『シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)』 2016年日本 庵野秀明監督 もう碇シンジ(ヒーロー)はいらない〜日本的想像力の呪縛を解呪する物語(1)

評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★5つ) 

庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』。腰が砕けるほどの傑作だった。ペトロニウスの名にかけて傑作です。もう何でもいいから、劇場に行っていまお金を出して、この時代の転換点となる作品を見ることをおすすめします。これは、否定するにせよ肯定するにせよ、時代を画す作品なので、リアルタイムに劇場で見るべき作品だと僕は思います。


始まり10分で、これが日本のエンターテイメント史に残る傑作であるのがわかりました。それは日本の知性が、想像力が、ずっと逃げてきた政治と軍事を真正面から描いているからです。しかも、それを強い希望と肯定とともに。

日本は先の大戦(WW2)で300万人以上の犠牲者を国民にもたらし、アジアを惨禍に陥れました。それ故に強烈な政治と軍事への拒否感が育ち、内在してきました。すべての物語、想像力にはその刻印が根深くセットされ、現実を捻じ曲げる効果を生んできました。それは、WW1以後の西ヨーロッパもそうであったし、その平和への強い思いが、ナチスドイツの台頭を許すことになるのですが、とはいえ、それほどに、大戦争による影響が大きかったといえることで、それを否定することはできないと思います。

ましてや、この吉田茂の日米同盟というスキームに乗ってパワーポリティクスを米国に丸投げして従属することにより、徹底的に経済を鍛え上げ(石油や資源がなくても世界が日本を無視できないくらい)、生活世界を世界最高レベルの豊かな世界に!という日本の目指した路線は、僕は正しかったと思うし、信じられないほどの成功をしました。マクロ(歴史・政治の次元)においてもミクロ(個人の内面や生活世界)においても。それによって、次のステージに到達しつつある現代で、様々な問題点が生まれようとも、マクロのスキームとしての正しさ、その選択肢を選び取った先人たちの功績は、素晴らしいと思います。結局のところは、豊かさがなければ、リベラリズムも人権もなにもあったもんじゃないですからね。人としての誇りを守りたければ、経済成長が先なんですよ。


とはいえ、それが故に、日本的な想像力には、現実のパワーポリティクスに参加することへの強い拒否感、権力への嫌悪感などが戦後ずっとつきまとってきました。それ故に現実で描けないそれらが、漫画やアニメーションなどのSF・ファンタジーの物語世界へ屈折して現れるようになりました。しかしこの屈折を克服するのは、とても難しかったのも事実でした。物凄く単純化して歪曲すれば、右翼(戦前の大日本帝国は正しかったんだ!的な価値観)と左翼(平和が絶対で、もう一切現実に関わることはやめて閉じこもって外界を無視しよう!)と考えれば、左翼側の世界観も相当狂っているのですが、少なくとも1945年以後に、過去に戻れというのも、あまりにありえない選択肢じゃないですか。ましてや一時代前に、あれだけの大失敗をやらかしておいて。それに保守や右翼といってところで、あまりにレベルが低い。また左翼の極端な絶対平和主義(外界の現実を無視してほぼ引きこもり鎖国)は、先のWW2の惨禍をベースに生まれてきた草の根の信条であり、はっきりとした土台のある民族的経験に基づいたものであるが故に、これを否定するのは難しいことだと思うのです。そして、それは2016年の現代でも、決して変わっていない背景構造だと思うのです。


そのため、日本の知性は、想像力は、まともに自衛隊を直視しません。軍事力は悪だからです。日米同盟も、その本質的必要性や構造を無視して、直視しません。戦争の可能性は、すべて悪だからです。すべて平和を乱すものとして、悪としてデモナイズしてしまうだけなんです。われわれ現代日本人、1945年以前の昭和の体験をベースにしてつくられた「戦後日本」という時空間に住む我々は、程度の差こそあれ、そういう風に感じて考えてしまうものなんです。そして、それがあながち間違ったものだとも思いません。けれども、それが故に、「現実」に対して、目を閉じたような状態になっていたというのが、僕の現代日本の物語的想像力への分析です。これまで語ってきたように、このような「想像力の構造」は、我々の意識、無意識の基調低音であり、この刻印から逃れることはできないと思うのです。そういう世界に、社会に、僕らは生きているのだから。


ところが、ついに、日本社会のメジャーなエンターテイメントとして、この想像力の構造を真っ向から挑戦する、いや、既にもう乗り越えた作品が生まれました。この作品は、2016年の今でないと、描けなかったんだろうというのは、想像に難くありません。誰もが指摘するように、怪獣ゴジラは、本質的には大災害と同じ扱いであり、311を経験した我々にとっては、これがほぼ同じものであることを感じさせます。だからこそ、戦争級の大災害に対して、日本人が、日本民族が、この列島に住む人々が、どう立ち向かうのか?というWW2クラスの過酷な体験をベースに、「いま」に住む僕らが何をしなければならないのか?、それに直面した時に、何を直視しなければいけないのか?ということが、この刻印・呪縛を塗り替えたんだろうと思います。けれど、2011年から既に5年近く。物語のレベルであっても、こういったものが生まれるまでに、こんなに時間がかかったのか、と思います。311ほどの凄い経験を経ても、少なくとも僕は、映画や物語で、この現実を直視して射程距離に入れた物語を一つも見ることができませんでした。どれも、何かから逃げているような、というか、本当に中心の問いや現実を避けているような感じがして、何にも過去の作品群と変わっていないじゃないか、とずっと不満に思っていました。でも、結局は、311を経てさえも、戦前の問題点に、真正面から立ち向かわないと、この問いには答えられなかったんだろうと思います。だから、ろくに、この問題点にこたえる想像力が存在しなかった。それほどこの刻印の呪縛は、凄まじいものなんだろうと思います。


それは、はっきりいえば、戦後日本の想像力が拒否してきた政治と軍事を、真正面から肯定的に描き、それらの果てに希望を意識するということです。ついにそれが見れたんです。政治や軍事を描く物語、想像力はいくらでもあります。しかしそれを希望と肯定を込めて描くものは、これまで、まともに存在してきませんでした。戦前は正しかったとか、大日本帝国は間違っていなかった的な、肯定は陳腐すぎます。なぜならば、それで300万人が死に、国土が灰になり、アジアに災厄をもたらしたわけですから。何が間違ったのか?の真剣な問いかけと解決策への希望なしに、それらを直視することは不可能です。


庵野秀明の描く今回の『シン・ゴジラ』では、これほどの災厄に見舞われながら、リーダーたちは、そこに集う仲間たち、日本人たちは、決して未来の希望を失っていません。東京が消失するかの現実を見せられてさえ、それが揺らぐことがありません。矢口蘭堂長谷川博己)内閣副官房長官は、この最悪の状況下で、日本には人が育っている、日本に未来があるといい切ります。極端なブラックな職場、アホみたいに次々に生まれる意味不明の会議、縦割りの行政による権力の意思決定の曖昧さ、、、旧大日本帝国の、そしてそれを引き継ぐ日本的組織のマクロの問題点の、これでもかというほどの(笑)頻発する表現。けれども、その果てに、日本人は、日本社会は、昔の日本ではありません。最終決定は、首相に集約されてゆき、明らかに有能でも人間として優れているという感じもしない総理は、この膨大な日本的意思決定の積み重ねの果てに、決断を下します。そして、物ぶち言いながらも、その決断と責任から、逃げません。そう!逃げないんですよ、誰も!!!!。それがどんなに、ヘタレ的な、日本的な気の弱さ、煮え切らなさであろうと、逃げないんです。旧軍の問題点であった、海軍と陸軍の不和はもうありません。即、統合幕僚本部(アメリカの組織を模倣しついさきんやっと設置された)で統合プランが作戦されます。そして、即シビリアンコントロールに則り、防衛大臣、総理大臣へと決断が求められます。なにこのかっこ良さっ!!!。もうしびれてしびれて、どうしようもありませんでした。だって、ここで描かれているのは、僕らが「いま生きている現実」そのもので、我々がいつも苦しんでいる日本の官僚組織そのものなんですよ。けれど、この国を失う国難に対して、システムは輝き、過去の日本の失敗を克服し、「今ある僕らそのまま」でありながら、見事に対処してゆき、全力で立ち向かっていくのです。そこには、ヒーローすらいません。日本社会には、常に独裁者も英雄もいないんです。バカみたいなブラックな無味乾燥な集団主義、やりすぎの責任感、縦割りで意味不明の権力構造を、そのままに、それを超えて行くのです。そら、感動しちゃうよ!!!だって、おれもこの時代の、日本人なんだもん。このパーツの一つなんだもの。


僕ら日本人は民主党政権で、菅直人首相の下、未曽有の国難である東日本大震災、311に対して、大失敗をやらかしました。もっと、もっとやりようはあったのではないか?と、誰もが思っているはずです。その後の日本の底力や様々な、この国にあるしなやかな国民の力を見て、希望を失って、希望だけがない(村上龍)とかほざいている必要があるのか?ってみんな思っていると思うんですよ。ほんとうに希望がないのか?って、あの時、初めて切実に思いました。だって、その後、あれだけの大災害にもかかわらず、日本はまだ十分生き残っているではないですか。それを思えば、311や原発事故の対応を僕らはもっとやれたんではないか?、いや、僕らは、やらなければならなかったんじゃないのか?って。もう、やらない、決断しない、動かないことによる害悪は、僕らはこの20年以上、失われた20年といわれる時代を経て、いやというほど見てきました。バブル崩壊後、高度成長期が終わり、1990年代以降、マクロにしてもミクロにしても、動かなければ、状況の奴隷になり下がり、ただ生きていくだけのゴミになることを学んできたはずです。かといって、決断主義的(なんでもマッチョにYESかNOか、とにかく思い切ればいい!)に単純にマッチョイズムに回帰すれば、それはすなわち戦前の価値に逆戻りするか、そうでなくてもアメリカ的なものに取り込まれていくことにもなります。決断主義の行く末は、ネオリベラリズムとブッシュJr大統領でした。


とはいえ、難しいのは、人類にとって何が正しいのかわわからないことです。それらの制約の中であがき続けるしかないのが、最前線というやつなんです。アメリカを批判するのは簡単です。けれども、それ以外に、どのように国家を世界を運用するか、人類の果てしなくどす黒い欲望を統御するのかの代替案なしに、それを叫ぶことの無意味さは、もうみんな重々理解しているはずです。特に、WW2の惨禍による呪縛によって、日本は、なかなか軍事的なものを直視して、ニュートラルに考えようとはできません。ブッシュJr大統領の新世界秩序のように、自国の国益と人類の未来を意図的に重ね合わせて、決断できるほど純真というかシンプルに考えられれば、楽なのかもしれませんが。しかしながら、これが311の後だと、戦争と同じレベルの「どうにもならないもの」に日本人は、出会い続けているんですよね。それは自然災害。そして、このレベルの大災害に対処するには、個人の力では不可能です。政治と自衛隊レベルの力が必要なんですよね。そこで、やっと、このレベルの次元の力を使用することへの肯定を、僕らは獲得できたんだろうと思います。


そして、それを真っ向から描いて、表現したところに、この作品の素晴らしさ、新しさ、そして本質的なところへ到達している価値があるのだろうと僕は思います。


ノラネコさんは、こう書いています。

「もしも現代日本に怪獣が現れたら?」というリアリティの追求は、既に20年前に平成「ガメラ」がやった。
庵野秀明はじめ本作の作り手たちは、20年の歳月の流れを盛り込みながら、この路線を極限まで突き詰める。
登場人物個人の葛藤や苦悩は全てゴジラという大災厄に巻き込まれ、ほとんど何も描かれない。
彼・彼女らは皆“日本人”という群体の各種ステロタイプとなり、通常の映画的な意味での人間ドラマは限りなくゼロに近い特異な作り。
ここにあるのは、未知の巨大生物出現というシチュエーションで、日本の中枢で何が起こるのかという徹底的なシミュレーションであり、そこから見えてくるのはある種の日本人論とこの国の形、そして大破壊の向こうにある希望なのである。


ノラネコの呑んで観るシネマ
http://noraneko22.blog29.fc2.com/blog-entry-941.html


この作品は、日本社会の、日本民族の、日本近代の、日本の大組織の構造的病へ、ストレートに届いている作品だと僕は感じました。それ故に日本のエンターテイメント史に残る傑作である、と僕は思います。個人的には、やはり岡本喜八監督の『激動の昭和史 沖縄決戦』(1971年)『日本のいちばん長い日』(1967年)などの日本映画の正統な跡継ぎに感じる作品です。この戦争を扱った映画が問いかける、戦前の日本は何だったのか?、なぜあんなことになってしまったのか?という重く深い問いかけに対する、見事なアンサーになっていると思います。ああ、日本はここまで来たんだ、という希望を強く感じる作品でした。ちなみに、日本的意志決定の問題点、決断するリーダーの不在、組織ごとに村社会化して内ゲバに陥る、際限なく民主的な平等が行き過ぎボトムに権力が分散してしまうといった宿命の民族的病は、半藤一利さんの昭和史などの作品を読んで全体像を押さえたうえで、日本の暴走した戦争を、誰が、どのように、どのような構造によって止めたのか?という謎をめぐるテーマで『日本のいちばん長い日』などの物語を見ると、とても興味深いです。その他では『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』は、ぜひとも読みたい問題作です。同時に日本的なムラ社会がどう壊れていくかは、日本赤軍を追った山本直樹さんの『レッド』などもお薦めです。この辺を読むと、僕がい抱く問題意識が何か、わかってもらえると思います。

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しかし、この日本的問題点、特に権力の駆動は、非常に不可解。聖断(終戦天皇の意思決断)を追った半藤さんの本などを読むと、日本の権力が、日本の意思決定が、国が消滅する危機に際して、どれだけ複雑に駆動するのかを見ると、その不透明さにめまいがします。(まぁ、どこの国もちゃんとした歴史ある近代国家は、実はすごい複雑で意味不明なんですけどね。日本と同じくらいに。)ちなみに、それをまとめ切って最終決断を下した昭和天皇は、本当に英明な君主だったんだろうと思います。しかし、それを見続け、歴史として振り返り、構造を明らかにして、そしてその観察と分析の果てに、その後継続して続いている日本の組織の病を体験し続け、それでも未来を作ろうとしていく中で、この作品を見ると、とても興奮します。なるほど、日本は近代を乗り越えて、現代にちゃんと適応しつつある、まともな国なのだ!と。こんな風に前に進んでいるのかとしみじみ感じました。


ちなみに、現実は、まったく希望が持てない失敗しかしていないくせに(WW2も311もどれも失敗ばかり)、何が日本はまともな国になったんだ!とか嘘つけ!とか、こんなのしょせん物語だ!とかいう人は後を絶たないと思いますが、エンターテイメントの領域で、広範に大衆に浸透していく物語類型に、こうした物語が現れることは、非常に価値があるものだと思います。なぜならば、未来は、僕らが生きていく中で内在している物語によって紡がれるものだからです。アメリカ文学におけるアメリカンジレマイアッド(アメリカの嘆き)や合衆国憲法のmore pefect union(アメリカの歴史は未来に存在す=アメリカは永遠い成長し続け、いまを否定する!という宣言)と同じように、物語類型として、たくさんの人に支持され、あたりまえのように感じられるものは、その国を変える、と僕は思っています。というか、その国の世界認識のイメージ変わったからこそ、こういうものが出てきて、支持されるのだろうと思います。なので、このタイミングで、庵野秀明の作家論的な文脈をベースに踏まえ、ここまで来たのか!と思う時に、日本はここまで来れたんだ!と僕は感じるのです。問題意識というのは、必ずしも解決しなければいけないものではなく、関係者や大半の人が、その問題を問題だ!と認識するだけで、長中期的にはほとんど雲散霧消して解決してしまうことが多いです。なので、最近の様々な本や報道、物語を見ると、そうはいってもコツコツ戦前の日本のダメさ、現代日本のダメさの構造が、共有されているんだなと、40年ぐらい生きていると、感じます。それくらいしか前に進まないともいえるし、逆に、ちゃんと進んでいるんだ、ともいえると思います。それが善き結果を生むかまではわからないですが、まぁ、進んではいますよね。


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さて、大枠は話したので、僕がこう感じるに行った思考の履歴を、追ってみましょう。この作品を見ている時に、僕はいくつかの作品が、頭をよぎりました。全体でいうと、上であげた『日本の一番長い日』の岡本喜八監督や半藤一利さんの『昭和史』です。そして、この作品が日本の組織がどのように難題を解決するか?という「組織を主語にして」描いた映画だというのがわかった瞬間に思い出したのが、本広克行監督の『踊る大捜査線』でした。このテーマは、村上龍さんの『五分後の世界』(1994)『愛と幻想のファシズム』(1984-87)などの作品群のテーマでもあり、また一番これを追い詰めた作品は、押井守監督の『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993日本)でした。このあたりの文脈の系譜は、この物語三昧でずっと追い続けているテーマなので、普段からの読者さんにはおなじみのものだと思います。そして最後に、ゴジラという大災害が日本の手を超えて世界に影響が与えるとわかった時に、日米同盟と米軍が、そして米国が登場してくるに至って、ああ、これは「そこ」まで到達しているんだと思いいたったのが吉宗綱紀さんの『マブラヴ オルタネイティヴ』(2006日本)でした。ちなみに、エンタメの世界では、相当有名な作品だと思いますが、これも日本のエンターテイメント史に残る超ド級の素晴らしい物語なので、頑張って体験することを薦めします。当時の文脈がないと、マブラヴ(無印)という作品から見ると長すぎて、本当に入り口は入りずらいのですが、全部やりきったら、こんなすごい物語に出会えて、人生最高だ!と思えるような凄い物語体験ができます。ぜひともおすすめします。

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さて、特に、吉宗綱紀さんの『マブラヴ オルタネイティヴ』に対して、10年も前に全力で長文の記事を書いた時に出した結論は、テレビ版新世紀エヴァンゲリオンで、庵野秀明監督が、物語の次元で描き切れなかったものを引き継いだアンサーだ!といいました。これは、10年近くたって、正しかったんだ!とはっきり断言できました。それは、『シン・ゴジラ』と『マブラヴ オルタネイティヴ』の構造の類似を考えれば、はっきりといえます。


結論から言うと、2つの大きな柱。自意識の病、アダルトチルドレンになって行動の動機が失われて、動けなくなってしまうということへの対処方法です。


ちなみに、前段階として、この20年近くのエンターテイメントの問いは、動機が失われていくことに対して、永遠の日常で戯れて遊んでいればいいじゃないか?という問いかけをしました。ようは、動機がなくても、何もしないでいいじゃないかっていうことです。それが端的に出ているのは、押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)や、村上春樹の『1Q84』(2009-10)などです。これらの類型では様々な展開をするのですが、基本構造は、並行世界をループし続けるという題材が生まれます。これは、そのほとんどがどこをループしているかといえば、本人の内的世界をループしており、いいかえれば、「行動の次元」に足を踏み出せずに、ずっと内面で悩み続けている状態を指していることは明らかです。並行世界のルート分岐の中にさまよいこんで、そこから出られなくなる。そして、そこからの脱出劇が物語の構造になります。この脱出が、イコール行動の次元で一歩踏み出すことになるのです。『灰羽連盟』(2002)とか、もう見ていて村上春樹以外の何物でもなかったですね。

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村上春樹の『海辺のカフカ』など、基本がこの類型の延長にありますよね。年代的に、宮崎駿(75歳)、押井守(65歳)、庵野秀明(56歳)と時系列に考えることができるのですが、押井守さんだけが、『スカイ・クロラ The Sky Crawlers』(2008)を見るように、このループから出ることが正しい!と足を踏み出す作品を、はっきりと作っていない!というのは、とても世代論的になるほどと唸らされます。戦前により近い宮崎駿さんは『風立ちぬ』を作り、現代により近い庵野さんは『シン・ゴジラ』と『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の『Q』(2012)を作成しています。

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既に、もう、ループする並行世界の中で、悶々と悩んでいること(行動しないこと)は、だめだ、勘弁してくれ、と結論は出ているのだと僕は思います。この辺りをエンタメにする手法もほとんど開発されつくしましたしね。



その対処方法は、自意識の問題に対しては、自分がやるんだ!という主体性を、当事者意識を取り戻すこと。それは、物語類型的にも、人としての生き方としても、つまりはベタヘの回帰。仲間を守りたい。好きな女の子を守りたい。そこに、どんなだめな理由があろうと、そのシンプルさを、もう一度見直し、そこで無駄に躊躇しないこと。どんなに躊躇したところで、それが「正しいかどうか」なんかわからないんです。不確かなこと、絶望的なことへ、でも状況がそうなってしまったから、一歩踏み出すことが、人類を前に進めてきたんです。もしくは、仮に、行動を起こすための根拠があいまい、、、いやそれが人類の破滅や戦争につながるかぼ可能性があっても責任から逃げないこと!です。逃げちゃだめだ!と叫んでいたシンジ君がウソのようです。逃げて逃げて逃げ続けて、まったくそれが意味がないこと、一周して、逃げても結局現実に戻る以外道はないことが、みんな実感されたのだろうと思います。この20年で。


そして、その覚悟を、自分の当事者意識と責任を維持するために、現実をちゃんと直視すること。現実とは、日本人であることという具体的なことから逃げないこと。安易にファンタジーの別設定に逃げない。宮崎駿は、戦前を直視しました。戦争の道具である飛行機や戦車が大好きな自分を肯定することから逃げなくなりました。庵野秀明は、『シン・ゴジラ』において、現代で軍を動かし、政治を動かさなければ解決できないことに、逃げない物語を作りました。それが、いつに東京を、日本を、果ては人類を滅ぼすかもしれないようなゴジラと同居して生き続けないという過酷な現実でも、受け入れて戦うしかないんです。なぜならば、逃げようがない現実だから。


そして、『シン・ゴジラ』の現実を直視していく過程で、吉宗綱紀が直視した構造と、同じものを見ることになります。それは、日本の現実が、米軍との同盟、米国との関係に、その基礎が支配されていることです。良い悪いの問題ではなく、単なる事実として。そこを見なければ、日本を直視したことになりません。そこが基礎の中の基礎。そして世界にとって、精確には米国にとってリスクがあるという状況になれば、アメリカは、躊躇なく日本を滅ぼすという事実も。『マブラヴ オルタネイティヴ』では、ほぼ核ミサイルと同じといえるG弾が横浜に落とされています。日本人は、その廃墟とともに、重力場の狂った土地に住み続けて生きています。また、人類の防衛のために、いつでも日本を切り捨てる様がつきつけられます。アメリカは、人類の最前線といういいわけで、コマのように日本をすり減らします。このシンゴジラもそうですね。全く同じ話です。ようは、究極の状況になり、それが人類や米国にマイナスならば、日本人は自らの手で自らを守ることさえできなくなってしまうわけです。まぁ、アメリカ以外の、ほとんどすべての国が、そうなんですけどね(苦笑)。なので、日本だけが!というような幼稚なナショナリズムや反米思想は無駄な話です。アメリカは、人類を支配している超大国なんですよ。その現実を直視しなければ、日本人である立脚点は、語れないんです。この『シン・ゴジラ』は、まさにそこまで射程距離に入れていますよね。ついに、『マブラヴ オルタネイティヴ』が当時出した答えに、庵野さんが到達したともいえるんですが、おもしろいのは、オルタ自身が明らかにテレビ版のエヴァの見れなかったその先を描こうとした作品だったことですよね。ああ、こうして、想像力というのは連鎖していくんだ、って思います。


さて、もう少し細かく見てみましょう。


何度も書いているように、この物語三昧の大きな分析のテーマである90年代以降の自意識の病、自意識の告発の物語の類型というのは、究極に分かりやすく言うと、シンジ君は最後になんでエヴァに乗らなかったのか?という問いです。世界を、家族を、仲間を、好きな女の子を守るために、なぜ戦えなかったのか?という問いです。


色々な理由を設定できるといえども、結局のところ、少年に世界を守る気概がなくなり、現実に関わる動機が磨滅していたとしか言いようがない。


この話は、宮崎駿監督の『風立ぬ』で解説しました。


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これが、何を表しているかといえば、宮崎駿が、


今の時代は少年を主人公にする物語が描けなくなった


といっていたことです。ようは、良かれと思い善意溢れる努力を突き進むと、それがどうしてもマクロ的にコントロールできなくなり、世界を全体主義や戦争へ突入させて滅びに結びついてしまう。そうした構造が見えている中で、男の子的な少年の夢を成就させる、自己実現させる方法が宮崎駿には見いだせなくなったのだと思うのです。


そうして、少女ばかりが主人公になっていくことになります。


未来を夢見て生きる(=少年の夢)ではなく、現在の日常を楽しむ視線に変化したことを指しているのだろうと思います。このあたりは、永遠の日常をめぐる言説というか、解析は、物語三昧とLDさんとは、散々やり続けているので、つながりを実感していただけるのではないかと思います。


さてこれは、庵野秀明の『新世紀エヴァンゲリオン』のシンジくんのキャラクターを見ていけばよくわかるのですが、ガンダムなどの類型・・・人類を守る崇高な仕事、敵と戦うロボットの操縦者に選ばれるということに対して、1980-2010の少年像が、どう変化してきたかをビビッドに感じることができるはずです。この部分については、漫研サイトのLDさんとずっと話し合ってきましたが、それまでのロボットアニメでは、どんなに愚痴を言おうが文句を言おうが、結局は、人類を最後は仲間を守るために、必ず敵と戦いました。しかし、それを、どんな理由付けがあろうと、僕は嫌だ!とテレビシリーズのシンジくんは叫んで拒否するに至ります。これは非常に画期的なことであったと、僕等は観察しているのですが、ここで起きた問題点、感覚、時代の受け入れ感覚は、まさにこの宮崎駿が主張した、少年を主人公にできない=少年の夢をストレートに語ることが不可能になってしまったということと同義です。何が正しいかわからない外部環境構造から、正しさが見いだせず、動機を失い行動する意思が消失する。


中略


しかし、、、、72歳にして、彼は決断するわけです。それでも、たとえ善悪の彼岸を超えても、夢を追うべきだ、と。


たとえ、国を滅ぼしても、ゼロは美しいのだ、と言い切るわけです。・・・・これってめちゃめちゃ挑発的で、挑戦的なことではないか、と思うのです。そして、、、時代背景的に、少年の夢が去勢され続けてきた時代に、もう一度、少年を夢を強く押し出したわけです。日本の少年よ、と呼びかけて。


これを退行だ、と批判する人もいるかもしれません。これまで少年の夢の善悪の彼岸を超える部分に対して、そのような危険なことには行動を起こせないという風に、世界の複雑さに立ちすくむことから、退行して、ただ単に悪にコミットしただけだ、と。しかし、僕はそうは思いません。それは、彼が『未来少年コナン』や漫画版『風の谷のナウシカ』で追及してきた背景を考えればわかることです。

既に、この問いに対して、全体主義とは何か?、人がもたらす悪とは何か?、技術のもたらす最果ての地はどこか(=世界の終末)?などなど、宮崎駿の思考履歴、そして作品履歴は、この真摯な追求によって為されています。彼は、少年の夢がもたらす世界の進歩が、世界に終末をもたらすことだということをこれでもかと考え抜いてきました。そもそも、最初期の出発点である『未来少年コナン』にその問いがはっきりとあります。


その背景を、理解し、心底考え抜いた上で、それでも、夢を追うべきだと喝破するわけです。




風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1


結局のところ、吉宗綱紀さんが、『マブラヴ オルタネイティヴ』で、何が正しいかわからなくなり、どんどん行動の動機を奪われていき、無印の『マブラヴ』のハーレム構造の中で女の子たちとイチャイチャ戯れて、永遠に続く日常のループの中で、何も決断せず、現実の深さの基盤に触れることもなく、幸せに生きればいいじゃないか!という選択肢に、決然とNO!と叫んで、戦うんだ!と主人公に喝破させたとは、必然だったし、やはりそこに着地するべきなんです。物凄くベタだし、360度一周まわってきた着点なので同じではないのですが、それでもやっぱりほんとうに当たり前の、使い古されたお話です。


エヴァの問いの答えも、それしかなかったんです。そして、主人公の白銀武が、その決断に至るために、丁寧に自分が気力をなくしたアダルトチルドレンになってしまわぬために、行動するための「立脚点」を問いかけていく構造もまた、とても論理的だったんだと思います。僕は、クーデター編を傑作だといっていたのですが、彼が戦う理由を探していくときの一つとして、人類のため、というような抽象的なものでは、自分の手を汚す決断するまでには至らず、自分が日本人であるというところに向かっていくことは、やはりそこしかなかったんだな、と思うんです。これは右翼的な意味での抽象的な日本人というような全体主義的なことではなく、自分の身の周りの家族や仲間、手が届く範囲の共同体という意味でのペイトリオリズム(愛郷心)というやつなんだろうと思います。そこ「も」見ないと、人は動く根拠が持てないんです。


ファーストガンダムで、冨野監督が見つけた着地地点は、家族(父親も母親も恋人さえも)が失われたとしても、「まだ僕には帰るところがある」と、自分が止むに止まれずに巻き込まれて一緒に過ごして生き延びてきたホワイトベースのクルーの元にアムロは帰ります。ガンダムのテーマは常にそれです。戦う目的も家族も失った主人公が、一緒にいる仲間にその根拠を見出していく…それは僕らの人生そのものだと思うのです。それは、ただ単の元からただ生まれついた家族ではなく、自覚的に選び取って、一緒に過ごしてきた人が家族なんだという、とても自覚的なものだったと思います。


日本の物語は、マクロ的なものを無視する代わりに生きる根拠を、自分の手が届く範囲の人を守るという方向に舵を切ってきました。これは非常に動物的な人間のリアルに基づいています。『ハンターハンター』で、旅団に対してゴンが叫ぶのは、仲間のために平気で命を捨てることができるほどの熱い絆を持つ奴が、同時に赤の他人を虫けらのように殺せる矛盾をなぜだ!と告発します。これは、今の時点では、まさに、それこそが人間なるものなのだ!という身も蓋もないリアルが、日本の物語では描かれています。

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だからエヴァQで、この次を書くには、エヴァに乗らなかったシンジ君の物語(自意識の病の物語)をどこに着地させようか?と問うならば、実は、ヱヴァンゲリヲン新劇場版Q以降というのは、描きにくいと思うのです。だって、具体的な立脚点がないと、SFやファンタジーはいかようにも物語ることができますが、その自由度が、なぜそれを描かなければならないか?の必然性を奪ってしまうからだと思います。もちろん答えはドラマトゥルギー的に考えれば、そしてこれまでのこの類型への問いかけの答えを見れば、とにかくシンジ君(主人公)が意思を取り戻して、世界を、家族を、友だちを、好きな女の子を守るという、あまりに使い古された陳腐な着地点以外はあり得ないんです。けれども、この先を描くのに、エヴァの世界では、守るべき日常と仲間がすでに失われている。。。。その具体的な部分である日本さえも。それでは、先が描けないんです。一度、日本に戻らないと。


別の角度からいうと、日本の物語類型は、ヒーローがいらない物語に着地しつつあります。それが、日本の物語世界のトレンド。この話も、ずっとこのブログでしてきましたね。



GATCHAMAN CROWDS』 中村健治監督 ヒーローものはどこへ行くのか? みんながヒーローになったその先は?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131015/p1


ガッチャマン クラウズ:コンプリート・コレクション 北米版 / Gatchaman Crowds: Complete Collection [Blu-ray][Import]


ここでまとめている話ですね。このトレンド通りに、Qでは、シンジ=ヒーローを必要としないミサトさんたちが描かれています。当時僕は、そこにしびれると、唸っていました。しかし、その先が描けなくなった。


ドラマトゥルギーでは、ヒーロでもない、そういう内的動機もない、普通の人々が戦う理由は何だろう?といえば、答えは出ている。それは、家族(血のつながりは関係ない)、身のまわりの人(仲間)のため。目の前にいる人のためだけなんです。ちなみに、これは、漫画版ナウシカで出した宮崎駿が出した結論でもあります。


しかし本当にマクロを捨て去っていいのか?という疑問は残る。ここでいうマクロというのは、墓所の科学者たちが、滅びつつある人類を復活させるために、それしかない!といえるような壮大な解決策を用意していること。ナウシカは、それを拒否し、ぶち壊します。それは論理的に言えば、間違った行為だと思います。これらの世界を良くしようとした設計主義的な科学者たちの系譜を、僕は、エボシ御前(もののけ姫)からラオ博士(未来少年コナン)まで、ずっと追ってきました。彼らが真摯に、人類のために、巨大な解決策を用意してきたのは事実なんです。そして、それは多分、ほぼそれ以上の方法は、いまのところ見つからない人類の良心。科学的、論理的思考の到達地点。リベラリズム的なもの、頭で考え得る、正しさの行きつくところ。

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しかしナウシカが、なぜこれらを虚無だ!(論理的に言えば、ナウシカの方が明らかな虚無です。人類を滅びに任せろ、と言ってるわけですから)と、拒否できるのか?と問えば、それは、彼女が人類のためとかそういった抽象的な何かのために生きているのではなく、「風の谷」の、という具体的な場所に生きる、虫が大好きな女の子であるという「立脚点」があるからなんです。だから、目の見える範囲の仲間を守るは一つの真理であり、いまの日本のトレンドにもそって、風の谷という具体的な土地と仲間のために、彼女は決断し行動します。これは、人類を守るなどという大きな問いが掲げられた時の判断の根拠をどこに置くのか?という問いなんだろうと思います。


つまりは、「どこに地に足をつけるか?」という問題が残る。これは、セカイ系の議論ととても似ている構造で、人類とか大きな括り(=セカイ)と彼女(目の前の大切な人)という極端が結びついて、真ん中の具体性が抜け落ちる。それでは、人は自分の手を汚しても決断することができなくなるんです。白銀武は、クーデター編で、人類を守る!などということをずっと唱えながら、自分の手を汚すことがついにできませんでした。彼はその理由は、自分が日本人としての立脚点を、考えていなかったから、ととらえました。ここはオルタの分析で書きましたが、人が本当に大きな決断をしていくには、1)自分自身、2)日本人であること、3)人類の一員などの、グラデーションというか層になっていることが、シームレスにつながって理解されていないと、戦えないんです。自分のためだけには、人は戦えない。日本人であるなんてことが、命をかける理由にもなりません。人類のためになんていうことで、仲間を犠牲にしても前に進む決断はできません。この3つの立脚点を、ちゃんと埋めて、考え抜き、苦しみ抜き、ギリギリのラインで、人は、やっと行動の次元にコミットできるようになるんです。少なくとも、ヒーローの悩みは、少年の夢を取り戻す時には、このことが背景になければ、既に前に進めない時代になったんです。ちなみに、この記事でなんで、日本人であることとは?なんていう、ちょっと右翼的というかナショナリスティツクなことを連呼しているかというのは、わかると思いますが、我々の自意識の中に、こうした組織的なもの、個人と国家の間にあるものの認識が、すぽっと抜けているのが、われわれ日本人の戦後の病だからです。自分のことを考えているだけでも、人類なんて言う抽象的なことを叫んでいても、人は行動の次元に到れないんです。もちろん、日本人であること!だけでも、無理でしょうね。

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だから、自意識の病を追い続けた、庵野秀明さんの作家主義的なテーマの展開を考えれば、抜け落ちているところがどこにあるかわかりますよね。


その答えは、実にシンプルなんですよね。


それは、日本人であること、、、、それが、だって、具体的な事実なんだもの。そこを描かなければ、世界がちゃんと完結しない。


だから、庵野秀明は、この物語、日本を描いた『シン・ゴジラ』を作らなければならなかった。


でなければ、エヴァQの先を描けるはずがないんです。


ちょっと、先走り過ぎました。


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あまりに長文になりすぎて、(2)にも続きますが、ではこの日本人であること、日本の組織の抱える問題点を現代的にとらえ、警察組織というドラマをベースに、それを超えようと苦闘してきた『踊る大捜査線』の流れを読み解いていきたいと思います。


続く。



http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160909/p1petronius.hatenablog.com



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