『湾生回家』 (2015 台湾) 黄銘正(ホァン・ミンチェン)監督  日本統治時代に台湾で生まれ育った日本人たち(湾生)を描くドキュメンタリー

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

神保町の岩波ホールで見てきました。素晴らしいドキュメンタリー映画でした。つい最近、片渕須直監督の『この世界の片隅に』が、全人生の中で一番級に素晴らしい作品だと感動しているのですが、あの作品の存在によって、戦前の時代を生きた一人の女性の日常と人生に感情移入することによって、あの時代が急速にリアルに、他の様々な表現と接続されるようになって気がします。戦前の貧しかった日本は移民政策を奨励していて、ハワイに、アメリカ本土に、カナダに、ブラジルに、台湾に、満州、韓国に、大量の移民が渡りました。そして、当時は、着の身着のままで、親同士の約束で女性が自分の意思とは関係なく海を渡って嫁に行く時代でした。この作品でも、移民村に、たった一人で、嫁いでいく女性が出てくるのですが、この人を見ていて、すずさんを強烈に連想しました。ああ、ここもあの時代と地続きなのだ、、、と。この強烈な「地続き」感覚は、『この世界の片隅に』がパラダイムを変えてしまった戦前を描く映画なんだろうと本当に思います。


http://www.wansei.com/


2011年のウェイ・ダージョン(魏徳聖)監督の『セデック・バレ』 (原題:賽紱克·巴萊 /Seediq Bale)を見て以来、台湾映画が、素晴らしい成熟期に入っているのだな、といつも何かいい作品ないかと探しています。馬志翔監督(脚本は、ウェイ・ダージョンですね)『KANO 1931海の向こうの甲子園』も素晴らしかったです。

KANO-カノ-1931海の向こうの甲子園 [レンタル落ち]

一貫して、台湾が国としての自信をつけ成熟期に入り、そして、単純に中国ではなく独立国としてのルーツを考える時に、日本統治時代や少数民族にルーツの一つを見出していく過程は、とてもよくわかるものです。しかしながら、歴史の問題は政治的にとてもセンシティヴで、こうした部分に踏み込んで本当に面白いをモノを作りだすには、その文化が成熟して安定していないとできないと思うのです。ナショナリズムが過熱している状態では、こうした客観的な冷静な題材の取り上げができないからだと思うのです。その流れで、これは見に行ったほうがいいな、と思ったのは、正しい判断でした。


「台湾に生まれてよかった」


しみじみと、自らの生まれた故郷を懐かしみ、愛情深くつぶやくのは、高齢の日本人。Wansei(湾生)とは、1945年以前の日本統治下の時代に台湾で生まれ育った日本人のことです。彼らの深い望郷の念、愛する故郷への思いを描いたドキュメンタリーが、この『湾生回家』で、台湾でかなりヒットした作品です。台湾アカデミー賞金馬奨」でも最優秀ドキュメンタリー作品にノミネートされ1ヶ月を超える異例のロングランを記録ししました。


東アジアでは、歴史を共有するのがまだとても難しい。なによりも傷が生々しく残る状況では、感情的に事実を直視するのは、難しい。同時に政治的に、外交的に対立する場合は、イデオロギーと政治にまみれて事実が歪むのもまた当然のことだと思う。だが、近年、僕は様々な素晴らしい物語が、たくさん生まれるようになってきたと思う。それは、一つには、大きく東アジアが豊かになりつつあることがあるだろう。人は、物質面に余裕ができると、心に余裕ができるのだと思う。国家としても、国が豊かに強くなると、ナショナリズムや建国の神話で人々を駆り立て意識を統一しなくとも、国としての安定が保てるようになっていくのだろうと思う。そして、1945年以降、70年以上たち、WW2が本当に「過去」になりつつあるのだろうと思う。そこでは、より客観的に、様々なミクロの視点で、それぞれの主観の世界からどう見えたのかが、より圧倒的に具体的に、そして何よりも様々な立場を描く公平さが生まれてきていると思う。


そうした文脈の中で特筆して台湾映画、特に、ウェイ・ダージョン(魏徳聖)監督の『セデック・バレ』で描かれた霧社事件で描かれる大日本帝国陸軍の文明化された近代軍としての姿が描かれていたのには、とても衝撃を受けた。霧社事件自体は、台湾の少数民族を日本の帝国軍が鎮圧した出来事であり、植民地の圧政者による現地の弾圧の歴史的事件になるはずで、その出来事が描かれながら、なぜか帝国軍の振る舞いが、とても道徳的で文明人として表現されているところに、台湾映画の成熟度を僕は凄く感じました。事実を、バランスの中でちゃんと位置づけようとする、とても公平な態度。これは、国が豊かになって、本当に自信がないと、社会で受け入れられない表現だと僕は思うのです。

さて全編にわたって、文明対野蛮という構図がはっきりと意図して構築されています。なので、再度最初の話に戻ると、植民地支配に抵抗するという政治的文脈、もしくは旧帝国の帝国主義、侵略行為に対する道徳的告発という政治的ニュアンスが感じられないのです。少なくとも、僕は、あまりにも文明対野蛮の構造の文脈が強すぎて、侵略に対する政治的文脈を全く感じなかったです。これほど、あまりにもストレートな植民地の抵抗の物語を描きながら、そういう文脈を全然感じない、これはとても不思議なことでした。


たとえば、小さなことですが(いや小さくないのだけれども)、文明人の日本軍は、妊婦の女性を絶対に殺さないとセディツク族の方が信じていて(セデックは日本人の女、子供も容赦なく殺戮している)、その通りに日本軍は妊婦を丁寧に差別なく、日本の傷ついた軍人と同じ部屋で看病している。ビビアンスー扮する妊婦は、だから殺されずに生き残ることになります。族長の娘も、負傷しているのを見つけたら、軍人の手当をしている同じ病院のベットで大切に看護されている。日本人の日本軍の侵略の非道徳性を政治的に宣伝する映画ならば、こここそ、全力で妊婦や女、子供を皆殺しにする日本兵を描かなければおかしいはずで、さまざまな面で、日本軍や日本人の道徳性の高さ(=文明の論理)を細かく描写しているところが、とてもではないが反日の政治的映画には見えなかった。小さい部分というだけではなく、全編の大きな文脈に、この文明対野蛮の構図が貫かれれば、むしろ近代的な文明人としての日本人社会の、もちろん辺境の田舎なので、警官もろくに教育がなく差別意識丸出しの人間も多いが、決してトータルでは野蛮そのものではない信頼が感じられる。日本に対する政治的道徳告発の映画ならば、こうした文脈にはなるまい。


中国本土で、この作品が、非常に評判が悪かったというのはうなずけます。「セディック族が敵対的で日本人を殺しすぎる」という不思議な批判ですが、侵略の道徳的告発の政治文脈に載せるのならば、日本人を圧倒的な残虐な強者と位置付けて、逆に対置として支配されるセデックが圧倒的な弱者として描かれないと、文脈がおかしくなるからです。そういう意味では、非常に的を得た批判です。これが中国や韓国の映画だと、日本軍の鬼畜ぶりは、まったくもって文明社会の振る舞いには見えない残虐性をもってこれでもかと描かれやすい。それは、中国や韓国の映画には、政治性が強く込められているために、日本人や日本の軍隊の非道徳性を極端に描写するという「政治的文脈」が常にビルトインされがちだからで偏向して描かなければいけない圧力が社会に存在しているからでしょう。が、この『セデック・バレ』にはそういう意図は見えなかった。ちなみに、なぜ韓国や中国にそういった、日本の侵略の非道徳性を主張する政治文脈が生まれるかといえば、建国の神話に関係することで、彼らの建国=統合の基軸が、対日本からの侵略の克服や植民地からの脱却が、統合の主軸価値としてあるからだろう。それを超えてバランスある表現をするには、なかなか難しいだろう。強烈な親日国とはいえ、台湾ですら、このような作品が生まれるまでにこれほど時間がかかっていることを考えれば、中国や韓国にそれを求めるのは、簡単には無理だろうと思う。



セデック・バレ』(原題:賽紱克·巴萊 /Seediq Bale) 2011年 台湾 ウェイ・ダーション魏徳聖)監督 文明と野蛮の対立〜森とともに生きる人々の死生観によるセンスオブワンダー
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130427/p4


セデック・バレ 第一部:太陽旗/第二部:虹の橋【通常版 2枚組】[DVD]


そしてそれだけではなく、巨大な中国本土に飲み込まれてしまわないように、自らの中華以外のルーツを模索するということがとても重要な文脈になっているのでしょう。日本統治時代を台湾が、中国とは別のルーツを持った「特別な場所である」ということの起源の一つとして描かれる文脈がありうるわけです。



そしてもう一つの視点が、イデオロギーでマクロで描くのではなく、「そこにいた人の人間としての視点」はどういうものだったのかを、曇りなき視点で、直視して描こう、、、いや「残そう」とする情熱が生まれてきた気がします。理由は簡単で、当時の人がほぼ亡くなっていく過程で、本当の本当に、過去の個々の人々がミクロのレベルで生きた具体的な歴史が消え去ろうとしているからだろうと思います。

歴史のなかで忘却された、湾生たちの「人間の歴史」


終戦当時、台湾にいた日本人のなかにもいろいろな考え方があっただろうが、「台湾を離れたくない」という気持ちでありながら、国家が定めた運命によって無理矢理台湾から引き離された人々がいたことは、この作品を見れば十分に伝わってくる。


こうした人間レベルの関係は、戦後の日台関係のなかで政治的に隠されてきた部分がある。台湾では国民党の「中国化教育」によって日本への思いは「皇民意識」として克服すべき対象となった。日本でも、台湾統治という植民地領有行為そのものが批判の対象となった。


その結果、国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの「人間の歴史」までが忘却され、軽視されてきたのである。


しかし、台湾では近年、「中国は中国、台湾は台湾」という認識が完全に定着し、その分、台湾へ向ける人々の郷土愛が盛んに強調されるようになっている。「愛台湾(台湾を愛する)」というスローガンは、もはや独立志向が強い民進党支持者だけでなく、国民党の候補者も語らなければ選挙に勝てない状態だ。その意味では、この湾生回家のヒットは「日本人も愛した台湾」という点が、より台湾の人々の涙腺を刺激するのだろう。



今なぜ台湾で「懐日映画」が大ヒットするのか
戦後70年、無視されてきた「人間の歴史」
http://toyokeizai.net/articles/-/94829


よくぞ、現在の1930年代生まれの人が80歳代に入り、今、映像に具体的に残せるチャンスをとらえたことに、関係者に感動を覚えます。歴史は、通常マクロで語られます。けれども『この世界の片隅に』もそうだったけれども、ミクロをちゃんと見ようという物語がたくさん見られるようになってきたと思う。ここでは、マクロの話は語られない。本当に、一人一人のの人の主観のその積み重ねになっているのが、この作品のドキュメンタリーとしての面白さなのだと思う。それにしても、千歳さんの話は感動的だった。背景はどういうことだったか、わかったわけではないだろうが、、、それにしても、ドラマチック話で、見ていてぐっときてしまった。この時代は、世界中に日本人が散らばっていて、きっと様々な埋もれたドラマがあるのだと思う。個人の歴史は、ドラマに満ち溢れているんですね。