現代日本の最重要課題が浮かび上がってきた気がする。

日本って、豊かになったよな、と思います。お金だけではなく、いろいろな意味で。僕は40代ですが、20年前よりも、ずっと多様で豊かな社会になっていると思う。そして、80年代に絶頂期だった日本経済は、凄い勢いで下り坂で崩壊して、当時、こりゃあ全滅、玉砕か!的な気分になったけど、いやいや、20年たって見て、なかなかしぶといし強いところはちゃんと強い。弱いところは、ものすごく弱くて悲惨だけどね(苦笑)。もう「全部良い」というようなところはなくて、凸凹しているんで、わかりにくいだけ。2013年頃アメリカに住んでいる時に、もう家電の量販店とかで、日本の電気製品は一切見なかったんですよね。もう駄目だ、というぐらい負けてて壊滅している。日本では、いまでもたくさん売っているので、ゆでがえる状態ですがもうたぶんアメリカ市場では完全に詰んでいる。、、、と思いきや、車のメーカーなんかは、もうアメリカそのものなんじゃない!というような凄い存在感でした。テレビつければCMはもう何でもかんでも日本メーカー。社会の重要なイベントは、TOYOTAとかがスポンサー。日本だって、たとえば大相撲のメインスポンサーが、GEとかサムソンだったら、驚くでしょう?そうんな感じ。東アジアや東南アジア、少なくとも僕が知る限り南ヨーロッパでの日本のアニメやサブカルチャーの存在感って、もうイロモノでもなんでもなくて、完全に市民権を得ている感じだし。なんかね、日本の存在って、もう相当成熟して安定している気がする。90年代から00年代を大学生や社会人のはじめを経験した、もう日本経済駄目だな的な下り坂の氷河期を思い出すと、意外や意外、日本ってなかなかのもんだなって思うんですよ、いまは。


けど、そういった下部構造というかインフラストラクチャーというか、大きな土台でのパラダイムシフトが進んでいった割に、何かが大きく「変わっていない」というか、クリアーに課題が姿を現し始めている気がする。ほんの少し前までは、まだ土台的な変化が進み切っていなかったので、この課題が姿を現していない気がしました。日本社会の過労死とか少子化とかも多分これにつながっていると思うんですが、それって、何だろう?というのを最近、もやもやと考えています。


たぶん、この生産性をめぐる議論の背後の隠れているやつなんだろうと思うんですよ。だって、日本の生産性あまりに低すぎる。ちょっと、極端すぎますよね。僕も日本の労働者日本尾市民の質って、世界的に決して悪くないと思います。少なくとも平均値は軽く超えているはず。けど、生産性は、ほぼ最下位ですよね。これ、なんだかおかしいと思うんです。そして、これらが、家庭の時間や個人の時間を奪い、女性の権利が拡大せず、少子化を生み、またビジネスでの国際競争力を削いでいるのは、一目瞭然。どう見ても、全部シンプルにリンクしている構造問題。


なので、こういうマクロだけではなくて、ミクロ的に「自分の仕事の仕方」いや、もっと言えば、こういった趣味の時間への配分も含めた「人生の生産性」というやつで、自分をもっともっと変えなくちゃ、効率をあげなくちゃって凄い思うんですよ。というか、頑張っている今日この頃です。これが、いま課されているイシューというか、問題なんだって強く思うのです。

生産性―――マッキンゼーが組織と人材に求め続けるもの


なぜならば、いまの成熟した先進国の日本社会では、過去よりぐっとそういうことを追求しなければいけない厳しい社会になっているけれども、なんで、そんなに「生活のスタイル自体の生産性の追求とか変化」が、要求されるかというと、もちろんグローバリズムとテクノロジーの進展に置いて、単純な高度成長期時代に適応した「生き方や生活スタイル」では、そもそも生きていけない。競争の母数が変わってしまっていて、僕らは、中産階級化する中国やインド、北アフリカの巨大な人口や単純作業は簡単に肩代わりしてしまうAIなどと競争しなければいけないからというのがあります。「だからこそ」、そういった高度成長期のパターンの決まった生き方や働き方のスタイルではない、多様な差別化、クリエイティヴィティに特化した方向に進まなければいけないのだけれども、「それへのパラダイムシフト」って、とても難しい。少なくとも、1970年代生まれの僕ら以前には、とても難しい。いや、今だって、そんなに変わらないかもしれない。だって、親がそういう過去の生き方で成功した人だし、なによりも、そういう教育を一身に浴びて育っている。サムライの教育を受けた徳川期の人が、近代日本に適応しなければいけないような、激変。


いまは、巨大なパラダイムシフトが起きているのだ、と思う。それまでのボリュームゾーンであった中産階級が、その内実を変えなければいけない、、、言い換えれば生活スタイルを、「人生の生産性」を深く変化させなければいけない時代に入っているんだろうと思う。そして、こうした多様性のある人生の追及についていけない人は、グローバルな母数の競争にさらされるわけで、というか、競争で負けてしまうので、先進国に住んでいてさえ、極貧にい落ちていくことになる。国境はもう守ってくれない時代になったのだから。それへのリアクションが、ブリクジットでありトランプ大統領なのだろうと思う。けど、変わってしまった社会は、もう過去のそれへとは戻ろない。「ここ」を掘り下げていくしかないんだろうと思う。それに、逆を言えば、多様性を獲得する道が、相当の人間に許されている時代でもあるわけで。画一的な、一律性を要求する近代化、高度成長期の工業社会ではありえないことだとも思う。まぁ、いつの時代も、構造の転換期は、脱落する人と、そうでない人の巨大な格差と人生の変遷を生むものなんだよね。とかとか、そんなことを考えた。


デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論―潜在能力を活かせない「日本病」の正体と処方箋