『シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)』 2016年日本 庵野秀明監督 もう碇シンジ(ヒーロー)はいらない〜日本的想像力の呪縛を解呪する物語(2)

シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)』 2016年日本 庵野秀明監督 もう碇シンジ(ヒーロー)はいらない〜日本的想像力の呪縛を解呪する物語(1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160823petronius.hatenablog.com


続きです。


このブログは物語類型の文脈(ペトロニウスが設定する、ある角度からのものの見方の仮説・解釈)を追うことで、異なる領域の様々な作品を紹介していくというスタンスで書かれています。なので、僕の意見に賛成反対はあろうと思いますが、ぜひともここで紹介するたくさんの作品群を見返したり、初めて聞く人は興味を持って、いっちょ本当かどうか確認してやろう!とか、見直して新しい仮説を発見したり、反対意見を構築したりして、物語を楽しむ!という豊かさに貢献できれば、うれしいです。それでは、僕が上記の解釈に至った思考の履歴を追ってみたいと思います。

昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)

ちなみに蛇足ですが、僕は予測が正しかったとか、文脈が正しかったとかの、真偽論は無駄だと思っています。重要なのは、その結論が生み出されてくる膨大なロジックと事実の積み重ね、重厚なプロセスの駆動の仕組みが、この不透明な、なんだかわからないものに秩序を与えるのに有用かどうか?だけだと思っています。シンプルにえば、思考の履歴過程が重要だと思っています。物事を深く理解できる、ということは、この思考の履歴をどれだけ重厚にできるか?ってことだと思います。批評としてはロジックの完成を持って、それはそれと、一つの完成をうたうことは可能です。しかし、新しい物語を生み出し、新しい物語を楽しみ、新しい物語に貢献するには、そういう賢しらな批評ではなく、受け手がどのような複雑な見方をするのか?という「見方の豊穣さ」の積み重ねに貢献できることが、大切なことなんじゃないかと、僕のようなただの消費者というか受け手にとっては、そうであるといつも思っています。


■『踊る大捜査線』(1997日本)のその先に〜日本の組織はどこへ向かうのか?

僕は、初めて見た時から、『踊る大捜査線』の大ファンなんです。それは、この作品が、日本の大組織をめぐる問題点に、全力で体当たりしている作品に思えたからです。だから、刑事ものの物語類型を、以前と以後では全く違うものにしてしまっていると思います。過去の『西部警察』とか『太陽にほえろ』とか『あぶない刑事』、火曜サスペンスなどを考えてみれば、この作品以後で、警察組織という巨大な組織がどのように複雑に駆動しているかの前提なしには、物語が説得力を失っているのはよくわかると思います。消費者が訓練されて、警察を描く時には、「これ」が前提なんだというのが当たり前になったんですね。もちろん火サスのように情緒に訴えて、組織やマクロを無視するソープドラマとして割り切るという方向性は、またありなのですが、少なくともそれは一時代前の様式美になり下がって、この物語の前線ではなくなっています。では、僕が『踊る大捜査線』に見出した仮説というか文脈は何だったのか?。どんな問いかけをこの物語がしたのか?というのを過去の記事の引用してみます。

日本社会について何かを書くときに、横軸と縦軸があると思うのだ。

横軸がよく書かれていると感じるのは、『踊る大捜査線』や『機動警察パトレイバー』などにあるように、日本 社会の組織の構造的問題点をテーマにしているものだ。この前書評書いた山本七平氏の『日本はなぜ敗れるか』や小松真一氏の『虜人日記』や、山崎豊子の『白い巨塔』『不毛地帯』などなど。 僕は、サブカルチャーが好きなので、マンガなどが多いが、とにかく真面目なものからサブカルチャーまで舞台が日本であればすべて同じ原理で評価できると思います。


これは、現場と指揮官、エリートとノンエリート、キャリアとノンキャリア、本社と子会社、支店などの日本の社会の構造的権力構造の問題を扱った場合だ。


ちゃんと抽象化する視点があれば、自分が置かれている事の不満や苦しさが、この大きな日本の社会構造を源に発していることが凄まじくあるはずだ。日本において組織を描くならば、このテーマは避けては通れない。


とりわけ、明治維新以来、世界史上最高の平等化システムとして発達したナンバースクール東京帝国大学を中心としたペーパードラフトによる選抜システムと、その結果としての勅任官など(ようは近代天皇制度ね)を中心とする官僚組織の発達は、日本近代化100年の大成功の根本基盤です。世界に誇る制度です。そして、その根本基盤こそが、薬害エイズ脚気の問題などの薬害問題や、分けのわからない軍の暴走を許した統帥権問題や、まったく合理性を書いた米国との戦争や、その引き際の最低さ、国家レベルでの戦略性の欠如などなど日本の病巣の最も深い原因でもあり、日本民族の恥でもある。『もふ』で描いている狂牛病の判断問題も、この薬害問題と同じルーツの話だ。


横軸とは、今現在の問題を分析したり、物語にするときに、この構造的問題点・・・・日本社会の官僚システム(官僚とは、組織があるとこはすべてであって、公務員のみではない)の素晴らしさと病巣の両方を射程にとらえているかどうか?、だ。


日本社会のけるある程度の規模の組織に属し、日本社会の中に生きている人間であるかぎり、この構造的問題点は絶対に無視し得ない。


すべての自分の生活の良さと悪さの遠因・・・もしくは直接の原因となるものだからだ。



物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html


日本の大組織に勤めるものとして、当時の僕は、青島刑事と室井管理官のに、この無間地獄のような苦しみから抜け出る希望を見出しました(笑)。今でもはっきり思い出せるのは、2つの問いかけ。



1)室井さんは、偉くなってくれ、おれたち現場のために。


「ずっとヒラの刑事をやってきた俺の結論だ。やりたいこと、やりてえんだろ? だったら偉くなれ」(和久さん)


「俺たち現場のために、室井さんは上に行ってください」(青島)


このセリフはいまだに涙なしには、見れないというか、、、、僕の組織人としての、結論の先取りだった気がする。自分が正しいと思うならば、偉くなるしかない!。権力を勝ち取る以外に、正しさは貫けないうえに、何も守れない。


2)「事件は会議室で起きてるんじゃない!現場で起きてるんだ!」


このセリフは、日本の大組織の病の一つである本社と支店(とか下請け)、意思決定と現場の乖離がひどくなっていくときに発せられる言葉です。日本の組織は、一度決めたことをやめる・撤退するということができないので、外部環境が大きく変わった時に、意思決定の中枢部が幻想というか妄想ばかり見て、現場の言葉を無視して現場を全滅に追い込む癖があります。そのことを、1980-90年代の日本の世界を席巻したエレクトロニクス産業などのものづくり産業が壊滅していくときに、ああ、またこれか、、、、と戦前の大本営参謀部と現場指揮官とのやり取りを思い出して、歴史的に日本はまったく変わっていないんだなーと思ったものです。



ちなみに、1980年代から30年近く、僕もビジネスマンとして長く日本を観察、体験していて、この問題意識が意外に面白いところに展開したことがわかっています。


(1)日本の産業、あれ?まだ滅びてなくね?


戦前の大日本帝国、それを支えた日本軍は壊滅、全滅、解体してきれいさっぱり消え去りました。獲得した領土、投資し続けた植民地もすべて失いました。1980-90年代の日本の産業の、外部環境が変わると、大きな戦略変更転換ができない(戦前でいえば、満州を捨てるとか、不可能だと腰を折ってアメリカの属国として頭を下げるとか・・・・)病は、見事に継続中で、どんどん日本の産業はめちゃくちゃになっていく様、世界で負け続ける様を見て、ああ、もうこりゃだめだ(笑)って思っていたんですが、いまこうして30年近くたってみると、ダメになったところは驚くほどダメになりましたが(特に家電関係のメーカーね)、いろんな分野で生き残っているところは、世界に通用するレベルの組織に育っています。モザイク状で、全体が総勝ちするようなことはないけれども、でも渋く強い。アメリカに行くと、日本の家電産業の壊滅ぶりというか、既に消失してしまった感じはよく見れるのですが、同時に、日本の車メーカーの存在感のでかさに驚きます。もう米国そのものじゃないか?というくらいの、米国における巨大な存在感。アメリカ人に言わせると、もうアメリカで作って、アメリカで販売されて、アメリカ人がやっているんだから、アメリカの会社ってことじゃね?日本の車メーカーのトヨタとかアキュラ(ホンダ)、インフィニティ(日産)とかさ?とか言われます(笑)。日米構造改革協議とか何とかで、いいようにあしらわれて日本の部品産業の裾野からサプライチェーンモデルをすべて米国に移植して教えて奪われちゃうような、そこまで負けなくてもいいだろうっていうような負けっぷりだったにもかかわらず、日本の車メーカーの凄さは、いまだに凄いです。ちなみに、それをすべて電気自動車でひっくり返そうとかいうテスラ、イーロンマスクとかって、恐ろしいほど凄いです。


というか、ようはね、一言でいうと、結局は、調子こいて勢いとかの高度成長(内需の拡大)に乗って何も考えなかった組織、世界の構造転換や大きな外部環境の変化に乗り切るだけの苦しみを経なかった奴らは、みんな消えているってそれだけなんですよね。とても単純なこと。そして、それくらい総崩れに負け続けても、日本全然なくなってないじゃん!ってことです。ぼく、もう滅びるんじゃないかぐらいに、当時深刻に思っていましたが、ここまで経済の規模がある一定レベルを超えて成熟化すると、苦しんで戦っているやつが生き残って、そうでない組織が死に絶えるだけなんです。そして、それで全部滅びるほど、日本は、もう既に弱くもないんです。ようは、スケールと質が、既に一定規模を超えたんですよ。日本は。もう多様性の時代で、何かが社会を代表するような、単一平均の時代が終わっているんですよ。強いところは、実は、ものすごく強い。弱いところは、もう生き延びるのすら無理なくらい弱い。



(2)すべては社長(トップ・リーダー)が悪いっていうけど、ほんとうに悪いのは下剋上して暴走する現場なんだよね!


あと、ずっと山本七平さんとか、様々な本とかを読んで考え続けて、そして自分がビジネスマンとして組織経験を積むうちに、日本社会で、本当に悪いのは実は現場なんだ!ってことが、実にわかってきました。なんだか、戦後の日本社会は、すべては上層部が悪い、トップが悪いということを言いたがる被害者意識が刷り込まれて、基本理念となっているので、常に、現場が正しいことをしようとするのに、それを無視する無能なトップ、上層部という物語を作りたがるのですが、それは全くのウソ。だって、日本の大組織は、サラリーマン組織で、下から上がった人間がトップに立っているんだもの。そして、下との接続をうまくできる人だけが、上に上がる。日本社会というのは、古来より、それこそ卑弥呼の昔からそういうものなんです(←極端ですが、僕はそう思っています)。現在のような外部環境が、どうなるか全く不透明な時代においては(=目標とするモデルが存在しないということね)、日本の組織では、圧倒的に独裁権力をふるえるオーナー型の企業が強いのです。ちなみに、柳井さん、孫さん、永守さんとかね。確かご本人たちは、大ぼら三兄弟とか、妄想三兄弟とか、自分たちのことを笑っている気をどこかで見ましたが、いやはや今の日本的経営のロールモデルですよ。これらは、はもう見ればわかりますよね。そして日本の強さは、ボトムのレベルが異様に高いこと、現場で戦術指揮をとれる人材がたくさんいることなんです。こんなのアメリカクラスの先進国いっても、ありえません。マネージャー以下なんか、ほんとうに使いものにならないほど、自分で考える能力が存在しません。でもいいのです、アングロサクソン型の組織は、ジョブディスクリプションに基づいて、誰が来てもすぐ動くように作られているるんです。ビジネスモデルというのは、戦略が正しければ、現場がほとんど無能で戦術指揮がとれなくても、だいたい勝てるようなもの以外は、やらない!んです。米軍が特にそうですよね。日本のように、戦略自体がほぼめちゃくちゃなのに、現場のブラックな努力で、何とか勝とうとする現地指揮官とか、そんなのいないんです。アメリカだと、忠誠心ほぼないので、すぐ現場の人は逃げ出してやめちゃうので(笑)。けれども、戦前の大日本帝国の外征軍(海外で独立して、すべてが機能する集団)を見るとよくわかるのですが、戦略がめちゃくちゃで曖昧なんで、現地が自分たちが死なないように生き残れるように、部分最適で全力疾走し始めるんですよ。関東軍とか、まさにその例。もっと大きく見れば、陸軍や海軍のように、ムラ社会化して、ボス山のサル同士の、リソースの奪い合いで、自壊していくんです。陸軍なんか、そもそもアメリカ軍以外で、負けたことないんじゃない?というくらい現場での連戦連勝でした。中国に対してって、一度も戦術レベルで負けたことないんじゃない?って感じなのに、戦略で大負けしていくんですから、たまったもんじゃないですよね。それは、単純で、全体最適を無視して、現場だけで生き残るために、他の現場とボス山のサル争いをし続けるからなんですよね。日本の組織の病です。現場が強すぎるんです。なのに、日本の物語類型は、一貫して虐げられる現場!という物語を捏造し続けてきています。いまだに。マルクス主義の影響もあると思うのですが、それ以上に、自分たち現場が下剋上できて、権限を奪い取るために都合のいい物語なんですよ、これ。



でも、本当はそうじゃないの?というのが、少しづつわかってきた気がするんですよね。この場合のわかるの主語は、日本社会の普通の人々がです。


だって、日本の組織の病と、それがもたらした惨禍って、プラスとマイナス、この200年ぐらいで、でかいのがもう4つ。プラスは、まずは、近代日本の建国。二つ目は、戦後の復興と高度成長、ちまりは現代日本の成功。マイナスは、80年かけて築いた帝国の自壊、壊滅。もう一つは、戦後築き上げた高度成長の結果のバブル崩壊による大崩壊。どれも、何が悪かったの?というのを、ちゃんと曇りなき眼で見てみると、みんな同じ問題点に行きつく。日本は現場が暴走して、コントロール不全に陥って、戦略が不在になる。もともと戦略がないのも特徴ですけどね。そう、日本は、戦略が不在。特に、いったん決まった方針、理念が、外部環境がめちゃくちゃに変わっても自力で変えることができなくなって、最後は、空気のせいだ!とか言って、すべてを破壊して無に帰そうとするんですよね。参加者が、がんじがらめになって、もうやになってしまうようなんですよね(苦笑)。上が悪いのではなくて、現場(様々な組織のボトムからの圧力が強う過ぎて)からがんじがらめになっていく。

それでも、日本人は「戦争」を選んだ (新潮文庫)

なぜ戦前にアメリカとの戦争を決断したのかの意思決定のプロセスを見ていると、もう、どうにも動かせないから、みんなで死のう!すべてを破壊しよう!!それがいいや!っていう感じで、終末による崩壊を選んだとしか、僕には思えないんです。日本で大組織で、様々なプロジェクトの栄枯盛衰を見てきましたが、最後は感極まって、みんな死のう!的な結論を選びたがるんですよ。いわゆる、デスマーチ状態になって、もうなにがなんだかわからなくなる。もう、規模の大きさはあれ、どれも同じ。ここにオーナーのような、強権の意志決定者がいると、それを回避できるんですよねー。でも、日本の強さは、ボトムのレベルの高さだし、戦術指揮官の超優秀さなので、そこの強みを消しても、決して勝てないんですよ。デスマーチなんていう意味不明なことに、質と責任にこだわって、上の無能や戦略不在をカバーしようとする現場指揮官や労働者が、社会の過半だとかいう、意味不明の責任感の強さで構成された超雁字搦め社会の日本だからできる、気が狂ったクオリティとか、わけのわかんないビジネスモデルが成立して、消費市場としても、世界でも意味不明のレベルの高いマーケットとなっているんですよねー。何がいいことか悪いことかって、本当にわからんのです。ガラパゴスが悪いとは僕は全く思わない。なぜならば、それはオリジナリティだから。これからの人類に最も重要なのは、オリジナリティなので。日本は、ただそれを利用する方法や、グローバル規模でマネタイズすることができていないだけ。



ちなみに、先ほど上で書いたように、みんな空気で感じがらめになって、もうどうにもならないから!みんなで死のう!!!って結論に陥りがちな、生真面目、日本ですが、この解決方法は既に分かっているんですよね。


それは悩んだまま、やり過ごせ、です。


もうスケール規模ともに、人類の最前線レベルのものなんで、簡単にはつぶれないし、つぶせないんですよ。世界が、日本を無視できない。まぁ、いまはグローバル経済なんで、日本「だけ」を無視できないんではなくて、それなりの規模の経済はすべてにリンクしていて、簡単に無視できないんですよ。なので、デスマーチとか、頑張りすぎないで、やり過ごすんですよ。そりゃ、一組織が崩壊したり、信じてた会社共同体が一瞬で消え去ったりしますけど、生きてれば、なんとかなるもんなんです。



なんか、話が長くなりすぎたんですが、『踊る大捜査線』で意思決定の次元と現場の執行部隊との乖離の問題を、日本的な組織の現実を材料に、出してきたことが、僕にはしびれたんですね。これ、掘り下げる止めちゃくちゃおもしろいっ!って。



そして、室井さんが、上に行けば、それが変わるんじゃないか?



って感じたんですよ。いやはや、どう考えても論理的に、室井さん程度の小物が上に行っても、ダメなのはわかるんですが、それをくつがえす熱量と、青島刑事と室井管理官との熱い思いを感じたんですよ。その熱量がある作品でした。可能性とかだけじゃなく、そこに関わる人々の志と熱意が世界を変えていく可能性があるのは、いつの時代も変わらない普遍の事実だからだと思います。



ちなみに、話が進んでいく過程で、このリアルさを追求していく果てに、



事件は、会議室と現場で同時に起きているんだ!ってことが、みんなわかってきたんです。



いいかえれば、A)意思決定の次元とB)現場の執行部隊の、それぞれの問題点があり、このAとBが相互にお互いの問題点や、そもそもの存在意義を理解していないディスコミュニケーションが、問題だってことなんですね。問題がわかれば、答えは出たも同然です。極端な話、何が解決しなくとも、それぞれの次元で、お互いが何を問題にしているのか?のコミュニケーションと相互理解が進めば、問題はほぼ解決するからです。この問題点が、表に出た時点で、ほぼ解決しているも同然なんですね。同時に、室井さんが上に行っても、劇的に警察組織が良くなるわけでもありません。が、こういう室井、青島のような問題意識を持った世代が、組織でポジションを獲得していく過程で、組織はグレードアップしていくものなんです。なぜならば、正しいマクロの意識と情熱があるからです。なので、警察組織という官僚組織単体では、決して、腐敗しきらず、コツコツと自浄がなされていくのだろうと思うのです。僕らはそんなにバカじゃない。



踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!』  本広克行監督  秀逸なテレビドラマの「続き」〜ただし、もうそろそろこのテーマでは限界があるよね
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20110318/p3

『容疑者室井慎次 THE JUGEMENTDAY』本広克行監督
http://ameblo.jp/petronius/entry-10003814797.html

交渉人真下正義』本広克行監督
http://ameblo.jp/petronius/entry-10001734077.html

踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ! スタンダード・エディション [Blu-ray]


その後の映画作品を見ていくと、室井さんが上に行っても、何一つ根本的なことは変わっていない様が示されて、物語としては熱量を失っていきました。それは、これが室井さんと青島の友情というか志の物語であり、彼らの個人の域を超える問題意識自体は、警察組織を描くのでは限界があったからだと思うのです。


警察組織では限界がある。どういうことかといえば、青島にせよ、特に室井さんにせよ、官僚なんです。官僚がダメと言うのではなく、近代国家の組織を描くのに、官僚だけでは、問題が解決しないんです。特に、意思決定のマクロの次元の問題点を改善しようとすれば、政治家が出てこなければ話になりません。しかし、政治家が出てきた時点で、政治家の世界を描くには、刑事の物語では、スケールが小さすぎるんです。なぜならば、国政のレベルの次元とかかわることは、警察官僚だけで話が決まらないからです。もちろん、さらに深い日本の病巣である、省庁間の縦割り行政の問題、ひいては日本的ブラックボックスの闇になっている司法の世界にまで射程が広がるからです。



という物語の類型的限界が、踊る大捜査線には、ありました。だから、これ以上の話がつくれなくなってしまったんだ、と僕は思います。話としては、政治を射程に入れているスピンオフ作品の方が、面白いくらいに僕は思います。


この作品は、そうはいえでも、日本の警察を描いた作品としては、もう二度とも出れないルビコン川を渡った作品で、これ以後、警察のドラマを描くのに組織としての問題点を描かないことはあり得なくなりました。



しかし、意外に物語というのは、直線的に進まない。これ以降、この問いに、全力で答えた作品は、まったくないのではないか、と僕は思っています。



残念ながら、日本映画やテレビドラマの次元で、僕の興味をそそる、この文脈で展開された作品は、その後、まったく見ることはなくなってしまいました。くすぶるような作品は、様々なところで見るのですが、踊る大捜査線のような、ストレートに全力でこの問いかけにぶつかっていく物語は、ないように思えます。



このテーマの果てに、誰も、この問いを真摯に問う物語作家がいなくなったことが、僕には、とても残念に思っていたのが、この20年近くなんですよ。




村上龍五分後の世界』と諫山創進撃の巨人』に見る隠されたマクロ構造のSFファンタジーへの屈折


さて、このテーマを、もっと広く日本の物語類型の中から観察してみましょう。過去に『マブラヴ オルタネイティヴ』の超長文記事を書いたときに、このクーデター編寄せて、僕が本を読むときの大きな文脈の一つである、現代日本を描くための想像力としてベースにならなければならないことの説明を長々としているので、そこを引用してみましょう。

■クーデター編の日本の現代の想像力が為し得る極限まで描いている


このクーデター編を体験していて、ふと思いついたのが、アニメーションのコードギアス村上龍の小説『愛と幻想のファシズム』と『五分後の世界』でした。とりわけ、現代日本社会のマクロを描いたエンターテイメントとしては、村上龍さんの下記シリーズ(僕の中での勝手なシリーズ化)、現代日本を描く最高の想像力の一つと惚れこんでいるので、これと類似性を感じるというのは、すなわち相当のレベルの傑作であるということです。コードギアスはまだ片鱗ですが、そういった背後に思い描く「ありうべき姿」という現代日本の本質を描くとこうなるべきという理想像が僕にはあって、コードギアスを最初に見た時にその片鱗を感じたので、盛り上がったのです。とりわけ、コードギアスは、当時こう書きました。


コードギアス・反逆のルルーシュ』  谷口 悟朗監督 僕の愛する設定の全てがここに(笑)
http://ameblo.jp/petronius/entry-10026483668.html

コードギアス・反逆のルルーシュ』  谷口 悟朗監督 僕の愛する設定の全てがここに(笑)②
http://ameblo.jp/petronius/entry-10026541068.html


コードギアス 反逆のルルーシュ 1期 コンプリート DVD-BOX (全25話, 576分) アニメ [DVD] [Import]


実は、、、、いま思い返してみると、まだ作品として完成していない、しかも、もう一味足りないコードギアスに対して、ここまで絶賛をこの時点でする必要はなかったのですが・・(笑)・・・けれども、そこはこのタイトルが僕の感想を表している。


>僕の愛する設定の全てがここに


こりゃすげぇ。なんつーか、この設定、おれ死ぬほど好き。まだ一話だけしか見ていないのだけれども、僕の好みとして、物語に一番求めるものを、完璧に満たしている。一話であまりに感動してしまったので、次を見るのが怖い(笑)。だって、ここまでのマクロ的な設定の見事さと、ミクロ的な演出の可能性を造られたら、期待しちゃうもん。


この「僕の愛する設定」とは何か?というと、それは、自分自身につながっているリアル感なんだよね。


僕は司馬遼太郎とか城山三郎山崎豊子高杉良などの小説が好きでよく読むのだけれども、それはなぜか?というと、自分とつながっている感じがするからなんだよね。僕は、日本のある大企業に勤めています。たとえば、自分の父親や祖父などもそうですが、身近な親族をよく聞くと、日本の歴史の建設にちゃんと貢献しているんですよね。身近に軍人もいれば政治家も、商人も官僚もいます。そこをよく調べていくと、自分の所属する組織と仕事と、そして自分の世界を形作る親族や友人たちと、それらのダイナミックな日本近代の物語(=歴史)が意識するとちゃんとつながるのです。


たとえば、具体的に云うと、三菱グループに勤める人は、三菱財閥がもともと坂本竜馬海援隊組織をベースに、、、彼の海洋貿易立国構想を岩崎弥太郎が受け継いだということは、もちろん知っていると思いると思います(知らないか…?)。もしくは、トヨタ自動車の創業者の豊田佐吉やHONDAの創業者本田さんのモータリゼーションへの大きな夢や、海軍に勤めていたSONYのファウンダーの盛田さんや松下幸之助の夢、、、、明治維新に貢献した大久保利通伊藤博文の、後藤新平前島密の近代国家建設の夢や、戦前戦後の大きな絵を描いた瀬島や吉田茂など、なんでもいいのですが、大組織には、日本という国家と民族の夢や、、、その組織を使って、地球人類へ貢献したい、何かを成し遂げたいという創業の「志」があります。それが、100年とかも悠久の時間を、創業者の死後も、面々と歴史文化として継続しているわけです。


これはただの例ですが、僕らは歴史の線上に生きていまう。けっしてゼロベースの白紙の世界に生きているわけではありません。自分の仕事や家族や友人や、生活世界や国家というものは、すべて歴史の連続性という大きなマクロのムーブメントによって制約を受けているのです。目の前の瑣末なことに関わっていると忘れてしまいますが、僕らはそういった地球人類の歴史とかかわってい生きているのです。自分の手では届かなくても、親族や友人、、そして中間である組織、国家とより大きな単位に影響を与えていけば、世界に手が届くのです。

だから、たとえば、山崎豊子が『不毛地帯』で、戦前の大本営参謀であり、戦後伊藤忠の会長と中曽根政権のフィクサーであった瀬島龍三などの小説を読むと、、、日本の地政学的な問題である石油資源の確保に終世を費やしている(事実はどうかはともかくそういう夢が日本社会のエリートにあるのは事実)ことなどを読むと、自分が、、、いったいどんな大きな戦略的波の中にいるのかが自覚されて、生きていることにとても不思議なリアル感がわくのです。ちなみに会社に入ってみると、確かにそういった創業の夢を信じているオヤジたちがごろごろいます。夢の形はそれぞれですが、一度しかない人生で、ちっぽけな個人ではあるが、日本人とか国家とか会社とかいう「組織」の力を通して、生きた証しをこの世に残したいという強烈な夢と志がまだまだ胸の奥に隠れているんです。そういうのに触れると、まるで、大きな物語と、自分の小さな生活世界と生の実存が接続されるような不思議な高揚感を感じるのです。大きな物語とは歴史。歴史というアーカイブを重ねると、民族と個人、組織、国家が・・・・そして人類が抱いた夢。そして、自分の一度しかない人生は、このアーカイブと接続されているのだというリアル感が発生するのです。僕はこれをして、現実と物語には区別がつかないという言い方をしています。


話を元に戻します。


だから、僕は、いまの「僕」につながる世界をリアリティある形で見たいという欲求を持っています。リアリティがあるとは、なにも「生の無味乾燥な現実」を見たいということではありません。生の現実は、肩こりに悩み、世界に何の影響も与えられないで満員電車に乗るくたびれ始めたサラリーマンです(笑)。けど、同時に、大企業のトップを目指し、世界を変えてやると意気込むビジネスマンでもあり、、、世界史の偉大なプレイヤーである日本人の一人でもあります。ようは、モノはいいようということです(笑)。


そして、ここでいうリアリティとは、「生のリアリティの断片」ではなくて、「層を明らかにした総体のリアリティー」なんです。


えっとね、「層を明らかにする」とは、昨日itoyuさんとアジアの安全保障について話していて、「なんでこんな意味のないマクロな話が面白いのだろう?」と話したら、「全体のことがわからないと、目の前でやっていることの意味や価値がわからなくなる」という回答をいただいた。えっとね、セカイ/世界って僕は、「層」になっていると思います。「層」とは、レイヤーがいくつもあるという意味で、自分の「いまのいる現在位置」ともう一つ深い層に入らないと、「見えない/わからないもの」があると僕は思うのです。単純に云うと、たとえば、僕は課長だとします。そすると、なにをいっても、部長とか役員になってみないと、その層の情報は全然入ってこないのですね。もちろんこの辺の情報は、可視的なものなので、一般的になんとなく想像はつくと思います。


けれども、たとえば、日本の安全保障は、日米同盟(日米安全保障条約)に基づくという吉田茂首相が構築したアングロサクソンとの同盟によって形成されています。これは日本社会の戦後60年以上(半世紀以上)の巨大な構造です。僕たちの人生の過半が依存するスキームです。が、、、このことを明示的に理解している人はいますか?、このことをトータルでどういうふうに日常の行動や組織の戦略に落とし込んでいる人がどれだけいるでしょうか?。これを、簡単な言葉でちゃんと説明できる人は?。いや、反語的に聞いていますが、僕は少なくとも大衆レベルでは全く自明的でない(=不透明)と思います。指導層でさえもね。マクロの構造というのは、目の前の生の現実に覆われて、非常に体感しにくくなって、忘却されやすいものなのです。


たとえば、学問的にでも政治でリアルに勉強したり体験することも可能ですが、これを物語でコンパクトに表現すると、どうなるか?。物語とは、ある種の『嘘と簡素化をして相手に伝えるためのメッセージ凝縮装置』だと僕は思っています。では、現代日本社会の現実を見事に表現しているというと、僕は村上龍現代日本の本質を突く傑作の三部作(いまのところ4つ出ているが最後のは少しまだ甘い)と読んでいる『愛と幻想のファシズム』『五分後の世界』『希望の国のエグソダス』『半島を出よ』なんですよね。これは大傑作ですよ。日本を代表する小説家は、いまもってW村上こと村上春樹村上龍だと僕は思っていますが、それは都市文明の孤独(=ナルシシズムの檻の地獄)という全世界に通じるテーマを共有しているからです。

五分後の世界 (幻冬舎文庫)

とりわけ、村上龍さんは、日本の現代問題をストレートに題材しているだけにわかりやすい。ここでは、今の現代日本の抱える構造的問題点の本質が凝縮されて、コンパクトにわかるように(=感情移入の力を使って我々に告発してくる)なっている。本来ならば、層が深すぎて、もしくはマクロの層は複雑すぎてわかりにくくて、個人では体感できにくいものを、物語の力を使って我々に体感させてくれるわけです。

そうすると、先ほどの歴史の連続性の果てにいる自分(=縦軸)と、いまという時間の空間の広がりのマクロまで届く複雑な層を体感させてくれること(=横軸)が体感できるようになるわけです。

物語を評価する時の時間軸として過去〜日本社会を描くとき
http://ameblo.jp/petronius/entry-10012793578.html

そこに、「層を明らかにした総体のリアリティー」が立ち現われてくるのです。さっきのitoyuさんとの会話もここにつながります。僕らは「無味乾燥な生の現実の世界」に生きています。けれども、近代の人間は、ある種の物語・・・ロマンの世界をも同時に生きています。けれども、忘れてはいけないのは、ロマンは所詮ロマンです。ロマンは、常に現実に試され続け壊され続けるものなのです。




マブラヴオルタネイティヴ』 吉宗鋼紀監督 その4 クーデター編は傑作だ!
http://ameblo.jp/petronius/entry-10043127518.html


僕は村上龍の作品群や、ここで上げている『コードギアス・反逆のルルーシュ』、司馬遼太郎城山三郎山崎豊子高杉良なんでも、この文脈をベースにしてつなげて読んでいます。それは、「いま生きている自分自身にどのようにつながってくるか?」という問題意識です。しかしながら、日本の物語類型は、こうした歴史と自分が接続する最前線を、リアルに描くことを拒否する傾向があります。


それは、アメリカの映画作品を見ているとわかるのですが、彼らはあれらの作品を、単純に物語の次元のファンタジーとしてだけではとらえていない。『アメリカンスナイパー』にせよ『ゼロダークサーティ』にせよ『バンドオブブラザーズ』にせよ。ほとんど自伝だったりしますしね、オリジナルは。友だちの家のパーティーとかでみんなでドラマとして見てると、おじいちゃんがいきなり「おれがナチスと闘っていた時は、、、、」みたいな会話がすぐ出てくる(苦笑)。ああ、彼らにとって、歴史とはファンタジーではなく、地続きの感覚を持つものなんだ、と感心した覚えがあります。なぜならば、日本人は、ハリウッド映画やアメリカのドラマをほとんどが、この現実とは別のファンタジーとして見ていると思うのですが、あれは現実と接続されているものなんです。ちなみに、空母の博物館とか戦艦の博物館とか、博物館って、みんなそれの元乗組員の退役軍人だったりします。なので、質問すると、生き生きと当時のことを説明してくれますよ。おれがベトナム戦争で闘った時は!とか、、、、第二次世界大戦博物館で息子と話していたベテランのおじいちゃんは、日本人が来るのはめずらしいなぁ、僕ら(アメリカと日本)には長い長い歴史があるんだよ。僕は君のお祖父ちゃんの世代の日本人と戦ったけれども、息子は沖縄で同盟国として一緒に世界を守っているんだ!とか、いきなり話しかけてくるし(笑)。いや、まじで、そんなのしゅっちゅうなんすよ。あの地続き感、というのは、現代日本にはないものだなーと本当に思います。リアリティとファンタジーの関係を見る時に歴史認識における接続、非接続意識、僕の言葉で云うと地続き感は、キーワードだと思います。

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もちろん物語にはグラデーションがあって、もっと純粋に想像力の世界に純粋に世界を構築していこうとするトールキンのような方向性もありますが、現実との接続性を感じながら物語を見るという方向性もあるわけです。まぁ、そりゃ、自分の国や日常の現実をベースに作るのですから、そりゃそうなるわな、と思います。しかしながら、たぶん、日本では、大日本帝国の崩壊とともに、自分たちが生きている生活空間のマクロがどういう構造であるか?ということに対して言及したり、また、その構造自体を変えようぜ!というような意識は、非常に拒否されます。


それは、日本の近代史を考える時に、連続説、非連続説などという概念があるそうなんですが、ようは、江戸時代と近代日本、そして戦後の3つの時代の連続性を、ある、と見るか、それとも、ない、と見るかということです。それぞれの前の時代は忌むべき否定の時代であるが故に、もちろん逆にそれを肯定したというような政治意図もあります。なんで、継続性の一貫性を貫くコモンセンスが存在しない。細かいことはいろいろあるのですが、全体として国民的に、全体としてコモンセンスとして共有される歴史が日本にはないんですよ。だから、先の戦争についても、評価が曖昧です。政治思想や価値観の勢力によって、国民は分断されたままです。アメリカのように、ぜんぶ勝っています!というような特異な状況でないと、歴史というのはそういうものなんだろうと僕は思います。だって、全部否定してしまうと、ほとんどどの組織や人間はその価値観や本義を引き継いでいるわけであり、否定はやりきれない。関係者がみんな生きているわけで、はっきりダメだ!と言い切れるものではないんでしょう。いかに戦争が嫌だ、といったとしても、大日本帝国の振る舞いがすべて悪だと断じたところで。


アメリカ人の友人と話していて、いやー日本の近代とか東アジアの歴史認識はあいまいで、なかなかセンシティヴだから、はっきり言えないし教えないんだよーと、中国系と韓国系の部下と3人で笑っていったら、真顔で、そういうもんだよ?。アメリカでも、まだ南北戦争のこと、歴史でちゃんと教えないもんって、アメリカ人(彼はイタリア系の白人)に言われました。だって、南部が悪だ!とまではいっても(サウスという表現はあいまいだから)、ミシシッピ!とかジョージア!とか、各自の具体的な名前を出すことは大げんかになるんで、いいきれないんだよ。いまだ恨みつらみ多すぎて、まともに歴史で教えられないんだよって。なんか、世界のどこでも同じなんだなーと感心しちゃいました。


えっとね、しかしながら、歴史認識の一貫性がないことと、一つ前の大きな時代区分、ここでは大日本帝国建国から崩壊までの戦前ですね、これがいいとも悪いとも言い切れない。どっちかに偏ると、政治思想、価値認識が偏ってしまうので、あまり踏み込めない。また人々の支持を受けにくい。また基本的に戦後民主主義といわれる1945年以降の世界は、戦前の反動で左翼意識が思想や価値観で支配的なので、世界の仕組みに踏み込む物語が全然かけ無くなってしまうんですよね。正義の味方、ヒーローを描くのが物語の基本的類型だとすると、これが何を守るのか?、世界に影響をどう与えるのか?といった時に、日本人の現実と接続すると、直ぐ論争を生んでしまうからなんですよね。


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なので、正義の味方の物語を描こうとする時に、日本の物語は、基本的にファンタジーの世界へ屈折していくことになりました。日本の大衆エンターテイメントが、ファンタジーの世界で、世界設定を曖昧にしてしまえば、いくらでも物語が描けるからです。諫山創さんの『進撃の巨人』なんかが典型的なんですが、あれって既存の国家や文化が全くないところで世界を創造していますが、物語の、キャラクターたちのコアの部分は、やっぱり心臓を捧げよ!という公のために命を捧げる前線兵士たちの子供たちの強い動機だと思うのです。庵野秀明監督の『トップをねらえ!』やオースン・スコット・カートの『エンダーのゲーム』などで、描かれたのですが、全体主義が肯定され、相手への相互理解や感情移入なしに、気持ち約相手を全滅させることができる物語類型は、相手が宇宙怪獣などのコミュニケーションが不可能なものである、もし殺さなければ人類が滅ぼされるという設定を採用する必要性があります。そうすると、気持ちよく、公へのコミット(全体主義)ができるし、なによりも、実は原爆を落としたらサルではなく人間でした!というような罪の意識にさいなまれることもなく気持ちよく相手を亡ぼせます。ただ、そういうギリギリのハインラインの『宇宙の戦士』的な、兵士で、共同体のために命をかけるものだけが市民権を持つ!というギリシアローマからの理想のを、十全に疑問なく描ける類型は、ファンタジーやSFは非常に利用しやすいんですよね。この辺の原初的なものを実感するには、リバタリアニズムを描いた『月は無慈悲な女王』とかもいいですね。

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この話は、善悪二元論の物語類型でずっと語ってきていますが、ハリウッドが1980年代頃から、気持ちよく西部劇でインディアンをぶっ殺しまくっていたら、あれ?彼らも人間だった!(最初は明らかに人間だと認識していないので)といって、その両方を理解しようとする兵士の苦悩を描いて、兵士が気が狂っていったり、どうしようも動けなくなっていく様を描く作品がたくさん現れました。『ダンスウィズウルブス』や『ラストサムライ』など、前線の兵士は、相手を倒すために相手の思考を理解しようとスパイとして、殺すべき相手の社会、文化に入って行き、そこで相手の他者としての文化としての美しさにうたれてしまうんですね。最前線の斥候、情報将校であったり、敗れた敗軍の将であったりするのは、相手の文化を理解しないといけない立場に追い込まれているという設定ですね。この辺りは、『ポカホンタス』のように、相手の族長の娘を、西洋文化圏に連れ去り、洗脳とまでは言わないけれども、異なる文化の中で見世物にしていく行為を大肯定するような恋愛物語に回収するような後退をしながらも、着実にディズニーやアメリカの監督たちは考え抜いてきました。他者にどうやって出会えるのか?理解できるのか?戦う以外の道はなかったのか?と。しかし、それはほぼ、大衆的に人気がなくて、消えていくことになります。それは、善と悪を分けて敵味方をはっきりさせて感情移入させる物語類型は、それだけわかりやすく大衆に訴求するからです。このギリギリのライン、エンターテイメントとしての面白さを維持しながら、それでも善と悪に二分する思考方法を超えようとするハリウッドの監督、脚本家たちの努力は、とてもの興味深いです。最近の到達点の一つは、クリント・イーストウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の二作品です。これは一つの作品のなかに、二つの視点を入れると、敵味方の感情移入ポイントがわからなくなって受け手が混乱して人気が失われるというギリギリラインを、それなら、同じ舞台で真逆の立場から物語を作ってしまえ、というものです。これは素晴らしかった。しかしながら、とても興味深いのは、『グラントリノ』などを描くイーストウッドは、ドナルド・トランプさん支持だったりするんですよね(この前凄い話題になっていました。この人、心底ポリティカルコレクトネスが嫌いなんですねぇ。)。この辺の共和党の古い伝統を継ぐおやじの思考の深さには、やっぱアメリカ一筋縄ではいかねーよって、しびれます。今のことばかり見ていては見えない何かがあるんでしょう。

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善悪二元論の文脈の大枠は、下記の記事で読めますので、気になる人は復習を(笑)。直近で最もこの悩みが現れているのは、『GATCHAMAN CROWDS』ですね。またこの類型の答えの一つとして完成形に到達して全体像を網羅しきった作品は、橙乃ままれさんの『まおゆう』ですね。ちなみに、『まおゆう』は、日本のエンターテイメント史に残る大傑作で、時代を変えた楔になっている作品なので、絶対に見ておいたほうがよい作品です。もちろん、小説です。小説でないと、この物語の真価はわかりません。ペトロニウスの名にかけて大傑作です。

GATCHAMAN CROWDS』 中村健治監督 ヒーローものはどこへ行くのか? みんながヒーローになったその先は?
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20131015/p1

GATCHAMAN CROWDS中村健治監督 見始めました。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130822/p2

物語三昧:絶対悪とは、時間軸のない(弱い)物語であり、目的はテンションの転換であって世界を再現することではないのでは?】
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20090616/p3

次世代の物語としてのまおゆう〜ジャイアニズムDXのまおゆう特集に記事を書かせていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20121209/p2

ジャイアニズム Vol.2 (エンターブレインムック)』のマブラヴ特集に記事を書かせていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20120324/p1

メイド姉が目指したモノ〜世界を支える責任を選ばれた人だけに押しつける卑怯な虫にはなりたくない!(4)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100512/p1

英雄譚の類型の倫理的欠陥〜魔法騎士レイアイース(1993-96)に見る、全体主義への告発(3)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100511/p1

善悪二元論を超えるためには、歴史を語り、具体的な解決処方を示さないといけない (2)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100510/p1

魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」 ママレードサンド(橙乃ままれ)著  
その先の物語〜次世代の物語類型のテンプレート (1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20100429/p


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機動警察パトレイバー2(1993)〜正義の味方は現場にしかいない!?

さて、やたら長くなりすぎてきていますが、まだ全然書きたい本論に到達していない、、、、仕事が忙しすぎて、ぶつ切りで書いているので、文章もめちゃくちゃですが、この旬の時期に書いておかないと、忘れちゃうので、とにかく頑張って書いてみます。力尽きたらお許しを。これまで話した来たのは、『踊る大捜査線』には、日本社会の暗部、深部に切り込むテーマへの真摯さがあった、という話でした。それは、エンターテイメントに屈折しながらも、日本の物語には脈々と受け継がれているのですが、なかなかそれに対して、真っ向から問いかけよう、答えようとはしない不思議な圧力がある感じに僕には見えるんですね。そしてそれは、戦前の日本の戦争の惨禍が、被害者としても加害者としても大きく日本の想像力に刻印を残しているせいもあり、簡単にはブレイクスルーできない。なぜアニメや漫画に屈折するかというと、加害者としても被害者としても、どちらの歴史でも真摯に直視できないからなんだと思います。なぜ直視できないか、といえば、それは、過酷な現実が次々に明らかになって行き、その責任を引き受けたくないからなんですね。また、いったんその責任を、アメリカとの同盟にスキームで棚上げにして、見ないふりをしてマクロ的に問題ない構造を先人たちが作り上げているので、それにフリーライドしていれば、何とかなったんですね。マクロの構造はいったんできると、細かいことはほとんど無視しても、すべてがうまくいくもので、それを本当の大戦略(グランドデザイン)と呼びます。日本近代史は、アングロサクソン、いいかえれば、日英同盟と日米同盟の期間中は、すべて成功してきました。それは日本が島国であり、海から世界をデザインする大戦略との相性が良いからです。まぁこの辺は地政学や戦略の古典的なお話なので、ハルフォート。マッキンダーや、アルフレッド・セイヤー・マハンなどをおすすめします。


という状況の中で、日本のエンターテイメントが、この状況、日本が平和ボケしているのではないか?、大衆がぼけて現実を見なくなっているのではないか?、もしくはリーダーたるべき政治家たちが覚醒していないのではないかというような、告発系の物語は実はそれなりにたくさんあります。要は上記の構造があるのに、全然それを認識していない社会への苛立ちから生まれる物語ですね。

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LDさんと話していて、シンゴジラを見ている時に、クーデターものを凄く連想させますよね、という話になった。それは、パトレイバー2であり『皇帝のいない八月』(1978)などだ。ただ、この二つには大きな違いがあって、皇帝のいない八月は、LDさん曰く、陰謀論がまだ成立して頃の話だというんです。つまりは、簡単全体を説明すると、クーデターがあるんですが、ほぼ秘密裏に政府が鎮圧しちゃうんですね。日本版CIAの内閣調査室が。そして、関係者は、市民とか関係なく皆殺し。そして、国民には国鉄系の事件?(うろ覚え。たぶん下山事件にかけているんだろうと思う)とか発表して、クーデターがなかったことにしてしまう。これは何を言っているかというと、松本清張的なもので、国家の陰謀論、国家が強すぎることへの反発、国家への告発なんですね。マルクス主義社会主義が強く力を持っていた70年代ぐらいまでの匂いを強く感じさせます。けれども、LDさんが、いっていたことがなるほどと僕はおどろいたのですが、2016年のいま、この政府の陰謀論的な話を見せられると、どう感じるかというと、圧倒的な国家への頼もしさ!と感じる、というんですね。僕は、なるほど、と唸りました。そのとおりだって。


よく考えてみてください。『シン・ゴジラ』は、責任を取り、困難にぶつかっていくリーダーや現場の人々を描いた物語だとします。あれ見ていると、物凄い切迫感が感じるんですよ。ようは、国会で、最前線の指揮所で、「あの後がもうない」ってことを描いているので、責任意識が高まっているんです。あの後がないというのは、ようは、あそこが最後の防衛ラインであって、その後に、頼もしい軍隊とか国家とかが隠れているわけではないんです。陰謀論的なぐらいに国家の力が闇に隠れて巨大だということは、半面、頼もしく全体は守ってくれちゃう!といっているにすぎなんですね。これって考えてみると、そうとう国家を信用していない感覚です。おれら、ぼくら、わたしたちが、頑張らないと、国だってまともに動かない!っていっているに等しいのですから。ここでは、フリーライダーの意識は消え、圧倒的な現実感、あとがないことへの恐怖に駆動されて、強い当事者意識が発生しているのです。


この圧倒的な当事者意識が、これまでの日本の国家権力や大衆の平和ボケ、無知蒙昧さへの告発型型物語類型には、ありませんでした。村上龍の『五分後の世界』でも、主人公のオダギリ(だったと思う?)は、ほとんど犯罪者のような現代社会のは見出しのアウトローでしたし、パトレイバー2の主人公は後藤隊長らや現場の捜査員であって、はっきりいって、国家、マクロの運営から外れたアウトサイダーのみが、主人公になってきました。そのものずばり、国家を運営する人が主人公になることは、これまでなかったんですよ。そして、パトレイバー2の上層部、リーダーが典型的なんですが、後藤隊長がきれてしまうのは、上層部が駆け引きばかりやって何も決められず、現実が遅れてしまうからなんですね。これは日本の大組織の意思決定で、リーダー、戦略不在で、縦割りによって内ゲバが始まりやすい構造を考えれば、それが確かにリアルなんです。ですから、これまでの告発型の物語類型は、いかに日本がダメなのか、日本のリーダーがいかに無能か、、、そして、最後は現場がつけを払わされて、現実に弱いものが虐げられるという構造になるわけです。これが平均的日本人の実感であり、そして現実でもあるわけです。これはいまもかわらない。


けれども、これには欺瞞があるのがわかりますよね。物語の外に目を向けて、もう少し広い視野でみると、


1)ならばなぜそもそも自分自らリーダーに、政治家になって、変えようとしないのか!!!(室井さんだぁ!!)


2)日本国内のレベルで内戦や殺し合いをしている分には、実は日本は平和なんです。しかし、世界は、そんな甘くはありません。そこには、江戸時代であれば黒船が来ますし、現代であれば米国との同盟があり、中国の台頭があります。そういう「身も蓋もないマクロの現実」が出てきたときに、内輪もめで、嘆いている余裕がほんとうにあるのか?。たとえ、クズなリーダーでも、盛り上げて、助け合って、本当のリアルのやばさと闘わなければならないのではないか?という全体の思考がすっぽり抜けています。


この当事者性をめぐる問題意識は、佐々木さんの下記の本が素晴らしく、今後の日本を見ていくうえでのキーワードの一つであると僕は思っています。もう、この意識なしには、何も動かなくなっている様が、様々なところで見られる気がします。なぜなら、日本が高度成長期のアンシャンレジームが終わりつつあるという内部の変化と、中国の台頭という国際社会の変化が、もう旧態依然とした状態でぬるま湯に使っているまどろむことが許されなくなってきているからだと思います。


「当事者」の時代 (光文社新書)



だめだ、、、疲れすぎて、力尽きそう(笑)。



えっと、まとめきれる体力がないので、まぁこの辺で風呂敷を閉じておくと、つまりはですね、日本の物語というのは、国家は告発する悪という描き方をしてきたんですよ。それは、逆を言えば、国家が圧倒的な力を持っている(陰謀論が成り立つ)という信頼があったんですよ。国家を解体することが意識の主軸にあった。前に、菅直人元首相の自伝?を読んでいた時に、Aldous Huxleyの『すばらしい新世界』みたいな世界にしちゃいけない、と政治を志した志が書かれていて、そうか、この世代のこれらの政治家のコアってこれなんだ!と驚きにうたれたのを覚えています。ようは、高度にに管理された全体主義社会をどうぶち壊すか!というのが彼らの目標なんです。決して、建設ではないんですよね。


これらの国歌への不信と、国家を解体することをが目標とする時代感覚は、仮に、国の現実認識が甘いことを告発するような告発型のシナリオにしたとしても、パトレイバー2や村上龍五分後の世界』のように、主人公は常にアウトサイダーであり、決して国家を動かしうるレベルのポジションの人は誰も描かれませでした。この類型の最高傑作ともいえる上記2作品にしても、主人公はアウトサイダーなのです。ようは当事者意識がまるでないんですね。


そして、少年がロボットに乗って世界を守るという物語類型でも、ついには、ロボットに乗らない!(世界を守る責任を放棄します!)という物語が出てきました。庵野秀明さんの新世紀エヴァンゲリオンですね。いま思うと、あの当時の圧倒的な共感と人気は、そんな責任を引き受けることなんか、やってられない!という凄まじい逃げの意識だったと思います。当事者意識があまりになさすぎる。でも、それが当時の日本人の意識のスタンダードだったんだろうと思います。


これに真っ向から反論して、責任を引き受けるべきだ!、世界を守るんだ!と叫んだ作品は、僕は、吉宗綱紀の『マブラヴ オルタネイティヴ』ぐらいだったと思います。


マブラヴ オルタネイティヴ


そして、長い年月が流れ、吉宗さんの作品にインスパイアされたと作者本人が言う『進撃の巨人』は、公のために心臓を捧げる切実さを描き、宮崎駿は、ついに少年の夢を肯定して、世界を滅ぼしても僕は自分の夢を追うという主人公を作り上げました。そして、ついには、庵野秀明さんが『シン・ゴジラ』をつくることになった。これを、こうした文脈論的な、流れで追うと、シンゴジラで、国家の運営に責任を持つ政治家が、軍人が、そしてそれに関わる全ての人々が全力で、マクロレベルの大きな大問題に、何のケレンみもなくまっすぐにぶつかっている姿を見、それが高い人気を得ることに、しみじみと、そうか、ここまで来たのか、日本は、、、と僕は思います。それが僕の今の、初見にこの作品を見た、感想です。


いやはや、素晴らしかった。やっぱり長生きすると、素晴らしいですね。いろんなものが見れる。


物語の次元で物語が進まないものはだめだ、と当時の僕は、TV版の新世紀エヴァンゲリオンに対して記事を書いています。当時は、おめでとう!といきなりメタの世界にモダンアート的に現実をずらす物語の結論を作ったからですね。でも、僕このモダンアートのマルセルデュシャンのような手法は、ほぼ死に絶えたというか、やっぱり魅力がないものだと思います。それは今も変わらない。やっぱり、物語は、おとぎ話であってほしい。リアリティの徹底手的な追及があって尚、ご都合主義的ハッピーエンドに終わってほしい、と僕は思います。なぜならば、それが物語だと、僕は思うから。僕が思う理想の物語は、そうであるべきだと思っています。だから、やっぱり庵野秀明さんにエヴァの続きを書いてほしかった。シンジくんは、結局、立ち上がれたのか?。レイは、アスカは、救われたのか?。ミサトさんだって、あんなに中間管理職で苦しむだけじゃなくて(笑)、救われなかったのか?って。人類は、どこへ向かったのか?って。だって、ナディアが書けるんだから、書けるに決まっているじゃないですか。壮大なSFを。その後、世界を救おうとするような大きな物語は、熱を失っていきました。日本の物語は、永遠の日常の中で、日々の美しさや楽しさを、生活世界を愛する方向にシフトしました。まぁ、それは、それでいいんですよ。文学がはまった袋小路の自意識の病をこじらせていく、私小説的なものになる。まぁあってもいいのですが、そんなのがメインストリートであっても仕方がない。そんな高踏的なものよりも、僕は、隣の幼馴染との他愛もない日常や、妹とかお兄ちゃんとの幸せな日常の方が、美しくていいと思います(笑)。学校共同体の中での戯れも、マクロが幸せだからありうることですよ!あんなの。そして、戦後日本が目指した、生活世界の豊かさというのは、ヒーローじゃない人々が、幸せになれる世界であったのだから、それで正しいんだと思います。明治建国時代の立身出世の成長至上主義の時代は終わり、成熟を愛する日常と生活世界の豊穣さを楽しむ時代に僕らは入ったのです。そして人類のどの国よりも、それを深く成し遂げていると、僕は思いますよ、現代日本は。だからこそ、あれほど楽しい日常の物語が描けるんです。だって、それが僕らが生きている、現代の日本だから。。。。。。でも、それだけでは、国家は動きません。ヒーローが、責任を引き受ける主体が失われたから。戦争はしなくとも、災害は起きます。世界はそんなに甘くはない。なら「みんな」で頑張るしかないじゃないですか。もうシンジくん(ロボットにとって一人で世界を救う)にすべてを投げつけて責任を取らせる時代は終わったんですよ。一人のヒーローに責任を投げつけて、まぁ、そいつに、トロフィーワイフ(ヒロイン)を与えておけばいいやとかいう、甘い時代は思ったんです。この美しく豊穣な日常世界を守るために、僕はみんなで知恵を出して動いて頑張っていかなきゃならないんだろうと思います。シンゴジラを見てて、そうだよなーそうだよなーって凄い唸りました。


最後に、個人の内面(シンジくん)を描き、国家=日本(シンゴジラ)を描けたんだから、エヴァの劇場版で、人類!!が描けると思うんですよ、僕は。だって、ロジックで考えると、そういう順番だもん。もう、本当に生きているのが幸せです。たくさんの楽しいことが待っている。いやーほんと、物語はたまりません。日本に生まれて、日本語分かって、神さまありがとう、といつも思います。


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