相手を悪魔化していいことは何一つ無いと思う。大衆が馬鹿になれば、外交のフリーハンドを為政者は失って、結局国家にとってマイナスだと思う。

その失敗の原因についてのヒントが、本書に紹介されているウィットフォーゲルの言葉にある。マルクスは「プロレタリア独裁」を個人が独立して権力を分け合う西洋社会を統合する原理として考えたが、中国のように「単一化した権力のもとで長く暮らしたものは、権力を分け合うことがむずかしい」。そこにマルクス主義を輸入すると、古代的な専制国家に戻ってしまう。

権力は皇帝が独占し、民衆はそれに従うだけという国に2000年以上も慣れてきた人々には「民主的」な政治は想像できない。その逆に中世に全国的な政権がなくなり、「家」や「村」などの社団の寄せ集めでやってきた日本では、そういう絶対的な権力をつくろうとしてもつくれない。絶対王制をまねた明治憲法の「天皇制」は、アナーキーになってしまった。

なぜ中韓とはわかりあえないのか 池田信夫 blog
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51968767.html

この議論の延長線上で、福沢諭吉の脱亜論を認めて、中国と韓国とは分かり合えない、という結論に到達する、というのがいま流行です。僕は、この流れの発想は、なんだか違うなーと思うのです。というのは、昨年の2015の3月AIIB以来、アメリカが中国に対して、集中して対抗する流れができているので、この流れに乗って、唯一AIIBに参加しなかった日本が、アメリカとの同盟をたてに、こういう流れを目指すのは、外交上、安全保障上、そして僕の感覚でも歴史の大きな流れからしても、正しいし、現実的な方向だと思います。


けれども、中国と韓国とは、歴史の積み上げている構造が非常に異質なので、単純には理解できないので、すさまじい誤解が生まれやすいという事実と、だからやつらとは敵対するしかない的な異質物を排除することは、まったく違う話だと思うんですよね。それって、逃げているだけです。地政学的に、隣の国であるという事実、圧倒的な文化経済の影響下にあるという事実は、なくならないのだから。僕も同盟を組むのは、価値観の基礎が違いすぎて、まだ100年ぐらいは難しいと思うけど、かといって、異質なエイリアンとしてデモーニッシュ化するのは、まったく違う話だと思います。どこで理解の接点を見出すかという対極的な視点で、付き合うのが成熟した大人の国家だと僕は思うのですが。国としては理解しにくい動きをしますが、個人は別に同じ東アジア文明をベースにする同じ感覚の人間なので、すげぇ付き合いやすいし友達になりやすいのは、間違いないんだから。アメリカに来て、異邦人として暮らすと、いかに東アジア人の共通性がでかいか、痛感しますよ。ようは、外部環境で、人の行動なんかすぐ変わるんだもん。



中国のように「単一化した権力のもとで長く暮らしたものは、権力を分け合うことがむずかしい」。



このウイットフォーゲルさんの言葉は、重いと思うのです。大好きな『蒼穹の昴』という清朝末の中国を描いた小説があるのですが、この小説のマクロのテーマは、単一の権力によって支配される皇帝専制主義が深く根付いてしまった中国において、あまりにひどい政治がはびこり、西洋や日本の植民地として虐げられる200年の流れの中で、どのように中国を近代化させればいいのか?という悩む、いわゆる幕末志士的な物語です。ここは、中国を理解すること、また中華圏の秩序にリンクしている韓国を理解するのに、重要なポイントなんだろうと思います。これも歴史が蓄積して生まれたひとつの、人類のあり方で、自分たちが違うからといって、馬鹿にしたりあざけったりしていればいいというわけではないと思うんです。


相手を悪魔化していいことは何一つ無いと思う。大衆が馬鹿になれば、外交のフリーハンドを為政者は失って、結局国家にとってマイナスですし。


それにしても、中国の台頭で、存在感が大きくなってきたが故に、非常に近くて文化的な共通項が多きにもかかわらず、かなりの差異があるところが浮かび上がってくるのですが、、、、そういう部分がわかればわかるほど、「そこ」に苦しみ抜き、中国の近代化を目指した人々の物語ってのは、胸が熱くなる美しい物語だと思います。ヨーロッパの文明の影響が全世界におよび、それに対抗していく物語は、非ヨーロッパに共通する物語だと思うのです。いやーやっぱこのシリーズ素晴らしいです。超おすすめです。

蒼穹の昴(1) (講談社文庫)