『ローマ法王になる日まで(Chiamatemi Francesco - Il Papa della gente)』(伊2015)Daniele Luchetti監督 イデオロギーではなく、人に寄り添うまなざしが素晴らしい

評価:★★★★☆4つ半
(僕的主観:★★★★★5つ)

現在の教皇フランシスコの半自伝的映画。

見ていて涙が止まらなかった。これはある意味、ビルドゥングスロマン(成長物語)と言っても差し支えないだろう。なぜならば何物でもない立場から、その組織の政治の頂点にまで登っていく話になるから。しかしまったく、そうは見えない。それは、彼が志と動機をもって、それを軸とする生き方をしていないからだ。彼が望むことは、人々に、貧しい人たちに奉仕て生きること。しかし、とても難しいことに、彼は若くして管区長の地位にあり、明らかに政治的調停のセンスと、保守と改革のバランスがある人間だったことだ。彼は、現場で死ねるような一兵卒でもないし、そうしたことは既に立場が許さない。性急ではない彼の才能も、そこには向いていない。現場の聖職者が、親しい友人たちが、独裁政権で次々に殺されていく中、政治的なバランスを考慮せざるを得ない彼は、苦悩し続け、生き続けることになる。

人々に奉仕しきって死ぬこともできず、死んでいった仲間たちにどう詫びればいいかわからないまま、ギリギリのラインを、人としてひたすら誠実、過ごしていく。よく言われるように現法王フランシスコは質素なのが好きなのではない、と僕は思う。人々に奉仕して殺されて行った仲間たち、南米の独裁政権下の過酷な貧困の世界を見据えている彼には、どうしても、華美な生活ができないのだろうと思う。この作品を見れば、彼が人々に奉仕して暗殺されて行った仲間たちを思い、そこへの強い贖罪意識を抱えて生きているだろうことは、容易に推察される。

ある意味、とても普通の人なのだ。保守でもあり改革でもある政治的な立場は、極端なことを許容できず、常に人そのものに寄り添っている。だからとても保守的であるにもかかわらず、とても柔軟。人間は、そんなに杓子定規に測れないからだ。女性の判事に交渉に行ったときに、シングルマザーの子供の洗礼を、なんの躊躇もなく受け入れる傍ら、不倫している彼女に何とも言えない表情を見せながら、友人として暖かい表情で家に遊びに行って一緒に家族と食事を食べるシーンは、彼の人間に寄り添う姿勢をよくよく表していると思う。主義(イデオロギー)ではないのだ、というのがありありとわかる描写。

監督は、うまくまとめたと思う。世界最大ともいえる巨大組織の頂点に駆け昇っていく成長物語の半生を描きながら、これほど静謐に苦悩し続ける内面をシンプルにまとめる力量は、素晴らしい脚本だった。キラキラするような野望も志もなく、ただひたすらにおろおろし、悩み続けて、苦悩し続ける人が、世界に選ばれていくドラマを見るのは、素晴らしい体験だった。涙が止まらなかった。主演の押し殺したような、それでいてユーモアを感じる演技も、拍車をかけて見事だった。いい映画を見た。そして何よりも、この映画を見て、アルゼンチン、南米、アメリカ大陸、非ヨーロッパ出身の教皇が選出される文脈と深さを、強く体験できた。素晴らしい映画であり物語でした。

上映時間の過半は、教皇フランシスコの出身地アルゼンチンが描かれます。特に、1976年にホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍がクーデターで権力を奪取し、1983年まで続いた軍事独裁政権下がこの作品の舞台であり、かつフランシスコという人の人格のベースにあるものとして解釈されている。僕は涙がとまらず感動していたが、この時代の教皇フランシスコ、当時は一介の聖職者だったホルヘ・マリオ・ベルゴリオの行動には批判も含めてかなり根強い批判があるようなので、この部分は単純ではないかもしれません。確かに見ていて、基本的に大組織であるカトリックの上から命令にすべて官僚的に従っており、人々に奉仕して貧しい人のために死んでいった聖職者たちと比べると、権力におもねっていたという風に思われ、批判されてもおかしくない。なので、この映画が、フランシスコ寄りの解釈をしていると批判されても仕方がない部分もあるかもしれません。


ただし、短絡的に、そうか、教皇の宣伝映画なのかと考えないで、少し違う補助線から考えてみたいと思います。


一つは、アルゼンチン、いえ南米大陸の国々の独裁政権時代の世界がどんなところだったか、ということです。アンドリュー・ロイド=ウェバーの同名ミュージカル『エビータ』の映画化で、アルゼンチンのファーストレディだったエバ・ペロンを描いた作品などが僕はすぐ思い浮かびますが、この社会の政治の不安定さの凄みというのは、たぶん安定した統治に慣れているわれわれ日本人では想像もつかないようなものだろうと思います。

エビータ [DVD]

もともとクーデターで国が大混乱に陥る南米の激しさは、歴史の教科書的な知識としてはわかっていました。しかし、これまで見た、聞いた、知ったどれよりも、この『ローマ法王になる日まで』のホルヘ・ラファエル・ビデラ将軍統治下のアルゼンチンの生活空間の怖さは、背筋が凍るようなものだった。なんの罪もない人々が、淡々と殺されていく。軍人の「上からの命令だから仕方がないのですよ」という硬直化した官僚的な姿勢も、さらに、恐ろしさを感じる。それも、ベルゴリオの友人たちが、物語的には救われるだろと思われる、ベルゴリオの必死の救出活動が一段落した途端、淡々と殺されていく。まるで日常なのだ。しかも、薬を注射して、意識がもうろうとしているところで、飛行機に乗せ、工場の作業のようにたんたんと動けない意識が朦朧としている人々を、高度から海に投げ捨てていく。まるでごみを捨てるかのように、感情をまじえず。ふと、日常が進んでいく中で、秘密警察のような車がさーっと、あらわれたと思ったら、そのまま人々を乗せて郊外に行き、その場で射殺する。・・・・・きっと、こんなことが、毎日、普通に続いていた時代なのだろう。見ると、軍政下の独裁政権の、批判が許されない世界での生活がどういうものなのかが、よく感じ取れると思う。これはナチス政権下のドイツや、スターリンソ連、戦争中の日本などのような社会だったでしょうが、それがずっとずっと続いているわけです、日常的に。空恐ろしいです。そのなかで、普通の組織人である、スーパーマンでも何でもないベルゴリオは、ほとんど何もできないまま、なぜ、人々に奉仕して死なないのか?と周りにも思われ、自分でも悩み続けることになるのです。


でも、こんな状況下で、どうにかなるものでしょうか?。自分の友達すら守ることができないんですよ。大統領とすら面会できる管区長が。ましてや地位にある立場の人間が、独裁政権と対立すれば、カソリックが、教会自体が国と対立してしまう。


それにもう一つ。ベルゴリオ枢機卿の、人としてのコアが何か、というと、やっぱり保守と改革のバランスだと思うんですよね。そのバランスが何に根差しているかといえば、やはり南米という過酷な政治状況、貧困に苦しむ人々をどう守るか、よりそうかということに、苦しみ、その軋轢の中で「悩み続けてきたこと」そのものにあると思うんですよ。彼の人柄、現在の業績から見て、決して、官僚的で、お高く留まって貧しい人々が殺されるのを座してみていたわけではないのは十分わかります。では、何をしていたか、と問えば、この映画のようになるのだと思うのです。


解放の神学。


という言葉をご存知でしょうか。

解放の神学(かいほうのしんがく、英語: Liberation theology)とは、第2バチカン公会議以降にグスタボ・グティエレスら主に中南米カトリック司祭により実践として興った神学の運動とそれをまとめたもので、それに対する議論も多く、教皇庁でも批判者がいるが、世界的には広く受け入れられている。一部には1930年代のディートリヒ・ボンヘッファーをその先駆けとみる見方もある。

wiki


wiki出はこう書かれていますが、聖書やキリスト教の中では有名なもので、聖書に示されている方向性を解釈すると大きく二つあるといわれています。


1)現状を維持し、為政者に都合がいいもの・民衆はひたすらあるがままを受け入れて耐え忍ぶべし


2)現状を全否定し、社会の仕組みを根本から変えることを志向するもの


聖書は多様な物語が存在しており、どれをどのように解釈してアジテーションするかで、全然違ったものになります。それは当然で、聖書が、ローマ帝国の国境になり、統治者におもねるなかで体制の宗教になっていた側面もあれば、イエスキリスト自体が原始共産主義的なカルト宗教を起こして、当時の体制に対して、世俗の在り方に対してNoを突きつけた人なわけで、当然その傾向も強く持っています。


どちらを強調するか?によって、キリスト教の解釈は、大きく異なり、それが社会に大きな影響を与えます。


1)の側面を強調すれば、アメリカでの黒人奴隷の扱いすらも、あるがままに受けいれて我慢せよ、というような信仰になってしまいます。実際のところ、アメリカにおける黒人奴隷の扱いの過酷な時代は、そのように聖書の説教は機能しました。しかし同時に、許せないような不公正、社会的な歪みに直面した時に、体制を否定して革命を起こす原動力にもなります。


南米における過酷な独裁政権による民衆の生きる生活世界が地獄と化していくときに、人々が、極端な現状否定を志向し、革命やテロリズムを求めていく足掛かりと理論的根拠になることは、自明だと思うのです。しかし、、、、、


この文脈から、アメリカ大陸、それも南米のアルゼンチンという過酷な独裁政治を経験した中で生き抜いてきたベルゴリオ枢機卿が、強固に選ばれることの意味がよくわかります。そもそも根本的な解放の神学にシンパシーのある土壌の中で激しい改革志向を持ちながら、それでもバランスを保ち続けて来た人が、様々な問題に揺れるバチカンのリーダーに選ばれることの文脈的な意味は、とてもよくわかるのです。この時期に、このような人を選ぶバチカンのセンスに、流石、何千年も生きてきな大組織、と唸ります。



こういう視点から見ると、なぜベルゴリオ枢機卿だったのか?、なぜ、アメリカ大陸、南米のアルゼンチンだったのか?というのは、僕はとてもよくわかる。その文脈がすべてシンプルにこの映画には詰め込まれていて、僕は本当に素晴らしい脚本だと唸りました。


ビジュアル 新生バチカン 教皇フランシスコの挑戦


この文脈では、エマワトソンの下記の映画も見てみたいところですね。


コロニア [Blu-ray]