メリトクラシーによる人類の平等をはなしえない、それによって分裂する世界をどのようにつなぎとめるのか?

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岡田斗司夫のさんのこの配信がめちゃくちゃ面白かった。ムチャクチャおすすめです。最近自分が考えていることと、ドッカンドッカン接続したんで、ぜひとも。


えっと感想としては、2つに分けて考えたいなぁと思いました。(見終わった前提での話です)


1)サンデル教授のメリトクラシー能力主義)批判について


いまの世界の思想の最前線って、まさにここなんだよね。メリトクラシー能力主義)批判。これを物凄くわかりやすく解説していて、見事!と思いました。これは、あまりにいまの話の最前線すぎるので、知らないってのは、ちょっと不勉強なくらいの常識化している話ですよね。岡田さんのこの解説で、かなり見事にまとめているので、メリトクラシー能力主義)っなに??と思う人は、ぜひとも見てみましょう。ちょっと本気の人は、サンデル教授の本も読んでみるといい。このあたりは、何か考えるうえでのコモンセンスというかパラダイムとかしてきていますね、最近だと。


2)メリトクラシーでなければ次は何なのか?


A)階級社会を肯定するしかない!(メリトクラシーよりはまし!)

B)上級国民・下級国民のどちらにたいしても、「より大きな共同体の一員だと自覚させよ!」という戦略

A)

実際、A)の階級社会を肯定しているというのは、実は衝撃的な結論じゃないかと僕は思うんです。福沢諭吉先生の「封建制度は親の仇です」など、僕らの近代社会ってのは、この階級による差別を否定して建設されてきたものじゃないですか。それが、むしろ、階級社会のほうがましという結論になっている。


これは2つのロジックによって支えられている、と僕は思う。


一つ目は、「結果の平等」と「機会の平等」というものの両方を求めるときに、機会の平等を設定したら、その結果として「結果は平等にならない」ということが明白になったからだ。人間の自由競争による健全なダイナミズムを維持しようとすると、「ある程度」の結果の不平等は、認めざるを得ない。


ちなみに、「結果の平等」のみにフォーカスすると、なぜだか世にも恐ろしい「不平等なディストピア社会」が到来するというのが興味深い。ポルポトでもソ連ノーメンクラツーラでも文化大革命紅衛兵でも何でもいい、人類の歴史が証明している。きれいごとが、一番やばいということは。この矛盾は、常に念頭にないとだめですね。「機会の平等」と競争が否定されてしまうので、人々の成長や進歩へ向かう自由意志が抑圧されてしまう。自然に生まれてくる「結果の違い」を暴力で押さえつけて、なだらかにするしかなくなるからなんでしょうね。


二つ目は、「機会の平等」による「健全な競争」をすれば、結果として「メリトクラシー能力主義)」に偏っていく。しかしながら、社会の階層秩序を、メリトクラシー基準で構築すると、信じられないくらい弱者に厳しい過酷かつ不健全な社会が形成されてしまい、社会が分断され、社会のサスティナビリティが維持できない。無理やり極端に「結果の平等」にフォーカスした社会よりは、ましなものの、ここまで格差と分裂が進んで、公共のプラットフォーム自体が食い物にされてメンテナンスされなくなると、人類の存続にかかわる。。。


だから、ある程度、制限をかけた「階級社会」のほうが、メリトクラシー能力社会よりましだ、という結論。


このあたりからSF的な妄想は、恐ろしいほど広がりますよね!。


B)

ある程度の緩やかな階級社会を認めるとしても-----これって、今の僕らが生きているアメリカ型の自由資本主義社会そのまま-----分断された「それぞれの共同体」におけるフリーライド(ただ乗り)が横行するので、岡田さん的言い方では、上級国民と下級国民、それぞれが、「より大きな共同体の一員たる自覚」を促されなければならない、となる。


けど、この具体的方法は、どんなものか?って、まったくわからないですよね。(←これからの物語の最前線になると思う)


これって、たとえば、より矮小化して小さなものでいえばは、リア充と非リア充の対立の果てに、「両方が交わらない社会」が予測されるけれども-----そうすると、それぞれが同じ場所に生きているという共通のプラットフォームがなくなって、全体としては社会が壊れやすくなったり、両共同体の最終戦争にいきついて「万人の万人に対する闘争」というディストピアになってしまうのを止められないって思う。そういう感じのやつ。


サンデル教授は、これを「議論を通しての自覚」しかありえないって描くのだけれども、こんなのお上品な「議論」なんかじゃ無理だよって思う。要は啓蒙や教育によってということだと思うけど、実感とか損得のメカニズムがないと、「これ」ってなかなか難しいぞーと思う。


たぶん、この「より大きな共同体の一部である自覚」が、一番強制できるのは、明らかに戦争。


この場合の「より大きな共同体」を、「ネイションステイツ=国家」と考えて、下級国民が徴兵制でガンガン戦地で死にまくっているのだから、戦争に行かないなら財産を差し出せって!ってのが、最も効率的バランスの良い「平等化装置」だった。徴兵制システムは、無作為に、階級に関係なく「国という幻想のために命を懸けて」「同じ釜の飯を食った仲間」にしていくという装置。このシステムというか方法はいまだ生きているので、何かあると戦争圧力が高まると思う。でも、これも核戦争の可能性がある中では、なかなか限界まで行きにくくなってきた。


toyokeizai.net


丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html



お互い、「とにかく交わらないのが最善手」となっている状況で、フリーライドにならず、公共のプットフォームを守るために、どのようにすればいいのか?


これって次の時代への重要な問いかけなんですよね。


これって、「とにかく同じ国民である」とか「とにかく同じ民族」であるとか「とにかく同じ人類」とか、いろいろな「共通項」を探して強調する手段が要求されるんだけれども、、、、これってネイションステイツの国民国家、民族という幻想で、物凄く苦しんだ20世紀を振り返ると、単純にこの幻想発生装置による高揚の一体化は難しい。このあたりは、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』で本当に当たり前になってきましたね。昔は告発口調で、国家や民族(ネイションステイツ)などというものは幻想だ!と叫ばれてしましたが、もうこれが当たり前になると、歴史の流れの中から必要だから生まれてきた装置だったという感じがしますね。幻想なのは当然わかっているけれども、それをどう有用に社会工学的に利用するのかという視点が大事だと思いますね、これからは。

diamond.jp


幻想発生装置による高揚の一体化、それ以上に、「お互いが異なる種族」だというような、絶対的にコミュニケーションの断絶が強調されている昨今で、それはいったいどこに見出せるのか?というのは、興味深い。ここでペトロニウスは、「種族」と書いているのは、異なる民族とかだと、「同じ人間じゃん」とか「同じ言葉しゃべるじゃん」とか、そういう共通項で処理されちゃうけれども、例えば、ネアンデルタール人ホモサピエンスって、共存できなかったじゃん。なぜかはわからないけれども、ちょっとどうも交配もできなかった?みたいだし、まったくホモサピエンス側は、妥協せずに駆逐しているよね-----っていうあの感じのイメージです。


僕は、次世代の物語において、この「お互い種族が異なるので殺しあうしかない共存不可能性」の物語から、どのように「次へブレイクスルー」していくか?ってのにとても興味があります。


それはすなわち、今現在の人類の課題だから。


この最後の結論が、「これからの来るべき社会」の予測になっている点は、非常に注目したいと思います。そして、この分断が「共存不可能性」への言及だと僕は思うんです。この共存可能性に注目するという点で、僕は『進撃の巨人』と『天冥の標』小川一水さんを出した下記の議論と、ガチっとはまるのがわかると思います。『天冥の標』で描かれている、「共存の絶対的不可能性」に、ウィルスが注目されているのは、さすがの慧眼だとうなります。

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この回のアズキアライアカデミアは、僕の中ではかなり良かった。物語の最前線に到達した感じがあって、それがどんなメカニズムかってのは、だいぶ具体的なものが出てきている。この感覚から『ふかふかダンジョン攻略記: 俺の異世界転生冒険譚』への言及はいい線行っているのではないかと自分でも思っている(笑)。KAKERUさんの話をすべて読んでいると、この人は、いい点を突いていて、ゴブリンなどと人類との関係を、「種族殲滅戦争」をしているととらえているんですね。だから、お互いにとって害虫だから皆殺しをしているわけで、そうした「種族殲滅戦争」において、お互いを害虫(皆殺しにしてもよい)と判断しているルールの中で、人権をとくことの無意味さを、あげつらうように強調するのが、この人の作風なんですね。ようは、個や個々の属性の(マイノリティの)権利が際限なく拡張されていくと、社会の存続可能性が壊れちゃう。なぜかというと共生するためのプラットフォーム(=お互いがある程度我慢せざるをえない)を破壊しちゃうからですね。もう少しいかえれば、マイノリティの権利を守るために、マジョリティを殲滅皆殺しにしていいって発想につながってしまっている。ウィルスの話で、ある特定のウィルスと共生している民族を守る話をしていたら、人類が絶滅しちゃったという、この話です。それって、サスティナビリティなさすぎじゃない!という話。この辺の整理は、もっといるし、今後知恵を考え出さなきゃいけないけど-----人権を盾に権利ばかり主張していると、「多様なみんなが生きる器」まで壊しちゃう可能性が高いんですよね。うわ、これ興味深い。人権の範囲拡張をガチガチに言いすぎると、多様性の否定になるんだ。。。それを「どういうことなの?」と表現するときに、ファンタジーの世界では凄いやりやすいんですよね。ゴブリンとかオークとか、要は亜人種をどこまで人間ととらえるかって話と接続するから。人間と亜人種との違いをどこに置くのか、ってすごいSFになる。もしくは、どうしてそういった「共通性の高い、しかし違い種族が生まれたの?」という問いになる。『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』とかだけど、どっかでこの遺伝子組み換えをデザインして生態系を設計したやつがいるんじゃないか?って発想につながりやすいもの。んでもって、これ敵対種族とすると、KAKERUさんの殲滅戦争(=ルール)をしているんだから!という話になる。これって現代の問題点の物凄く見事なカリカチュアライズになっている。この発想を、逆で考えると、「どこまでが人間か?」という問いで、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』とか『ソードアート・オンライン』のアリシゼーションシリーズなんかもこの類型の派生形。この線引きをどう考えるか?ってのは、AIやロボットものでよく問いかけられる問いですよね。人間なるものの境界線の設定は、常に物語の最大テーマの一つ。『デビルマン』の「シレーヌよ、血まみれでも君は美しい」です。

ふかふかダンジョン攻略記 ~俺の異世界転生冒険譚~ 1巻 (ブレイドコミックス)


メリトクラシー能力主義)によるグローバル化が進むと、「何者でもない僕ら」の不安が交わる

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それともう一つ関連で、、、、前回の記事、今「何者でもない僕ら」って不安が多く生まれているよね-----という話があったんですが、それと『コンテナ物語』の岡田さんの解説がつながってんですよね。えっと、数ある岡田斗司夫さんの動画の中でも、この二つは、特に素晴らしいと僕は思っていて、無料公開終わったからコンテナ物語のほうは最後まで聞けないんですが、結論が素晴らしんですよね。


コンテナの効率化が、世界経済に影響を与えて、僕らが住む「グローバリズム化が浸透する地球」が描写された結果------普通の能力の普通の仕事をする人が住む場所がなくなっていく究極のメリトクラシー社会になってく僕らの住む世界があぶりだされていきます。考えただけでも怖い。。。僕も、たいがい世界中で仕事しているし、いまはアメリカの会社で働いていたりするけど、そんなグローバルエリート(笑)な自分でも、もうあまりに新しい仕事が難しすぎてついていけないって、青色吐息になるので、普通に生きていくことすら難しい時代だと思いますよ。こわすぎ。。。


その社会では、「普通の人」が仕事とを見つけるのはほぼ不可能で、「何者かである!」くらいの極端に頭のいい人でなければ、生きていくの難しい社会になってきています。


だから、社会から「何者かであれ!」という強烈なメッセージに反応して、人々は苦しむことになります。


これメリトクラシーグローバル化は、コンビネーションなので、ぜひともここで上げている二つの本を読むのはおすすめです!。


人類の課題の最前線。


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コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった 増補改訂版



さて、ここまでいったところで、「共存不可能性」が「種族の違いによるディスコミュニケーションによる殲滅戦争」というテーマって、なんかあったけ?と思いながら、これだ!と思いだした作品。



■分かり合えないので、どんどん違う種族になってゆき、経ては銀河を分けた永遠の戦争闘争状態になっていくこともまたSF

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ちなみに大好きで何度も見直しているアニメに村田和也、虚淵玄原案の『翠星のガルガンティア』(2013)というのがある。この「種族の違い」という話を、SF的に広げていったら、どこへ行きつくかの、究極地点の一つだと思っていて、子供にも見せておかなきゃ!といつも思う傑作です。SF的にえば、「よくある発想」といえばよくあるものなのですが、なんというか構成が素晴らしくいいのと、映像によるインパクトが、うおっ!!!って思うのです。


ネタバレですが、

遠い未来、宇宙に進出した人類は「人類銀河同盟」を結成し、宇宙生命体ヒディアーズとの殲滅戦争を続けていた。銀河同盟軍のパイロットレド少尉はヒディアーズとの戦闘から撤退する際に母艦のワープに巻き込まれ、人型戦闘機「チェインバー」に搭乗したまま未知の宙域に転送されてしまう。

翠星のガルガンティア - Wikipedia


人類銀河同盟 VS 宇宙生命体ヒディアーズ


この2つの殲滅戦戦争が、物凄い長きにわたって続いているのですが、その起源がわかったときに、おお!と思うのです。僕のブログは、面白く物語を楽しむガイドみたいなもので、あまり親切にわかるように説明しないのですが、ぜひともこの記事の中のものをすべて見てもう一度この記事を読んでいただければ、ペトロニウスが何を言わんとしているのかが、実感をもってわかると思います。


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↑アニメを見て、この記事を読んでもらったという前提で(笑)、話すと、この二つの争いって、


人類銀河同盟(保守派) VS 宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム


なんですね。これが20世紀末に、コミュニケーションの断絶があって、お互いがお互いを無視していった結果・・・・・

それと、LDさんが話していたのは、これスターシードの物語なんですね。宇宙に進出した人類の「人類銀河同盟」と、宇宙生命体「ヒディアーズ」と争いを描いているんですが、これどちらも、人類なんですね。最大のネタバレですが、まぁSF好きな人には、見た瞬間連想するくらいのレベルの話なので、まぁこのブログはネタバレ基本なんで。


そんでもって、どちらの選択も、見事な覚悟があって、よし!!!とLDさんは喝破している。チェインバーという戦闘機械が人型であるのも、戦うためにデザイナーズベイビーや極端な全体主義国家の形態を選んでさえも、人類銀河同盟は、「人型であること」を貫いているんですね。やつらには、どんなことになっても、人類である!ということに殉じたんですよ。かっこいいやつらです。同時に、宇宙生命体ヒディアーズ(自発進化推進派イボルバーの共生体)も、宇宙で生きていき繁殖できるために、人であること捨てた人類ですが、そうして全宇宙に大繁殖していくわけです。これも、覚悟がいけてますね。


旧地球において、自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンの争いがあるのは非常にわかるんですよ。人類が人類でいることはどういうことか?という線引きは多分に感覚的なもので、こうした感覚的に相いれない戦いは、宗教戦争のよなものですものね。際限がない。僕はこういう基本的な理念の奥にある感情的なもの、底の基底まで行くと、人間って、コンサヴァティヴがリベラリズムか、はっきり分かれる気がします。これって、理論や論理じゃなくて、感情なんじゃないかって。自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンは、LiberalismとConservatismの究極の対立な気がします、その帰結も、そうなるよなーって感じが凄いします。ガンダムSEEDの新人類「コーディネイター」と遺伝子操作されていない通常の人類「ナチュラル」との対立とかを思い出します。

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A)人類銀河同盟(保守派)

保守派は、人間が違う生物になるなんて許せない!とヒト型を貫くんですが、その結果、長いヒディアーズとの戦争に勝ち抜くために、超極端な軍事全体主義になっているんですね。「そこ」が、保守派の一番譲れないポイントだったということ。自由とか全くない超軍事独裁全体主義でも問題ないわけですよね(苦笑)。

B)宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム

同時に、自発進化推進派イボルバーつまりは、ヒディアーズにとっては、ヒト型であることなんか、意味をなさない。これって、遺伝子操作によって環境によってどんどん変わっていってもいいじゃないか!、それが生物だよ!という思い切りの良さがります。これ人間の格差をなくそうと思うと、一番ありっちゃーありな手段ですよ。人体改造して、違う生物になってしまえば、人類の格差とかなくなるし!!!って。←こいつも極端だけど、とても合理的なのは合理的(苦笑)。


ぼくは、この二つの発想の違いに、コンサバティズムリベラリズムの、まぁ極端ケースですが(笑)を感じてしまって、お互いに、もう相手とは話してらんねぇ!と思い切った結果、種族が違うところまで分裂してゆき、そしてお互いの殲滅戦争になって数千年(笑)とかなっていくわけですよ。まぁ、どっちも、どっちだよ、と思いますが(笑)。いやに、現実感がある発想だと思うんですよねぇ。


ああ、思い出してきたんですが、これってはるか未来の海に沈んだ地球の巨大船団「ガルガンティア」を舞台にするんですが・・・あ、ケビンコスナーの『ウォーターワールド』だと思えばいいんですが、「船団」ものなんですよね。船って、共同体であり、どのように目的に対して「共存していくか」に特化した共同体なんですよね。ちなみに『ウォーターワールド』は、だいぶ大コケした作品ですが、ユニバーサルスタジオのショーっがあって、これ何回も見に行っているので、物凄く印象に残っています。水に覆われてしまった地球での、水上北斗の拳マッドマックス的なお話です。

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この作品のテーマが、「共存」だというのもわかります。ウーム、2013年で、これが出ているんですねぇ。さすが。もう一いっかい見直したい。ちなみに、海賊船というのは、非常に興味深い共同体で、このあたりは、「共存」を考えるとき、アソシエーション(目的を持った共同体)を考えるときには避けては通れないものです。それが面白おかしく説明されているので、岡田さんの以下のものも超おすすめです。

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などなど、最近ペトロニウスの思考の、あれこれでした。

『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021)エザキシンペイ監督 『Re:ゼロから始める異世界生活』の長月達平さんの視点と永遠の命の物語類型のテーマ群について

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■万人に理解しやすいわかりやすさと、それが故に、SF好きなどの玄人?うけがしない?

僕的には、★4のかなり高い評価で、かなり万人にすすめられる安定したよいアニメです。また、100年という長い時をかけて成長していく少女の物語-----ビルドゥングスロマンという「わかりやすい」骨格なので、SFでAI、人工知能の進化と人類との敵対というSF的な難解なテーマを扱っているにもかかわらず、見れば誰にでもほぼわかるという「わかりやすさ」は、おすすめです。とにかく、洗練度合いが素晴らしく、ウェルメイドという言葉はどちらかとマイナスに聞こえてしまいがちですが、バランスよく構成されており、はっきり言って、物凄くバランスの良い物語です。ほぼ2-3日で見るの止められなくて、ハマったので、特にSF的な知識や、オタク的な背景知識がなくとも、万人にすっと入れるよい物語です。一言でいうと、脚本家が、いい仕事している感覚がすごい。


ということなんですが、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』なんですが、僕が絶対見ようと強く思ったのは、周りがだいぶ酷評してたからなんですよね(笑)。これは、この時期かなり話題になっていたので、多分結構な人気作なんですよ。にもかかわらず、なんというか僕の周りとか、いつも「作品を分析」しようとする人の中で、すこぶる評判悪かったんですよ。なんで、なんでだ???って思ったんですよね。こういう議論が分かれるものは、「自分の好き嫌い」あぶり出されるので、興味深いです。海燕さんに紹介したところ、かなり否定的な意見が返ってきたので、物語読みの友人界隈では、だいぶ点が辛いです。海燕さんも、描かれている力点は「そこ」じゃないといいつつも、やっパり「ダメな部分」を強調しているので、やはりあまり面白くなかったと思っているように記事から感じます。僕、はこれは面白い!!と鼻息荒く言い続けているのと、対照的な冷静さですもんラインで話してても。

というか、全般にSFとしての描写が古い。そもそも映画『ターミネーター』を連想させる「AIの叛乱」というテーマそのものが、SFとしてはきわめて古典的であまりリアリティがありません。

 いや、もちろん、いまでも未来のAIがどういうことになるかは何ともいえないわけですが、とりあえず「突然、世界中のAIが暴走を始める」といった古式ゆかしい描写は現代のSFとしてはあまりにも単純すぎるといわれてもしかたないでしょう。

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僕の感覚なのですが、ほぼすべての物語読み?というか、漫画やアニメ、SF好きな人の感想としては、SFとして出来が甘い!という言葉に尽きるんですね。


いつポイントも大体同じ。


1)AI(人工知能)の描写が、最新の知見からすると、古臭い


2)AIの叛乱というテーマへの描き方が、とても古臭い


逆に言うと、SFマニアの人とかが多いのでしょうが、彼らは「この部分」の文脈に対してセンシティヴに読んでいるんだと感心しました。みんな、面白いことは面白い、「けれども」という逆説で、必ず説明が始まりました(苦笑)。この部分の解説はこだわっていない僕がしても仕方がないので、検索してもらえればきっと書いている人はいっぱいいるんじゃないでしょうか。


これ、僕は最初からはまって絶賛だったし、最後まで意見変わらなかったし、悪いところが見つからない。まぎぃさんに紹介しても、まったく同じポイントで、激萌えだったので、「僕とみている視点が違う」のがよく分かった。そういう意味では、僕は、典型的なSF読みじゃないんだなぁって、思いました。僕は、常に「面白い物語が見たい」って思っていて、おもしろければ、細かいことはどうでもいいんですよ。設定とか、そういうのは。そのキャラクターが幸せになれたかどうか、目的を本分を全うできたかどうか、それこそが物語!の次元だと僕は思うのです。これは、たぶんSF的な視点では、失格の読みかたです(笑)。


■「少女の成長物語」と「100年という年代記的な時間の流れの中でそれを描く」ことで生み出される人間の体感時間を超えたセンスオブワンダー

まぎぃさんと話していたんですが、「少女の成長物語」と「100年という年代記的な時間の流れの中でそれを描く」というポイントに、脚本が特化しているところに、この作品の見事さがある。長月達平さん的な、思い切りの良さが表れている。まぎぃさんいわく、リアリティとか細部があいまいだったりするのは年代記だからで、必要な部分だけを語って、不必要な部部分を捨象している感じで、その手つきが見事、と。僕も、同感。SFとしてはとても緩いのだが、その「SF的なゆるさ」と「年代記的な良さ」を、つなげて焦点が合うように脚本が作られている。明らかに「エピソードの切り貼り」しているので、この取捨選択と、「それぞれに時系列的なつながりのない単発のエピソード」を、全部合わせたときに、つまりは年代記的な100年単位という、通常はそうした俯瞰したマクロの視点から、人生や人類の営みを眺めることはできないものですが、それが後半の回で、ぴたって焦点があって、物語として収斂していく。プロの業だ、と思います。これ、SF設定としては緩いがゆえに、無駄にマクロの説明をしないし、AIの叛乱というあまりに手あかのついた古典的なドラマを採用することで、「わかりやすさ」に特化している。だから、これSF作品ですが、かなりうまく売れたんじゃないかと思います。今気づいたのですが、僕の言葉でいうならば、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』は、古典的なSFを丁寧に現代的にした作品といえるのかもしれない。目新しさは、確かにないかもしれない。しかし物語としての骨太さは、それが故に跳ね上がるので、人気が出るんです。このあたりの、キャラクターとしての感情移入のしやすさと、そはいってもSF的な科学的なバックグラウンドの最先端を織り込めるかどうかの部分の、駆け引きというか、配合の度合いっていうのは、創作や人気にかかわる永遠の課題なんだなぁと思います。


僕のベストエピソードは、第10話『Vivy Score -心を込めて歌うということ-』。たった1話の中で、少年がおじさんになるまで時間が凄い勢いで進んでいきます。松本博士ですね。この作品のドラマトゥルギーのすばらしさが詰まっています。先ほど言った年代記的な「人間が感じられない時間的な長さ」を、ショートカットすることで、本来ならば見れない「人生の長さ」を俯瞰して眺めることになります。この少年が、物語の起点となる時間を巻き戻すきっかけを作った松本博士だったという円環も、無駄がない見事な脚本です。これらが、Viviという少女の「成長の物語」にリンクすることで、個々のエピソードは、時間的には間に数十年が開くので、ほんらいは何の関係もないのですが、それが豊かにリンクしてつながっていきます。この「つながり」自体の俯瞰感覚は、そもそも「人間の尺度ではありえない」ものなので、僕は、これがセンスオブワンダーであり、設定的なSFの楽しみとは異なる意味での、見事なSFであると思いました。なので、AIの最新知見や展開がなくとも、十分以上の見事なセンスオブワンダー-----SFだと思うのです。この本来あまり関連性のない、かつ人間の時間感覚とは異なる「年代記的な時間の長さ」に、感情をのせてドラマを紡ぐのは、至難の見事な脚本です。そもそも歴史記述で年代記って、「出来事中心」で描くので、キャラクターの情感で描けないものはずだからなんです。

年代記的な脚本を彩る様々なエピソード群と映像の描き方

またもう一つ言いたいのは、こうした「骨太」の、いいかえればキャラクターのドラマトゥルギーを主軸とした脚本は、確かに「古臭く」感じることはあるかもしれないと思います。アニメやSFを見慣れたり読み慣れている人からすると、「新奇さ」がないからですし、SFの本質を「科学的な考証を踏まえて、どれだけその先を見れたか?」というポイントで評価すると、「見たことある」というのは、それだけで大減点になってしまうでしょうから。しかしながら、じゃあ、この作品はダメなんでしょうか?。僕は、そうは思いません。一つは、骨太の年代記的な脚本構成が、素晴らしい出来だからです。そして同時に、この作品がとても、安定した傑作足りうるのは、まぁ見れば誰もがわかるでしょうが、この作品の本質が、歌姫「ディーヴァ (ヴィヴィ)」の歌を聞かせてくれる、聞く物語になっているからです。数々の素晴らしい歌は、とても魅力的でした。この辺りは、『超時空要塞マクロス』シリーズを思わせます。『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の歌もまた、物語の設定上重要なポジションを占めていましたよね。「Sing My Pleasure」「Fluorite Eye's Song」「Harmony Of One's Heart」などなど、本当に良かったです。僕は、脚本ばかりの出来を見てしまう癖がある「頭でっかちでものを見る」評論家チックな鑑賞をするタイプの人間ですが、映画と並んでアニメは、総合力で構成された芸術、エンタメなので、この音楽の素晴らしさを、取り込む演出は、というか歌がメインといってもいいくらいの魅力は、やはり評価しなければならない点でしょう。

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それと、やはり、この作品は、人類が100年の時を重ねているということが重要なわけで、それをヴィジュアルで、じわじわ変わっていく背景は、素晴らしかったです。これ担当の背景美術さん、本当に大変だったのではないかと思います。音楽や映像の素晴らしさを表現する語彙力が自分に弱いのが、残念ですが、見ればわかります。


年代記ロードムービーには感情移入するのは難しい

さて、ちょっと違った角度で、思いついたことを。先日、ロバート・ゼメキス監督の『フォレスト・ガンプ/一期一会 (Forrest Gump)』(1995)を家族で見直していました。これは、名作言われるので見ておこうと思ったからです。見た結果、やはり映像が美しい。アメリカ大陸の風景を、南部のアラバマを中心に広くロードムービー的に映し出すカットがしびれるほど美しい。コンパクトに、1950-1980年代ごろのアメリカの近代史を一望できるのもいい。年代記的に長い時の流れを俯瞰できるのが、こういう作品の良さ------この「俯瞰しながら出来事を眺める」のって、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』と似ていると思いました。Viviは、主人公が100年生きるお話。そのコアは、風景と歴史を俯瞰できるところに魅力を感じていたんだろうと思います。

けれども、実は、家族からは、大酷評。

えっとね、傑作であることは疑わないのだけれども、「感情移入できるキャラクターがいない」という否定意見をいわれたんだよね。これは、なるほどと思ったんだよ。この作品の良さは、「広大なアメリカ大陸を縦横無尽に動いて風景を見れること」と1950 - 80年代くらいのアメリカの近現代史年代記的に一望できる-----この俯瞰感覚をぎりぎり感情的に共感できるラインで料理しているところに、この作品の凄さがあるんだろうと思う。けれども、やはりそれは、むりやり俯瞰しようと、本来はあり得ない時空間の広さを一人のキャラクターに背負わせることになるので、フォレスト・ガンプという不思議なキャラクターを配置している。

彼自身は、普通の子供よりも知能指数の低いという設定なので「彼自身の心の成長がない(ものすごく遅い)」という軸として設定することで、この「時空間の広さ」をカバーする構造になっている。年代記的な物語で感情移入を指そうというのは、とても難しいシナリオになるんだということが見て取れる。ガンプのキャラクター設定と、VivyがAIであり「心が変化しないコンピューターのプログラム的なもの」であるというのは、共通点を感じたんだよね。

なぜかというと、年代記的に「ここの出来事を俯瞰して、観察して、眺める」という形式にしてサクサク進めないと、長い時をひとまとまりの物語に構成できない。けれどもそのためには、キャラクターが容易に心が変化したり成長するようだと、個々の出来事にすぐ情感が引っ張られて、その一つ一つのエピソードに深く入り込んでしまって、サクッと前にすすめなくなるんだと思うんだ。それを可能にするには、主人公キャラクターの「軸」が容易に変化しにくいという設定を付け加えなければならなかったと思いました。


■人類を救う、苦しむ人たちを救うという英雄の仕事は、100年かかり、そして自分が生きているうちになしえない

さらにもう一つ。この「100年を超える年代記的な感覚で情感が乗る脚本を描く」ことに、なぜペトロニウスが、高い評価を与えるというか、、、、、、、与えるというのは上から目線ですね、なぜ「これが好き!!!!」なのかといえば、脱英雄譚の話でも、赤松健先生の傑作『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』や『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で、説明していたポイントと同じですね。この「人類を救う、苦しむ人を救えるようなマクロの構造変化」は、100年3世代以上かかり、自分が生きているうちには報われないし、自分が目の前で救いたい人々は、救えないという-----これが社会改良の本義だということが、最近実感してきたからです。多分、本当の正義は、これらの無力感を超えても、それでも「まだ見ぬ未来に何かを残したい」という思いがある人だけが成し遂げられるものなんだろうと思います。えっと、僕の個人的な述懐はどうでもいいのですが、物語の類型が、「正義の味方」を描くことに対して、深まりを見せていく中で、「100年を超える年代記的な感覚で情感が乗る脚本を描く」ことでどのようなドラマを作れるかが、問われていると思うからです。だからこそ、吸血鬼ものや不死人ものと、このテーマは相性がよく、それを初めて見出した赤松健先生の『UQ HOLDER!』が、凄いと最近叫んでいます。

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2019-11-29【物語三昧 :Vol.42】『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』2010年代を代表する名作~残酷な現実の中で意味もなくどう生きるのか?with LD

ここにおいて、物語評価的な文脈では、「自己救済というものは、次世代によってなされるものである」という定義というか発見が、、、、なるほど、輪廻転生で異なる外部環境(=設定の初期値が違う)を挿入した時に、その人の持っているトラウマなり問題の構造が、どういう解決になるか?という思考実験がなされ、かつ、30年以上次世代でないと救えないというのは、「そのような自己」が形成された外部環境の構造が、時間の経過によって根本から変わっていなければ、同じ結果になってしまうという縛りがあるからこその、一世代なんだ、ということがわかりました。


このことは、ずっとこのブログで話している、LDさんが、ガンダム00のスメラギさんらソレスタルビーイングのテロ行為を指して、自分が生きているうちに世界が救われないと駄々をこねるわがままな子供だ、指摘したことに僕が凄まじい共感をしたことがベースになっています。あの時の話は、マクロ的には世界は正しい形に向かっているのだけれども、それを破壊するような行為は許されるのか?という話でした。もちろん、地球連邦政府の形成に向かいつつある歴史的趨勢の中で、それに打ち捨てられた少数者が絶望的な状況に置かれているという事実は、テロを誘発して、世界へのルサンチマンのために世界の破壊を志す人間はある一定数確実に形成されるという問題点をどう捉えるか?という政治問題は残ります。とはいえ、歴史のマクロの大きな流れは、大多数を救済する方向へステージを進めて行くことになるでしょう。無視できない重要問題とはいえ、袋小路ではなく、緩やかに安定する方向へ動いていくわけです。そこでの問題の解決は、いま、すぐ、ここ、で解決されるものではありえないんですよ。残念ながら、少なくとも、30年以上世代を超えて変化させて変えていくものなんです。それ以上のことは、個人レベルやミクロレベルではできないんですよ。それを性急にやろうとすると、ほとんどすべては「善意による意図せざる最悪の結果」になるんでしょう。

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上記は、この正義をなすには、もしくは「救われない人々」「虐げられている人々」を救おうとするときには、長大な-----この場合は、100年単位での時がかかる。社会改良は、社会の構造を変えることなので、簡単にできることではないからです。僕は、物語における正義をなすことや、社会をよくする(しいたげられた人々を救う)という目的意識を貫徹しようとするときに、ここまで深まりを見せてきたんだなぁとしみじみ思います。


■永遠を生きる不老不死の類型の物語への答えの一つ~他者と対等であること・「そこに生きている」という現前性、臨在性、迫真性をどう獲得するか?

この文脈でいうと、同時に吸血鬼ものや永遠の命を、どのように描くかという命題とも絡んでくると、僕は感じています。ええと、吸血鬼や永遠の命の最高傑作は、なんといっても高橋留美子さんの『人魚の森』になると思います。けれども伝奇ものというか、高橋留美子さんは、情緒的なものとか、妖怪?回帰?みたいなものは描けても、いわゆるSF的な文脈ってまったくない人なんで、あくまで永遠の命を持ったことによるキャラクターたちのドラマツゥルギー-----情緒の部分に焦点が合っていて、「同じ時を生きれない」という苦しさを浮かび上がらせる「だけ」の構造になっています。

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ちなみに、この「永遠の命を生きる苦しみ」という情緒的なテーマに対して、『Re:ゼロから始める異世界生活』で長月達平さんは、明確に答えを出しています。そして、僕も、これが究極の答えの一つだろうと思います。第四章(文庫第10巻 - 第15巻、Web小説「永遠の契約」)で描かれるベアトリスとの話ですね。僕は個人的に、長月達平さんは、物凄い見事な努力というか勉強家だなぁといつも思います。この人の描く物語は、新規さというか、構造的な新しさは、いつもさほど感じないんですよね。ペトロニウスは、文脈読みをする人なんで、「文脈的な新規さ」がないと、本来は評価がかなりマイナスに落ちる傾向があります。ぶちゃけ、面白く感じない。にもかかわらず、長月さんの作品は、いつも僕の胸を打つんですよね。まだ、僕はこの人の凄さが、言葉にできていないといつも思うのですが、とにかくこの人は、これまであった物語を秀才的に分析して、その時点での集大成を見せてくれる傾向があると僕は思います。ベアトリスの話も、不死者、永遠の命の持つテーマを、凝縮して、見事に答えを出しています。まだ一言でうまく説明で期まで自分の中で消化できていないので、記事を読んでみてください。ただ、永遠の命を持つ苦しさを解決するために、「伴侶を探し続ける」というドラマが主軸で、西尾維新さんの物語シリーズの吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード赤松健さんの『魔法先生ネギま!』のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのテーマですね。しかしながら、これらは、すべて「相手も同じ時を生きる不死者である」というものです。けれど、さすがだなって思うのは、ベアトリスは不死ですが、スバルは定常の寿命の人なんですよね。このあたりが、本当に長月さんは、わかっている。この伴侶を探すというドラマトゥルギーにおいて、相手が「同じ時を生きない」のであるとすれば、何をもって永遠の命を生きることを肯定するか?って問い。

「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」


「――――」


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」




「――――ッ」


「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」




第四章129 『――俺を選べ』
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ここですね。このあたりの分析は、上記の記事でがっつり書いているので、ここでは先に行きましょう。というのは、僕が気にしているのは、下記の部分です。

この物語を読めば、不老不死がいかに苦しく地獄かが変わります。何が苦しいかというと、孤独です。同じ時を生きることができないのです。それは、他者がいないも同じ。なので、この物語に置いて、重要なテーマは、どうすれば同じ時を生きることができるのか?という他者(=伴侶)を探す旅という形式になります。これにはいろいろな方法があって、一つ目には、老いる身体に戻る方法を探すことです。もう一つは、自殺です。さらには、老いることない仲間を探し出すこと。この3つぐらいしか論理的には解決方法はありません。あっと、実は、グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいるのですが、その話はまた今度。個人の実存をベースに、個人が幸せになるためにはどうすればいいのか?という視点でさらに続きを追ってみたいと思います。

当時こういうコメントを僕は書いているのですが、


グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいる


と書いているところですね。この視点、文脈は、「不死者の物語」「永遠の命の物語」を、キャラクターたちの幸せを軸にするドラマトゥルギーとして「伴侶を探す旅」にするだけではなく、SFにおける100年3世代かからないと、世界を救えないという命題につなげる荒業が最近意識されてきていると思うのです。それが、赤松健さんの『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』で展開されていて、しびれるぜった感じです。『Vivy -Fluorite Eye's Song-』は、そこには踏み込んでいませんが、世界を救うミステリーとして100年時をかけて「成長するAIの少女」という脚本構造は、このテーマを追うときに非常に参考になる構造を見せてくれたと僕は思っています。


■『戦翼のシグルドリーヴァ』(2020)を見て思った脚本家として長月さんのバランスの良さ

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評価:★★★星3つ
(僕的主観:★★★☆星3つ半)

ちなみに、『Re:ゼロから始める異世界生活』の長月達平さんが脚本をしているということで、『戦翼のシグルドリーヴァ』(2020)もともに、連続で見てみました。どちらも、全然アンテナに引っかかってきてなかったので、気づいてよかった。なんというか、自分の中にある「文脈」と関係ないところで見たものなので、新しい発見がいくつもありました。『Vivy -Fluorite Eye's Song-』と全く違って、これは万人にはすすめない。『戦翼のシグルドリーヴァ』は、とても高度にオタク的文脈が必要で、これはなかなか進めにくい。しかし今回は大発見だったのだが、この類型系のオリジナルである『ストライクウィッチーズ』(2008)『ビビッドレッド・オペレーション』(2013)『艦隊これくしょん -艦これ-』(2016)と見てきて、自分が見てた文脈の意識がほとんど同じで、ああこの物語類型って、すでに様式美になりつつあるんだなってわかったことでした。プリキュアシリーズと同じように、「ある母型」とでもいおうか、様式を踏まえたうえで、その様式からどれだけ「持ち味」を描けるか。


文脈を分かっている物語と、そうでない物語。
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2019-4-23【物語三昧 :Vol.17】『艦隊これくしょん -艦これ-』草川啓造監督 二次創作系の物語の難しさとして語るべきか、もう一歩踏み込んで無償の愛や新世界系の文脈で語るべきか?
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『戦翼のシグルドリーヴァ』を見ていると、この「様式における構造の問題」がすべて意識されているのがよくわかる。僕はかつて、『文脈を分かっている物語と、そうでない物語。』という記事で、文脈意識がないと、物語は面白くならないといいました。しかしながらこれは、僕の美意識である「文脈からの新規さがないと物語として評価が落ちる」という視点からのものでした。実際、『ビビッドレッド・オペレーション』って、僕はすごい好きなんですよね。いってみれば、客観的には評価は低いが、主観的には高いみたいな状態。もちろん、キャラクターのドラマトゥルギーも描き、文脈的な新規さも両方包含した作品が、大傑作になるという意見は変わらないのですが、プリキュアシリーズやウルトラマンでも、仮面ライダーでも戦隊ものでもいいのですが、ある程度集客を見込める母型となる物語類型が様式美となって、どこまでぎりぎり攻めれるかを意識し長シリーズが作り続けられていくことほど、アニメーションの業界に計り知れない恩恵と価値を与えるようなって思うんですよね。ざっくりと描くと、


1)少女たちの成長(かわいさ)を描く - しかし戦争ものなので死なないとドラマが際立たない


2)意味不明の敵が攻めてくるという様式美 - 世界の謎を解明しないと意味不明の話になる


3)女の子たちのきゃははうふふの日常系である - 人類の未来をかけている最前線の兵士である矛盾


このあたりの視点が思い浮かぶんだけれども、脚本家としての長月さんは、このどれもギリギリラインで攻めているのがわかって、なるほどって思ったんですよね。バランスが見事。この企画自体は、戦闘機とか艦艇みないなミリタリーものと、かわいい女の子のキャラクターを組み合わせるというオタクものの様式として安定的に売れるパターンになりつつあるので、僕はこれが定期的に量産されていくことには、凄い肯定的。この組み合わせ、オタク的文脈で、見ているだけで幸せになるもの。でも、これが様式美になれば、これを食い破る劇的なものは、いつか必ず出てくると思う。それまで手を変え品を変え、この様式美の可能性を追求してくれるといいなぁと最近思います。そういう意味で、『戦翼のシグルドリーヴァ』は、この辺の問題意識をすべてギリギリまで攻めているので、よい秀作です。えっと、とはいえ、見るべきか?と言われれば、この系統が好きな人は見てもいいんじゃない?という感じ。やっぱりこの系統では、『ストライクウィッチーズ』の出来は、凄いなぁと思う。ただ、じわじわ前に進んでいる感じがするのは、北欧神話オーディンなどの設定だけれども、「攻めてくる敵が何なのか意味不明」という部分をどのように世界観として描いていくか?というのは-----「少女たちがそこまでして戦わなければいけない理由」とリンクするはずなので、あきらかに、意識的構造的に作られている。まぁ、ピラーっていう人類を攻めてくるものが、どこから来た何なのか?って謎につながらないのは、まだまだこの類型が、消化されていないってことなんだろうと思う。このタイプの次の作品に期待。


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