『ブリグズビー・ベア (Brigsby Bear)』2017 USA Dave McCary監督 本当のその人を知ること、受け入れるということはどういうことなのか?

ブリグズビー・ベア (字幕版)

客観評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

■全体の所感

先日、マル激トーク・オン・ディマンドで、宮台さんと神保さんが、絶賛していたので、これは見ないと思い立って、昨日見ました。とにかく、町山さんとか、自分がこの人は!と思う人の紹介は、思い立ったらすぐ見ようといつも思っているのですが、なかなか時間が確保できなくて、無様をさらしていますけど、コツコツ見ているとリテラシーが上がるのか、見れば見るほど物語は面白くなっていきます。でも思い立ったら、すぐ見れるという意味で、ネットフリックスやアマゾンプライムは、本当にありがたい。。。。のですが、毎日コツコツマジで見すぎで、老眼が進んできたというか、目がかすみます、、、酷使しすぎだなぁ。。。

さて、まぁ、評価に出ているのですが、とにかく素晴らしい映画でした。断トツの両方での星5。誰にでも進められる、素晴らしい作品です。2017年にサンダンス映画祭でプレミア上映された作品で、2017年に公開されていますね。友達に紹介しましたが、見たことある人は、みんないいっていってますね。GiGiさんが、生きる支えになったとまで(笑)書いているんですが、ああ、わかるそんな感じ。よりもい、『宇宙よりも遠い場所』英語タイトルは、‘A Place Further Than the Universe’ なとらんでというのが、なるほどとちょっと思いました。


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これって、世界が美しい!世界は祝福されている場所なんだ!と感じさせてくれる物語なんだと思うんですよ。だから見終わると、とても幸せな気分になれる。宮台さんは、コメントで映画館の外に出るといかに現実がくそかと思い知って打ちのめされるようなことを言われていましたが、僕としては、現実と比較しての「ありえなさ」よりも、こういった善意に祝福されている世界も「ありうるんだ」という可能性の方に、ぐっと来た気がします。ただ、たしかに、この善意に満ち溢れた世界を見た後に、現実を思うと、この世界の「わかりあえなさ」にグッと凹むというのも、わからないでもない。僕は今、やっとアメリカのドラマの『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』/ヴィンス・ギリガンVince Gilligan監督2008-2013をこつこつ見ているんですが(いまさらですが。。。。)、基本的に善良な人だけといってもいいのに、なんでこんなに坂道を転げ落ちるように、人生がめちゃくちゃになってしまうんだろうと、見ていて本当に凹んでしまいます。愛があっても、善良であっても、こんなにも分かり合えず、こんなにも簡単に善良であるがゆえにおかしくなってしまうだ、、、ということがこれでもかと展開されるので。同じように、『ブリグズビー・ベア (Brigsby Bear)』の主人公のジェームズ・ポープ(カイル・ムーニー)も、その家族も、どろどろになって崩壊していくのが普通じゃないですか、どう考えても。そうなりそうな景気や可能性は、これでもかと描かれている。そもそも、普通の家族を演じるのさえ不可能な、苦しい構造に最初からなっているじゃないですか、はっきりと。「にもかかわらず」すべては、なんと幸運に満ちて、美しい方向に進むのでしょうか。このありえなさに、僕は、ぐっときましたよ。

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全然、関連しなさそうですが、僕のブログを追ってくれている人は、僕がライトノベルの『無職転生 - 異世界行ったら本気だす -』を思ってしまうのは、わかっていただけると思います。彼は、こじらせたニートで、親が死んだのを契機に親族から家を叩き出されて、そのまま交通事故で死んでしまいます。そこで人生を異世界でやり直す、というよくある「小説家になろう」の典型的な物語類型なのですが、主人公は性格も考え方も全く変わっていないんですよね。でも、本当に最初のころの、もしくは分岐点での小さな小さな「ボタンの掛け違い」の偶然だけで、人生は、素晴らしく美しくなったり、地獄のような真っ暗闇になったりします。そこに理由は根拠や必然性のようなものはないんですよね。本当に偶然なんです。この世の中は、物凄く幸せな方向にも、不幸せな方向にも、偶然の連鎖で転がり落ちていってしまう。とても、、、、理不尽です。受け入れるのが困難なほどの理不尽です。『ブレイキングバッド』のウォルター・ホワイトだって、癌にならなければ、あれほどの道を踏み外すことがあり得るような人では全くあり得ません。でも、そういうことは、まま、怒ってしまう。この偶然の連鎖を、マクロの視点で受け入れるという視座を持てるかどうか、というのは、人間にとって大きな分岐点になるような気がします。。。。。というようなことを感じさせるほど、美しい物語でした。おすすめです。

化学教師 ウォルター・ホワイト


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ちなみに、以下ネタバレです。内容を知っているのを前提で書くので、見ていない人はわからないと思います。



■その人がその人であること受け入れることはどういうことか?


あらすじとか作品背景の説明を書いていると書く気力がなくなって、書かなくなってしまいそうなので、自分なりのメモとして。意味不明かもしれませんが、映画を見ているのを前提で感想を書きます。僕がこの作品で、最も感動したシーンは、お父さん?だったか、ああ、つい昨日なのに忘れている。。。。お父さん(もしくは家族が)、主人公のジェームスに、「過去を含めてお前なんだ」というシーンです。このシーンで、僕は、ずばばばばっ!と、高橋留美子さんの『めぞん一刻』のラストシーンを思い出しました。ヒロインの響子さんが本当の意味で、五代君を愛することになったシーンだと僕は思っているんですが、お墓に向かって、死んでしまったあなた(響子さんの前の旦那さん)を含めて響子さんをもらいます、というシーンです。

めぞん一刻 15 (ビッグコミックス)

これを読んだのはいつ頃だったのかなー。こう高校か大学ぐらいだろうと思ったのですが、このシーンを見て、ああ、本当に人を愛するという気音は、こういうことなんだ、と唸ったのを覚えています。どういうことかというと、人を本当に愛する受け入れるというのは「その人自身をちゃんと見て、その人の過去も含めてすべてを受け入れること」なんだということです。


ふむ、このように書くと何となく抽象的で、意味不明ですね。もう少し分解して開いてみましょうか。「その人自身をちゃんと見る」というのは、僕はよく「等身大のその人を見る」という言い方をしています。ブログでもよく書いているので、長く読んでいる人は思い当たるかもしれません。えっとね、僕の世界、社会認識の大前提として、この社会では、普通の人が、相手をちゃんと直視してみる、等身大の本当のその人を見るということは、全くしていない、と思っています(笑)。まずこれが大前提なんですね。じゃあ相手の何を見ているのかというと、スペックや肩書や、自分にとってそれが得か損かだけのATMのようなモノとして、人は見るのが普通だと思うのです。それは、別におかしなこと、汚いことではなくて、親密圏でもない人に対して万人に博愛を、高いテンションで注げるのは、それは人間ではないと僕は思います。人間は、自分が、人間だと感じられる、それなりに少ない面識圏の親密圏の中で生きている生き物なのです。ちなみに、じゃあ、そういう万人を平等に愛するなり見る視点というものがどういうものなのか?という思考実験としては、カート・ヴォネガットさんの下記の作品とかがありますね。

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを


petronius.hatenablog.com


さて先に進みましょう。つまり人間は、「その人自身」を見ない生き物だ。というか、なかなか見れない生き物だ、ということになります。けど、もちろんのこと、人類が生き残っていること繁栄していることから考えると、人間が面識圏を超える大規模な社会に適応した結果であって、様々な親密圏は安定して存在しているんだろうと思います。悪いところばかりクローズアップして、人類は滅べ!悪だ!とか、デビルマンとかアンチスパイラルやポセイドン一族みたいなことを言ってもはじまりません。事実、核が山ほどある人類は、滅びないで、ちゃんと生き残ってますし。ノストラダムスの予言やマヤの予言も超えましたしね(笑)。でも、大規模な社会で、そん簡単に、他者をちゃんと他者として等身大に受け入れるのは、距離感をいろいろ調整しないといけないので、とても難しのです。そして、他人、、、、あまり関係ない人には、人は心底冷酷になれるので、けっこうえげつないことが起きやすい。と、そのように現実は過酷で残酷でドぎたないものですが、かといって、それがすべてではありません。


その背景をベースに考えても、さらにこの『ブリグズビー・ベア (Brigsby Bear)』の設定の出発点は、とても厳しく作られています。ようは、等身大の主人公を、家族でさえ受け入れにくいように設定しているのです。これは、いわゆる『ルーム』とか『幸せのワンルーム』とかの誘拐・監禁ものの類型に当たるんだろうと思うんですよね。この設定は、いろいろなモチーフで描かれることが多いのですが、この作品は幼児の時に誘拐されて、誘拐犯に20年近くまで閉ざされた世界で育てられたというところから物語ははじまっています。

幸色のワンルーム(1) (ガンガンコミックスpixiv)

ルーム(字幕版)


どういう内容であれ、怪物のような誘拐犯(ジェームスの両親がそいっていますよね)に育てられ、その価値観が人生のほとんどすべてになっているジェームス君は、両親には、ほとんど怪物にしか思えないのが当たり前だと思うんですよ。この場合、特に父親との理解不可能性は、いろいろ罠がはられている。たぶんこの父親、ガタイとか考え方から言って、かなり脳筋でスポーツ大好きな人なんじゃないかな、と思うんですよ。だから、子供の時できなかったイベントで水泳とかアウトドアばかり話すし、二人で時間を過ごしたいといって、バスケットボールにさそったりするんですよね。でも、ジェームス君に拒否られちゃう。ジェームス君は、映画がつくりたいとかいう、言ってみればクリエイター気質で、ギーク、オタク系の人だと思うんですよ。このブリグズビーベアの感想には、こうしたオタクやクリエイターの「受け入れてもらえなさ」が受け入れられていく系統の物語だと評する人が多い気がしましたが、それはそうだ、と思います。でも、間違いじゃないけど、僕は、そこは主題じゃないと思うんです。ずっとプリキュア仮面ライダーやアニメや漫画が好きな僕らの実存と、それを重ね合わせるのは、まぁそうなんだけど、ここはポイントとして焦点じゃない気がする。

というのは、ここでは、主人公の誘拐されて別の価値感によって育ってしまった自分の息子を、兄を、受け入れることができるのか?ということなんですが、それはすなわち、異形のものであっても、よくわからない、、、、むしろ嫌悪するようなものであったとしても、「その人自身」をトータルで評価して、受け入れられるのか、ということを周りの人の迫っているんです。「その人自身」というのは、とても難しい。本来であれば「自分の息子である」とか「兄である」という肩書が用意されていて、その役割にしたがって家族ゲームが、ごっこが繰り広げられるのが、普通の世界です。個人的には、典型的な壊れた家族の物語では、山本直樹さんの『ありがとう』などが傑作です。

ありがとう(1) (ビッグコミックス)

しかし、そういった肩書があってさえ理解しあえないのに、あきらかに「自分から大切なもの奪っていった怪物(誘拐犯)の価値観を引き継ぐ」そして「自分の意思で引き継ごうとしている(=映画で続きを作る)」存在を、受け入れることができるのか?。しかも、「馬が合うかどうか」という点で、スポーツアウトドア派の父親とギーク、オタクの映画好きのジェームスくんでは、相性すら悪い。


でもね、最初のところに戻るんですが、お父さん(もしくは家族が)、主人公のジェームスに、「過去を含めてお前なんだ」というシーンです。


つまり、過去を含めて積み重なって出来上がったジェームス君という人格を、過去を含めてき受け入れて、一緒に生きていこうというんです。その本気の証拠に、彼が最も大切にしているブリグズビーベアを、一緒に作ろう、というんです。ご両親が許せない気持ちは、痛いほどわかりますよ。だって、自分たちの赤ん坊の最も大切な一緒に時間を20年も奪った誘拐犯の作った物語なんか、見たくもないし、それによって洗脳されて、「古いお父さん」とかいうほど愛されているのを、見たいはずがないじゃないですか。マッチョイムズ的に言えば、自分のもの(=所有物)を奪われたわけですから。けど、それでも、、、、そうしたことを超えて、許して、受け入れて、「その先を一緒に歩もう」、歩むときには、「過去のジェームスも一緒に」といえるこの両親の、妹の度量の深さに僕は感涙します。


そして、それには、きっかけがあったと思います。彼の心の中に孤独に閉じ込められていたものを引き出す彼の親友、、、一緒に映画を作ろうと言ってくれた友人がいたからでした。彼の心の中にある、(彼のではないにしても)罪を含むイメージを、ユニバースを引き出して、その美しさを共有出来るなんて、そんな幸運なことは、なかなかないと思います。僕は、あの美しアメリカの大自然の中で、着ぐるみを着ながら撮影されるジェームス君の姿のビデオで、涙が止まりませんでした。あの映像を見て、お父さんたちは、気持ちがひっくり返ったんだろうと思うんです。だって、美しさに満ちていたもの。そして、あそこには、過去の誘拐犯の罪を超えるものがありました。それを超えて、狭い世界から解き放たれたブリグズビーの世界観が、大自然に、世界に、広く解き放たれているのを見て、、、、、ああ、もうこの世界観は、誘拐犯の親が作った閉じられたものではなくて、ジェームス君の心の一部として昇華され解き放たれて育っているんだ、というのが目に見えて分かったんだろうと思います。うーん、この感動を、映像なしで説明するのがもどかしい。ジェームス君の大親友になるスペンサー(Jorge Lendeborg Jr.)くんが、もうなんかいいやつ過ぎて、泣きそうでした。なんでか、彼を見ていると、成田美奈子さんの『サイファ』や『Natural』を凄く連想するのはなぜなんだろう。。。。たぶん、家族愛ではない、友愛で、美しい物語というと、これが凄く連想されるからかもしれないなぁ、僕の物語り歴から。

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ああ、そうか、ぼくにとって「友達って何?」という質問がされたときには、これらの作品、ハルやJR(知らない人はごめんなさい、これらの漫画の登場人物です)が思い浮かぶんですよ。特に、サイファですねぇ。ああ、友達っているのは、こういうものなんか、、と僕は思ったのを覚えています。ふむ、、、そういう意味で、人生で大切なことは、ほとんどマンガや小説からきてるな、俺。。。。まぁこの話をすると長くなるので、見たことがある人は、あんな感じで、、、で、見たことがない人には、スペンサー(Jorge Lendeborg Jr.)くんが、誘拐犯に育てられたとか、そういううわべのことではなく、一直線に彼の内部にある、ブリグズビーベアの世界観、言ってみれば彼の精神、内宇宙に直接、好意をしますんですよね。そんで、友達になる。そういう人に偶然出会えたのは、ありえないほどの幸運ではあるんですが、そういう奇跡は、よくあることだろと思うんです。僕も息子が、偶然行ったサッカーのチームの練習で友達ができていく様とか観察していると、、、こんなに幸せなことが、世界には偶然として無数に存在しているんだ、、、といつ驚きます。もちろん反対の悪いことや、ぶつかり合いも、たくさんあるでしょう。でも、感覚的には、50/50ぐらいなもんだと思うんですよねー。あとは、「それ」の種を、その人が、周りがどう育てるかにかかっている。


これ、世界は偶然の連鎖でできていて、この物語は、運よくその偶然が重なったにすぎない、ほんとはデフォルトととして現実はくそだ、というのは事実です。けど同時に、同じくらいの確率で、常にどっちでも転ぶのがこの世界の偶発性で、、、、それを見せられる物語こそが感動を呼ぶんだろうと僕は思います。ブリグズビーは、よく練られた脚本で、家族が受け入れられない前提を作る上で、誘拐というのは必須だったと思うんですよ。なぜならば、彼の罪というか汚点、家族から見る嫌悪というのは、彼によってつくられたわけではない、という構造を作りながらも、受け入れがたいという構造を作るのには必要だったから。また、これが映画を撮るというクリエイターの物語になるのも必然だともうのです。だって、外に、表に引き出されなければ、彼の内宇宙は、世界に現前しないじゃないですか。そういった困難な構造を作りながらも、針の穴を通るようなありえなさで、素晴らしき幸運が、善性が積み重なって、幸せな物語になっていきます。友人が、これを見ると生きる支えになるというのがよくわかる気がします。この世界は、社会は、そういった素晴らしさもまたあふれているのが、わかるからです。まぁ、このすべてが逆にまわって、精神病院に閉じ込められたまま地獄の監禁生活が続くというのもまた、ありふれた話なのですがね(苦笑)。


美しい物語でした。低予算とは信じられない、見事な出来栄え。チープであることが、むしろ凄みを持った価値になるような映像美。素晴らしかった。というか、スターウォーズマーク・ハミルがでていますが、いやーさすがです、こういう作品を見つけてくるなんて。


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Brigsby Bear Official Trailer #1 (2017) Mark Hamill, Kyle Mooney Comedy Movie HD

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マル激トーク・オン・ディマンド 第921回(2018年12月1日)