グローバルなインナーサークルに入るためにどんな教育と経験が必要なのだろうか?

“エリート”への投資こそ、サラリーマン全体にも大きなメリットを及ぼす

 日本は今でも「スーパーマンがいない、作らない」という意味で「サラリーマン王国」である。しかし、サラリーマン黄金時代はバブル期で終わってしまった。全体の中での役割を演じるという受動的なスタンスでは、会社も個人も仕事がうまく回らなくなった。外部に積極的に働きかけ、自社や自分の居場所を確保し、積極的に賭けをして、役割を作り出していくリーダーシップが会社の役員には求められているのである。

 とくに、活動がグローバル化している現在の最大の問題は、組織内部での役割に忠実に生きてきた「いい人」であるサラリーマン役員たちが、グローバルなスケールでの実質的なルール決めをする「インナーサークル」に入れないことだ。本当に大事なことは、公開の会議の場などではなく、「インナーサークルでの議論」で決められるのは世界共通である。公的な場所では儀式的に討論がなされるだけで、その段階では重要事項はだいたい決まっていると言っていい。

 これはスポーツの世界でも同じで、過去にはF1もスキーのジャンプもバレーボールも、日本勢が勝った直後にルールそのものが変えられてしまった。それもこれも、日本人が「インナーサークル」で重要なポジションを取れていないからだ。IoTを始め、あらゆる分野での「規格づくり」で負けないことは、今後、戦略上きわめて重要なことなのだが、ここで勝つための人的投資をどれだけやってきたか、現在できているか……非常に心もとない。

 そもそも、日本のサラリーマンが役員になるのは大体50歳前後。圧倒的に遅い。そこから権限移譲された代表者として国際舞台に本格デビューするのでは、胆力が育っていないうえに、人脈ができたころに引退だ。また、「個」の弱さも問題だ。しなやかな強さはあっても、主体性や押し出しの部分で非常に「弱い」。

 また、協調を重視する日本企業だから当人に付託されている権限もあまりない。そして、悲しいことに個人としてお金を持っていない。衣食住、教養、世界観、歴史観、交友の広さ……。あらゆるものが日本のサラリーマンの平均よりは少しマシという程度だ(だからこそ、親しみも持てるのだけれども)。日本のサラリーマン上がりの役員が、グローバルなインナーサークルの仲間として認められるためには、全人格的な大変身が求められる。ちょっと海外の大学院に行ったくらいではどうにもならない(それでも行ったほうが格段に良いが)。
http://diamond.jp/category/s-soshikinobyoki

これは凄い納得する。僕も海外の比重が大きくなってきたところで、この2点は意識するようになりました。できるかどうかはともかく。


ひとつは、ある産業で勝ち残るということは、その産業の構造を決めるルールを作る「インナーサークル」のメンバーになっていないと、中期の競争で絶対に負けるということです。これは、グローバルな競争をしているときに、その産業の、ビジネスの基準を、決めている人々がいる、というのがわかってきたんですよね。そのメンバーに入らないと、ゲームのルールをひっくり返される可能性があるので、自分がひっくり返す権利を持ち、また相手がひっくり返そうとして着たらすぐに連絡が来るポジションにいないと、話にならないんですよね。たとえば、大きな古い産業なんかは、旧植民地の宗主国でしか構成されていなかったりとか、既得権益の深く広く複雑なインナーサークルは、その産業の強力かつ、長い期間のプレイヤーにならないと全然外から見えません。新しい産業でも、この基準を規制、デファクトスタンダードを決めるとインナーサークルに入っていないと、そもそも競争にすらなりゃしない。


では、インナーサークルに入るにはどうすればいいのか?、どういう人間がそこに食い込めるのか?ということになれば、それは、ある種の教養的な人格、、、、全人格的なレベルの高さが要求される。ようは、貴族としての振る舞いができるかどうか?的な、「レベルの高さ」が要求されるんですよね。それはそれでスノッブではあるんですが、実際にそういう層に食い込まないと、ルールメーカーの側には回れない。MBAなんかは、授業の内容なんか、ほとんど意味ないぐらいレベルが低いんですが(実際にビジネスやっている人からすると、ほとんどあたりまえの話)、あれって、価値の大きな部分に、そのレベルの人材と知り合いになる機会を作るということ、また卒業生のネットワークにつながること、などの交友関係を形成する、同じ価値を土台とする経験があるという安心感でインナーサークルに入りやすくなるためにあるんですよ。世界は多様すぎて、共通性がなくなるので、こういう共通化創造装置で、コミュニケーションコストを下げるということをしているわけです。


またそのレベルで話をするときには、教養、世界観、歴史認識、衣食住での豊かで豊穣な経験などが、当然の前提になります。そのあたりのエリートは、みんなその程度のことは、うそというかスノッブで無価値であるといっても、当然経験してくるんですよね。していないと、仲間とはみなされないので。なので、そういうエリート体験は、日本的平等の中では、非常に体験しにくいけれども、海外で大きなビジネスをやろうとすると、共通の経験がないと、話が、日常会話ができない。


日本の役員レベルの人材は、優秀な人が多いんだけれども、こういう、グローバルなインナーサークルに入るためのいやらしいスノッブさや経験が、ほとんどないんですよね。なので、そもそも「話が合わない」んです。教養とか、そういうのも、ようはスノッブな、俺こんなこと知っているぜ的な話で、それが立派だということにはならないと僕は思いますが、でもないと、話が合わない。ヨーロッパを発祥とする近代文明の教養を持たないと、そりゃあ、インナーサークルには入れないよね、と思います。


ただし日本の強みは、現場指揮官のレベル、平均値のレベルが高いことにあります。理由は、徹底的な平等思考で、格差をつけないことによって、お互いを競争させることにあります。なので、誰がエリートなのか、ということもわからないように、徹底的に隠します。なので、日本の組織の強みをそのままに、エリートを生み出すことは、ほぼ不可能なんですよね。これ、言っていることは正しいけど、やれ!といってできるほど、世の中は甘くない。では、このエリートを育成できない構造の中で、どうやって、人材を育てるか、いない中でどうやって規格を決めるルール作りのインナーサークルにはもぐりこむのか、とかそういう方向で考えないといけないよな、と思います。だってねぇ、、、構造的にできないことを、こうすべきだ!といいはるのは、どだい現実を変えない話なんで、あまり意味がないんですよねー。みんな普通に分析すればわかる程度のことがなぜできないかっていうと、それを阻む現実の構造があるからで、そんななかで、こうあるべき!というのはドン・キホーテロマンティシズムですよ。


とはいえねぇ、やっぱり世界中のいろんな人と、いろんな階層の人と、自由にしゃべれると、楽しいと思うんですよね。僕は教養主義者なので、できるかぎり、多様な教養を積んで、楽しくいろんな人としゃべりたいと思うんですよね。まぁ、ぼくのまず重要な教養は、漫画とアニメと映画だけど(笑)。でも、映画だけで、相当世界中の人としゃべれますからねー。近代の文明ってのは、エンターテイメント、特に大衆のエンターテイメントは重要な共通基盤ですので。それに、輪をかけてギリシア、ローマの歴史とか、中国史とか、それに近代ビジネスの最前線の基盤知識とか、いろいろあると、面白いと思うんですよねー。まぁ、別に、エリートになりたいわけでもないけど、話せると、絶対楽しいと思うんだよねー。


とかとか、そんなことを思いました。