大陸的な風景の感覚や自然への崇拝の感覚は、列島に住む日本人がとてもわかりにくい部分

アメリカで生活して、最も印象的なことのひとつは、やはり土地の広さだ。特にYosemite National Parkにいった経験は、とても感慨があった。というのは、海岸線からドライブしていると、海抜のめちゃくちゃ低いところから、めっちゃくちゃ高いところまでの、すさまじい高低差を、ほぼまっすぐの道で一直線に走っていくので、アメリカの広大な西海岸の風景がすべて時系列で、早送りの映像のようにすべて体感できる。実に6-7時間。アメリカの広大な自然の醍醐味は、Fwyをロングドライブすると、ガチで味わえます。あまりに素晴らしいところなので、なんども行ったので、身体が、この風景が実際に存在するのだな、と感じるようになったんですよね。僕は頭でっかちな人なので、自分が「頭でわかっていること」と「身体でわかったこと」の際にはいつも注意を払っています。いわゆるHigh Sierraなので、日本で言うととんでもない規模の大きさの上高地があるような感じといえばいいだろうか。おしむらくは、子供が小さかったので、トレイルを泊りがけで歩くといったことができなかったことですねー。



僕はアメリカが好きで、大学時代かなり勉強したり、いろいろな文学や小説を読んだのですが、いくつか非常にわかりづらいポイントがありました。というか、もうどうやってもこれは理解できない、というかぜんぜんわからないので、面白くないと思った点。その一つは、自然に対する崇拝の感覚です。日本人は、世界に冠たる自然を愛する民族であり、いまだその文化を色濃く残しているので、わかりそうなものなんですが、これがまったくわからない。たぶん、日本人のアメリカに住んでことが無い人は、まずわからないと思います。もしかしたら、北海道の人は、わかるかもしれませんが。。。。この「わけのわからなさ」を体感したければ、ウォルター・ホイットマン (Walter Whitman)の『草の葉』を読んでみると、すぐわかります。ヘンリーデイヴィッドソローの『森の生活』でもいいでしょう。なんだか自然を凄く賞賛しているというか、崇拝している感じなのですが、身体感覚的に何を言っているのかが、ぜんぜんわからない。

森の生活 (講談社学術文庫)






ところが、Yosemiteのロッジとかで、だらだらジョンミューアの自伝を読んでいたら、あらびっくり、これがわかるんですね。だらだら自然の描写が続いて、大学時代には、何の意味があるんだこれ?と思っていた表現がしっくりくるんです。何でかな?って思ったら既視感があるんですよね。ようは、ちょうど見てきた風景の感じが、その表現とぴたって当てはまったんで、ああ!このことをいっているのか!と腑に落ちたんです。いやー人間経験しないと、わからないものですねー。びっくりひゃっくりです。このポイントは、たぶん日本から見てアメリカ文学をさっぱり理解できないだけでなく、アメリカがさっぱり理解できないポイントでもあると思うので、重要だなぁとしみじみ思いました。この大陸的な風景の感覚は、あとは中国に行ったときに味わった感じですね。あの国とアメリカはとても似ていると僕は思います。

森の聖者 自然保護の父ジョン・ミューア (ヤマケイ文庫)

ラスベガスから。やっぱりアメリカは、長距離のドライブをすると、このあまりに日本と違う感!が味わえていいです。



デスバレーとかとか。