『<平成>の正体 なぜこの社会は機能不全に陥ったのか』 藤井達夫著 新自由主義、ネオリベラリズムをどう評価するか?

〈平成〉の正体 なぜこの社会は機能不全に陥ったのか (イースト新書)

評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★☆4つ半)

非常におもしろくて夢中で読ませてもらいました。老齢になられた今上陛下が譲位するだけ(この記事書いたの3月だ。。。)であり、特に意味があるわけではないが、平成の30年をひと固まりとして、とらえたときに何が見えるか?。いつものごとく特に要約もせず、自分が「この本を読んだときに最も印象に残った部分」を書いてみたいと思う。それは、多分著者の藤井達夫さんの意図や、きっと政治的な理念、倫理とはかなり外れた、解釈としては、ほとんど真逆の(笑)感想なのですが、この本、特に第二章「ネオリベ化した社会の理想と現実」を読んで、しみじみ感じたのは、ああそうか、とネオリベラリズム新自由主義)の日本社会に展開していった経緯を読んでいって、とても腑に落ちました。


そうか、ネオリベラリズム、社会のネオリベ化、というのは、不可避のことだったんだな、と。


しかも、1979年(昭和54)の連合王国保守党サッチャー政権、1981年(昭和56)米国共和党レーガン政権を端緒に、80年代以降欧州、米国においてネオリベラリズムが受容されていく流れと合わせれば、これが世界的に不可避であり、大きな流れとしては、この不可避さというのは、全世界共通の流れであったのだと。


というのは、現在の日本の政治経済状況を批判するときに、すべての元凶の一つとして小泉・竹中政権(2001-2006)の「聖域なき構造改革」特に労働者派遣法改正以後の非正規雇用の拡大を指して、すべての元凶はここにある的な、あいつらが悪い!という意見を聞くたびに疑問を持っていた。


たしかに、これまであった日本の「社会的紐帯」をズタズタに破壊し、ロスジェネ(まさに自分が当てはまる団塊のジュニア)の希望を打ち砕き、日本社会の安定性を崩壊させたキーポイントはこれだったのは、まさにここだったと思う。これは、今から振り返れば、その通りだろうと思う。けれども、僕は、とてももやもやした感じを、これが批判されるたびに感じていた。「もやもや」というのは、何というか批判するのは、よくわかるんだけれども、、、なんだか、卑怯な気がして、納得がいかなかったからだ。いまでも、小泉改革路線の当時の「大きな方向性」は、「当時それしかなかった」と思うし、当時の持てる背景で「それ以外の選択肢がなかった」と思うのだ。


ではどうして、そのような政策パッケージが当時必要とされたかといえば、ケインズ福祉国家の理念による大きな政府の運営は、専門家集団による抑圧的かつ苛烈な管理社会を生み出し、そうした自由が抑圧される社会においても、スタグフレーションなどの構造的な経済不況を一切克服できずに行き詰まりを見せていたという社会の末期的状況を背景があった。そして、これは日本一か国の現象ではなく、先進国すべてに共通する構造で、すべての社会が同じ政策パッケージの導入を図っている。だとすれば、それ以外の選択肢は、なかった、ということになる。


そして、では、ネオリベ的な政策パッケージを、当時実施しなければならなかった時に、市場を通しての激しい競争を、起業家精神を持った個人が実施することの目的は何だったか?。


それは、1)ケインズ福祉国家型管理社会の構造的な経済不況をイノヴェーションによって刷新すること、2)大きな政府の抑圧的でシンプルな一億総中流という大きな物語を解体することによる個人の自由、多様性を取り戻すことであったはずだ。僕は、2019年現在、この2つの目的は、どれほど達成されたのか?というのが興味がある。


ちなみに、1)は感覚でいうのは難しいのだが、2)に関しては、僕は、当時から比較して、驚くべき多様性を許容する社会に日本はなっていると思う。それは、会社共同体を軸とする一億総中流の行動成長の夢がすべて解体されたからだ。問題も多いが、多様性が認められているからこそ、これも、あれも足りない!と社会が怒り狂うアイデンティティポリティクスになっているわけだ。しかし、逆を言えば、巨大なマジョリティであった、日本人、男、中産階級、父親、家父長主義!!!みたいな塊はズタズタに破壊されてもいる。それは、それまで抑圧されていた様々な人々に光を当てることになっているはず。僕は、このまさにど真ん中に当たるマジョリティの日本人であり、団塊のジュニアにで、まさに自分が得るはずだった(笑)既得権益を破壊された立場だけれども(笑)、でも、今の方がはるかに生きやすくなったし、いい時代になったと感じるよ。


1)に関しては、もう少し調べていきたいなと思っているのだが、僕は、失われた20年を、北東、東南アジアの市場で戦うビジネスマンであり、現在は米国のグローバル企業で働いているのだけれども、全体的に、人類はよき方向に向かっているし、その中で相対的に激しい没落をする先進国の人類のフロントランナーの一部として日本は、ギリギリ生き残れているように感じる。まぁ、さまざまな、少子高齢化や低成長などの問題は、そもそもアジアに共通する構造問題プラス、先進国の共通課題であって、日本だってめちゃくちゃというわけではないと思う。なぜならば、ほぼすべての国がめちゃくちゃだから(笑)。

老いてゆくアジア―繁栄の構図が変わるとき (中公新書 1914)


だとすると、大きな流れ、大きな視点では、これ、何が問題だったのか?という気がする。当時であれば、それ以外の方向性は見いだせなかったはず。



とはいえ、時間がたったいまでは、著者も指摘しているように、何が問題だったかは、はっきりしている。ネオリベラリズムは、個人の自由を市場の激しい競争をベースに考えられる統治の理念だ。


日本的ケインズ福祉国家の究極のラスボスは何かといえば(当時は、それしか社会で合意が得られなかった)、それを壊すために何が必要かといえば、当時の問題意識は、労働の非流動化だ。やさしくいいかえると、いまだ大きなラスボスとして君臨している、会社共同体を軸とする日本的雇用慣行だ。これを、個人の自由に解き放とうとすれば、労働市場の流動化は、政策として、正しいし、僕は今後の社会において、この方向性は、正しいというよりも、、、不可避だと思う。


でも、ここに日本の場合大きな落とし穴があった。最悪だったのは、けっきょく団塊の世代などの既得権益を持つ、大企業の正社員たちの既得権がぎりぎりまで守られる形で抵抗されたので、理念のみで先行した導入が行われ、最初にこの洗礼を受けたのが、「若者世代(団塊のジュニア世代以降)」であり「主婦ではない女性と子供」であったこと。これははっきりと、日本社会は、そのつけを明確な少子化という形で、社会の再生産の阻害という形での反動が起きている。


だから、まずこの部分を批判するのならば、世代間分裂の立役者になった、経営者資本家層とともに大企業の正社員たちのユニオン、労働組合が告発されなければ、納得いかない。イデオロギーでいえば、左翼でありリベラルになってしまうだろう。経営者や資本家層は、そもそもそういう存在なので(これは、現在、アトキンスンさんによって、告発されているので、今まさにここにメスが入ろうとしているとは思います)、彼らよりも、僕は、大企業の正社員で組織される労働組合や、言い換えれば古いタイプの左翼の欺瞞が、まず言われなければ、なんかおかしくない?と思う。こういうリベラル、左翼の欺瞞が、大きな流れでの不信と、保守、右翼へのシフトをよんでしまっていると思う。


しかし!、政治というのは、そういうものだ。日本以外の欧州、米国では、これが人種や民族の違いで、分裂として現れた。言い換えれば既得権益を持つ先行世代が、いきなり自分たちの「過去に努力?して獲得した部分」を放棄することを拒んだのだ。アメリカでは、新規の移民を毛嫌いして差別する行動に表れているように、要は既得権益が自分たちの利益を守り、その害を、社会の弱いものに押しつけたんですよね。


だとすると、責めるべきは、ネオリベラリズムではないと思うのだ。「もっと賢いやり方があったはずだ」というのは、後知恵だ。団塊の世代、ベビーブーマの集票力と社会の影響力からいって、結局は同じことになったと思う。結果が出て、その悲惨さに気付くのだ。


もちろん、まだ遅くはない(微妙だが)。日本社会のケインズ福祉国家の統治理念による行き詰まりを、労働の自由化という観点で進めるときに、若年層と女性にその負が向かわない政策的なセイフティーネットを、徹底して取り入れるべきだろう。とりわけ、若者と女性という層に対する狙い撃ちは、社会的に共有、許容できるはっきりした目的、指標がある。


それは少子化対策だ。


これが急速かつ抜本的に改善できなければ、すべて間違っている!と今は、もうはっきりと社会的に合意が得られると思う。これは、愛国を歌う右翼であろうが、リベラリズムによる少数者の権利を目的にする左翼であろうが、確実に合意できる雰囲気が、今はある。特に、社会の再生産、人口減少の歯止めは、国際競争の観点からも、大企業や資本家、経営者、それこそ日本はえらい!とか言いたがる右翼にでも確実に合意しなければならないポイントだ。これにアグリーしなければ、日本社会の参加者たる一員であるというのは、いいがたくなるだけ、少子化は進んでしまっている。ということで、僕は、2020年の東京オリンピック以後、ポスト安倍政権では、この部分が政権の大きな課題になるし、社会として明確な争点というかポイントになるだろうと思っている。



ちなみに、資本家や経営者の方は?というのは、いままさにホットなテーマで、労働の自由化は、じわじわと不可避の流れで、日本社会はある種の大きな流れを感じる。しかしながら、経営者のアニマルスピリッツを期待できるような社会的な構造は、全くない。だからこそ、日本の産業のシフトが進まず、失われた30年になり、そして今も失われている。このへんは、いま、アトキンスンさんの意見にとても注目している。


日本人の勝算: 人口減少×高齢化×資本主義


デービッド・アトキンソン 新・所得倍増論


ちなみに最低賃金の引上げ。毎年上げる。韓国の例はあきらかな例外事項(そもそも極端に上げすぎると経済が破壊されるのは実証されていたこと)無視。というのは、興味深い。なぜかというと、具体的な社会改良の施策でかつ、合意可能性が高いと思うからだ。最終目的は、産業の構造改革であっても、スタート地点は、労働者のルサンチマン解消などなので、合意が得られやすいと僕は思う。。。この辺りは、もう少し勉強が必要な、最前線のお話。


www.reuters.com


www.nikkei.com


アベノミクスによろしく (インターナショナル新書)


ちなみに、明石順平さんが、はっきりとアベノミクスの失敗を解説しているのだが、実質賃金がどんどん下がっているのは、ようは、アベノミクスの3本の矢でしなければならなかった、最も重要なポイントでである産業構造の転換、生産性の向上を進めなければならなかった「構造改革」の部分が一切手つかずで、単にインフレだけ進んだので、日本社会の経済的な潜在性が棄損されてしまった。ここは、経済学の部分で難しいので僕もちゃんと理解できているとは言えないかもしれないが、生産性の議論と賃金の話は、アトキンスンさんの話とも整合している。なので、明示的にわかってきた事実なんだろうと思います。金融政策としてのアベノミクスの、そもそも3本の矢というコンセプトは重要で、金融政策はそのための時間稼ぎにすぎなかった(それ自体は多少は効果があったが、多少だった、、、)が、それがなされなかった(数字にはっきり出ている)ので、日本は沈んだままということになる。



そして、、、もう一つ、社会のネオリベ化のもっと根本的な問題だ。それは、グローバリズムの進展による「社会的紐帯の空洞化」だ。



ネオリベラリズム的な社会は、究極のところ、僕はリバタリアニズムの理想とする社会だとおもう。こういった層は常に存在する。ピーターティールさんでも、堀江貴文さんでも、ティーパーティでも、だれでもなんでもいいのだが、まぁいるよね。ちなみに、『月は無慈悲な女王』を読みたいところ。

ピーター・ティール 世界を手にした「反逆の起業家」の野望

月は無慈悲な夜の女王 (ハヤカワ文庫 SF 1748)


しかし、けれども何にも縛られず自己責任で完結した「剥き出しの個人」が、「万人の万人に対する闘争」的な北斗の拳的無秩序殺し合い空間で、「素手で殴りあい殺しあって」こそ、イノヴェーションができる(苦笑)という理想は、いや、それは、理念として、特に大きな政府ケインズ型介入主義のアンチテーゼとして純粋な理論としてはともかく、あまりにサスティナブルじゃないでしょ。


とりわけ、「社会的紐帯が」破壊されて消えていくことによる、民主制を成り立たせるインフラストラクチャーの崩壊が、問題だ。


しかしながら、古い形での左翼のリベラリズムはによるケインズ型の「社会的紐帯の維持」は、だめだ。仮に日本で考えれば、すぐにわかる。日本に置けるネオリベラリズムが出てくるまでの「社会的紐帯」は何だったかといえば、「大きな物語」に基づくすぐ特攻とかしたがるパワハラ会社共同体、そして家父長主義(専業主婦と会社員のパパ)に基づく頑迷な核家族、おまけに、画一的な労働者である24時間戦えますマシーンを生み出すための監視型責任回避の教育とかになぅてしまうんですよね。


要は、過去に機能したものを既得権益を守るために、機能しちゃう。なので、それを一回ぶっ壊せ、というのは、マクロとしては、それ以外の選択肢がないのだろうと思います。革命のようにガラガラポンをすれば社会は取り返しがつかないほど壊れるし、戦争でも同じ。そうすると漸進的に、と民主的なようで聞こえがいいけれども、その間、弱いものが生贄になってしまいやすい。


グローバリズムの進展による、過去の代表制民主主義を成立させた「社会的紐帯」が、既得権益のラスボスになり果てている限り、この中身をちゃんと、新しい時代に、来るべき次代にふさわしい意味のある「社会的紐帯」として鍛えていくしかないのでしょう。


ちなみに、この気づき、、、、社会のネオリベ化の大きな流れは不可避だった(それ以外当時に選択肢がなかった)けど、、、しかしながら、個別事情が全く顧みられていなくて、問題が激しく出てきたという部分を、じゃあ、どうするのか?という観点は、まだわかっていない。というのは、最低賃金の上昇と、それにともなう生産性向上への経営者のアニマルスピリッツを取り戻すという流れは、もともとの福祉国家的なケインズ主義的な国家運営に対する対抗の流れと同じように思える。


なので、では、じゃあ、その前の現代の福祉国家というものは、どういう起源があって、必要とされたのかの根本に戻ってみたいと考える今日この頃。


toyokeizai.net


ちょっと気になる政策思想: 社会保障と関わる経済学の系譜


ということで、出口治明さんのおすすめがででた。こういう嗅覚というか、素晴らしすぎて涙が出る。。。

現代の福祉国家は、戦後生まれたものです。

現代の福祉国家における社会保障の機能とは、かつての救貧院や施療院のような「救貧」を目的としているものではありません(生活保護は日本の社会保障給付の3%を占めるにすぎません)。その機能の中心は、社会の中間層の貧困化を未然に防ぐ「防貧機能」にあります。

「分厚い中間層」こそ、安定的な消費=需要を生み出すコア層であり、社会=民主主義社会の中核を担い、政治の安定を支える層でもあります。民主主義と社会保障の親和性は、まさにここにあります。

ピケティが『21世紀の資本』の中で述べているように、資本主義経済の下では、長期的に「r>g」が成立しています。資本収益率(r)は経済成長率(g)を上回る、付加価値は資本の側により分配されていくということであり、より富めるものにより多くの付加価値が分配されていきます。つまり、付加価値の分配を市場機能のみに委ねれば、ゆっくりと、しかし確実に格差は拡大していく、ということです。

格差の拡大は、いずれ消費=需要の鈍化を招き、成長の足かせとなります。このことは2014年12月のOECD経済協力開発機構)のレポート(“Trends in Income Inequality and Its Impact on Economic Growth" 邦題「格差と成長」)の中でも明確に指摘されています。

社会保障の機能を分配(再分配)という視点から見れば、社会保障は個人や家計のライフサイクルにおける「就労期=若年期から引退期=高齢期へ」「自立期=平時から要支援期=非常時へ」の所得移転でもあります。   

つまりはライフサイクルを通じた家計消費の平準化、「自立した中間層による中長期的に安定的な消費=需要の創出」ということを通じて経済の下支えをしている、ということでもあるわけです。日本の地方の経済(消費)を支えているのは、地域によっては県民所得の15%を超えている公的年金給付です。

次は、これを読んでみたいな。勉強すればするほど、本を読めば読むほど、自分がいかに無知なのか、に驚く。まぁ、たぶん頭がよくなる、とか無理だろうな、と思いながらも、せめて無知の知を意識しながらもっと足りない自分を何とか埋めるようにあがくような人間でいたいと思いはせる今日この頃。