ぼくらの住む日本社会は、どのようにできていくのか?

これは当時としては当然で、西洋諸国の侵略の脅威に瀕していた日本が生き延びるには、軍備を整えるとともに、軍隊の規律に従う人間を急いで養成する必要があった。そのための規律=訓練装置が学校である。そしてこうした制度の中で「優等生」になるのは、先生に忠実で規律を守り、場の空気を読んで「正解」を出せる生徒だ。

こうした家父長的な「日本型学校主義」が正社員を中心とする雇用慣行を生み、サラリーマンを理想とする文科省日教組の教育が兵士を再生産する。職員会議には法的根拠もなく、すべて全会一致で多数決がとられることはない。教職員のコンセンサスを得ない校長の「独断」は許されない。

こういう「学校社会」は日本社会の縮図であり、そこから生み出されてくる兵士は、素直で勤勉だが、自分でリスクをとって仕事を作り出すことができない。それは一時まで日本の会社には都合のいい人間だったが、今は日本経済の衰退の原因になっている。


http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51968168.html
学校という会社

池田信夫さんのブログを見ていて、いつもこのあたりの記事でため息が出ます。日本ってなーって。。。もちろんこれは民族性であって、良さと悪さは裏表なので、一概に悪いとだけ言えるわけではないのでしょうが、いまのフェイズでは、かなり悪い状況ですよね。

ただ、この40年サイクル説は、歴史を学んでいると非常に、なるほどと思う気がするのですが、処方箋が違うような気がするんですよね。ようは経営者が悪い、リーダーか小粒になった、もっと下剋上を!という方向に解決策を見出すのですが、それって大正デモクラシーの後の日本の解決策の模索と全く同じなんですよね。よりひどい崩壊をもたらす方向性のような気がする。

政党政治米騒動などの大衆デモクラシーが、大衆ナショナリズムを生み出したのだ。陸軍の中でも石原のような中間管理職が決定権をもつようになり、彼らが戦線を拡大した既成事実を首脳が追認した。満州事変以降の戦略なき戦争は、ボトムアップで「民主的に」進められたのである。

大正デモクラシー」が満州事変を生んだ
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51968641.html

むしろ下剋上を促すようなほうがさらにひどいことになりそうなもので、リーダーシップの確保をもっと制度的にしっかりさせる方が、と思うのですよね。むしろ、経営者がちゃんとした実権を持っていないからこそ、会社が腐敗するような気がするんですよ。また経営者が育たないのは、日本的な市場環境の特徴である、結社(アソシエーション)が、共同体に転嫁して永続的な存続をかじ取りなしで思考するようになるからであって、市場からの退出と参入をちゃんと機能させれば、経営者は育つような気がするんですよね。僕は明治維新後の、リーダーが小粒になったという説は、なんだかいいわけな気がするんです。創業期や建国期に比べて、リーダーが小粒にみえるのは当然で、だれもが野心満々の革命期のリーダー的であると、ようはナチスドイツや明治維新の志士たちのような、破壊に躊躇がないようなめちゃくちゃな人間にかじ取りを任せっぱなしってのもないだろうと思うんですよ。実際は、ちゃんとソフィスティケートされるリーダーがたくさん育っていた気がします。むしろ、憲法とか法律、制度とか、大本の仕組みを、定期的に大幅に改変していく手続きがないために、過去のスキームにフィツトした法律や環境が生き延びているのが、国を崩壊させていく大きな要因のような気がする。安倍政権のようなかなり時代錯誤的な右翼に基盤の一部を置いている勢力が言うと、生活者の視点が抜け落ちるので、だめだなーと思うんですが、そもそもぼくは、制度は大きく変えるべきだと思うんですよ。なので、左側の護憲とか、頭がお花畑な人々は、目指いしている方向性はたぶん正しい方向なのですが、手続き手法的には、逆の方向に舵を切ることを頑張って進めている気がします。むしろ生活者を無視しそうな右側の現実主義の勢力のほうが、現実的に手法が正しいという感じで、日本の政治分布って、本当にねじれている気がします。近代国家が目指す方向性は、リベラリズムの貫徹がもう当然であって、それが現実的になかなか合わない(安全保障と経済の縮小いう現実があるので)なかでどこまでギリギリで切るか?というところなのに、目標と手法が一致している勢力がないんですよね。日本の政治勢力で、なぜ右が目指すような現実的な手法と冷徹なナショナリズム国益手法で、左が目的とするリベラリズムが進む世界を目指す勢力がいないのかが、本当に残念に思います。だって、それが最も現実的な気がするんですよね。中国の台頭と、セキュリティー問題、中産階級の衰退、高度成長期から縮退期、フローからストックの経済システムへという多き流れで、非常に国益思考で右翼的で、かつナショナリズム的な思考は、手法としては、ほぼこれしかないと思うんです。自分を滅ぼしても、他者のためになろうというのは、国家の運営者ではあってはならないことだからです。しかし、同時にそれによって生活者の権利や自由が奪われていく現実をどう逆転させる実行面での解決方法を探すかというのが、、、、言い換えれば目標としては、レフトサイドの理想が重要になるに決まっているんですよ。現実がそうじゃないから。なのに、なんでそういう勢力が生まれないのか、、、不思議です。

残念ながら教育現場では、イエスマンを作るための態度指導や部活動での過剰なコミットメントのほうに重きが置かれすぎていて、職員室で学力向上の話題はほとんど俎上にあがらない。

とにかく日本の教育は空気を読むことに力点をおいている。

2015/12/26付週刊東洋経済では、厚切りジェイソンことジェイソン・ダニエルソン氏が、「ここがおかしい日本のIT」というインタビュー記事の中で、日本のIT業界の停滞を「決断しているリーダーが不足している」と喝破している。そしてその原因の一例を、ご自身の4歳の娘さんが通う日本の幼稚園で、紙飛行機ですら先生のいうとおりに作らないと怒られるという「悲しい文化」に疑問を呈して示している。

つまり日本の教育は、平成27年が終わろうとしている今日でも教師が「カリスマ」で「年功序列で来たイエスマン」を作りつづけていて、それがじっさい多くの日本の企業ではフィットしてしまうのだろう。

残念ながら教育現場では、イエスマンを作るための態度指導や部活動での過剰なコミットメントのほうに重きが置かれすぎていて、職員室で学力向上の話題はほとんど俎上にあがらない。

とにかく日本の教育は空気を読むことに力点をおいている。

2015/12/26付週刊東洋経済では、厚切りジェイソンことジェイソン・ダニエルソン氏が、「ここがおかしい日本のIT」というインタビュー記事の中で、日本のIT業界の停滞を「決断しているリーダーが不足している」と喝破している。そしてその原因の一例を、ご自身の4歳の娘さんが通う日本の幼稚園で、紙飛行機ですら先生のいうとおりに作らないと怒られるという「悲しい文化」に疑問を呈して示している。

つまり日本の教育は、平成27年が終わろうとしている今日でも教師が「カリスマ」で「年功序列で来たイエスマン」を作りつづけていて、それがじっさい多くの日本の企業ではフィットしてしまうのだろう。
http://agora-web.jp/archives/1665462.html

これも前に書いたけれども、日本の強みとリンクしているところなので、だめだめいっても、ドン・キホーテ・ロマンチシズムだなぁと思うんですよ。実際どうするのがいいのですかねぇ。日本社会にいて空気読めなかったら、悲惨ないじめの対象になるだけで、そういうものがうまく読めるのは、ある種の特殊な技術であって、国民的なカラーとしてそれができるのが、グローバルで必ずしも弱みにだけなるわけではないと思うんですがねぇ。だって、そうでなければ、成功している時期に、なぜあんなにも華々しく世界に乗り出せるかの説明がつかないじゃないですか。なんでもダメダメだけじゃないんだよ。