Web小説ってなんなの? 画一化したプラットフォームの上で多様性が広がること〜僕たちはそんなに弱くもないけど、そんなにも弱いんだろうね(笑)

この素晴らしい世界に祝福を!     あぁ、駄女神さま (角川スニーカー文庫)


この素晴らしい世界に祝福を!』  暁なつめ著 金崎貴臣監督  どういう風に終わらせてくれるんだろうか?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160313/p2


先日この記事を書いたんですが、うーんとね、どちらかというとマイナスに評価したような書きっぷりをしました。強い動機(=目的)がない物語は、好きじゃない、と。また、大きな物語類型が喪失している時に、この手の動機レスな永遠の日常をナルシシズムの中で戯れる作品が出てきやすいと書いているのも、このブログのこれまでの大きなテーマですよね。けれども、長く書かなかったので、表現が中途半端に終わったのですが、この作品が面白くないとか、ダメな作品と思っているわけではないんです。★3つですが、動機をめぐる評価軸が僕のブログでは基本なので、どうしても普通になってしまいますが、僕はこの作品大好きなんですよね。そもそも商業で出版される前から全部読んでるし!。


ラインバレルを酷評した時のように、ナルシシズムに溺れて、全くそれに対する問題点が描かれない最低のな作品だ、という意味で、動機が薄いというわけではないんです。カズマのって、普通にいいやつだと思いますし、構造的な問題点はなにもない。ただ、このブログのテーマで、1)成長して自分の動機を追及していく生き方と、2)永遠の日常の中で戯れて生きることは、対立軸として語ってきました。もちろん、ベストの解決方法は、このバランスやグラデーションにあるというのも、既に結論が出ています。1)の生き方も、2)の生き方もどちらもそれだけでは問題点があるわけですから。こうした永遠の日常を戯れる系の作品は、それとしての構造的面白さや仕組みがあるので、そこで語るべきだと思うんです。そして、永遠の日常系の作品として、素晴らしく出来がいい作品なんです!。


と、そういうなかで、敷居さんや海燕さんが、この作品を見て、SF作家の人が、こういう画一的な世界観は想像力の貧困なのではないかという批判が出ているみたいですよ、と語っていたのを見たんですね。


そんで、僕もどちらかというとマイナスの意見を出していたんですが、しかしながら、ああこの意見とは違うなと思ったので、ちゃんと自分の中で整理しておこうと思ったんです。まず第一に、僕は、永遠の日常を戯れるセラピー的な「小説家になろう」にフォーマットがある異世界転生ものは、大好きですし、物語の類型としてオリジナルかつとても価値あるものだと思っています。かつて友人のルイさんが、「僕たちはこんなに弱くないよー」と『乃木坂春香の秘密』と語ったのは今でも忘れられませんが、成長に偏るのも癒しに偏るのも、それはテイストであって、どっちが正しいという軸で評価できるものではないんだと思うんです。ましてや、僕は、殺伐としたリアルワールドのなかで、その癒しを求めて物語を消費する非常がとても大きいビジネスマンなので、成長を軸とする、自己向上を目的とするもの「だけ」がいい!というのは、賛成できません。結論を先に行ってしまうと、多様性があればあるほどいいじゃないか!と思うのです。

さて、きょうのラジオでも最後に少し話したのですが、「「この素晴らしい世界に祝福を!」はコンプレックスまみれの視聴者を徹底的にいたわった作品?」というまとめがちょっと面白いです。


http://togetter.com/li/931628


 『この素晴らしい世界に祝福を!』というアニメを巡る野尻抱介さんと新木伸さんのやり取りをまとめたもので、単純にいい切ってしまうと「反対派」と「賛成派」の対決という文脈で読むことができます。


 野尻さんはこの作品についてこう語っています。


トラック転生して異世界という名の想像力のかけらもないゲーム世界に行って、なんの苦労もせず女の子がいっしょにいてくれるアニメを見たけど、コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ。少しは向上心持とうよ。

 よく読むと色々ツッコミどころがある発言なのですが(トラック転生じゃなくてトラクター転生だとか、主人公はかなり苦労しているよねとか)、細かいところをあげつらったところで仕方ないので流します。


 このツイートの勘どころは「コンプレックスまみれの視聴者をかくも徹底的にいたわった作品を摂取して喜んでたら自滅だよ」というところにあるでしょう。


 ようするに「こんなしょうもないアニメを見ていないでもっとエラい作品を見ろ!」ということだと思われます。


 まあ、おそらくは1000年くらい前からエンターテインメントに対する批判としてあったであろうパターンなので、あまり新味はないわけですが、いっていることはわからなくもない。


 たしかに、このアニメを見て教養が身についたり人格が向上したりはしないでしょうから。


 問題は、ひとは普通、お勉強のためにアニメを見たりしないということで、この論旨を突き詰めて行くと「エンターテインメントなんて役に立たないから見るのやめろ」という結論になりそうだと思うのですが、どうなんだろうな。


 ひとは普通、鍛錬のためではなく楽しみのためにアニメを見るのだから、その点を否定してもしかたないとは思うけれど。


 とはいえ、まあ、最近のアニメ(特に萌え系)はいくらなんでもあまりに甘ったるいという意見もわからなくはないので、ある程度は傾聴に値する意見だと思います。



新しいオタク文化が見えない。
いまどきエンタメ解剖教室
http://ch.nicovideo.jp/cayenne3030/blomaga/ar993255


僕は、この系統の意見は、いつも思うのですが、敵が誰かを取り違えている!と思うんです。



この話と同じでんすが、仮に、エンターテイメントと教養に階層があるとして、いいかえれば、より文学とかそういった高尚な芸術に価値があるとして、上の文脈でいえば、自己向上を目指すような物語のほうが「上のもの」であるとして(僕はそう思わないですが・・・)、、、、だとしても、こういうただのセラピー的な、エンターテイメントを楽しむ層こそが、その後その、さらに上の階層に行く人々の予備軍であって、それを攻撃するのはおかしいと思うんですよね。違法ダウンロードする人ほど、実は音楽や映画にお金を使っているというアンビバレンツと同じ話だと思うんです。


なので、めっちゃめちゃ、粗削りで、プリミティブで、小さい欲望のためだけに描かれる物語が、たくさんあって、それが受け入れられて、何が問題なんだ!と思うんですよ。それだけマーケットが広いということになるだけで、限られたセグメントで奪い合っているわけではないんだと思うんです。こういうのが好きな人は、本当に面白ければ、ある割合で、どんどん自分で手を広げて、本や物語の金を落として、ヘヴィ-ユーザーになるもんなんです。だから、むしろ、間口が広くなること、敷居が低くなることは、素晴らしいことだと思うんですよ。



http://togetter.com/li/952223


とはいえ、じゃあ、これらの全部がフォーマットがあってパターン化したものは、想像力の貧困を招いているのではないか?という点は、なるほど、もっともらしい感じがします。どうもですね、画一化に対して、同じような世界観に収斂していって、そのルールの中でゲームをするようにパターンを変えることに対して、ものを作る人は、反対意見を持ちやすいんですね。海燕さんのいうように、モノづくりをする人には、強いオリジナル幻想があるので、ネット小説のありかたが、同人誌の作り方に非常に似ている傾向があって、オリジナルというよりは二次創作的な発想の手法をベースにしているので、標的というか、いら立ちの対象になりやすいようです。僕はこの話をしているときに、海燕さんとドワンゴのっていまは、カドカワか、の川上量生さんとの会話で、どちらかというとマイナスのニュアンスで、『小説家になろう』の、同じ異世界転生的なフォーマットに収斂していってしまうことを言っていたのを思い出すんですね。僕は、これ、非常に納得がいって、納得がいかなかったんです。

さて強さの話に戻ると、『HUNTER×HUNTER』のもう一つの凄さは、前作の『幽☆遊☆白書』でもエピソードとして出てきていてこのテーマを追求する片鱗を感じさせるのですが、ゲームのルールを書き換えることが、最終的な勝利につながるということを、強く意識した設計がなされていることです。いや、このいいかたよりも、この現実世界には、いくつものレイヤーがあって、どのようなルールに支配されているレイヤーに生きているのか?ということを意識しないと、簡単に殺されてしまうという恐怖と悲しみが、彼の作品の大きなテーマにあります。これが2つ目です。


ようは、チャンピオンを決めるランキング・トーナメント方式のバトルに、どのようなルール(=基礎構造)の変更をしたのかといえば、


1)強さを一律の基準で決められない多様性もちこみ、知恵と工夫で勝ったほうが勝つ、



2)自分がいるレイヤーのルールを壊すか、新しくルールを作りだすことができたものが勝つ、



という条件が設定されたんですね。ちなみに、2)は、凄い複雑で、


3)自分がいるレイヤーから、異なるレイヤーに移ることができた場合、そのメタルールをどう利用するか?


というような背景も隠れています。


これって、物凄い発見ですが、、、、この物語類型を十全に使いこなせている物語は『HUNTER×HUNTER』ぐらいしかありません。日本のエンターテイメント、、、いや人類のエンターテイメント史に残る傑作だと思います。これ。


さてやっと、川上さんの本に戻るんですが、彼が主張していることは、まさに、この1)-3)を意識した人が、経営者になれる人材だし、シゴトができる人だといっているんですね。そして彼は自分のバックグランドから、それは、シミュレーションゲームで学んだと。この本からは、テレビゲームのような、デジタルゲームに対して、むしろ一方的にルールを押し付けてきて「ルールの中でしかものを考えない」反射神経のみの方向に行ってしまっているととても敵意むき出しです。これは、非常に同感。なので、対談の最初の設定をとても裏切っていて、現在のテレビゲームをするような人は、与えられたルールを疑わないで、その中で頑張ろうとすることが教育されてしまうので、バカになりますといっているようなもんです。


なので、ここから導き出される教訓というのは、たぶん、、、、黎明期の「不自由なゲーム」をチャレンジしている人ほど優秀になれるということなんだろうと思います。この中身は、


1)黎明期の不自由な状態でも飛び込んでいくくらいそもそも強い動機を持っている


2)黎明期の不自由な状態で、ルールが形成されていく基礎からかかわっているので、ルールがどうのように作られたかをよく知っているので、ルールを変えるのにも躊躇しない


あと、もう一つ加えるとしたら、ゲームは、対人関係でやるもので、かつウォーゲームなどの戦略視点が必要なアナログゲームでないと、やはり効果がないといっていますね。


・・・・現在のゲーム業界のメインの部分のかなり全面否定な気がするんですが、、、(苦笑)。でもマー非常によくわかる議論です。


そして、今まで話してきたような、ゲームのルールを変えることを知っている人が、もっとも面白いゲームはなにかといえば、それは「現実世界」というゲームなんだぜって言うのは、結論は、まさにその通りだと思いました。



『ルールを変える思考法』 川上量生著 いちばんリアルなゲームは「現実世界」で見つかる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20140526/p1


ルールを変える思考法 (角川EPUB選書)


納得いった点は、ルールを作る側に立つ思考方法を持たないと、モノを作り出したり、リーダーシップをとったり、何かを変えたりはできないってことですね。こういうメタ的な思考方法を持たないと、根本的には、物事を変えることはできない。けれども、じゃあ、画一化しているような、なろうのせ回が本当に悪いものなのか?というと、僕はそうは思わないんですね。想像力、創造力のレイヤーが違うというのは、たしかにいえるんで、より深くまで到達しているほど、破壊的な影響力を持つというのは事実ではあると思います。しかし、ここで言う、深いと浅い、はどういう違いなのか?って思ったんですよ。




敷居さんがいろいろいているんですが、このへんの事を整理するときに、僕は比ゆとして、OSとアプリの違い、という風に物事を考えています。山本さんらSF作家の方々が、画一的だ!というのは、いってみれば同じドラゴンクエスト風の中世の世界観というOSにのっかって、ただアプリのパラメーターを変えているだけじゃないのか?という問題がひとつあるんですよね。もうひとつは、主人公にとって安楽な状況ばかりが用意されて、なんら成長がないという部分だともいます。まずは、この最初の画一的で想像力が貧困になっているんじゃないかという点についてなんですが、敷居さんもいっているとおり、山本さんの作品だって、そうしたOSフォーマットに乗っているんものもあるんじゃないですか。ようは程度問題なんで、アプリそのものを開発するのか、同じアプリでパラメータを動かすだけなのかというの違いなんだと思うんですよ。指輪物語とかラブクラフトとかの創造までいけば、OSの作成なんでしょうが、OSってたとえば、それって神話とか聖書とかそういうレベルなんで、まぁよほどのことがないとできないんで、これを要求するのは酷だと思うんですよね。そんなのできた作家なんてほとんどいないんだから。では、同じアプリを使ってパラメータだけ変えたのって。ようは二次創作なんですよね。


2016-03-24 二次創作的手法の一次創作
http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20160324/p1


なぜわざわざWeb小説なんて読むの?
http://d.hatena.ne.jp/sikii_j/20160314/p1


小説家になろう」のWeb小説における異世界ファンタジー類型まとめ
http://kazenotori.hatenablog.com/entry/2016/02/07/145236


敷居さんのこの辺の記事が面白いのでおすすめですが、ようはウェブ小説って、二次創作的な手法によって作成されているんだろうと思います。それは、ある一定のOS、アプリを前提として、そのアプリのパラメーターをいじることで、物語書くほうも読むほうも敷居を下げているんです。いいかえれば、ひとつのシェアードワールドのようなものなんですよ。たとえば、アメリカにおけるスーパーマンバットマン、日本における戦隊モノやガンダムプリキュアとか魔法少女モノなど、これもOSとアプリが決まっていて、そのパラメーターの料理を楽しむことで長く続くシェアードワールドですよね。それと同じことなんですよ。


ガンダムサーガシリーズを、パクリだ!とか、想像力の貧困だ!!という人はいないですよね。でも、同じことだと思いません?。


むしろ、安定したOSもしくは汎用アプリが確固たる形で存在して、その「範囲の中で」さまざまな可能性を追求するのは、凄い想像力の多様化を生むと僕は思っています。魔法少女モノからマドカマギカが生まれたように、長く続いているものは、プラットフォームとなって、その中にある可能性をあらゆるレベルまで追求させていくことになります。範囲が限定されてフォーマット、プラットフォームがあるほうが、多様性の展開は深まるんですよ。


ちなみに、プロスポーツを学問でやってる講義で昔なるほどと思った話があるんですが、その国の国家の力成熟度は、プロスポーツをどれだけもっているかだ、ということを聞いたことがあるんです。この場合、世界一と念頭においているのは、アメリカのアイスホッケー、ベースボール、アメフト、バスケの4つですね。実際には、予備軍みたいのはもっとたくさんある。日本の場合は、いまでもまず野球とサッカーですよね。でも2つ国民的スポーツでプロまであるってのは、なかなかないです。スポーツではあるんですが、これもスポーツというOSのなかで、汎用アプリがどれだけあるか?という話なんだと思います。汎用アプリの、言い換えれば、ベースボールが、西と東が分かれていたり、いろいろ細分化しても、想像力のというか、スポーツ力?の低下とか言いませんよね。その中でのさまざまなかの可能性の追求と、プラットフォームとなりうるレベルのものがお存在するというのは、別の話だからです。



そして、じゃあ、これが想像力の貧困になるか?といえば、1)アプリの際の中での競争という次元と、2)OSや汎用アプリの中での競争という、次元の違うレイヤーでのことを話していて、1)のレベルの話と2)のレベルの話をごっちゃにしているように僕には聞こえるんです。1)の二次創作的なものは、いまあるフォーマットでどんどんさまざまな可能性を追求したり、キャラクターの可能性を追求したりするし、目的もどちらかというと、いかにエンタメとして楽しいか!という物語の次元での面白さを追求する傾向があります。なぜなら敷居が低いので、そんなオリジナルであるとか、より見たことのない何かを作るとか、そういうことは、ほとんど考えないからですよね。たしかに想像力のレベルや内圧で考えると、OSをつくるJ・R・R・トールキンとかに比べると、低いでというか浅いですよね。でもこういう層がたくさんあることは、その次のステップに向かう母集団になるわけですよ。最初に書いたように、敵が誰か間違っている発想で、この母集団のレベルが低いので、全体のレベルが下がる「のではなくて」、母集団が広がり厚くなればなるほど、次のステップに行く層が厚くなるんですよ。なので、こういう作品が、たくさん出て広がっていくことは、歓迎すべきことであって、批判することはまったくおかしいと僕は思うのです。



ただし、僕が前回のこのすばの記事で語ったマーケットが「次を見出していない」というのは、次のOSもしくは汎用アプリレベルの土台のレベルで、新しいものが見えていないので、今ある可能性の中での繰り返しになると、購入層の新規が増えないこと、またもっとも癒しや快楽だけを求めるだけのセグメントの顧客を、さらに、細分化してしまうため、ここの作品のトータルの売り上げは落ちてしまうであろうこと。って意味はわかりますよね?。同じ集団の中で、同じ傾向の作品が集中すれば、みんな買うわけではなくて、どれか好みのものだけ選んで買うという形になるから、売上げが落ちるんですよ。同じような状況は、前に焼け野原、といったのは、リアルロボット路線と魔法少女ものという、巨大な汎用アプリがひとつの結論を持ち、その次が見出せない時期に出てきた作品群が、快楽線にそったものばかりだったのではないか?という仮説ですね。それに比べると、ソーシャルゲーム、VRやアニメ、ライトノベルからweb小説まで、いまはプラットフォームになるものがたくさん存在していて、その多様性は、僕はむしろ想像力の勝利だと思うのです。逆に言えば、ある種の知的エリートが、オリジナルの美名の下に独占していた創造の領域に、もっと敷居が低くたくさんの人が流入しているがゆえに、起きている現象だと僕は思うんですよ。なので、これで何の問題もなし!!!!!と僕は思っています。カクヨムが今後どうなるかわからないですが、小説家になろうのようなプラットフォームになったものが成熟化してサチュレートすれば、必ず次が出てきて世代や覇権OSや覇権アプリが変わります。また、ぼくはドラゴンクエスト風中世世界をベースにする異世界転生モノフォーマットは、日本が生み出したオリジナルOSともいえるもので、アメリカのヒーローモノやディズニーのように、ずっと残っていくハーレクインとかそんな感じの作品になっていくと思っています。だって、これ人類の普遍的な快楽線っているんだもの。なので、想像力の貧困どころか!巨大なプラットフォームの創造なんじゃないか!と僕は思っていますよ。



さっき、友人のヲタクのアメリカ人からラインが来て、このすばのアニメを飛行機の中で見ていたら、ビジネスクラスの前のカナダ人が同じもんみてたぜ!!とご機嫌に連絡してきました(笑)。まぁ、僕の知り合いは、極端な人が多いので、そこまで人気なの?かわかりませんが、でもそんなことがあるくらい、面白いと思うんですよね、この物語類型。なので、画一化とか、そういう言い方は、非常におかしいって思うんです。なので、川上さんが言っている話は、OSまで根本的にひっくり返そうと思うと、そういう思考形式がいるよ、という話なんだろうと思います。もしくはプラットフォームを新しく作り出そうと思うとね。でも、それだけが正しいわけでも、それだけが豊かなわけでもないと思うんですよね。もっとレイヤーの低い次元から、さまざまなフィールドがあって、参加方法があって、というほうが、その世界の豊かさに決まっているじゃんと思うんですよ。



とはいえね、もうひとつの向上心を持とうよ!というか、成長がない物語はだめなんじゃないか?という視点は、それは僕も同じ発想の持ち主なんで、なるほど一理あると思うんですよ。野尻さんのいうことは痛いほどわかる。この社会は、そんなに甘くはない。僕自身も社会では、現実では、同じことを言うし、同じことに力点を置いて、ぬるいことは一切言わないです。だって、死んだらおしまいだし負けたらおしまいなんだも社会では。いや、おしまいというわけじゃないけど、負ける癖がつくと、負けのスパイラルに入ると、本当に取り戻すのが難しい。最初の負けが、偶然でも、何でも、それで人生が決まって言ってしまいうことは多々ある。なので、、、、というのはわかる。まぁでもね、この新木さんの意見もわかるんですよね。いまの中高生が、暗黒を生きているというのはわかるんですよ。だからそのためにストレスフリーの物語を提供したいじゃないかというのもわかるんですよね。


ただ、いまの世の中が、そんなのばっかりにあふれている?と言うのは、本当にそうか?と思うんですよ。なろうは、同じフォーマットで、よりそこに感情移入できない人間だったららどうなるか?の思考実験がされているので、逆にどんどん厳しい方向へ描かれているものもたくさんあります。それに、このブログでは、新世界系モノという軸で、進撃の巨人などの類型を、現実の厳しさを不条理さを感じさせる方向に、ぬるま湯から舵を切る作品が増えてきたという話をしているんですね。そして同時に、癒しをさらに極めたというか(笑)、そこまで僕らは弱くないですよ、と思わず言ってしまいそうなほど安楽な作品もたくさんあるし、その導入部がないと、そもそも作品を見てくれないという環境が出てきているのは確かだと思います。


これも同じ話で、両方の類型が、多様性の中であふれているんですよね。これがどういうことかというと、演出の技術が凄い上がっているんだと思うんです。なので、演出レベルが少しでも低いと、厳しい話とか難しい話は、はぁ???ってしらけてしまうんだと思うんですよ。この高い基礎条件が当たり前の世界で、それでもさらにレベルが高いものをやろうと思うなら、昔ほど甘くねえぞ!って消費者の厳しい目が光ってているんじゃないか?と思うんですよ。昔の文学やSFなんかは、読み手も知識があるのが当然でした。でも、知識が、言い換えればリテラシーがある場合も無い場合も、ちゃんと物語に導入する演出レベルがないと、見る価値もないと今は捨てられてしまうんじゃないかなと思うんですよ。ましてや、通常のこの世界にいる人々ではない、新規層を誘い込もうとするときは、それが顕著。ようは、想像力が画一化したり貧困化したり、快楽線だけにそった陳腐な物語が受けているんじゃなくて、逆なんじゃないかなと僕は思うんですよ。多様性があり、どんな表現も受け入れられる下地がある代わりに、エンターテイメントとしての甘えのまったく許されない高いレベルが要求されている。このすばにしても、動機がない系統の作品だという「特徴」を除けば、小さな演出一つ一つが、凄くレベルが高いと思うんですよ。ましてや、なろうなどのそもそも、さまざまな小さな差異を同じアプリで描くような世界で頭角を現しているので、そもそものキャラクター等が素晴らしいんですね。それが忠実に描かれていれば、それだけで平凡な作品より、高い面白さを誇るものなんです。この「面白さ」を評価しないで、動機がないという「好き嫌い」の次元で切って捨てるのは、違うのではないか、と僕は思うのですよ。好き嫌いは、当然あると思いますけどね。ちなみに、クリエイターが、もしこういった動機が弱い成長のない作品を批判するならば、彼らがしなければならないことは、動機があって成長するめっちゃくちゃ面白い物語を作ることだけのはずです。言葉で言うのは、、、、なんか違うと思います。


とかとか、いろいろ思ったのでした。


ということで、このあたりの、小説家になろうに源を発する勇者と魔王のドラゴンクエスト的中世風異世界転生ファンタジーの類型を楽しみたい場合は、このへんの本とか参考にすると、いろいろジャンルにきれいに分けてくれているので、すごいいいですよ。ちなみに、てれびんとか敷居さんとか、知り合いが出てくると、ちょっとドキッとしますね(笑)。


このWeb小説がすごい!


ちなみに、、、、、、、勇者と魔王のドラゴンクエスト的中世風異世界転生ファンタジーの類型の最前線の作品は、やっぱ橙乃ままれさんですね。これは、読まんと人生そんしています。

まおゆう魔王勇者 (1) 「この我のものとなれ、勇者よ」「断る!」