99%の人は、何者になることもなく、何もなせず、ただ生きて死んでいくだけ。答えは、そっちじゃない。

何者かになりたい


イムリーなテーマだったので手を取った。がしかし、一言でいうと、構造を解説した本で、具体的な処方箋はないんだなと思いました。どういう文脈でいうかというと、


テーマとして、「いまこのとき(2021年)」に、「何者かになりたい」ということがどういうことなのか?という設問は素晴らしいと思う。


しかし、「ではどうすればいいのか?」という答えがない。答えがないにしては、タイトルがちょっと強すぎる。


もちろん、「何者かになりたい」という構造、意識が「どこから来たのか?」ということを明らかにすれば、答えはいらず、一つの知見を得られるという本の在り方もあると思う。でも、アイデンティティーを「『自分はこういう人間である』という自分自身のイメージを構成する、一つひとつの要素」と定義して、若者がそれにあがいて、獲得していくプロセスが語られるだけでは、ちょっとプラクティカルではない、と思う。僕は、こういう時代性を反映した、その時のテーマや時代の要請からの本には、「プラクティカルに、具体的に、いったいどうすれば、その問題が解決できるか」の方法論が書いていないと、手にとって人が肩透かしを食らうと思っています。まぁ、そうなると、キャリアポルノ的な自己啓発本になってしまうんだけどね。


正直言って、僕のような「教養を得る」ことや「物事の複雑な構造を、時間をかけて読み解くために勉強をしたい」というような層は、あまりいないと思っている。そういう人は変人だから。。。だから、この本は、誰に向けて書かれた本だろう?とちょっと、わからなくなった。だって、このタイトルだと、「どうすれば何者かになりたい」という不安な気持ちを、解決すればいいのか?が、書いていないんだもの。ほとんどの人は、その不安を取り除きたいか、できないならば、「何者かになれる」と宣伝しているオンラインサロンに入ると思う。それは悪手だといったところで、ではどうすればいいのか?という、即効性のある具体的な方法を示さなければ、やはり若者は低きに流れるのは、歴史が証明している。もちろん、そんなものはないんだけどね。


読んでいて、終始「じゃあ、どうすればいいの?」というのが、頭に浮かぶので、著者のシロクマさん自体が、答えが定まっていないんだろうと思った。「何者かになりたい」という構造を示して、答えは簡単に得られないんだよという結論は、たいていの本がそうなので、なんというか、多分これを読んだ人は、余計何が何だか分からなくなるだろうと思った。


読んだ一読の印象としては、オンラインサロンに代表される「何者かになりたい」動機を利用して搾取する構造にはきおつけようといっているのですが、処方箋がなければ、なかなか回避しずらい。



ペトロニウスの答え~これを読んでい人は、まぁ99%モブの意味も価値もない人です(僕も含めて)


僕の答えは、アラフィフにしてもう出ている。


まず大前提は、尊敬する出口治明さんからもらった答え。


99%の人は、何者になることもなく、何もなせず、ただ生きて死んでいくだけ。


以上。


これを踏まえなければならない(笑)。「何者にもなれない」のが、僕らモブの人生。モブとは、歴史にかかわれることなく、ただ生きて死んでいくだけの普通のパンピー。人類の、中島梓さん的に言えば、95%は、これ。コリンウィルソンも言っていた人類指導的5%とかかな。僕の言い方でいえば、99%の人は、意味も価値もない。


じゃあ、どうやったら残りの1%の、歴史を変えて名を残す人になれるのか?


それは、運によって決まります。なので、意思も努力も関係ない。


僕もそうおもっていたが、古今東西の本を読みまくった怪物的な教養人である出口さんの結論も同じで、やはりそうか!とひざを打ちました。


ちなみに、中島梓さんは、『ベストセラーの構造』で、大衆の識字率が上がってたので、多くの人が「自分は文字が読めるいっぱしの人間だ」と勘違いしていると喝破している。実際は、ほとんどすべての人は、文字が読めても、「文脈を読む能力」は皆無です。いいかえれば、人間としての、市民(シティズン)としての、教養あり、政治にかかわれるほどの自立した自己判断能力がある人なんていのは、ほとんどいない。自立した理性ある近代人なんて幻想だ!(笑)。僕の言葉でいえば、いいかえれば、上記の5%以外は、文字が読めるので、自分を人間だと勘違いしているお猿さんなんです。それが、大衆社会というやつ。


なので、自己判断としては、「自分は、何物にもなれず、ただ生きて死んでいくだけの、お猿さんでありモブである!」を、前提にしたほうがいい。「そうでない」人には、「そうでない」ことが、わかります。だって、そういう人たちは、みんな誰一人「悩んでいない」もの。時代から選ばれる人たちだから。だから、悩んでいる時点で、自分は、価値も意味もないモブだと認識すべきなんです。


ペトロニウス少年は、この結論に、高校生の時に到達しました。中島梓さんが、僕の神様だったので(笑)。


ただし、なかなか頭で理性でわかっても、「自分がモブであり意味も価値もない」というのを認めるのは、とてもとても難しかったです。



■自分がモブで価値も意味もないという「絶望」は、ニヒリズムを人に誘う


そして、ほとんどの人は、この「自分が意味も価値もない」ということに、耐えることができない。


この不安が、人々に絶望させ、ニヒリズムになります。


僕は、インターネットや教育の向上によって、「理性ある近代人」とか「歴史にとって意味ある何者か」でもないのに、「僕って何?」とか考えてしまう、教養を積む努力と意思もないのに中途半端に教育を受けてしまった「なれの果て」のパンピーが、僕らなんだ、と思っています。


本当に、この意味のなさに耐えうる理性ある近代人になりたければ、「この絶望」を越えなければなりません。


まぁ、無理です。だって、意味ないもの。それを超えても、別に得なんか何もないから(笑)。


伝わるでしょうか? この「絶望」ってやつが、「何者かになりたい」と、今思う君たちの動機の正体です。


熊代さん的に、これを「アイデンティティを獲得するための若者の基本衝動」定義して、普遍的に解説するのは、非常に正しく科学的だし、まっとうなのですが・・・・処方箋にならないと思うんですよ。今、現代、2021年になぜこの衝動が、たくさん若者に現れるか?そして、なぜオンラインサロン(まぁ、要は新興宗教ですよね)に行くか、それを防ぐための。


やっぱり、この流れって、キャリアポルノや自己啓発本のような、ただの「大衆社会の消費者」に過ぎない個人が、なれもしない「自己判断、自己で価値判断ができる自分になる理性的な近代市民」になろうとするあがきなんですよ。社会が、そうなれって要請しているし、それに「乗り遅れると食べていけない」「誇れる自分になれない」みたいな洗脳圧迫をかけてくるわけですから。


まず、究極の答えの一つ。もし、君が、本当の本当に悩むなら、


宗教を信仰しましょう(笑)。いやマジだって、それが一番、心と体が安定します。


ちゃんと具体的に指定します。キリスト教カソリックがいいです。近くにカソリックの教会に行きましょう。日本だとプロテスタントも悪くないかもですが・・・。あ、全力で、新興宗教は避けましょう。そうですね、ここ200年くらいにできた宗教は、すべて拒否です。キリスト教の分派も、すべてだめです。


何が言いたいかというと、社会と共存している「古い安定している宗教に入りましょう」と言っているだけです。オンラインサロンも含め、新興のものは、集金システムが安定していないので、容易に搾取されて、その割には組織が長く持ちません。


ペトロニウスは、無宗教ですが、、、もし、自分が死ぬような病気になって怖くて寝れなくなったら、キリスト教の教会に行くと思います。教会のような共同体が機能して、個人を相手にしているものならば、何でもいいんですよ(笑)。


話半分で聞いてほしい感じですが、古く社会と共存している宗教で、共同体に包まれる、という体験が最後の救済の処方箋だろうと思うんです。自力で何とかできなきゃ、最悪、そこがあるって思っていると、楽です。まぁ、仏教でも神道でもいいんですが、ぱっと思いつかないので(笑)。


somethingorange.biz


海燕さんの結論も、同じでだと僕は思います。「自分」は「自分」以外になれないという・・・・でもこれは、海燕さんらしいですが、強者の理論です。この「残酷な事実」を受け入れろ、というのは「理性ある教養人の思想」です。普通のパンピーにはできません。


■じゃあどうするか?~「何者かになりたい」というエネルギーと不安を、搾取されないためには?


そこまでじゃない、宗教とかまでじゃないんだ!という人に対しては、アイデンティティをタコ足のように分散させましょう。


????これは、ちょっと難しいです。


僕がとても尊敬する、いつもプラクティカルな答えを出してくれる、オンラインサロンの最初の創設者(笑)岡田斗司夫さんの「僕たちの洗脳社会」の答えの一つです。



ようは、足があるコップというかボウルみたいなもので、一本や2日本だと、不安定で危ないので、さいてい3本以上、足を作りましょうということです。


自分のアイデンティティという「水の入ったコップ」を支える足が、複数ないとだめですと、言うこと。


通常、一般的な人生では、「地域共同体」「会社」「学校」「家族」みたいなもので支えるのが一般でした。けれど、2010年代では、社会が「個」にばらばらに分解している都市社会の住人なので、これらの「支えが」成り立ちません。


最後に残った親密圏の「家族」にあこがれと幻想を持つ人が多数いますが、、、、これも「家族の解体」のテーマは、さんざんやったじゃないですか、物語で。エヴァンゲリオンのゲンドウみたいな父親いります?(笑)。「父」であったり「母」であったり「夫」や「妻」なんていう役割も、だいぶ危ないです。うまく回れば、とても強固ですが、まぁ今の時代かなりあやうい。なので、友達を作ろ、とか、結婚しようとか、そういうのは、まったく解決策になりません。


いや、友達でも結婚でもいいのですが、「複数の軸を持て」ということなんですよ。


この複数の「アイデンティティを預ける先を持って」それのバランスを維持するという戦略が、生きるのに凄い楽になります。


この複数の所属先を持つというのは、SNSとかインターネットのせいで流動性を増した社会では、ものすごくやりやすくなりました。


この話具体的には、岡田斗司夫さんのこれを読めばいいですよ。おすすめ。



■具体的には何か?~要は趣味を探せ、というお話


普通の人は、普通にがんばれ。結論はこれですね。


「会社や仕事」「趣味の友達Aグループ」「趣味の友達Bグループ」「趣味の友達Cグループ」「家族」これくらいを軸でもって管理する癖をつけます。


重要なのは、「越境はさせない」です。


趣味の友達Aと、B、Cは絶対に重ねない。趣味と仕事とかもです。一緒になると、「逃げ道がなくなる共同体」と化すので、いじめが起きやすいからです。共同体の同調圧力の怖さは、僕ら村社会の日本人は、よくしっているはずです。できれば、友達のような永続性のない集団は、3年ごとに、少しづつ変えていくのをお勧めします。期間は、3年です。それ以上短いと、あまりに弱い所属先だけど、3年以上だと、たいてい腐っていじめが起きます。その中から、「これ!」という大事な人を一本釣りしていく。


ちなみに、「趣味の友達A」が、オンラインサロンとかで会ったっていいんだと僕は思います。


重要なのは、コミットメントの「度合い」をコントロールすること。


「会社や仕事」(50%)「趣味の友達A」(1%)「趣味の友達B」(5%)「趣味の友達C」(30%)「家族」(4%)とかとか、こんな風に。


このコミットメントの度合いは、「自分にとってのうまい塩梅」は模索し続けるしかありません。


趣味の友達Aがオンラインサロンであったとしても、そこに「お布施(笑)という名の収奪」があっても、まぁ、それが人生の数パーセントであったら、いいじゃないですか。これがアイドルの押しだったら、たとえば、人生の50%くらい投資して、ただ収奪されただけでも、「その時のひと時のj=絶望を忘れられる」のならば、金をかけた価値が十分にはあると思います。「何者かになんかなれない」のだから、「それが役に立たなくてもいいんです」。それが、「楽しければ(=嫌なことを少しでも忘れられれば)」、それで十分なんですよ。


ビジネスの用語でいえば、これはポートフォリオ戦略のことです。多角化経営でもいいですが、ようは、コアコンピタンス(競争力のコア)を、組み合わせにして、外部環境の変動に対してフレキシブルに対応できるようにするということです。


愛する人と出会いたい!」みたいなロマンチックラブイデオロギーは、これを一つの軸に、集中してかけるので分散投資しないってことです。危なすぎて、これだけ流動的な「個」によって形成される社会では、危なすぎてだめです。


■楽しければ(=嫌なことを少しでも忘れられれば)」、それで十分


これ、結論の一つです。「何者かになりたい」と思う衝動は、安定したアイデンティティ獲得への渇望なので、死ぬまで苦しみます。今は、これが若者特有ではなくて、高齢者にまで広がってきました。これは、寿命が長くなることやQOLが向上して「青春(=何にモノでもないことに耐える時代)」の期間が長くなっているからです。


だから、僕は、「人は何者にもなれない!、動物のように死ぬだけ」という事実を前提に、その怖さを「忘れられる」ものを、探しなさ、と思います。


それが、「自分の好きなこと」です。


あなたは、何をしているときに、「この苦しい現実」を忘れることができますか?


ペトロニウスの結論は、30代の後半に出ました。僕は、物語(映画、漫画、小説)があれば、他には何もいらないって。


なので、コミットメントのバランスを変えました。もちろん、僕には子供の子育てや、アメリカで仕事をしなきゃいけなくなったり、苦界の苦行は付きまといますので、時には、仕事や家族が、人生の90%ぐらいになってしまうときも、瞬間最大風速あります。


でも、僕のターゲットは、60歳以降(笑)。その時に、80-90までの残りの20-30年間を、物語に埋もれて暮らすための、インフラ作りが、今だと思って、配分しています。だから「それ関係の友達」を育てるのは、20年単位で努力しています。


重要なのは、覚悟と時間です。何かのインフラを作るには、経験上20年はかかります。特に社会人は、最低この時間がかかります。


また「こんなことやっていて意味があるのかな?」という覚悟の問題もあります。僕も、30代半ばまでは、自分のオタク趣味って、なんにも意味がないなって悩んでいました。たとえば、それこそ本を出したら、そういうのがなくなるかな?とか、評論家として大成したら、「何者のかになれるかな?」とか、、、、でも結論は、「そういうことじゃない」と思いました。会社で、出世して、アメリカの会社で経営者になっても、全然うれしくない自分がいて、あ、、、これ、だめなやつだ・・・・これって承認欲求であって、充足としては、かなり弱いものなんだ、、、と自分で気づきました。人によるとは思うので、仕事が充足がないという意味ではないです。ペトロニウスには、あまり満足いかなかったんです。


そうか、、、、ただ単に、物語を消費して、そして解釈して、友達と話すというサイクルの中に、「時間を忘れる充足がある」と言うことに、僕は気づきました。だから、人生のすべてでの最優先順位だと確定したんです。ただ、何にでも「時」はあります。今の僕は、子育ての時間が大きすぎて、昔ほどオタク趣味に時間をさけていません。また、せっかくアメリカに住んでいるのだから、もっとアメリカを知りたいし、、、そもそも僕は子供のころから旅行が死ぬほど好きな人なので、せっせっと旅行に行っています。けれども、そのどれもが、「より物語を深く充実して楽しむため」という目的意識のインフラにかかわるようにしています。


僕は、これをクンフーと呼んでいますが、「自分が!自分とは何者か!というような自己に関する不安問題」を忘れることのできる「時間的な強度・密度」を感じれる何かに、かけること。「無時間性の何か」、と僕はよんでいます。ようは、目的意識に乗った集中力が、極まっているときに入るゾーンの話をしていますが、そういう話はどうでもいいです。


とにかく、不安を忘れられるならば、それで十分じゃないか、という話です。


そして、そのクンフーとか好きなものが、「何者かになるための手段」に堕してしまわないように慎重に配慮する戦略意識が重要です。


わかりますか?


目的のための手段になった瞬間に、それは「自己否定を誘う最悪のトラウマ・ルサンチマン」になるからです。


この辺は、長いので、またこんど。



■ハイレベルの「何者かになりたいワナビー衝動」の利用方法~退屈を忘れさすには目的を持つことだ!~長期と短期を分けて考えろ!


そして上級者編。


シロクマさんも書かれていましたが、「何者かになりたい衝動」というのはエネルギーです。だから、これが「何物にもなれないやばい衝動だ」という自覚を持ちながら、「あえて、この熱さに乗る」という戦略意識があると、人生は成功しやすくなります。


たとえば、ビジネスマンで、アメリカに行ってMBAをとる!!!とか、よくワナビーくんのビジネスマンが妄想する、意味のないやつなんですが(笑)・・・・短期的に、若いうちにこれに一点賭けして、ブレイクスルーするのは、僕は悪くないと思います。


これで幸せになれるか?


これで、何者かになれるか?


というと、まったく関係ありません(笑)。でも目指している間は、「何物でもない絶望している自分をわすれられる」ので、それが悪いとは思わないんですよ。


勉強でも、学歴でも、仕事でも、何かのレベルを上げて成長するには、狂気がいります。


この狂気として、この衝動を利用するのは、ありなんだと思うんです。


でも、短期と長期の戦略意識を考えないと、人生は失敗します。だって、こういう成長は、あまり幸せとは関係ないからです。成長しても、「幸せになる」ことはできません。成長している間、「ひと時絶望を忘れられる」だけなので、疑問を持った瞬間に、地獄に落ちます。


だから、短期的に、自分の不安を動機とエネルギーに変えて、目的意識で何かを目指すのはありです。


でも、長期では、この配分を「自分にとってベストの幸せとは何か」と考えて配置しなおさないと、地獄に落ちます。


■おわり

今仕事回っていなくて、書いたから、誤字脱字だらけだろうし、意味不明かもですが・・・・シロクマさんの本を読ませていただいて、2021年の今、この「何者かになりたい」というのを問い直すタイミングであるというのは、特殊な意味があるはずだと思いました。何か僕もよくわからないですが、「そんな感じ」がします。ここは重要なので、今後も考えていきたいものだなぁと思いました。あと、高齢者に、これが問われるようになっていく構造が出てきたのは、特筆されるべき指摘だと思いました。僕の自分自身の何者か衝動を、どういなしてきたかのまとめを、再確認するよい機会になりました。

『スーパーカブ』(2021) トネ・コーケン原作 藤井俊郎監督 そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。

f:id:Gaius_Petronius:20210609013827j:plain

評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ傑作!)

www.youtube.com

■第一話「ないないの女の子」が示す救われない最後の1%はいないこと

1話の「ないないの女の子」出来が素晴らしすぎて、最初からな涙ぐみながら見ていました。これは、とにかく今(2021)に見る物語だと思いました。『ゆるキャン△』や『よりもい』の時も思いましたが、同時代性の文脈に沿っている作品は、ぜひとも「今」見たい。なぜいまか?といえば、この時は「今、この時の時代性の文脈」に激しく依存しているので、この文脈が変わってしまうと、受ける感動が変わってしまうと思うからです。素晴らしい出来で、かつ繊細な演出意図によって作られている作品なので、全部★5つのパーフェクトなんですが、ちょっと下げているのは、僕のブログが必ずしもアニメが好きでないくても、見たら最高!というものを紹介しようという「ジャンルを越境できる」ことを念頭に置いているの、もし、数年後にこのブログを見て、アニメを特にみていないけれども「見てみよう」と思うと、強度が下がるのではないかと思うからです。

ここでいう時代性の文脈とは何か?

物語三昧のブログ、もしくはアズキアライアカデミアのラジオをずっと聞き続けている人はわかると思うのですが、「持たざる者」が、それでも救済される方法あるのか?という問いです。ざっくり具体的なレベルに落とすと、異世界転生をしたがる今の日本のサブカルの文脈は、「自分が現在のセカイ時間において不遇で不幸なので、違うところに行ったら幸せになれるのではないか?」という装置だとすれば、次々に様々な主人公が登場するのは、それぞれの人間が持つ「不幸」にどう対応すれば異世界で幸せになれるのかの、条件を振って物語を作っているのだと考えたのです-----そうすると、最後に、本当に何も持っていない「1%(実際の数字ではなくて、最後に残った部分という意味)」は、どうにも救いようがないじゃないかという文脈でした。当時、下記のように描写しています。

芥川龍之介カンダタのたらす糸はたくさん、実はたくさんある〜けれども、90%をカバーするものに漏れてしまう層を救えるのか?そもそもいるのか?

さて、先日LD教授と話し込んでいた時に、この作品群は、ターゲットとテーマがうまくかみ合っていないという話になった。より正確に言えば、最初は、ターゲットに設定していた層への疑問に答えようとするのだが、物語上それができなくなるというだ。

それはどういうことか?といえば、『僕は友達が少ない』などのタイトルがそもそも、友達がいないと感じている孤独を苦しむ層の救済とまでは言わないが、そのタイトルに共感を得る人間を対象にしているはずだったのだが、この物語のハーレムメイカー的なラブコメの構造から、実は、お前もてないって言って女の子にモテまくりだし、友達いないって周りにたくさんいるじゃん!と突っ込みたくなるような環境にどんどん変化していく。物語が進むということは、カタルシスに進むわけで、そうならざるを得ない。仮に最初に本当に友達がいないとしても、まじで一人もいなければ物語が進まないわけで、そうではなくなっていくところがこの物語のドラマトゥルギー(=物語が展開する力学)。極端なこと言えば、ただ気づいていないだけで、そもそも友達はいたんだよ!(=青い鳥症候群)な設定になっている。これはいいかえれば、本当に友達がいない孤独を経験している人からいえば、ああ、俺の求めているテーマや答えに全然リンクしていないで、離れていくのだな、と取り残されていく感覚を抱かせるはずだ、と。

ここでLD教授は、カンダタの話を出します。

蜘蛛の糸 (日本の童話名作選)
有名な芥川龍之介の小説ですが、カンダタは、生前悪い泥棒だったので、地獄で苦しんでいました。しかし、一度だけ小さな善行をなしたことがあって、小さな蜘蛛を踏みつぶさずに助けて生かしたことがあった。それを見ていた釈迦は、カンダタにチャンスを上げるように、小さな蜘蛛の糸を地獄に垂らして、助けようとする、、、という話ですね。

これは、どのような人間にも、蜘蛛の糸がありうることを示しています。まぁ無駄に使ってしまって、カンダタのように、他人を蹴落とそうとして糸が切れてしまうというのが、オチなんですが(笑)。でも、そんな細い糸が1本だけあっても救われる人はとても少ないじゃないか?と思うかもしれませんが、そうじゃないんですね。LD教授は、この糸って実はたくさんあって、90%ぐらいの人はって正確な数字が言いたいのではなくて、ほとんどの人は救われるための糸が垂れ下がっているんです。あとはそれにつかまればいいし、自分でその価値を壊してしまわない限りは救われるのです。この物語のように、大抵は自分で壊してしまうんですけれどもね。僕は、世の中は、ほとんどすべての人に、救済の道が細いながらも示されていて、実はほとんどの人には、糸がたらされているんだ、というのは同感です。

なにをいっているかといえば、先ほどの、これらの残念系青春ラブコメといわれたりする系統で主軸のテーマになっている「友達がいない孤独」ボッチの世界に、救いはありるのか?と問えば、それは、いくらでもあると思う、といっているんですよ。そもそも、ほとんどのケースが、友達がいないんじゃなくて、青い鳥症候群。いや、そばにいるじゃん?という話。もしくは、友達を作ろうとしていなかった、というだけ。そばに友達候補はわんさかいるのに、自分から拒否しているだけ。カンダタの糸はたくさん垂れ下がっている、というのはそういう意味のことです。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

petronius.hatenablog.com


しかしながら、Youtubeでも解説していますが、3つの段階を考えて分析しています。

0)不幸なのはたいてい親か家庭(社会)のせい

1)恋人(ラブコメ)か友達によって救われる

しかし、恋人ができれば救われるみたいな話は、結局は「持っている者」だけが救われて、どうしてもモテない人とかは、どうにもならないじゃないかと絶望する。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の議論ですね。だから、ここで語られている問題意識は、人間の幸せは、お金、学歴、容姿、恋人(異性)、友達などの外部要因では決まらないという話でした。いや、これも実はおかしな話で、世の中の過半の人は、、、たぶん90%ぐらいの人は、これで救われちゃったり、幸せに「なれてしまいます」。

www.youtube.com

しかし、そうはなれない人が、次に向かいます。

2)自分の「好きなもの」を探して、それに打ち込もう。

問題は外部(=お金とか自分の外にあるもの)に依存しているからだ。外部はアウトオブコントロール(自分に都合よくできていない)。だから、「自分の心の中にある」「好き」というものを軸に、趣味に打ち込めば、外部の偶然性に頼らずに、充足を得ることができるぞ!

しかし、「好き」が、自分の心の中にないんです。言い換えれば、内発性がないんです。

ここで困ったんですよ、、、、「好きなものも探せない」「育てることができない」といわれちゃうと、そういう無気力でエネルギーがない人は、社会から切りすたられて、死ぬしかないね、、、という結論になってしまう。これすぐっごい昔の物語三昧ラジオのアーカイブですが、ここで考え込んでいたことが、このように展開するとはと思うと感無量です。

www.youtube.com


3)何もない「持たざる者」は、生きていても何一つ救済がない←いまここ


こういう感じだったんです。


ということは???


時代の文脈的に、「何も持たなくても」、幸せになれる方法を示してほしい!という要求があると、感じていたんです。


どうよ???


小熊ちゃん。


タイトルは?


「ないないの女の子」


です。


凄いわかっている感あふれるでしょう!


ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという文脈からの後退か?

さて、Youtubeのコメントが面白かったので、そこを注目してみましょう。「救われない1%」の層を救うには?という文脈の流れで、下記にありますように、『ゆるキャン△』により一つの到達点を示したと僕は考えています。要は、趣味=好きなものを通して世界を見ればキラキラ輝くという結論です。しかしながら、『ゆるキャン△』が、素晴らしく時代へ答えたのが、単純に「好きなものがあればいい」ということに甘えて、日常・無菌系の「女の子が戯れる日常」というオタクが好きそうなガジェッド・皮(ガワ)に逃げなかったことです。これはさすが製作者、とうなります。この場合は、原作者ですね。りんちゃんが、つまりは主人公が、仲良くなった友達や仲間と「一緒にキャンプを楽しむ」などという陳腐な作品にしなかった部分が、エポックメイキングでした。彼女は、「一人でキャンプに行く」のが好きなので、同調圧力に負けて、仲間たちと戯れるような、「自分の好きを捻じ曲げる」ことをほとんどしません。

ここでは、日本的同調圧力の空気をぶち壊せ!という文脈背景に基づいて、

友達がないと幸せになれない

友達はいらない

という2項対立のテーマを、あっさり止揚しています。いわんとしていることがつたわっているでしょうか?。つまりは、「自分の好きを貫く」=「友達は必要ない!」という命題と、「一緒に時を過ごさなくても」「友達足りうることはできる」という風に話を展開させているのです。ここが、普通の日常・無菌系をはるかに超える強度を生み出したポイントでした。

ゆるキャン△』に示された、どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性

ゆるキャン△』は、なので日常系・無菌系の文脈なしでは、いまいち何をいっているのわからない系譜のものになると思うのですが、この作品の日常系としての出来の良さ以外のポイントで、文脈として注目したポイントは、SNSの使い方です。前回の『よりもい』で関係性について到達した結論は、結局、一周回って、心の中に絆があれば、どこにいようが(ばらばらで一緒にいなくてもいい)問題ないということでした。ましてや、SNSなどのサービスが共時的に体験をできるシステムが整いつつあるので、それが「目に見える」。えっと、順番は逆じゃないんですよ。りんちゃんとなでしこの関係が、LINEで描かれていて、遠くにいても「同じところにいるような」関係性が、生まれた!のではないんです。関係性が内在している、、、言い換えれば絆が生まれていれば、仮にSNSのようなサービスがなくても、そこに絆の共時性はあるはずなんです。今までそれが見えなかったし、記録に残らなかっただけ、なんですよね。それが、あぶりだされて、目に見えるようになっただけ、なんです。この絆の「目に見える」というところの演出が、とても素晴らしかったのが、『ゆるキャン△』のアニメでした。そして、これは演出だけにとどまらず、大きな文脈の中のある種の結論として、機能していると僕は考えます。


これは、ぼっち、というテーマのアンサーです。


上で話しましたね。ぼっちであるのは、一人でいることとか「状態」ではなくて、心の在り方なんだということ。りんちゃんは、あれだけ仲良くなっても、ソロキャンをやめません。なぜって、一人でキャンプするのが好きだからなんです。一人でいるから、独りぼっちというわけではない。それが端的物理的に最終回で描かれているのは、りんちゃんとなでしこが、特にお互い連絡もしないで、個別にソロでキャンプに出掛けて、行き先が一緒で出会ったことは、彼らの関係性が絆までレベルアップしていて、もう特に言葉で語り合わなくても、とても思考や行動がシンクロしやすくなっているさまを描いているんですよね。あそこに、SNSいらないと思うんですよ、実際は。ただテクノロジーがあるので、それが目に見えるように炙り出されている現代性を見せているだけ。

petronius.hatenablog.com

さて、しかしながらこの最前線に思える『ゆるキャン△』には、一つの問題がありました。いや、この物語自体の問題じゃないんですが‥‥それは、そうはいっても


友達はいたほうが幸せ


という風に読み取れてしまう点です。これでは議論自体は、前の議論に答え切れていません。「好きなものは貫いたほうがいい」けど「友達はいてもいい」。それに、ゼロから「何かを好きになる」という内発性のスタートポイントは何か?というテーマにもこたえられていません。LDさんが、こだわる議論のポイントでもあって、そもそもシャープな答えとしては、


「友達はいらない!!!!」


と、こたえる方が潔く、かつ深いんです、答えとしては。でも、時代は、「いらない」というところまで、極端に行く必要はない、と結論付けているようにペトロニウスは感じています。


そこで来たコメントが以下だったんですね。鋭い。

田沼小石
なるほど、そう観ましたか。
物語全体を通してみると『ろんぐらいだぁす』でロードバイクを手に入れたら、仲間と世界が広がったよ……というのとほぼ同じなので、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からは後退した作品だなと思っていました。

ただそこに小熊の“なにもなさ”を加味すると見方が変わるわけですね。視点が変わることで世界が変わるというのはわたモテが実現したことですが、スーパーカブはそれを最短で表現したと考えると凄い。与えられる情報が少ないというのは原作小説からそう(琵琶湖から数ページ後には九州上陸しますし)なので、演出が本当に良い仕事をしているのだと思います。

この文脈が発展するなら、いずれはスーパーカブを手に入れるという過程さえ必要なくなるのかも……と妄想します。藤子F短編集の流血鬼のように世界の方が勝手に変わるなら……ただそれだと異世界転生となにが変わるのだろうか……と、考察すべき事は多いですけど。

この指摘、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からの後退というのは、なるほどと思いました。


後半になると、普通の日常系になるので、普通に眺めていると、これが意外に面白くなくなるっていきます。いや素晴らしい演出なんですが、ようは通常の「無菌系・日常系」の作品と構造が同じになってしまって、「どこかで見たことがある物語」になるからだと思います。日常系の頂点は、マンガ『あずまんが大王』とアニメ『ゆゆ式』だと僕は思っていて、もしこの系統の最高峰を見るなら、あちらだなと思うってしまう。というのは、最初の1話の視点が、あまりに衝撃的過ぎて。まぁあの1話で、もう完璧なんですけどね。

f:id:Gaius_Petronius:20210626070048p:plain

petronius.hatenablog.com


上で置いたわたモテの解説動画で疑問いあげていたのは、主人公のもこっちが、「何一つ変わっていない」のに、なぜ幸せになっていくか?という疑問点でした。明らかに作者は、「自己肥大をこじらせているもこっち」が不幸になるというか、世界との違和感、ズレがあって、それをギャグにするという不条理コメディを意識しているにもかかわらず、わけわからず幸せな日常ハーレムものに展開していく様は圧巻です。しかしながらこの「視点の変化」が、何によってもたらされたのか、ずっと具体的にわかりませんでした。あの話の本質は、「自分が何も変わらないのに」「世界のほうが変わる」というところに力点があって、でもなんで変わったのが、よくわからなかったから。しかし、スーパーカブを見れば、「自分と世界が変わる」のに、自己啓発的な決断や意志みたいなもの、さらには才能やお金などは、全く必要ないんだ、というのがストレートの示されていて、唸りました。


そして、その答えは、「ただ移動すること」なんです。


ちなみに、「手に入れる必要さえない」、、、、となると、「世界の方が変わる」話なので、まさに異世界転生です。そ結構この辺整理されてきたなと思います、どんな文脈があるかわかってくると、面白いですね。


ちなみに、物凄いずれるというか蛇足ですが、この「移動すること」に自由を見出すというのは、まさにクロエジャオ監督が、ノマドランドで描いたものです。


www.youtube.com
2021-0508【物語三昧 :Vol.120】『ノマドランド(Nomadland)』2021 Chloé Zhao監督 雄大アメリカの風景を移動しながら野垂れ死ぬことを幸せだと思いますか?-128



■漫画版と比べると日常系として描く脚本と、純文学的に描く脚本の違いが際立って理解できます

これは監督が、素晴らしいですね。マンガと比べると差異が際立ちます。

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)


ええとですね、上で描いてきた「なにもないこと」からでも人は幸せになれるという時代の文脈をちゃんと理解すると、監督が、何を演出したかったかが、はっきり読み取れます。


逆に言うと、まったく異なる解釈をマンガはしているので、演出表現を比べると、その差が際立ちます。ぜひとも読み比べてみましょう!。


覚えているので注目しておくのは、最初の第一話ですが、主人公の小熊ちゃんのシャワーシーンです。


これ、オタクのアニメ好きの文脈から考えると、サービスシーンです。それだけでなく、第一話で、主人公を好きになってもらい、感情移入するためには、ぜがひでもここでちょっぴりエッチなシーン(笑)を出しておくべきです。まぁ、いってみれば昨今の日常系アニメの演出の「文法」みたいなものです。アニメを見たときに、僕はそう予期してみていました。いきなり朝シャワーを浴びるので。彼女はかなり貧乏なので、水の節約を考えると、朝のシャワーを浴びるタイプとは思えないので、原作に理由があるか、とかいろいろ考えながら、おっぱい見れるかな?とか、スタイルどうかな?と、普通に男脳エンジンで考えていたら、驚いたことに、ワンカットもシャワーシーンをうつさなかったんです。後の話では、普通に小熊ちゃんのシャワーサービスシーンは、出てくるので、わざわざ第一の登場シーンで「あえてうつさなかった」のは演出です。これ、素晴らしい!!!!って、唸りました。「なにもない」少女として描くときに、性的な身体を描いてしまったら、それそのものが、魅力的なものとして、写ってしまうし、そもそも「何もない」という彼女のネガティヴさを演出するのにそぐわなくなってしまいます。物凄い上品で、おっと思いました。これは、凄い傑作かもしれない、と。


マンガ版は、最初の登場シーンから、シャワーシーンを、サービスシーンとして、描いています。


これどういう解釈の違いか分かりますか?


アニメ版の藤井俊郎監督は、あきらかにこのアニメーションで、「日常・無菌系のアニメーションの現代的な文脈」の文法を、あえて外して描いているんです。いいかえれば、これは、日常系じゃないって、宣言しているようなものです。


マンガ版は、ストレートに、『ゆゆ式』などの後継の文脈としての、日常系の少女たちが戯れるオタク的な文脈の文法で描いています。


これが、演出の「差」というやつです。随所に出てくるので、この視点で差を探してみるといいですが、「受ける圧倒的な印象の違い」は、この監督の強い演出意図に支えられていると僕は思います。


これ、監督がすごく難しい決断をしているのが分かりますでしょうか?。


一番、マーケティング的に「売れる路線」の文法をあえて外しているわけですから、これ、物凄く挑戦的なことにチャレンジしていることに、僕は敬服します。


こういうのを、文脈が分かっている物語、だと僕は思います。だからこそ、「今見るべき物語」なんです。安易なマーケティング的な言説に、のらない。

スーパーカブ』 藤井俊郎(監督)インタビュー
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

https://st-kai.jp/special/supercub-002/


■イージライダーを思い出す、自由への逃走、闘争なのかそれとも、今ここでの穏やかな解放か

バイクに乗れば速く走れる。バイクを使えば遠くまで行ける。バイクの魅力としてまず浮かぶ事柄だが、女子高生がホンダのスーパーカブに乗るようになるトネ・コーケン『スーパーカブ』や、ヤマハのスクーターで女子高生がキャンプに向かうあfろゆるキャン△』を読むと、そうした便利さに加えて誰かとの、あるいは何かとの繋がりをもたらしてくれる存在として、バイクの魅力が漂ってくる。
バイク×女子高生の物語、なぜ人気に? 『スーパーカブ』『ゆるキャン△』が描く“繋がり”|Real Sound|リアルサウンド ブック

ああ、あとこの話もしたいですが、疲労で疲れ切ったので、ポイントを挙げておくだけにします。


■エリックサティのクラシックがいい。

www.youtube.com

――ドビュッシーが多いですね。
藤井 それは好みですけど(笑)。サティ、リスト、ショパンも使ってます。なるべく聴きなじみのあるもので、かつ基本的にピアノの独奏曲でセレクトしました。
――感情が変化するアタック音などにピアノを使ってもいますね。
藤井 ええ。クラシックとの親和性も高いし、作品のテイストとも合うと考えていたので。音楽の打ち合わせの際にその意図を説明させてもらったところ、クラシック曲と同じように実際のピアノの鍵盤を叩いて収録していただけて、結果とても贅沢なタッチ音になりました。
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

後、音楽のが素晴らしく上品で、、、、本当に監督わかりすぎてて、素晴らしい。


■参考
petronius.hatenablog.com

petronius.hatenablog.com

スーパーカブ』の“リアルすぎる表現”にみる日本アニメ35年の「リアルと嘘」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ccdccf455d2f23ef725f709e15891edf9b6a2c3

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1

www.youtube.com
Academia/いきいきごんぼ+三名様+アフロ田中+はがない+ラブコメと結婚後もの 2021/06/06

www.youtube.com