『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021)エザキシンペイ監督 『Re:ゼロから始める異世界生活』の長月達平さんの視点と永遠の命の物語類型のテーマ群について

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■万人に理解しやすいわかりやすさと、それが故に、SF好きなどの玄人?うけがしない?

僕的には、★4のかなり高い評価で、かなり万人にすすめられる安定したよいアニメです。また、100年という長い時をかけて成長していく少女の物語-----ビルドゥングスロマンという「わかりやすい」骨格なので、SFでAI、人工知能の進化と人類との敵対というSF的な難解なテーマを扱っているにもかかわらず、見れば誰にでもほぼわかるという「わかりやすさ」は、おすすめです。とにかく、洗練度合いが素晴らしく、ウェルメイドという言葉はどちらかとマイナスに聞こえてしまいがちですが、バランスよく構成されており、はっきり言って、物凄くバランスの良い物語です。ほぼ2-3日で見るの止められなくて、ハマったので、特にSF的な知識や、オタク的な背景知識がなくとも、万人にすっと入れるよい物語です。一言でいうと、脚本家が、いい仕事している感覚がすごい。


ということなんですが、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』なんですが、僕が絶対見ようと強く思ったのは、周りがだいぶ酷評してたからなんですよね(笑)。これは、この時期かなり話題になっていたので、多分結構な人気作なんですよ。にもかかわらず、なんというか僕の周りとか、いつも「作品を分析」しようとする人の中で、すこぶる評判悪かったんですよ。なんで、なんでだ???って思ったんですよね。こういう議論が分かれるものは、「自分の好き嫌い」あぶり出されるので、興味深いです。海燕さんに紹介したところ、かなり否定的な意見が返ってきたので、物語読みの友人界隈では、だいぶ点が辛いです。海燕さんも、描かれている力点は「そこ」じゃないといいつつも、やっパり「ダメな部分」を強調しているので、やはりあまり面白くなかったと思っているように記事から感じます。僕、はこれは面白い!!と鼻息荒く言い続けているのと、対照的な冷静さですもんラインで話してても。

というか、全般にSFとしての描写が古い。そもそも映画『ターミネーター』を連想させる「AIの叛乱」というテーマそのものが、SFとしてはきわめて古典的であまりリアリティがありません。

 いや、もちろん、いまでも未来のAIがどういうことになるかは何ともいえないわけですが、とりあえず「突然、世界中のAIが暴走を始める」といった古式ゆかしい描写は現代のSFとしてはあまりにも単純すぎるといわれてもしかたないでしょう。

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僕の感覚なのですが、ほぼすべての物語読み?というか、漫画やアニメ、SF好きな人の感想としては、SFとして出来が甘い!という言葉に尽きるんですね。


いつポイントも大体同じ。


1)AI(人工知能)の描写が、最新の知見からすると、古臭い


2)AIの叛乱というテーマへの描き方が、とても古臭い


逆に言うと、SFマニアの人とかが多いのでしょうが、彼らは「この部分」の文脈に対してセンシティヴに読んでいるんだと感心しました。みんな、面白いことは面白い、「けれども」という逆説で、必ず説明が始まりました(苦笑)。この部分の解説はこだわっていない僕がしても仕方がないので、検索してもらえればきっと書いている人はいっぱいいるんじゃないでしょうか。


これ、僕は最初からはまって絶賛だったし、最後まで意見変わらなかったし、悪いところが見つからない。まぎぃさんに紹介しても、まったく同じポイントで、激萌えだったので、「僕とみている視点が違う」のがよく分かった。そういう意味では、僕は、典型的なSF読みじゃないんだなぁって、思いました。僕は、常に「面白い物語が見たい」って思っていて、おもしろければ、細かいことはどうでもいいんですよ。設定とか、そういうのは。そのキャラクターが幸せになれたかどうか、目的を本分を全うできたかどうか、それこそが物語!の次元だと僕は思うのです。これは、たぶんSF的な視点では、失格の読みかたです(笑)。


■「少女の成長物語」と「100年という年代記的な時間の流れの中でそれを描く」ことで生み出される人間の体感時間を超えたセンスオブワンダー

まぎぃさんと話していたんですが、「少女の成長物語」と「100年という年代記的な時間の流れの中でそれを描く」というポイントに、脚本が特化しているところに、この作品の見事さがある。長月達平さん的な、思い切りの良さが表れている。まぎぃさんいわく、リアリティとか細部があいまいだったりするのは年代記だからで、必要な部分だけを語って、不必要な部部分を捨象している感じで、その手つきが見事、と。僕も、同感。SFとしてはとても緩いのだが、その「SF的なゆるさ」と「年代記的な良さ」を、つなげて焦点が合うように脚本が作られている。明らかに「エピソードの切り貼り」しているので、この取捨選択と、「それぞれに時系列的なつながりのない単発のエピソード」を、全部合わせたときに、つまりは年代記的な100年単位という、通常はそうした俯瞰したマクロの視点から、人生や人類の営みを眺めることはできないものですが、それが後半の回で、ぴたって焦点があって、物語として収斂していく。プロの業だ、と思います。これ、SF設定としては緩いがゆえに、無駄にマクロの説明をしないし、AIの叛乱というあまりに手あかのついた古典的なドラマを採用することで、「わかりやすさ」に特化している。だから、これSF作品ですが、かなりうまく売れたんじゃないかと思います。今気づいたのですが、僕の言葉でいうならば、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』は、古典的なSFを丁寧に現代的にした作品といえるのかもしれない。目新しさは、確かにないかもしれない。しかし物語としての骨太さは、それが故に跳ね上がるので、人気が出るんです。このあたりの、キャラクターとしての感情移入のしやすさと、そはいってもSF的な科学的なバックグラウンドの最先端を織り込めるかどうかの部分の、駆け引きというか、配合の度合いっていうのは、創作や人気にかかわる永遠の課題なんだなぁと思います。


僕のベストエピソードは、第10話『Vivy Score -心を込めて歌うということ-』。たった1話の中で、少年がおじさんになるまで時間が凄い勢いで進んでいきます。松本博士ですね。この作品のドラマトゥルギーのすばらしさが詰まっています。先ほど言った年代記的な「人間が感じられない時間的な長さ」を、ショートカットすることで、本来ならば見れない「人生の長さ」を俯瞰して眺めることになります。この少年が、物語の起点となる時間を巻き戻すきっかけを作った松本博士だったという円環も、無駄がない見事な脚本です。これらが、Viviという少女の「成長の物語」にリンクすることで、個々のエピソードは、時間的には間に数十年が開くので、ほんらいは何の関係もないのですが、それが豊かにリンクしてつながっていきます。この「つながり」自体の俯瞰感覚は、そもそも「人間の尺度ではありえない」ものなので、僕は、これがセンスオブワンダーであり、設定的なSFの楽しみとは異なる意味での、見事なSFであると思いました。なので、AIの最新知見や展開がなくとも、十分以上の見事なセンスオブワンダー-----SFだと思うのです。この本来あまり関連性のない、かつ人間の時間感覚とは異なる「年代記的な時間の長さ」に、感情をのせてドラマを紡ぐのは、至難の見事な脚本です。そもそも歴史記述で年代記って、「出来事中心」で描くので、キャラクターの情感で描けないものはずだからなんです。

年代記的な脚本を彩る様々なエピソード群と映像の描き方

またもう一つ言いたいのは、こうした「骨太」の、いいかえればキャラクターのドラマトゥルギーを主軸とした脚本は、確かに「古臭く」感じることはあるかもしれないと思います。アニメやSFを見慣れたり読み慣れている人からすると、「新奇さ」がないからですし、SFの本質を「科学的な考証を踏まえて、どれだけその先を見れたか?」というポイントで評価すると、「見たことある」というのは、それだけで大減点になってしまうでしょうから。しかしながら、じゃあ、この作品はダメなんでしょうか?。僕は、そうは思いません。一つは、骨太の年代記的な脚本構成が、素晴らしい出来だからです。そして同時に、この作品がとても、安定した傑作足りうるのは、まぁ見れば誰もがわかるでしょうが、この作品の本質が、歌姫「ディーヴァ (ヴィヴィ)」の歌を聞かせてくれる、聞く物語になっているからです。数々の素晴らしい歌は、とても魅力的でした。この辺りは、『超時空要塞マクロス』シリーズを思わせます。『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の歌もまた、物語の設定上重要なポジションを占めていましたよね。「Sing My Pleasure」「Fluorite Eye's Song」「Harmony Of One's Heart」などなど、本当に良かったです。僕は、脚本ばかりの出来を見てしまう癖がある「頭でっかちでものを見る」評論家チックな鑑賞をするタイプの人間ですが、映画と並んでアニメは、総合力で構成された芸術、エンタメなので、この音楽の素晴らしさを、取り込む演出は、というか歌がメインといってもいいくらいの魅力は、やはり評価しなければならない点でしょう。

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それと、やはり、この作品は、人類が100年の時を重ねているということが重要なわけで、それをヴィジュアルで、じわじわ変わっていく背景は、素晴らしかったです。これ担当の背景美術さん、本当に大変だったのではないかと思います。音楽や映像の素晴らしさを表現する語彙力が自分に弱いのが、残念ですが、見ればわかります。


年代記ロードムービーには感情移入するのは難しい

さて、ちょっと違った角度で、思いついたことを。先日、ロバート・ゼメキス監督の『フォレスト・ガンプ/一期一会 (Forrest Gump)』(1995)を家族で見直していました。これは、名作言われるので見ておこうと思ったからです。見た結果、やはり映像が美しい。アメリカ大陸の風景を、南部のアラバマを中心に広くロードムービー的に映し出すカットがしびれるほど美しい。コンパクトに、1950-1980年代ごろのアメリカの近代史を一望できるのもいい。年代記的に長い時の流れを俯瞰できるのが、こういう作品の良さ------この「俯瞰しながら出来事を眺める」のって、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』と似ていると思いました。Viviは、主人公が100年生きるお話。そのコアは、風景と歴史を俯瞰できるところに魅力を感じていたんだろうと思います。

けれども、実は、家族からは、大酷評。

えっとね、傑作であることは疑わないのだけれども、「感情移入できるキャラクターがいない」という否定意見をいわれたんだよね。これは、なるほどと思ったんだよ。この作品の良さは、「広大なアメリカ大陸を縦横無尽に動いて風景を見れること」と1950 - 80年代くらいのアメリカの近現代史年代記的に一望できる-----この俯瞰感覚をぎりぎり感情的に共感できるラインで料理しているところに、この作品の凄さがあるんだろうと思う。けれども、やはりそれは、むりやり俯瞰しようと、本来はあり得ない時空間の広さを一人のキャラクターに背負わせることになるので、フォレスト・ガンプという不思議なキャラクターを配置している。

彼自身は、普通の子供よりも知能指数の低いという設定なので「彼自身の心の成長がない(ものすごく遅い)」という軸として設定することで、この「時空間の広さ」をカバーする構造になっている。年代記的な物語で感情移入を指そうというのは、とても難しいシナリオになるんだということが見て取れる。ガンプのキャラクター設定と、VivyがAIであり「心が変化しないコンピューターのプログラム的なもの」であるというのは、共通点を感じたんだよね。

なぜかというと、年代記的に「ここの出来事を俯瞰して、観察して、眺める」という形式にしてサクサク進めないと、長い時をひとまとまりの物語に構成できない。けれどもそのためには、キャラクターが容易に心が変化したり成長するようだと、個々の出来事にすぐ情感が引っ張られて、その一つ一つのエピソードに深く入り込んでしまって、サクッと前にすすめなくなるんだと思うんだ。それを可能にするには、主人公キャラクターの「軸」が容易に変化しにくいという設定を付け加えなければならなかったと思いました。


■人類を救う、苦しむ人たちを救うという英雄の仕事は、100年かかり、そして自分が生きているうちになしえない

さらにもう一つ。この「100年を超える年代記的な感覚で情感が乗る脚本を描く」ことに、なぜペトロニウスが、高い評価を与えるというか、、、、、、、与えるというのは上から目線ですね、なぜ「これが好き!!!!」なのかといえば、脱英雄譚の話でも、赤松健先生の傑作『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』や『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で、説明していたポイントと同じですね。この「人類を救う、苦しむ人を救えるようなマクロの構造変化」は、100年3世代以上かかり、自分が生きているうちには報われないし、自分が目の前で救いたい人々は、救えないという-----これが社会改良の本義だということが、最近実感してきたからです。多分、本当の正義は、これらの無力感を超えても、それでも「まだ見ぬ未来に何かを残したい」という思いがある人だけが成し遂げられるものなんだろうと思います。えっと、僕の個人的な述懐はどうでもいいのですが、物語の類型が、「正義の味方」を描くことに対して、深まりを見せていく中で、「100年を超える年代記的な感覚で情感が乗る脚本を描く」ことでどのようなドラマを作れるかが、問われていると思うからです。だからこそ、吸血鬼ものや不死人ものと、このテーマは相性がよく、それを初めて見出した赤松健先生の『UQ HOLDER!』が、凄いと最近叫んでいます。

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2019-11-29【物語三昧 :Vol.42】『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』2010年代を代表する名作~残酷な現実の中で意味もなくどう生きるのか?with LD

ここにおいて、物語評価的な文脈では、「自己救済というものは、次世代によってなされるものである」という定義というか発見が、、、、なるほど、輪廻転生で異なる外部環境(=設定の初期値が違う)を挿入した時に、その人の持っているトラウマなり問題の構造が、どういう解決になるか?という思考実験がなされ、かつ、30年以上次世代でないと救えないというのは、「そのような自己」が形成された外部環境の構造が、時間の経過によって根本から変わっていなければ、同じ結果になってしまうという縛りがあるからこその、一世代なんだ、ということがわかりました。


このことは、ずっとこのブログで話している、LDさんが、ガンダム00のスメラギさんらソレスタルビーイングのテロ行為を指して、自分が生きているうちに世界が救われないと駄々をこねるわがままな子供だ、指摘したことに僕が凄まじい共感をしたことがベースになっています。あの時の話は、マクロ的には世界は正しい形に向かっているのだけれども、それを破壊するような行為は許されるのか?という話でした。もちろん、地球連邦政府の形成に向かいつつある歴史的趨勢の中で、それに打ち捨てられた少数者が絶望的な状況に置かれているという事実は、テロを誘発して、世界へのルサンチマンのために世界の破壊を志す人間はある一定数確実に形成されるという問題点をどう捉えるか?という政治問題は残ります。とはいえ、歴史のマクロの大きな流れは、大多数を救済する方向へステージを進めて行くことになるでしょう。無視できない重要問題とはいえ、袋小路ではなく、緩やかに安定する方向へ動いていくわけです。そこでの問題の解決は、いま、すぐ、ここ、で解決されるものではありえないんですよ。残念ながら、少なくとも、30年以上世代を超えて変化させて変えていくものなんです。それ以上のことは、個人レベルやミクロレベルではできないんですよ。それを性急にやろうとすると、ほとんどすべては「善意による意図せざる最悪の結果」になるんでしょう。

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上記は、この正義をなすには、もしくは「救われない人々」「虐げられている人々」を救おうとするときには、長大な-----この場合は、100年単位での時がかかる。社会改良は、社会の構造を変えることなので、簡単にできることではないからです。僕は、物語における正義をなすことや、社会をよくする(しいたげられた人々を救う)という目的意識を貫徹しようとするときに、ここまで深まりを見せてきたんだなぁとしみじみ思います。


■永遠を生きる不老不死の類型の物語への答えの一つ~他者と対等であること・「そこに生きている」という現前性、臨在性、迫真性をどう獲得するか?

この文脈でいうと、同時に吸血鬼ものや永遠の命を、どのように描くかという命題とも絡んでくると、僕は感じています。ええと、吸血鬼や永遠の命の最高傑作は、なんといっても高橋留美子さんの『人魚の森』になると思います。けれども伝奇ものというか、高橋留美子さんは、情緒的なものとか、妖怪?回帰?みたいなものは描けても、いわゆるSF的な文脈ってまったくない人なんで、あくまで永遠の命を持ったことによるキャラクターたちのドラマツゥルギー-----情緒の部分に焦点が合っていて、「同じ時を生きれない」という苦しさを浮かび上がらせる「だけ」の構造になっています。

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ちなみに、この「永遠の命を生きる苦しみ」という情緒的なテーマに対して、『Re:ゼロから始める異世界生活』で長月達平さんは、明確に答えを出しています。そして、僕も、これが究極の答えの一つだろうと思います。第四章(文庫第10巻 - 第15巻、Web小説「永遠の契約」)で描かれるベアトリスとの話ですね。僕は個人的に、長月達平さんは、物凄い見事な努力というか勉強家だなぁといつも思います。この人の描く物語は、新規さというか、構造的な新しさは、いつもさほど感じないんですよね。ペトロニウスは、文脈読みをする人なんで、「文脈的な新規さ」がないと、本来は評価がかなりマイナスに落ちる傾向があります。ぶちゃけ、面白く感じない。にもかかわらず、長月さんの作品は、いつも僕の胸を打つんですよね。まだ、僕はこの人の凄さが、言葉にできていないといつも思うのですが、とにかくこの人は、これまであった物語を秀才的に分析して、その時点での集大成を見せてくれる傾向があると僕は思います。ベアトリスの話も、不死者、永遠の命の持つテーマを、凝縮して、見事に答えを出しています。まだ一言でうまく説明で期まで自分の中で消化できていないので、記事を読んでみてください。ただ、永遠の命を持つ苦しさを解決するために、「伴侶を探し続ける」というドラマが主軸で、西尾維新さんの物語シリーズの吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード赤松健さんの『魔法先生ネギま!』のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのテーマですね。しかしながら、これらは、すべて「相手も同じ時を生きる不死者である」というものです。けれど、さすがだなって思うのは、ベアトリスは不死ですが、スバルは定常の寿命の人なんですよね。このあたりが、本当に長月さんは、わかっている。この伴侶を探すというドラマトゥルギーにおいて、相手が「同じ時を生きない」のであるとすれば、何をもって永遠の命を生きることを肯定するか?って問い。

「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」


「――――」


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」




「――――ッ」


「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」




第四章129 『――俺を選べ』
http://ncode.syosetu.com/n2267be/300/


ここですね。このあたりの分析は、上記の記事でがっつり書いているので、ここでは先に行きましょう。というのは、僕が気にしているのは、下記の部分です。

この物語を読めば、不老不死がいかに苦しく地獄かが変わります。何が苦しいかというと、孤独です。同じ時を生きることができないのです。それは、他者がいないも同じ。なので、この物語に置いて、重要なテーマは、どうすれば同じ時を生きることができるのか?という他者(=伴侶)を探す旅という形式になります。これにはいろいろな方法があって、一つ目には、老いる身体に戻る方法を探すことです。もう一つは、自殺です。さらには、老いることない仲間を探し出すこと。この3つぐらいしか論理的には解決方法はありません。あっと、実は、グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいるのですが、その話はまた今度。個人の実存をベースに、個人が幸せになるためにはどうすればいいのか?という視点でさらに続きを追ってみたいと思います。

当時こういうコメントを僕は書いているのですが、


グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいる


と書いているところですね。この視点、文脈は、「不死者の物語」「永遠の命の物語」を、キャラクターたちの幸せを軸にするドラマトゥルギーとして「伴侶を探す旅」にするだけではなく、SFにおける100年3世代かからないと、世界を救えないという命題につなげる荒業が最近意識されてきていると思うのです。それが、赤松健さんの『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』で展開されていて、しびれるぜった感じです。『Vivy -Fluorite Eye's Song-』は、そこには踏み込んでいませんが、世界を救うミステリーとして100年時をかけて「成長するAIの少女」という脚本構造は、このテーマを追うときに非常に参考になる構造を見せてくれたと僕は思っています。


■『戦翼のシグルドリーヴァ』(2020)を見て思った脚本家として長月さんのバランスの良さ

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評価:★★★星3つ
(僕的主観:★★★☆星3つ半)

ちなみに、『Re:ゼロから始める異世界生活』の長月達平さんが脚本をしているということで、『戦翼のシグルドリーヴァ』(2020)もともに、連続で見てみました。どちらも、全然アンテナに引っかかってきてなかったので、気づいてよかった。なんというか、自分の中にある「文脈」と関係ないところで見たものなので、新しい発見がいくつもありました。『Vivy -Fluorite Eye's Song-』と全く違って、これは万人にはすすめない。『戦翼のシグルドリーヴァ』は、とても高度にオタク的文脈が必要で、これはなかなか進めにくい。しかし今回は大発見だったのだが、この類型系のオリジナルである『ストライクウィッチーズ』(2008)『ビビッドレッド・オペレーション』(2013)『艦隊これくしょん -艦これ-』(2016)と見てきて、自分が見てた文脈の意識がほとんど同じで、ああこの物語類型って、すでに様式美になりつつあるんだなってわかったことでした。プリキュアシリーズと同じように、「ある母型」とでもいおうか、様式を踏まえたうえで、その様式からどれだけ「持ち味」を描けるか。


文脈を分かっている物語と、そうでない物語。
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2019-4-23【物語三昧 :Vol.17】『艦隊これくしょん -艦これ-』草川啓造監督 二次創作系の物語の難しさとして語るべきか、もう一歩踏み込んで無償の愛や新世界系の文脈で語るべきか?
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『戦翼のシグルドリーヴァ』を見ていると、この「様式における構造の問題」がすべて意識されているのがよくわかる。僕はかつて、『文脈を分かっている物語と、そうでない物語。』という記事で、文脈意識がないと、物語は面白くならないといいました。しかしながらこれは、僕の美意識である「文脈からの新規さがないと物語として評価が落ちる」という視点からのものでした。実際、『ビビッドレッド・オペレーション』って、僕はすごい好きなんですよね。いってみれば、客観的には評価は低いが、主観的には高いみたいな状態。もちろん、キャラクターのドラマトゥルギーも描き、文脈的な新規さも両方包含した作品が、大傑作になるという意見は変わらないのですが、プリキュアシリーズやウルトラマンでも、仮面ライダーでも戦隊ものでもいいのですが、ある程度集客を見込める母型となる物語類型が様式美となって、どこまでぎりぎり攻めれるかを意識し長シリーズが作り続けられていくことほど、アニメーションの業界に計り知れない恩恵と価値を与えるようなって思うんですよね。ざっくりと描くと、


1)少女たちの成長(かわいさ)を描く - しかし戦争ものなので死なないとドラマが際立たない


2)意味不明の敵が攻めてくるという様式美 - 世界の謎を解明しないと意味不明の話になる


3)女の子たちのきゃははうふふの日常系である - 人類の未来をかけている最前線の兵士である矛盾


このあたりの視点が思い浮かぶんだけれども、脚本家としての長月さんは、このどれもギリギリラインで攻めているのがわかって、なるほどって思ったんですよね。バランスが見事。この企画自体は、戦闘機とか艦艇みないなミリタリーものと、かわいい女の子のキャラクターを組み合わせるというオタクものの様式として安定的に売れるパターンになりつつあるので、僕はこれが定期的に量産されていくことには、凄い肯定的。この組み合わせ、オタク的文脈で、見ているだけで幸せになるもの。でも、これが様式美になれば、これを食い破る劇的なものは、いつか必ず出てくると思う。それまで手を変え品を変え、この様式美の可能性を追求してくれるといいなぁと最近思います。そういう意味で、『戦翼のシグルドリーヴァ』は、この辺の問題意識をすべてギリギリまで攻めているので、よい秀作です。えっと、とはいえ、見るべきか?と言われれば、この系統が好きな人は見てもいいんじゃない?という感じ。やっぱりこの系統では、『ストライクウィッチーズ』の出来は、凄いなぁと思う。ただ、じわじわ前に進んでいる感じがするのは、北欧神話オーディンなどの設定だけれども、「攻めてくる敵が何なのか意味不明」という部分をどのように世界観として描いていくか?というのは-----「少女たちがそこまでして戦わなければいけない理由」とリンクするはずなので、あきらかに、意識的構造的に作られている。まぁ、ピラーっていう人類を攻めてくるものが、どこから来た何なのか?って謎につながらないのは、まだまだこの類型が、消化されていないってことなんだろうと思う。このタイプの次の作品に期待。


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99%の人は、何者になることもなく、何もなせず、ただ生きて死んでいくだけ。答えは、そっちじゃない。

何者かになりたい


イムリーなテーマだったので手を取った。がしかし、一言でいうと、構造を解説した本で、具体的な処方箋はないんだなと思いました。どういう文脈でいうかというと、


テーマとして、「いまこのとき(2021年)」に、「何者かになりたい」ということがどういうことなのか?という設問は素晴らしいと思う。


しかし、「ではどうすればいいのか?」という答えがない。答えがないにしては、タイトルがちょっと強すぎる。


もちろん、「何者かになりたい」という構造、意識が「どこから来たのか?」ということを明らかにすれば、答えはいらず、一つの知見を得られるという本の在り方もあると思う。でも、アイデンティティーを「『自分はこういう人間である』という自分自身のイメージを構成する、一つひとつの要素」と定義して、若者がそれにあがいて、獲得していくプロセスが語られるだけでは、ちょっとプラクティカルではない、と思う。僕は、こういう時代性を反映した、その時のテーマや時代の要請からの本には、「プラクティカルに、具体的に、いったいどうすれば、その問題が解決できるか」の方法論が書いていないと、手にとって人が肩透かしを食らうと思っています。まぁ、そうなると、キャリアポルノ的な自己啓発本になってしまうんだけどね。


正直言って、僕のような「教養を得る」ことや「物事の複雑な構造を、時間をかけて読み解くために勉強をしたい」というような層は、あまりいないと思っている。そういう人は変人だから。。。だから、この本は、誰に向けて書かれた本だろう?とちょっと、わからなくなった。だって、このタイトルだと、「どうすれば何者かになりたい」という不安な気持ちを、解決すればいいのか?が、書いていないんだもの。ほとんどの人は、その不安を取り除きたいか、できないならば、「何者かになれる」と宣伝しているオンラインサロンに入ると思う。それは悪手だといったところで、ではどうすればいいのか?という、即効性のある具体的な方法を示さなければ、やはり若者は低きに流れるのは、歴史が証明している。もちろん、そんなものはないんだけどね。


読んでいて、終始「じゃあ、どうすればいいの?」というのが、頭に浮かぶので、著者のシロクマさん自体が、答えが定まっていないんだろうと思った。「何者かになりたい」という構造を示して、答えは簡単に得られないんだよという結論は、たいていの本がそうなので、なんというか、多分これを読んだ人は、余計何が何だか分からなくなるだろうと思った。


読んだ一読の印象としては、オンラインサロンに代表される「何者かになりたい」動機を利用して搾取する構造にはきおつけようといっているのですが、処方箋がなければ、なかなか回避しずらい。



ペトロニウスの答え~これを読んでい人は、まぁ99%モブの意味も価値もない人です(僕も含めて)


僕の答えは、アラフィフにしてもう出ている。


まず大前提は、尊敬する出口治明さんからもらった答え。


99%の人は、何者になることもなく、何もなせず、ただ生きて死んでいくだけ。


以上。


これを踏まえなければならない(笑)。「何者にもなれない」のが、僕らモブの人生。モブとは、歴史にかかわれることなく、ただ生きて死んでいくだけの普通のパンピー。人類の、中島梓さん的に言えば、95%は、これ。コリンウィルソンも言っていた人類指導的5%とかかな。僕の言い方でいえば、99%の人は、意味も価値もない。


じゃあ、どうやったら残りの1%の、歴史を変えて名を残す人になれるのか?


それは、運によって決まります。なので、意思も努力も関係ない。


僕もそうおもっていたが、古今東西の本を読みまくった怪物的な教養人である出口さんの結論も同じで、やはりそうか!とひざを打ちました。


ちなみに、中島梓さんは、『ベストセラーの構造』で、大衆の識字率が上がってたので、多くの人が「自分は文字が読めるいっぱしの人間だ」と勘違いしていると喝破している。実際は、ほとんどすべての人は、文字が読めても、「文脈を読む能力」は皆無です。いいかえれば、人間としての、市民(シティズン)としての、教養あり、政治にかかわれるほどの自立した自己判断能力がある人なんていのは、ほとんどいない。自立した理性ある近代人なんて幻想だ!(笑)。僕の言葉でいえば、いいかえれば、上記の5%以外は、文字が読めるので、自分を人間だと勘違いしているお猿さんなんです。それが、大衆社会というやつ。


なので、自己判断としては、「自分は、何物にもなれず、ただ生きて死んでいくだけの、お猿さんでありモブである!」を、前提にしたほうがいい。「そうでない」人には、「そうでない」ことが、わかります。だって、そういう人たちは、みんな誰一人「悩んでいない」もの。時代から選ばれる人たちだから。だから、悩んでいる時点で、自分は、価値も意味もないモブだと認識すべきなんです。


ペトロニウス少年は、この結論に、高校生の時に到達しました。中島梓さんが、僕の神様だったので(笑)。


ただし、なかなか頭で理性でわかっても、「自分がモブであり意味も価値もない」というのを認めるのは、とてもとても難しかったです。



■自分がモブで価値も意味もないという「絶望」は、ニヒリズムを人に誘う


そして、ほとんどの人は、この「自分が意味も価値もない」ということに、耐えることができない。


この不安が、人々に絶望させ、ニヒリズムになります。


僕は、インターネットや教育の向上によって、「理性ある近代人」とか「歴史にとって意味ある何者か」でもないのに、「僕って何?」とか考えてしまう、教養を積む努力と意思もないのに中途半端に教育を受けてしまった「なれの果て」のパンピーが、僕らなんだ、と思っています。


本当に、この意味のなさに耐えうる理性ある近代人になりたければ、「この絶望」を越えなければなりません。


まぁ、無理です。だって、意味ないもの。それを超えても、別に得なんか何もないから(笑)。


伝わるでしょうか? この「絶望」ってやつが、「何者かになりたい」と、今思う君たちの動機の正体です。


熊代さん的に、これを「アイデンティティを獲得するための若者の基本衝動」定義して、普遍的に解説するのは、非常に正しく科学的だし、まっとうなのですが・・・・処方箋にならないと思うんですよ。今、現代、2021年になぜこの衝動が、たくさん若者に現れるか?そして、なぜオンラインサロン(まぁ、要は新興宗教ですよね)に行くか、それを防ぐための。


やっぱり、この流れって、キャリアポルノや自己啓発本のような、ただの「大衆社会の消費者」に過ぎない個人が、なれもしない「自己判断、自己で価値判断ができる自分になる理性的な近代市民」になろうとするあがきなんですよ。社会が、そうなれって要請しているし、それに「乗り遅れると食べていけない」「誇れる自分になれない」みたいな洗脳圧迫をかけてくるわけですから。


まず、究極の答えの一つ。もし、君が、本当の本当に悩むなら、


宗教を信仰しましょう(笑)。いやマジだって、それが一番、心と体が安定します。


ちゃんと具体的に指定します。キリスト教カソリックがいいです。近くにカソリックの教会に行きましょう。日本だとプロテスタントも悪くないかもですが・・・。あ、全力で、新興宗教は避けましょう。そうですね、ここ200年くらいにできた宗教は、すべて拒否です。キリスト教の分派も、すべてだめです。


何が言いたいかというと、社会と共存している「古い安定している宗教に入りましょう」と言っているだけです。オンラインサロンも含め、新興のものは、集金システムが安定していないので、容易に搾取されて、その割には組織が長く持ちません。


ペトロニウスは、無宗教ですが、、、もし、自分が死ぬような病気になって怖くて寝れなくなったら、キリスト教の教会に行くと思います。教会のような共同体が機能して、個人を相手にしているものならば、何でもいいんですよ(笑)。


話半分で聞いてほしい感じですが、古く社会と共存している宗教で、共同体に包まれる、という体験が最後の救済の処方箋だろうと思うんです。自力で何とかできなきゃ、最悪、そこがあるって思っていると、楽です。まぁ、仏教でも神道でもいいんですが、ぱっと思いつかないので(笑)。


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海燕さんの結論も、同じでだと僕は思います。「自分」は「自分」以外になれないという・・・・でもこれは、海燕さんらしいですが、強者の理論です。この「残酷な事実」を受け入れろ、というのは「理性ある教養人の思想」です。普通のパンピーにはできません。


■じゃあどうするか?~「何者かになりたい」というエネルギーと不安を、搾取されないためには?


そこまでじゃない、宗教とかまでじゃないんだ!という人に対しては、アイデンティティをタコ足のように分散させましょう。


????これは、ちょっと難しいです。


僕がとても尊敬する、いつもプラクティカルな答えを出してくれる、オンラインサロンの最初の創設者(笑)岡田斗司夫さんの「僕たちの洗脳社会」の答えの一つです。



ようは、足があるコップというかボウルみたいなもので、一本や2日本だと、不安定で危ないので、さいてい3本以上、足を作りましょうということです。


自分のアイデンティティという「水の入ったコップ」を支える足が、複数ないとだめですと、言うこと。


通常、一般的な人生では、「地域共同体」「会社」「学校」「家族」みたいなもので支えるのが一般でした。けれど、2010年代では、社会が「個」にばらばらに分解している都市社会の住人なので、これらの「支えが」成り立ちません。


最後に残った親密圏の「家族」にあこがれと幻想を持つ人が多数いますが、、、、これも「家族の解体」のテーマは、さんざんやったじゃないですか、物語で。エヴァンゲリオンのゲンドウみたいな父親いります?(笑)。「父」であったり「母」であったり「夫」や「妻」なんていう役割も、だいぶ危ないです。うまく回れば、とても強固ですが、まぁ今の時代かなりあやうい。なので、友達を作ろ、とか、結婚しようとか、そういうのは、まったく解決策になりません。


いや、友達でも結婚でもいいのですが、「複数の軸を持て」ということなんですよ。


この複数の「アイデンティティを預ける先を持って」それのバランスを維持するという戦略が、生きるのに凄い楽になります。


この複数の所属先を持つというのは、SNSとかインターネットのせいで流動性を増した社会では、ものすごくやりやすくなりました。


この話具体的には、岡田斗司夫さんのこれを読めばいいですよ。おすすめ。



■具体的には何か?~要は趣味を探せ、というお話


普通の人は、普通にがんばれ。結論はこれですね。


「会社や仕事」「趣味の友達Aグループ」「趣味の友達Bグループ」「趣味の友達Cグループ」「家族」これくらいを軸でもって管理する癖をつけます。


重要なのは、「越境はさせない」です。


趣味の友達Aと、B、Cは絶対に重ねない。趣味と仕事とかもです。一緒になると、「逃げ道がなくなる共同体」と化すので、いじめが起きやすいからです。共同体の同調圧力の怖さは、僕ら村社会の日本人は、よくしっているはずです。できれば、友達のような永続性のない集団は、3年ごとに、少しづつ変えていくのをお勧めします。期間は、3年です。それ以上短いと、あまりに弱い所属先だけど、3年以上だと、たいてい腐っていじめが起きます。その中から、「これ!」という大事な人を一本釣りしていく。


ちなみに、「趣味の友達A」が、オンラインサロンとかで会ったっていいんだと僕は思います。


重要なのは、コミットメントの「度合い」をコントロールすること。


「会社や仕事」(50%)「趣味の友達A」(1%)「趣味の友達B」(5%)「趣味の友達C」(30%)「家族」(4%)とかとか、こんな風に。


このコミットメントの度合いは、「自分にとってのうまい塩梅」は模索し続けるしかありません。


趣味の友達Aがオンラインサロンであったとしても、そこに「お布施(笑)という名の収奪」があっても、まぁ、それが人生の数パーセントであったら、いいじゃないですか。これがアイドルの押しだったら、たとえば、人生の50%くらい投資して、ただ収奪されただけでも、「その時のひと時のj=絶望を忘れられる」のならば、金をかけた価値が十分にはあると思います。「何者かになんかなれない」のだから、「それが役に立たなくてもいいんです」。それが、「楽しければ(=嫌なことを少しでも忘れられれば)」、それで十分なんですよ。


ビジネスの用語でいえば、これはポートフォリオ戦略のことです。多角化経営でもいいですが、ようは、コアコンピタンス(競争力のコア)を、組み合わせにして、外部環境の変動に対してフレキシブルに対応できるようにするということです。


愛する人と出会いたい!」みたいなロマンチックラブイデオロギーは、これを一つの軸に、集中してかけるので分散投資しないってことです。危なすぎて、これだけ流動的な「個」によって形成される社会では、危なすぎてだめです。


■楽しければ(=嫌なことを少しでも忘れられれば)」、それで十分


これ、結論の一つです。「何者かになりたい」と思う衝動は、安定したアイデンティティ獲得への渇望なので、死ぬまで苦しみます。今は、これが若者特有ではなくて、高齢者にまで広がってきました。これは、寿命が長くなることやQOLが向上して「青春(=何にモノでもないことに耐える時代)」の期間が長くなっているからです。


だから、僕は、「人は何者にもなれない!、動物のように死ぬだけ」という事実を前提に、その怖さを「忘れられる」ものを、探しなさ、と思います。


それが、「自分の好きなこと」です。


あなたは、何をしているときに、「この苦しい現実」を忘れることができますか?


ペトロニウスの結論は、30代の後半に出ました。僕は、物語(映画、漫画、小説)があれば、他には何もいらないって。


なので、コミットメントのバランスを変えました。もちろん、僕には子供の子育てや、アメリカで仕事をしなきゃいけなくなったり、苦界の苦行は付きまといますので、時には、仕事や家族が、人生の90%ぐらいになってしまうときも、瞬間最大風速あります。


でも、僕のターゲットは、60歳以降(笑)。その時に、80-90までの残りの20-30年間を、物語に埋もれて暮らすための、インフラ作りが、今だと思って、配分しています。だから「それ関係の友達」を育てるのは、20年単位で努力しています。


重要なのは、覚悟と時間です。何かのインフラを作るには、経験上20年はかかります。特に社会人は、最低この時間がかかります。


また「こんなことやっていて意味があるのかな?」という覚悟の問題もあります。僕も、30代半ばまでは、自分のオタク趣味って、なんにも意味がないなって悩んでいました。たとえば、それこそ本を出したら、そういうのがなくなるかな?とか、評論家として大成したら、「何者のかになれるかな?」とか、、、、でも結論は、「そういうことじゃない」と思いました。会社で、出世して、アメリカの会社で経営者になっても、全然うれしくない自分がいて、あ、、、これ、だめなやつだ・・・・これって承認欲求であって、充足としては、かなり弱いものなんだ、、、と自分で気づきました。人によるとは思うので、仕事が充足がないという意味ではないです。ペトロニウスには、あまり満足いかなかったんです。


そうか、、、、ただ単に、物語を消費して、そして解釈して、友達と話すというサイクルの中に、「時間を忘れる充足がある」と言うことに、僕は気づきました。だから、人生のすべてでの最優先順位だと確定したんです。ただ、何にでも「時」はあります。今の僕は、子育ての時間が大きすぎて、昔ほどオタク趣味に時間をさけていません。また、せっかくアメリカに住んでいるのだから、もっとアメリカを知りたいし、、、そもそも僕は子供のころから旅行が死ぬほど好きな人なので、せっせっと旅行に行っています。けれども、そのどれもが、「より物語を深く充実して楽しむため」という目的意識のインフラにかかわるようにしています。


僕は、これをクンフーと呼んでいますが、「自分が!自分とは何者か!というような自己に関する不安問題」を忘れることのできる「時間的な強度・密度」を感じれる何かに、かけること。「無時間性の何か」、と僕はよんでいます。ようは、目的意識に乗った集中力が、極まっているときに入るゾーンの話をしていますが、そういう話はどうでもいいです。


とにかく、不安を忘れられるならば、それで十分じゃないか、という話です。


そして、そのクンフーとか好きなものが、「何者かになるための手段」に堕してしまわないように慎重に配慮する戦略意識が重要です。


わかりますか?


目的のための手段になった瞬間に、それは「自己否定を誘う最悪のトラウマ・ルサンチマン」になるからです。


この辺は、長いので、またこんど。



■ハイレベルの「何者かになりたいワナビー衝動」の利用方法~退屈を忘れさすには目的を持つことだ!~長期と短期を分けて考えろ!


そして上級者編。


シロクマさんも書かれていましたが、「何者かになりたい衝動」というのはエネルギーです。だから、これが「何物にもなれないやばい衝動だ」という自覚を持ちながら、「あえて、この熱さに乗る」という戦略意識があると、人生は成功しやすくなります。


たとえば、ビジネスマンで、アメリカに行ってMBAをとる!!!とか、よくワナビーくんのビジネスマンが妄想する、意味のないやつなんですが(笑)・・・・短期的に、若いうちにこれに一点賭けして、ブレイクスルーするのは、僕は悪くないと思います。


これで幸せになれるか?


これで、何者かになれるか?


というと、まったく関係ありません(笑)。でも目指している間は、「何物でもない絶望している自分をわすれられる」ので、それが悪いとは思わないんですよ。


勉強でも、学歴でも、仕事でも、何かのレベルを上げて成長するには、狂気がいります。


この狂気として、この衝動を利用するのは、ありなんだと思うんです。


でも、短期と長期の戦略意識を考えないと、人生は失敗します。だって、こういう成長は、あまり幸せとは関係ないからです。成長しても、「幸せになる」ことはできません。成長している間、「ひと時絶望を忘れられる」だけなので、疑問を持った瞬間に、地獄に落ちます。


だから、短期的に、自分の不安を動機とエネルギーに変えて、目的意識で何かを目指すのはありです。


でも、長期では、この配分を「自分にとってベストの幸せとは何か」と考えて配置しなおさないと、地獄に落ちます。


■おわり

今仕事回っていなくて、書いたから、誤字脱字だらけだろうし、意味不明かもですが・・・・シロクマさんの本を読ませていただいて、2021年の今、この「何者かになりたい」というのを問い直すタイミングであるというのは、特殊な意味があるはずだと思いました。何か僕もよくわからないですが、「そんな感じ」がします。ここは重要なので、今後も考えていきたいものだなぁと思いました。あと、高齢者に、これが問われるようになっていく構造が出てきたのは、特筆されるべき指摘だと思いました。僕の自分自身の何者か衝動を、どういなしてきたかのまとめを、再確認するよい機会になりました。

『スーパーカブ』(2021) トネ・コーケン原作 藤井俊郎監督 そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ傑作!)

www.youtube.com

■第一話「ないないの女の子」が示す救われない最後の1%はいないこと

1話の「ないないの女の子」出来が素晴らしすぎて、最初からな涙ぐみながら見ていました。これは、とにかく今(2021)に見る物語だと思いました。『ゆるキャン△』や『よりもい』の時も思いましたが、同時代性の文脈に沿っている作品は、ぜひとも「今」見たい。なぜいまか?といえば、この時は「今、この時の時代性の文脈」に激しく依存しているので、この文脈が変わってしまうと、受ける感動が変わってしまうと思うからです。素晴らしい出来で、かつ繊細な演出意図によって作られている作品なので、全部★5つのパーフェクトなんですが、ちょっと下げているのは、僕のブログが必ずしもアニメが好きでないくても、見たら最高!というものを紹介しようという「ジャンルを越境できる」ことを念頭に置いているの、もし、数年後にこのブログを見て、アニメを特にみていないけれども「見てみよう」と思うと、強度が下がるのではないかと思うからです。

ここでいう時代性の文脈とは何か?

物語三昧のブログ、もしくはアズキアライアカデミアのラジオをずっと聞き続けている人はわかると思うのですが、「持たざる者」が、それでも救済される方法あるのか?という問いです。ざっくり具体的なレベルに落とすと、異世界転生をしたがる今の日本のサブカルの文脈は、「自分が現在のセカイ時間において不遇で不幸なので、違うところに行ったら幸せになれるのではないか?」という装置だとすれば、次々に様々な主人公が登場するのは、それぞれの人間が持つ「不幸」にどう対応すれば異世界で幸せになれるのかの、条件を振って物語を作っているのだと考えたのです-----そうすると、最後に、本当に何も持っていない「1%(実際の数字ではなくて、最後に残った部分という意味)」は、どうにも救いようがないじゃないかという文脈でした。当時、下記のように描写しています。

芥川龍之介カンダタのたらす糸はたくさん、実はたくさんある〜けれども、90%をカバーするものに漏れてしまう層を救えるのか?そもそもいるのか?

さて、先日LD教授と話し込んでいた時に、この作品群は、ターゲットとテーマがうまくかみ合っていないという話になった。より正確に言えば、最初は、ターゲットに設定していた層への疑問に答えようとするのだが、物語上それができなくなるというだ。

それはどういうことか?といえば、『僕は友達が少ない』などのタイトルがそもそも、友達がいないと感じている孤独を苦しむ層の救済とまでは言わないが、そのタイトルに共感を得る人間を対象にしているはずだったのだが、この物語のハーレムメイカー的なラブコメの構造から、実は、お前もてないって言って女の子にモテまくりだし、友達いないって周りにたくさんいるじゃん!と突っ込みたくなるような環境にどんどん変化していく。物語が進むということは、カタルシスに進むわけで、そうならざるを得ない。仮に最初に本当に友達がいないとしても、まじで一人もいなければ物語が進まないわけで、そうではなくなっていくところがこの物語のドラマトゥルギー(=物語が展開する力学)。極端なこと言えば、ただ気づいていないだけで、そもそも友達はいたんだよ!(=青い鳥症候群)な設定になっている。これはいいかえれば、本当に友達がいない孤独を経験している人からいえば、ああ、俺の求めているテーマや答えに全然リンクしていないで、離れていくのだな、と取り残されていく感覚を抱かせるはずだ、と。

ここでLD教授は、カンダタの話を出します。

蜘蛛の糸 (日本の童話名作選)
有名な芥川龍之介の小説ですが、カンダタは、生前悪い泥棒だったので、地獄で苦しんでいました。しかし、一度だけ小さな善行をなしたことがあって、小さな蜘蛛を踏みつぶさずに助けて生かしたことがあった。それを見ていた釈迦は、カンダタにチャンスを上げるように、小さな蜘蛛の糸を地獄に垂らして、助けようとする、、、という話ですね。

これは、どのような人間にも、蜘蛛の糸がありうることを示しています。まぁ無駄に使ってしまって、カンダタのように、他人を蹴落とそうとして糸が切れてしまうというのが、オチなんですが(笑)。でも、そんな細い糸が1本だけあっても救われる人はとても少ないじゃないか?と思うかもしれませんが、そうじゃないんですね。LD教授は、この糸って実はたくさんあって、90%ぐらいの人はって正確な数字が言いたいのではなくて、ほとんどの人は救われるための糸が垂れ下がっているんです。あとはそれにつかまればいいし、自分でその価値を壊してしまわない限りは救われるのです。この物語のように、大抵は自分で壊してしまうんですけれどもね。僕は、世の中は、ほとんどすべての人に、救済の道が細いながらも示されていて、実はほとんどの人には、糸がたらされているんだ、というのは同感です。

なにをいっているかといえば、先ほどの、これらの残念系青春ラブコメといわれたりする系統で主軸のテーマになっている「友達がいない孤独」ボッチの世界に、救いはありるのか?と問えば、それは、いくらでもあると思う、といっているんですよ。そもそも、ほとんどのケースが、友達がいないんじゃなくて、青い鳥症候群。いや、そばにいるじゃん?という話。もしくは、友達を作ろうとしていなかった、というだけ。そばに友達候補はわんさかいるのに、自分から拒否しているだけ。カンダタの糸はたくさん垂れ下がっている、というのはそういう意味のことです。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

petronius.hatenablog.com


しかしながら、Youtubeでも解説していますが、3つの段階を考えて分析しています。

0)不幸なのはたいてい親か家庭(社会)のせい

1)恋人(ラブコメ)か友達によって救われる

しかし、恋人ができれば救われるみたいな話は、結局は「持っている者」だけが救われて、どうしてもモテない人とかは、どうにもならないじゃないかと絶望する。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の議論ですね。だから、ここで語られている問題意識は、人間の幸せは、お金、学歴、容姿、恋人(異性)、友達などの外部要因では決まらないという話でした。いや、これも実はおかしな話で、世の中の過半の人は、、、たぶん90%ぐらいの人は、これで救われちゃったり、幸せに「なれてしまいます」。

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しかし、そうはなれない人が、次に向かいます。

2)自分の「好きなもの」を探して、それに打ち込もう。

問題は外部(=お金とか自分の外にあるもの)に依存しているからだ。外部はアウトオブコントロール(自分に都合よくできていない)。だから、「自分の心の中にある」「好き」というものを軸に、趣味に打ち込めば、外部の偶然性に頼らずに、充足を得ることができるぞ!

しかし、「好き」が、自分の心の中にないんです。言い換えれば、内発性がないんです。

ここで困ったんですよ、、、、「好きなものも探せない」「育てることができない」といわれちゃうと、そういう無気力でエネルギーがない人は、社会から切りすたられて、死ぬしかないね、、、という結論になってしまう。これすぐっごい昔の物語三昧ラジオのアーカイブですが、ここで考え込んでいたことが、このように展開するとはと思うと感無量です。

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3)何もない「持たざる者」は、生きていても何一つ救済がない←いまここ


こういう感じだったんです。


ということは???


時代の文脈的に、「何も持たなくても」、幸せになれる方法を示してほしい!という要求があると、感じていたんです。


どうよ???


小熊ちゃん。


タイトルは?


「ないないの女の子」


です。


凄いわかっている感あふれるでしょう!


ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという文脈からの後退か?

さて、Youtubeのコメントが面白かったので、そこを注目してみましょう。「救われない1%」の層を救うには?という文脈の流れで、下記にありますように、『ゆるキャン△』により一つの到達点を示したと僕は考えています。要は、趣味=好きなものを通して世界を見ればキラキラ輝くという結論です。しかしながら、『ゆるキャン△』が、素晴らしく時代へ答えたのが、単純に「好きなものがあればいい」ということに甘えて、日常・無菌系の「女の子が戯れる日常」というオタクが好きそうなガジェッド・皮(ガワ)に逃げなかったことです。これはさすが製作者、とうなります。この場合は、原作者ですね。りんちゃんが、つまりは主人公が、仲良くなった友達や仲間と「一緒にキャンプを楽しむ」などという陳腐な作品にしなかった部分が、エポックメイキングでした。彼女は、「一人でキャンプに行く」のが好きなので、同調圧力に負けて、仲間たちと戯れるような、「自分の好きを捻じ曲げる」ことをほとんどしません。

ここでは、日本的同調圧力の空気をぶち壊せ!という文脈背景に基づいて、

友達がないと幸せになれない

友達はいらない

という2項対立のテーマを、あっさり止揚しています。いわんとしていることがつたわっているでしょうか?。つまりは、「自分の好きを貫く」=「友達は必要ない!」という命題と、「一緒に時を過ごさなくても」「友達足りうることはできる」という風に話を展開させているのです。ここが、普通の日常・無菌系をはるかに超える強度を生み出したポイントでした。

ゆるキャン△』に示された、どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性

ゆるキャン△』は、なので日常系・無菌系の文脈なしでは、いまいち何をいっているのわからない系譜のものになると思うのですが、この作品の日常系としての出来の良さ以外のポイントで、文脈として注目したポイントは、SNSの使い方です。前回の『よりもい』で関係性について到達した結論は、結局、一周回って、心の中に絆があれば、どこにいようが(ばらばらで一緒にいなくてもいい)問題ないということでした。ましてや、SNSなどのサービスが共時的に体験をできるシステムが整いつつあるので、それが「目に見える」。えっと、順番は逆じゃないんですよ。りんちゃんとなでしこの関係が、LINEで描かれていて、遠くにいても「同じところにいるような」関係性が、生まれた!のではないんです。関係性が内在している、、、言い換えれば絆が生まれていれば、仮にSNSのようなサービスがなくても、そこに絆の共時性はあるはずなんです。今までそれが見えなかったし、記録に残らなかっただけ、なんですよね。それが、あぶりだされて、目に見えるようになっただけ、なんです。この絆の「目に見える」というところの演出が、とても素晴らしかったのが、『ゆるキャン△』のアニメでした。そして、これは演出だけにとどまらず、大きな文脈の中のある種の結論として、機能していると僕は考えます。


これは、ぼっち、というテーマのアンサーです。


上で話しましたね。ぼっちであるのは、一人でいることとか「状態」ではなくて、心の在り方なんだということ。りんちゃんは、あれだけ仲良くなっても、ソロキャンをやめません。なぜって、一人でキャンプするのが好きだからなんです。一人でいるから、独りぼっちというわけではない。それが端的物理的に最終回で描かれているのは、りんちゃんとなでしこが、特にお互い連絡もしないで、個別にソロでキャンプに出掛けて、行き先が一緒で出会ったことは、彼らの関係性が絆までレベルアップしていて、もう特に言葉で語り合わなくても、とても思考や行動がシンクロしやすくなっているさまを描いているんですよね。あそこに、SNSいらないと思うんですよ、実際は。ただテクノロジーがあるので、それが目に見えるように炙り出されている現代性を見せているだけ。

petronius.hatenablog.com

さて、しかしながらこの最前線に思える『ゆるキャン△』には、一つの問題がありました。いや、この物語自体の問題じゃないんですが‥‥それは、そうはいっても


友達はいたほうが幸せ


という風に読み取れてしまう点です。これでは議論自体は、前の議論に答え切れていません。「好きなものは貫いたほうがいい」けど「友達はいてもいい」。それに、ゼロから「何かを好きになる」という内発性のスタートポイントは何か?というテーマにもこたえられていません。LDさんが、こだわる議論のポイントでもあって、そもそもシャープな答えとしては、


「友達はいらない!!!!」


と、こたえる方が潔く、かつ深いんです、答えとしては。でも、時代は、「いらない」というところまで、極端に行く必要はない、と結論付けているようにペトロニウスは感じています。


そこで来たコメントが以下だったんですね。鋭い。

田沼小石
なるほど、そう観ましたか。
物語全体を通してみると『ろんぐらいだぁす』でロードバイクを手に入れたら、仲間と世界が広がったよ……というのとほぼ同じなので、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からは後退した作品だなと思っていました。

ただそこに小熊の“なにもなさ”を加味すると見方が変わるわけですね。視点が変わることで世界が変わるというのはわたモテが実現したことですが、スーパーカブはそれを最短で表現したと考えると凄い。与えられる情報が少ないというのは原作小説からそう(琵琶湖から数ページ後には九州上陸しますし)なので、演出が本当に良い仕事をしているのだと思います。

この文脈が発展するなら、いずれはスーパーカブを手に入れるという過程さえ必要なくなるのかも……と妄想します。藤子F短編集の流血鬼のように世界の方が勝手に変わるなら……ただそれだと異世界転生となにが変わるのだろうか……と、考察すべき事は多いですけど。

この指摘、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からの後退というのは、なるほどと思いました。


後半になると、普通の日常系になるので、普通に眺めていると、これが意外に面白くなくなるっていきます。いや素晴らしい演出なんですが、ようは通常の「無菌系・日常系」の作品と構造が同じになってしまって、「どこかで見たことがある物語」になるからだと思います。日常系の頂点は、マンガ『あずまんが大王』とアニメ『ゆゆ式』だと僕は思っていて、もしこの系統の最高峰を見るなら、あちらだなと思うってしまう。というのは、最初の1話の視点が、あまりに衝撃的過ぎて。まぁあの1話で、もう完璧なんですけどね。

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petronius.hatenablog.com


上で置いたわたモテの解説動画で疑問いあげていたのは、主人公のもこっちが、「何一つ変わっていない」のに、なぜ幸せになっていくか?という疑問点でした。明らかに作者は、「自己肥大をこじらせているもこっち」が不幸になるというか、世界との違和感、ズレがあって、それをギャグにするという不条理コメディを意識しているにもかかわらず、わけわからず幸せな日常ハーレムものに展開していく様は圧巻です。しかしながらこの「視点の変化」が、何によってもたらされたのか、ずっと具体的にわかりませんでした。あの話の本質は、「自分が何も変わらないのに」「世界のほうが変わる」というところに力点があって、でもなんで変わったのが、よくわからなかったから。しかし、スーパーカブを見れば、「自分と世界が変わる」のに、自己啓発的な決断や意志みたいなもの、さらには才能やお金などは、全く必要ないんだ、というのがストレートの示されていて、唸りました。


そして、その答えは、「ただ移動すること」なんです。


ちなみに、「手に入れる必要さえない」、、、、となると、「世界の方が変わる」話なので、まさに異世界転生です。そ結構この辺整理されてきたなと思います、どんな文脈があるかわかってくると、面白いですね。


ちなみに、物凄いずれるというか蛇足ですが、この「移動すること」に自由を見出すというのは、まさにクロエジャオ監督が、ノマドランドで描いたものです。


www.youtube.com
2021-0508【物語三昧 :Vol.120】『ノマドランド(Nomadland)』2021 Chloé Zhao監督 雄大アメリカの風景を移動しながら野垂れ死ぬことを幸せだと思いますか?-128



■漫画版と比べると日常系として描く脚本と、純文学的に描く脚本の違いが際立って理解できます

これは監督が、素晴らしいですね。マンガと比べると差異が際立ちます。

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)


ええとですね、上で描いてきた「なにもないこと」からでも人は幸せになれるという時代の文脈をちゃんと理解すると、監督が、何を演出したかったかが、はっきり読み取れます。


逆に言うと、まったく異なる解釈をマンガはしているので、演出表現を比べると、その差が際立ちます。ぜひとも読み比べてみましょう!。


覚えているので注目しておくのは、最初の第一話ですが、主人公の小熊ちゃんのシャワーシーンです。


これ、オタクのアニメ好きの文脈から考えると、サービスシーンです。それだけでなく、第一話で、主人公を好きになってもらい、感情移入するためには、ぜがひでもここでちょっぴりエッチなシーン(笑)を出しておくべきです。まぁ、いってみれば昨今の日常系アニメの演出の「文法」みたいなものです。アニメを見たときに、僕はそう予期してみていました。いきなり朝シャワーを浴びるので。彼女はかなり貧乏なので、水の節約を考えると、朝のシャワーを浴びるタイプとは思えないので、原作に理由があるか、とかいろいろ考えながら、おっぱい見れるかな?とか、スタイルどうかな?と、普通に男脳エンジンで考えていたら、驚いたことに、ワンカットもシャワーシーンをうつさなかったんです。後の話では、普通に小熊ちゃんのシャワーサービスシーンは、出てくるので、わざわざ第一の登場シーンで「あえてうつさなかった」のは演出です。これ、素晴らしい!!!!って、唸りました。「なにもない」少女として描くときに、性的な身体を描いてしまったら、それそのものが、魅力的なものとして、写ってしまうし、そもそも「何もない」という彼女のネガティヴさを演出するのにそぐわなくなってしまいます。物凄い上品で、おっと思いました。これは、凄い傑作かもしれない、と。


マンガ版は、最初の登場シーンから、シャワーシーンを、サービスシーンとして、描いています。


これどういう解釈の違いか分かりますか?


アニメ版の藤井俊郎監督は、あきらかにこのアニメーションで、「日常・無菌系のアニメーションの現代的な文脈」の文法を、あえて外して描いているんです。いいかえれば、これは、日常系じゃないって、宣言しているようなものです。


マンガ版は、ストレートに、『ゆゆ式』などの後継の文脈としての、日常系の少女たちが戯れるオタク的な文脈の文法で描いています。


これが、演出の「差」というやつです。随所に出てくるので、この視点で差を探してみるといいですが、「受ける圧倒的な印象の違い」は、この監督の強い演出意図に支えられていると僕は思います。


これ、監督がすごく難しい決断をしているのが分かりますでしょうか?。


一番、マーケティング的に「売れる路線」の文法をあえて外しているわけですから、これ、物凄く挑戦的なことにチャレンジしていることに、僕は敬服します。


こういうのを、文脈が分かっている物語、だと僕は思います。だからこそ、「今見るべき物語」なんです。安易なマーケティング的な言説に、のらない。

スーパーカブ』 藤井俊郎(監督)インタビュー
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

https://st-kai.jp/special/supercub-002/


■イージライダーを思い出す、自由への逃走、闘争なのかそれとも、今ここでの穏やかな解放か

バイクに乗れば速く走れる。バイクを使えば遠くまで行ける。バイクの魅力としてまず浮かぶ事柄だが、女子高生がホンダのスーパーカブに乗るようになるトネ・コーケン『スーパーカブ』や、ヤマハのスクーターで女子高生がキャンプに向かうあfろゆるキャン△』を読むと、そうした便利さに加えて誰かとの、あるいは何かとの繋がりをもたらしてくれる存在として、バイクの魅力が漂ってくる。
バイク×女子高生の物語、なぜ人気に? 『スーパーカブ』『ゆるキャン△』が描く“繋がり”|Real Sound|リアルサウンド ブック

ああ、あとこの話もしたいですが、疲労で疲れ切ったので、ポイントを挙げておくだけにします。


■エリックサティのクラシックがいい。

www.youtube.com

――ドビュッシーが多いですね。
藤井 それは好みですけど(笑)。サティ、リスト、ショパンも使ってます。なるべく聴きなじみのあるもので、かつ基本的にピアノの独奏曲でセレクトしました。
――感情が変化するアタック音などにピアノを使ってもいますね。
藤井 ええ。クラシックとの親和性も高いし、作品のテイストとも合うと考えていたので。音楽の打ち合わせの際にその意図を説明させてもらったところ、クラシック曲と同じように実際のピアノの鍵盤を叩いて収録していただけて、結果とても贅沢なタッチ音になりました。
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

後、音楽のが素晴らしく上品で、、、、本当に監督わかりすぎてて、素晴らしい。


■参考
petronius.hatenablog.com

petronius.hatenablog.com

スーパーカブ』の“リアルすぎる表現”にみる日本アニメ35年の「リアルと嘘」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ccdccf455d2f23ef725f709e15891edf9b6a2c3

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1

www.youtube.com
Academia/いきいきごんぼ+三名様+アフロ田中+はがない+ラブコメと結婚後もの 2021/06/06

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『The Rider』 2017 Chloé Zhao監督 オグララ・スー族の馬とともにある人生の美しさとIndian Reservation(インディアン居留地)残酷さ

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評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■見たきっかけと
2021年の第93回アカデミー賞作品賞受賞の『ノマドランド』の Chloé Zhao監督の第二作目。『ノマドランド』が、あまりによかったので興奮してノラネコさんに話したところ、それならば『The Rider』『Songs My Brothers Taught Me』のサウスダコタ・パインリッジ・リザベーション二部作を、ぜひ見てくださいとおすすめされたのがきっかけでした。

■見るべきポイント
観るうえで少し知っておきたい前提知識は、以下の文脈。

アメリカ中西部のサウスダコタ州のパインリッジ居留地 (Pine Ridge Indian Reservation) が舞台

パインリッジは、ウンデット・ニーの虐殺があった場所であり、平原インディアンの最大部族であるスー族の支族、オグララ・スー族の人々が自治権を持つリザベーション(居留地

Indian Reservation(インディアン居留地)は、アメリカの白人がフロンティアに入植していく過程でネイティヴアメリカンの土地を奪いどんどん追い詰めていった場所

この場所での失業率や産業のなさは極端で、そこに住む限り、豊かな生活や教育を獲得できる機会は限りなく低い

ワイオミング州ウインド・リバー・インディアン居留地を舞台にしたTaylor Sheridan監督の『ウインド・リバー(Wind River)』2017も同時に見ると理解が深まるのでお勧めです。


アメリカ社会において、ネイティヴ・アメリカンの扱いが歴史的にどういうものであり、今現在どういう状態なのか?という知識なしには、よくわからない物語でしょう。日本における田舎と都会の格差で考えるとわかりやすいとノラネコさんが指摘されていますが、居留地での閉塞感、閉じこめられて抜け出ることができない絶望感、アル中と教育なさが連鎖する空間の「どこにも行きようがない」感覚を前提に物語を見ないと、主人公たちの絶望が分からないでしょう。

演技的な視点では、『ノマドランド』もそうなのだが、ドキュメンタリー風といわれるように、映画の登場人物がほぼ本人というところが、クロエ・ジャオ監督の凄さ。ふつうそんな素人に演技させれば、演出がまともに機能しなくなってしまうはずなのだが、信じられないほど情感が細やかに演出される様を見ていると、いったいどういう撮影方法をしているのか驚いてしまう。これの一つをとってもアカデミー賞の風格あふれる監督であると思う。

驚くのはここからで、クロエ・ジャオの選択は、ジャンドロー自身に主人公を演じさせたこと。役の苗字こそブラックバーンと映画用に変えられているが、ファーストネームは同じブレイディ。演技経験などもちろん皆無の彼に、自分自身が経験した過酷な運命を再現させたのである。さらに信じがたいことに、ブレイディの家族や、落馬の後遺症に苦しむロデオスターら周囲の人たちも当人に演じさせている。中でもブレイディの自閉症の妹の演技は本作の重要ポイントとなったが、プロの俳優も顔負けのリアリティで、彼女は観る者の心をわしづかみする。自身の経験を再現するという、簡単そうでハードルの高い作業を、クロエ・ジャオ監督が的確に導いたと言える。

https://www.banger.jp/movie/55463/

■Be a man!(男らしくあれ!)の同調圧力として単純にとらえてしまっては、この作品の深さが分からなくなる

物語は、主人公ブレイディ・ブラックバーン(ジャンドロー)が、ロデオと馬の調教で生活していたが、落馬事故で馬に乗るのが難しくなってしまい、もしロデオや乗馬のような激しい動きをすれば、ほぼ死ぬか再起不能になってしまうだろというところからはじまります。これが実体験であり、俳優がその再起不能になった本人であるというのが凄いところなのですが、この作品のドラマトゥルギーは、主人公ブレイディが、「命を懸けてでも馬に乗るか?」という部分にドラマトゥルギーがあります。なので、ドラマを分解すれば、「命を落とすか半身不随になって再起不能になるのがほぼ確実」で「それにもかかわらずロデオに復帰したいと主人公が悩ん」でいるわけです。ただし、彼にロデオを教えてくれたあこがれのロデオスターは、落馬の後遺症立つこともしゃべることもできない状態になっています。このままロデオどころか乗馬をしているだけで、「そのようになる」という危険性を見せつけられてもなお、ブレイディは、馬に乗りたがるのです。そこにこの物語のキーがあります。

日本で、この映画を鑑賞した人の感想を読むと、「同調圧力」という言葉をよく目にする。
再起不能になるかもしれない怪我を負ってでも、再び馬に乗ることを当然だと考える、パインリッジの若者たちには、確かに日本の田舎にもある同調圧力的な力が働いているのかもしれない。
外の世界での可能性を諦めたジョニーも、様々なプレッシャーは感じていただろう。
だが、都市も田舎も基本的に同質の社会で、気に入らなければ出て行ける日本とは、はじめから選択の重みが違う。
馬に乗れるのと乗れないのとでは、経済的な格差に繋がる。
そして彼らにとって、カウボーイであることは、誇り高きラコタ・ネイションのアイデンティティと同義なのである。

単純に映画を見ていると、カウボーイ仲間から「早く復帰しろよ」という圧力が何度もかかり、主人公時代も、それ以外に生きるすべが知らず、父親から「Be a man!(男らしくあれ!)」とのみ育てられてきた、激しい同調圧力が垣間見ることができます。カウボーイ物は、基本的にこの米国にお「男らしくあれ!」という同調圧力の強さの象徴として描かれてきており、その激しさのアンチテーゼとして、アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン(Brokeback Mountain)』などが描かれているのです。これは、男らしさの協調であるカウボーイの男性の同性愛を描いたところに物語に力点があります。


が、、、、僕は、この話を、Be a man!(男らしくあれ!)の同調圧力の犠牲者の物語、とはとれませんでした。


もちろん、そういう側面があるのことも、土壌があることも否定はしません。しかし、この作品の白眉であり、最も印象的なシーンは、主人公ブレイディが、馬とともに荒野を駆けるシーンでした。サウスダコタの荒野。暗く、汚く、何もないところで、そこでスーパーの商品陳列を、何の喜びもなくしている主人公の姿は、哀れの一言で、「底辺の生活」がありありと感じられました。しかし、その現実は何一つ変わっていないのに、彼が馬とともにサウスダコタの平原を疾駆するシーンになった瞬間に、その美しさに、アメリカの自然の雄大さに、胸がつかれるような、痛むような感動を覚えました。これが、平原インディアン、オグララ・スー族の「馬とともにある人生」なのだ、という鮮烈な感覚が、ビビッドに伝わってきたからでした。


このシーンから、もう僕は、ブレイディが、同調圧力の犠牲者であるようには一切見えなくなりました。『ノマドランド』の話と同じ類型です。安楽な、都市での白人中産階級の生活をするよりも、物質的には底辺であっても、「馬とともにある」人生でのたれ死んだほうが、その美しさに包まれているほうが、生きている「かい」があるんじゃないかというのが、映像でガンガンつたわってくる気がするのです。そうなると、ブレイディが、なぜ再起不能か死ぬ確率が高いのわかりきっているのに、馬を捨てられないかが、切ないほどわかります。

リベラリズム的な同調圧力を超えて

この問題、選択肢の構造で、僕は「安楽な資本主義での都市生活」よりも「自分自身のアイデンティティのある」生き方のほうが、たとえ「のたれ死んでもよいのではないか」という難しい問いが語られているように感じました。この問いが難しいのは、ほぼ百発百中で「のたれ死ぬ」のが分かっているからです。確かにアイデンティティのある生き方のほうが美しく気高くあれます。しかし、既に、そのような選択肢がない状態で、この問いが語られるところの難しさが、クロエジャオ監督のマイノリティへ向ける限りなく寄り添う視点に感じます。だって、物質的には、アメリカの実際の空間、生活としては、最底辺中の最底辺で、明日生きていくのも難しいような生活をしているのですから。それでも馬がいいとは、単純い言えるのでしょうか?。

ここでは、都市の中産階級的な生活こそが正しい!という「大前提」のリベラリストの傲慢さ、マジョリティの冷酷さが激しく感じられる気がしました。少なくとも、2020年の民主党共和党の大統領選挙での大激突は、「これ」が背景にあるわけで、それに対して敏感さがないというのは、アメリカではありえないと思います。ただ物質的に恵まれている都市の中産階級になるために「資本主義の最底辺の機能の駒で労働力を切り売りする人生にエントリー」するのが、本当に幸せかよ?って。

アイデンティティと一体になっているものを、簡単に一部分だけは解体して変えることはできないところが難しい

これ、難しい問いかけだと僕は思いました。なぜならば、このBe a man!(男らしくあれ!)の同調圧力と、オグララ・スー族の馬とともにあるアイデンティティは、重なっているものなので、都合よく櫃だけ抜き出して帰るというのがむずかしいからです。キャンセルカルチャーに代表されるような、ポリティカルコレクトネスが、正しく左翼の末裔なのだと思うのは、「一部分だけ人工的に考えて」それを変える為ならば、その他はすべて専横したり皆殺しにして、一旦更地にしてしまってもかまわないという激しい暴力性があるからです。これを、若い、女性の、しかも中国人のChloé Zhaoが作っているところに、凄みを感じます。彼女を評して「マイノリティに寄り添う視点」といいますが、まさに「寄り添っている」のであって、人々の生きる「生」がそんな単純じゃないことをまざまざと見せつけてくれます。

■これを底辺ととらえるのか、それとも豊かなオグララ・スー族の馬ともにある人生ととらえるのか?の難しい二択

しかしながら、主人公のブレイディ・ブラックバーン(ジャンドロー)の生活をどう考えればいいのだろう?。というのは、物質的な視点、「白人中産階級の都市生活者」の視点で考えると、最底辺も底辺ですよね。多分、これを告発して否定するというのがリベラル的な視点になるんでしょう。その視点で見ると、彼は教育を受けに外に出ていくか、仕事を探して居留地を出ていくのが正解になってしまうでしょう。『Songs My Brothers Taught Me』が、まさにそういう話です。しかしながら、それはすなわち彼らが、「馬とともにあり」「綿々と親から同胞から伝えられてきた」生き方-----アイデンティティが消滅するという意味でもあります。つまり、ちゃんと物質的な生活の豊かな世界に行けという話は、アイデンティテェイを殺せ、消せということと同義なんです。これ近代化とともに消えていく「その土地に住むことであるアイデンティティ」や「近代的な都市生活にフィットしない慣習」をどのように考えるかという大きなテーマと結びつくと思います。僕は、2011年の傑作台湾映画『セディツク・バレ』を連想します。

なぜ、こうした首狩りなどの野蛮な行動が美しく見えるか?と問えば、それは、そこに明確な信仰と尊厳に結びついた世界観が存在するからだ。異世界ファンタジーを描くときに、そこでのセンスオブワンダーを感じられるかどうかのポイントは、その「異なる」世界の異なる宇宙観を描けるか?どうかだ。もう少し言えば宗教、信仰が描けるかどうか?。どういうことかといえば、、その社会の持つ優先順位価値の体系が、我々の文明社会と明確な差を持って描けるかどうかが一つのポイントにあると思う。

petronius.hatenablog.com

また、この文脈でアメリカのものであれば、有名な2009年のジェームスキャメロンの『アバターAvatar)」ですね。『セディツク・バレ』を、洗練化したというか、「怖さ」を抜いたような脱色した感は否めないですが、同じテーマだと僕はお考えています。この文脈で、全部見同時に連続で見ると、描き方の違いが、受ける印象の違いが面白いですよ。日本人にとっての『セディツク・バレ』と同じをアメリカ人でいうならばたぶん1990年のケビンコスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ(Dances with Wolves)』に当たるのではないかと思います。

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同様にこの文脈で、転載、沢村凛 さんの小説『ヤンのいた島』をおすすめします。沢村凛 さんは、マイナー?な感じがしますが、読む小説すべてが、とんでもない傑作です。解説もったいないので、だまされたと思って、読んでみるのを進めします。『The Rider』の文脈ではないですが、沢村凛さんなら、まずは下記がおすすめです。素晴らしいセンスオブワンダーを感じられる骨太のファンタジーです。

petronius.hatenablog.com


アメリカがアメリカンドリームで上に上ることもできるけど、いきなり最下層に容易に落ちやすい競争社会である恐怖

さて、せっかくなのでも一つの視点。

かなりの貯金をしていても、職を失ったり、病気になったら貧困層に転がり落ちるのがアメリカなのだ。

cakes.mu

僕がいつも尊敬してモニターしているアメリカ鵜っちゃーの一人である渡辺由香里さんが『ノマドランド』に寄せた記事で、最もなるほど、と思ったのは、ここ。アメリカというのは、医療保険がほぼない社会なので、いったん大きな病気をした瞬間に、「人生が積んでしまう」というのが、日本人員はどうもわかっていない。「この前提」を理解していないと、アメリカに住む人のと生活実感のスタート地点が、わからない。これは、僕は、『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』を説明するときに強く強調した部分です。

この辺りの大病してしまうと、破産して、本人も、残された家族も、地獄に落ちるのと同等の貧困層に転落してしまうリスクが、中産階級の普通の生活している人にさえ常にリスクとして隠れているアメリカの構造を実感しないと、なぜいきなりこんなにウォルターが追いつめられるのかはわからないでしょう。マイケルムーア監督のドキュメンタリー映画の『シッコ』などを補助線おすすめします。ちなみに、アメリカにの保険制度を知れば知るほど、日本やフランスの公的保険が、いかに良くできているのかと驚きます。さすがに、アメリカの医療保険をめぐる構造は、ひどすぎると思います。「これ」一点で、アメリカが成長しているから、日本を出てアメリカに移民したりすべきだ!みたいな能天気な議論は、単純には成り立たないと僕は思いますよ。これ、全然貧乏人とか貧困層の話じゃないですから。それなりの中産階級でも、即日ホームレス、破産に叩き込まれて生活できなくなるリスクが常にあるんですから。だからグローバリズムの負け組のラストベルトの中年白人男性層が、死亡率が劇的に上がって(確か先進国中へ平均寿命が下がっているのなんてここだけだったはず)、トランプさんを支持して政権が誕生しちゃうのも、この背景の切実な苦しさ、今目の前にある貧困をみないとだめなんですよ。総論としては、オバマさんや過去の民主党医療保険改革の理想はみんな認めていると思うのですが、しかし、実際は共和党との妥協の中で、医療険はオバマケアのせいでめちゃあがって、さらに生活は苦しくなっているのが実感で、本音のところでは、オバマケアのせいで生活がさらにひどくなったと、凄まじい恨みと不満を持っている層が厚くいるように僕はとても、周りの友人の話を聞いていて思います。理想は否定できなくとも、それで実際の生活がめちゃくちゃ悪くなれば、本音で人は、そんなの許容できないものだともいます。寛容さは、経済のパイの拡大があってはじめてなんだ、としみじみ思います。


ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン1-2 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督  みんな自分の居場所を守るためにがんばっているだけなのに 
『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン1-2 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督 みんな自分の居場所を守るためにがんばっているだけなのに - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

また、アメリカの「格差が激しくある社会に生きること」と「最下層に容易に落ちやすい」という社会の前提を踏まえた上で、「格差」をどう考えるか考えてほしいのです。そのラインで、テイラーシェリダンの新フロンティア三部作を見ると、アメリカ映画やドラマ-----だけでなく政治が全く違って見えてくること請け合いです。

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とりあえず、参考の記事等々をいろいろのっけておきますので、おすすめです。何かを見るときは、文脈や背景知識をリンクさせると、面白さが数十倍に膨れ上がるとペトロニウスは考えています。

■参考

ブレイキング・バッド カテゴリーの記事一覧 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

ノラネコの呑んで観るシネマ クロエ・ジャオの世界「Songs My Brothers Taught Me」と「ザ・ライダー」

ノラネコの呑んで観るシネマ ノマドランド・・・・・評価額1750円

ザ・ライダーのノラネコの呑んで観るシネマの映画レビュー・感想・評価 | Filmarks映画

ROAD TO 2024 - 米国政治を見ていくうえで背景として押さえておきたいことのまとめ-トランプ支持の7400万票の意味を問い続ける必要性(3)

さて、ペトロニウスがなんちゃってアメリカウオッチャーとして、2024年のアメリカ大統領選挙を理解するための「視点」として「定点観測すべき」視点=パースペクティヴを、文脈をまとめているのがこれで3回目です。


ちなみに、これを書いていたのは、2月なんで、もう古くなっている(時がたつのはやいー)けど、思考の履歴を残しておきたくて、掲載します。この3-4月は、シンエヴァ命で、ほかのこと考えられなかった。


基本的に、2020年の選挙は、民主党のバイデンさんがかったので、トランプ支持の7400万票の背景を考察しなければ、次は読み解けないと思っています。これはすなわち、ヒラリーさんが負けて、トランプさんが勝った2016年の選挙の問い、第二次オバマ政権の否定に戻るわけです。この問題意識の文脈が「綿々と生き残り続け、育ち続けている」ことに、このダイナミズムを解くキーがあるはずなので、それを追っていきたい。大手メディアや、グローバルエリートが、傲慢に切って捨てる部分を考察してこそ、意義があると思うので、やはりアメリカの保守について、「それは何か?」と問い続けることになると思います。


■事実かどうかは関係ないことが分かっていない~声が届かなければ、人々は踏みつけられたと感じる

“We are finally heard.”(ようやく声が届いた)

トランプ支持者と話していてよく耳にするフレーズだ。誰も耳を傾けなかった自分たちの声をようやく代弁してくれる大統領が出てきたというのだ。

「メディアは人々の声に十分耳を傾けてこなかった」

その批判が的を射たような出来事が、2016年に起きたブレグジットと、トランプ大統領を誕生させた選挙だ。世界に衝撃を与えたどちらのケースも、主要メディアは予見できなかった。原動力となった地方で暮らす人々の心情を都市に住む記者たちが理解できていなかったことが原因の1つとされている。

トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由
トランプ支持者はなぜ熱狂的に支持しているの? とにかく彼らに会い続けた記者が、これからも語り合う理由|NHK取材ノート


まずは基本に戻ってみると、上記のマイケルムーアさんの意見が、実に端的に、44代オバマ政権が否定されて、45代トランプ政権に期待したものがなんであるかを言い当てています。選挙を通しての投票の決定打、選挙が終わった後の分析を通しても、「まさにこれ」が言い当てていると思います。

いったい「何の声が届いていない」ということだったのだろうか?。マイケルムーアのトランプ勝利の予測を振り返ってみましょう。

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デトロイトで財界の会合に出席したトランプがフォードの役員たちを前に 「もしメキシコへの工場の移転を進めたら逆輸入される車には35%の関税をかけてやる。 そうすれば誰もフォードの車など買わないぞ」と脅しをかけた。 驚くべき発言だった。 これまでそんなことを言える政治家は民主党にも共和党にも一人もいなかった。 その言葉はミシガンやオハイオペンシルバニアの人々の耳には心地よい歌声のようだった。 オハイオの住民ならその意味がわかるはずだ。 トランプは人々の苦しみに訴えかけている。 そして中間層から追い落とされた人々の多くがトランプを支持している。 彼らはトランプのような震源爆弾が現れるのを待ち望んでいた。 自分たちを隅に追いやった社会に対して爆弾を投げつける時が来るのを待っていた。 11月8日の選挙の日、失業し、家を追い出され、家族にも見捨てられ、車を持っていかれ、 何年も休むことを許されず、最低の医療しか受けられず、 すべてを失った人々の手にたった一つ残ったものは、 1セントもかからないが憲法で保障された投票する権利だ。 彼らは一文無しで家もなく繰り返し踏みつけれてきた。 しかし、11月8日の投票日にはそのすべてに対する仕返しができる。 億万長者も失業者も同じ一票しか持っていない。 そして中間層から脱落者の数は億万長者よりも遥かに多い。 11月8日、すべてを失った人々が投票所に現れ、投票用紙を受け取り、投票箱の前で、 彼らの人生を破滅に追い込んだシステムの全てをひっくり返すことを約束している 候補者の名前にチェックを入れる。 それがドナルド・J・トランプだ。 トランプの勝利は史上最大の"FUCK YOU"になるだろう。

マイケル・ムーアのスピーチ
マイケル・ムーアのスピーチ - データをいろいろ見てみる

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5大湖周辺の白人のワーキングクラスの没落が、投票のキーになって、大統領選を支配しているのですから。ここが難しいのは、この人々は、実は、コアなトランプ支持者であるとかオバマ支持者ではありません。それは、この層が、熱狂的にオバマ支持をして、そのあと、トランプ支持に鞍替えしている。そして、揺れ動いたうえで、バイデンさんに投票しているのがデータからはっきり見えるからです。なので、製造業に従事する5大湖周辺の白人ワーキングクラスの最大イシューは、製造業の空洞化による失職なんです。下記のアメリカンファクトリーというドキュメンタリーも、「この文脈」でぜひとも見てほしいのです。そして、この白人ワーキングクラスは、同時に、グローバル化についていけなかった人々であるのも、わかると思います。この辺の属性は、「かさなっているように見えて」、「それぞれは別の属性」であることも意識しておかなきゃいけないと思う。

1)白人、男性

2)-a石油産業や大手製造業などの重厚長大産業の労働者(共和党支持者)
2)-b金融・ITなどの先端産業にジョブチェンジできなかった人々(民主党に切り捨てられた人々)

3)キリスト教福音派(Evangelical/エヴァンジェリカル

4)白人至上主義者(white supremacy)


まとめちゃうと、こういうプロファイルが浮かび上がってくるんだけど、重要なのは、1)-2)はコンビで、3)と4)は、必ずしもこのセグメントの過半なわけじゃない。だから、是々非々で、オバマ、トランプ、バイデンを行ったり来たりする。


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トランプ大統領を生み出したものが、どのような「構造」だったのか、最近分かりかけている気がする。まさに、ポストトゥルースの新しい情報環境が、アメリカのローカル文脈と接続して、対立や党派性を鋭く大きくしている。


・大手メディア自体が既得権益とともに、グローバル化で「生き残れる」側の党派性を持っていることに無自覚なこと


なにがトランプ現象を支えているかというと、「グローバル化の波に乗ることができる都市部のクラスター」と「グローバル化に乗り損ねて、土地や閉じられた世界に閉じ込められている郊外や田舎クラスター」と、ざっくり二つに分けるときに、大手メディア自体は、グローバル化の正義を信仰して、そこでメリットを享受する組織であるから、「苦しんでいる人々に対してひどく冷淡で切る捨てる態度が露骨である」。上記のNHKの取材がとてもアメリカの二分している世界の違いをよく表しているものなので、ぜひ読んでほしいですが、とにかく大手メディアは、「耳を傾けない」どころか「積極的に切り捨てに加担している」という風に人々は感じている。この根深い不信感が、陰謀論に加担する「そもそも事実を信じない」という姿勢に結びついている。


かなり難しくしているのは、大手のメディアが、総じて通常の意味でのリベラリズムを信奉しているので、「グローバル化に乗り損ねて、土地や閉じられた世界に閉じ込められている郊外や田舎クラスター」について、肯定的に評価することが非常に難しくなってしまいやすい。


なぜならば、これらのクラスターは、


グローバル経済に参加することができない「残された人々」なので、彼らが最後に依拠するコアは、「血と土」になる。このアメリカの場合は、ナショナリズム自国第一主義の展開して、白人至上主義、白人のみの共同体の樹立になりやすい。また、「そこ」までいかなくとも、基本的には、アメリカファースト的な「アンチグローバリズム」を旨とするので、大手メディアの支持母体と真逆になる。だから、大手メディアとしては、彼らに「耳を傾ける」ことすら、構造的に難しい。実際、「白人を優遇せよ!」とか叫ばれたら、いかに背景に深い理由があっても、まったく考慮すらできないのは、メディアからすれば、ちょっとありえない。この倫理道徳を盾にとって、自分に都合が悪いことを隠して逃げる姿勢が、大メディアへの不信を増加させる。これが、ポリティカルコレクトネスが、倫理的に正しくても、嫌悪され拒否されるトレンドを生んでいる。


つまり、


構造的要因:グローバリズムの経済にアクセスできずに取り残された人々の苦しみ

解決の手法:アメリカ人、もしくは白人の特権の復活


背景は、共感理解可能でも、その解決策がワンセットで出てくると、メディアとしては、報道に乗せることすら難しくなってしまう。


なので、グローバリズムの経済にアクセスできずに取り残された人々の苦しみについての原因と、その解決方法を、


自己責任!もしくは、長い間の白人の特権が公平になっただけなので、自分たちの過去の罪があるのだから、我慢しろ、お前が悪いんだという結論になる。


ここで重要なのは、グローバリズムが、それを背後に持つ、IT、金融、先端産業を中心とする政治家(民主党)の癒着利権構造が腐敗していないか、というと、そうではないところが難しい。グローバリズムの「やり方」において、だいぶ問題があるのは事実。また、グローバルのうまみばかりを、高所得層やグローバルエリートが吸収して、そのネガティヴなファクターを、共同体に押し付けて自己責任の視点で、打ち捨ててきたことはまた事実だと思う。「それ=バイデンら民主、共和両党の中道派」に対する不信と怒りは、AOCやバーニーサンダース(民主党最左派)でも、トランピスト(極右)でも、どちらも変わらず既得権益層への、怒りが渦巻いている。癒着利権構造が腐敗は、あきらかに、格差を見ればよくわかる。再分配が全くなされていなければ、金持ちが得をしている構造は明らかだ。


これは、オバマ政権時代から変わっていない構造です。


■ラジオが支配する保守層の世界~Rush Limbaughの死去-Rush Limbaugh Dies at 70; Turned Talk Radio Into a Right-Wing Attack Machine

では、このちょっと「血と土」的なだいぶに閉鎖的かつ差別主義的な「虐げられた人々の声」を、いったい何が、どこが吸収してきたか?を見てみよう。この「血と土」という言い方は、ナチスプロパガンダですが、『バイデン新政権の真の課題は単なる脱トランプではない』(マル激トーク・オン・ディマンド マル激トーク・オン・ディマンド (第1033回))の会田弘継(あいだ ひろつぐ)さんの回を聞いて、衝撃の受けて、気にしているキーワードだ。物凄く端折って言うと、「グローバル化に乗り切れない人々」は、どんどん移動の自由の失って、「狭い折に閉じ込められるように」自由を失っていく。経済的な成長がなければ、その恩恵に浴すことができなければ、自分たちの持った板「既得権益」を維持するため-------いいかえれば、もう最後に残った既得権益として「血」(=この場合は白人至上主義)と「土」(=アメリカファースト的な自国第一ナショナリズム)を主張するしか、「生き残るための手段」がなくなってしまっているのだ。会田さんは、これまで特別だった、アメリカの「ヨーロッパ化」という視点でこの部分を見ようとしている。これは刺激的な視点だ。

アメリカには、世界最大の富が集中し、フロンティアがあり、拡大する中産階級という成長が継続しており、「そこに住む人々」が広く移動の自由を持っていた。ああ、やっぱりここでも機能は、「フロンティア」なのかもなぁ。フロンティアがなければ、成長はないし、機会もない。「今いるところ」を掘り進むしかないので、いつか資源は枯渇する。そして、ナチスドイツへ、、、、。このあたりは、もっと、ヨーロッパ史、WW1-2あたりを勉強したいと思う。うーん課題が多くなるなぁ(笑)。


アメリカで、友人と話しているときに、MSNBCやNYT、CNNのリベラルよりは、激しくて、いったい保守や右翼はどこにいるのかな?というときに、もちろんFOXが上がるんだけど、その前に実は重要な保守の砦があるといわれた。


それは、ラジオだ。それも地方の、ローカルラジオ局。


NYTこのように言っている。

ラッシュリンボーは70歳で死去。 トークラジオを右翼攻撃機に変えた
1,500万人の支持者と、嘲笑、苦情、卑劣な言葉の分裂的なスタイルで、彼はアメリカの保守主義を再形成する力でした。

Rush Limbaugh Dies at 70; Turned Talk Radio Into a Right-Wing Attack Machine
With a following of 15 million and a divisive style of mockery, grievance and denigrating language, he was a force in reshaping American conservatism.


www.nytimes.com

これ、ラジオ局って、アメリカでは重要なんだよね。特に、これは実感する。僕は、ラジオで毎日日常的に、様々な情報を摂取するには程遠い英語力なので、なかなかできないが、それでも「通勤等に移動で車を使いまくる」というアメリカのライフスタイルからすると、このラジオってのが重要なポジションにあるのは、物凄く良くわかる。ポリティカルコレクトネスの言葉狩りが横行するアメリカ社会で、どんどん大手メディアから、保守的な視点が追放されて、様々なところに分岐して濃縮されてい浮くのですが、僕が見ている限り、大きく2点ある。


一つは、地方のローカルラジオ。もう一つは、キリスト教福音派などのメガチャーチや教会。


これが、保守の牙城になっている。ラッシュリンボー(Rush Limbaugh)は、このシンボルのような人なので、なんちゃってアメリカウオッチャーとしては、覚えておくべき人ではないかと思います。彼は、2020年2月4日連邦議会の一般教書演説の最中にドナルド・トランプ45代大統領より大統領自由勲章を授与されている。この衝撃は、凄かった。大統領自由勲章って、民間が得られる最高の栄誉で、かなり相当のいろものだと思われていた彼が受賞したのには、賛否がものすごかった。日本でいえば、高須克弥さんが、大勲位菊花大綬章受けるとかそんな感じかな。とにかく、めちゃ保守的な人なんですよ。それも、いくらなんでもそれをいっちゃあというような発言に切り込んでいく。フェミニズムや環境活動家が嫌いで、“feminazis”や "Tree hugger"などをよく叫んでいます。人口の12%ぐらいしかいない黒人なんか無視したほうがいいみたいな発言もよくします。ポリティカルコレクトネスをまるで無視の人気ラジオパーソナリティーなんです。それも絶大なシンボルという感じの。

番組が一気に保守派の間で人気を得るようになったのは、米連邦通信委員会FCC)が1987年に、「公平原則」を廃止したことがきっかけだった。1949年に制定された「公平原則」の廃止により、アメリカの放送事業者は異論のある問題について相反する意見を放送する必要がなくなった。米紙ウォール・ストリート・ジャーナルは2005年に、公平原則の廃止がきっかけで、「激怒している何百万もの保守派有権者に対して、激しく弁の立つ保守派司会者がマイクを提供するようになった」と書いている。

ラッシュ・リンボー・ショー」は1988年に全国配信されるようになり、2020年までに毎週2700万人の聴取者を獲得していたとされる。

中略

リンボー氏は番組で、新聞に載る容疑者の指名手配写真はどれも、黒人公民権運動指導者ジェシー・ジャクソン師に見えると発言したり、「奴隷制に一番、罪悪感を持たなくていい人種は白人だ。歴史上、白人が奴隷を持っていた時期は最も短いし、その数も少ない」などと発言した。

https://www.bbc.com/japanese/56107437

www.cnn.co.jp

www.foxnews.com


これ以降は、書く余裕がなかったので、メモとして。


■右翼のタッカーカールソン FOXのアンカーTucker Carlson

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bonafidr.com


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ちなみに、VOXはメディアとしては最も左なので、「その前提」で見てくださいね。いろいろ見たけど、ポジショニングが決まっていて批判したいVOXのまとめが一番わかりやすかった。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』日本映画の家族の解体と再生、日本文学の私小説、そして欧米50-60年代ハードSFの正統な後継者として(2)

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『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』庵野秀明監督 1995年から2021年の27年間をかけて描かれた日本的私小説からSFと神話までを包含する世界最高レベルの物語(1) - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために


その(2)です。4万6千字ぐらいあります。馬鹿すぎます。なんで、おれこんなにがんばっているか?それは、、、、自己満足です。満足したいんだよ、アウトプットして。さて、その(1)ですでに、ペトロニウスは、全面賛成派というか、この結末で素晴らしかったと思っていることがわかるはずです。僕は、僕が見たかったすべてを見せてくれたと思っています。

エヴァンゲリオンシリーズ全体を通しての全体像を理解するための三層構造での理解

エヴァは難解な作品です。というのは、ガジェッド、ジャーゴンというかそのディティールが豊饒なため、「そこ」に目が行ってしまって、全体で何が言いたいかのイシューを外してしまいやすい。なので、僕は理解するためには、3つの次元でのそれぞれ結論を考えると、すっきりすると思いました。ペトロニウスエヴァ理解ですね。今回すべてを見直して、解説動画見まくってて、自分なりの理解の補助線を作りました。

1)神話とSF:ハードSFの正統な後継者として~人類を超える存在を感じるセンスオブワンダー

2)庵野秀明私小説:日本映画の正統な後継者として~内面のセカイが世界につながっており、イマジナリー(虚構)のセカイの出来事は心と世界(現実)を変える。

3)物語の次元でキャラクターたちの結末~他者を他者として実感すると、すべての存在に実存が生まれていく


この3つで、それぞれ考えればいいと思っています。


1)は、ハードSF、ここでは『星を継ぐ者』『人類補完機構』『結晶世界』『月は無慈悲な女王』『エンダーのゲーム』『死者の代弁者』とかとかのSFのイメージです。諸星大二郎さんの『生物都市』とかね。

ちなみに、なんでもいい(笑)。要は、人類補完計画とは何か?とだけ考えればいい。もう少し付け足すと、ハードSFから神話につながっているイメージで、あノアの箱舟や「人類の起源は何か?」という部分につながる神話的な視点ですね。

2)は、小津安二郎監督の『東京物語』から是枝裕和監督の『海街diary』や『そして父になる』の家族の解体と、疑似・自覚的家族を通しての家族の再生のテーマとの連関

一言でいうと、シンジ(庵野秀明)が、動機が壊れてしまったのはなぜですか?(=家族が壊れていたから)、とその再生にはどうすればいいですか?(家族の再生を通しての実存の回復)

3)は、既にその1で書きましたね。出てきたキャラクターのその後が見たかった。これは普通の物語欲だと思います。

アニメーションとして、物語として、ハッピーエンドにしてほしいよ、どう考えても、これだけキャラクターに感情移入させられたら(笑)。1)と特に2)を描くたために現代アート的に、徹底的に視聴者の実存を攻撃したり、物語を破壊したりしているけれども、それだけ破壊してバラバラになったものをどう回復するかが物語のエンドでありテーマになるべきは、やはり物語ることはじめた人には、課せられる使命だと思う。


この3つの次元でどのように決着をつけたのかで、考えてみたいと思います。初見の感情的感想は、その(1)で書いたので、こちらはもう少し分析批評的に。


1)神話とSF:ハードSFの正統な後継者として~人類を超える存在を感じるセンスオブワンダー


■面白いものはすべてこめた原点に戻ってみよう~『トップをねらえ!』と『ふしぎの海のナディア』を見直したとき

今回すべてのエヴァシリーズを見直して思ったのは、庵野さんが面白いというものはすべて込められているんだ、と思ったことでした。僕が最も連想したのは、『トップをねらえ!』と『ふしぎの海のナディア』でした。『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』は、SF作品として、これほど素晴らしいものはないと思っています。SFのセンスオブワンダーというのは、僕にとってハインラインジェイムズ・P・ホーガンの『星を継ぐもの』(Inherit the Stars)、『ガニメデの優しい巨人』、『巨人たちの星』、『内なる宇宙』などなどの作品です。端的に、何をSFのセンスオブワンダーというかでいえば、やはり大きな柱は、


人類がどこから来たのか?そしてどこへ向かうのか?


について、物語っている作品です。聖書の旧約聖書(ノアの箱舟)ですね。もしくは、ミッシングリングについて、ものを考えるときです。もっと具体的に言うと、SFのテーマでは、人類よりもより高度な高次元の存在が、この広い宇宙のどこかにいると考える物語群です。ハードSFのテーマ群の中では、神話に足を踏み入れている部分ですね。いまだ神話といっていいのか、ハードSFといっていいのか、悩みどころですが、今はグラデーションという理解でいいのではないかと思っています。ここ部分が、庵野監督が面白と思っているところなんだなと思うのです。だって毎回テーマになるんだもん。


ナディアのノアの箱舟のシーンは、今でも胸に強く印象づけられています。とはいえ、ある意味、当時のガイナックスの軽いノリと80年代のサブカルチャー的には、何ら奥深さのないただの記号としてのムー大陸とかアトランティスの記号だったんだろうと思うんですよ。でも、ちゃんとした尺のある物語で、アニメーションで、言い換えれば映像で、「人類の起源」について見るのは初めてでした。1990-91年の放送でしたよね。多分、高校1年生ぐらいだったと思います。あの時の衝撃は、今でも忘れられないです。ノアの箱舟とかの神話のイメージと、ハードSFのイメージ(当時は全然つながりあるという認識なかったところで)が、いきなりビジュアルと物語でガツンと接続させられて、うぉぉぉぉぉぉと思ったのを覚えています。これが忘れられなくて、これらの作品は、教養として子供たちにも、小さいころから見せています。


そして、『トップをねらえ!』(1988-89)は、小学6年生ぐらいだったと思います。最初は、ノリコのおっぱいがあまりに柔らかそうに揺れるのに目が釘づけでした。あの衝撃は、今でも忘れられない。観始めたときは、ただのパロディギャグナンセンスアニメだとばっかり思っていました。ここで初めて、ウラシマ効果エーテル宇宙などのSFの概念を知りましたし、なによりも人類の「凄さ」を感じたのは、この映像を通してでした。いや、いいすぎじゃない。というのは人類の持つ建設建造能力の凄さってのを、そのスケールを、こんなにも身近に感じるものはいまだありません。最終回のブラックホール爆弾のスケール、そこに至るまでの軌道ロープウェイ。オーストラリア大陸を眺める起動エレベータの俯瞰ショット。あの時の衝撃は、今でも夢に見るほどです。僕は工場とか大きな橋とか、人類が作った建築物を見るのが好きなのですが、それは、この時のSFのセンスオブワンダー・・・・人類が神に挑戦する技として、科学技術がもたらす凄さを実感したからでした。木星を使ってブラックホール爆弾を作るとか、まじかよ!の連続でした。30年近くたって、息子とみても、二人でまじかよ!の連続です。子供たちと、ナディア見ても、もしかしたら人類は、もっと高次元の人類がいて、それらが創ったサルに過ぎないのではないか?とか、思って、興奮してみていました。これだよ、これ!このセンスオブワンダー!。宮崎駿の『未来少年コナン』にもこれらがあふれていました。ああ、日本人の僕らはなんて幸せなんでしょう。こんなイメージの凄さを、子供時代からエンターテイメントで心に植え付けることができるなんて!。


「これら!」が見たいんですよ、いつでも。


そして、これらのムー大陸とかアトランティスの謎とかノアの箱舟とかが、人類の大ベストセラーであり何千年も残る「物語類型」なわけじゃないですか。これをSF的な、近代的な視点で武装して見たいんですよ!。そして『トップをねらえ!』『ふしぎの海のナディア』は、それを余すところなく見せてくれる作品でした。ここで、僕は庵野秀明という名前を覚えたんです。凄い人がいる、と。だって、こんなヴィジュアルイメージ、ハリウッドのすげぇ大作でも見たことなかったですよ。アニメーションだからこそ作れる「心の中にある映像」をそのまま再現することができるからこそだろうと思います。このころのカットの美しさ、映像の凄みは、スーパー天才アニメーター庵野秀明が、自分の能力をフルに注ぎ込んでいるだけに、凄かったです。(その後エヴァの新劇場版はある意味、組織を使うというレベルに移行したため、映像のキレという意味では、少し落ち着いた気がします。その代わりに実存性が増すんですけどね)。


そして、そのどちらの「終わり方」が、僕には見事だと思っていました。


SF作品というのは、特にハードになればなるほど、設定自体が語りたくて、「物語の次元=キャラクターの物語、人生、ドラマが全うされる」のが消化不良になるものが多いんです。たとえば、世紀の傑作である『幼年期の終わり』。これは、旧人類を滅ぼして、新人類の時代になる話です。ここで語りたいのは、「人類が、万物の霊長の座から降りるというマクロの絶滅の物語」であって、ジャン・ロドリックスはどうなるの?とか、オーバーロードって結局どんな人なの?とか、『星を継ぐもの』のヴィクター・ハント博士の内面の話とかにはならないじゃないですか。キャラクターたちの人生のドラマの話じゃないからなんですよね。でも「この背景」を使って、庵野監督は、タカヤ・ノリコとお姉さまの、ナディア・ラ・アルウォールの、ジャン・ロック・ラルティーグの、ネモ船長やエレクトラさんの物語をものがってくれるじゃないですか。素晴らしかったです。


オカエリナサイ



コリーナさんが流れ星に向かって「早くサンソンやみんなが帰ってきて、これからはもうこんな思いはしないですむように」お願いして、、、、そして、その後が、マリーによって語られるじゃないですか。



あの、圧倒的な「物語が終わった!」感覚。



終わった後、数日は、魂が抜け殻になるような、「一つの大きな人生」を体験した感覚。物語が終わってしまったという圧倒的な喪失感。



あれが、キャラクターのドラマが全うされているという感じです。シンエヴァでも、これと同じ感覚が訪れました。庵野監督が、描きたいものは、ずっと変わっていないんだと物凄くうれしくなりました。そうだよ、こういうのが見たかったんだ、と。小難しい分析なんかどうでもいいんです。この膨大なキャラクターたちの圧倒的な実存感覚と、世界が描かれる感じ。この世界が描かれている感じ・・・・は、実は、私小説の内面世界とは、まったく相反します。この相反するものが接続している物語を描けているところが、素晴らしいのです。


人類補完計画とは何か?~旧人類を抹殺して新人類へ進化するプロセスの人類の終末と再生を描く

欧米の古典SFや旧約聖書ノアの方舟の話に戻るのですが、庵野さんの描きたかったのは、この「世界の終末と再生」なんじゃないかと思うんですよね。なぜかって、過去に何度も描いているし、そもそももっとも面白いテーマだと思うんですよ。絶対、庵野さんの本質は、私小説よりこっちだと僕は思うんですよ。とにかくイギリスのSF作家、アーサー・C・クラーク幼年期の終り(Childhood's End)』とかJ・G・バラードの『結晶世界(The Crystal World)』(1966年) をぜひとも読んでほしいのですが、あの感じです。えっと、最近だと、アレックス・ガーランド監督の『アナイアレイション 全滅領域』とか遠藤浩輝さん『EDEN 〜It's an Endless World!〜』とか村田和也監督の『翠星のガルガンティア』とかもこのラインです。ちなみに、背景のテーマが分からないと、バラードとかガーランド監督の話とか、さっぱりわかりません(笑)。いきなり人間が、石になります、、、石になる過程を描写されるだけだったりするわけなので(笑)。これは、諸星大二郎さんの『生物都市』もそうですが、旧人類が絶滅して別のものに変質していくその喪失感がテーマであり、人間がヒューマニズムにあるような万物の霊長ではないのではないか?という懐疑がその背後にある大きなテーマなんだと思うんです。大学受験の現代文とかで、よく出てくる話題ですよ、ヒューマニズム批判とか近代理性批判ってやつです。それを、物語にすると、こういう感じだとおもうんですよね。人類は万物の霊長とか言っておごっているけど、ミッシングリンクとかその起源は、いまいちまだわからんのですよ。もしかしたら、人間を「創った」より上位の存在がいてもおかしくはないのではないか・・・・?、みたいな感じ。この物語類型を前提として、人類を「別の存在に作り変えてしまおう」というゼーレの意志は、人類の究極の夢の一つで、もし、人間が他の存在に作られたモルモットや猿のような存在かもしれないという「人間存在に対する恐怖と疑念」が前提にないと、なんで、こんなことをしようとするかが、さっぱりわかりません(笑)。EoE(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君にThe End of Evangelion)においては、ゼーレは、ガチのカルト集団になってしまいますが、ゼーレという組織が持っている意思は、なんというかSF的には、とてもなじみ深い発想なんですけどね。ここにこれ以上の理由はありません(笑)。


そして、ゼーレのじいさんどもは、もう人類を「より高次元に進化させる」ということに決断を下して実行してしまっているんですよね。


まず、この前提が、ほとんど説明されることもなく大前提として、進んでいるのがエヴァンゲリオンのセカイなんだ!とわかっていないと、????っなってしまいます。まずこれ大事。「そういうものだ!」と思って考えないといけない(笑)。このラインの読みでいうと、実は、エヴァンゲリオンのシリーズは、旧劇場版で完結しています。あれは人類が次の存在になり切れていない失敗だったかもしれませんが、50-60年代SFの黄金期の持っていた人類の文物の霊長ではないんじゃないかという疑念と懐疑を描く物語類型としては、完璧だと思うんです。しかも、次の存在になり切れずに、シンジがアスカに「気持ち悪い」といわれるとか、最高のセンスオブワンダー。「他者が心にいない地獄」というものを、具体的なヴィジュアルとキャラクターの物語で、恐ろしく感情移入させてくれました。巨大な綾波の首がちぎれて、その血が月にびしゃってかかるシーンとか、もう凄すぎます。今見ても、物凄い。天才アニメーター庵野秀明の「見ている世界」を、そのまま再現できるアニメという媒体だからこそ行きつける極地。


いま、シンエヴァにおける「キャラクターたちの物語の終わり」を見て満足して納得している自分からすると、この当時の旧劇場版の、完成度の高さ、素晴らしさが分かります。


キャラクターたちのドラマトゥルギーを期待してみていたから、物凄い攻撃に感じてしまったのだけれども、上記の類型のラインで考えると、完璧です。よく諸星大二郎の『生物都市』が出るんですが、このテーマを鑑みれば、人間が、人類が、異なる存在へメタモルフェーゼというか変異していく怖さが描けたら、それに尽きるんですよ。巨大な綾波や、様々な意匠は、この物語を見事に完成させていると思います。また、人間の内面に入っていき、自己愛の汚らしさをこれでもかとえぐり、というのも見事です。


もう『結晶世界』が、まんまなんですが、これらのSFの脚本構造を分解すると、


A)マクロ:人類が滅びていく寂寥感



B)ミクロ:登場人物(主人公)の内面が壊れていく


この二つが重なることによって、成り立っています。このシンクロがうまくいくと、破壊的な物語のドラマトゥルギーになります。このラインで考えると、旧劇場版の


A)旧人類が絶滅していく=インパクトの失敗で新人類になり切れない失敗(巨大な綾波とか)

B)シンジが自分のナルシシズムから抜け出せないで孤独で壊れていく(シンジの鬱の迷走)


という脚本の構造は完璧です。アスカで自慰をして最低だと呟くシーンとか、もういたたまれなさと、シンジの立ち直れなさ、動機が壊れてしまって、どこにも行けなくなっている閉塞感が最高でした。が、それは同時に、多感なティーンエイジャーだった我々リアルタイム世代には、直撃する恐怖は、それはそれは凄いものでした。これが、1980年代のバブル期のユーフォリア (Euforia)な感覚にとどめを刺すような、凄まじいインパクトをもたらしましたね。いまでも、テレビシリーズの終わりの「おめでとう」や旧劇場版の「気持ち悪い」は、胸に残って、人格形成上忘れられないオリジナルな原体験の記憶として胸に刺さっています。この世代の巨大な原体験として、日本の歴史に残るものでしょう。このミクロのシンクロ、感情移入と、旧人類が滅びるという黄昏のマクロ背景が重なったからこその、傑作の物語でした。


だからエヴァンゲリオンシリーズの大枠の脚本構造は、テレビシリーズで完成しています。あれで、すべてなんですよ。前に書きましたが、全体の構成上、ヤシマ作戦と男の戦いの二度のピーク(盛り上がり)が来て、その極大の盛り上がの感極まった頂点から25-26話の精神崩壊ですべてが叩き落されるウルトラ鬱展開。旧劇場版は、この25-26話のリライトになるので、これがさらに厳しくなっている。だから新劇場版で作り直されるときに、どういう構造をとるかと言ったら、同じなんです。なので、Qで叩き落されなければならない。問題は、「その次」、ここからどう抜け出すか?になるわけです。なので、序、破、Q、シンの4つに分解されるのは、今振り返ると、非常に論理的です。横道にそれますが、このSFのテーマ設定は、非常に普遍的だと思うのです。特に、マクロ(人類の滅亡)とミクロ(=キャラクターが人類の代表として祭壇で問いに答える)という構造は、2020年に最終回を迎えたばかりのアメリカのドラマシリーズ『ハンドレット』でも、まったく同じ構成でした。これは陳腐といいたいのではなく、考え抜くと「普遍」に到達するのだと思うのです。

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■創造と破壊が同時に繋がってる感覚はSFの重要なモチーフにして神話に至る究極の物語構造

SFのスキームを超えて、神話の構造になっていますが、廃墟(終末後の世界)を描くことと日常の再生を同列、並列に描くことで見せるマクロのレベルの映像は本当に美しい。えっと、何を言っているかというと、僕の感覚ではですね、ヴンダーってノアの箱舟なんですよね。ちなみに正式名称は、「AAAヴンダー」であり、AAAは“Autonomous Assault Ark”(自律攻撃型方舟)の略ですね。まんまです。えっとえっと、僕がSFのセンスオブワンダーを感じるものは、最終決戦のBからCパートの部分、ヴンダーが地球に降下するときに、「種を保存したエントリープラグ型の傘?のようなもの」を射出しますよね。僕は、タンポポのシーンと呼んでいます。あのシーンが、目がクラッくらして、もう眩暈するほど感動したんですよね。「戦うだけじゃないんだ!!!」って。シンジの意志によってエヴァがない世界に作り変えた、というのは、僕は宇部新川駅だとは思っていません。僕は「ニアサードインパクトで滅びかかっている人類世界」という今のセカイは続くのではないかと思うんですよね。これは後で詳しく話します。なぜならば、ヴィレ、クレディツトや第三村の組織のあり方、また人類の種を保存し、再繁茂させるプロジェクトといい、人類復興の手が、見事に打たれている。このセカイは、もう一度発展して新たなる世界になっていくことを、僕はまざまざと感じるんです。


これはもう、神話ですよね。人類の滅びと再生の。


人類が復興した数百年、数千年後には、この出来事は、聖書のような神話、宗教として語り継がれていくに違いありません。僕は旧約聖書ノアの箱舟などの、共同体が滅びて再生するというテーマは、「人類がどこから来て、どこへ向かうのか?」という人が最も知りたい世界、宇宙観にこたえてくれるセンスオブワンダーだと思います。これをヴィジュアルで見せてくれるときに、その(1)で話した、日常と非日常の入れ替えを人は感じるようになり、それがすなわち、


この世界の実相への敏感さ。


になると思っています。まぁ宗教学でいう聖書におけるハルマゲドンの機能の解釈です。SFや神話の重要な効果で、この「感覚」が感じられるかどうかが、世紀の傑作と呼べる作品かどうかの分水嶺になると思うのです。そして、みなさんは、この壮大なヴィジュアルを見て、それを感じられましたか?。僕は、ドッカンドッカン感じましたよ。トップをねらえでの軌道エレベータ、軌道ロープウェイで宇宙に出るとき、最終話の白黒のシーン(岡本喜八監督の沖縄決戦ですね!)、ナディアの種の保存の宇宙船、クジラとの邂逅のシーン、思い出しただけで、初めて見たときのセンスオブワンダーの胸の高鳴りが止まりません。


庵野秀明監督が「面白いものはすべてぶち込んだ」みたいな趣旨の話をしているのですが、この人のSFマインドが、ほんとすげぇ!!!!!!と思うのは、このエヴァという作品が、


庵野秀明私小説という内面を追い続ける閉じた世界(ミクロ)

壮大なハードSFと神話体系をも縦断する人類スケールのでかさ(マクロ)


が、同時にあるんだよっ!!!!ってところなんですよ。これが、相互にリンクしていったり来たりしている。そして、それが、何がすごいかっいうと、アニメーションという「ヴィジュアルで見せてもらえる」というのと、文学作品にありがちな抽象的なものに飛躍しないでアニメーション映画というキャラクターの次元で語られ続けていくことです。もう、凄いよ、としか言いようがありません。


■KREDIT(クレデイット)独立運営承認とは、すなわち各国主権の独立宣言~ネルフを倒すだけじゃない。ちゃんと人類再生の手は別に打たれている

それと、人類が社会を構成するための「組織間の連携」が、かっこいい!と、その(1)で書いたんですが、Bパートのヴンダーが出航するするシーンで、KREDIT(クレデイット)という支援組織がりますよね。ミサトがヴィレの最高指揮官として、ヴィレの指揮コントロール下にあったそれらの組織の指揮権を放棄する?みたいな書類にサインをしていますよね。


これも胸が熱くなった。というのは、これ、ヴィレという攻撃を主体とする軍事組織によって、すべての民生が、軍政下にコントロールされていたことを示しています。要は軍事政権なんですね。ヴィレって。でも、ちゃんと攻撃主体の軍事組織と「民生部門」を切り離して、独自の指揮権を与える格好になっています。たぶん、生き残っているコロニー群は、世界中にいくつもあるのでしょうが、当然のことながら、それぞれの国籍や政権は違うのだろうと思います。たとえば、日本の第三村と、中国の生き残りの村と、アメリカの村は、どういう権力構造になっているのでしょうか?。たぶん、対NERVの最高軍事組織であるAAAヴンダーは、実力組織なので、すべての権力を握っていることでしょう。対NERV、人類補完計画の切り札、実行部隊として、数々の強制的なロジスティクス徴収を行ってきたのではないかと思います。そうでないと、あんな組織を保てないと思うんですよ。ようは、日本人の葛城ミサト大佐という実行部隊の長に軍事力がすべて握られているわけです。これを中国やアメリカが黙っていると思います?。もちろん、そんなこと言っている場合ではないと言って、軍事政権で掌握しているのでしょうが、そこには、もともと国際連合の反NERV組織が母体ですから、憲法国連憲章が生きているのではないかと思ったんです。各国、各共同体の主権を、尊重して、最終出撃時は、すべての指揮権を放棄するというような。


また、こうなると、なぜKREDIT(クレデイット)が、ヴィレと別組織になっているかもわかります。民生部門なんですが、『未来少年コナン』のハイハーバーをもとに考えれば人類が再発展するための最重要課題は、交易です。この汚染された台地間、長大な距離を、移動できるだけの科学技術や乗り物は、容易に軍事転嫁できますし、それを支配したものが、次の人類の王です。この「万人の万人に対する闘争=北斗の拳状態」を避けるために、交易を担う、、、、、それだけではなく、環境の浄化を担う「国際的公共を担う民生部門」を、独立した組織にしているのだろうと思います。これが、未来の人類唯一の軍事組織、警察組織、科学インフラの担い手になって各国は、復興に専念するんだろうと思うんです。・・・・みたいなことが、透けて見えたので、興奮しました(笑)。このミサトさんのサインは、人類復興のための憲法国連憲章みたいなものだと思うんですよね。確実に、そのベースは、旧国連からひきつでいるのではないかと思います。その名称が、「クレディツト=信頼」とされているところが、熱い。エモい。軍事力やインフラなどの公共のコモンズが抽出できないのは、フリーライダーを生むからです。それを避けるには、、、信頼しかないんですよ。僕はこの組織を、機動戦士ガンダム鉄血のオルフェンズで描かれたセブンスターズが創設した治安維持組織ギャラルホルンを連想しています。もしくは『沈黙の艦隊』の超国家軍隊ですね。この話も、かなり細かくしたので、知りたい人は、下記の配信をどうぞ。

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僕がこのセカイも、並行世界として続くのではないか?と思うのは、「最終回タイトルは古典SFから引用」で、ジェイムズ・P・ホーガンの『未来からのホットライン(THRICE UPON A TIME)』が使用されていて、パラレルワールドではない世界を、過去や未来に起きたことを否定しない方法で物語を描こうとした作品だからです。


■人類の進化による旧人類の切り捨てという50年代SF大家たちの後継者として~どこまでも日本的でありながら、世界へつながる壮大なマクロとミクロの物語

思いついた端からあまり構成考えないで書いているので、わかりにくいですが、(1)神話とSF:ハードSFの正統な後継者として、でいいたいことのまとめです。

庵野秀明さんという人のこのタイトルの選び方や、様々な作品の作り方から、オタクとしては古い世代(僕は第一世代と呼んでいますが…)で、時系列のアーカイブ意識がある人だと思っています。えっとこれは、小室哲哉さんがミスチル桜井和寿さんを評していったいて何かの記事で読んでなるほどと思ったのですが、小室哲哉さん(第一世代)がミスチル桜井和寿さん(第二世代以降?)で大きな「音楽の創造の仕方」が違っていて、第一世代の自分は、音楽自身の歴史意識を時系列で持っていると分析していて、桜井さんの音楽を見ると、そうした古い世代が持っていた「音楽がどのような仕方で発展してきたのかの歴史の時系列の順番が記憶にない」ので、「アーカイブとしてひとまとまりで認識していて、時系列意識がなく、その時々にフィーリングでよいものを組み合わせる(=歴史や時系列の意識がない)」といっていました。えっとどういうことかというと、音楽を創造するときに、小室哲哉さんは、「音楽がどうやって発展してきたかの歴史的知識の蓄積の記憶がある」ので、たとえば(僕の勝手な意訳です)、クラシックの非常に硬い仕組みから、それに反抗してジャズのインプロビゼーション(楽譜にとらわれない演奏方法)ができたとか(てきとう)、もしくは、白人音楽がアメリカに来て、黒人音楽とぶつかることで、カントリー、ジャズ、ブルース、ヒップホップなどに展開してきたその歴史的な「文脈の意味」を知っている。もっというと、たとえば、音楽がもっと多様な音源を探して民族音楽に音源を求めていったりなどの、「時系列の発展」からインスピレーションを得て創作をする。要は、過去の「順番の記憶」という文脈を踏まえて、想像するんですね。音楽を聴くときにも、「この時系列の文脈」を前提に解釈をする。しかし、既にそういった膨大な音楽のアーカイブの蓄積を「前提として生まれている新世代」は、アーカイブの中から、意味や歴史などの文脈を無視して、最適な組み合わせなどを創造しようとする、というようなことです。


アニメーション作家でいうと、宮崎駿さんが、まごうことなき第一世代という認識です。高畑勲さんとかもまさに。彼らの歩みは、そのままアニメの歴史的展開の本筋を追えます。オリジナル至上主義的なものです。が、それ以降の世代になると、そうした歴史文脈は無視して、様々な記号を文脈無視して感性で組み合わせるようになります。ガイナックスのころの作品を思い越していただければいいのですが、要はパロディが主軸になっていくことになります。それはオリジナルの文脈が枯渇することと、あまりに蓄積されたデータが多すぎるので、「それをまとめ切る努力を放棄して断片の組み合わせになる」という時代的な傾向をさしてのものでした。ややこしいこと言っていますが、なんとなくわかりますよね?。昔の作家には、オリジナル性があったけど、最近の作家は「どこかで見たことある記号を組み合わせてばかりいる」ような言説です。が、庵野秀明という人は、不思議な人で、、、というか、これが2020年代に行きついたクリエイターの到達点なのかもしれないのですが、歴史的文脈の時系列の意味をよく知り抜いており、にもかかわらず、パロディ的に様々な「過去の作品の記号を組み合わせる」という創作をする、要は、古い世代の特質と新しい世代の特質を、極限まで推し進めている人なんです。シンのシリーズのシンゴジラやシンウルトラマンとかを考えればよくわかると思います。


それはパロディあであり過去のオリジナルの利用


であるにもかかわらず、


換骨奪胎、温故知新して、「その本質のオリジナル性」を新しく叩き直すのです



その意味で、僕は、SFの黄金時代だったアシモフハインライン、ホーガンらの正統な後継者に思えるのです。だって、「彼らが思い描いていたヴィジョンを今の僕たちの分かる記号と文脈で再現しつくして、その先を見せてくれているわけ」じゃないですか!!!。僕らは幸せですよ、こんな凄いものを見れて。しかも、この世界に通じる巨大なテーマに、僕らは日本的私小説の視点という極めてローカルかつ、「僕らが感情移入しやすい」文脈で、これを体験できるんです。なぜって、庵野秀明さんが、日本語で考える日本のクリエイターだからです。こんな、幸せでラッキーなことはないと思います。こんな幸せはないぜ!!!!、日本に生まれてよかった!。ちなみに、ここで重要なのは、パロディなど記号を使用する流用は、表面だけで「本質の文脈」が失われるのが当たり前だと思われていたことです。80-90年代ずっと、そう僕は思っていました。記号で戯れる感じ、わかる人には一発でわかると思います。中身がないもの。記号の戯れは、ポストモダンニューアカデミズム(笑)とか、80年代のボードリヤール『消費社会の神話と構造』の言説などを思い出せば、覚えている人はよく覚えていると思います。でも、そうじゃなかったんですよね。あれは、バブル期の一時のあだ花。ちゃんと骨太の物語が戻ってきて、なおかつ、過去のオリジナルの記号がアーカイブ、遺産、土台として豊かさを増すという、素晴らしい時代に僕らは生きています。『シンゴジラ』を見れば、わかりますよね。できるんですよ、ああいうものが。




2)庵野秀明私小説:日本映画の正統な後継者として~内面のセカイが世界につながっており、イマジナリー(虚構)のセカイの出来事は心と世界(現実)を変える。


そして、もう一つのレイヤーである私小説として読みを考えてみましょう。


■ゲンドウ(父)とシンジ(息子)の対比構造から、父もまた「別の他者」であることに気づき

さて、本題のDパート。物語的には、SFのテーマである人類補完計画旧人類を抹殺して新人類を作ることは、既にほぼ終わっています。なので、ゼーレとしては、もうことは終わった感(笑)が強いのだと思います。だとすると、ゲンドウがいったい何をしたかったのか?、するのか?が、言い換えれば、私小説的な部分での問題解決が、最後の最後のカギになります。このあたりの考察(=言動が具体的に何をしたかったか)は、まだ自分的には、分解がうまくできていないのですが、ドラマトゥルギーの本質は、ただ一つで、それは明らかな納得が僕にはあります。


あの有名な電車のシーン。25-26話のシンジの内面を描写し、彼の動機が心が壊れていることを見せつけるシーン。


ああ、まさか、それがそのままゲンドウで行われるとは。もう内容なんて、どうでもいいんですよ(笑)。これがシンジの孤独との対比になっているだけで、すべてはオーケーなんです。いいかえれば、「人は孤独を抱えて生きていて分かり合えない」という命題を、シンジ(息子)も、ゲンドウ(父親)も、、、、いいかえれば、自分だけではなく、自分の親であっても同じなんだと喝破していることになるからです。これが具体的に見えることがすなわち


「父親もまた別の人間であり対等な存在なのだ」


ということを、実感することになるからです。なので、何をいっているとかとかそんなことどうでもいいんですよ。シンジという主体が「親も別の主体」だということは、それを「それを眺める視点」がある時点で、完成だからです。ここでは、ゲンドウの孤独が語られます。そして、ゲンドウが、唯一救いだったのが、ユイという自分の愛する女性だったことが語られます。まぁぶっちゃけ、僕的には内容はどうでもよかった。ここで、父親もまた自分と同じように、不遇感、孤独感を感じている「別の人間なんだ」ということが、わかればそれでいいからです。そして、「それ」は、すでにゲンドウの「内面」を主語に語るという時点で、達成されちゃうんです。ユイさんやべぇよ、という話は下で別に解説。この辺は「見ればわかる」レベルなんで、解釈というよりは、事実ですよね。


■『式日』で母を問い、シンエヴァンゲリオンで父を問う~誰が悪かったのかという不毛な問い

さて、私小説という言葉にどういう意味を持たせて語っているのかといえば、それはアダルトチルドレンのことを指しています。それがを何かといえば、哲学でいえば、唯我論に閉じ込められた状態。竹田青嗣さんの『「自分」を生きるための思想入門――人生は欲望ゲームの舞台である』だったと思うのですが、村上春樹の『ノルウェイの森』の評を思い出します。

”「ノルウェイの森」のひそかに埋めこまれたひとつの疑問とは、おそらくつぎのようなものだ。現在、わたしたちが非日常的な超越項によって現実を超えようとする情熱に固執すれば、「世界」はプラトニックな幻想空間へと変容し、いわば出口のない迷宮としてわたしたちに現れる。しかし一方で、「世界のなりたち」から目をそらして自分の現実だけを生きようとする」ならば、埋め尽くすことのな出来ない「深い井戸」のような喪失観を内部に抱え込むことになる。・・・(中略)・・・おそらくこのアポリアは、現代人における社会と個人との倫理的な関係意識の核心的な問題点をよく象徴している。そして、この難問を生きようとする作家のモチーフが「ノルウェイの森」に独特の内閉観を与えており、また同時に、この内閉観に時代的なリアリティを与えているのである」

これは、ネットで今適当に検索して出てきたやつなので(笑)、ぜひとも竹田さんの文章を読んでほしいのですが、ノルウェイの森の主人公が「どこでもない場所にいる」と感じるシーンの分析をよく表していると思います。けれども、僕は村上春樹に特異なというよりは、これは日本の私小説一般に内在している論理なのではないか、と考えています。ちなみに、上の文章は、超、、、なんというか衒学的、高踏的な部分を抜き出していてかっこいいのですが、竹田さんの上記の本は、もっとわかりやすかったです(笑)。これを細かく分解して解説してもいいのですが、ようはね、、、、どうも「よくわからない」、深い深い喪失感、孤独感に「閉じ込められている」と感じる感性があるという話をしています。それで十分だと思います。要は、個人はさびしさを抱えて生きるのがデフォルトなんだってこと。この寂しさは、共同体が壊れて、むき出しの個人が都市で生きるので感じるものですね。いいかえれば、家族(=共同体)が崩壊して、個人になった時、人は孤独とどう向き合えばいいのかってこと。


でもこれは、どこからくるの?。なんで、そんなに人は孤独なの?。


という問いは、夏目漱石個人主義からはじまって、日本の文学で連綿と問われるのですが、「その孤独を直視する」と、どうも「迷宮に閉じ込められる」ような感覚に人は陥るみたいなんですね。この、「わけのわからない閉じ込められた感覚」を言うのは私小説の特徴ですが、それを具象化すると村上春樹の『羊をめぐる冒険』とか、田山花袋の『蒲団』とか安部公房の『箱男』みたいな感じになります。特に『箱男』とか読んでみてくださいよ!、まじで意味不明ですから。でも、これが「孤独に閉じ込められた心象風景の内部世界」を描写しているんだと位置づけると、物凄くすっきり理解できます。「そこ」に逃げ込みたいのだけれども、本当は出ていきたいという動機が隠れているという二律背反の前提も含めて解釈すると、物凄くすっきりします。これは、僕の愛する評論家中島梓栗本薫)さんの受け売りなので、気になる人は、彼女の評論家デヴュー策にして傑作の『文学の輪郭』をお勧めします。めちゃくちゃ具体的に細かく説明してあるので。知的スリラーなスリリングな評論ですよ!。


話がずれました。この感覚を、僕はアダルトチルドレンとか「ナルシシズムの檻」と呼んでいます。「出口に抜け出ることができない、閉じ込められた孤独な感覚」。


この感覚に対して、日本文学は様々なアプローチをしてきましたが、僕は、日本の映画やアニメーションは、この問いに対して、一貫して「家族の解体」というテーマからアプローチしてきたとみています。この話も長くなりすぎるので細かく解説しすぎませんが、なぜならば、ほとんどすべてのアダルトチルレンの不遇感の最終的な「ではなぜ、そんな自分になったのか?」という原因の追及は、


親が悪い!=家族が壊れている


という帰結に到達するからです。もちろん、これは、疑うべくもない、シンプルな真実であって、そりゃそうだとしかなりません(苦笑)。自分が自分であることを形作るのは、子供時代の関係性だからです。なので、小津安二郎監督の『東京物語』からはじまって、僕は、よく山本直樹さんの『ありがとう』や幾原邦彦監督『輪るピングドラム』をあげますが、家族が壊れているがゆえに、自分が傷ついて、ボロボロになって、アダルトチルドレンになったという話になるわけです。いろいろな物語のパターンはありますが、ここで言いたいことを抽象的に言えば、家族が壊れていて、親から適切な「愛」を受けれなかったので、アダルトチルドレンな「自分(=何ものでもない僕ら)」になったという原因意識です。ちなみに、庵野秀明さんは、とてもこのラインに沿って、「壊れている自己の回復」を模索する私小説の全領域を、丁寧に踏破していると思います。過去に『式日』について書いた記事を引用します。

アダルトチルドレンから意志的たろうとする大人への道〜実存の回復の物語

いまに至るまで庵野監督は実写で『式日』(岩井俊二監督が俳優として主人公!)や村上龍の小説を実写化した『ラブ&ポップ』または『キューティーハニー』を撮っており、アニメでは津田雅美さんの『彼氏彼女の事情』 を作っている。これを時系列ですべて追っている人からすると、実存回復・・・・逃げることではなく、責任を引き受けて自ら物語の主人公たろう!(それは世界に対して受け身でもある)ということを模索していく過程がありありとわかりました。

中略

1)病んだ少女(ラブ&ポップ)~これ宮台真司さんの援助交際の話とシンクロしますよね。


2)それは実は自分の内面の病みなんだ!&それは親のせい!(式日


3)しかし、親からの連鎖を断ち切ろうぜ!そして美しい日常へ!(カレカノ


4)つーか、そんな無駄なこと悩んでないで、突っ走ろうぜ!(キューティーハニー


というような流れ(笑)で、1)-3)を描いてしまっている(=積み上げている)が故に、軽やかに4)以降を庵野監督は描くのがしんどかったというかうまくできなかったのだと思うのだ。そもそも生真面目な人は、内面なしでダイレクトに世界を楽しむ人を描くことも理解することもできないと僕は思う。なぜならば、考えないで感じる人!(byブルースリー)だから、そういう人は。


https://petronius.hatenablog.com/entry/20090710/p2
2009年7月


安野モヨコという特異点~なぜマリだったのか?

この辺の履歴は、そのまんまだよなと思います。ちなみに、この「抜け出ることのできないアダルトチルドレンの心の闇」からの「脱出の方法」に、キューティーハニーのような女性をもってきているところに、ブレイクスルーのキーは、「そんな悩みを持たない女性に出会うこと」という道筋があって、このあたりは、シンジの最初の相手が、惣流・アスカ・ラングレー(承認欲求の話が出るまでの彼女は、まさにシンジを変えてくれそうな女の子でしたよね)であり、その後と、真希波・マリ・イラストリアスというキャラクターが登場していく文脈と重なります。ファム・ファタール(Femme fatale)ですね。女の子に、異性に救ってほしいという話。これと、庵野監督の安野モヨコさんとの結婚、その後の『監督不行届』は、とても分かりやすい道筋だと思います。とはいえ、アダルトチルドレンの闇からの脱出には、「他者をの存在を受け入れること」なのですが、惣流・アスカ(旧劇場版)で、「女の子に救われるという救済の道筋」を一回ぶっ壊しておかないと、安易に、女の子に救われるという甘ったれた話になってしまうので、このルートに容易に行けなかったんですよね。とてもロジカルだと思います。ようは、もし相手の異性も、同じようにアダルトチルドレン(=承認欲求の闇)だったら、どっちも救われないよね、ということ。相手が承認欲求を抱えている確率は、だいぶ高いです。そういう人は同類なのでひかれあうから。だから、惣流とシンジは、結ばれてはならなかったんだと思います。逆算して考えると、物凄く論理的。惣流・アスカにとっての、救済の異性は、シンジじゃなくて、「大人の男性」だったんですよ。そう考えると、最初から加地さんが好きな彼女は、良い嗅覚をしていたんだと思います。


少し戻ると、明らかな私小説である、『式日』(2000)についてです。『式日』は、藤谷文子さんが原作と主人公というかヒロインですね。藤谷さんは、スティーブンセガールの娘さんで、今ロサンゼルスに住んでいるはずね。『町山智浩アメリカの今を知るTV In Association With CNN』でよく見ます。いやー時の流れを感じます。そして、主人公の俳優!は、なんと岩井俊二さん。なんと主人公の名前は「カントク」くんです(笑)。ここでは、すべては母親が悪いって方向で話が進みました。大竹しのぶさんの見事な演技が光る渋い映画です。庵野監督の故郷である山口県宇部市が舞台になっており、この映画が、シンエヴァの最後のシーンと重なりますよね。私小説は、内面世界であり、その内面世界の壊れている理由は、子供時代の記憶(=親)にあるわけであると考えると、まさにの映画だともいます。ここで抜けているのは、「父親」です。母親については、『式日』で描かれたと考えていいでしょう。というか、悪い親というのは、母親になるケースが多いんですが、それは、「マターナルなもの(=自分を甘やかしてくれるもの)」に逃避して逃げたいという気持ちを一度去勢しないと、「父なるものの(=現実の過酷さ)」というものにチャレンジできないからではないかと考えいます。なので、次は、父親が描かれなければならない。NHKのドキュメンタリーでも、父親のことがクローズアップされていましたが、父なるものを、受け入れて理解していくこと、父を相対化していく心理的プロセスが、この閉ざされた不毛感覚からの脱出のキーなんですよね。


でも、父親を相対化するって、どういうことだろう?と思うんですよ。


エヴァは、よくディスコミュニケーションの話だって言いますよね。ゲンドウやミサトが、もっとコミュニケーションをとれば、説明すれば、もっとうまくいくんじゃないかって。でも、僕はそうは思わないんですよね。これをメタファー的にとらえているんですが、自分の父親とか母親と、皆さん、分かり合えるほど話せます?。仮にたくさん話している人でも、親が嘘をついていない(=自覚的でなくとも欺瞞なしで精密に自己分析をできていて言語化できている)なんて保証どこにあります?。自分自身ですらも。そんなの、わかるわけないんですよ。だって「相対化」って、心の中のプロセスの問題だから。自分時の孤独の闇の問題であって、それが解決つかなければ、いつまで堂々巡りであって、その理由が、父であろうが母であろうが、どこまでループし繰り返すだけだと思うんですよ、それが、アダルトチルドレンの問題。だから、ゲンドウを相対化できたというのには、シンジの何らかの内的転換があって、「それを見たゲンドウ」が触発されて、ああいうことになったととらえるべきだと思うんです。シンジの内的転換については、その(1)で話しました。順番が重要で、ここに虚偽問題というか、そのルートをいっても解決しないというルートがはっきり示されているんだと思います。


原因が、親が悪い!ルート


このルートは、原因はわかるんですが、「じゃあどうすればいい?」というか解決方法がないので、無限ループなんです。


好きな異性(女の子)に救済されたい!ルート


このルートは、相手が、同じ承認欲求を持っていたら(その確率は結構高い)、これも無限ループで傷つけあうだけになってだめなんです。もちろん偶然、マリや安野モヨコさんのような、大丈夫!という人に出会って、救われちゃう可能性もありますが、その辺は偶然の支配する確率論ですね。他者に期待しているのは、逃げなので、自分自身を肯定できなくなりやすいと思います。『彼氏の彼女の事情』がまさにそうでしたね。雪野のような素晴らし女性に出会って結ばれても、有馬君は、結局救われない。自分に、自分の家族に向き合っていないからですね。


ということで、順番としては、やはり「自分自身」に向き合わないとだめなんですね。


多くのループものや成長のビルドゥングスロマンは、この「行き止まりのルート」による地獄を凄まじく描くのは、「このルートは意味がない」と心底体感させないと、みんなそこへ逃げたがるんです。60年代の映画で『イージーライダー』とか、バイクで爆走しても、解放なんかされませんよ。『パリ、テキサス』のトラヴィスみたいに、意味不明のこと言って放浪の旅に出ても、だめなんですよ。要は、解決策がないと悶々と悩んで、「逃げだしたい」といっているだけなんですから。逃げたいくらい苦しいのはわかるんですが、解決方法と問題を直視しないと、どこへ逃げても「逃げきれません」。この「自分の中に他者がいない問題」というのは、現実認識ができていない(客観視ができない)ことなので、「自分を取り巻き、形作っている現実」というものが、どういう構造で、どんな可能性を秘めているのかを、すべてイマジナリー(虚構)でいいので体感して体験しないと、ベストの選択肢、最も救済される可能性が高いルートを選べなくなるからなんだと思います。この並行世界のループによりヤバい選択肢を排除していくというのは、ノベルゲーやエロゲーの一世を風靡した物語構造ですね。ロードムービー的になって、様々な体験をするというのも同じ意味合いがあるんだろうと思います。この苦しい「自己」を救済するものを探し続けるという比喩だと思うんですよ。でも、解決策が見つからないので、「ただ苦しい自分」を延々と表現するだけの物語になってしまう。もちろん、こうした「自分自身とは何か?」を問う物語は不変・普遍です。ただし、その時代、地域によって文脈が異なっているし、具体的な表象は変わっていきます。


では、「自分自身に向き合う」アプローチをするにはどうすればいいのか?


吉宗鋼紀『マブラブオルタネイティヴ』で問われていたすべての答えがここに~自分自身を直視するためには、レイヤーに分けて別々に考えろ!


僕はブログで、「ナルシシズムの檻」と、このアダルトチルドレン問題をよんでいます。自分の心の中に閉じ込められてループして、孤独に病んでいくこと。この唯我論の中に閉じ込められていき、自己言及のループのような世界に「閉じ込められる閉塞感」というが、1990-2010くらいまで日本のサブカルチャーでは繰り返されていました。というか、アメリカ映画では1960-70年代のアメリカニューシネマにこの問題が表れていると思っています。ちなみにアメリカ文学では、1920年代の『華麗なるギャッツビー』ですね。この問題意識は、普遍的なものだと思います。また各国のローカルの文脈と絡まって、さまざまな表象の仕方をするので、この視点で、様々な作品を探してみてみるのも面白いと思います。というか、僕の物語を見る軸の一つです。アメリカでは、都市文学にこの「個人主義の孤独」が凄い表れていると思います。だから、村上春樹さんが好きなアメリカ人作家は、みなこの系統ですね。ジョン・アーヴィングとか思いだします。

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ちなみに、日本のサブカルチャーの90年代以降、これらは並行世界の物語類型に結実しています。「自分の心の世界に閉じ込められるような閉塞感」は、ソトとウチをわける壁がモチーフになりやすいがために、「この壁を超える」ことや「繰り返されるループのセカイから脱出する」という物語群を生み出しました。このあたりのも既刊7巻の「物語マインドマップ・物語の物語」に書かれていますので、もし興味がある人はそちらで。説明はうざいので端折ると、村上春樹1Q84』、幾原邦彦輪るピングドラム』、吉宗鋼紀『マブラブオルタネイティヴ』などなどの傑作群みたいなやつ!という感じの理解で(笑)。もう少し柔らかいところでは、麻枝准さんの『Angel Beats!』や安倍吉俊さんの『灰羽連盟』とか思い出します。ちなみに、小説では、やはりなんといっても村上龍の『五分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス 五分後の世界II』ですねぇ。さて、僕は、以前、吉宗鋼紀『マブラブオルタネイティヴ』が、庵野秀明のテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』の問いに対して、真っ向から答えた、そして答え切った作品んだ!と喝破しました。この話も、うざいほど長いので、興味のある人は、配信か過去のマヴラブの記事を読んでみてください。

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僕は、このルート、、、、自己救済がなされるには、いくつものレイヤーにおいて、すべて答えを出して、「自分が手を汚す覚悟」を持たないと、前に進めないと仮定しました。この問題は、自己決断(=自分の手を汚す覚悟を持つ)の問題なのですが、この時に重要なのが、「自分の立ち位置を明確にする」という時間的作業が必要なことがわかりました。このあたりは、レイヤー(層)になっていて、個人、友人、愛する人、組織、国家、人類などグラデーションごとに、自分がどういう位置づけで関係なのかを明確にしないと、「自分がどこから来て、どこへ向かうのか?」という一歩が踏み出せない。考えてみれば単純なことなんです。でも、それを、心理学の夢分析みたいに、とにかく難解に、抽象化したり具体化したり、さまざまな視点で見直さないと、自分が閉じ込められている孤独の仕組みが「納得」できないのが人間なんですね。なぜならば、各レイヤー間の答えは「矛盾して整合性が取れない」からなんですね。めちゃくちゃ簡単じゃない。たとえば、自分の愛する恋人を殺さないと世界が救えないとか、とにかく矛盾ありまくりのものなので、それに対して「どう行動で答えを出すのか?」には、覚悟がいるんですね。だから「手を汚す」という表現をしています。これは宮崎駿の少年の夢が持てなくなった問題のことで、「好きなもの(ゼロ戦とか飛行機)を追求していたら、仲間が皆殺しにあって大戦争が起きました」、その罪を背負っても君はやりたいですか?という問いに答えないといけないからです。宮崎駿は、これに「それでもやる!」と答えるまでに、長い時を要しました。まぁ本当は、既に『未来少年コナン』でとっくに答えは出ているので、やはり90-00年代の日本的な時代性だと思うのです。ハウルとか、セカイ系張りに、いやに悩むじゃないですか。宮崎駿御大の人間性から言えば、「そんなの女の子をすぐ助けろよ!(ラナを助けるに決まっている!)」で、ほんとは終わりなんでしょうが(笑)。ここで前回の(1)の記事で話したように、エヴァには、大きな問題点がありました。それは、人類のためというネルフやヴィレ視点と、シンジ君の個人の視点やアスカやマリの異性の視点があっても、中間の組織や国家がすっぽり抜けていて、それが表に出てこないので、シンジが自分の取り巻く仲間たちの実存にリアリティを感じられないというものです。


これ、言い換えると、セカイ系(=中間集団が抜けている)のことを言っています。


日本のエンターテイメントにおける特有の病というか、構造的欠陥なんです。なにもエヴァに限ったことではありません。宮崎駿の記事で書きましたが、彼が『風立ちぬ』で、日本や大日本帝国の歴史と向き合って直視し、そこから逃げないと決断したときに、「少年の夢」=生きていこう、前に進もうという動機が戻ってきます。それが、構造的にエヴァにはない。

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・・・・と指摘していたら、『シンゴジラ』を庵野監督は描くわけです。さすが、としか言いようがない。ここにおいて、すべてのレイヤーにおける答えはそろいました。そして、(1)で指摘したとおり、ヴィレやクレデイット、第三村の人類生き残りの組織、共同体には、におい立つような実存感が宿り、シンジ君は動機を取り戻すことになります。もちろん大きな背景として、時間が過ぎた、というのがあります。1980年代までのバブルの高度成長を超えて、2000年代以降は、がたがた悩んでいると生存していけないほど世界が苛酷になっていく・・・・というよりは「未来の夢や希望によって現実をごまかす」ことができなくなったので、「リアルな現実」が見えるようになってきたといったほうがいいかもしれません。もう2020年代で「希望がない」(村上龍)なんて戯言いう甘い人はもういないと思うんですよね。なので、多くの物語が「人類が滅びた後」を描くときに、90-00年代ぐらいまでは「それが生き抜くサバイバルの地獄」と表現されていたのですが、2010年代以降の物語では、「世界が過酷なは当たり前なので、過酷とはとらえない感性」が広まっていきました。僕らが、何年にもわたって考察している「新世界系」の話ですね。ようは『進撃の巨人』で、壁の中でぬくぬくとしていた人にとっては、壁の外は地獄です。でも、壁の外の過酷な生存競争を「当たり前として育った新世代(今の子供世代)」は、それは現実なので、特にひどいとは思わない。時代を支配するパラダイムが変わっている。だから、2021年の現在に人類が滅びる最前線の「第三村」や支援組織クレディトを描くと、「滅び」よりも「その現実でどう生き抜くか」にフォーカスがあたるんです。もう「滅び」云々なんてことを話してるほど、余裕はないし、「終わってしまった」ことを話しても意味がない感性が広がっているからだと思います。だからこそ、第三村の実存感に、シンジ君が触発されるのは、よくわかります。


つまりは、14年たっているんですよ。ニアサードインパクトから。


これは、アズキアライアカデミアの‘Youtub配信シンエヴァ特集でも細かく説明したことですが、最後のシンジ君がいた宇部新川駅はどこか?という問題と直結する問いです。これらのレイヤーにおける覚悟を、いいかえればそれぞれのルートを並行世界のように経験することが、「現実で覚悟をもって生きる動機」の駆動につながるということを示しています。ここで、イマジナリー(虚構)と現実のどちらが大事かというときに、そのどちらもつながっているもので、両方大事なのだということが、はっきり言われていると僕は感じました。


これ、日本的私小説の問いにおける、明確な答えになっています。


「現実と虚構どっちが大事なのか?」、もしくは、「現実に帰る・還るのが正しい」のか?


という問いに対して、現実でちゃんと生きるには、虚構でちゃんとルートを制覇しなければ、現実に帰っても意味がないと言っているんです!!!(これめちゃくちゃ、驚きの指摘でした)。もう一つまぎぃさんの指摘でいえば、虚構と現実は「見る視点」で入れ替わるので、「虚構」自体も現実だという視点(これ後で説明します)。この辺りは、 東浩紀さんが『クォンタム・ファミリーズ』(2008-2009)で描いていて、さすが、とうなってしまいました。


これ、とても重要なことだと思います。ここにおいて、テレビ版のエヴァの質問・・・・「なぜ、自分の心の中から抜け出せないのか?」「ナルシシズムの檻の中にはまったままなのか?」という疑問に対して、「各レイヤー(自分・異性・仲間・国家・人類)のすべてに覚悟をもって現実に帰れ」としたマヴラブの答えに、照応しているのが分かります。あ、ちなみに、僕は、庵野さんや吉宗さんが、そういう意識をもって作ったとか言いたいわけではありません(作家がどうおもったかとかは、そういうのは僕にはどうでもいい)。日本的文脈の中で、時代の大きな疑問に対して、本気で格闘しているクリエイターは、究極同じ普遍的な問いに答えざるを得なくて、彼らがそれに答えているクリエイターだといいたいのです。そしてみている僕ら受け手は、その背後にまるで問答のような文脈を見る気がするのです。ちなみに、現実と虚構をのどっちを選択するかというテーマは、広がりがあって、ハリウッド映画では、ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』(1999)、ジムキャリー主演の『トゥルーマン・ショー』(1998)、そして最近ではこれにガチっと答えたスピルバーグ監督の『レディープレイヤー1』(2018)などがすぐ連想されます。それぞれに「どっちを選ぶのが正しいのか?という設問に対して、どう答えているか」を分析しながら見ると、面白さが倍増しますので、おすすめします。


■戦後日本的エンターテイメントの究極構造~私小説の世界とSF神話の結合というセカイ系の極大点

前述しましたが、庵野監督の凄いところは、ミクロの「私小説のセカイ」と先に説明した「ハードSF、神話レベルのマクロの世界」が融合している点にあります。これは極めて日本的で、村上春樹が日本を代表する作家なのも、まさにそういうところからきているともいます。村上春樹の『1Q84』『海辺のカフカ』などが典型的ですが、私小説の「自分の心の中の世界=イマジナリー(虚構)」の各レイヤーを、並行世界の各世界線ように旅(ロードムービー!)しながら、「自分」の欠けているものを探していく。日本的です。めちゃめちゃめそめそして、「自分」をめぐってぐるぐるしているように見えながら、セカイ、世界を変える救うような行動に到達するための覚悟の旅なのです。このように俯瞰すると、狭いミクロでうじうじしてるように見える私小説の悩みが、すげぇかっこよく思えるようになりました。日本文化、凄いって(笑)。ミクロで趣味の世界、職人的なものに没頭する文化のくせに、いきなりキれて開国して帝国を形成したりするところは、いやはや日本的なのだなぁって(苦笑)。あっこれ、もしかして実践へぶっ飛ぶ陽明学朱子学との対比で)か!?。


各レイヤーで、答えを探すこと。


これどういうことか?というと、各レイヤーにおける、「他者(コントロールできないもの)に出会っていくこと」に他ならないと僕は思います。ちょっと抽象的になっているので、もう少し敷衍すると、「他者」というのは、アウトオブコントロールなものです。言い換えれば「自分の自由にならない別のもの」です。各レイヤーで、「自分が思い通りにならない最大限の苦しみ(笑)を味わう」ことで、他者のコントロール、支配不可能性について体感していくのです。だから、自分を救ってくれそうな少女、惣流アスカに「気持ち悪い」といわれるし、自分が支配できそうな人形のような綾波レイは、巨大な化け物と化す。これは、コントロール不可能性の体感の比喩なんだと思います。


そうして虚構の世界で全ルートを制覇ていくと・・・・・「これしかない」というルートに突き当たります。その時に、つまり「欠けているものを埋める」=「各レイヤーにおける覚悟を決める」ことをすると、「現実への帰還」のチャンスが訪れます。ここまで行くと、主人公(ここではシンジ君)は、他者を他者として受け入れることが可能になります。そうしたことで初めて、シンジ君(=感情移入の先である我々)は、父親・ゲンドウもまた「他者である」ことに思い至ります。だから、これを見たときに、100点満点だよ、と思ったのです。だって、私小説庵野秀明シリーズで抜けているのは、「父親を他者として認める視点」なのだから、これが描けたら、完璧ですよ。ここで、これを描かなかったら、だめでしょう!という核心を叩き込んでくれた。しかも、この抽象的なものを、ヴィジュアルで見せてくれているというのが、凄すぎます。


■シナリオは、TVシリーズと同じ構造~面白いものをすべてぶち込んだ、しかしただ一つ足りなかったもの「外部」

しかし、、、、、ちょっと抽象的な説明が続いたんですが、そもそも、エンターテイメントの権化のような庵野監督が、物語を終わらせられなくなるくらい病み苦しんだのは、なんだったんでしょうか?。それは、上記で、様々なレイヤーの答えを出して、自分を確立しても、なぜか、「どこにも行けない」という閉塞感がぬぐえなかったんだろと思います。それは僕らも同じです。


極端なことをいえば、エンターテイメントのドラマトゥルギーの力学がもたらす予定調和すらも拒否するような。


僕は、「閉じ込められた自己」から脱出という意味で、外がない…「外部」がない問題と呼んでいます。


これは、1990-2010年代の重要なテーマだったと思うのですが、やはり2021年ぐらいになるまで、、、、2020年代になるまで「外に抜け出る」という感覚が、どうしても描けなかった気がするのです。



■日本映画の正統なる後継者として~家族の崩壊から再生を通して自己の自立を描いていく日本的物語の到達点

僕は、この「私小説的問題意識」というのは、日本固有の文脈があると思っています。夏目漱石個人主義のさびしさをめぐる議論からの系譜なのですが、あまりそこまで行くと、疲れるので、ここでは映画の文脈での最近の気づきを書きたいと思います。というか、別に批評がしたいというよりは、ぶちゃけ、エヴァンゲリオンとか物語を「もっとより深く理解して納得したい」ためなんで、、、、ここで大きく、疑問に思うことは、やはりエヴァの物語が、ヤマアラシのジレンマとか、「人との距離感」についてもっと言うと「ディスコミュニケーションの恐怖」「他者との分かり合えなさ(=ATフィールド)」を大きなテーマにしたのはなんでだったのか?。そして、その掲げたテーマに対して、どのような結論を導き出したのか?、、、もっと大きく言えば、エヴァって物語は何だったのか?を、大枠で自分が納得したいんです。


その時に、僕は、私小説(=内面に閉じ込められた孤独=他者を他者として受け入れられない唯我論)の問題意識を、日本映画が、アニメーションがどのようなアプローチで対処してきたのだろうか?って考えたときに、「家族の解体」だ!と思ったんですね。そして、映画友達のノラネコさんと是枝裕和監督『海街ダイアリー』(2015)『そして父になる』(2013)、岩井俊二監督『ラストレター』(2019)『東京物語』(1956)『東京家族』(2013)(小津安二郎監督と山田洋二監督のリメイク両方)の話をしていて、昨今の邦画は、この「家族の解体」のモチーフを、「家族の再生」にかじを切っているのではないかという議論をしているときに、はっ!と思ったんです。この家族がの崩壊、そしてそれを再生していくプロセスをさらに分解すると、父、母、子のコミュニケーション、ディスコミュニケーションが「実際にどのように行われているのかをつぶさに見せるという物語」になるのではないか?と。1990年代までは、家族を描くと、それが「いかに壊れているか」に焦点が合っていました。が、しかし、それ以降、じわじわと「壊れてしまった家族」がどういう風に再生されていくかに焦点があっている気がします。是枝裕和監督の最新作は軒並みそれですし、『万引き家族』(2018)なんかもまさにそれでしたよね。是枝裕和は、『そして父になる』から明らかに、「壊れてしまっている家族」を、どうやってちゃんと再生していくかを「壊れた地点」から考えようと試行錯誤していて、本当に素晴らしい日本を代表する監督です。2018年の第71回カンヌ国際映画祭で最高賞パルム・ドールを受賞をするのは、まさに評価文脈はわかっているなぁと思います。まさに日本的なるものの神髄を追っていて、それでいて普遍に到達している。だから、これが世界的にも日本のオリジナルとして海外で高く評価されている。こう考えると、庵野監督の遍歴、これまでに説明した『式日』などが、ドンピシャにこの流れに沿っている、極めて日本の実写の監督の持つ大きなテーマに沿っていることが分かります。前に書いたように、これって庵野監督の得意技なんですよね。記号をかき集めているように過去の作品の焼き直しをしながら、「その本質」に到達して、その先を描く。ああ、この人は、日本映画の正統なる後継者でもあるんだ!と、邦画ファンとしても、胸がぐっと熱くなる思い出もありました。ちなみに、韓国映画の傑作群もこのラインで、共同体の自明性が崩壊していく刹那を切り取るものとして考えると、よく理解できるようになると僕は思っています。つまりは、近代化の過程で、自明で無自覚な「共同体」が解体されていき、むき出しの個人が現実(という過酷さ)に生で直面さらされる「その変動」を描く。ここに傑作が生まれやすい。日本映画が1950-60年代、韓国映画が1980-90年代に傑作が集中するのは、非常に単純に、その時が近代化の端境期で古くからある共同体が解体されるからだと思っています。


さてさて、こう考えると、ミクロのテーマにおいて、シンジ君(庵野監督の私小説)の内面問題が、家族の崩壊と再生のテーマに結びついていく、そして、「それ」が、「外部に抜ける」ための大きなトリガーとなってゆくというのは、日本の物語が戦後ずっと課題してしてきたことへの、見事なシンクロです。ええとね、シンジが追い詰められていった背景には、セカンドインパクトや母親(ユイ)の死によって家庭が崩壊していくからですよね。葛城ミサトもそうですよね。お父さんとの関係。今思うと、セカンドインパクトって、バブル崩壊と高度成長の終わりなんじゃないかなぁ(笑)って気がしないでもない。いや社会還元論にしたいわけじゃないので、これがそうなんだ!と言いたいわけじゃなくて、巨大な社会変動があると、親の世代が人生めちゃくちゃになるので、子供世代が深刻なダメージを負うんですよね。みんな社会の再建に必死だし、もしくは、過去の思い出に縋り付いてわけのわからんことをする(自分の奥さんクローンで蘇らそうとか、、、、)。そりゃ子供もアダルトチルドレンにもなりますわ。旧劇場版までは、この「家族が崩壊している」部分にフォーカスがあっていたので、これによってどんな苦しみが生まれるかが、えんえんと描かれる。一番大きいのは、親の適切な愛情を受けていないから、他人との距離感が分からなくなって、「他者を他者として受け入れられなくなって」、自分の心の中に閉じこもる。シンジ君の振る舞いって、まさにこれでしたよね。


でも、怖れている話ばかりしても、しょうがない。時は流れるのだから。では「壊れたものを元に戻す?」、例えば、ユイをよみがえらす?とかは、やはり無理があるんですよね。だとすると「元に戻す」のではなくて、違う形で再建設するしかなくなる。その時重要なのは、原因を追究して、「自分がこうなったのは親のせいだ!とかセカンドインパクトのせいだ!」とかいう原因論を言っていてもだめなんですね。原因追及は、筋が悪い。自己認識のために必要なステップなんですが、原因がわかっても、問題が何も解決しない。なので、ループしちゃう。じゃあ「傷ついた同士で傷を舐めあえばいいのか」といっても、それも「気持ち悪い」とか言われちゃって、お互い不幸になるだけ。でも、14年も過ぎて、みんな大人になる過程で、必死に生きて、自分の居場所を受け入れていった仲間(ケンスケやトウジ)を見ていて、「ああ受け入れるしかない」って、なっていくんだと思うよ。この「現実は受け入れるしかないんだという諦観」というのが、僕らが話してきた「新世界系」の重要な到達点ではないかと僕は思っています。重要なのは、そこまでいくには時間がかかる!ということ。たぶん「生きていくしかない」という現実を受け入れたときに、他者が認められるようになるんじゃないかなぁ。僕は、第三村で家出したシンジが、ずっと何も食べてなかったので、おなかがすいてレーションを泣きながら食べるシーンって良いなぁと思ったよ。だって、あそこでものを食べる、おなかがすくというのは、「体が生きたいと思っている」「生きるのを受け入れる」ってことだもの。そのあと、憑き物が落ちたようにすっきりしているのは、そういうことだと思う。

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新海誠の到達したセカイ系の結論のその先へ~落とし前をつけること、責任を取ることは、「結果を保証する」ことじゃない!

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今回のシンエヴァには、様々な素晴らしいセリフが続出しますがシンジ君の「落とし前をつける」と「やってみるよ」というのは、本当に素晴らしかった。僕は、この二つのセリフに集約できる解釈を、


「落とし前をつける」:自分がやっていない(意図していない)ことに対しても責任を取らされ、とろうとするのが大人。自分の意図ではなく、綾波(好きな子)を守り誰がために起きてしまった、ニアサードインパクトであっても、それによって引き起こされたことに、この辺りが難しいのですが責任というよりは、やはり「落とし前」はつけるという感じになるのだろうと思います。


「やってみるよ」:本当にアスカを救えるかどうかわからない(=結果は保証できない)。でも、自分にできる手段、オプションがあるならば、失敗によって自分が死ぬようなことがあってさえも、チャレンジするよ、という意味。これは、「覚悟」が定まってないとできないことです。


これをして、大人になったんだなぁ、シンジ君ということを言っていたら、まぎぃさんからものいいがつきました(笑)。この部分は、アズキアライアカデミアのシンエヴァ特集で話しているので、そちらもどうぞ。


実は、新劇場版の「破」と「Q」の構造は、新海誠監督の『天気の子』のセカイ系への答えと、類似の構造になっているという話をしていたんです。焼き鳥屋で(笑)。ちなみに新宿の鳥茂というお店です。もうめちゃうまいの!。ってそれはどうでもいいんですが、長くなりますが、、、ってこの記事自体がアホみたいに長いですが、説明してみます。僕は、この映画の解釈を、新海誠監督が次世代の子供たちに向けたメッセージとして解釈しました。一言でいうと、世界よりも好きな人を選ぼう!ということです。そして、その「決断」には、「できるかできないか!なんてしゃらくさいことは考えるな!」と。長いですが抜粋してみます。

間違っていても、その気持ちが本当ならば、叫んで行動に移せばいいじゃないか!って。



それがものすごい説得力を持って、感じたのは、エピローグというか、だいぶ水に沈んでしまった東京の「日常の風景」が丁寧に描かれているところです。この世界が滅びてしまった風景って、押井守さんとか、いろんな人がずっと描いてきているじゃないですか。でも、僕には、何となく、とてもマイナスかつ否定的なものに感じたんですよね。「ちゃんと世界を救えなかったから」「正しい決断や成長をできなかったから」だから、「こんなふうに世界は滅びてしまいました」みたいな。でも、脱英雄譚の話ですが、そんなのを一人の少年や少女(勇者やヒロイン)に押しつけるの卑怯じゃない?というのも、もう凄くみんな実感しているんだと思うんですよ。


世界がめちゃくちゃになっても、それって、天災であって、「それでも日常は続いていく」のであって、それをおれが、僕が、あなたが、私が、責任をとる必要はないんだ!、ってすごい言われているような気がしたんですよね。


セカイ系の類型って、大きな文脈として、本来を世界を救う(竜退治をする)男の子が善悪の問題(何が正しいか)に疲れ果てて、無気力になってしまったので、すべてそれを女の子に押しつけたという構造なんだと思うんですが、、、、じゃあ女の子がヒーローに勇者になればいいのかというと、それは一つの系なんですが、それでも「世界の責任を個人に押しつけている」構造は変わらないんだよなって。


これからの時代を生きる人々に、そんな難しいことを背負わなくてもいいよ、と言っている気がしたんですよね。だって、東京が沈没したって、世界がどう変わったて、その世界で、人は生きていかなきゃならない。そこに個人の意思なんざ、ちっぽけすぎて、意味をなさない。


唯一意味を成す、大事なことって、好きな人のために、大事な人のために、なりふり構わず動けたかってことだけだと思うんだよね。少なくとも、僕はうちの息子に、娘に、世界の責任を考えるような感情ののらないマクロのことで悩む暇があったら、大事な人のために動ける人であってほしいと思う。もちろん、マクロの責任なんか、無視しろと言っているわけじゃなくて、、、、まずは「原点はどこにあるか」「最も大事なことはどこにあるか」を確認しなかったらだめだろう、と。


『天気の子(Weathering With You)』(2019日本)新海誠監督 セカイ系の最終回としての天気の子~世界よりも好きな人を選ぼう!


そして、この行動って、まったく新劇場版の『破』における綾波(ポカ波の方ね)を助けたシンジ君の行動そのものじゃないですか。


そして、その「結果」として、『Q』を突き付けられるわけです。好きな女の子を助けたら、世界が滅びました・・・・・って(苦笑)。そして、好きな女の子自体も救えませんでしたって。それを告発して、突き付けられんです。そりゃ「もう、わけわかんないよ!」となるのはよくわかります。でも、これまさに『天気の子』の時に僕が話した文脈と全く同じです。「本質的に、実際に陽菜ちゃんを救うのならば、弟君も救わなきゃいけない、、、それには金と力がいるけど、どっちももっていない無力な穂高君」というところの評価をどう考えるか?。また「陽菜ちゃん一人の犠牲で、東京が救える(何万人もの命が救える)ならば、彼女を助けるならば、世界も同時に救え!そうでなければ彼女がその罪を背負ってしまうことになる」という物語の構造。これ、まったく同じことが、Qにおいて、鈴原サクラや北上ミドリに告発されるんですよね。私たちの家族がみんな死んだのは、お前のせいだ!って。これ事実ですよね。シンジ君にとって、それが、意図したことでないとしても。なので「落とし前をつける」必要が出てくるわけです。


と、ここでさきほどのまぎぃさんの意見は、新海誠監督の次世代の子供たちに向けたメッセージとして、


責任なんか考えず、好きな人を救え!行動しろ!、その結果世界が滅びたって、それはお前のせいじゃねぇ!!!


というメッセージを、大肯定したい!!!というのが、当時の僕とまぎぃさんの出した結論で、この結論は一切変わりがないんです。でも、シンジ君の「落とし前をつける」ということを、「自分が意図していないことでも起きてしまったことに責任を取る」という言い方にしてしまうと、じゃあ、穂高君にそこまで考えろ!とか、世界を救えないならば陽菜ちゃんを救うな!と言っているようになってしまう、それは間違っているという風になったんですね。これ、振り返って考えて、僕の使った「責任」という言葉が安易だった気がする。というのは、「落とし前をつける=責任を取る」というときに僕の文脈では、大きな前提が2つ隠れています。というか、少なくともシンエヴァには、そう描かれている。


1)責任を取るのは、「みんなで」取るものであって、やったのがシンジ君でも追い込んだのは、その周りの大人と環境なのだから、世界に属するすべての人が責任を取らざるを得ない
ミサトさんがヴィレを作ったのはまさにそういうことですよね。シンジ君に、本当の意味で、エヴァに乗らない選択肢を与えるため)


2)ここでいう「責任を取る」とるというのは、イコール「問題を解決する(=この場合は世界を救う、インパクトをおこさない)」ではない!んです。ゼーレが起こした旧人類皆殺しのインパクトは、止めようがないけれども、その「起きてしまった残酷な現実を直視します」といっているだけなんです。「直視する」というのは、「問題なんか解決できない」けれども「自分にやれる精いっぱいはやります」というだけなんです。この「自分にやれる精いっぱい」は、世界を救うのには何の役にもたたないかもしれなくても、やれるオプションの限り精一杯トライすると。。。。だから「やってみるよ」になるんです(涙)。


これこれまでの物語三昧やアズキアライアカデミアのこの20年近くの分析を聞いている人はよくわかると思うんですが、「結果が保証されないのに人は行動できるのか?」という問いなんです。これまでの物語の、動機レスな、やる気が出ないという物語類型のそのすべてが、「結果を保証してくれないと動けない!」という出発点からはじまっています。でも現実というのは、「そもそも結果は偶然によって作られる」ものなので、この命題は、絶対に実現できないんですよ。だから、ウハウハやハーレム(自分が欲しいものをくれる、結果が保証された世界)とかをつくっても、そのハーレムが実は並行世界で虚構だったので脱出なければならないというような構造に、長い目で見るとなってしまうんです。人間は、結果が保証されているような世界では飽きて、喜びを見いだせなくなるんですね。だから「偶然に支配される現実」という残酷な真実を「直視したら」、結果なんか保証できるはずがない。だから「起きてしまったこと」は、みんなでシェアして「起きてしまったことにできる限り精一杯ベストをその時その時で尽くすしかないんだ」というのが、最終結論になるんです。


そして、これこそが、「現実で生きる心構え」ってやつなんです。


これは明らかに、トウジやケンスケたち、第三村で生きている人々の意志ですよね。「世界が滅びたニアサードインパクト」であっても、ケンスケは、「悪いばかりじゃない(=これって、トウジとヒカリの結婚についていっていますが、自分とアスカのことも言っているんだと僕は今思います)」といいますよね。マクロ的なレベルで起きたことって、「起きてしまったんだから」、それを受け入れて前向きに生きていくしか、それしかミクロのちっぽけな人間にはできないんだ!と言っているんです。もちろん、できる精一杯は、する。自分を、自分の大事な人を幸せにするために。そして、なかにはヴィレのミサトさんや加地さん、リツコさんのように、世界のマクロに手が届く人々もいる。でも彼らも一人じゃどうにもならない。だから組織を作る。一人に頼る卑怯な方法ではなく、みんなでシェアするために。そして、前線で戦う攻撃部隊のヴィレであってさえも、彼らだけでは人類を「再生させる」ということのには、役に立たない。だから、クレディットの独立承認をする・・・・いいかえれば、第三村の、その他の普通の人々の、モブの人々を信頼して、人類の未来を任せるしかなかったんです。


これは、、、、「普通の人々」、人類への信頼!です。


さてこう見ると、「落とし前をつける」「責任を取る」「やってみる」という言葉に僕が考えている構造が、新海誠のメッセージを肯定したことと、矛盾していないと思います。いいんですよ、大事なことは、好きな人のために行動を起こすこと!そこに理由なんか、結果の保証なんかいらない。けれども、それは「そこ」だけでは終わらない。「起きてしまった現実を受け入れて」ずっと戦い続ける覚悟が必要なんだ!ということ。シンエヴァの構造が、新海誠監督の「その先」に到達していることが分かります。


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■日本的な「私小説」の物語としての宇部新川駅の現実風景~「宇部新川」は、もともとあった「上位世界」、つまり我々の現実世界との接合点


アズキアライアカデミアのシンエヴァ特集で話した話は、宇部新川駅はどこなのか?という設問でした。


物語を見るうえでは、監督が、クリエイターが意図したイシューはなだったか?を問わないと、枝葉末節にとらわれることになるといつも僕は思っています。そうすると、何を話しているのかわからなくなる。なので、イシュー(その本質)は何か?というのを、考える癖をつけるといいです。そうすると、世界がもう少し単純にクリアーに割り切れるようになっていきます。シンヴエヴァは、複雑な物語ですが、構成上、この「宇部新川駅」のシンジ君(神木隆之介)がいた場所が、どこなのかは、監督がいったい何を考えてこの物語世界を創造したかの本質だと思うんです。


ちなみに、岡田斗司夫さんがいっていたように、「完璧に答えがある」ようにとらえるべきではなくて、ある程度あいまいにされているとは思うんですよ。でも、そうはいっても、少なくとも、28歳?でいいんだよね?神木シンジくんの宇部新川駅の場所、それと、テレビシリーズ、旧劇場版、新劇場版、シンエヴァにおけるニアサードインパクトが起きてしまった世界と、世界がいくつも並立していて、「この物語世界線の関係性をどうとらえておくべきか」は、監督が世界を現実をどうとらえるかの、最重要ポイントになるはずです。なので、「答えのない答えを探す気持ち」で、この辺りを悶々としゃべるのが、映画ファン、物語ファンのだいご味だと僕は思います。


で、そうはいっても、アズキアライアカデミアメンバーと、ペトロニウスの結論は、神木シンジ君の到達した宇部新川駅は、


現実(我々が住むという意味でのこの) と虚構の「接点」


というのが妥当なところから、となっています。いまのところ。アズキアライアカデミアの配信の時は、死んだ人が行っている「アヴァロン(理想世界・理想郷)」ではないかというLDさんの意見に沿って分析していましたが、これも捨てがたいラインですが、それよりは、やはりまぎぃさんの解釈する現実と虚構の「境界」にある設定まで、たくさんのシンジ君の遍歴で到達することができたというのが、論理性がつながります。ちなみに「アヴァロン(理想世界・理想郷)」解釈の時は、その場合、線路の向こう側にいる「一人で立っているアスカ」は、式波ではなくて、惣流・アスカ・ラングレーの方でないとおかしいというのが確認ポイントでした。このあたりも、今後、ブルーレイなどがでて、考察が進むでしょう。楽しみですね。


えっと、物語のイシュー的には、シンジ君の内的転換が、「第三村の実存」によって起きたとするならば、第三村をとりまく「ニアサードインパクトが起きてしまった世界」を、もう一度、ゼロから消してやり直すというのは、ドラマトゥルギー上できないはず。あのニアサーで滅びた世界が、「かけがえのない唯一の現実」でなければ、シンジ君の内的葛藤が意味をなさないものになるからです。イシューというか、ドラマトゥルギーの構造を追えば、「やり直しのできる世界」であっては、やはりおかしい。


でも、すべてをやり直したような理想世界にみえる宇部新川駅は、なんなのか?。シンジ君は、どこに到達したのか?。


これって、文学作品なんかで、良く到達するポイントなんですが、「我々の住む現実」との「境界」だと考えると、なんとなくすわりがいいなーと思うのです。というのは、個人的には、28歳の神木シンジ君が、スーツを着たサラリーマンのようになっているのが、インパクト大で、、、、というのは、自分も「そのプロセス」経て、ここにいるパンピーサラリーマンなので(笑)。感情移入したんですよね。ああ、これから出勤か、、、朝起きるのにニアサー起こすぐらいの覚悟いるよね、って。物語の類型を振り返ると、並行世界系の話は、結論が「現実に還れ」という説教で終わる形式が多いです。オチとしてとても普遍的だからです。なので、ああ「現実に還れ」の結論かな、と思いたいところなんですが、この記事全編で、第三村の実存を考えていると、「ニアサーが起きてしまった世界」こそが唯一の現実であるという解釈を譲ることができません。で、はたと困ってしまう。この道筋で考えると「ニアサーが起きた世界を唯一のセカイとして、現実を直視して受け入れることができた(=SF的にはゴルゴダオブジェクトに到達した)」からこそ、「ご褒美でアバロンに行くことができた or ゼロからやり直すことができた」という解釈はいまだ可能です。でもしかしながら、テーマ的に、世界線を「やり直すことができる」というメッセージは、イシューからそぐわない。


で、宇部新川駅にドローンで撮影したみたいに上空の視点に上がっていくラストシーンは、群衆の人々が、アニメで描かれています。映像自体は、基本、現実の風景なのに。だとすれば、ここが「現実」と「虚構」の、どっちでもない「境界」と考えるのは、ありです。


その場合は、じゃあメッセージとして、どう解釈できるのか?。といえば、「現実」と「虚構」のどちらも、「ほんものの世界」であって、それを、直視で来た人間だけが、そのどちらでも、ちゃんと生きることができるという意味になるはず。これだと、我々の住む現実からは虚構に見えるエヴァンゲリオンの物語(虚構)自体を本物と直視して生き切るからこそ、その両方の観測ポイントに至れることができるとなるので、第三村の実存が唯一性を持ちながらも、「現実に還れ」という普遍的並行世界の物語の結論のメッセージが機能します。このへんだな?と今は思っています。


■すでにわれわれは「新世界」+過酷な現実に10年以上前から立っている?

まぎぃさんから、いろいろ批評の記事を見ていて「宇部新川駅=我々の生きている現実=過酷な生きる覚悟がいる世界」というラインで解釈すると、「そんなの少なくとも10年以上前に、われわれ日本人は、「そこ」に立っているんだよ」という意見を見たんですという話を聞きました。どちらかというとネガティヴな意味ですね。ようは、このオチはすでに古いといいたいわけですから。つまりは、2000年代以降の、バブルが崩壊して低成長・縮小時代に入ったマクロの世界を生きるわれわれ日本人は、「こんなのいわれなくてもわかっている」といいたいわけです。


これは、なるほど、わかる意見です。というのは、僕らが「新世界系」で分析してきた話が、まさにこれだからです。セカイ系から新世界系へという言い方をしてきました。『進撃の巨人』の壁の向こうに出てから、『鬼滅の刃』『約束のネバーランド』などなど、様々な次世代の物語は何だろう?という問いの中から、どうも新しい世代は、少なくとも2010年代の後半から、アダルトチルドレン系の「僕って何?」みたいな問をする姿勢は、ほぼ一掃されました。最初から「世界は残酷だけどキラキラ美しい」という前提受け入れて=直視しているものが物語ばかりが目立つ。なので、物語の始まりから、最初から主人公が住んでいる世界は残酷。ちなみに『鬼滅の刃』のアニメ第1話のタイトルが残「残酷」でしたね。ここ、わかってる!とうなりました。ここで重要なのは、主人公たちが、その残酷さを悪いものだとは思っていないというポイントでした。それは「現実」なので、最初から受け入れて、当然のもの、コモンセンスとして考えている。これが新世界系の要諦でした。セカイとか心の内的世界に逃げ込めるのは、高度成長期の名残の、物質的に余裕があって残酷な現実(バブルが崩壊してネオリベラリズム浸透以降の世界)にさらされていない甘えからくるものだった!という考え方ですね(苦笑)。


ちなみに、一貫してイマジナリーな内的世界に関連するものをカタカナの「セカイ」と表記して、現実認識を直視している新世界系的な視点でのものを「世界」と漢字で表記しています。この記事全編にわたってしていますので、読むときそう思って読んでください。


なので、やはり1995年から27年の期間を考えると、旧世代的なものから新世代的なものを「つなぐ装置」としての物語になっていると思います。いろいろな人が、卒業イベント的なことを言っている感覚は僕は非常に同意します。それは、エヴァンゲリオンをリアルタイムで見た世代には、どう考えても卒業だと思うからです。でも、これが素晴らしいのは、うちの子供たちもそうですが、若い世代にとって、当たり前のように過酷な現実を前提に生きる若い世代にとっても、それが、非常に納得のできる仕組みになっていることです。だって第三村で生きるトウジやケンスケ、加地君(息子の方ね)って、まさに新世界に、壁の向こうに生きているのがナチュラルボーンの覚悟ガンギマリの人々でしょう?。


僕は、なので、これをオチが古いとはみじんも思わない。まさに、いま世代間の分裂が激しい時代に、つなぐ装置として記号としてコミュニケーションツールとして意味を凄く感じるし、、、、、なによりも、虚構と現実が等しく価値があり、その遍歴を通して、「現実に還れ」となる物語類型、、、、タイトルに挙げた、日本映画の家族の解体と再生、日本文学の私小説、そして欧米50-60年代ハードSFというテーマの正統な後継者として、普遍到達していると思うからだ。


アドホックな視点では、いまさら現実に還れと、既に斜陽が現実になった日本社会の「過酷な現実」に戻るという視点は、僕は明らかに間違っているとらえ方だと思う。


というのは、日本社会は、日本の未来は、暗くもないし、斜陽が現実にもなっていないと思からです。このあたりのマクロの評価は長くなるの別に話そうともうが、僕は日本の未来は素晴らしいと思うし、いま日本生まれ育っている若い世代は、素晴らしく幸運なところに生まれたと思っている。僕が、そう思う理由は、素晴らしいアニメーションが、物語が、どんどん芽吹いているから(笑)。なによりも、日本の若い世代は、すでにこうした厳しい「パラダイムが変わってしまった新しい現実」をちゃんと受け入れて、覚悟をもって生きていると僕は凄く思う。そうであるならば、貧乏で苦しく弱者が踏みつけられる過酷な現実の覚悟を問うという意味で、このオチの現実社会への帰還をとらえる文脈は、僕は間違っていると思うからだ。強者と弱者という対立構造の二極化は、古い世代のだめな視点だと僕はいつも思う。まぁ、この辺りは今の世界の経済のステージや評価と絡むので、長くするのは避けましょう。でも、少なくとも、『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』『チェンソーマン』が生まれる日本、それを支持する子供たちを考えたときに、いや、もうこれ、絶対大丈夫でしょう!過酷とか、若者は思っていないよ!と思う。過酷なのは、、、、実は、「その現実についていけない年を取った年寄り世代だけ」ということが、たぶんわかっていないんだと思う。。。。(苦笑)。



■システムの奴隷である「セカイに閉じ込められた自己」からの解放~セカイ系の終着地点のその先に

答えは、現実に戻れ?だったのか? また大人になれということだったのか?、実は、最近考えているのは、この「問いの立て方自体がだめ」なんじゃないかと思ってきました。えっとね、僕はアラフィフの40代後半なのですが、僕が学生時代に(今も)好きだった学者に宗教人類学者?なのかな中沢新一さんと社会学者の宮台真司さんがいるんですが、えっと、1980年代のニューアカデミズム(浅田彰さんの構造と力!とか)そういうのね。これが流行っていたんですが、僕はしつこく、ずっとまだ好きで読んでいるんですが(笑)、この人たちが立ててた問いが、1980年代以降の後期資本制の社会では、人間はシステムの奴隷になってしまって、社会の「外部」に出ることができなくなったしまったがゆえに、リアルな自己を体感できなくて、苦しくなっていくという、柄谷行人的な(と言ったらお二人は怒るかもですが)近代理性批判的な問いを掲げていたように感じるんですね。

えっと、この場合の、「システム」というのが僕らが取り巻く社会のことです。社会に役割が決まって、資本主義のパーツとして、歯車として自由が何もない息苦しい構造。「外部」というのは、このシステムの円環のループの輪から外れているもの、です。この辺りは、宗教学や人類学の容疑に慣れている人は、良くわかる感じだと思います。まぁハレとケとか祭りの話ですね。当時お二人が、おお素晴らしいなと思ったのは、明確な具体的なターゲットを定めてフィールドワークをしていたことでした。中沢新一さんは、チベット仏教。本当にチベットまで行って修行するとか、狂っているにもほどがあります。宮台真司さんは、援助交際の少女ですね。これの気合もガンギマリです。かっこよすぎる二人です。これはっきりと、抽象化すればわかるのですが、宗教的解脱の体験か、運命の女=ファムファタルによって、自分が解放されたいって読み替えられると思っています。いや僕の勝手な解釈ですが。長くなりすぎるので端折りますが、「どっちもだめだったね」という感じに本人たちは思っているように感じます。この1980年代から40年以上の時を経て。その後の書いているものや行動を見ると。実際宗教的解脱みたいなものは、社会的にオウム真理教のような新興宗教に取り込まれて村上春樹さんの『アンダーグラウンド』ではないですが、やはりシステムの外にでは出れない。個人的解脱?のラインも、ファンタジーにしか見えません。『虹の階梯』ですね。アメリカの文脈だと、カルロスカスタネダの 『呪術師と私』とか(うぉ、懐かしすぎる!)。これ、結局、中沢さん自体が、もう一度チベットに修行に戻ればわかるんですが、、、、社会の現実に生きることを選んでいることからも、だめな方向なんですよ。じゃあ、運命の女!、女の子に救われるか!!!といっても、あれってアダルトチルドレンで、別にシステムの外にいるわけでもなくて、ただの同じ人間でした、という結論だと思っています。だって、宮台真司さん、普通に結婚して、驚くほど幸せな家庭を築ずいているじゃないですか(苦笑)。あ、この宗教的な方向性がゼーレで人類補完機構で、女に救われたいというファムファタルがアスカやマリの話だって、僕は感じてみていたんです。でも、このライン、だめだなーって。この選択肢じゃ、救済は来ない。あ、いいパートナーに出会って幸せな家庭をつくると、救われちゃうのですが、このあまりに普通な結論では、ちょっとパンチが弱いです。ドラマとして(笑)。

でも、彼らが問うている質問の設定は、いまだ輝きを失わない本質的なものです。


虚構と現実の対立の「その先」という外部へ。人間にとって「外部」とは何か?。「外部」に行くというのは、救済されると読み替えてもいいのかもしれません。村上春樹さんの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の恩寵とかのことだと僕は思っています。



この「外部」が、感じられたかどうかが、この物語の最後の評価ポイント。なぜならば、システムの奴隷になる閉塞感は、ひたすら「どこまでも逃げていくにしても、どこへ逃げればいいのかわからない」という円環ループで表現されてきたからです。ちょっと、投げつけますが、、、、このアホみたいな長文を、読んでいるあなた、、、、あなたは、エヴァンゲリオンシリーズという物語全部を体感して、この「外部」が感じられましたか?


僕はね、、、、、これ、感じられたんですよ。映画批評では、この「外部」、システムの外を垣間見せてくれる映画群に宮台真司さんは、しびれるほど素晴らしい評論を、どかんどかんといつも書いてくれるのですが、「システムの外に出る」というのは、ほとんどのケースが「物語の予定調和から外れる瞬間に垣間見せてくれる聖なるもの」を、題材に扱うので、基本的には「物語自体がちゃんと完結する」とか「キャラクターのドラマトゥルギーが消化される(=ありきたりな物語)」物語じゃないものがテーマになってしまうんですよね。なので、読み解かないと面白くない、物語のドラマトゥルギーの公式を外れるものが多い。なのでめちゃくちゃマイナーなものばかりになる。マイナーで難しいので、「解釈の力」がすごく必要な高踏的なものになってしまいやすい。でも、エヴァは、エンタメでありながら、それを僕は感じます。


つまりね、現実と虚構の連関の構造示し、その「長い長い遍歴(27年の長大シリーズ)」果てに、現実の境界に立ったシンジ君を見たときに、システムの、社会の予定調和の奴隷として生きるしかない僕らが、それでも「現実」と「虚構」の際に、境界線上に立って、前に進もうとする時って、僕はとても聖なるものに、社会のどこでもない場所に立ちながら、「自分」を足で踏みしめる神木シンジ君の姿勢に、目線に、僕はそれを垣間見ますよ。


この辺りは、今後もこつこつ考え続けたいなーと思います。んで、この現実と虚構について、ノラネコさんの評価の部分を抜粋しておきます。

ちなみに作者の過去の発言の影響からか、本作のラストを虚構の否定であると読み解く向きも有るようだが、逆だと思う。
還暦を迎えた庵野秀明が辿り着いたのは、大人も子供も基本的には一つであるように、虚構には現実が必要だし、現実を生きるには時として虚構が必要だという、スティーブン・スピルバーグが「レディ・プレイヤー1」で導き出したのと同じ境地ではなかろうか。
だからこそ、ラストショットで決してフォトジェニックではない現実の中に、虚構のままの二人を解き放った訳で。
TV版の完結編としても、新劇場版の完結編としても、100%納得の世界線である


シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇・・・・・評価学1800円
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そしてVRワールドでの決戦は、いつしか現実世界と重なり合い、ポップカルチャーを搾取の場としか見ない者たちは、どちらの世界でも、大好きなものを守ろうとする人々によって打ち倒される。
クソみたいな現実からの逃避の場だったとしても、それがあるから救われる人もいるし、虚構から現実を変えることだって出来るのだ。
虚構と現実は対立するのではなく、現実を生きるために虚構が必要だという肯定的なジンテーゼに、クリエイターの矜持がにじみ出る。
ここまで来ると、劇中のハリデーがだんだんとスピルバーグ本人に見えてきたのは私だけではあるまい。
フィクションを形作るのは、現実世界での色々な経験に裏打ちされた、誰かに知ってもらいたいクリエイターの想い。
オタクの夢の世界としてのオアシスは、さらにディープなオタクだったハリデー=スピルバーグの、埋もれていった夢や涙や後悔の墓場でもある。
だからこそ、遂に対面を果たしたハリデーと、究極のファンたるパーシヴァルと会話は、とても切なくて優しいのである。


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そう、現実を生きるためには、虚構が必要なんですよ。そして同時に、ちゃんと虚構といもう一つの現実を生きるには、現実が僕は必要なんだとも思っています。ちゃんと他者(=アウトオブコントロール)なものを、直視して生きていれば、現実と虚構は、両方あったほうがいい、というか両方あって人間なんだと思います。



いやはや、素晴らしい物語でした。エヴァンゲリオン。ありがとう、すべてのエヴァンゲリオンに、ありがとうと伝えたい。僕たちは、虚構と現実、両方大事なんだということをかみしめさせてくれる物語。



最後に、ちょっと蛇足を。



田辺イエロウ先生の結界師か!綾波ユイの主人公「格」に謎が深まる!

さて、いろいろな視点で語っていたんですが、いろいろ考えがまとまってくると、どうしても「不可解なポイント」があって、それが、綾波ユイこと、シンジのお母さんなんですね。この人、最後の最後でシンジが選ぶ選択肢をすべて「読み切った上」で、マイナス世界のゴルゴダオブジェクトにいるじゃないですか。これ感覚的に言うと、すごく不思議な感じがして、


え?最初からすべてわかっていたわけ???


という疑問がわきます。というか、わかっていたとしか思えません。論理的に考えれば。それって、ちょっと人間には思えない。そもそもエヴァ初号機を設計できるとか、おかしいオーバーテクノロジーです。とまぎぃさんに話したときに、ああ、これは「第一始祖民族」説という設定があるようですよ、と教えてくれました。僕は事実がどうか知りたいわけじゃないのでちゃんと確かめていないのですが、ユイの最後になった機能から逆算すると、普通の人間ではありえないので、彼女が「第一始祖民族」の生き残りであるとか血を受け継ぐ最後の人(ゼーレの爺たちは肉体をなくしている)という説には、一票です。ナディアやネモ船長のアトランティス人の末裔設定から比較しても、それはありえそうな設定です。が、そういった設定確認は、どうでもよくて、、、、そうなってくると、僕は物凄くイメージがわいたのは、田辺イエロウ先生の『結界師』という傑作マンガです。ここに出てくる主人公の母親である守美子さんのお話。そっくりで、めちゃ思い出した。

この作品を見るときの重要なポイントとして、「主人公のドラマトゥルギー(義守)」と「主軸のドラマトゥルギー(世界を守る+母親守美子)」が、交わっていない、関係ないところにポイントがあると僕は思っています。この世界を眺めるときの特徴として、通常の物語の類型では、この主人公の視点と、物語自体のメインテーマが、一致していないと、「何を言っているのかがわからない」意味不明の物語になりやすい。だから、本来は、ずれてはいけないんです。ところが、それが、非常に関連づけられない形で、物語が描かれている。母親が世界を救うという、ガンギマリの覚悟で、世界をガチで救っちゃうのに対して、主人公も、その兄も、何一つ無力で、意味がない。細かく義守の力が必要とかそういうことではなく、母親の守美子のさんの「自分を犠牲にして世界を守る」という救済プランに対して、何一つ影響力を与えることができなかったという意味で、言っています。

petronius.hatenablog.com


というのは、本来「世界を守った」のは、主人公の母親である守美子さんであって、ほかの人たちって、実は世界に関して何もかかわってなくない!?という驚きのだったんですが、主人公(=メインのドラマトゥルギー)が、主軸ではないところでの世界の多様さを見せつけるという意味でのアンチドラマトゥルギーの傑作ですので、ぜひともおすすめです。とすると、守美子さんは性格的にまだわかる(自分にできることは自分がするしかないと、見切っている性格が何度も出てくるので)んですが・・・・ユイさんって、だいぶ性格「アレ」な人じゃねぇ?って気がしてきます(笑)。ゴルゴダオブジェクト、マイナス宇宙という「時間のない世界」で待っているので待つのは苦痛ではないでしょうが、それにしても、この地獄に引きずり込んで自分の夫のゲンドウ君を顧みないこと、凄まじい。むしろ、私がいなくなって、右往左往してボロボロになっているゲンドウ君、かわいいとか思っている感じがしてなりません。子供(シンジ)ができたんで、そっちに興味が全振りしているのだろうというのはわかるんですが、ちょっとゲンドウ君に対してサドすぎないって?。ちょっと達観して見すぎだよ、あなたなという気がします。そういう意味で、庵野監督は母性に対して一切期待していないのかもしれません(笑)。


富野由悠季という天才~日本エンターテイメントには、異世界・並行世界に行って体験することによって現実に戻ってモチヴェーションを取り戻す物語類型の伝統がある

昨日、友人と話して、これなんでダンバインのオープニングで号泣するのかわけわからん自分という意味でのジョーク?みたいなつぶやきだったのだが、それには「はっきりとした理由があるよ」と親友に指摘・説明されて腰が抜けた。富野由悠季さんって、物凄い人なんだ。わかってはいたけど。。。僕は何もわかっていなかった。ダンバインは、あきらかに「異世界に行って戻ってくる」ことを通して、父母からのトラウマを超えて、生きる気力を取り戻すというシンエヴァのフォーマットと一致している。というかむしろ元祖といってもいい日本エンターテイメントに、指輪物語的なファンタジーの概念を導入した画期的な作品。構造がほぼ同じなんだから、そりゃ泣くよ、シンエヴァで感動したならば、と言われて目からうろこが落ちた。いやはや自分、さすがだな嗅覚と思いました(笑)。なんというか、ちゃんと本質に感動できているんだな、とうれしくなりました。まぁ個人史的述懐はおいておいて、これは僕の物語を見る視点、物語分析の要諦から言えば、当然の帰結なんです。ここで挙げてきた、村上春樹の『1Q84』、また物語の物語の分析で僕が挙げている村上龍さんの『五分後の世界』、吉宗綱紀さんの『マブラヴ オルタネイティヴ』、富野由悠季さん『聖戦士ダンバイン』、庵野秀明監督『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』、それぞれが、「自分」を確立するために、「世界」を把握するために、現実と異なるセカイの行き来を通して行うという類型になっています。同じことを繰り返しますが、彼らが意識して、自覚してこうした呼応をしているかは、僕にはどうでもいいことです。むしろ、意識していないでも、きっとこのような「形式、類型の連鎖、普遍的な問いかけに対する真摯にこたえようとする姿勢の共通性」は起きるのだともいます。なぜならば、僕らは同じ時間と空間を生きているのですから。ただ、これだけはっきりしていると、もうこれは伝統といってもいいぐらいのものだろうと思います。日本的エンターテイメントの本質に到達している形式なんだろうと思います。時系列的にみると、いや、これ明らかにオリジンは、富野由悠季ですね。『機動戦士ガンダム』の父に母に事実上捨てられ疑似家族(ホワイトベースの巻き込まれた戦友のことね)が形成されていくそこに帰るアムロファーストガンダムの答え、『伝説巨神イデオン』の世界のマクロに対する答え・・・・考えてみると、とんでもない人だ。こんなクリエイターが、何十年にもわたって作品を創り続けていて、それをアーカイブで見れる、もしくは人によっては、庵野さんの世代などは、リアルタイムでそのたうちまわる格闘の歴史を見続けているわけですね。僕らは素晴らしい時代に、土地に生まれていると、日本素晴らしいと、ほんと心底思います。


一つ、ワクワクすることと、もう一つがっかりすること。僕はまだ富野作品をそれほど見ていないのですね。バイストンウェルは好きで小説はかなり読んでいたのですが、アニメはまだ抜けているもんがたくさんあるし、なによりも、リアルタイム世代とは少し後の世代なので、見方が甘いのです。子供時代にしか見ていないから。それは、まだ未踏のフロンティアが自分の中に眠っていることで、ワクワクします。半面、こんな凄い作品群をちゃんと見てなかった自分って、と情けない気持ちにもなります。LDさんから、「その程度も見ていないのですか?仕方ないですね(冷静に切って捨てられました)、では白富野からのほうがいいですから、まずザブングルから行ってみましょう。」ときつい命令が来ています(笑)。『海のトリトン』『無敵鋼人ダイターン3』『無敵超人ザンボット3』この辺りはちゃんと見直さないとだめですね。ダンバイン以降は、リアルタイム世代なので、だいぶん見ているんですが。まだまだ甘いですね。クンフーが足りなすぎる。人生時間が足りなく、無様に生きていくのでしょう。でも、がんばります。


■おわりに

とりあえず、あとでリライトしたり、誤字脱字変えたりこつこつしておきたいのですが、今の感覚のを超したくて、出せるものは出し切りました(笑)。4万7千文字書いた。ほんとうは、まだまだ言いたいことあるけど。まだ、Youtubeでもまとめたいので、もう少し考え続けたいと思います。いや、エヴァに出会えて幸せです。2021年の3-4月は、お祭りのような、幸せな時でした。


ということで、現実に還ります(苦笑)。まず現実に還る第一歩として、富野さん作品を見ないと、、、、?え、違う??

『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』庵野秀明監督 1995年から2021年の27年間をかけて描かれた日本的私小説からSFと神話までを包含する世界最高レベルの物語(1)

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評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★星5つーちょっと評価付けらんないくらい最高)

3/14、米国からエヴァのために緊急帰国しました。政府の非常事態宣言が続き、2週間の検疫期間があり、次々に新しく対応しなければならない陰性証明などの過酷な条件をはねのけて。「やるしかない」、それが僕の思いでした(NHKのドキュメンタリー風)。人生には、自分の思いを示さねばならないときがある、と思い決断しました。妻には「あんた、バカァ?」といわれましたが、むしろそれはご褒美です。1995年3月27日のTV版、26話「世界の中心でアイを叫んだけもの(Take care of yourself.)」から、9502日(てきとー)待ちました。27年待ちました。検疫14日間明けの、3月31日に池袋グランドシネマサンシャインの12番IMAXシアターで見ました。これだけの長い時間をかけて、エヴァに関わったすべての人、もちろん待っていたファンである我々も含めて、すべての人にありがとうがいいたいです。日本に住んでいなければ、日本語が分からなければ、この時代に生を受けなければ体験できない思い出です。これこそが記憶の唯一性。「そこに、その時に、生きる意味」だと僕は思う。僕たちの青春が、一つ終わりを迎えます。

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一言でいうと、、、、、映画を見ている間中、この言葉が、頭の中をリフレインしていました。


100点満点だよ!



この物語を庵野監督の私小説として解釈すると、ああ、幸せになったのですね・・・・と感無量な気がしました。物語のエンドを振り返ると、ナディアやトップでやりたかったこととほぼ同一の構造なので、王道の王道なんですよね。そもそも「これ」がやりたい人なんだなぁと感慨深かったです。いいかえれば、血を吐くような思いで27年ここまで行きつけなかっかったのは、時代の要請があったということですから。このように終われて、本当に幸せな物語でした。



ちなみに、ネタバレかつ長いです。本気(バカ)です。とにかく初見の感動を描写しておこうと、舌足らずで、あとでひっくり返るかもしれないですが、今日の感想です。

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■1995年から27年間待ち続けたキャラクターの物語のオチをつけてほしい願い

エヴァが終わる。それは、すなわち、作品全体の評価を、自分がどう理解したかを、最終的に決められる時。27年かかった。

その前に、僕が『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』に臨むものは何か?を設定しておきたい。何かを「深く理解する」には、自分なりの仮説がなければいけないと、と常々僕は思っています。「それ(自分の妄想)」と「現実(他者の妄想)」を突き合わせるところに、物事の理解の深みはあるといつも思います。

www.youtube.com

なので、何も知らないまっさらな状態でこのYouTubeに感想を残してあります。様々な分析の積み重ねではありますが、究極、1995年のTVシリーズの終わり、旧劇場版のアスカのつぶやき、それらを体験したペトロニウス少年というか青年は、何が「その先」に見たかったのか?といえば、


「キャラクターたちの時間を取り戻して彼らのドラマトゥルギーを全うさせてあげてほしい」


です。当時、僕は「物語を終わらせてほしい」という言い方をしていたのですが、その時のニュアンスは、人類補完計画などのSFのマクロテーマを終わらせてほしいというようなニュアンスが色濃かったのですが、今回、TVシリーズ、旧劇場版、新劇場版・序・破・Qをすべて見直して、ああ、実は、SFのテーマは、既に語られつくしている、と感じました。これは、別に語ります。なので、終わってていないのは、唯一、キャラクターたちのドラマなんだ、と思いました。


だから、僕が、パリのシーンが終わった後に、第三村のシンジやケンスケたちの「第三新東京市のクラスメイト達との学校空間の14年後の世界」に接続したときに、感動は、なんといってよいかわかりません。Aパート。庵野秀明監督はさすがだと涙が出る思いでした。この村のシーンだけで、見ているだけで「27年前の止まってしまったあの時間がまた動き出した!」と、胸が躍る気持ちでした。そして、初めて知りました。自分の心の中でエヴァの物語は、27年も止まったまんまだったんだ!と。


YouTubeで、いいたかったことは、非常に単純です。アスカは、幸せになれるんでしょうか?、ケンスケやトウジ、ミサト、委員長たちは、その後どうなって、幸せになったんですか?ということ。それにつきます。その単純なお話が、まだ終わっていなかったんです。どんな形になるにせよ、僕はそれが知りたかった。


本来、この「それぞれのキャラクターのその後」というのは、構造的には、すべて物語が終わって、数年後とか数十年後という回想シーンで、語るべきエンディングシーン的なもののはずです。実際に、シン・エヴァの最後においても、「その結果」が描かれています。けれども、これをAパート(NHKのドキュメンタリーを見ると、これが最初に構想として前提だったことがわかります)というこの映画の導入部に持ってきているところに、監督の「この物語を終わらせる」という気合を感じました。このAパートの機能が、全体のシナリオにおける「転換点」となって、シンジの動機(言い換えれば観客の心理転換)の要になっているからです。


それを順次語っていきます。


■理解するには、SF・神話としてのテーマと私小説としての解決を二つに分けてみるといい

この検疫14日間、公開から友人たちがもりあがっている祭りの熱を受けて、僕は、中田敦彦さんの解説動画、その他、岡田斗司夫さんら解説動画を、順次集中して見続けていました。その結果、体感したことがあります。それは「人類補完計画」をメインとする物語の神話・SF構造については、既に論理的に整合性が取れている、と。これは構造で理解するのあたりであとで解説します。が、一言でいえば、SFとしては、既に結論が出ている感じがしたんですね。



「この理解体感」は、不思議な感覚を僕にもたらしました。



一つは、いまいちわからなかったQが、見事にわかるようになったこと。全体の単語や構造が理解できると、驚くほど精緻に論理的に作られています。あの難解で、意味がわからないといわれたQがですよ!。わからないと思う人は、参考動画一覧を全部聞いてからぜひとも見直してみてください。(あとでどっかにあげときます)。


ちなみに、庵野秀明監督は、エヴァにおいて、「物語の省略」を徹底して行っています。なので、前提として、1)繰り返してみている、2)何年も待ち続けている、3)考察を読み解いているのが前提に作られていると思うのです。演出上、だからこそ、徹底してエンターテイメントとして、見ている観客の体感に寄り添うように作るられているように感じました。さすがに、ここまで「幸せな物語」はそれほどありません。観客が、そこまで一心不乱に、物語の世界を「理解して深く没入しよう」と事前に勉強してくれることなんてふつうないですから。なかなか、興味深いのは、「そうした事前勉強」を前提としているからこそ、物語が省略演出で来て、「余計な枝葉を語らない」ということで、逆に物語が分かりやすくシンプルに主観に感情移入できるという、「私小説」的なシンクロをしやすい構造になっているのも、また興味深い。


二つ目は、上のシンクロ(主観没入)しやすいというのと関連するのですが、キャラクターのドラマという抽象的な言い方をしましたが、もっとわかりやすく具体的に集約しましょう。SFのテーマなどが、「事前に深く理解されていて省略されている」からこそ、キャラクターの心情に、その後に寄り添える。


もっと具体的にいうと、たとえば、僕は、シンを見るにあたって、アスカに救われてほしい、とい命題を立てました。


それが、とてもクリアーに体感できたんです。世界の謎なんぞ、どうでもいいわ!という気持ちに、ある程度全体像が分かっているからこそ、思えたのです。僕の命題は、アスカの話でしたが、物語はすべて絡まっているうえに、最終的には、シンジの内面の私小説なので、そこに見事にフォーカスできた。


■人と対等になり自立するということは、自分が必要ないことを認め、本当に相手の幸せを願えること

2つのシーンが、今も胸にくすぶる。一つは、シンジが、自分を無視してアスカを救うシーン。もう一つは、第三村にアスカの脱出したエントリープラグが乗り捨ててあるシーン。このシーンの後に、アスカが、ケンスケの胸に飛び込んでいったのは、想像に難くありません。


なんか、物凄い納得と癒しが訪れたんです。自分に。


アスカに救われてほしい、というのは、たぶん僕の体感感覚は、シンジの最終的な感覚と同じなはず。「自分(シンジ)がアスカを救う=アスカに自分(シンジ)が救われる」ではなくて、アスカ「に」救われてほしかったんだよ。この助詞の重要な感じが伝わりますでしょうか。


アスカが救われるならば、自分自身については、度外視だと言っているんです。


それとね、アスカ自身の成長についても。14年の年齢を経て、彼女自身も、「自分自身が救われることがない」ことについて折り合いをつけていると思うんです。彼女が、世界を守るために、躊躇なく自分の使途との封印の眼帯を外すこういうが、それを物語っています。


僕的な用語でいえば、シンジもアスカも、覚悟ガンギマリ(笑)なんです。


「自分自身の内面の心の問題」をいったん置いておいて、それでも、必要な責任をなすと決断できることが、大人の条件だと僕は思ってます。それを、覚悟ガンギマリといっています。


そして、実は、自分の内面をいったん外に置いておいて、それでも、世界を、他者を思いやれたときに、、、、言い換えれば「自己愛ではなく他者を愛せたときに」、はじめて、自分自身の内面への救いが訪れるものなんだというこの世の真理を突いていると思うのです。


そう、アスカも、シンジも、最終場面で、「自分自身の自己愛(=自分自身が救われたい)」というエゴを超えて、相手を思いやれているんです。


シンジの視点では、アスカが他人のものになる(=シンジとは結ばれない)というところが、また、見事に素晴らしい。


これは、アスカに、「女の子に自分を救ってほしい」と叫んで、「気持ち悪い」といわれた旧劇場版のラストから、明らかな心理的な変化を感じます。


それでも、自分に関係なく、共依存から自立してしまったとしても、それでも、アスカに幸せになってほしい。なんていじらしく、素敵な男の子になったじゃないですか、シンジ。


僕は、アスカに物凄いれこんでいた、『電波男』の本田透さんや、『RETAKE』のきみまるさんらが、これをど受け止めたのかとても知りたいです。悲惨な目にばかりあってきたアスカ、、、彼女に出会い、癒されて、深く彼女を愛してきた人たちは、たくさんいます。時代を代表するヒロインのひとりですもの。でも、その彼女に「あなたは必要ない(好きだったけど、違う人を好きになった)」といわれても、彼女の幸せを願えるでしょうか?。そこに、時間の流れの試練が隠されているように思います。



■ケンスケとトウジの14年の重み~人として大人になることの魅力

しかしながら、きっと、第三村のAパートが、機能していないければ、こういう風な体感は訪れなかったんじゃないかと僕は思っています。

実は、ケンスケの描写を見ていて、最初から、なんだか、驚きっぱなしでした。出た登場初回から、色っぽいんですよ。艶やかで、大人の魅力にあふれていて、なんだか、ヤバいくらいかっこいいんですよ。実は、アスカと結ばれるとは思っていなかったので、なんでこんなにかっこよいのか???というのがよくわかりませんでした。今考察してて、その理由は、痛いほどわかるようになってきました。


ちょっとその話をする前に、伏線でトウジの話に戻ります。トウジ、かっこいいですよね。彼は、最初からかっこよかったので、男の魅力にあふれる14年たったあとの責任感あふれる成熟した大人の魅力を見せられても、「ああ延長だな」と思っただけでした。ただ、


「家族のために人には言えないこともしてきた」


と、ニアサードインパクトの終末世界を生き抜いてきた彼の言葉に重みがありました。この「当たり前の好きな女の子と結婚して家庭を築いて娘を愛する」というものを成立させるために、彼が払った犠牲と苦しみの14年を考えただけで、頭が下がる気がしました。そして、その深さを感じさせる「強度」を僕は、とても感じました。医者になるような勉強なんかとてもできないだろうし、この小さな村の人の中でリーダー的な存在になるのに、どれだけの内ゲバや内紛があったでしょう。僕らは、終末世界の、共同体再建の物語を、たくさん見てきています。それがどれだけの地獄かは、『ウォーキングデッド』『マッドマックス』『チャイルドプラネット』でもなんでも、すぐ想像がつくと思います。その地獄を生き抜いて、トウジは、あのやさしさを示せるんですよ。家族を守り抜いて。


14年のニアサードインパクト後の世界。


これが、311以後の世界のメタファーであるのは、指摘する必要もないと思います。わからずとも、日本に住み体験した人は、実感するはずです。こののちに解説したいですが、第三村は、日本エンターテイメントの位置づけでは、異世界転生、並行世界、災害ユートピアとしての、「人生をやり直し装置としてのメタファー」になっていると思うのですが、この「311以後の共同体の再生」についての強度とリアリティを獲得するには、生半可なことでは、単なる「機能としてのメタファー装置」という書き割りの舞台(繰り返しから抜け出れない)になってしまいます。そもそもが本質的には、「そういうもの」ですから。NHKのドキュメンタリーで、カットに異様にこだわり、アニメの制作方法をそのものを全く新しい形にこだわって庵野秀明が作った理由を感じます。


この第三村のリアリティのある強度と実存感覚を観客に伝えなければ、その後のシンジの心の変化への説得力がなくなってしまうからです。


さて、その話は、あとで深く語るとして、ケンスケに戻りたいと思います。


映画を見ながら、彼が「かっこよく魅力的に見える」理由が、よくわかりませんでした。いくつか見てて疑問に感じました。


「なんで彼は、村の周辺部の外れに住んでいるのか?」


「なんで結婚していない一人ものなのか?」


ただ、最初のシーンから、アスカって、服着てないじゃないですか。ノーブラで。え、ちょっとまって、しかも「生産する人間じゃないから、村にはいれない」といっているんだけど、でもだからといって「なんでケンスケの家(しかも孤立している)にいて、しかも彼のベットで、そんなにリラックスしててゲームしてて、ノーブラなの?」って、思いませんでしたか?(笑)。


僕は、、、、あ、これは「ヤってるな・・・・」と思いながら見ていました(笑)。だって、シーン全部に、親密さがあふれているんだもの。ケンケンとか、なんでそんなに親しそうなの?って思うでしょ、普通。


でもそうすると、もっと不思議なことをケンスケとアスカの関係性に、感じました。


ケンスケのセリフを見ていると、本気でシンジを思いやっていて、まったく嫉妬やアスカへの独占欲などの感情が、まったく感じないんですよ。だから????ってなりました。


精密に当時の感覚を振り返りましょう。


ケンスケとアスカこれは、ヤってる(笑)これは事実だな。しかも、アスカは、この村に来るときに、ずっとケンスケを二人で暮らしてる。


なのに、ケンスケには、アスカに対する恋情や、独占欲は感じない。


・・・・・・・そこで思い立ったのが、14年もたっていることです。


そうか、、、、このカップルは、もう長いこと付き合って、肉欲の関係も過ぎて、それで別かれているのだな、、、、と。歴史が、重いんですよ、二人の。シンジがまだどこかにいるだろう、、、ニアサードインパクトの過酷な世界を、14年も、生き抜いてきたんです。いろいろあったんだろうな、と。そして、アスカは、自分が使途を封印している身で、エヴァの呪縛で年を取らないことも、普通の生活を選べないことも知っている、いつ死ぬかわからない傭兵として14年生きてきているんです。つきあっても、どうにもならないじゃないですか。


だから、お互い思いあっていても、恋情で動く時期は過ぎてしまったのでは、、、と思ったんですよ。
(ちなみにこの分析に数分で行きつきました、見ている最中(笑)←どれだけ本気やねん)


ケンスケにもう一つ不思議なのは、彼にはサバイバルの知識があり、第三村を率いるリーダー的な存在だったのは間違いないです。そうであればこそ、彼がヴィレやその外部機関の組織のメンバーにならなかったのが不思議なんです。だって、ヴィレなどの組織との「つなぎ」をやれるほどの立場にいるわけですから。性格や能力的にも。


そうか、、、、なんで「村に入っていって」生産する立場のリーダーにもならなければ、「村の外に出て」ヴィレなどの組織に入らなかったのかは、アスカの存在を考えるとよくわかるんです。


アスカに会うために、アスカの帰る村を守るために、アスカが戦闘で苦しんで休むひと時の休息のために、彼は、あそこに住んでいるんですよ!。


たとえ、アスカとの未来はなくとも、それでも。。。。。。


覚悟ガンギマリです。


ケンスケ、、、、、そりゃ男の魅力あふれる色っぽさを感じるはずです。彼には「覚悟」がある。いつ滅びるかもわからない第三村を守るため、戦うのではなくて、「その機能を維持するためのインフラをチェックする」という仕事に身をささげているのも、アスカのひと時だけでも帰る場所を守るための覚悟があるんですよ。


既に、ケンスケは、アスカから見返りを期待することすらなく、ただ単に、彼女のために。そして、彼女のためと、第三村のインフラを守るという「社会人としての仕事」を両立させています。これ、責任ある大人の男の振る舞いだと思うのです。外へ出て、みんなを守るために戦う戦士である彼女の帰るところ守る。なんて、素敵な大人になったんだ、と思います。



■物語の主人公でなくても、成熟した人には魅力があり、本当の意味でヒロインを救えるんだよっ!


物語の主人公出ないモブキャラでも、ヒロインを救えるんだ、と叫ばれているような気がしてなりませんでした。


ずっと僕らがアズキアライアカデミアで話していた最前線の物語分析。90-00年代の脱英雄論のテーマですね。世界を救うのは、ヒーローだけではできない。


いまだ、ケンスケは、モブキャラです。だって、ヴィレのメンバーでもないし、人類補完計画をめぐる物語のわき役にすぎません。けど、モブキャラだって、人間です。人間は生きているんです。そして生きているところには、世界が社会がある。14年、、、、物語のメインテーマからすれば、「生き残ったその他の人々でくくられるモブキャラ」たちで、物語ドラマトゥルギー上の意味もありません。


けど、シンジよりも、早く成熟した大人になって、人生を積み重ねています。なぜならば、物語の主人公じゃないから。そして、その成熟は、傷ついたヒロインに「帰るところを用意できる」ほどの器になっているんです。


ケンスケの魅力は、そうした成熟の魅力、限られた手持ちの条件で、それでもなお果敢に時間を積み重ねてきた大人の魅力だと思います。そしてこの大人の魅力の器は、他者を愛し守り愛しめる器になれるんですよ。



■承認欲求の混じった子供の恋を超えて

アスカの視点からすると、なぜケンスケを愛するようになったか。というのを考えると、やはり14年の成熟の重みだなと思います。


アスカの物語を見直そうと、きみまるさんの『RETAKE』を読み直したのですが、そうすると、アスカとシンジって、やっぱり好きあってたんだなと思いました。少なくとも、アスカは、シンジを好きだったんだろうなと思います。同人誌の可能性の世界線も含めたすべてを考えて。


当時(特に破を見ている頃)、僕は、なんでアスカはシンジを好きになるんだろう?って、不思議に思っていました。いや、クローンはすべてサードチルドレンを好きになるように調整されるとか、そういうの抜きにして。なぜ疑問に思うかというと、この関係性を、突き詰めていくと、きみまるさんの『RETAKE』みたいになるんですが・・・・僕の感覚でいうと、あまりに先がない、二人が不幸になる未来しか想定できなかったからです。


いま、考え直すと、この理由はよくわかります。「子供同士の恋」なんですよ。「承認欲求」と「恋情」が絡まっていて、明らかに幸せになれないやつ。


同人誌などの「アスカをめぐる物語」が、すべてこの「彼女の満たされない承認欲求=愛されなかった子供時代」を癒してあげたという思いに貫かれています。似た者同士の恋なんですね。


でも癒すことはできません。


理由は簡単です。「愛する側のシンジ」もまた同じことを目的にしているので、承認欲求がループになってしまうんですよ。子供の恋ですね。僕は、「それが悪い」とは思いません。子供の恋だって、恋です。けれども、絶対に幸せにはなれない。


そして、14年の年月の積み重ねの中で、アスカは、物語の主人公ですらないモブキャラ(=エヴァパイロットではない)が、必死に生きているのを、まじかで見続けることになります。ケンスケとトウジです。


14歳の女の子と、28歳の世界の不条理さと苦しみを抱きしめて責任を背負う覚悟のある女性では、魅力に思う相手が違うのは当然です。


そして、エヴァパイロットとして、サードインパクトに関わる罪を背負い・・・・言い換えれば「自分が行ったことでもない罪」の責任をとらされて生きるとき、物語の本筋に関われずサードインパクトという地獄を受け入れ抱きしめ、それでも、何とか生き延びるために必死で自分を「小さな役割を引き受けて全うしようとする」ケンスケらの姿が魅力的でなかったはずがありません。だって、覚悟ある成熟した人の重みをめちゃくちゃ感じるもの。


そして、大人の恋を手に入れて、承認欲求を覚悟によって封じ込めた=成熟したからこそ、「子供時代の傷つけあうであろう恋」を認められるようになったんだと思います。だから


「あなたのこと好きだった。ごめんね。大人になっちゃった。」(うろおぼえ)


というセリフにつながる。ちゃんと過去を清算して前に進むためにも、「好きだった」というのを伝えるのも、大事な終わりです。これは、14年たって、20代後半になって、過去の幼い恋を思い出すことなのです。


めちゃくちゃ余談ですが、この辺りを、最近見た最高の傑作、岩井俊二監督の『ラストレター』で感じました。



■アスカに救われてほしいという物語は、見事に昇華されていた

最初の命題で、「キャラクターたちの時間を取り戻して彼らのドラマトゥルギーを全うさせてあげてほしい」という仮説を立てました。その具体例で、気になっていたアスカを取り上げました。


僕には、大納得です。


アスカ、そんなみじんも振りを見せていないのですが、最後の脱出したエントリープラグがケンスケの家の隣に落ちてからだったシーン。あの後、駆け出していってケンスケに抱き着きに行ったことが、脳内で補完されました(笑)。


彼女の時がやっとはじまるのです。


アスカはアスカだよ、それだけで十分さ(うろおぼえ)


ありがとうケンスケ。彼女を幸せにしてくれて、ありがとう。よかったね、アスカ。


■Aパート第三村の実存性を上げるための試行錯誤

3/22に放送した、NHKのドキュメンタリー『庵野秀明スペシャル! 「プロフェッショナル 仕事の流儀」』を見ていた感じたのは、監督が、絵コンテがないほうがいいとか、アングルにこだわってプリビズのアングル撮りすぎて鶴巻監督が、わけわからなくなっているのを見ていると、個人的にはなるほどなぁと思った。

というのは、この部分のこだわりをどうとるのかは、いろいろ解釈もあるだろうし、映画やアニメ制作の工程や技術に詳しくない僕が考えるのは的外れかもしれないんだけれども、実写映画製作とアニメ制作で最も違うことの差異の一つに、実写映画は、つねに偶発性にさらされているというのがあるんですね。そしてアニメーション制作の特徴的なのは、この偶発性が排除されていて完全に工程が管理されていること。偶発性の良さと悪さっていうのは、例えば実写映画だと、現実を切り取るんで「天気の良さ悪さ」や「役者の体調」とか、監督が作家主義的にコントロールしきれない部分の余剰が常に映り込むんですね。その余剰部分が、世界に奥行きを与える。しかしながら監督のコントロールの意味でいうと、意図しない要素が入り込んでしまうという欠点でもあるわけです。絵コンテで作成するというのは、厳密な工程管理で、集団作業を統合するわけで、この余剰部分・・・・偶発的に入り込む世界の奥行きが失われるわけです。逆を言えば、作品世界を、厳密にコントロールできる。


これを排したい、というのはどういうことかな?と考えると、やはり、シンの世界に対して、偶発性を取り込みたいということだろうと思うんですよね。マリという鶴巻監督的な、いいかえれば庵野秀明的でないキャラクターの投入とかもそうだけれども、庵野秀明私小説の「内的世界」をどのように壊すのか、変化させるのか、、、、重要なのは、そこから「外に出るのか?」という仕掛けに物凄く凝って、苦しんでいる。


もちろん、この実写映画の偶発性の取り込み、制作過程の導入などが、どうかんがえても、『シン・ゴジラ』で培ったものが反映していることが分かります。また内容的考えても、『シン・ゴジラ』の脚本が、夢の世界に妄想で入り込むアニメーションではなくて、集団で、組織で、過酷な現実に立ち向かうという構造が反映していると思う。


えっと、なんでこのことを指摘するかというと、Aパートの実存性を上げないと、この後の、シンジが動機を取り戻すというこの作品のコア中のコアの転換に対しての説得力が与えられないからだと思うんですよ。


■シンジが動機を取り戻すきっかけは何だったのか?

本作のアフレコ前には、初めての経験をしたという緒方。「ある日『シナリオについて相談したい』と連絡をいただいて、スタジオカラーさんに伺ってミーティングをさせていただきました。『:Q』の最後で言葉を発せない状態になってしまったシンジが、どうやったら復活すると思うか、君の意見を聞かせてほしい』と言われたので、『庵野さんが決めた通りにやります』とお話ししたのですが、庵野さんは『いま僕は、シンジよりゲンドウに近い感覚になってしまった。いまのシンジの気持ちを理解しているのは、緒方と(総監督助手の)轟木(一騎)しかいない』と(笑)」。

続けて「今回のシンジは、ただ拗ねて黙っている状態ではありません。自分が覚悟を決めてやり遂げようとしたことが、なにもなし得ていなかった。それどころかたくさんの人たちを巻き込んでしまい、なぜだかわからないけれど、周囲のみんなもまるで知らない人のようになってしまったという状態です。そのなかで唯一、自分と話してくれた友人を目の前で失くしてしまった。さらに『槍を抜いたら元に戻る』と言われたから必死でやったのに、もっとひどいことになってしまった。そういったすべてを背負ったうえで、シンジはしゃべれなくなってしまったんです。シンジの気持ちを私の感じたままお話しして、整理しながら『それらを乗り超えられる状況が整えば、どうにでもなると思います』と意見を交換させていただきました」と述懐。
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エヴァを見るうえで、ペトロニウスが常に、注目してきた点は、シンジの動機です。「エヴァには乗りたくありません」と、世界を救うことを拒否したヒーロー、主人公が、それでもなお、物語に復帰するポイントをどう描くかということだからです。これまでの物語「乗らない・乗れない理由」は、これでもかと描かれていました。


物語を終わらせるには、「乗る理由」を描かなければなりません。


www.youtube.com


ちなみに、「動機を取り戻す」ために必要な、それぞれの問題意識のレイヤーは、この配信の52分ごろ図解しています。


放送終了直後の庵野本人のインタビューなど読みどころ満載の『庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン』(太田出版、1997年)所収の「庵野秀明“欠席裁判”座談会(後編)」で、メインスタッフや同書の編者らはこのように語っている。

竹熊(健太郎):逃げちゃダメだとか、なぜロボットに乗るかという動機づけは、まだ成功しきってないと思うんですね。(略)そこをちょっとアクロバティックにやっちゃったなという感じはありますね。実際には乗るわけないんだから。リアルに考えれば。

貞本(義行):文字づらでは、これは乗らないでしょうと、僕は思いましたけれどもね。

摩砂雪:ダメでしたよね。シナリオ見て、全然ダメだと思って。なんとかなるのかって。

こてんぱんである。これに続いて、富野由悠季の代表作『機動戦士ガンダム』(1979年)の第1話を参照して、主人公のアムロ・レイガンダムに乗るまでの完璧な流れを「絶対超えられない!」と、庵野が悩み苦しんでいたエピソードが紹介される。このとき正しい答えが見つからないまま、大人たちによる恫喝によってシンジを初号機に無理矢理乗せてしまったことへのリベンジがかたちを変えてくり返され、おおむね失敗してきたのが、エヴァの26年の歴史の大半であったとすら言ってもよいだろう。


『シン・エヴァ』評「反復」の果てに得た庵野秀明とシンジの成熟(CINRA.NET) - Yahoo!ニュース

この少年の夢としての「男の子の動機」をめぐる解釈は、物語三昧の基礎のような視点なので、過去の記事なり配信なりをぜひとも見てみてください。一番的まとまっているものの一つは、上記のアージュさんのところでお話させていただいた資料ですね。






■Aパート第三村は、シンジ、レイ、アスカの3人の物語の結論~働くこと、共同体で価値ある位置を示すことが、自分の居場所

あまりに長くなりすぎると、書き終わらないので、とりあえずメインのアスカの具体例は書きました。Aパート第三村は、シンジ、レイ、アスカそれぞれが、これまでのエヴァンゲリオンの「子供だった時代」を乗り越えていく「きっかけとして機能しています」。アスカについては、話しました。レイ、黒綾波(仮)については、明らかに具体的なシーンを積み重ねているので、彼女の体験による心の動きが、彼女を「人として成長し自立していく」プロセスが描かれていると考えて問題ないと思います。


何が描かれたのか?


トウジ、ケンスケもそうなのですが、第三村で描かれているのは、ずばり


働くことの価値


です。ここにいる人は、ニアサードインパクト以後の、廃墟になった世界を再建している人々です。彼らは、生き延びるために、、、、言い換えれば、自分も、村も、生き延びるためには、「自分にとって」と「みんなにとって必要なこと」を、ちゃんと為さなければなりません。働くことというのは、そういうことです。自分にとっても、みんなにとっても意味あることを、ちゃんと行うこと。


僕は、様々な物語分析で、00年代以降が「お仕事モノ」へ回収されていく様を分析してきました。


その意味が、ここでようやく腑に落ちました。自分の自己愛の世界に閉じ込められているときに、どうやったら抜け出ることができるのか?


自分にできること、したいこと

みんなが必要なこと


のバランス点を見極めて、それをこつこつ行うことなんです。魂も何もなかった黒綾波が、毎日の「労働を通して」世界を体感していく様は、働くことが、世界とつながるための重要なカギなのだということ、まざまざと伝えてくれます。上で、第三村の実存性が、重要として執拗に表現を磨いたのは、この「労働をとして額に汗する感覚」の積み重ねともいえるべき感覚が、ちゃんと伝わらないと、この第三村という世界が、ただのイリュージョン、妄想の逃げ込み場になってしまうので、そういう「逃げるだけの幻想としての記号」としての世界が滅びた後の共同体ではないように表現することが重要だったのではないかと思います。


みなさんは、黒綾波の、魂の癒し、自己再生を感じられたでしょうか?。少なくとも、僕は感じました。


『RAIL WARS!』 末田宜史 監督 お仕事系というキーワードで - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

『冴えない彼女の育てかた』11-12巻 丸戸史明著 ハーレムメイカーの次の展開としてのお仕事ものの向かう方向性 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために



異世界転生、並行世界、災害ユートピアとしての第三村ー自己再生は、本当の自分なのか?


しかしながら、、、、やはり、まだ一回しか見ていないので、正しいかわからないが、シンジが明示的に動機を取り戻した理由がよくわかりません。ただ、第三村で、黒綾波と会っているうちに、彼は気力を取り戻したように思えます。それは、上記の「働くことの価値」を通してでした。それ自体は、なぜそう庵野監督が思いついたのかは、別に説明します。


が、しかし、シンジは?。彼は、特に働いていません。シンジが、この後のB、C、Dパートで、ゲンドウとの対面を果たす、、、のは先に行きすぎなので、最初に説明した、アスカを対等な存在として「彼女自身の幸せのために」と考えるには自立しなければならず、この自立が、なぜ起きたのかに体感がなければ、このシナリオは成立しません。

この前に指摘していますが、第三村が、現在のはやりの、というか2000-2010年代に特徴的な日本のアニメや漫画、ライトノベル異世界転生、並行世界のシナリオと同じ機能を持っているのは、明らかでしょう。

しかし、この「転生して違う共同体で自己再生する」という物語には、強い批判が存在していました。

それは、一つには、現実から「逃げていいのか?」という問いです。これについては、現実でもう一度生きる勇気を獲得するためには、幻想の世界で一休みするのは、とても有効な方法だということが分かりました。この系列の物語類型は、たくさん話してきましたね。魂の癒し、依存からの自己回復には、「時間がかかる」のは大前提なので、猶予時間を獲得するというのは、重要な戦術であることが分かりました。


しかし、もう一つあります。これのほうが本質的なのですが、災害ユートピアではないのか?という問いです。レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』を見るとわかるのですが、311など特別な災害が起きると、選択肢が限られるため、人々は疑似共同体をつくりあげ、そこで満たされます。

災害ユートピア(さいがいユートピア、英語: disaster utopia)は、大規模災害の後に一時的な現象として発生する理想郷的コミュニティを指す呼称[1][2]。アメリカ合衆国著作家レベッカ・ソルニットが提唱した概念で、多数の犠牲者を出し、一部地域に集中した悲劇を目の当たりにした社会では、人々の善意が呼び覚まされて一種の精神的高揚となって理想郷が出現する、とする[1][2]。

ソルニットによると、大規模な災害が発生すると、被災者や関係者の連帯感、気分の高揚、社会貢献に対する意識などが高まり、一時的に高いモラルを有する理想的といえるコミュニティが生まれるが、それは災害発生直後の短期間だけ持続し、徐々に復興の度合いの個人差や共通意識の薄れによって解体されていく[2]。


災害ユートピア - Wikipedia


これって、「本当の自分なのか?」という問いです。過去に、薬害エイズ問題を扱った小林よしのりの『新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論 』(1996)も思い出します。ようは、災害が起きて、疑似共同体が立ち上がっているところに、ボランティアなどで駆けつけて、「そこで必要とされている」と感じて充足を得ることは、明らかに欺瞞じゃないか?、自立していないただの依存の甘えじゃないか?という問いです。


これはシンジに強く響く問いです。つまりは、世界の終わりや使途との戦いといった「非常事態に巻き込まれて」、自分の本質と直面もせず、ただエヴァパイロットとして「巻き込まれていれば」、それで充足を感じられる・・・・というのは、欺瞞だよね?ということですから。


僕は、シンジ君が、立ち上がろうとしないのは、非常によくわかりました。自分が世界を壊してしまった罪の意識もあるでしょうが、同時に、ここで簡単に働き始めて、居場所を得て、癒されてしまっていいのかというかたくなな気持ちが生まれたのは、とても共感できます。


アスカには、14年の歳月がありました。


綾波には、魂と記憶がないので、背負うべき罪や責任がありませんでした。


彼女たちには、そうしたアドバンテージがあったんです。


それを、シンジ君は、どう乗り越えたのか?



シンゴジラが描いた組織を通して世界とつながること~組織でつながるのは働くことなんだ

シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)』 2016年日本 庵野秀明監督 もう碇シンジ(ヒーロー)はいらない〜日本的想像力の呪縛を解呪する物語(1)
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20160823

シン・ゴジラ』(英題: GODZILLA Resurgence)』 2016年日本 庵野秀明監督 もう碇シンジ(ヒーロー)はいらない〜日本的想像力の呪縛を解呪する物語(2)
https://petronius.hatenablog.com/entry/20160909/p1


次の2で語ろうと思っているのですが、この物語が、庵野秀明監督の私小説であり内面世界からの脱出で作られているのは、言うまでもないこととして皆さんには周知されているでしょう。このラインから、シンジ君の内面の成長、というか転換を考えてみたいと思います。いきなり物語の外に話が飛躍するのは、私小説ということもあるのですが、それ以上に、エヴァンゲリオンが作成されたオリジナルの設定から抱えている構造的な欠陥ともいえるべき問題点があるからです。


それは、僕が、マヴラブの分析をしたときに、「男の子が動機を取り戻すにはどうすればいいのか?」という問題意識を持つと、各レイヤーごとにちゃんとした自分なりの結論を出して、それを統合して「手を汚す覚悟」というのを持たなければ、善悪が判らない世界で、それでもなお戦うという、立ち上がるという動機にはつながらないと書きました。この分析は、僕は今でも正しかったと思っています。


しかし、シンゴジラの分析をした時に、またマヴラブのクーデター編を分析した時に、「日本という視点」がすっぽり抜け落ちているので、ここを埋めないと、前に進むことができないはずだと書きました。日本のエンターテイメントは構造的にこの部分の欠陥を持っているので、正義の味方としての「組織」を描くと、ネルフのような人類のための組織になってしまい、目的があやふやになってしまいやすい。自分、家族、友人と人類とをつなげていくためには、その中間に組織、国家の意識がないと、何かあいまいなものに命をささげるような、いわくよくわからない感じがしてしまい、コミット感が薄れるのだと思います。

だから、庵野秀明は、この物語、日本を描いた『シン・ゴジラ』を作らなければならなかった。


でなければ、エヴァQの先を描けるはずがないんです。


2016年9月9日

当時、シンゴジラを、吉宗鋼紀さんと一緒に見に行って、興奮してこのことを話したの今でもはっきり覚えています。


■鈴原サクラの意味~物事には両面があって、それはよいことでも悪いことでもあるー善悪二元論を超えて意志を持つこと


シンのヒロイン誰?と聞いたら、たぶんほとんどの人が、鈴原サクラってこたえるんじゃないかなってくらいの、チョイ役なのに一番シンジを思いやっている子です。僕は、絶対、マリとのエンドの先に、サクラちゃん出てくると思っていますよ!(笑)。えてして、自立した後に必要な相手は、全然違う人なんですよ。


彼女矛盾したことを言っていますね。態度も、凄い振れ幅です。


これが何が言いたいのか?


サクラの言っていることは、シンジが行った罪=は、ニアサードインパクトを起こして、世界を滅ぼし彼女たちの家族を殺したと同時に、なんとかサイードインパクトを防ぐためのぎりぎりの手段でもあった。しかも、本質的に、彼女たちの日常を家族を殺したのは、ゼーレであり、ネルフであり、ゲンドウであって「憎むべき相手はシンジじゃない」のはわかっているんだろうと思います。何かお行えば、世界には、様々な影響があって、それはポジティヴなものとネガティヴなものが同時に起きる。NHKのドキュメンタリーで庵野監督が、作品を作ると、いい影響ばかりじゃない、とすぐ反応を返しているのは、この世界の両義的な側面が、めちゃくちゃ重くのしかかっているんだろうと思います。エヴァのおかげで僕は、最高の物語体験をさせてもらって幸せですが、同時に、旧劇場版とかを見て人生悪い方向に崩れた人も多くいたんではないかと思います。でも、それ責任取れと言われても困りますよね。作りては、やむにやまれない衝動でものを生み出しただけで、責任を考えて作っているわけじゃないでしょうから。


90年代の大きなテーマで、善と悪の対立を煽って、悪を倒し続けてきた時に、「悪の側にも悪の理由があって」という風に深堀していって、何が正しいかわからなくなったというのが、善悪二元論的なヒーローもののおおきな構造的問題点でした。このことは、クリントイースウッド監督の『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』で一度語ったことがあると思います。単純な善と悪の二元対立の視点は、シンプルで人の感情移入を誘いますが、それでは到達できない領域があって、そこに到達できなければ、絶滅するまで憎しみあって殺しあうしかなくなるんです。この構造を何とか抜け出したいというテーマを、一次元具体的に落としたのガンダムサーガの「この地球上から戦争をなくせないか?」でした。このへんは、長くなりすぎるので、僕らの書いた「物語の物語」その系譜を追ってください。


けど、「何が正しいことかわからないと」、何もできない、というのは子供です。


答えは、「自分の手を汚す覚悟を持て!」なんです。これマヴラブの解説で散々しましたね。男の子の動機が失われた世界は、何が正しいかわからない世界。その中で何かをなすってことは、「悪を為す」覚悟を持つこと。物語マインドマップでは、悪を為す系として、反逆のルルーシュを上げていますが、大義を超えて、個人的なレベル(僕の用語でいうとミクロの次元)で手を汚す覚悟を持つことは重要です。


シンエヴァは、このシンジが動機を取り戻すのに必要な「自分がやって来たことに対して自覚とを持つ」という告発のパートが、基本的にQだったんだろうと思います。


ということで、態度と言葉で、この両面にストレートに言及しているサクラは、これはダークホースだ!と思ったのですした(笑)。あとから出てきた後輩ちゃんキャラですね。親友のLDさん、ヤンデレ好きが、めちゃくちゃ推しておりました。



■災害ユートピア共同体(ガイナックス)としての第三村から、アソシエーションとしてのスタジオカラー(大きなかぶ)へ

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ちょっと戻ってみたいと思います。シンジ君の依存からの脱却の理由は、組織を通して働いている姿を見ることでした。僕は、ここが感情的には、すっきりするのに、今思い出してみると、はっきりとした具体的エピソードを思い出せません。


ここは重要なポイントだと僕は思っています。それは、きっとこのエヴァシリーズのオチを、第三村という田園的共同体の回帰や、父親との葛藤を直視して、大人になることだという陳腐な物語に回収することで、「つまらない終わり方をした」という批評家がたくさん出るのではないかと思いました。構造だけ取り出すと、必ずそういう風にしったかぶりに解釈をつける非常化がたくさん出るだろうなと思いました。新海誠監督の『天気の子』についても、そうした社会還元論私小説の側面を自己啓発セミナー的にとらえて、イデオロギーで陳腐な終わり方をしていて最低だとかいう、つまらない解釈をする人はたくさんいました。


『天気の子(Weathering With You)』(2019日本)新海誠監督 セカイ系の最終回としての天気の子~世界よりも好きな人を選ぼう!
https://petronius.hatenablog.com/entry/2019/08/31/054906

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そういう人たちは、物語を、キャラクターたちの人格を、ちゃんと追っていないんだなと、いつも思います。自分のイデオロギーを語りたいがために、作品を利用しているだけに思えてしまう。



とはいえ、だからこそ「誰もが見た瞬間に容易に思いつく」この批判について考えなければいけないんだろうな、と思うのです。ようは、庵野秀明監督の私小説的側面で、「壊れた自我、動機」を取り戻すというのが、自己啓発セミナーの「家族との関係を相対化して大人になりなさい」とか、共産主義の良く向かう到達地点での「田園共同体への回帰」すれば癒されるって、、、、そういうのじゃない!ってのを、いいたいんですよ。いや、なんというか、とても王道で、陳腐な収束地点なんですよ、確かに抽象化すると、ことばでいうと、このとおりなのですが、、、。


でも、僕はそうは感じないんですよ、、、まだうまく言葉になっていないんですが、まずこれに対して、庵野監督の「私小説的側面」なんですが、ここまで心を切り開いて、血をどくどく流すように生々しく追及し続けて・・・・27年ですよ。これが維持されて、それについての答えが出ているものを、陳腐なものとしてとらえるのはおかしいって。まだ自分がどこに行くか、わからずに書いてますが、まず見ているずっと頭をよぎっていたのは、安野モヨコさんの『大きなかぶ』の映像です。


これって、庵野監督が、テレビ版のガイナックス以後にカラーを立ち上げて作品に結実している過程を描いていますよね。庵野秀明さんのエヴァンゲリオンシリーズは、彼の内的世界を描くという私小説的に理解するのが間違いないと思います。その場合、庵野秀明の個人史の中で、この破壊と癒しと再生…いいかえれば、依存と自立というのは、どういう風にとらえればいいのかと言ったら、僕は、タイトル的に感じました。


先ほど言ったのですが、個人の私小説的なレベルはいくらその悩みを考えても、ひたすら孤独に落ち込んでいくだけで、人間存在が、人間の実存が、他者と分かり合えない「孤独」なのだという構造的なものに行きつくだけです。それを超えるのに、僕は、組織が描かれなければならないと思っていました。


けど、組織を描くって、どういうことだ???


それが、具体的にはわかりませんでした。シンゴジラ喝采を上げたのは、「一人では為し遂げられないこと」を、「たくさんの人の思いを重ねて達成する」という構造をポジティヴに描いたことでした。


そこで凄く感じたのは、つい最近のカラーとガイナックスとの関係です。


素人に寄せ集めで何が何だかわからないままアニメを作っていた、自然発生的で覚悟ない、才能だけの共同体ガイナックス
(共同体は無自覚にできるものだから)


それが崩壊していく過程。


そして、そこで得た知見を活かして、ちゃんとした株式会社・・・・自覚ある個人の集合体であるアソシーエーション(目的を持った組織)になっていく株式会社カラー。(アソシエーションは、目的合組織)


これが成長していく過程。


これって、ネルフとヴィレを連想してもおかしくないですよね(笑)。このありさまは、安野モヨコさんの『大きなかぶ』に余すところ描かれています。この人、やっぱり天才すぎます。カラーって、ヴィレだったのか!って(笑)。


まぁそんな無理を比喩として重ねなくてもいいのですが、何を言いたいかというと、一人で生きてきた、才能だけで生きてきた、庵野秀明という個人が、ここで初めて「組織というものと直接に相まみえ、その格闘をし・・・・・そして、組織を成り立たせるものは何かをしっかり直視してきたん」だろうということは、僕らには現実世界を見ればわかります。


組織・・・・・人が集まるところでは、個人の思いだけでは、どうにもなりません。人も分かり合えません。一つ間違えば、ガイナックスのように、めちゃくちゃになります。あれだけ素晴らしいソフト持っていながら、ガイナックスは、崩壊するだけでしたよね。僕もよく知っているわけではないので、勝手な言い草かもしれないですが、この時代を代表する傑作を生みだしたガイナックスのその後の末路はひどすぎますよね。ナディアの映画とか、本当にひどかった。経営が、以下に全くコントロールされていなくて、目的や指揮官がないものが、いかにめちゃくちゃになるのかは、結果を見ると、感じると思います。あのまま庵野監督が、組織をどういう風にゼロから作り出すか、反面教師として、考え、行動に移さなければ、そもそも僕らは、エヴァンゲリオンの続きも、この結末も見ることができなかったんです。


では、彼は、いったい具体的に何をしたのでしょうか?。


■会社(アソシエーション)の経営者として、指揮官としてジブリを超えろ~セカイがどうなっているのかを見通せなければ世界には到達しない

庵野秀明監督が初めて語る経営者としての10年(上・下)
https://diamond.jp/articles/-/107910
https://diamond.jp/articles/-/108195


この記事が素晴らしかった。僕も一時期ヴェンチャー企業の経営に携わっていたのですが、この「創造のものづくり(=個人のエゴを貫く)」と「組織としての集団作業と利益」のバランスのとり方が、あまりに素晴らしかったので、腰が抜けました。いきなりキャッシュフローかよっ!って、関心を通り超えて度肝を抜かれました。


これは、経営者、庵野秀明の苦闘の歴史です。シンエヴァを見る前に、ガイナックスとの関係、その末路、そして彼がスタジオカラーと会社を、組織をどうしだててきたのかは、ぜひともこの記事ぐらいで十分なので、知っておきたいところです。


僕は、ここでどうしても、スタジオジブリとアニメーターの構造的給与の安さなどを思い出さずにはいられませんでした。ああ、もう一つおもったのは、『HUNTER×HUNTER』の冨樫義博さんです。誰もが分かるともいますが、歴史に残るような傑作を、時間をかけて、本気で作るには「立場の構築力」も含めて必要で、才能だけでどうにでもなるわけではありません。


庵野秀明社長?(なのかな?)の経営する株式会社カラーを見ると、これがちゃんと貫かれていることに感心します。もちろんいろんなことがあったんだろうと思うし、内情を知らないので、良い面だけを言うわけにはいかないですが、細かいことはどうでもいいんです。エヴァンゲリオンが、最終回まで迎えられたこと。経営が破綻しなかったこと。それだけで、これは大成功なんですよ。


スタジオジブリの設立契機には、それまでの宮崎駿高畑勲らの労働組合や、制作の経営にまつわる話を抜きには語れないように、この部分を抜きに、彼が明らかに経営者として、エヴァを制作してきたことは、私小説上の庵野秀明の成長や葛藤とシンクロするのは当然です。


自然発生的に人が集まって行くときに、「そこに指揮官」がいなければ、そして「目的がなければ」、ガイナックスのように迷走して、おかしなところに行ってしまうものなんです。自然発生のままの共同体でいれば、無限に母なるものにくるまれたいと思うわがままどもを癒しつづけるか、無限に父なるものとして厳しき指導して支配するようになっていくしかないじゃないですか。



■傑作『未来少年コナン』のハイハーバーの共同体としての欠点を超えろ!(もののけ姫のたたら場でもいい)

いろいろ思うところはあるのですが、知ったかぶりもよくないので、とにかく「組織を経営する」という側面を、ただ一アニメーターやクリエイターを超えて庵野監督が戦ってきたことが、彼の組織間に大きな影響を与えていると感じるのです。


そこで、ああ、、、、とずっとおもっ感心したことがあります。


委員長に子供がいることです。トウジの父親も生きていますよね。身体壊しているのか、たぶん、あまり働けない感じがします。第三村には、労働の側面だけには収まらないさまざまな共同体があります。宮崎駿の原始共産主義的な側面、才能あるものが集う結社(アソシエーション)に常に抜けていることで批判されてきたのが、子供が、家庭の描かれ方が甘いことだと思うのです。特に『もののけ姫』のたたら場には、子供がいません。つまり再生産がないんですよね。なぜならば、才能だけで目的に結集している場合は、そういうものがあると足かせで邪魔になるからです。子供がいると、共同体になってしまうので。あ、このあたりの共同体VS結社の定義は、調べればすぐ出てくるので、前提で話を進めます。


僕は、この第三村の実存感覚の描かれ方に、物凄いエネルギーを叩き込んでいるさまをとても感じました。たぶん、ヴィレやその下部組織を通して、様々に孤立して生き残っているコロニーがあって、交易ができるようになっているとも思うんですよ。これ、ハイハーバーの構造と同じでしたね。ハイハーバーも牧畜部分と農業の交易が成り立っていました。他の共同体との交易ができなければ、未来がないからです。


この第三村は、311の巨大災害のメタファーであって、仮設住宅生きる人々が強く連想されてしまいます。では、そこに生きることはどういうことか?、ということが、様々なレイヤーで描かれています。


この世界を守る最前線で戦うヴィレや、この世界の再生を担う研究、実行、支援部隊のそれぞれの役割が、余すところなく書かれています。この世界は、人類の生き残りの最前線なんですよ。そういう全体の位置づけ、組織間の構造などがうっすらでも感じれれば、ケンスケがその「狭間の仲介者」として意味ある仕事をしていることや加地リョージがL結界密度の浄化…これはストレートに世界を汚してしまった放射能の除染を、『風の谷のナウシカ』を思い出させます。


こういう共同体と結社の「様々なレイヤーのつながり」を実感できると、人類にとってこの未曽有の大災害、危機にさして、人類が生き残りのための総力を挙げて仕組みを作っていることが感じられます。そこに、単純にユートピアとしての田園社会が生き残っているわけではないんです。アスカの「私は守る人」という言葉にも、自分の役割が、様々なグラデーションになって、この世界を支え守っているとだ、という意識が強く垣間見えます。


僕は、胸が熱くなりました。


そして、単純な災害ユートピア=一時的に安楽に逃げて帰るところではないのだ!!!という強い実存感覚の立ち上がりを僕は感じました。だからこそ、「そのさまざまなレイヤーの責任と役割の連なり」の中で、確固たる存在を占めているケンスケ、トウジ、委員長、リョウジたちのほんの一瞬の小さなセリフ態度の重さが輝くのです。


この世界の複雑さは、経営者として、「すべてはつながっていて」「すべての人に役割と責任がある」ということを見通す力がなければ、描けなかったんだと思うんです。この感覚がなければ、ケンスケたちが、深く価値ある個人として「大人になった」という感覚を受けなかったと思うのです。これは、経営者や上に立つものでないとわからない視点です。一クリエイターとして従業員であったら、わからないと思うんですよ。少なくとも、この第三村に関わる登場人物たちの何気ない言葉が、この共同体を成立させているのが、『至難の業に近いぎりぎりのものである』ということが、僕には迫ってきました。まだ世界は滅びつつあり、その日常をギリギリで守るためには、命を懸けるくらいの努力がいる。当たり前のような日常は、紙一重の非日常と隣り合わせに、人々の極限の努力と責任意識によって運営されているものなんだ!と。


僕は、最初に、この第三村、Aパートは、シンジの動機の転換点になるのですが、それは陳腐とは言わないですが、もうすでに王道としてパターンとして出尽くしている「異世界転生・並行世界」に回収できない実存感覚をどう作り出すか?ということについて、この部分を僕は強く感じました。


僕は、311での被災では、東京にいましたから一晩、子供たちに会えなくなった程度ですが、、、あの非日常に切り替わる一瞬は今もまざまざと覚えています。大きな災害を経験すると、胸に突き刺さるものがある、と僕は思っています。


それは、日常と非日常は、簡単にひっくり返る。


もう一つ、しかし、日常と非日常は、隣り合わせで、ちょっと距離的に遠いところに行っただけで、いきなり非日常が隠れてたり、日常があったりします。紙一重なんですよ。僕は、先日、南カリフォルニアの山火事に直面して、緊急避難区域に巻き込まれたのですが、、、あんなことがいきなり起きるなんて!と、今思い出しても信じられません。会社で会議をしてたら警察官が踏み込んで、避難してください!って。アメリカは地震が少ないので、自然災害少なくて安全とか思っていた自分がいかに甘かったか痛感した時でした。


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だから、「ぬるい態度」「官僚的な態度」「世界がこうであることに対して疑問を持たない単純な視点」に対して、たとえようもない嫌悪感を持つようになりました。


だって、世界はいつ何時、どんな風に壊れるかわからない。また、壊れたとしても、すぐ隣では、豊かな繁栄の日常が続いてたりするんです。


この世界が、さまざまな滅亡の可能性のあるギリギリのセカイと隣り合わせで、いつ何時そのバランスが壊れるかわからない。そのぎりぎりで、みんな生きているんだ、ということ。


僕は、今回のシンエヴァにさして、テレビ版からすべての作品を見直しましたが、この「人類補完計画(人類の進化・旧人類の切り捨て)」というマクロ的SFの視点の大災害に襲われる「僕らが住む世界」がいつ何時、ぶち壊される変わらないんだ、ということをまざまざと感じました。そして、にもかかわらず、人間は、その中で組織を作り、生き残りに、自分たちの大事なものを守るために、必死で動く、と。


第三村に、それを支える組織、ヴィレに下部組織KREDITの連携、そしてそこで自分の人生をかけているケンスケやトウジたちの14年の生きざまを見せられて、僕には、ああ、そうか、、、、この人は、「人が孤独を抱えながらも、人のつながりの中で生きていき、そして人はちゃんと組織を作って、生き残りのために目的を持ち責任を作り出して果たしていく」という大きな「私たちの住む社会」というものを、感じているんだな、と思いました。


「そこ」で、シンジが、動機を取り戻すのは、僕はおかしなことではない、と。そして、これは災害ユートピアの一時的なお祭りによるごまかしでもない、と、そう僕は思いました。


■働け、大人になれ、まっとうな人間になれ????といっているわけでは全然ないと思う~答えは「それしか生きる方法がない」んですよ、それでいいじゃないですか!


この作品は、庵野秀明さんの私小説になっているので、個人史を追うと、物凄くつながるんですよね。NHKのドキュメンタリーは素晴らしかった。


プロフェッショナルという言葉が嫌い、というのは、とてもわかる。これまさに、答えだなと思いました。というのは、このシンエヴァの終わりを受けて、「働け、大人になれ、まっとうな人間になれ!」という陳腐なありきたりなメッセージとしてとらえて、つまらないところに着地したなと感じる人は多いんだと思うんですよ。あ、いや、なんというか、批評家的な読み方をすると、そういうことを言う人は多いんじゃないかなって。でも、絶対見た人には、伝わっていると思うんですが、僕は「そうじゃない」と思っています。もちろん、構造的に、シンジが動機を取り戻すのに、第三村の機能があって、

・ケンスケやトウジの14年の成熟を通して働くことの価値を感じる
・黒綾波の労働を通して自己の価値を知る
・アスカを通して、相手を大事だと思うことは対等なものとして、自分と切り離して相手を思いやることが必要
・第三村の成り立ちを感じることによって、「社会の中の自己の位置づけ」を知っていく


という風になっているのは事実だと思うんですよね。それで何を悟ったかというと、


・自分が意図してやったことでなくても、その行為の結果の責任は取らなければならない
 (ケンスケもトウジも、自分が起こしたことでなくとも、その事実を受け入れて、戦っていますよね)


このことが、アスカ自身が大事なものを守るために躊躇なく命を投げ出すし、シンジが、アスカを助けるときに、自分ではない人を愛しているアスカの未来を願えていることなど、他者との距離の置き方・・・・「自分と相手は違う人間なんだ」ということを、体感しているから起きることなんですよね。


でも、どうでしょうか?この作品を見てて、「働け、大人になれ、まっとうな人間になれ!」と言っていると思います?。


僕は、そうは思いません。ただ単に、働いて(みんなに貢献し)、大人になって(自分がなした罪でなくとも責任を引き受けて)、まっとうな人間になる(=他者を対等な存在として見て受け入れること=相手にとって自分が必要でなくてもそれを認めることができること)が、正しいからやりなさいと言っているようには聞こえませんでした。


僕には、「それしか生きる方法がない」のなら、それを受け入れる以外にはないじゃないか、ということに感じました。


もう少し敷衍していえば、ただ単に「生きていく」ためにすら、これほどの凄まじい困苦と重荷を背負わないと、人はまっとうに生きていくことすら難しいんだ、ということを告発しているように見えました。お手軽なワンクールのアニメではないんですよ。27年の重みがあるんですよ、僕ら受け手にとってすら。それが、正しい道徳や倫理を行えば、幸せになれるなんて言う自己啓発セミナー的な、単純な「気持ちの入れ替え」「見方の変化」だけで世界は変わるなんて言う、ありきたりの甘いものであるはずがないじゃないですか。


シンジの血を吐くようにして空を飛ぶ鳥のような思いをして、人は生きていく。


これは、「我々は血を吐きながら、繰り返し繰り返し、その朝を越えて飛ぶ鳥だ」というナウシカの言葉を思い出しました。


この狂った人間存在、壊れたラジオの受信機な人間存在を、まともに電波をチューニングできるようにするには、「働き、大人になり、まっとうな人間になる」しかないのだけれども、それは、シンジ君が踏破してきた道のりをすべて乗り越えるような、苦しく、つらく、重く、不可能にも思える坂道なんだ、ということ。そもそも、普通のことのように思えるそれらが、どれくらい不可能に近い難しいことなのかを、僕らは全然わかっていないのかもしれない。


そして、だからこそ、「その苦難」を乗り越えた、その先にある成長は、美しく素晴らしい。往々にして、届くことはないし、届いたと思っては、元に戻る繰り返しではあるけれども。ビルドゥングスロマン(成長物語)の不可能性を描けば描くほど、その道の美しさに、凄みを与える、素晴らしい作品だと僕は思いました。




その2に続く。半分くらいしかいってねぇ。。。つーかこれだけ書いても、話しているのはAパートの第三村の話だけ。。。疲労困憊(苦笑)。後でリライトなり清書なりするかもだけど、とりあえず初見、その1です。今、その2書いてる。その2のメモ。書けるかなぁ、、、。リアルタイムの勢いがないと、表に出せないので、未完成の雑感メモですが、下に挙げておきます。頑張れたら書く。けど、(1)のこの3万字ちかくを、この2時間ぐらいで書いたの凄くない?(笑)。



シンゴジラ・マブラブオルタネイティヴで問われていたすべての答えが、ここに

エヴァンゲリオンシリーズ全体を通しての全体像を理解するための三層構造での理解

■面白いものはすべてこめた~トップをねらえふしぎの海のナディア

■戦後日本的エンターテイメントの究極構造~私小説の世界とSF神話の結合というセカイ系の極大点~その欠落を補うためのシンゴジラ

■100点満点の答えとしてのシンエヴァンゲリオン

■ゲンドウ(父)とシンジ(息子)の対比構造から、父もまた「別の他者」であることに気づき

■シナリオは、TVシリーズと同じ構造~面白いものをすべてぶち込んだ、しかしただ一つ足りなかったもの「外部」

安野モヨコという特異点~なぜマリだったのか?~新海誠の到達したセカイ系の結論との比較
 自分の「外部=他者」と出会い家族を作ることによって

式日で母を問い、シンエヴァンゲリオンで父を問う~誰が悪かったのかという不毛な問い~彼氏彼女の事情を連想する

■日本的な「私小説」の物語としての宇部新川駅の現実風景

■日本映画の正統なる後継者として~家族の崩壊から再生を通して自己の自立を描いていく日本的物語の到達点

■システムの奴隷である「セカイに閉じ込められた自己」からの解放~セカイ系の終着地点のその先に
 どこまでも逃げていくにしても、どこへ逃げればいいのかという問い

■人類の進化による旧人類の切り捨てという50年代SF大家たちの星を継ぐ者への後継者として~どこまでも日本的でありながら、世界へつながる壮大なマクロとミクロの物語

■答えは、現実に戻れ?だったのか? また大人になれということだったのか?~虚構と現実の対立の「その先」という外部へ
 この「外部」が、感じられたかどうかが、この物語の最後の評価ポイント。


■参考資料

petronius.hatenablog.com


『RETAKE』『ねぎまる』ドラゴンクエストの同人誌など  きみまる著  この腐った世界で、汚れても戦い抜け。楽園に安住することは人として間違っている。
https://petronius.hatenablog.com/entry/20100309/p1

風立ちぬ』 宮崎駿監督 宮崎駿のすべてが総合された世界観と巨匠の新たなる挑戦
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130802/p1



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【AzukiaraiAkademia2021年2月ラジオ】マンガのあり方は、ジャンプ黄金期の500万部を誇った紙帝国による流通支配の構造から解き放たれて、マンガ本来のポテンシャルを、全力で追及するフェースに入っている!

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マンガ・ジャンプ+俺にはこの暗がりが心地よかった+Webマンガ

一言でいうと、マンガの最大ポテンシャルが発揮されて、マンガがエンターテイメントのメインストリームに復帰する兆しを感じる!というお話。


ちなみに、最初は、ツイッターとか表現の自由アメリカの話が枕になって言うので、本題は、第二部で、約40:00過ぎたところからこの話は始まります。


2月のアズキアライアカデミアの配信は、個人的には重要な考察の回だったと思う。この数年、大きな文脈として「新世界系」の次の次世代の物語は、何か?と問うてきました。どうやら「新世界系」という文脈で物事を見る時期は、既に終わりつつあり、「結論が描かれ」「その先」の新しいものにシフトしている感触があるというのが僕らの感触でした。けど、まだ「それが何か」具体的なキーワードで、示すことができていない。すでに文脈が「変化してしまっている」感じは受けるのですが、「それ」が何かまだ明確にできていない感じです。


なのですが、この数年にわたって、次世代の物語を考えるときに、「考えるべき土台(=インフラストラクチャー」が、まったく変化して変わってしまっているよ、ということを、ずっとLDさんが指摘してきました。


これまでは断片だったので、いまいちそれが「総合的にどういうものなのか?」が分からなかったのですが、今回、ババババっと、すべてが統合された感じがします。もちろんこれは「僕の理解の仕方」なので、同じものを、LDさんも、LDさんの言葉ですべて説明しなおしているので、興味がある人は、ぜひともじょうきの2020/2013のアズキアライアカデミアの配信を聞いて勉強してください(笑)。いや、「この視点」は、頭に叩き込んでおいて、絶対損はないと思いますよ。単純に物語を楽しむだけではなく、エンターテイメント産業の今後を考えるときに、欠いてはならない視点だろうと思いますから。


結論を言ってしまえば、今時代は、「ジャンプ+」のWebマンガが重要な見るべきトレンドだということ。マンガの楽しみ方、あり方は、ジャンプ黄金期の500万部を誇った紙帝国による流通支配の構造から解き放たれて、マンガ本来のポテンシャルを、全力で追及するフェースに入っている。そのフロントランナーが、「ジャンプ+」だということ。その具体例の展開で、『彼方のアストラ』(2016-2017)『サマータムレンダ』(2017-2021)『地獄楽』(2018-2021)が、宿題に出されて、どのように新しい時代の構造が、物語に、マンガに展開しているさまを解説していきます。ああ、これを見ると、ブレイクが起きたのは、2018-2019ぐらいですね。

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LDさん的、ペトロニウス的視点では、以下になります。


面白さの最小単位(LDさんの用語)


ドラマトゥルギーのピークをどこに設定するか?(ペトロニウスの用語)


この「面白さの最小単位」の話は、LDさんがここ数年こだわっていたものです。すぐ見つけられないのですが、せっかくなんで参考に「魔女集会」の時の漫研ラジオを置いておきます。結論だけではなくて、常に重要なのは、「ものを考えた過程」と「どういう概念の組み合わせで結論に至ったのか」です。この過程を自分で作り出す力がないと、「自分が面白さを独力で感じ取る」ことができないんです。結論だけわかってもだめなんですよ。「自分で考える力」が養われないから。「自分で、自分の頭で考える」ことができるトレーニングは、自分が好きな人の思考プロセスを、すべてトレースして暗記することでしか養えません。ちなみに僕は、尊敬する評論家の中島梓さんの本を丸写しの写本とかしてましたよ中学時代に(笑)。プロセスを暗記しなければならないんですよ。2-3人やれば、自分オリジナルになるもんなんですよ。あ、これ「物語三昧」の目的が、「物語をより深く楽しむ方法」を伝えたい、考えだしたいということがあるので、それている脇道です。

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話がそれたけど、Twitterの魔女集会で会いましょうとか、LDさんが指摘していたのは、『疑似ハーレム』とかですよね。『疑似ハーレム』も、これを最初から単行本で見てしまうと、Twitterで出てきた時の「感覚の新しさ」が分かりません。ようは、Twitterの短い閲覧で、「一目見て」「ドラマの起伏と落ちが分かる」という感覚ですね。起承転結でいえば、いきなり「結」があって、その「結(落ち・ドラマのピーク・物語の一番おいしいところ)が、表現されてしまっている状態を、「面白さの最小単位」と呼んでいます。角度を変えれば、長編の物語も、「この核」を軸に、その前後の起承転結などを広げて、展開しているにすぎません。たとえば、少女漫画で仮にピークが、「告白して結ばれる」ところだとしたら、「そのラストシーン」だけを切り取るというような感覚です。

疑似ハーレム(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

魔女集会も、魔女が「捨て子を拾ったら」、次のコマではすでに成長してかっこいい男の子になって、「守っていたはずの男の子に愛されて守られる」に展開している。ドラマの起伏が、ほんの数枚、下手したら一枚絵で、この共同幻想は成立しています。よく、男の子向けのHな漫画で、女子高生を拾ってHをするとか、育てるというような、ロリータ的な話の類型があるじゃないですか。あれの、逆バージョンのプリミティヴな形だと僕は思っています。『私の少年』とかのイメージですね。これを、魔女という設定にしただけで、物語の「種」というか、「何に人が萌えているか」というのか、その種、原初、コア、ドラマトゥルギーのピークがよくわかるものです。魔女集会は、検索すれば山ほど出てきますので、見てみてください。かつて中島梓が、人には、保護欲(=何かを愛し守り支配したい)と被保護欲(=何かに愛され支配されたい)が原型(物語のドラマトゥルギーのコア)にあって、それが権力で入れ替わるさまが、この世界の真実の姿というようなことをいっていたのですが、それを思い出します。

https://www.pinterest.com.au/pin/679762137497506678/


私の少年(1) (ヤングマガジンコミックス)


まぁ、この物語類型個別の話は、さておき、ここで指摘しているのは、これまでは週刊誌のような500万部も誇る「席の限られた出口」の配分によって、物語の世に出る量は限られていました。また、紙による印刷というテクノロジー上の、産業上のエコシステムの仕組みによって、一度売れてしまったものは、できるだけ長く引き伸ばして投資金額を回収するという圧力がかかりました。これが、支配的な構造だったわけですね。

集英社週刊少年ジャンプのアンケート至上主義というのは、「週刊誌自体を売る」ことと新人を育成して新陳代謝を進めるというメリットに適応しているわけです。逆に、この仕組みだ、「毎週の面白さ」に最適化してしまうので、小学館のサンデー系の長期連載系を目指す編集方針が対抗で出てきたりましました。その週刊誌をベースに、コミックスを販売するという構造ですね。LDさん的な言い方でいえば、物語のピークを10年後に持ってきてもかまわない、ということです。市場が寡占、独占状況だったからできたことですね。だから、新規の育成ができなければ、どんどん物語長期化していくことになります。一度売れたものを、ひたすら「引き延ばして売る」ということが最適解になるからです。これだど、さらに新規参入が、クリエイター側も、消費者側も、難しくなって、産業が先細ります。

この典型例が、小学館の『週刊サンデー』ですね。いろいろな理由があるのでしょうが、見ていて思うのは、「アンケート至上主義」というシステムではなくて、長期連載による物語の面白さを追求する小学館の方式は、編集者という個人の「目利き」にたよるために、成功の再現(=新人の育成)が難しいことにあるのだろうと思います。会社としては、「アンケート至上主義」集英社のほうが、属人性が低い。なので、組織として、個人を超えて、再現できる仕組みを考える癖があるのだろうと思います。どっちがいいかは簡単ではないです。だって、あだち充さんとか、高橋留美子さんとか、小学館の方式が生み出した作家の凄さってとんでもないですしね。ここで典型的な現在の作品を、田中モトユキ先生の『BE BLUES!〜青になれ〜』を挙げていますが、この方式がだめになったわけではないと思います。

とはいえ、携帯、SNS、携帯ゲーム、Youtube、ネットフリックスやHulu、アマゾンプライムなどの登場で、エンターテイメントが消費者の「限られた時間の奪い合い」になった時に、「席の限られた出口」だった週刊誌の紙媒体以外の、新しい「出口」が広範囲に出現してきたのが今のわけです。この新しい媒体(=消費者への出口)では、媒体の特徴や、それによって形成される産業のエコシステムが全然違うものになるわけです。「それに新しく適応した仕組み」を作るのが、だれか?という競争をしているのが現在なわけでだと思います。なので、システム的なアプローチをする組織のほうが、これに適応しやすいのは、自明だろうと思います。


■ジャンププラスの運営方法は、注目だよ!

そのフロントランナーが、ジャンププラスなんだよ!というお話。という文脈を考えて、以下のインタヴューを読むと、さすがーーーーとうなります。

www3.nhk.or.jp


news.infoseek.co.jp


では、その結果出てきたものはどんなものか?


で、『SPY×FAMILY』『彼方のアストラ』『地獄楽』『サマータイムレンダ』などを、見ていこうというのが、今回の配信のコアです。


■地獄楽とサマータイムレンダは、行こうぜ!
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力尽きたので、ここ以降はまた今度(笑)。


■俺にはこの暗がりが心地よかった【書籍化&コミカライズ決定しました!】
作者:星崎崑
https://ncode.syosetu.com/n7820go/

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この媒体の変化によって、出てくる物語のパターンが変わっているというこそ文脈で、サイトの「小説家になろう」を見たいものです。そして、最近の一押しが、これです。


■ベストのマンガのピークは、12巻説!

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炎の転校生』(1983-1985)全12巻-118話


『がんばれ元気』(1976-1981)全28巻


六三四の剣』(1981-1985)全24巻


ちなみに、LDさんが興味深い指摘をしています。「速度論」で、ベストのマンガの巻数は、12-13巻だ!と。その完成系は、『炎の転校生』だといっています。これも聞いたことがあったけど、まったくわかっていなかった。物語を分析するときには、12巻ぐらいがベストのピークを示せるという話なんですね。それを、倍くらい24巻ぐらいしたら、もう大大河ロマンになる。「これ以上」はやりすぎなんだろうと思います。


もっといろいろ話したこと敷衍したけど、時間がないので、このあたりの書き散らしで終わります。


今回の2月のアズキアライアカデミアは、凄い展開した回でした。