを外さない善悪二元論の克服としては到達点の脚本
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110123/p2


結論として、スターウォーズが投げかけるのは、とてもアメリカ的だなと思うのです。というのは、運営上、世界はプラグマティズムでシンプルに考えなければいけないので形としての善悪二元論は生きています。というよりは、たぶんに、西欧の民主主義のオリジンである古代ギリシアのポリス政治の歴史を思い出します。ようは、民主主義から独裁者を経て帝国になり、それが革命でもう一度戻るという循環的なもの。壮大な神話的なるものです。

しかしながら、その中身を見てみましょう。女の子のジェダイが新たなるヒーローとして設定されている点。その相方として、必ずしも恋人とはいえないかもしれないが、最も信頼できる異性として、黒人のそれも、エリート的なものではなく、ちょっといけていない感じの雰囲気で設定する点。ジェネラル・レイアという、レジスタンスの指導者、権力者が、長く、深く、そして実際的な権力の掌握者として、女性が設定される点。ファーストオーダーやレジスタンスの最前線兵士に、女性が非常に多く配置されている点。


もう、全然過去の世界とはシステムの中身が異なるのです。


静かに、世界は後戻りができないほど、変化してしまっています。実際、アメリカに住んでいて、ほんの15-20年ぐらい前に大学でアメリカの歴史や社会を学んだときと、まるで違う国になっているかのように思います。この極端な変化は、ああ、実験国家なのだなと強烈に感じます。


そして、ルーク・スカイウォーカーの父親殺しのテーマと、スカイウォーカー一族の家族のメロドラマを考える時に、もう一度、レイとカイロ・レンという異なる回答を選ぶであろう二人を新しい物語の主役に設置した点。ちなみに、この作品は、家族のメロドラマ、ソープドラマであるべきだとルーカスはインタヴューで語っていますが、その通りになっているじゃないか、と僕は思います。


僕は、非常にディズニー的な商業主義でありながら、静かにアメリカ的なものの最前線を描く素晴らしい作品の幕開けに感じます。



ということで、この作品は、ペトロニウスの名にかけて、傑作だと僕は思います。もちろん、まだ終わっていない作品なので、これで評価終了とは言えませんが、少なくとも、素晴らしいテーマを本気で、しかもエンターテイメントとして追求する姿勢は、第一級の見るべきエンターテイメントだと僕は思います。


ということで、2016年最初のレヴューでした。今年もどうぞよろしくお願いいたします。