『福岡市を経営する』 高島宗一郎著 最も成長が終わってダメージを受けた団塊の世代ジュニアこそが、成長より成熟なんていっていちゃだめだろう!

福岡市を経営する

評価:★★★★★5つ
(僕的主観:★★★★★5つ)

何となくは知っていたのだが、ちゃんと追ったことがなかったので、いい機会だと思い軽い気持ちで読んでみた。そうしたら、2018年に読んだ中の本で最もインスパイアされガツンと来た本で、その圧力に驚いた。★5つ主客に両方で最高点だった。自分がこの本で強いインプレッションを得た点は2点。


1)成熟とか言ってんじゃねぇ!、打ち捨てられて沈み未来が暗い団塊のジュニアこそ、成長を目指し、希望を取り戻す先導役になるべきだ!


一つ目は、個人的な「生きる姿勢」として、大きな指針をもらったこと。

団塊ジュニアの私が「成長ではなく成熟だ」なんて言いたくない


この話、胸にずんと来た。著者と私は同い年。明らかな団塊の世代ジュニア。統計的にも世代的にも、時代に食い物にされ成長から取り残された打ち捨てられた世代。高度成長期の恩恵を受けず、その狭間で新しい時代にうまく乗れず、ただ沈んでいった世代。1971年から1974年第二次ベビーブーム世代なのですが、この世代が、時代のはざまのダメージを直撃させられた世代。統計的事実として、団塊の世代の子供たちである我々は、受験戦争が最も激化した時代に受験を経験します。そして、高校生にバブルがあり、大学生ではじけ、就職超氷河期になり、卒業する人が多いのに景気が沈むという最悪を経験します。団塊の世代が作った日本の矛盾を引き受けるように、非正規雇用が増える政策がとられ、就職できなかった人々はニートになるか非正規雇用になるか、というようなそれまでの日本がつくってきた終身雇用などの神話の物語からはじかれることになりました。その神話によって洗脳されて教育を受けたのに(苦笑)。本来、第二次ベビーブーム世代の我々は、世代的に次の「第三次ベビーブーム」を起こすはずでしたが、それはできませんでした。それは、団塊のジュニアが、マクロ的に矛盾を背負わされ、構造的に再生産ができなくなったからでしょう。日本の国家のライフサイクルとして高度成長から低成長縮小期に入った矛盾を直視されず、その犠牲になった世代でした。


この背景をベースに、識者やリーダーが、これからは成長より成熟だというのを、高島さんは「嫌悪する」という政治家としてはかなり激しい罵倒を何度も投げつけます。彼曰く、時代の犠牲になった我々だからこそ、最も希望がないことのつらさを知っている。また希望がない(=成長がない)ことがどれだけ悲惨なことかを体験している我々こそが、率先して成長を求めないでどうするのか!と。


これ、胸に響きました。そして、何が凄いって、この方は大学時代から、この強い炎、強い意志を持ち、いまに至るまで持ち続け行動に移し続け、結果を叩き出していることです。自分を顧みて、どうすれば成長がない世界で、成熟で豊かに生きられるのか?という逃げの回答を探していた、賢しらだった自分を反省をしました。もちろん、個人としては、未来がキラキラしなくなった、言い換えれば、成長がなくなり、経済のパイはシュリンクし、社会の参加意識は弱くなり、あまつさえ、日本メインの神話である終身雇用の大きな物語に自明に参加することも許されない、だからこそ、結婚もできない、お金もない、子供も作れない(マクロ的には、第三次ベビーブームが来なかったというのはこういうこと)、そういった「変わらない永遠の日常」の中で、成長を求めないで、どうやって心の安寧や、幸せを見つけ出すか?という問いは、低成長の時代を、そうはいっても人生のメインの時期として生きざるを得なかった団塊のジュニアにとっては、痛切に求めた慟哭であり知恵でした。しかし、、、、それは、自分個人の心の安寧の話。


高島さんが、経済界のリーダーや政治のリーダーなど、人の上に立つ人が、低成長とか成熟とか、そういった言葉を吐くのが許せなくてイライラした、というのは、本当にそう。社会は成長がないと、良くなることはないという構造があるんだと思います。下記で、アメリカのウォークアウェイという運動を紹介しました。これは、リベラリズムを標榜していた、左派が「狭い線引きでの自己」の権利獲得、既得権益を守るために、全体のことを無視して、部分の正義のみを主張しすぎて、他者に暴力的、攻撃的になる(パイが少ないので、自分が奪い取る行為が正義)ことが、広範に嫌悪を呼び起こしているさまを、よくよく示しています。なぜ、こうなるかは、まさに成長への希望がないので、アイデンティ・ポリティクスで、「狭い区定義した自己」の権利の拡充だけを狙い、他者を叩き潰すことが「必要」だからです。パイ自体がシュリンクしていく中での、自己の権利を拡張は、すなわち他者からの収奪になりますから。そうする、価値もっとも持っていると定義される人、、、、アメリカでは中産階級で、男で、白人などと定義できるでしょうが、、、それまでの社会のメインストリームの層から、過去に差別をしたのだという遡っての清算を求めて(これ自体は、いろいろ問題はあるが論理的ではある)ることになる。しかし、そういった「過去の罪を償え」ロジック+メインストリームの特権者はどんなに叩いてもよい!で、かつ、パイが増えない環境では、妥協ができなくなる。公正、フェアネスの基準(これは簡単に線引きは変わる)によって、どのへんで妥協するか?というバランス問題なのだが、要は社会統合ができなくなってしまう。社会の中で、部族(それぞれの属性などの小集団ごと)毎に殺しあって、モノを奪い合う北斗の拳状態になる。


petronius.hatenablog.com



こうした社会を、それでも個々人の権利を拡大し(リベラリズム)、かつ社会の安定的な統合をぎりぎり維持するラインで妥協していくためには、絶対に「成長」が不可欠なのだ。成長への希望、可能性がなければ、人は、内ゲバで、限りあるパイを奪い合って殺し合いしかしないので、社会統合も絆も、異なる他者との相互理解もしようとはしない。だから、社会のリーダー、少なくとも組織で人を率いる立場の人が、成熟とか低成長を許容するようなセリフを吐くことは許されない。それは、希望がないので、内ゲバで殺しあえ、と勧めているようなものだ、という風に周りに受け取られるからではないか、と僕は思う。

団塊ジュニアの私が「成長ではなく成熟だ」なんて言いたくない


これは、個人的に大ヒットでした。というか、胸にさすように響きました。自分のこのブログの物語批評のこの10数年間の基本テーマ・文脈として、いや、僕が子供の頃からのライフテーマとして、成長と成熟の両輪をどう回すのか?というのがあったと思います。二つの異なる「志向」がマインドセットされていて、一つはベイシックスキルというカテゴリー(だけじゃないですが)で、どうやったら成長できるのか?、勝てるのか?に常に注目してきました。とはいえ同時に、低成長の沈みゆく黄昏の社会で、「永遠の日常」をどう楽しく成熟して生きていけるのか?、、、、時にこれは切実でした。団塊のジュニアである僕らの世代は、もっとも高度成長期の終わりの地獄をたたきつけられた世代なのに、にもかかわらず、団塊の世代の親から「努力すれば報われる(実際はマクロ的に報われない)」「頑張ればだれかが見ている(実際は、搾取しようと弱者を探して、食い物にされる)」などの、高度成長期の希望によって支えられた社会道徳や倫理を、徹底的に洗脳され、そのやり方に適合してきた時代でした。ぼくは、この「信じている価値観や行動指針」と、「外部環境が依然と全く違うものに変わっている現実」の信じられない乖離が、『新世紀エヴァンゲリオン』などのアダルトチルドレン的なものへの広範なシンパシーが生まれたのだと思っています。

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でも、「それでも」やはり社会の統治というマクロ的観点から見れば、「成長ではなく成熟だ」なんてのは、まったく役に立たない戯言なんだというのが身にしみました。ミクロの生活の安寧や、持続可能性や生活世界の習慣などは、もちろんこの成熟の技術って、重要なパラダイムシフトで、超長期にはトレンドがおかしいというわけではない。けれども、短期、中期、そして現実に「みんなというレベル」で考えるとき、リーダーシップ(リーダーだけではなく、すべての人にはリーダシップが必要という伊賀泰代さん指摘は正しいといつも思う)の次元では、成長は常に意識され、目指されるべきものなんだ、としみじみ思ったのでした。

採用基準


高島市長が、書いているこの本を全体的に読んでいけば、「様々な人がいる現実社会(ここでは福岡市全体)全員の合意」を作り出すことは不可能に等しい。それが、全体を通して、これでもかと伝わってきます。福岡市の市政自体に詳しいわけではないし、彼が言っていることが正しいのかのファクトチェックをしているわけではないのですが、読んでいて彼の感情の動きや行動だけを追っていても、明らかに価値観の異なる人々の合意を形成するコストは、現実のところ高すぎて、社会統治というのは、本当に難しいのだなと実感します。これは、どんな小さな組織でも、人が何人かいるところに生きていれば、合意形成のコストの高さは実感できるはずです。現代の日本は、価値の多様性や多様な生き方が認められたリベラルな民主制社会で、こうした多様な社会での合意コストというのは、ほぼ不可能なほど高い。既に、予算制約から、成り立たないところまで来てしまっている。ケインズ主義にふれすぎた社会を、持続可能性にするに、ネオリベラリズム新自由主義レーガノミクスサッチャリズムなんでもいいですが、その反動のトレンドが生まれたのは、ある種の大きな不可避流れなんだと思います。手法の問題点はあったにせよ。


こうしたほとんど合意形成ができないような多様な人々を、それでも「前に向けるのに必要なもの」は、希望です。希望とは、すなわち、成長への意志です。もっとかみ砕いていえば、いま現在、もめていて合意形成ができなくても、そこに向かって一緒に課題解決の努力をすれば、「きっとよくなるだろう」という未来への可能性が前提になければ、もっとも正しい行為は、リアル北斗の拳の「万人の万人による闘争」になってしまう。自分の主張とエゴを押し通して、限られたパイの取得領域をどれだけたくさんとるかがルールになってしまう。社会は構造的に、成長への可能性、希望を排すれば、既得権益の防御と奪い合いになり、合意形成のコストが、ただでさえ高いのに、ほぼ不可能になる。


これが、社会的に指導層にいる人が、成長を語らず、低成長とか成熟とか、そういった言葉を吐くのが許せなくてイライラするということの中身だと思うのです。僕も、日本の未来は真っ暗だ、とか海外の成長している国に逃げ出せ!という言説や意見に、どれくらいイライラしただろうか?。そもそも事実に基づいていないし、論理的じゃないし、感情的にもいやだといろいろあるのですが、それよりもなによりも、社会全体位のことを無視して無責任な言葉であり流布だったからなんだったんですね。ああ、そうだぅたなんだ、、、、、と。しかも、視点が狭すぎる。ちなみに、ぜひとも『ファクトフルネス』を読んでみてください。人類は、素晴らしく前に進んでいます。

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

最近、僕が考えるキーワードは、「統治」という視点。早稲田大学大学院非常勤講師の藤井達夫さんの話していたのを聞いて、「これだ!」と思ったんですよね。僕は政治とかマクロを考えるときにいつもずっと疑問があって、例えば左翼は、どうしてあんなにも財源とか実行可能性を無視して不可能な理想を追い求めて大量殺戮にいつもいたるのだろう?と、また右翼は、なぜ現状肯定をしすぎて差別や嘘伝統を信仰して、進歩を受け入れずに頑迷になってファナティツクになっていくのだろう?とか、もう少しいかえると、なぜ幻想(イデオロギー)ばかりにすがって、現実があんなにも見えないのだろう?。何が間違っているのだろう?と。子供のころから見てて、いつも切実に思うのは、どう見ても間違っているように見えるんですよね(笑)。この「現実を直視していない」という言葉をもう少し開くと、「社会を、自らの手で統治するにはどうすればいいのか?という観点」がないからなんだな、とつながったのです。この辺りの権力の議論は、モイセス・ナイムの『権力の終焉』もよかったですね。

〈平成〉の正体 なぜこの社会は機能不全に陥ったのか (イースト新書)

権力の終焉

なんでも、夢の妄想のように、「思い」が「正義」が通じるわけではない。そこには現実という制約があって、使えるリソースは限られており、また期限が常に決まっている、というのが「現実」の条件ですよね。いいかえれば、目標は目標として、常に統治という観点(=限られた制約)で、どのように諸条件を妥協する、というか「目の前にある、あるもの」という限られた道具で、結果を出さなきゃいけない、前に進んで現実を変えなければいけない、というプラグマティックな意識がないと、現実はどんどん悪い方向に向かってしまう。理由は簡単で、現実に「直接手が届かなくなる」からだろう。思いだけで、世界は良くならない。


そういう視点でいうならば、統治という視点で見るときに、マクロの視点では、成長を考えないのは、卑怯だということ。また、高度成長が止まって、社会がダメージを受けた時に集中して苦しんだ団塊の世代ジュニアこそが、それをいわなくてどうする!というのは、ああ、いいストーリーだな、と個人的にとても納得したのでした。



また、団塊のジュニアの「僕らこそが!」というところに、ぐっと来たんです。



この後で話しますが、テクノロジーについていけない現在の40代、、、、自分のこと、団塊のジュニア世代が特にですね、もう社会にいらない、という岡島悦子さんの意見から導き出される見解に、さびしいとは思いながらもアグリーでした。もう既に、テクノロジーによるインフラの設計や改造を骨の髄まで理解していない世代は、次世代の社会にとってほとんどコストのようなもので、いらないんだ、という話は、余りに腑に落ちるので(経験的に)ああ、そうだなとしみじみ反論する気も起きないくらい自然に受け入れる話でした。

岡島悦子さんという方は、僕は今まで知らなかったのですが、現場のこういった未来の指導者層の教育等をずっとやり続けているみたいですね。分析に、ひしひしと現場感を感じます。なので、とても現実適用性が高い感じの概念が多い気がします。この人が現場でずっと悩み、戦い続けていく過程で、最終的な結論は、ここでは書かれていませんが、「現在の経営者及び経営者予備軍では使い物にならない」と(笑)結論を下したんだと思います。これは、先ほどの人口動態の世代論で考えると、まさにその通りなんですよね。団塊の世代から団塊の世代Jrにかけてまでの世代は、もう次の時代のパラダイムシフトについていけないというのは、マクロ的には、確かにわからないでもない。なので、世代を飛び越えた、次世代の層(40代で社長を生み出せるように)に対して早期教育や、キャリアパス、抜擢の仕組みを作るように制度を作りたいんだろうと思います。日本以外では、刺激的でも何でもないタイトルですが、日本ではすさまじく刺激的なタイトルでしょうね。ようは、この辺りの世代(僕の世代も含まれますねー)に対して、用なしなんで、静かに退場してね、といっているので。もちろん個々の組織の事情はあるので、単純には言えないけれども、ただ全体の傾向で、こういう制度を作って、それが成功するというイメージを作れば、一気に日本の組織はなだれ込んでいくのは、横並びなので間違いなくて、処方箋としては極めて具体的なものだと思いました。実際、最近の日本の組織、特に人事部での既定路線ですよね、ここで言われていることなのは。とはいえ、長く日本の大組織に勤めていると、魂なしの仏さんみたいなもので、コアの重要な部分を全く理解せず、もしくは居使いして、表層の形だけを取り入れて、全く意味をなさないというケースが多々あるので、これがどもまで本当の意味を持つかは、まだまだこれからでしょうね。

petronius.hatenablog.com


40歳が社長になる日(NewsPicks Book)


この岡島悦子さんのトレンド分析正しい。けど、もちろん、社会にとって必要ないですね、団塊のジュニアは。現在の40代は、いらないです、というのは、まぁ、さびしいですよね(笑)。僕、ドンピシャなので。ここ数年、全力で老後の個人の幸せのために、友達の絆や、会社のシゴトではない何かにコミットし続ける姿勢が出たのは、こうした希望がないあきらめの境地があったというのは、一つの大きな理由です。もちろん、リンダグラッドン教授の100年人生になれば、セカンドライフも、いやマルチプルな人生があるので、そのために、様々なレイヤーで、活動してインフラを作っていないと、本当に人生がもったいない、というお話。でも、同時に、社会、いまの仕事の領域で、本当に何かできるリーダーは、世代的に若くてテクノロジーが体感できていないとダメだろうな、という実感もあったので、あきらめ入っていた部分もあるんです。自分の子供を見ていると、もうこりゃ全くかなわないな、としみじみします。もちろん米国に住んでいるので、英語で教育を受けているので、ナチュラルにバイリンガルというのも、多様性に慣れているという帰国子女的なアドバンテージもあるようにみえますが(実は僕は過去の帰国子女的アドバンテージは、移民が増えて社会が多様化した現代日本では、実はそれほど大きくなくなると感じています)、、、それよりも、息子がフォートナイトをやっていて、あっさりと世代も国籍も、しゃべる言語もちがう人と友達になってチームを作ったり(あったことすらない)、、、何かわからないことがあると、世界中のyutubeとか、検索能力が僕ら世代とはけた違いに高すぎて、確かにまだ子供だから自己で分析する能力や思考する能力は弱いとしても、そもそも情報の検索力や、広大なネット世界に日常的に生きているアドバンテージが、もう桁というより次元数が違う。ああ、、、人類は、めちゃ進歩してるんだ、と感心します。まぁ進歩というよりは、単純に、現実に適応しているだけですけどね。これ、さらに小さい娘が、何の疑問もなくI-padとか使いこなすの見て、もうこりゃ、デジタルネイティヴ世代とは、生き物が違うんだ、とあきらめたくらいでした。


LIFE SHIFT(ライフ・シフト)



けど、、、、そうじゃなかったんですね。高島宗一郎さんの姿を見ていれば、団塊ジュニアの世代は、まだまだ通用する。というか、常に、社会の変化は、遅れるもので、それも一律に進むわけではなく、様々な重層化して、分布して変化します。そういう中では、旧来の価値化のやり方と、新しいやり方を「つなげる」ことには十分に価値があり、つねに、若者による現実の適応と吸収というアドバンテージだけではなく、年齢をこ重ねることによる、様々な履歴を体験して、現実にアクセスできるというような老人の叡智(笑)ってほど、40代は年寄りではないですが、あるんだなと思った次第なんです。なによりも、僕もわからないわからないといえども、長くブログを書いたりラジオを書いたり、テクノロジーには、親和性にある日常を送っているんで、「それ」を単純に社会に実装する意思が弱かっただけなんだなぁ、って。個人の領域だけに使用を限定しようとしてるから、だめなんだ、と。



まぁ、ひとことでいえば、やりゃ、できるんじゃないの?という話(笑)。



2)SNSが社会のインフラになり、ポピュリズムに落ち込んでマクロ政治が機能しなくなる環境での、明確かつ具体的な解決方法として都市サイズの復権、そして、リーダーが新しインフラストラクチャーに適合していくことこそ新しい政治の目指すべき姿


さて、成熟よりも成長を目指すべきだ!という高島さんの信念に、ぐっと来たのですが、、、、それ以上に、福岡市のよう規模の行政権力でこそ、日本を本当に良くするモデルが作り出すことができるという彼のイメージは、読んでてなるほど、と唸りました。あのですね、政治家が描く本は、たとえば、以前マクロンさんの本が素晴らしくて紹介したんですが、だいたいの場合、素晴らしい理念なんですよね。連合王国アメリカ、日本などの国が反動的な反グローバリズム政権にふれるなかで、フランスはよくぞ、こんな理念的なリーダーを選出したな、と唸ったんですが、最初から指摘されていたことですが、とても理念的過ぎて、たしかに、グローバリズムの肯定と両立すると、こういうストーリーになるんですが・・・・・でも、これって、どっかで暴動でも起きるんじゃないか、と思っていて、注目してたんですが・・・・やっぱり見事に暴動起きましたね。黄色いベスト運動。だから、理念的なのだめだよなーとしみじみまた思いました。

革命 仏大統領マクロンの思想と政策

petronius.hatenablog.com


なんというかいろんな本読んでいて、抽象的には、どうすればいいのかの大枠の方向は、何となく感じるんですよ。けれども、実際に、先進国の富は、人類に再分配されているので、先進国(もうこの言葉も手あかにまみれてきたなぁ)中産階級の没落は、不可避なんですよね。先進国の中産階級に限定して再配分するのは、無理。なので、再分配を差別して求めて、移民を規制しナショナリズムが沸騰するのは、もう避けられない流れです。


けど、具体的に、どうすればいいのか?というのがよくわからない。


特に国民国家レベルでは、ケンブリッジ・アナリティカ(Cambridge Analytica)の問題など、民主制の根幹の部分を破壊するであろうフェイクニュースSNSによる意思決定、合意形成への影響がいま世界中のホットトピック(2019年1月ね)です。


でも、実際に、具体的に、どう運営するの?というのが、見えない。「具体的に」というのが、さっぱりわからなかったのです。


高島市長の本を読んでいて驚いたのは、かなりの答えが書いてあるからです。もちろん、彼だけではなく、さまざまな政治のレベルでイノベーションや実験、トライアンドエラーが繰り返されているんだ!と、心底驚きました。日本国というナショナルな区分での政治は、悪くなる一方で(笑)、何もやってないんじゃないの?的な気分になるのがいつもでしたから。


えっとね、なんかバラバラなこと言っているなぁ、、、。僕のイメージはですね、2019年1月ぐらいの今の話題って、やっぱりフェイクニュースなどの拡散のメカニズムをベースにしたケンブリッジ・アナリティカ(Cambridge Analytica)によるアメリカの大統領選挙への影響などを見ても、そもそも、民主制を成り立たせる根幹が、揺さぶられている。なぜ揺さぶられているかといえば、まだこの辺りは現在進行形だけれども、テクノロジーによって、民意(ここでいうと投票行動など)が、かなりバイアスがかかってしまい、正常な判断ができていないようにみえる。またウソや偏った情報によって、民意が激しく揺れてしまう。この辺りのポストトゥルースは、世界のホットテーマなので、こつこつ考えているんですが、なかなかまだまとまんないですね。

www.newsweekjapan.jp

フェイクニュースを科学する 拡散するデマ、陰謀論、プロパガンダのしくみ (DOJIN選書)


さて、フェイクニュースポストトゥルースのような環境変化が与える民主制の打撃に対して、具体的にどうするか?という方向性が見えなかったんですよね。


でも、高島宗一郎さんは、かなりの割合が、このSNSによる民意の集約方法や、や情報の拡散の在り方について費やされています。学者じゃないので、細かく分析してあったり、手法の構造などが明らかにされているわけではないのですが、これって、まさに「政治家のSNSツールの使い方」が説明されていて、「行政が、ダイレクトで民意とつながって、現実を動かす現実的モデル」が形成されているのが、よくわかります。何によってよくわかるかというと、まさに「結果」によってです。様々な例が出てきていますので、ぜひとも読んでみてください。


ここで、僕が、面白いなぁと思ったのは、彼がアナウンサー出身でかつプロレスマニアだった点です。


さらに言うと、東京都知事大阪府知事に見られるように、タレントのようなメディアに知名度がある人間が、いきなり行政の長に選挙で勝って就任するというパターンであることも。これまでの過去の経緯を見ていると、メディアの知名度によって選ばれた政治家というのは、だいぶ何もできずに終わってしまっているなーといつもしみじみ思うのです。全部だめだったとは言わないし、致命的だったかどうかは、見る人のイデオロギーや角度によるので、なんともいえません。とはいえ、「メディアの知名度」自体を、行政に生かしているケースは、個人的には稀な気がします。


最もメディアを有効的に使えていたのは、橋本徹さん大阪府知事大阪市長(この辺全然僕はh知らないので、印象ですが・・・・)だと思うのです。えっと何をもって有効といっているのかというと、僕は政策の中身とかは全然わかっていないのですが、とにかく「物議を醸し出す」提示をして、それで民意をシェイクして、それによって物事を動かす手法。いわゆるポピュリズムですね。僕は、この言葉を、必ずしもネガティブにはとらえていません。資産を持たない民衆が、政治参加をどんどんしてゆき、敷居が下がれば、こうなることは目に見えていて、構造的な問題だと思うんです。衆愚政治、というやつもですね。大筋は、それまで市民(シティズン:国の防衛のために命を捧げ、パブリックにささげる)みたいな激しいコミットがなければ参政権もなかった時代から比べれば、大きな流れで、様々な人々に統治に参加できる方向に向かうことが悪いとは思えないですもん。

ポピュリズムとは何か - 民主主義の敵か、改革の希望か (中公新書)


そんななかで、橋本徹さんのように、必ずしも密室ではなく、メディア機能をフル活用して民意とダイレクトに影響を与え合うこと自体は、方向性としてはわかるんですよ。どこからこれが来たかといえば、密室政治だったり、賢人政治だったり、官僚政治でも何でもいいのですが、「誰によって決められているか」という「政治をコントロールしている主体感覚」がない衆愚というか、人々が増えていきながら、それでも参政権があるという中では、構造的なものじゃないですか。そりゃ、SNSでも何でも使って、民意につながろうとするのは、おかしいことじゃない。


ただ、フェイクニュースのどうも本質のようなのですが、SNSなどの双方向メディアによる拡散環境においては、どちらかというと右であったり、保守的な偏見が強化される傾向があるようなんですね。これが、左翼やリベラリズムの行き過ぎによる反動の時代ゆえなのか、それとも、そもそも個人間のメディアにはそういう性質があるのかは、これからの分析が待たれるところだとは思うのですが、、、、でもね、そこはテクノロジーによって、僕は何とかなる部分が、将来的にはあるんじゃないかなぁと思うんですが。。。


あっと、ずれた。えっとね、橋下徹さんの時に、横で見てておもぅたのは、「政治的な論争をしているなぁ」という感じというか、「イデオロギー的な戦いをしているなぁ」という印象でした。いや、これは僕が知らないだけの偏見だろうとは思うんですが、なんかテーマというか扱っている題材というか素材が、イデオロギー的な気がしたんです。えっと、もう一つ言うと、イデオロギー的な視点になるのは、少し「視点が高い」んですね。国政のレベルの議論をしている。国政のレベルというのは、「そもそも根本的にどうあるか?」のデザインを話し合ってる感じがする(あくまで印象論、よーしらんので)。


何が悪いの?と思うでしょうが、えっとね、、、そういうのって既得権益で雁字搦めになって、老人世代がかなりの得票数を握ってしまう日本社会の構造問題から言うと、なんか議論だけして、何も動かなくなちゃうんだよなぁ、と思ったんです。実際スタックしちゃったでしょう?。道州制とか。これって、行政的に、独裁的に権力握らないと、ものが決められなくなってしまう。握るためには、さらに民意をシェイクして、、、という風になると、ちょっと悪い方向性のポピュリズムになってしまう気がするんです。実際、民意の支持をベースにした安倍首相にしても、なんとなく右翼的な安定した支持層を煽りに煽って、そこを固めて、、、、みたいな構造が見えて、そういうのを見ると、当然、左側の立場から言っても、そこまでいかなくても民主制擁護の立場から、根本的なポイントで疑問が出て、また話がスタックしてしまう。そういう、権力維持のためや「目の前のイシュー解決」のために、民意を煽るのは、長期的に見て、国民を馬鹿にするので、凄い危ないと思うんですよね。日比谷焼き討ち事件を、僕はいつも思い出します。


・・・・・今の日本の現実に、スタックして、思考停止して、禅問答のような論争している余裕はないと思うんですよねぇ。


ちなみに、安倍さんの構造は、トランプ大統領の構造ととても似ている気がします。けど、分裂している先進国の壊れた中産階級相手に支持をつなぎ留めながら、スピードの速い意思決定を、割り切って、民意を煽って動かそうとすると、こうなちゃうんじゃないかなぁと思うんですよ、構造的に。


僕は、イデオロギー的な「正しさ」にはあまり興味がなくて、統治のレベルで、どうやったら具体的に、前に進んで、よくなっていくかというのが興味があります。


で、この答えが、政令指定都市の福岡市ぐらいの規模の行政に特化した統治こそが、スピードとして速く具体的に統治がよくなるっていう、高島さんの実感は、ほんとになるほどと思うんですよ。


これみんなわかっていることで、大前研一さんの都知事立候補から、橋下徹さんの話も、道州制的な視点ですよね。ようは、国家規模だと行政が遅くて、まともに前に進まないので、適正規模にした方がいいって言っているんですよ。これ、たぶん、もうほとんど、全世界的な、方向性の見えた考えだと思うんですよね。もちろん、最終的には、こうした広域行政地区(大都市圏)と、国家規模での関係を、どう考えるか?という国家デザインの話には、なるんですが・・・・・でも、それ以前に、じゃあ、「ある一定の規模の行政単位」を、「選挙に強い(独裁的に進められる権力を持つ)」行政官が、そこに住んでいる人の分裂する民意を救い上げ、シェイクし、こねこねして(民主主義は単純に多数決というわけじゃないと思うんですよ。少数意見との関係性にポイントがある)、そして、明確に国際競争に勝ち抜きながら、その地域に繁栄を明確にもたらした実績というか例が、日本にはありますか?というと、これ、まさに福岡市ですよね。東京もそうですが、こう自然に出来上がっているまだ人口が上昇しているような国の富や知恵が集積している大都市圏は、ちょっと例じゃない気がします。政治家が何もしなくても(笑)、構造的によくなってしまうトレンドにあるうちは。

福岡市は、様々なマクロの数値が、明らかによくなっていること、国際競争においてもいいポジショニングに立ちつつある。それでいて、福岡のローカル性がとても強まっているように見えます。えっと、グローバリズムを国家レベルでやると、、、その国の文化である必要がなくなってしまうのが問題なんですよ。グローバルシチズンは、国のこと考えない強欲な資本主義の奴隷なので(笑)。だから、その地域のローカル性が強まることは、すなわち、生活世界の空洞化を招きやすいグローバリズムに対する重要な評価ポイントなんですよね。普通は、グローバルな競争力が増すと、地域性がだめになりやすいんですよ。なんでそうなっているかというと、福岡市という「適正規模」云いかえれば国家より明らかに小さい単位の「行政的に同一性を持ちやすい」単位で、民意をガンガン動揺させて動かしているので、参加意識が生まれているし、それに対する手ごたえがあるんだと思うんですよ。


再分配を求めたり、現在の不満をぶつけるだけだと、必ずだめになります。だって、既得権益の奪い合いで、同胞と憎しみあって、パイを奪えというメッセージになっちゃうんで、リベラリズムが浸透しつつある先進国の市民は、自分の属するマイノリティ集団(みんな実はマイノリティなんじゃないか?と僕は最近思う。マジョリティという敵は、もういなくなりつつある)のエゴを叫びあうアイデンティティポリティクスの正義同士による万人の万人対する闘争になってしまう。ここで重要なのは、成長への希望。「いま現在は解決できない難題であっても」時間をかけて、知恵を出し合い、妥協をしあい、そして「未来を待て」ば、解決可能な構造に変わる可能性は十分ある、ので「持続可能な」妥協を考えるという姿勢。だから、既得権益の奪い合いになるアイデンティティによる正義の貫徹は、非常にダメな考え方。もうこの考え方は、未来がないとみんな思っているので、いろいろ悩むと、右翼や保守に投票しちゃう(笑)。それも極端でダメなんだけど、いまのマジョリティって、こうしたリベラルサイドに見えちゃうんだよなぁ。だから、リベラル側に対する嫌悪感が、社会に根深い。


あっと、話が妄想的な抽象的になりすぎた、えっとですね、高島さんが、ここでSNSなどを凄い使って民意をダイレクトに動かしているんですが、なるほどなぁ、とおもったのは、Facebookなどによる「物事の伝え方」の点。


曰く、顔が見える人格が大事なので、非常時じゃない時に、顔が見える、個人的な運営をしないと、機能しない。また「どのように伝えるか?」ということを、よくよく考える。この場合は、シンプルで、分かりやすく、という方向性に凄くよっている。つまり、ある特定の地域の行政官として「統治に重要」な部分にバイアスがかかっているので、かなり「うまく伝わりやすい」。これ、実はすごい難しいけれども、、、、知名度のあるメディア認知度のある選挙に強い人、、、、この場合は、さらに高島さんがアナウンサーであったこと、徹底的に、短い時間に、本質を、バイアスがあることも含めて、伝えていく訓練を若い時に(今も若いですが)徹底的に積んでいることが効いていますよね。また、フェイクニュース的とは言わないのですが、プロレスというのが、ガチの格闘技と、ショーとしての物語(ウソ)のはざまにあるところのものなんですが、それが大好きだったという点も、凄く機能しているように感じます。


まだまだ現象だけなので、僕もうまく伝えられないのですが、福岡市町というある一定規模の広域行政の長として、かなりの独裁的な力を持ちながら、丁寧に民意を吸い上げていく姿勢は、まさに政治家って、こうあるべきだし、これからのポストトゥルースという背景のあるテクノロジーインフラが進んだ僕らの住む世界で、マクロに立つ人は、こういう発想が必要なんだぁ、としみじみ感じました。

えっと、なんで選挙に強い政治家が、選挙に強くて意思決定ができるかというと、既得権益とずぶずぶになっている行政官僚(市役所などの官僚ですね)と、その相手である既得権益(=集票マシーン・組織票ですよね)と、話し合って、ある程度妥協させるテーブルに着くためには、「民意による高い支持」が必要だからなんですよね。だから民意とのダイレクトな情報交換ができている政治家、行政官には、時限的な独裁権力があったほうがいいんだと思うんですよね。それが、そもそも民主主義でしょう?。官僚や既得権益層に、意思決定を骨抜きされるようじゃ、話にならない。行政官僚制度が行き着いた僕らの現代社会では。


この人は、本当に具体的に「政治」をしている!と、生き生きと本を読んで伝わってきました。また、先ほどの国家レベルの議論になると、神学論争みたいなものになってしまうので、総論に落ち込んでしまわない、具体的な行政テクノクラートの視点として、福岡市という適正規模をマネージしていることが、明らかな「結果」に結び付いているなぁ、、、と感心しました。


僕はほとんど、福岡のことを知らなかったのですが、この本を読んで、少しぜひとも追ってみたい、と思うようになりました。いやはや、この若さで、しかも同い年の団塊のジュニアで、こんな人がいたんだ!と感動しました。


まぁ、きっと悪い面もあるんでしょうから、この本以外の、反対意見の人も少し追いたいとは思うのですが、それにしても、ここ何年も、いやもっとか?、政治に出口というかモデルがないなぁと思っていたんですが、久々に、これはおもしろい!と思う方を見つけて、、、ああ、日本も捨てたもんじゃないなぁ、やっぱりと、うれしくなりました。


そして、団塊のジュニアの、自分ももっと頑張らないと!と思うように勇気をもらいました。



福岡市が地方最強の都市になった理由


これ、もう売っていないんだなぁ。読んでみたいなぁ。。。

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たったひとりの闘争