『ウマ娘 プリティーダービー』から広がる競走馬の世界の物語へ

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評価:★★★★★星5つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■事実とフィクションの組み合わせの演出〜サイレンススズカ(Silence Suzuka)とトウカイテイオー(Tokai Teio)の史実と演出の関係に注目

親友のLDさんからサイレンススズカというドラマがあって、そのドラマをベースに、物語をつくっているので、その事実を知っていると涙なしには見れないと勧められたところから、興味を持ちました。というのは、艦これもそうなんですが、競走馬を萌え擬人化したキャラクターで描く、このタイプの物語類型というかフォーマットは、それぞれのキャラクターの持つ「過去のドラマトゥルギー」をどう利用して描くかが、重要だからなんです。しかしながら、むしろ結構好きな、戦闘機や撃墜王や戦艦などの物語を、名前からさかのぼって戦史を調べてみようという意欲は起きなかったんで、なぜ今回に限ってみてみようという気になったかは、偶然としか言いようがないですねぇ。ただし、Twitterを見ていて、ウマ娘は、名前の使用を馬主さん許可を得て、二次創作でエロを描かないという、かなり思い切ったやり方をしていたので、何となく心に残っていたんですよね。それで娘と一緒に、見たらハマりました。温泉回とかでも、エロシーンも入浴シーンも全く描かないのが潔くて、むしろよかったです。さて、実は、そうはいっても、最初の数話、あんまりおもしろくなかったんです(笑)。僕は、あんまり萌え擬人化って得意じゃないんですよね。絵としてはかわいいけれども、そういう女の子たちが、たくさん出てくると、なんかマーケティングされているようであんまり気持ちよくない。


けど、まずハマったのは、「駆けっこ」の魅力が詰まっている、ことです。


走るシーン。単純に走るだけじゃないですか、競走って。でも、この追い抜くとか逃げ切るとか、走るのって、めちゃくちゃなんか血沸き肉躍るんですよね。この時点では、サイレンススズカも、スペシャルウィークも、シンボリルドルフも全く知らないので、フーンと思いながら見ていたうえに、萌えにもあまりヒットしないので、ほとんど興味なかったはずなんですよね。けど、この「駆けっこ」の競争の、抜く抜かれるは、見ていてシンプルに心惹かれる。いま思い返すと、まさに競馬の本質って、これんじゃないかなって思う。これを大観客の万雷の拍手と歓声の中駆け抜けることって、そりゃ見ていて、心が沸き立つよ。こればかりはぜひと見てほしいとしか言いようがない。これを見てから、僕は、リアルの競馬の映像が面白くてたまらなくなりました。二期中心ですが、感想は物語三昧チャンネルのほうに挙げています。

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さて、僕ごとき素人が解説するまでもなく、ウマ娘を見ている人とかは、馬の背景知識はあると思うので、僕のアウトプットのして覚えるための自己満足なんでしょうが、まぁ自分日記で書いてみます。サイレントスズカの特徴って、


1)大逃げ

2)天皇賞(秋)においてレース中に左手根骨粉砕骨折を発症、予後不良と診断され安楽死


ていうことで、この「事実」をベースに、何を描くかってことなんですよね。これって脚本家がどこに焦点を合わせるかってことなんですが、LDさんが感動にむせびながら解説していたように、絶頂期で死んでしまったサイレンススズカが、その後、走っている姿が見れるだけで、泣くという言葉が象徴しているように、この悲劇のストーリーをどう料理するかで、たぶん直接この悲劇を見ていた人たちが伝説として語り継ぐポイントは、もしサイレンススズカが生きていたら!というイフになっているんですね。もちろん悲劇に仕立ててもよかったんですが、まぁ第一期の最初で、そんな苦しいことを描いても仕方がないので、必然的にこうなるかなって思うんですが・・・・レスター伯爵いわく、本当はサイレンススズカって、凄い気性が荒い馬だったそうで、このドラマの構成とキャラクターのおしとやかな感じをみると、悲劇のヒロインとして描いているのがわかるんですよね。

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そこに元気いっぱいなアイマスの春香的な、なんというか万人受けしそうな、それでいて特徴がない(笑)スペシャルウィークという新人のウマ娘が、サイレンススズカにあこがれて「彼女と一緒に走りたい戦いたい!」と憧憬を持つところにキャラクターの主人公の動機を設定しているところに、脚本家素晴らしいと思いました。というのは、このお気楽な、天真爛漫な頑張り屋さんのスペシャルウィークが、強いあこがれを持てば持つほど、「それは実はかなわない夢であるというはかなさ」が見ている側につはどんどん蓄積されていくわけですから。この後の二期のトウカイテイオーメジロマックィーンのライバル関係を設定するのも、僕はこの脚本見事だなぁと思います。というのは、僕のような競馬に興味がない素人には、まずはディープインパクトセクレタリアトのような物語の重みをもった大スターをシンボルとして軸にして伝えないと、誰が何だか、何が何だか分からなくなってしまうからです。しかしそれを、一人にしないであえてひねってライバル関係に設定しているのは、僕はうまいと思いました。というのは、日常萌え系の女の子たちがきゃははうふふとイチャイチャするアニメの類型・フォーマットをベースにしながら、この関係性が、選抜と競争という過酷な世界で試される構造になっているからです。なので、見ていて感情移入すればするほど、この「関係性」が、物凄く過酷な方向へ突入していくことを、ドラマの展開上を見ざるを得ない。そして、それほど過酷で悲劇であるからこそ、逆にどうでもいいような日常の関係性が、美しく際立つという構造になっている。僕は二期が好きで好きで、たまらないのですが、エンディングテーマでトウカイテイオーメジロマックィーンの声優さんが歌う「運命のいじわる」というところで、いつも涙してしまうのですが、それは、どれほど普通に仲良く生きていても、サラブレッドの競走馬の世界というのは、過酷な生と死をかけた競争の世界の残酷さに常に直面しているからです。やはり懸命に生きている人は美しい。


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サイレンススズカスペシャルウィークの関係性に「追いかける憧憬」を設定して単純に日常をコツコツ、それこそ日常萌え系で積み上げるだけで、それが悲劇への序章となって、ドラマトゥルギーを大幅に押し上げる並みとなるわけです。どんなに思っても、あこがれても、頑張っても、、、、サイレンススズカは、大舞台の天皇賞で足を折って、死んでしまうのですよ。もうかなわないことを観客は知っているわけです。そして、最終のシーン。サイレンススズカが骨折してしまうシーンは、僕は演出がうまいとうなりました。というのは、通常のドラマを盛り上げるような劇的な演出をわざわざ「しない」んですよね。それはもう、不思議なくらい淡々と、描いている。これは本当によくわかっている演出だとうなりました。だって、すでに起きてしまった伝説の悲劇を見ている側は前提で知っているから、ことさら演出をぐどくする必要がないんですよ。


まとめると、ウマ娘は、このタイプのシナリオの作りかたを洗練しているなぁと思いました。


■一緒に見る快楽〜解説者がいると全然理解が違う


重要なことなのですが、僕は競馬が好きではないです。うーん、という言う言い方は、よくないなぁ、、、というか、僕はギャンブルがダメなんです。僕は子供の頃から賭け事が大嫌いで、パチンコとか見るのも嫌でした。今でも、あまり変わらないのです。ラスベガスに何十回遊びに行っているんだ?というくらいいっていますが、一度もかけ事をしたことがありません。だから射幸心を煽るようなゲームは、本当にダメです。だから、「競馬の楽しみ方」というのも、基本よくわからない人です。


その僕が、競馬の醍醐味、歴史の面白みを、感じれるというのは、本当に嬉しい。趣味がクロスするもののも面白さってここにある。


もともとは、物語類型の話で、LDさんがおすすめしてくれたから見たものでした。けど、二期を見ているときに、友人のレスター伯爵や哲学さんが、リアルタイムで見ているあいだLINEで付き合ってくれて、いまこの場面見ている!と書くと、その解説を(笑)どんどん入れてくれて、なんか物凄い楽しいリアルタイムセッションでした。


二期を見ているときに、レスター伯爵から、


ペトロニウスさんはサイレンススズカ状態ですね」


といわれたのが、始まりでした。最初意味が分からなかったんですが、これは、サイレンススズカアメリカに挑戦していて、このトウカイテイオーメジロマックィーンのストーリでは、アメリカから見ているという設定なんですね。しかも、たしかに、僕は、サンタアニタデルマー競馬場の近くに住んでいます!。途中でわかって、おお!そういうことかとつながりました。サンタアニタ競馬場にはいったことがあったんですが、デルマー競馬場(Del Mar Racetrack)はなかったんですよ。そしたら、ちょうど11月にブリーダーズカップがあるって、伯爵が興奮しているんですよ。最初は名前すら知りませんでした。でも、なんというかこの辺は、「新しいものを知るきっかけ」にいいよなって思って、無理がない限りは、いろんなところに直接に見に行くのは大事だと思っていて。物語は、「頭の中だけで体験している」と、途中で全然面白くなくなってしまいます。なんというか、新しい知識や体験を自分の中に蓄積しないと、面白さが摩耗していってしまうようなんですね。これは人生を楽しむうえでも真理だと僕は思っていて、ある程度、新しい知識や体験を継続的に積み重ねていないと、もともと「自分が楽しいと感じていた軸」みたいなものも失われて、飽きてしまいます。だから、せっかくレスター伯爵がリアルタイムに「二期を見るの付き合ってくれている」幸運の出会いを、無駄にしてはいけない!と、そこでブリーダーズカップを見に行くことを宣言しました。僕はこういう「偶然の出会いやきっかけ」は、物語の種だと思っていて、そういうのは大事にしようと思っています。何かアクションを起こして、人との関係性が結ばれていると、なんというか「何かを為すことに重みが生まれる」と僕は思っています。えっとね、僕は残りの生涯を物語を楽しもうと決断してかなりしぼっています(人生の優先順位をだいぶ絞っている)が、それでも選択肢はたくさんあるんですよね。なにも、アニメではなくても、競馬ではなくても、何でもいいじゃないですか。でもね、人には、何かしらの「理由」が必要ようだと僕はおもっています。そして、レスター伯爵くらい競馬の好きな人が、リアルタイムで付き合ってくれるような幸運ってなかなかないんですよね。僕は、アメリカで、なるべくいろんなものを見ようと思って、たとえば建国史を知らないといけないし、建国の父を知らないといけないな!と思ったら、ジョージワシントンの家であるマウントバーノンに旅行に行ったりします。実際に「その目で見る体験」をすると、その後の理解が飛躍的に上がったりするからです。僕は自分の頭の良さには自信がないので、こうやって体験を差し挟んで、理解度や感受を上げようといつも努力しています。

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2021ブリーダーズカップに日本馬が予備登録 JRA

https://www.jra.go.jp/news/202110/102807.html?fbclid=IwAR2zNoY1lcmod0s9wi4y4i14UEyYjvBMNkFldv6ZfuPKlrT3i247_TcFsbgwww.breederscup.com


ちなみに、これで課題というか宿題ができましたので、せっかく行くのに調べたりしていかないともったいないので、レスター伯爵に電話して、何を見ればいいというのを講義してもらったら、さまざまなことがわかって、、、これは!と次のステージに行くことになります。

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ちなみに、レスター伯爵はガチの歴史学の学者さんなので、近代スポーツ史は、ガチです(笑)。こうやって、世界は広がっていく。新しい知識というのは、こうやって広がっていくもんで、ありがたいなぁとしみじみ思いました。ちなみに、そこで何か映画化小説でいいのがないかと紹介されたのは、シービスケットなんですが、それは配信で見れなかったので、ディズニー+ですぐ見れたこの『セクレタリアト』を見ることになります。もちろん、せっかくアメリカのブリーダーズカップを見に行くから、アメリカの伝説や情報を知らないと話にならないので、アメリカ縛りで絞っていきます。なんでも調べものってのは無限に考えていると、ダメなので、なんか理由を作って縛りを作っていくと、スムーズに進みます。

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この辺を聞いていただければ、ちゃんと勉強してそれなりに、素人よりは通な見方をしているのがわかるでしょう?(笑)。これが趣味になるまで広がるかわかりませんが、少なくとも、これで機会があれば、アメリカの三冠である、ケンタッキーダービープリークネスステークスメリーランド州)、ベルモントステークスニューヨーク州)などは、頭の片隅に入りましたし、雑談チャットでアメリカ人に振ると、この辺は常識に近いものみたいで、少なくとも名前は聞いたことあるって感じで、話が広がります。広がると、もっと知りたくなるし、いろいろ教えてもらえます。こういうの最高。


ということで、明日(今日は、2021/10/5)にデルマー競馬場で、ラヴズオンリーユー(Loves Only You)を見に行ってきます!。


ゆうきまさみ先生の傑作『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』を読み返す。

競馬を知るに一番いい物語は何か?と言ったら、やはり『じゃじゃ馬グルーミン★UP!』ですね、と言われました。それで、全巻再度読み直してました。なかなか興味深かったのは、これって荒川弘さんの『銀の匙』と動機の構造は全く同じなんですよね。親子関係も似ている。勉強ばかりやっていたけど、「何のためにやっているか?」がわからなくて、家でうまくいかなくなって、北海道や農家や牧場に逃げ込んでいくことで、自分の人生の目標や大事な人を見つけていくという流れ。僕自身は、この少年のビルドゥングスロマン(成長物語)として読み込んでいて、好きで何度も何度も読み返しているのですが、競馬の血統の選抜の物語という新しい知識がわかったところで読み返すと、かなり違った流れを感じられて、名作は本当に重層的で凄いとうなりました。これはパールバックの『大地』とか、家族の年代記になっているところ、世代を超えて受け継がれていく思いがあるところが好きだったのですが、それには、この競馬の「世代を重ねることで見えてくるもの」が重なっているからなんですよね。いやはや、一粒で何度もおいしい、傑作は違うなぁとしみじみ思います。


また、最近実感するのですが、僕自身の世界観や地理感の「感覚」が、物凄い変わっているんですね。僕は小学校まで北海道で育ったので、僕の中に、日本というと東京と北海道なんですよね。自分の人生の実感がそこにある。けど、もうアメリカにも住んで7年ぐらいになるので、なんというか、本当にアメリカの景色とか地理とかが「普通」になって来たんです。一番下の娘に至っては、人生の9割はアメリカなわけで、子供たちにとってもほとんど故郷みたいなもんなんです。そうすると、なんというか、競馬という物語を見ても、体感感覚では、昔は牧場というと、北海道しか思い浮かばなかったんですよね。でも、最近だとカリフォルニアでも内陸とか、オレゴンとかあっちのほうも、あーそういう生活あるよなー的な感じがうっすらと感じる。だって行ったことあるし、知り合いもいるから。多分身体的な地理感覚がアップデートされているんだろうと思うんですが、そうするとね、「競馬という産業、文化にかかわる人間の営み」みたいな重層的なイメージが、日本に限定されなくなってきた感じがして、、、そういう感覚で、府中の競馬場とかデルマー競馬場とか、そういうのが並列に「感じる」んですよ。うまくいえないんですが・・・・なんかねぇ、凄い世界が多様性にあふれているというか、、、、こんなに世界って広く深いんだ見たいな圧倒的な立体感のある感覚が来るんですよ、、、、胸に。これ間違いなく、「さまざまな異郷の地に住んだことがある人」が「様々な異郷の地の歴史や生活や人間関係も体感して」いるときに起きる感覚だと思うんですよね。この圧倒的な世界の複雑さ、地理的な広さの実感って、、、物語歴史を読んで学んで(縦軸)、それとガンガン旅をしたり生活をして(横軸)、時間と空間の重層性を「実感している」人にしか訪れない感覚だと僕は思う。イヤーこんな感覚が、新しい世界が、訪れるなんて、、、と最近感心している。もっと旅したい、いろんなところに行きたいし、暮らしたいし、もっと本も映画も楽しみたい。。。。凄くそう思う今日この頃です。

じゃじゃ馬グルーミン★UP!(1) (少年サンデーコミックス)

■おすすめ

ちなみに、レスター伯爵にお勉強として、おすすめされた本当がこれ。あと、いろいろテキトーに動画を見てたやつを。

競馬の世界史 サラブレッド誕生から21世紀の凱旋門賞まで (中公新書)

NumberPLUS「Number競馬ノンフィクション傑作選 名馬堂々。」 (Sports Graphic Number PLUS(スポーツ・グラフィック ナンバー プラス)) (文春e-book)

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https://www.nicovideo.jp/watch/sm38509858
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『Turning Point: 9/11 and the War on Terror』2021 Brian Knappenberger監督 対テロ戦争20年を網羅し「いま」見るべきドキュメンタリー

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■歴史となった911からのイラン・アフガニスタン戦争

バイデン大統領は2021年8月30日、アフガニスタンからの軍の撤退が完了したと宣言した。その後、一月くらいは持つだろうと予測していて様ですが、アフガニスタンではイスラム主義組織タリバンが全土をほぼ掌握してしまい、20年間で2兆ドルを超えるコストをかけた「アメリカ史上、最も長い戦争」が終わりました。『Turning Point: 9/11 and the War on Terror』は、ネットフリックスのドキュメンタリーシリーズ。アメリカの対テロ戦争の20年間を網羅して、まさに「いま」のタイミングに見るべきドキュメンタリー。素晴らしかった。いま與那覇潤さんの『平成史―昨日の世界のすべて』を読んでいて、平成がついに歴史になったんだな、という感慨とともに、だからこそ、全体像を「歴史」として俯瞰して見れるポジションが獲得できつつあるという感慨を抱いています。同じように、2001年9月11日から始まるイラク戦争アフガニスタン戦争と続く「同時代のアメリカ」というものが、生々しすぎて、しかも僕は2013年からは米国に移住しているので、なかなかバランスよく見れていなかったのですが、このドキュメンタリーと2020年のバイデンVSトランプの大統領選挙で、一つの区切りというか、まとまりを眺めることができるようになった気がします。こういう「区切り」を設けて、過去の帰結をまとめなおすことは、時々何かのきっかけをもとに行うと、世界が、同時代に生きながらちゃんと罪があっていく感じがするので、僕は好きです。アフガニスタン撤退は、ある意味、米国が中国との新冷戦体制にシフトしていく契機でもあり、新時代の幕開けでもあるので、いったいなぜこうなったかのまとめをしておくことは、とても価値があるタイミングだと思います。僕は、ミドルスクールの子供たちと、家族で見ました。米国が、今どこにいるのかの一つの起点として、これは見ておくべきだと思ったからです。

■『Turning Point: 9/11 and the War on Terror』が示す、対テロ戦の時代の米国の問題点~戦略目標を明確にできず、大統領に白紙委任を与えてしまったこと

911の3日後の9月14日、上下院はテロへの対抗措置としてブッシュ大統領武力行使を認める決議(AUMF)案を採択した。上下院の議員531人のうち、1人だけAUMFに反対票を投じます。バーバラ・リー下院議員(カリフォルニア州選出・民主党)です。彼女は言います。


 「議会は大統領に対し、武力行使白紙委任を渡してしまった」


これ、このドキュメンタリーの軸となることです。というのは、もし映像を見て、1. The System Was Blinking Red、2. A Place of Dangerを見れば、911のテロのすさまじさに、言葉を失うと思います。その臨場感。僕は見ているだけで涙が止まりませんでした。正直言って、これだけの出来事が起こってしまっては、この深い悲しみ、怒り、その激しい感情が「どこかに拳を振り下ろさなければ終わるはずがない」というのは、見ていれば「実感として」感じられてしまいます。ここで理性的に、ソ連の侵略を退けるためにアメリカがCIAを投入して、ゲリラン戦術と暴力を教え込んでいき、それによって911よりはるかに多い数の死者が生まれたなどの怨念を比較したりは、人はしません。とにかく、アメリカを攻撃し、アメリカ人を殺戮した!責任を取らせなければ、ならないというのは、自明のどうしようもなかったことだと思います。世界は、そんなに甘くはないので、ここで平和を叫んでも、むしろアメリカが舐められてもっとひどいテロが起きるだけでしょう。だから、アフガニスタンに、テロリストを倒し、捕まえに行くために侵攻するということ自体は、もうここまでのことが起きてしまったのだから、止めることはできなかったでしょう。

ブッシュJr大統領が、America Is Under Attackと閣僚によって、エレメンタリースクールの子供たちと話しているときに、伝えられた時の表情が、凄まじかった。あんなクリティカルな場面が、映像に残っているんだと感心する。

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とにかく見てみればわかります。これで感情移入できなかったら、その人は、よほどアメリカが嫌いとか、前提がある人だと思います。


しかし、では、最も重要な問いは、この「起きてしまった出来事」の「落としどころの絵をどう描くか?」なんだろうと思います。しかし、もちろん、そんな冷静なことはできません。自国民数千人が本土で殺されて、アイコニックなビルが崩壊させられたら、そりゃそうでしょう。なので、さまざまな情報は集まっていたのですが、国は復讐で熱狂していきます。ここで重要なのは、この熱狂の中、問われたことは何か?でした。バーバラ・リー下院議員は、ただ一人、「テロへの対抗措置としてブッシュ大統領武力行使を認める決議(AUMF)案」を拒否します。実は、彼女自身、戦争に反対という言わけではありません。ここで重要なのは、この「どこまで武力行使を認めるか?」という範囲について「白紙委任」になっていることを彼女は問題視しました。

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アメリカの憲法の、そして建国の父であるワシントンの重要な意思は、絶対権力を握る暴君を、独裁者を作り出さないことです。それは、イギリス帝国という国家の暴力と、暴君ジョージ3世を倒して、共和国を生み出したアメリカの柱です。だから彼女は、「白紙委任」ではなくて、「対象を限定」すべきだとしたのでした。この時点で、アメリカは、ほぼアルカイダ、ウサマビンラディンが犯行であることをつかんでいました。ならば、「そこ」だけに限定すればよい、という話です。アメリカの憲法意志、建国の父たちが意識していた権力行使の抑制の問題点を、アメリカは熱狂によって忘れ去ってしまったのでした。


そして、、、、白紙委任にしてしまった。そして、ブッシュ政権は、全世界に対して活動領域を広げていくことになります。その結果、どれほどの広大な、選別しているとは思えない広い範囲での、ブッシュ政権での「対テロ戦祖という名の軍事行動」が、発動されていきます。これラストシーンで、その国の数が明かされると、戦慄します。


そして、アフガニスタン戦争が、あれだけの大失敗に終わった理由はなぜか?


ほぼ最初の段階から、その理由はわかっていたとこのドキュメンタリーは主張しているように思えます。最初から繰り返し現場の将軍、司令官、だけでなく前線にいた兵士たちの意見は同じです。米軍が、一体に何をしたいのかが、よくわからない。


一言でいえば、戦略目標の不在です。


アルカイダを倒すのか?、アフガニスタンの新国家を建国するのか?、それすら、行ったり来たりしていて、よくわからない中で、兵士たちは戦い続けます。なぜ、アフガニスタンで、米軍が、だらだらしているように見えるのか?。簡単です。アフガニスタン以外に戦線が拡大しすぎていて、アフガニスタンに米軍の兵士が集中していないからなんです。一番わけわからないのは、アフガニスタンが中途半端になったのは、米軍がイラク戦争を始めたからでした。このあたりは、イラク戦争に4度従軍したクリス・カイルが著した自伝『ネイビー・シールズ最強の狙撃手』( American Sniper: The Autobiography of the Most Lethal Sniper in U.S. Military History)の映画化『アメリカン・スナイパー』(2014)や『バイス』(Vice)2018年の第43代ジョージ・W・ブッシュの下で副大統領を務めたディック・チェイニーを描いた映画、『グアンタナモ、僕達が見た真実』などを見ると当時の雰囲気が伝わってくるのでお勧めです。ここで映画かれているのは、白紙委任を与えられた権力が、なんだかんだ理由をつけて、権力を濫用していくさまがよく見えてきます。効果的に暴力を使うのではなく、党派性、私利私欲に歪んでいくのは、「白紙委任」されているからですし、「白紙委任」されているので戦略目標をクリアーにして評価される必要がないんです。

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少なくともこれを見ると、明らかにアメリカが「対テロ戦争の根本戦略」を歪めて間違えているのがわかる。対テロ戦争の根本問題は、「アフガニスタンをどうするか?」であって、イラクは明らかに何の関係もない。これに労力を割かれたのが、戦略不在になった大きな要因になっています。


僕は、いまの2021年から振り返ると、カーター、ブッシュジュニアクリントンオバマ vs トランプのような構図で描かれているアメリカのメディアの報道の仕方や、民主党支持者やリベラルサイドの態度って、物凄く理解できない。少なくとも第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュのほうが、アメリカ合衆国第45代大統領ドナルド・ジョン・トランプより、よほどめちゃくちゃだよって思うもの。


しかし、、、、つくづくアメリカの建国の父と憲法は偉大だな、と感心しました。本当に権力の本質をよくわかっている。この憲法意志に、ちゃんと殉ずる議員が、挙国一致ではなくいるということが、アメリカのすごみだなと思います。


■本質を探ることなしに「世界の警察」はなしえない

ちなみに、歴史をさかのぼると、帝国の墓場(Graveyard of Empires)、アフガニスタン問題が、ソ連による侵略からはじまって、ねじれてねじれていくのが、よくわかる。このあたりは話すと長くなりすぎるので、僕のおすすめは、下記。ロシアの軍事・安全保障政策を専門とする東京大学先端科学技術研究センター特任助教小泉悠の意見。この人は、ロシアの軍事戦略の視点から、この地域をロシアがどのように考えているのかを説明している部分があって、おおーとうなりました。素晴らしいのでお勧めです。ロシアという大国の戦略を、長く深く追っておいて、それをわかりやすい言葉で平易に網羅的に説明できる喜住さんらしい素晴らしい視点でした。

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あとここではほとんど出てこないけれども、僕はやはり、そもそも問題の根本原因は、パキスタンとしか思えない。パキスタンが、アフガン影響力維持のために「タリバンなど過激派、原理主義の神学校を建てまくっている」のが、結局のところアフガニスタンのユースバルジに火をつけているようにしか思えない。「問題の根本は、パキスタン」だと思う。なのに、パキスタンへの対応がほとん描かれない、表に出ないのも、米国の戦略が不在なのがよくわかる。だって、これってイスラム教におけるユースバルジを利用したパキスタンの隣国へ影響力維持戦略だもの。だから、ビンラディンパキスタンに隠れていたわけでしょうに。


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中田のあっちゃんの動画は、僕は網羅的に全体像を追うのには、素晴らしい導入だといつも思っています。ある意味、歴史を知っている人でないと、この複雑な背景は、まったく意味不明になるので、まずはこういった解説動画をざっと見てから、いろいろ細かいところに入るのは、ありな時事問題の理解の仕方だと思っています。


ちなみに、このドキュメンタリーは、イラク戦争が題材ではないのですが、ブッシュ政権が、なぜ石油に固執したのか、、、そしてその結果どうなったのかは、このあたりのシェールが巣のその後の展開を見ると、世界の動き方のすさまじさに、ため息が出ます。2012年ガス・ヴァン・サント監督『プロミスト・ランド』(Promised Land)がよいです。高橋 和夫さんの『イランvsトランプ』がおすすめ。

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■同時代をまとめなおす物語群

こういう機会なので、いくつかの物語をお勧め。『生きのびるために』( The Breadwinner)2017は、ノラ・トゥーミー監督による、タリバン政権下の少女の物語です。また、このあと、ウサマビンラディンオバマ政権の時代に暗殺するわけですが、それを描いた2012年のキャサリン・ビグロー監督の『ゼロ・ダーク・サーティ』(Zero Dark Thirty)などもおすすめです。

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メリトクラシー(能力主義)による分断を乗り越える次世代の物語を考える~ラノベ的ラブコメ空間から(笑)『その着せ替え人形は恋をする』『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』にみるリア充と非リア充の対立後の世界

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さてさて、前回の記事は最近のペトロニウスの思考を凄く言語化できていて、いろいろ思い浮かんでしまったので、メモ的に書いておきます。前回の記事で、言いたかった大きな要点は以下です。いつものごとく、「その2」があるかわからない、「その1」です(笑)。

現代社会(2020年代)は、能力主義メリトクラシー)-----才能によってできる人とできない人の格差が際限なく広がっていくこと、また同時に「才能のあるとんでもなく優秀な人」を基準に社会が制度設計されるために、「普通の人がまともに生きていく方法がない」分断社会になる。


●こうした分断された社会は、1)全体を維持するための公共のプラットフォームを「みんなでメンテナンスする」という意識に欠ける、2)社会統治上の上層部になる上級国民にとっては、自分の努力「のみ」で現在の立場を獲得した自負があると思うため、努力をしない怠惰で怠け者の下層国民に対して激しい憎悪と差別意識を持って臨むため際限なく差別が容赦なく冷酷になる。

このあたりは、まぁメリトクラシー的な議論では、まとめみたいなもので、特に目新しさもないと思います。ちゃんとソースというか議論の正確さを確かめたい人は、以下をどうぞ。

実力も運のうち 能力主義は正義か?

それと、それが展開されている映画というのは、下記のあたりがよいです。ペトロニウスは、2021年現在はアメリカに住んでいますので、特に、2020年のトランプVSバイデンの選挙をめちゃくちゃ追いましたので、このあたりに、アメリカ社会のグローバル化の影響がいろいろ分析してあります。こうしたメモとともに、当時の映画を見ると、だいぶ具体的に「我々が住む超格差社会が具体的にどいうところか?」が伝わると思います。映画や物語を、アドホックな(目の前の)問題意識と関連させながら体感すると、強度が凄く上がって感情移入できます。こういう「文脈読み」や「社会還元論」的な読みには、「作品そのものの面白さやドラマへの共感をともすれば失いやすい」という欠点があるのですが、そういう問題もあるという前提をかみしめてみると、非常に豊かな物語体験ができると僕は思っています。


ここで、アメリカ映画を中心にペトロニウスが持っている「文脈」というのは、「僕らが今住んでいるグローバル化が進んでいくメリトクラシーを軸にした超格差社会で生きること、というのはどういうことか?」というのの、さまざまな場所、文脈での疑似体験です。イギリス、米国、日本、韓国、なので、この場合は、旧西側諸国でかつ新自由主義が極まっている場所ですね。

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ちなみに『わたしは、ダニエル・ブレイク』(2016)、『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2018)や『万引き家族』(2018)、『パラサイト 半地下の家族』(2019)、『ノマドランド』(2021)、イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』(2018)でもなんでもいいのですが、現代社会の問題意識に超格差社会の到来というものがあります。その中で、どれほど悲惨な生活を送るのか、そういった作品が2018年ごろを中心に山ほど噴出しました。

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こうした社会で人々はどのような生活を強いられるのか?、また生きる希望はどこにあるのか?などなど、このラインに沿ってたくさんの傑作映画が生まれています。『万引き家族』、『パラサイト 半地下の家族』、『ノマドランド』や『The Rider』でペトロニウスが追ってきたのは、このグローバル化による超格差社会の到来にいったい何を監督たちが見ているのか?と問えば、明らかに「家族の崩壊」----もっといえば、こうしたかグローバルエコノミーが、個人個人を駒として使用していくため、もともと自然に存在していたはずの「親密圏的共同体」がそれによって崩壊しているさまが問題の提起されています。これは、メリトクラシー能力主義)の処方箋のとしてのコミュニタリアニズム共同体主義)への流れを意識してのものだと思います。

まぁ左翼、リベラリズムの系統の問題意識は、常にこのラインですね。グローバル化-----言い換えれば資本主義の高度化が、人を疎外(アリエネーション)していくことへの抵抗。これが具体的に表現されると、要は「過去の共同体に戻れ的な田園主義」にすぐ回収されてしまう。この田園主義がポルポトスターリニズムの強制労働上等のディストピア超管理社会にしかならないのは、歴史が示している事実です。なので、いつも思うのですが、共同体-----親密圏の典型モデルである家族の崩壊を訴求するのはわかるのですが、かといって、それに代わる代替案がないのが、常です。


あたりのメカニズムと歴史的経緯を知るには、いつも紹介のするのは、『コンテナ物語』とそれの説明をしている岡田斗司夫さんの解説です。残念ながら、後半の有料版ですが、この部分の解説がウルトラ秀逸で------コンテナのイノヴェーションが、グローバル化に貢献して、「なにものでもない僕ら」普通の人々が、普通にがんばって生きていけば食べていけた中産階級が生きれた時代が終わりを迎えていく様を、米国、ベトナム戦争、そして日本で解説していく様は、うぉぉぉぉぉぉそうつながるのかぁ!!!と驚きます。そして、「ここで語られる超優秀な人しかまともに生きていけない」グローバル化が進む高度資本主義の実感がよくわかります。むちゃくちゃおすすめですよ。なぜモノは安くなって、僕らが貧乏になったのか?が、なるほどーと分かります。

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あ、なんか難しくなった。僕の「めりとくらしー(能力主義)」とか使うときには、こういった物語や映画の展開が「頭の中に念頭にあります」ので、ぜひとも、気合がある人は、グローバル化批判、格差社会批判の文脈で、このあたりの作品を見て考えてもらえると、ペトロニウスの問題意識が共有されるのではないかと思います。


さて、こうしたメリトクラシーによる分断社会では、とにもかくにも、イシューが「社会の分断をどうつなぎとめるか?」という問題意識になる。


というような背景のある社会で、僕らの愛する物語はどういう展開を、ソリューションをみせるのであろうか?というのが僕の問題意識。その手掛かりをいろいろな方面で追ってみたいとおもっている。


閑話休題

やっとタイトル関連へ(笑)


■『その着せ替え人形は恋をする』にみるリア充と非リア充の対立後の世界~世界の厳しさをひっくり返すには、分断を埋める絆を作り出さないとだめだぜ

さてさて、めちゃくちゃ議論は矮小化(笑)しているけれども、こうした分断の一形態が、過去の日本のエンタメの文脈、非リア充リア充の対立の大きなバックグラウンドになっていたんではないか?とペトロニウスは思うのです。これって、「社会をうまく生き抜けるであろう陽キャとかコミュニケーション能力の高い人々」に対する嫉妬で構成されているわけですから。要は上級国民と下級国民の嫉妬と軽蔑のいがみ合い。


ちなみに、ライトノベルの議論では、この非リア充リア充の対立というのは、非リア充側が、「リア充の連中も、案外おいしい人生を生きているわけではなくて、その世界にはその世界の中での過酷な競争や苦しみがあるんだ」ということを理解することで、この対立が雲散霧消していく様を見てきました。


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このあたりの議論で、2010年代の輝かしき主軸となる作品である『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』この話は展開してきました。このあたりの具体的な分析に興味がある人は、このあたりのタグを追ってもらえれば、ザクザク書いてあると思います。


この対立が消えた世界がどうなっていくのか?。次のイシューは何がテーマになるのか?と考えていたところ、僕は、この次のステージに展開している物語を、福田晋一さんの『その着せ替え人形は恋をする(そのビスク・ドールは恋をする)』だ考えています。というか、この物語の5巻と6巻で書かれているエピソードは、まさにこの「リア充と非リア充」とか「陽キャ陰キャ」の対立が消えていく過程が描かれています。←おおげさ?(笑)

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『その着せ替え人形は恋をする』では、主人公の五条新菜君は、クラスでなじめないいわゆいる非リア充、オタク(この場合は人形作りね)をしているのですが、重要なのは、彼の不全感が、小さいころに、多分幼馴染であろう女の子から雛人形が好きなことを否定され「気持ち悪い」と言われたことがトラウマになって、自分の好きなことを回りに言えなくなって、引っ込み思案になっているとること。この主人公の動機の問題点。

なので、この世の中の人から「気持ち悪い」といわれることで人間関係が壊れる恐怖というのをどう克服するか?というのが実存上のドラマトゥルギーになるんだけど、この答えが、5-6巻で出ているのね。


それは、「気持ち悪い」と言われたのは誰に?という問いから始まる。


ようは、彼は、自分の好きなものを否定されたことは、「この幼馴染一人」からしかないんですよね。だからといって、その他のすべての人が、「気持ち悪い」というのであろうか?という風には考えられずに、「すべての人がそう思うはずだ」という思い込みにとらわれてコミュニケーションが取れなくなっているんですよね。でも、いくつかのエピソードで、彼は、自分を否定した相手が、「その幼馴染一人」でしかないことに気づくわけです。


なぜ気づくか?というのが、その具体的なエピソードが圧巻かつ具体的。いくつもあるのですが、そのうちの一つをピックアップ。


喜多川海夢(きたがわ まりん)という超リア充のクラスの陽キャカースト上位のメンバー(笑)(←この言い方も手あかにまみれてきたなぁ)の、彼女のコスプレの趣味を手伝うことで、パートナーとなることで、今まで疎遠であったクラスメイト達-----特に超リア充のまりんちゃんのまわりのメンバーと行動するようになることで、彼らのだれもが、そんな差別や、好きなものを否定するような心の腐ったやつがいないことを知っていくわけです。ようは、ちゃんと五条くんが、自分から一歩前に出て、自分を素直に伝える努力をしていれば、そのような劣等感やディスコミュニケーションの分断に悩む必要がなかったんです。


これちょっと話すがずれるんだけど、、僕が好きなマンガの『ボクラノキセキ』の矢沼孝史と手嶋野尚って二人の関係を見ているときにも、思ったんですが、人間って「自分の思い込み」を超えて積極的に「一歩前に出る」というのが凄い難しいんですよね。矢沼くんって、プライド高いけどコミュ力と能力が悪くはないけどいまいちで、自信がなくて空回っている男の子なんですよね。そういう彼からすると、常に自然体で、普通にしていても女の子からの一番人気になるコミュニケーション強者で、しかも実力もある手嶋野って、まぁリア充のようにまぶしい嫉妬の対象なんですよね。別に、手嶋野は、矢沼のことを「特に下にも上にも見ていないで等身大に普通の友達」と思っているけれども、この劣等感と嫉妬が、常に矢沼君に付きまとって、「きょどってしまう反応」をさせるんですね。「きょどった自分」にさらに落ち込んで、とどんどんマイナスが反復される。けれども、実は、手嶋野は、キョどっていること自体も、あまり特に気にしていないんですね。自然体で自身がある人からすると、そういったマイナスのキョドりや反応は、よほど大げさでない限り、流してしまえるものだからなんです。そして、その「流してしまえる自然体」に対して、さらに矢沼は劣等感を感じて、、、、と繰り返されて、決裂していくわけです。でも、この場合、この二人には、「前世の記憶がある」ことなど一緒に行動しなければいけない出来事が多いので、その矢沼の「ちぐはぐ」感が、繰り返されているうちに、矢沼自身が「あ、手嶋野って、本当に気にしていないんだ…気にしているのは自分自身なんだ…」というのが、繰り返される会話の中で、実感されてきて、なんとなく友達になっていくんですね。


ようは、共通の目的でかかわっていくうちに、お互いのディスコミュニケーションの問題点が、解消されていくさまが、最近の作品では本当によく見れるんです。

ボクラノキセキ: 24【電子限定描き下ろしカラーイラスト付き】 (ZERO-SUMコミックス)


えっと、これは非リア充側「から」の「気づき」なんですが、柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)の二人の五条新菜への会話が、この逆バージョンをしめしていて、面白いってうなったんですね。ええと何が言いたいかというとですね、そもそもマンガやラノベ読む層なんて、いいかえれば、僕の自意識って非リア充で、「うまくコミュニケーションできない・自然体の自信が持てない」自意識の人が多かったと思うんですよ(今は実は違くなっているんですが・・・)。だから、非リア充の立場から、「自意識の解放がどのようにすればいいのか?」という物語の主観設定がされることが多かった気がするんですよね。僕の過去のブログの記事もすべて、実は非自明的に、「非リア充のコミュニケーション弱者」が、どうやって自信を持とうとするのか、とか、自らの自然体のなさを克服しているかばかりに焦点が合っています。つたわりますかね?。ようは、コミュニケーション強者、自然体の人、リア充、学園カースト上位の「視点から」、もう少し歩み寄る、自分の至らなさを考えるという視点がないんです。


けど、柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)この二人の五条新菜への会話は、カラオケルームの話も、学園祭の決め事のクラスでの会話も、究極的には五条新菜(自分の自信がない視点)が、自分の思い込みで「周りのすべてが自分を気持ち悪い時つけている)というナルシシズムから気づくという文脈でありながら、いわゆるクラスのリア充イカーストメンバーの柏木くん(メガネ君)が森田くん(脳筋バカ)に、いつも「言い方を間違えて、もめごと起こすことをたしなめる」ことで気づかせる構成になっているんですよね。これって、あきらかに「リア充からの自分たちの至らなさへの自己言及」になっていて、ちゃんと「みんな(いろいろ差がある多様性ある人々)が、仲良く、それぞれが等身大でバランスが保てるように必要な知恵」があるんですね。そして、この会話の感じに、リア充と非リア充、コミュ障とコミュ充、上級国民と下級国民というような「上下の間隔が全くない」雰囲気、空域で物語が、学校空間の感じが進むんです。


これって、めちゃくちゃ新しくねぇ???


って、ペトロニウスは思うんですよ。いやあのね、、、、僕にはティーンエイジャーの息子と娘がいるんですが、彼らの生きている世界や「世界のとらえ方」って、まさに「これ」なんで、多分若い世代-----僕の感覚では2021年時点で20代前半くらいの層までは、すでに「このリベラルが浸透して、さらに、それぞれの違いも許容したうえでバランスを取ろうよ」といった空気感覚がすでに当たり前だとは思います。けれども、少なくとも、ペトロニウス、僕はアラフィフの1970年代生まれの団塊のジュニアのおっさんですが、この世代から「過去の物語の類型の変遷」を見ると、「この」感覚って、物凄く新しい世界に突入していると思うんです。特に、学校空間において、どのような物語が展開してきたかの2000-2010年代20年くらいは、ライトノベルがこの類型の深堀りをして時代をリードしてきたと思うんですが、柏木四季(メガネ君)はこれが「行きついている世界」のにおいを凄く感じるんですよ。この世代にとっては、すでにこの感覚が当たり前なのかもしれないですが、スクールカーストのような「上下感覚による劣等感の克服」がテーマだって、1980年代以降を生きていた僕のような世代からすると、、、、マジか、こんなに違うのか、と物凄く驚くんです。この「ナルシシズム的自意識の解体」と「日本的学校空間での権力闘争」をテーマとした解釈はたくさん書いてあるのですが、、、、、下記がその典型ですね。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。渡航著 (1)スクールカーストの下層で生きることは永遠に閉じ込められる恐怖感〜学校空間は、9年×10倍の時間を生きる - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130406/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』8‐9巻 渡航著 自意識の強い人が、日本的学校空間から脱出、サバイバルする時の類型とは? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
https://petronius.hatenablog.com/entry/20170818/p1


これが、僕が上記で言及している


抑圧されている「自分」を、学校空間の上下の階層がある権力闘争の中でどのように生き抜いていくか?


という主観視点で設定解釈されていて、「リア充の側がどのように世界を見ているのか?」彼ら側の解放が「行きついたときに何が考えられるか?」という視点がほとんどないんです。柏木四季(メガネ君)の森田健星(かっこいいけど、ちょっと脳筋バカっぽい)の会話や行動は、いってみればまりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているかを、よく表している気がするんです。



■「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?→「友達はいらない」「好きなものを探して、それに打ち込め」

えっとね、話は少し迂遠になるんですが、この「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?という設問に対して、日本の物語類型が出した答えは、「好きなものを探して、それに打ち込め」でした。この履歴の最終地点は、『スーパーカブ』でした。そこでは、「友達すらいらない」。能力も何にも入れない。ただ、中古のカブがあれば、世界は輝く、でした。


スーパーカブ』(2021) トネ・コーケン原作 藤井俊郎監督 そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。
https://petronius.hatenablog.com/entry/2021/07/02/082518

ゆるキャン△』(2018) 京極義昭監督 原作あfろ どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性
https://petronius.hatenablog.com/entry/20180505/p1

宇宙よりも遠い場所』(2018) いしづかあつこ監督  僕らは世界のどこにでも行けるし、そしてどこへ行っても大事なものは変わらない!
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20180415/p1


ここで問われていた課題は、「好きなものがあったら本当に友達は必要か?」でした。この答えは、明確でした。「友達なんか必要ない」でした。けれども、ここでいう友達とは同調圧力の奴隷となる自分を抑圧する他者であった、というのもわかってきました。いいかえれば、「好きなものを持った」それぞれの自立した(=好きなものがある)個人が、「好きなものを通して緩やかにつながる」ことは、実は、自然に発生することで、そうしてできた友達は、十分に「ほんとうの友達」といえるのだ、ということがわかってきました。ちなみに、「ほんとうの友達」という虚構の話はずっととしてきたのですが、これは、「友達という言葉にまとわりつく同調圧力の奴隷」というアンチテーゼで出てきた宗教であって、これは全く解決方法になっていないので、それでは友達はいらない!という結論になってという話はしました。


さて話を戻します。


まりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているか?


というのは、この「2020年代の若者の学校空間での前提」を考えるときに、「この流れの文脈」が抑えられていないと、意味が分からなくなるからです。なぜ、『その着せ替え人形は恋をする』という作品が、まりんちゃん(リア充)と五条君(非リア充)の


コスプレという趣味-----好きなものを通しての関係性(この場合はラブコメ


になっているかということを踏まえないと、わからないからです。先ほども言いましたが、「この世界で立場の異なる属性同士が真に友人関係を対等に結ぶためには」、「好きなものを通してしかなされない」という時代の物語類型(日本的エンタメの文脈)の結論があるからです。


強調したいのは、抽象的な頭の上での、学校空間での平等ということはあり得ないんです。だって、それぞれに能力が違うから。頭の良さや、運動のできるできない、容姿の恵まれている恵まれていない、、、、、さまざまな属性能力による「違い」「上下」は常にあるので、抽象的な意味での平等なんてものはあり得ません。抽象的な理念としての平等を考えた途端、そこは「権力を奪い合う地獄のカースト世界に様変わりします」。だって、属性が同じであったら、違うのは「権力を持っているかいないか」だけで判断されるので、権力を奪ったやつの価値になってしまうからです。しかし実際には、属性が違うので、属性同士の種族絶滅戦争になってしまいます。それが、壮絶な学校カーストといじめを生み出していきます。そりゃそうだ。種族絶滅戦争をやっているわけですから。


リア充vs非リア充の対立は、属性が違うことを無理に抽象的に「平等に押し込めた」ことによる、権力を取ったほうが勝ちというゲームルールによる種族絶滅戦争なんです。しかも、このルールは怖くて、「結果の平等を維持するため」、すでに持っているものをプレーンで真っ白にするために、暴力ですべて奪いつくすことからはじまります。差や多様性を認めると、スタート地点が平等にならないからですね。


けどね、ここに属性は違うなどの具体的な多様性は、「多様性そのままに好きなことにコミットする」という具体な目的(好きなこと=趣味)を設定したとたんに、物事は全く変わります。伝わっているでしょうか?。まりんちゃんが、属性の違う五条君に声をかけた理由を覚えているでしょうか?。そう、彼女は「コスプレを着れる美しい容姿」は持っているのですが、「衣装を作る能力は持っていない」です。また「趣味の題材のエロゲーやマンガは、自分の属するメンバーで共有できる人がいないん」ですよ。だから、「自分の持っていないものを持っている」五条君に声をかけるんですね。そこからラブコメが始まったわけですが。


そう、ここでまりんちゃんたち学園カースト上位のリア充グループ側が、次のステージでどういう振る舞いを前提にしているか?


という設定に戻ると、すでに彼らは「自分たちの属性だけが「上」にあって「下」よりも上位にあるという「階層感覚」がなくてリベラルな-----水平な世界観を持っているんですね。しかし、これは「抽象的な平等」ではないんです。ポリティカルコレクトネス的な「理念としての白く漂白された抽象的な平等」じゃなくて、「それぞれの属性にはいろんな能力や価値があるという多様性を前提」にしているんですね。しかしながら「異なる属性の能力や動機」が意味を持つには、「異なる目的と具体性(=この場合、好きなこと趣味)」がないとだめなんです。この具体性に対する執念というか前提がないと、「漂白された平等の中での多様性」を考えると、すぐ権力闘争で殺しあって上下関係に落ち着くものしか出てこないんですよ。


だから、僕は、この学園祭の話は、ぐっと来たんです。柏木くん(メガネ君)が森田くん(脳筋バカ)に、いつも「言い方を間違えて、もめごと起こすことをたしなめる」形式になっているのは、この二人の友人関係が、「こういったもめ事をたぶんもっと小さな子供のころから繰り返して」経験して、「そこ」に落ち着いているのが、ありありとわかるからです。そして、森田くん(脳筋バカ)が、ちょっといっただけの社会科見学の「人形づくり」に対して、めちゃくちゃ大絶賛-----言い換えれば、強いリスペクトを示していることが、彼らがとても水平な世界観の中で生きているのがよくわかるんです。このあたりが実験されていて、おおと思うのが『八城くんのおひとり様講座』でした。ようは、このリスペクトというのは、容易に違う世界の人が、あまり話し合えないディスコミュニケーションの世界になるからです。お互いにかかわりあわないディストピアを描いたはずのこの作品が、なんかすごい素敵で理想的な世界に見えるの(笑)のは、それは多様性のリスペクトが前提になった世界では、物凄く関係性がフラットだからだとおもうんですよ。この方向がポジティブに向かうと、とても素敵な世界なんだと思います。読んでみてください、ラノベとしての出来も、特に後半が素晴らしい!ですが、前半の「ディズコミュニケーションになって学校空間」に、互いの多様性に対するリスペクトがあった場合、こんなにも優しい世界になるんです。

八城くんのおひとり様講座 (オーバーラップ文庫)

そして、戻るとそれは、「衣装が作れる」という異なる属性への「偏見なしの尊敬」になるんです。ここで重要なのは「偏見なしの」というポイントです。通常はね、「偏見なし」ってのは、無理なんです。「漂白された平等の多様性の中」では、みんな「なにものでもない真っ白な自分」におびえて生きているので、とにかく権力闘争で上に立とうと競合します。わかりやすいのが、容姿、金、学歴、家柄です。けど、それって、他者からの承認欲求なので、物凄く不安定です。けれども、具体的な「好きなもの具象性にコミットしている自我」というのはとても安定しているんです。そして、社会が豊かで多様性にあふれてくると、「相手の好きなものに対して一定の尊敬を示す振る舞い」というのは、子供のころからの常識になっていくんだと思うんですよ。


これは、少なくとも、僕らの世代までにはなかったです。だって、団塊のジュニアくらいまでの世代には、「いい大学に行って、いい会社に入って」みたいな、立身出世的な「三角形のピラミッドの頂点の階層に駆け上る動機が価値ありとされる」世界観に生きていたわけですから。けれども、平和が長く続き、自由主義的で、それなりに社会が安定している空間で長く生きていると、「権力闘争=上下意識」ではなくて、「好きなもの(=属性いろいろあって多様)へのコミットの深さ高さを称揚する=水平意識」が価値を持つようになってきている気がします。そういう意味では、僕は、日本社会は、素晴らしくいい社会になっていると、断言できます。自分の子供見てて、そう思うもの。たぶん、アメリカも。こういう価値観が出てくるのは、「社会が極端に成長したりも、壊れたりもしない、水平の、多分少し斜陽の状態」のほうが、安定するんだと思うんです。


ちなみに、こういった水平意識が、平等だとか良いものだとか勘違いしちゃいけません。なぜならば、ここには、当然、「好きなものを見つけられるのか?」とか「それをどこまでやれるのか?」という深さ高さへのコミットの競争や差が出てくるからです。これは、多分、今後問題になるはずです。まぁ『スーパーカブ』の物語で、この方向への答えもすでに出ているんですけどね。なにもなくても、OK!というのが。



■『かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』にみる空気の支配権をかけた権力闘争から、皆が幸せになるために抗う一致団結へ


かぐや様は告らせたい~天才たちの恋愛頭脳戦~ 12 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)


かぐや様は告らせたい〜天才たちの恋愛頭脳戦〜』について書くのは力尽きたんだけど、タイトル詐欺にならないように、ちょっと追加(笑)。えっとね、石上優くんと子安つばめ先輩の話が、この「リア充の側からの世界の見え方」が如実に表れていると思っているんだよね。というか、具体的に行く前に、すでにかぐや様の物語世界って、すでに「リア充VS非リア充」の典型的なドラマトゥルギーが、ことごとく破壊されながら進んでいるんだよね。作者の天才に唸るんだよねー。この人エンターテイメントのパターンからスタートするので、その差がわかりにくいけど、どんどん通常のドラマトゥルギーの殻をぶってて、いつもめちゃくちゃ感動する。素晴らしい物語。こんな一発逆の設定でのラブコメからはじまって、これほど多様に具体的に展開した群像劇になるとは予想できなかった。素晴らしい作家さんです。何より、面白い!。


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これ読んでて、新世代ーーーという感じが凄いする。細かい話は、ほかに譲ろう。ここでは、子安つばめ先輩が-----言い換えれば典型的なハイカーストのリア充の視点から見た世界が、描かれている。この辺の評価で、大仏(おさらぎ)さんの話も描かれているんだけど、「美人な女の子」で「コミュニケーションが下手だったら」それだけで人生つむって、身もふたもないリアリティ(これ実際ほんとだと思う)が描かれまくってて、これってルッキズムの勝者が、実はどれだけ生きにくいかってことを、これでもかって表している。この時点で、さすがだなーって、うなるんだけど、、、、


石上優くんの話って、典型的な非リア充というか、陰キャの文系系のコミュニケーションがだいぶあれな男の子が至る道を、描いているんだよね。ちょっとしたことで、いじめに発展して、孤立して、一人孤独に生きている。その「ちょっとした理由」が、自分が好きだった?(自分に対して攻撃的で否定的でしかなかった)女の子を守るためとかいうめちゃ泣けるドラマなんだけど、まぁ理由はどうあれ、彼は、クラスのカーストの最下層で、「噂の空気」に支配されて、学校空間の生き地獄を生きていました。それから、人生は楽しいよ、友達ができるよ、というドラマトゥルギーの展開は、僕が上で指摘した、

「非リア充ナルシシズムにとらわれて不自由な自意識に苦しむ自分」をどのように解放するか?

なんですよね。この石上優君の物語は、これはこれで切ないほどいい話なのですが、いってみれば、「今までの想定範囲内」なんですよ。もちろんこの話は、スクールカースト下位の人が、上位に下克上、成り上がっていくサクセスストーリーとして組まなければエンタメになりません。これはエンタメ的縛りです。であれば、

抑圧されている「自分」を、学校空間の上下の階層がある権力闘争の中でどのように生き抜いていくか?

という権力闘争でどう下克上をするかって話になるんですが・・・・・これが、石上君の視点だけではなくて、子安つばめ先輩の視点で描かれているところに、僕はしびれるほど感動したんですよね。えっとですね、彼女が石上君に「何か返せるもの」を考えたときに、「学園の噂+空気をコントロールすること」を選択し、実行するんですよね。これって、今までのドラマ、物語類型では、「空気による支配」というのは、陰キャや非リア充を抑圧する「世間という地獄」という日本的学校空間の陰惨さ-----そしてなによりも、リア充側が特権的に持っている既得権益の武器として表現されてきたんですよね。なぜならば空気は、学園上位カーストリア充のコントロールするものでしかなかったからです。非リア充からすれば。でもここでは、


子安つばめ先輩ら学園ハイカーストのリア充集団だって、それは実はコントロールするのは容易ではない


ことが描かれています。


そして、この「空気を変えてしまおうという壮大な権力の行使」が、「石上君が、だれにも伝えることなく積み上げてきた人への正しさと優しの積み重ねに感化された人がいるからこそ」なしえるという構造になっているんですよね。えっとわかりますかねぇ、、、、


リア充リア充の両方の協力がなければ、空気による権力(学校空間の地獄)は変えられない


っていっているんですよ。そして、リア充のハイカーストのかぐやや子安先輩の心を動かしからこそ、こういうことが起きている。


僕は「日本的学校空間の地獄」と呼びますが、このテーマで重要なのは、「空気の支配をかけた権力闘争」なんです。日本社会は、日本の集団は、つねに、「空気の支配」をコントロールする権力闘争をしていて、「お互いを殺しあっている絶滅戦争をしている派閥争い」なんです。このあたりがめちゃうまいのは、ココロコネクト。物凄い好きです。


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かぐやさまに戻って、ここでいわれているのは、「種族が違うリア充と非リア充」とか「本来ならば種族が違うハイカースト(陽キャ)とローカースト陰キャ)」が、お互いの種族を超えて、協力し合うと、プラスの方向へ空気を変えることだって、十分にあるんだぜ!!!!ってことが描かれているんです。


ぜえぜぜ、、、、今仕事忙しくてこれ以上かけないので、今んとここはこの辺の言及で止めておきます。



■「漂白された平等フィールドでの種族絶滅戦争」ので生きるとはどういことか?


その2(←ほんとか?)へ行く前に、とはいえでも、平等には常に「漂白された平等フィールドでの種族絶滅戦争」の危険性があふれています。ディスコミュニケーションが極まった、世界では、とにかく「分かり合おうという話し合いすら、もしくはそういう異なる種族がいるということすら知らされていない」という陰に種族同士の殺し合いがビルトインされている超陰惨なディストピア社会が、常に内包されていることになります。この光の方向を描くのか、それとも影の方向を描くのか?は、同じものの二側面だと思います。それが、めちゃめちゃ端的に、うわー出てるなーと感じたのが、下の作品です。物凄く後味悪いので、ぜひとも読んでみてください。これが僕が言う種族絶滅戦争的な世界観におけるディスコミュニケーションの具体的な在り方の一つです。僕は、この文脈でこの作品を読みました。もちろん、それに限らないんですが、とにかくしんどい話です。


山田夢太郎、外へ行く - 畠山達也/修行コウタ | 少年ジャンプ+
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読んだら、思うでしょ、陰惨すぎるって。。。これ、まだまだ違う形で、壁の外と内があるのだなぁと思いました。壁の外に出たら、種族殲滅戦争をしている弱肉強食の世界だったってこと。ちなみに、これは僕らが住むメリトクラシーによって分裂しつつある現代社会での一側面でもある、と思う。



最近のペトロニウスの考えていることでした。ちなみに、2021/9/19の日曜日に月例のアズキアライアカデミアやるときに、この話話すと思います。

メリトクラシーによる人類の平等をはなしえない、それによって分裂する世界をどのようにつなぎとめるのか?

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岡田斗司夫のさんのこの配信がめちゃくちゃ面白かった。ムチャクチャおすすめです。最近自分が考えていることと、ドッカンドッカン接続したんで、ぜひとも。


えっと感想としては、2つに分けて考えたいなぁと思いました。(見終わった前提での話です)


1)サンデル教授のメリトクラシー能力主義)批判について


いまの世界の思想の最前線って、まさにここなんだよね。メリトクラシー能力主義)批判。これを物凄くわかりやすく解説していて、見事!と思いました。これは、あまりにいまの話の最前線すぎるので、知らないってのは、ちょっと不勉強なくらいの常識化している話ですよね。岡田さんのこの解説で、かなり見事にまとめているので、メリトクラシー能力主義)っなに??と思う人は、ぜひとも見てみましょう。ちょっと本気の人は、サンデル教授の本も読んでみるといい。このあたりは、何か考えるうえでのコモンセンスというかパラダイムとかしてきていますね、最近だと。


2)メリトクラシーでなければ次は何なのか?


A)階級社会を肯定するしかない!(メリトクラシーよりはまし!)

B)上級国民・下級国民のどちらにたいしても、「より大きな共同体の一員だと自覚させよ!」という戦略

A)

実際、A)の階級社会を肯定しているというのは、実は衝撃的な結論じゃないかと僕は思うんです。福沢諭吉先生の「封建制度は親の仇です」など、僕らの近代社会ってのは、この階級による差別を否定して建設されてきたものじゃないですか。それが、むしろ、階級社会のほうがましという結論になっている。


これは2つのロジックによって支えられている、と僕は思う。


一つ目は、「結果の平等」と「機会の平等」というものの両方を求めるときに、機会の平等を設定したら、その結果として「結果は平等にならない」ということが明白になったからだ。人間の自由競争による健全なダイナミズムを維持しようとすると、「ある程度」の結果の不平等は、認めざるを得ない。


ちなみに、「結果の平等」のみにフォーカスすると、なぜだか世にも恐ろしい「不平等なディストピア社会」が到来するというのが興味深い。ポルポトでもソ連ノーメンクラツーラでも文化大革命紅衛兵でも何でもいい、人類の歴史が証明している。きれいごとが、一番やばいということは。この矛盾は、常に念頭にないとだめですね。「機会の平等」と競争が否定されてしまうので、人々の成長や進歩へ向かう自由意志が抑圧されてしまう。自然に生まれてくる「結果の違い」を暴力で押さえつけて、なだらかにするしかなくなるからなんでしょうね。


二つ目は、「機会の平等」による「健全な競争」をすれば、結果として「メリトクラシー能力主義)」に偏っていく。しかしながら、社会の階層秩序を、メリトクラシー基準で構築すると、信じられないくらい弱者に厳しい過酷かつ不健全な社会が形成されてしまい、社会が分断され、社会のサスティナビリティが維持できない。無理やり極端に「結果の平等」にフォーカスした社会よりは、ましなものの、ここまで格差と分裂が進んで、公共のプラットフォーム自体が食い物にされてメンテナンスされなくなると、人類の存続にかかわる。。。


だから、ある程度、制限をかけた「階級社会」のほうが、メリトクラシー能力社会よりましだ、という結論。


このあたりからSF的な妄想は、恐ろしいほど広がりますよね!。


B)

ある程度の緩やかな階級社会を認めるとしても-----これって、今の僕らが生きているアメリカ型の自由資本主義社会そのまま-----分断された「それぞれの共同体」におけるフリーライド(ただ乗り)が横行するので、岡田さん的言い方では、上級国民と下級国民、それぞれが、「より大きな共同体の一員たる自覚」を促されなければならない、となる。


けど、この具体的方法は、どんなものか?って、まったくわからないですよね。(←これからの物語の最前線になると思う)


これって、たとえば、より矮小化して小さなものでいえばは、リア充と非リア充の対立の果てに、「両方が交わらない社会」が予測されるけれども-----そうすると、それぞれが同じ場所に生きているという共通のプラットフォームがなくなって、全体としては社会が壊れやすくなったり、両共同体の最終戦争にいきついて「万人の万人に対する闘争」というディストピアになってしまうのを止められないって思う。そういう感じのやつ。


サンデル教授は、これを「議論を通しての自覚」しかありえないって描くのだけれども、こんなのお上品な「議論」なんかじゃ無理だよって思う。要は啓蒙や教育によってということだと思うけど、実感とか損得のメカニズムがないと、「これ」ってなかなか難しいぞーと思う。


たぶん、この「より大きな共同体の一部である自覚」が、一番強制できるのは、明らかに戦争。


この場合の「より大きな共同体」を、「ネイションステイツ=国家」と考えて、下級国民が徴兵制でガンガン戦地で死にまくっているのだから、戦争に行かないなら財産を差し出せって!ってのが、最も効率的バランスの良い「平等化装置」だった。徴兵制システムは、無作為に、階級に関係なく「国という幻想のために命を懸けて」「同じ釜の飯を食った仲間」にしていくという装置。このシステムというか方法はいまだ生きているので、何かあると戦争圧力が高まると思う。でも、これも核戦争の可能性がある中では、なかなか限界まで行きにくくなってきた。


toyokeizai.net


丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。
http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html



お互い、「とにかく交わらないのが最善手」となっている状況で、フリーライドにならず、公共のプットフォームを守るために、どのようにすればいいのか?


これって次の時代への重要な問いかけなんですよね。


これって、「とにかく同じ国民である」とか「とにかく同じ民族」であるとか「とにかく同じ人類」とか、いろいろな「共通項」を探して強調する手段が要求されるんだけれども、、、、これってネイションステイツの国民国家、民族という幻想で、物凄く苦しんだ20世紀を振り返ると、単純にこの幻想発生装置による高揚の一体化は難しい。このあたりは、ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』で本当に当たり前になってきましたね。昔は告発口調で、国家や民族(ネイションステイツ)などというものは幻想だ!と叫ばれてしましたが、もうこれが当たり前になると、歴史の流れの中から必要だから生まれてきた装置だったという感じがしますね。幻想なのは当然わかっているけれども、それをどう有用に社会工学的に利用するのかという視点が大事だと思いますね、これからは。

diamond.jp


幻想発生装置による高揚の一体化、それ以上に、「お互いが異なる種族」だというような、絶対的にコミュニケーションの断絶が強調されている昨今で、それはいったいどこに見出せるのか?というのは、興味深い。ここでペトロニウスは、「種族」と書いているのは、異なる民族とかだと、「同じ人間じゃん」とか「同じ言葉しゃべるじゃん」とか、そういう共通項で処理されちゃうけれども、例えば、ネアンデルタール人ホモサピエンスって、共存できなかったじゃん。なぜかはわからないけれども、ちょっとどうも交配もできなかった?みたいだし、まったくホモサピエンス側は、妥協せずに駆逐しているよね-----っていうあの感じのイメージです。


僕は、次世代の物語において、この「お互い種族が異なるので殺しあうしかない共存不可能性」の物語から、どのように「次へブレイクスルー」していくか?ってのにとても興味があります。


それはすなわち、今現在の人類の課題だから。


この最後の結論が、「これからの来るべき社会」の予測になっている点は、非常に注目したいと思います。そして、この分断が「共存不可能性」への言及だと僕は思うんです。この共存可能性に注目するという点で、僕は『進撃の巨人』と『天冥の標』小川一水さんを出した下記の議論と、ガチっとはまるのがわかると思います。『天冥の標』で描かれている、「共存の絶対的不可能性」に、ウィルスが注目されているのは、さすがの慧眼だとうなります。

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この回のアズキアライアカデミアは、僕の中ではかなり良かった。物語の最前線に到達した感じがあって、それがどんなメカニズムかってのは、だいぶ具体的なものが出てきている。この感覚から『ふかふかダンジョン攻略記: 俺の異世界転生冒険譚』への言及はいい線行っているのではないかと自分でも思っている(笑)。KAKERUさんの話をすべて読んでいると、この人は、いい点を突いていて、ゴブリンなどと人類との関係を、「種族殲滅戦争」をしているととらえているんですね。だから、お互いにとって害虫だから皆殺しをしているわけで、そうした「種族殲滅戦争」において、お互いを害虫(皆殺しにしてもよい)と判断しているルールの中で、人権をとくことの無意味さを、あげつらうように強調するのが、この人の作風なんですね。ようは、個や個々の属性の(マイノリティの)権利が際限なく拡張されていくと、社会の存続可能性が壊れちゃう。なぜかというと共生するためのプラットフォーム(=お互いがある程度我慢せざるをえない)を破壊しちゃうからですね。もう少しいかえれば、マイノリティの権利を守るために、マジョリティを殲滅皆殺しにしていいって発想につながってしまっている。ウィルスの話で、ある特定のウィルスと共生している民族を守る話をしていたら、人類が絶滅しちゃったという、この話です。それって、サスティナビリティなさすぎじゃない!という話。この辺の整理は、もっといるし、今後知恵を考え出さなきゃいけないけど-----人権を盾に権利ばかり主張していると、「多様なみんなが生きる器」まで壊しちゃう可能性が高いんですよね。うわ、これ興味深い。人権の範囲拡張をガチガチに言いすぎると、多様性の否定になるんだ。。。それを「どういうことなの?」と表現するときに、ファンタジーの世界では凄いやりやすいんですよね。ゴブリンとかオークとか、要は亜人種をどこまで人間ととらえるかって話と接続するから。人間と亜人種との違いをどこに置くのか、ってすごいSFになる。もしくは、どうしてそういった「共通性の高い、しかし違い種族が生まれたの?」という問いになる。『BASTARD!! -暗黒の破壊神-』とかだけど、どっかでこの遺伝子組み換えをデザインして生態系を設計したやつがいるんじゃないか?って発想につながりやすいもの。んでもって、これ敵対種族とすると、KAKERUさんの殲滅戦争(=ルール)をしているんだから!という話になる。これって現代の問題点の物凄く見事なカリカチュアライズになっている。この発想を、逆で考えると、「どこまでが人間か?」という問いで、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』とか『ソードアート・オンライン』のアリシゼーションシリーズなんかもこの類型の派生形。この線引きをどう考えるか?ってのは、AIやロボットものでよく問いかけられる問いですよね。人間なるものの境界線の設定は、常に物語の最大テーマの一つ。『デビルマン』の「シレーヌよ、血まみれでも君は美しい」です。

ふかふかダンジョン攻略記 ~俺の異世界転生冒険譚~ 1巻 (ブレイドコミックス)


メリトクラシー能力主義)によるグローバル化が進むと、「何者でもない僕ら」の不安が交わる

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それともう一つ関連で、、、、前回の記事、今「何者でもない僕ら」って不安が多く生まれているよね-----という話があったんですが、それと『コンテナ物語』の岡田さんの解説がつながってんですよね。えっと、数ある岡田斗司夫さんの動画の中でも、この二つは、特に素晴らしいと僕は思っていて、無料公開終わったからコンテナ物語のほうは最後まで聞けないんですが、結論が素晴らしんですよね。


コンテナの効率化が、世界経済に影響を与えて、僕らが住む「グローバリズム化が浸透する地球」が描写された結果------普通の能力の普通の仕事をする人が住む場所がなくなっていく究極のメリトクラシー社会になってく僕らの住む世界があぶりだされていきます。考えただけでも怖い。。。僕も、たいがい世界中で仕事しているし、いまはアメリカの会社で働いていたりするけど、そんなグローバルエリート(笑)な自分でも、もうあまりに新しい仕事が難しすぎてついていけないって、青色吐息になるので、普通に生きていくことすら難しい時代だと思いますよ。こわすぎ。。。


その社会では、「普通の人」が仕事とを見つけるのはほぼ不可能で、「何者かである!」くらいの極端に頭のいい人でなければ、生きていくの難しい社会になってきています。


だから、社会から「何者かであれ!」という強烈なメッセージに反応して、人々は苦しむことになります。


これメリトクラシーグローバル化は、コンビネーションなので、ぜひともここで上げている二つの本を読むのはおすすめです!。


人類の課題の最前線。


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コンテナ物語 世界を変えたのは「箱」の発明だった 増補改訂版



さて、ここまでいったところで、「共存不可能性」が「種族の違いによるディスコミュニケーションによる殲滅戦争」というテーマって、なんかあったけ?と思いながら、これだ!と思いだした作品。



■分かり合えないので、どんどん違う種族になってゆき、経ては銀河を分けた永遠の戦争闘争状態になっていくこともまたSF

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ちなみに大好きで何度も見直しているアニメに村田和也、虚淵玄原案の『翠星のガルガンティア』(2013)というのがある。この「種族の違い」という話を、SF的に広げていったら、どこへ行きつくかの、究極地点の一つだと思っていて、子供にも見せておかなきゃ!といつも思う傑作です。SF的にえば、「よくある発想」といえばよくあるものなのですが、なんというか構成が素晴らしくいいのと、映像によるインパクトが、うおっ!!!って思うのです。


ネタバレですが、

遠い未来、宇宙に進出した人類は「人類銀河同盟」を結成し、宇宙生命体ヒディアーズとの殲滅戦争を続けていた。銀河同盟軍のパイロットレド少尉はヒディアーズとの戦闘から撤退する際に母艦のワープに巻き込まれ、人型戦闘機「チェインバー」に搭乗したまま未知の宙域に転送されてしまう。

翠星のガルガンティア - Wikipedia


人類銀河同盟 VS 宇宙生命体ヒディアーズ


この2つの殲滅戦戦争が、物凄い長きにわたって続いているのですが、その起源がわかったときに、おお!と思うのです。僕のブログは、面白く物語を楽しむガイドみたいなもので、あまり親切にわかるように説明しないのですが、ぜひともこの記事の中のものをすべて見てもう一度この記事を読んでいただければ、ペトロニウスが何を言わんとしているのかが、実感をもってわかると思います。


petronius.hatenablog.com


↑アニメを見て、この記事を読んでもらったという前提で(笑)、話すと、この二つの争いって、


人類銀河同盟(保守派) VS 宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム


なんですね。これが20世紀末に、コミュニケーションの断絶があって、お互いがお互いを無視していった結果・・・・・

それと、LDさんが話していたのは、これスターシードの物語なんですね。宇宙に進出した人類の「人類銀河同盟」と、宇宙生命体「ヒディアーズ」と争いを描いているんですが、これどちらも、人類なんですね。最大のネタバレですが、まぁSF好きな人には、見た瞬間連想するくらいのレベルの話なので、まぁこのブログはネタバレ基本なんで。


そんでもって、どちらの選択も、見事な覚悟があって、よし!!!とLDさんは喝破している。チェインバーという戦闘機械が人型であるのも、戦うためにデザイナーズベイビーや極端な全体主義国家の形態を選んでさえも、人類銀河同盟は、「人型であること」を貫いているんですね。やつらには、どんなことになっても、人類である!ということに殉じたんですよ。かっこいいやつらです。同時に、宇宙生命体ヒディアーズ(自発進化推進派イボルバーの共生体)も、宇宙で生きていき繁殖できるために、人であること捨てた人類ですが、そうして全宇宙に大繁殖していくわけです。これも、覚悟がいけてますね。


旧地球において、自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンの争いがあるのは非常にわかるんですよ。人類が人類でいることはどういうことか?という線引きは多分に感覚的なもので、こうした感覚的に相いれない戦いは、宗教戦争のよなものですものね。際限がない。僕はこういう基本的な理念の奥にある感情的なもの、底の基底まで行くと、人間って、コンサヴァティヴがリベラリズムか、はっきり分かれる気がします。これって、理論や論理じゃなくて、感情なんじゃないかって。自発進化推進派イボルバーとコンチネンタルユニオンは、LiberalismとConservatismの究極の対立な気がします、その帰結も、そうなるよなーって感じが凄いします。ガンダムSEEDの新人類「コーディネイター」と遺伝子操作されていない通常の人類「ナチュラル」との対立とかを思い出します。

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A)人類銀河同盟(保守派)

保守派は、人間が違う生物になるなんて許せない!とヒト型を貫くんですが、その結果、長いヒディアーズとの戦争に勝ち抜くために、超極端な軍事全体主義になっているんですね。「そこ」が、保守派の一番譲れないポイントだったということ。自由とか全くない超軍事独裁全体主義でも問題ないわけですよね(苦笑)。

B)宇宙生命体ヒディアーズリベラリズム

同時に、自発進化推進派イボルバーつまりは、ヒディアーズにとっては、ヒト型であることなんか、意味をなさない。これって、遺伝子操作によって環境によってどんどん変わっていってもいいじゃないか!、それが生物だよ!という思い切りの良さがります。これ人間の格差をなくそうと思うと、一番ありっちゃーありな手段ですよ。人体改造して、違う生物になってしまえば、人類の格差とかなくなるし!!!って。←こいつも極端だけど、とても合理的なのは合理的(苦笑)。


ぼくは、この二つの発想の違いに、コンサバティズムリベラリズムの、まぁ極端ケースですが(笑)を感じてしまって、お互いに、もう相手とは話してらんねぇ!と思い切った結果、種族が違うところまで分裂してゆき、そしてお互いの殲滅戦争になって数千年(笑)とかなっていくわけですよ。まぁ、どっちも、どっちだよ、と思いますが(笑)。いやに、現実感がある発想だと思うんですよねぇ。


ああ、思い出してきたんですが、これってはるか未来の海に沈んだ地球の巨大船団「ガルガンティア」を舞台にするんですが・・・あ、ケビンコスナーの『ウォーターワールド』だと思えばいいんですが、「船団」ものなんですよね。船って、共同体であり、どのように目的に対して「共存していくか」に特化した共同体なんですよね。ちなみに『ウォーターワールド』は、だいぶ大コケした作品ですが、ユニバーサルスタジオのショーっがあって、これ何回も見に行っているので、物凄く印象に残っています。水に覆われてしまった地球での、水上北斗の拳マッドマックス的なお話です。

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この作品のテーマが、「共存」だというのもわかります。ウーム、2013年で、これが出ているんですねぇ。さすが。もう一いっかい見直したい。ちなみに、海賊船というのは、非常に興味深い共同体で、このあたりは、「共存」を考えるとき、アソシエーション(目的を持った共同体)を考えるときには避けては通れないものです。それが面白おかしく説明されているので、岡田さんの以下のものも超おすすめです。

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などなど、最近ペトロニウスの思考の、あれこれでした。

『Vivy -Fluorite Eye's Song-』(2021)エザキシンペイ監督 『Re:ゼロから始める異世界生活』の長月達平さんの視点と永遠の命の物語類型のテーマ群について

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■万人に理解しやすいわかりやすさと、それが故に、SF好きなどの玄人?うけがしない?

僕的には、★4のかなり高い評価で、かなり万人にすすめられる安定したよいアニメです。また、100年という長い時をかけて成長していく少女の物語-----ビルドゥングスロマンという「わかりやすい」骨格なので、SFでAI、人工知能の進化と人類との敵対というSF的な難解なテーマを扱っているにもかかわらず、見れば誰にでもほぼわかるという「わかりやすさ」は、おすすめです。とにかく、洗練度合いが素晴らしく、ウェルメイドという言葉はどちらかとマイナスに聞こえてしまいがちですが、バランスよく構成されており、はっきり言って、物凄くバランスの良い物語です。ほぼ2-3日で見るの止められなくて、ハマったので、特にSF的な知識や、オタク的な背景知識がなくとも、万人にすっと入れるよい物語です。一言でいうと、脚本家が、いい仕事している感覚がすごい。


ということなんですが、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』なんですが、僕が絶対見ようと強く思ったのは、周りがだいぶ酷評してたからなんですよね(笑)。これは、この時期かなり話題になっていたので、多分結構な人気作なんですよ。にもかかわらず、なんというか僕の周りとか、いつも「作品を分析」しようとする人の中で、すこぶる評判悪かったんですよ。なんで、なんでだ???って思ったんですよね。こういう議論が分かれるものは、「自分の好き嫌い」あぶり出されるので、興味深いです。海燕さんに紹介したところ、かなり否定的な意見が返ってきたので、物語読みの友人界隈では、だいぶ点が辛いです。海燕さんも、描かれている力点は「そこ」じゃないといいつつも、やっパり「ダメな部分」を強調しているので、やはりあまり面白くなかったと思っているように記事から感じます。僕、はこれは面白い!!と鼻息荒く言い続けているのと、対照的な冷静さですもんラインで話してても。

というか、全般にSFとしての描写が古い。そもそも映画『ターミネーター』を連想させる「AIの叛乱」というテーマそのものが、SFとしてはきわめて古典的であまりリアリティがありません。

 いや、もちろん、いまでも未来のAIがどういうことになるかは何ともいえないわけですが、とりあえず「突然、世界中のAIが暴走を始める」といった古式ゆかしい描写は現代のSFとしてはあまりにも単純すぎるといわれてもしかたないでしょう。

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僕の感覚なのですが、ほぼすべての物語読み?というか、漫画やアニメ、SF好きな人の感想としては、SFとして出来が甘い!という言葉に尽きるんですね。


いつポイントも大体同じ。


1)AI(人工知能)の描写が、最新の知見からすると、古臭い


2)AIの叛乱というテーマへの描き方が、とても古臭い


逆に言うと、SFマニアの人とかが多いのでしょうが、彼らは「この部分」の文脈に対してセンシティヴに読んでいるんだと感心しました。みんな、面白いことは面白い、「けれども」という逆説で、必ず説明が始まりました(苦笑)。この部分の解説はこだわっていない僕がしても仕方がないので、検索してもらえればきっと書いている人はいっぱいいるんじゃないでしょうか。


これ、僕は最初からはまって絶賛だったし、最後まで意見変わらなかったし、悪いところが見つからない。まぎぃさんに紹介しても、まったく同じポイントで、激萌えだったので、「僕とみている視点が違う」のがよく分かった。そういう意味では、僕は、典型的なSF読みじゃないんだなぁって、思いました。僕は、常に「面白い物語が見たい」って思っていて、おもしろければ、細かいことはどうでもいいんですよ。設定とか、そういうのは。そのキャラクターが幸せになれたかどうか、目的を本分を全うできたかどうか、それこそが物語!の次元だと僕は思うのです。これは、たぶんSF的な視点では、失格の読みかたです(笑)。


■「少女の成長物語」と「100年という年代記的な時間の流れの中でそれを描く」ことで生み出される人間の体感時間を超えたセンスオブワンダー

まぎぃさんと話していたんですが、「少女の成長物語」と「100年という年代記的な時間の流れの中でそれを描く」というポイントに、脚本が特化しているところに、この作品の見事さがある。長月達平さん的な、思い切りの良さが表れている。まぎぃさんいわく、リアリティとか細部があいまいだったりするのは年代記だからで、必要な部分だけを語って、不必要な部部分を捨象している感じで、その手つきが見事、と。僕も、同感。SFとしてはとても緩いのだが、その「SF的なゆるさ」と「年代記的な良さ」を、つなげて焦点が合うように脚本が作られている。明らかに「エピソードの切り貼り」しているので、この取捨選択と、「それぞれに時系列的なつながりのない単発のエピソード」を、全部合わせたときに、つまりは年代記的な100年単位という、通常はそうした俯瞰したマクロの視点から、人生や人類の営みを眺めることはできないものですが、それが後半の回で、ぴたって焦点があって、物語として収斂していく。プロの業だ、と思います。これ、SF設定としては緩いがゆえに、無駄にマクロの説明をしないし、AIの叛乱というあまりに手あかのついた古典的なドラマを採用することで、「わかりやすさ」に特化している。だから、これSF作品ですが、かなりうまく売れたんじゃないかと思います。今気づいたのですが、僕の言葉でいうならば、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』は、古典的なSFを丁寧に現代的にした作品といえるのかもしれない。目新しさは、確かにないかもしれない。しかし物語としての骨太さは、それが故に跳ね上がるので、人気が出るんです。このあたりの、キャラクターとしての感情移入のしやすさと、そはいってもSF的な科学的なバックグラウンドの最先端を織り込めるかどうかの部分の、駆け引きというか、配合の度合いっていうのは、創作や人気にかかわる永遠の課題なんだなぁと思います。


僕のベストエピソードは、第10話『Vivy Score -心を込めて歌うということ-』。たった1話の中で、少年がおじさんになるまで時間が凄い勢いで進んでいきます。松本博士ですね。この作品のドラマトゥルギーのすばらしさが詰まっています。先ほど言った年代記的な「人間が感じられない時間的な長さ」を、ショートカットすることで、本来ならば見れない「人生の長さ」を俯瞰して眺めることになります。この少年が、物語の起点となる時間を巻き戻すきっかけを作った松本博士だったという円環も、無駄がない見事な脚本です。これらが、Viviという少女の「成長の物語」にリンクすることで、個々のエピソードは、時間的には間に数十年が開くので、ほんらいは何の関係もないのですが、それが豊かにリンクしてつながっていきます。この「つながり」自体の俯瞰感覚は、そもそも「人間の尺度ではありえない」ものなので、僕は、これがセンスオブワンダーであり、設定的なSFの楽しみとは異なる意味での、見事なSFであると思いました。なので、AIの最新知見や展開がなくとも、十分以上の見事なセンスオブワンダー-----SFだと思うのです。この本来あまり関連性のない、かつ人間の時間感覚とは異なる「年代記的な時間の長さ」に、感情をのせてドラマを紡ぐのは、至難の見事な脚本です。そもそも歴史記述で年代記って、「出来事中心」で描くので、キャラクターの情感で描けないものはずだからなんです。

年代記的な脚本を彩る様々なエピソード群と映像の描き方

またもう一つ言いたいのは、こうした「骨太」の、いいかえればキャラクターのドラマトゥルギーを主軸とした脚本は、確かに「古臭く」感じることはあるかもしれないと思います。アニメやSFを見慣れたり読み慣れている人からすると、「新奇さ」がないからですし、SFの本質を「科学的な考証を踏まえて、どれだけその先を見れたか?」というポイントで評価すると、「見たことある」というのは、それだけで大減点になってしまうでしょうから。しかしながら、じゃあ、この作品はダメなんでしょうか?。僕は、そうは思いません。一つは、骨太の年代記的な脚本構成が、素晴らしい出来だからです。そして同時に、この作品がとても、安定した傑作足りうるのは、まぁ見れば誰もがわかるでしょうが、この作品の本質が、歌姫「ディーヴァ (ヴィヴィ)」の歌を聞かせてくれる、聞く物語になっているからです。数々の素晴らしい歌は、とても魅力的でした。この辺りは、『超時空要塞マクロス』シリーズを思わせます。『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』の歌もまた、物語の設定上重要なポジションを占めていましたよね。「Sing My Pleasure」「Fluorite Eye's Song」「Harmony Of One's Heart」などなど、本当に良かったです。僕は、脚本ばかりの出来を見てしまう癖がある「頭でっかちでものを見る」評論家チックな鑑賞をするタイプの人間ですが、映画と並んでアニメは、総合力で構成された芸術、エンタメなので、この音楽の素晴らしさを、取り込む演出は、というか歌がメインといってもいいくらいの魅力は、やはり評価しなければならない点でしょう。

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それと、やはり、この作品は、人類が100年の時を重ねているということが重要なわけで、それをヴィジュアルで、じわじわ変わっていく背景は、素晴らしかったです。これ担当の背景美術さん、本当に大変だったのではないかと思います。音楽や映像の素晴らしさを表現する語彙力が自分に弱いのが、残念ですが、見ればわかります。


年代記ロードムービーには感情移入するのは難しい

さて、ちょっと違った角度で、思いついたことを。先日、ロバート・ゼメキス監督の『フォレスト・ガンプ/一期一会 (Forrest Gump)』(1995)を家族で見直していました。これは、名作言われるので見ておこうと思ったからです。見た結果、やはり映像が美しい。アメリカ大陸の風景を、南部のアラバマを中心に広くロードムービー的に映し出すカットがしびれるほど美しい。コンパクトに、1950-1980年代ごろのアメリカの近代史を一望できるのもいい。年代記的に長い時の流れを俯瞰できるのが、こういう作品の良さ------この「俯瞰しながら出来事を眺める」のって、『Vivy -Fluorite Eye's Song-』と似ていると思いました。Viviは、主人公が100年生きるお話。そのコアは、風景と歴史を俯瞰できるところに魅力を感じていたんだろうと思います。

けれども、実は、家族からは、大酷評。

えっとね、傑作であることは疑わないのだけれども、「感情移入できるキャラクターがいない」という否定意見をいわれたんだよね。これは、なるほどと思ったんだよ。この作品の良さは、「広大なアメリカ大陸を縦横無尽に動いて風景を見れること」と1950 - 80年代くらいのアメリカの近現代史年代記的に一望できる-----この俯瞰感覚をぎりぎり感情的に共感できるラインで料理しているところに、この作品の凄さがあるんだろうと思う。けれども、やはりそれは、むりやり俯瞰しようと、本来はあり得ない時空間の広さを一人のキャラクターに背負わせることになるので、フォレスト・ガンプという不思議なキャラクターを配置している。

彼自身は、普通の子供よりも知能指数の低いという設定なので「彼自身の心の成長がない(ものすごく遅い)」という軸として設定することで、この「時空間の広さ」をカバーする構造になっている。年代記的な物語で感情移入を指そうというのは、とても難しいシナリオになるんだということが見て取れる。ガンプのキャラクター設定と、VivyがAIであり「心が変化しないコンピューターのプログラム的なもの」であるというのは、共通点を感じたんだよね。

なぜかというと、年代記的に「ここの出来事を俯瞰して、観察して、眺める」という形式にしてサクサク進めないと、長い時をひとまとまりの物語に構成できない。けれどもそのためには、キャラクターが容易に心が変化したり成長するようだと、個々の出来事にすぐ情感が引っ張られて、その一つ一つのエピソードに深く入り込んでしまって、サクッと前にすすめなくなるんだと思うんだ。それを可能にするには、主人公キャラクターの「軸」が容易に変化しにくいという設定を付け加えなければならなかったと思いました。


■人類を救う、苦しむ人たちを救うという英雄の仕事は、100年かかり、そして自分が生きているうちになしえない

さらにもう一つ。この「100年を超える年代記的な感覚で情感が乗る脚本を描く」ことに、なぜペトロニウスが、高い評価を与えるというか、、、、、、、与えるというのは上から目線ですね、なぜ「これが好き!!!!」なのかといえば、脱英雄譚の話でも、赤松健先生の傑作『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』や『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』で、説明していたポイントと同じですね。この「人類を救う、苦しむ人を救えるようなマクロの構造変化」は、100年3世代以上かかり、自分が生きているうちには報われないし、自分が目の前で救いたい人々は、救えないという-----これが社会改良の本義だということが、最近実感してきたからです。多分、本当の正義は、これらの無力感を超えても、それでも「まだ見ぬ未来に何かを残したい」という思いがある人だけが成し遂げられるものなんだろうと思います。えっと、僕の個人的な述懐はどうでもいいのですが、物語の類型が、「正義の味方」を描くことに対して、深まりを見せていく中で、「100年を超える年代記的な感覚で情感が乗る脚本を描く」ことでどのようなドラマを作れるかが、問われていると思うからです。だからこそ、吸血鬼ものや不死人ものと、このテーマは相性がよく、それを初めて見出した赤松健先生の『UQ HOLDER!』が、凄いと最近叫んでいます。

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2019-11-29【物語三昧 :Vol.42】『機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ』2010年代を代表する名作~残酷な現実の中で意味もなくどう生きるのか?with LD

ここにおいて、物語評価的な文脈では、「自己救済というものは、次世代によってなされるものである」という定義というか発見が、、、、なるほど、輪廻転生で異なる外部環境(=設定の初期値が違う)を挿入した時に、その人の持っているトラウマなり問題の構造が、どういう解決になるか?という思考実験がなされ、かつ、30年以上次世代でないと救えないというのは、「そのような自己」が形成された外部環境の構造が、時間の経過によって根本から変わっていなければ、同じ結果になってしまうという縛りがあるからこその、一世代なんだ、ということがわかりました。


このことは、ずっとこのブログで話している、LDさんが、ガンダム00のスメラギさんらソレスタルビーイングのテロ行為を指して、自分が生きているうちに世界が救われないと駄々をこねるわがままな子供だ、指摘したことに僕が凄まじい共感をしたことがベースになっています。あの時の話は、マクロ的には世界は正しい形に向かっているのだけれども、それを破壊するような行為は許されるのか?という話でした。もちろん、地球連邦政府の形成に向かいつつある歴史的趨勢の中で、それに打ち捨てられた少数者が絶望的な状況に置かれているという事実は、テロを誘発して、世界へのルサンチマンのために世界の破壊を志す人間はある一定数確実に形成されるという問題点をどう捉えるか?という政治問題は残ります。とはいえ、歴史のマクロの大きな流れは、大多数を救済する方向へステージを進めて行くことになるでしょう。無視できない重要問題とはいえ、袋小路ではなく、緩やかに安定する方向へ動いていくわけです。そこでの問題の解決は、いま、すぐ、ここ、で解決されるものではありえないんですよ。残念ながら、少なくとも、30年以上世代を超えて変化させて変えていくものなんです。それ以上のことは、個人レベルやミクロレベルではできないんですよ。それを性急にやろうとすると、ほとんどすべては「善意による意図せざる最悪の結果」になるんでしょう。

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上記は、この正義をなすには、もしくは「救われない人々」「虐げられている人々」を救おうとするときには、長大な-----この場合は、100年単位での時がかかる。社会改良は、社会の構造を変えることなので、簡単にできることではないからです。僕は、物語における正義をなすことや、社会をよくする(しいたげられた人々を救う)という目的意識を貫徹しようとするときに、ここまで深まりを見せてきたんだなぁとしみじみ思います。


■永遠を生きる不老不死の類型の物語への答えの一つ~他者と対等であること・「そこに生きている」という現前性、臨在性、迫真性をどう獲得するか?

この文脈でいうと、同時に吸血鬼ものや永遠の命を、どのように描くかという命題とも絡んでくると、僕は感じています。ええと、吸血鬼や永遠の命の最高傑作は、なんといっても高橋留美子さんの『人魚の森』になると思います。けれども伝奇ものというか、高橋留美子さんは、情緒的なものとか、妖怪?回帰?みたいなものは描けても、いわゆるSF的な文脈ってまったくない人なんで、あくまで永遠の命を持ったことによるキャラクターたちのドラマツゥルギー-----情緒の部分に焦点が合っていて、「同じ時を生きれない」という苦しさを浮かび上がらせる「だけ」の構造になっています。

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ちなみに、この「永遠の命を生きる苦しみ」という情緒的なテーマに対して、『Re:ゼロから始める異世界生活』で長月達平さんは、明確に答えを出しています。そして、僕も、これが究極の答えの一つだろうと思います。第四章(文庫第10巻 - 第15巻、Web小説「永遠の契約」)で描かれるベアトリスとの話ですね。僕は個人的に、長月達平さんは、物凄い見事な努力というか勉強家だなぁといつも思います。この人の描く物語は、新規さというか、構造的な新しさは、いつもさほど感じないんですよね。ペトロニウスは、文脈読みをする人なんで、「文脈的な新規さ」がないと、本来は評価がかなりマイナスに落ちる傾向があります。ぶちゃけ、面白く感じない。にもかかわらず、長月さんの作品は、いつも僕の胸を打つんですよね。まだ、僕はこの人の凄さが、言葉にできていないといつも思うのですが、とにかくこの人は、これまであった物語を秀才的に分析して、その時点での集大成を見せてくれる傾向があると僕は思います。ベアトリスの話も、不死者、永遠の命の持つテーマを、凝縮して、見事に答えを出しています。まだ一言でうまく説明で期まで自分の中で消化できていないので、記事を読んでみてください。ただ、永遠の命を持つ苦しさを解決するために、「伴侶を探し続ける」というドラマが主軸で、西尾維新さんの物語シリーズの吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード赤松健さんの『魔法先生ネギま!』のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのテーマですね。しかしながら、これらは、すべて「相手も同じ時を生きる不死者である」というものです。けれど、さすがだなって思うのは、ベアトリスは不死ですが、スバルは定常の寿命の人なんですよね。このあたりが、本当に長月さんは、わかっている。この伴侶を探すというドラマトゥルギーにおいて、相手が「同じ時を生きない」のであるとすれば、何をもって永遠の命を生きることを肯定するか?って問い。

「でも、俺はお前と明日、手を繋いでいてやれる」


「――――」


「明日も、明後日も、その次の日も。四百年先は無理でも、その日々を俺はお前と一緒に過ごしてやれる。永遠を一緒には無理でも、明日を、今を、お前を大事にしてやれる」




「――――ッ」


「だから、ベアトリス。――俺を、選べ」




第四章129 『――俺を選べ』
http://ncode.syosetu.com/n2267be/300/


ここですね。このあたりの分析は、上記の記事でがっつり書いているので、ここでは先に行きましょう。というのは、僕が気にしているのは、下記の部分です。

この物語を読めば、不老不死がいかに苦しく地獄かが変わります。何が苦しいかというと、孤独です。同じ時を生きることができないのです。それは、他者がいないも同じ。なので、この物語に置いて、重要なテーマは、どうすれば同じ時を生きることができるのか?という他者(=伴侶)を探す旅という形式になります。これにはいろいろな方法があって、一つ目には、老いる身体に戻る方法を探すことです。もう一つは、自殺です。さらには、老いることない仲間を探し出すこと。この3つぐらいしか論理的には解決方法はありません。あっと、実は、グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいるのですが、その話はまた今度。個人の実存をベースに、個人が幸せになるためにはどうすればいいのか?という視点でさらに続きを追ってみたいと思います。

当時こういうコメントを僕は書いているのですが、


グレンラガンや異界王など、これとは違ったアプローチでこの、不死性を使おうとするマクロの指導者たちがいる


と書いているところですね。この視点、文脈は、「不死者の物語」「永遠の命の物語」を、キャラクターたちの幸せを軸にするドラマトゥルギーとして「伴侶を探す旅」にするだけではなく、SFにおける100年3世代かからないと、世界を救えないという命題につなげる荒業が最近意識されてきていると思うのです。それが、赤松健さんの『魔法先生ネギま!』『UQ HOLDER!』で展開されていて、しびれるぜった感じです。『Vivy -Fluorite Eye's Song-』は、そこには踏み込んでいませんが、世界を救うミステリーとして100年時をかけて「成長するAIの少女」という脚本構造は、このテーマを追うときに非常に参考になる構造を見せてくれたと僕は思っています。


■『戦翼のシグルドリーヴァ』(2020)を見て思った脚本家として長月さんのバランスの良さ

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評価:★★★星3つ
(僕的主観:★★★☆星3つ半)

ちなみに、『Re:ゼロから始める異世界生活』の長月達平さんが脚本をしているということで、『戦翼のシグルドリーヴァ』(2020)もともに、連続で見てみました。どちらも、全然アンテナに引っかかってきてなかったので、気づいてよかった。なんというか、自分の中にある「文脈」と関係ないところで見たものなので、新しい発見がいくつもありました。『Vivy -Fluorite Eye's Song-』と全く違って、これは万人にはすすめない。『戦翼のシグルドリーヴァ』は、とても高度にオタク的文脈が必要で、これはなかなか進めにくい。しかし今回は大発見だったのだが、この類型系のオリジナルである『ストライクウィッチーズ』(2008)『ビビッドレッド・オペレーション』(2013)『艦隊これくしょん -艦これ-』(2016)と見てきて、自分が見てた文脈の意識がほとんど同じで、ああこの物語類型って、すでに様式美になりつつあるんだなってわかったことでした。プリキュアシリーズと同じように、「ある母型」とでもいおうか、様式を踏まえたうえで、その様式からどれだけ「持ち味」を描けるか。


文脈を分かっている物語と、そうでない物語。
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2019-4-23【物語三昧 :Vol.17】『艦隊これくしょん -艦これ-』草川啓造監督 二次創作系の物語の難しさとして語るべきか、もう一歩踏み込んで無償の愛や新世界系の文脈で語るべきか?
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『戦翼のシグルドリーヴァ』を見ていると、この「様式における構造の問題」がすべて意識されているのがよくわかる。僕はかつて、『文脈を分かっている物語と、そうでない物語。』という記事で、文脈意識がないと、物語は面白くならないといいました。しかしながらこれは、僕の美意識である「文脈からの新規さがないと物語として評価が落ちる」という視点からのものでした。実際、『ビビッドレッド・オペレーション』って、僕はすごい好きなんですよね。いってみれば、客観的には評価は低いが、主観的には高いみたいな状態。もちろん、キャラクターのドラマトゥルギーも描き、文脈的な新規さも両方包含した作品が、大傑作になるという意見は変わらないのですが、プリキュアシリーズやウルトラマンでも、仮面ライダーでも戦隊ものでもいいのですが、ある程度集客を見込める母型となる物語類型が様式美となって、どこまでぎりぎり攻めれるかを意識し長シリーズが作り続けられていくことほど、アニメーションの業界に計り知れない恩恵と価値を与えるようなって思うんですよね。ざっくりと描くと、


1)少女たちの成長(かわいさ)を描く - しかし戦争ものなので死なないとドラマが際立たない


2)意味不明の敵が攻めてくるという様式美 - 世界の謎を解明しないと意味不明の話になる


3)女の子たちのきゃははうふふの日常系である - 人類の未来をかけている最前線の兵士である矛盾


このあたりの視点が思い浮かぶんだけれども、脚本家としての長月さんは、このどれもギリギリラインで攻めているのがわかって、なるほどって思ったんですよね。バランスが見事。この企画自体は、戦闘機とか艦艇みないなミリタリーものと、かわいい女の子のキャラクターを組み合わせるというオタクものの様式として安定的に売れるパターンになりつつあるので、僕はこれが定期的に量産されていくことには、凄い肯定的。この組み合わせ、オタク的文脈で、見ているだけで幸せになるもの。でも、これが様式美になれば、これを食い破る劇的なものは、いつか必ず出てくると思う。それまで手を変え品を変え、この様式美の可能性を追求してくれるといいなぁと最近思います。そういう意味で、『戦翼のシグルドリーヴァ』は、この辺の問題意識をすべてギリギリまで攻めているので、よい秀作です。えっと、とはいえ、見るべきか?と言われれば、この系統が好きな人は見てもいいんじゃない?という感じ。やっぱりこの系統では、『ストライクウィッチーズ』の出来は、凄いなぁと思う。ただ、じわじわ前に進んでいる感じがするのは、北欧神話オーディンなどの設定だけれども、「攻めてくる敵が何なのか意味不明」という部分をどのように世界観として描いていくか?というのは-----「少女たちがそこまでして戦わなければいけない理由」とリンクするはずなので、あきらかに、意識的構造的に作られている。まぁ、ピラーっていう人類を攻めてくるものが、どこから来た何なのか?って謎につながらないのは、まだまだこの類型が、消化されていないってことなんだろうと思う。このタイプの次の作品に期待。


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99%の人は、何者になることもなく、何もなせず、ただ生きて死んでいくだけ。答えは、そっちじゃない。

何者かになりたい


イムリーなテーマだったので手を取った。がしかし、一言でいうと、構造を解説した本で、具体的な処方箋はないんだなと思いました。どういう文脈でいうかというと、


テーマとして、「いまこのとき(2021年)」に、「何者かになりたい」ということがどういうことなのか?という設問は素晴らしいと思う。


しかし、「ではどうすればいいのか?」という答えがない。答えがないにしては、タイトルがちょっと強すぎる。


もちろん、「何者かになりたい」という構造、意識が「どこから来たのか?」ということを明らかにすれば、答えはいらず、一つの知見を得られるという本の在り方もあると思う。でも、アイデンティティーを「『自分はこういう人間である』という自分自身のイメージを構成する、一つひとつの要素」と定義して、若者がそれにあがいて、獲得していくプロセスが語られるだけでは、ちょっとプラクティカルではない、と思う。僕は、こういう時代性を反映した、その時のテーマや時代の要請からの本には、「プラクティカルに、具体的に、いったいどうすれば、その問題が解決できるか」の方法論が書いていないと、手にとって人が肩透かしを食らうと思っています。まぁ、そうなると、キャリアポルノ的な自己啓発本になってしまうんだけどね。


正直言って、僕のような「教養を得る」ことや「物事の複雑な構造を、時間をかけて読み解くために勉強をしたい」というような層は、あまりいないと思っている。そういう人は変人だから。。。だから、この本は、誰に向けて書かれた本だろう?とちょっと、わからなくなった。だって、このタイトルだと、「どうすれば何者かになりたい」という不安な気持ちを、解決すればいいのか?が、書いていないんだもの。ほとんどの人は、その不安を取り除きたいか、できないならば、「何者かになれる」と宣伝しているオンラインサロンに入ると思う。それは悪手だといったところで、ではどうすればいいのか?という、即効性のある具体的な方法を示さなければ、やはり若者は低きに流れるのは、歴史が証明している。もちろん、そんなものはないんだけどね。


読んでいて、終始「じゃあ、どうすればいいの?」というのが、頭に浮かぶので、著者のシロクマさん自体が、答えが定まっていないんだろうと思った。「何者かになりたい」という構造を示して、答えは簡単に得られないんだよという結論は、たいていの本がそうなので、なんというか、多分これを読んだ人は、余計何が何だか分からなくなるだろうと思った。


読んだ一読の印象としては、オンラインサロンに代表される「何者かになりたい」動機を利用して搾取する構造にはきおつけようといっているのですが、処方箋がなければ、なかなか回避しずらい。



ペトロニウスの答え~これを読んでい人は、まぁ99%モブの意味も価値もない人です(僕も含めて)


僕の答えは、アラフィフにしてもう出ている。


まず大前提は、尊敬する出口治明さんからもらった答え。


99%の人は、何者になることもなく、何もなせず、ただ生きて死んでいくだけ。


以上。


これを踏まえなければならない(笑)。「何者にもなれない」のが、僕らモブの人生。モブとは、歴史にかかわれることなく、ただ生きて死んでいくだけの普通のパンピー。人類の、中島梓さん的に言えば、95%は、これ。コリンウィルソンも言っていた人類指導的5%とかかな。僕の言い方でいえば、99%の人は、意味も価値もない。


じゃあ、どうやったら残りの1%の、歴史を変えて名を残す人になれるのか?


それは、運によって決まります。なので、意思も努力も関係ない。


僕もそうおもっていたが、古今東西の本を読みまくった怪物的な教養人である出口さんの結論も同じで、やはりそうか!とひざを打ちました。


ちなみに、中島梓さんは、『ベストセラーの構造』で、大衆の識字率が上がってたので、多くの人が「自分は文字が読めるいっぱしの人間だ」と勘違いしていると喝破している。実際は、ほとんどすべての人は、文字が読めても、「文脈を読む能力」は皆無です。いいかえれば、人間としての、市民(シティズン)としての、教養あり、政治にかかわれるほどの自立した自己判断能力がある人なんていのは、ほとんどいない。自立した理性ある近代人なんて幻想だ!(笑)。僕の言葉でいえば、いいかえれば、上記の5%以外は、文字が読めるので、自分を人間だと勘違いしているお猿さんなんです。それが、大衆社会というやつ。


なので、自己判断としては、「自分は、何物にもなれず、ただ生きて死んでいくだけの、お猿さんでありモブである!」を、前提にしたほうがいい。「そうでない」人には、「そうでない」ことが、わかります。だって、そういう人たちは、みんな誰一人「悩んでいない」もの。時代から選ばれる人たちだから。だから、悩んでいる時点で、自分は、価値も意味もないモブだと認識すべきなんです。


ペトロニウス少年は、この結論に、高校生の時に到達しました。中島梓さんが、僕の神様だったので(笑)。


ただし、なかなか頭で理性でわかっても、「自分がモブであり意味も価値もない」というのを認めるのは、とてもとても難しかったです。



■自分がモブで価値も意味もないという「絶望」は、ニヒリズムを人に誘う


そして、ほとんどの人は、この「自分が意味も価値もない」ということに、耐えることができない。


この不安が、人々に絶望させ、ニヒリズムになります。


僕は、インターネットや教育の向上によって、「理性ある近代人」とか「歴史にとって意味ある何者か」でもないのに、「僕って何?」とか考えてしまう、教養を積む努力と意思もないのに中途半端に教育を受けてしまった「なれの果て」のパンピーが、僕らなんだ、と思っています。


本当に、この意味のなさに耐えうる理性ある近代人になりたければ、「この絶望」を越えなければなりません。


まぁ、無理です。だって、意味ないもの。それを超えても、別に得なんか何もないから(笑)。


伝わるでしょうか? この「絶望」ってやつが、「何者かになりたい」と、今思う君たちの動機の正体です。


熊代さん的に、これを「アイデンティティを獲得するための若者の基本衝動」定義して、普遍的に解説するのは、非常に正しく科学的だし、まっとうなのですが・・・・処方箋にならないと思うんですよ。今、現代、2021年になぜこの衝動が、たくさん若者に現れるか?そして、なぜオンラインサロン(まぁ、要は新興宗教ですよね)に行くか、それを防ぐための。


やっぱり、この流れって、キャリアポルノや自己啓発本のような、ただの「大衆社会の消費者」に過ぎない個人が、なれもしない「自己判断、自己で価値判断ができる自分になる理性的な近代市民」になろうとするあがきなんですよ。社会が、そうなれって要請しているし、それに「乗り遅れると食べていけない」「誇れる自分になれない」みたいな洗脳圧迫をかけてくるわけですから。


まず、究極の答えの一つ。もし、君が、本当の本当に悩むなら、


宗教を信仰しましょう(笑)。いやマジだって、それが一番、心と体が安定します。


ちゃんと具体的に指定します。キリスト教カソリックがいいです。近くにカソリックの教会に行きましょう。日本だとプロテスタントも悪くないかもですが・・・。あ、全力で、新興宗教は避けましょう。そうですね、ここ200年くらいにできた宗教は、すべて拒否です。キリスト教の分派も、すべてだめです。


何が言いたいかというと、社会と共存している「古い安定している宗教に入りましょう」と言っているだけです。オンラインサロンも含め、新興のものは、集金システムが安定していないので、容易に搾取されて、その割には組織が長く持ちません。


ペトロニウスは、無宗教ですが、、、もし、自分が死ぬような病気になって怖くて寝れなくなったら、キリスト教の教会に行くと思います。教会のような共同体が機能して、個人を相手にしているものならば、何でもいいんですよ(笑)。


話半分で聞いてほしい感じですが、古く社会と共存している宗教で、共同体に包まれる、という体験が最後の救済の処方箋だろうと思うんです。自力で何とかできなきゃ、最悪、そこがあるって思っていると、楽です。まぁ、仏教でも神道でもいいんですが、ぱっと思いつかないので(笑)。


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海燕さんの結論も、同じでだと僕は思います。「自分」は「自分」以外になれないという・・・・でもこれは、海燕さんらしいですが、強者の理論です。この「残酷な事実」を受け入れろ、というのは「理性ある教養人の思想」です。普通のパンピーにはできません。


■じゃあどうするか?~「何者かになりたい」というエネルギーと不安を、搾取されないためには?


そこまでじゃない、宗教とかまでじゃないんだ!という人に対しては、アイデンティティをタコ足のように分散させましょう。


????これは、ちょっと難しいです。


僕がとても尊敬する、いつもプラクティカルな答えを出してくれる、オンラインサロンの最初の創設者(笑)岡田斗司夫さんの「僕たちの洗脳社会」の答えの一つです。



ようは、足があるコップというかボウルみたいなもので、一本や2日本だと、不安定で危ないので、さいてい3本以上、足を作りましょうということです。


自分のアイデンティティという「水の入ったコップ」を支える足が、複数ないとだめですと、言うこと。


通常、一般的な人生では、「地域共同体」「会社」「学校」「家族」みたいなもので支えるのが一般でした。けれど、2010年代では、社会が「個」にばらばらに分解している都市社会の住人なので、これらの「支えが」成り立ちません。


最後に残った親密圏の「家族」にあこがれと幻想を持つ人が多数いますが、、、、これも「家族の解体」のテーマは、さんざんやったじゃないですか、物語で。エヴァンゲリオンのゲンドウみたいな父親いります?(笑)。「父」であったり「母」であったり「夫」や「妻」なんていう役割も、だいぶ危ないです。うまく回れば、とても強固ですが、まぁ今の時代かなりあやうい。なので、友達を作ろ、とか、結婚しようとか、そういうのは、まったく解決策になりません。


いや、友達でも結婚でもいいのですが、「複数の軸を持て」ということなんですよ。


この複数の「アイデンティティを預ける先を持って」それのバランスを維持するという戦略が、生きるのに凄い楽になります。


この複数の所属先を持つというのは、SNSとかインターネットのせいで流動性を増した社会では、ものすごくやりやすくなりました。


この話具体的には、岡田斗司夫さんのこれを読めばいいですよ。おすすめ。



■具体的には何か?~要は趣味を探せ、というお話


普通の人は、普通にがんばれ。結論はこれですね。


「会社や仕事」「趣味の友達Aグループ」「趣味の友達Bグループ」「趣味の友達Cグループ」「家族」これくらいを軸でもって管理する癖をつけます。


重要なのは、「越境はさせない」です。


趣味の友達Aと、B、Cは絶対に重ねない。趣味と仕事とかもです。一緒になると、「逃げ道がなくなる共同体」と化すので、いじめが起きやすいからです。共同体の同調圧力の怖さは、僕ら村社会の日本人は、よくしっているはずです。できれば、友達のような永続性のない集団は、3年ごとに、少しづつ変えていくのをお勧めします。期間は、3年です。それ以上短いと、あまりに弱い所属先だけど、3年以上だと、たいてい腐っていじめが起きます。その中から、「これ!」という大事な人を一本釣りしていく。


ちなみに、「趣味の友達A」が、オンラインサロンとかで会ったっていいんだと僕は思います。


重要なのは、コミットメントの「度合い」をコントロールすること。


「会社や仕事」(50%)「趣味の友達A」(1%)「趣味の友達B」(5%)「趣味の友達C」(30%)「家族」(4%)とかとか、こんな風に。


このコミットメントの度合いは、「自分にとってのうまい塩梅」は模索し続けるしかありません。


趣味の友達Aがオンラインサロンであったとしても、そこに「お布施(笑)という名の収奪」があっても、まぁ、それが人生の数パーセントであったら、いいじゃないですか。これがアイドルの押しだったら、たとえば、人生の50%くらい投資して、ただ収奪されただけでも、「その時のひと時のj=絶望を忘れられる」のならば、金をかけた価値が十分にはあると思います。「何者かになんかなれない」のだから、「それが役に立たなくてもいいんです」。それが、「楽しければ(=嫌なことを少しでも忘れられれば)」、それで十分なんですよ。


ビジネスの用語でいえば、これはポートフォリオ戦略のことです。多角化経営でもいいですが、ようは、コアコンピタンス(競争力のコア)を、組み合わせにして、外部環境の変動に対してフレキシブルに対応できるようにするということです。


愛する人と出会いたい!」みたいなロマンチックラブイデオロギーは、これを一つの軸に、集中してかけるので分散投資しないってことです。危なすぎて、これだけ流動的な「個」によって形成される社会では、危なすぎてだめです。


■楽しければ(=嫌なことを少しでも忘れられれば)」、それで十分


これ、結論の一つです。「何者かになりたい」と思う衝動は、安定したアイデンティティ獲得への渇望なので、死ぬまで苦しみます。今は、これが若者特有ではなくて、高齢者にまで広がってきました。これは、寿命が長くなることやQOLが向上して「青春(=何にモノでもないことに耐える時代)」の期間が長くなっているからです。


だから、僕は、「人は何者にもなれない!、動物のように死ぬだけ」という事実を前提に、その怖さを「忘れられる」ものを、探しなさ、と思います。


それが、「自分の好きなこと」です。


あなたは、何をしているときに、「この苦しい現実」を忘れることができますか?


ペトロニウスの結論は、30代の後半に出ました。僕は、物語(映画、漫画、小説)があれば、他には何もいらないって。


なので、コミットメントのバランスを変えました。もちろん、僕には子供の子育てや、アメリカで仕事をしなきゃいけなくなったり、苦界の苦行は付きまといますので、時には、仕事や家族が、人生の90%ぐらいになってしまうときも、瞬間最大風速あります。


でも、僕のターゲットは、60歳以降(笑)。その時に、80-90までの残りの20-30年間を、物語に埋もれて暮らすための、インフラ作りが、今だと思って、配分しています。だから「それ関係の友達」を育てるのは、20年単位で努力しています。


重要なのは、覚悟と時間です。何かのインフラを作るには、経験上20年はかかります。特に社会人は、最低この時間がかかります。


また「こんなことやっていて意味があるのかな?」という覚悟の問題もあります。僕も、30代半ばまでは、自分のオタク趣味って、なんにも意味がないなって悩んでいました。たとえば、それこそ本を出したら、そういうのがなくなるかな?とか、評論家として大成したら、「何者のかになれるかな?」とか、、、、でも結論は、「そういうことじゃない」と思いました。会社で、出世して、アメリカの会社で経営者になっても、全然うれしくない自分がいて、あ、、、これ、だめなやつだ・・・・これって承認欲求であって、充足としては、かなり弱いものなんだ、、、と自分で気づきました。人によるとは思うので、仕事が充足がないという意味ではないです。ペトロニウスには、あまり満足いかなかったんです。


そうか、、、、ただ単に、物語を消費して、そして解釈して、友達と話すというサイクルの中に、「時間を忘れる充足がある」と言うことに、僕は気づきました。だから、人生のすべてでの最優先順位だと確定したんです。ただ、何にでも「時」はあります。今の僕は、子育ての時間が大きすぎて、昔ほどオタク趣味に時間をさけていません。また、せっかくアメリカに住んでいるのだから、もっとアメリカを知りたいし、、、そもそも僕は子供のころから旅行が死ぬほど好きな人なので、せっせっと旅行に行っています。けれども、そのどれもが、「より物語を深く充実して楽しむため」という目的意識のインフラにかかわるようにしています。


僕は、これをクンフーと呼んでいますが、「自分が!自分とは何者か!というような自己に関する不安問題」を忘れることのできる「時間的な強度・密度」を感じれる何かに、かけること。「無時間性の何か」、と僕はよんでいます。ようは、目的意識に乗った集中力が、極まっているときに入るゾーンの話をしていますが、そういう話はどうでもいいです。


とにかく、不安を忘れられるならば、それで十分じゃないか、という話です。


そして、そのクンフーとか好きなものが、「何者かになるための手段」に堕してしまわないように慎重に配慮する戦略意識が重要です。


わかりますか?


目的のための手段になった瞬間に、それは「自己否定を誘う最悪のトラウマ・ルサンチマン」になるからです。


この辺は、長いので、またこんど。



■ハイレベルの「何者かになりたいワナビー衝動」の利用方法~退屈を忘れさすには目的を持つことだ!~長期と短期を分けて考えろ!


そして上級者編。


シロクマさんも書かれていましたが、「何者かになりたい衝動」というのはエネルギーです。だから、これが「何物にもなれないやばい衝動だ」という自覚を持ちながら、「あえて、この熱さに乗る」という戦略意識があると、人生は成功しやすくなります。


たとえば、ビジネスマンで、アメリカに行ってMBAをとる!!!とか、よくワナビーくんのビジネスマンが妄想する、意味のないやつなんですが(笑)・・・・短期的に、若いうちにこれに一点賭けして、ブレイクスルーするのは、僕は悪くないと思います。


これで幸せになれるか?


これで、何者かになれるか?


というと、まったく関係ありません(笑)。でも目指している間は、「何物でもない絶望している自分をわすれられる」ので、それが悪いとは思わないんですよ。


勉強でも、学歴でも、仕事でも、何かのレベルを上げて成長するには、狂気がいります。


この狂気として、この衝動を利用するのは、ありなんだと思うんです。


でも、短期と長期の戦略意識を考えないと、人生は失敗します。だって、こういう成長は、あまり幸せとは関係ないからです。成長しても、「幸せになる」ことはできません。成長している間、「ひと時絶望を忘れられる」だけなので、疑問を持った瞬間に、地獄に落ちます。


だから、短期的に、自分の不安を動機とエネルギーに変えて、目的意識で何かを目指すのはありです。


でも、長期では、この配分を「自分にとってベストの幸せとは何か」と考えて配置しなおさないと、地獄に落ちます。


■おわり

今仕事回っていなくて、書いたから、誤字脱字だらけだろうし、意味不明かもですが・・・・シロクマさんの本を読ませていただいて、2021年の今、この「何者かになりたい」というのを問い直すタイミングであるというのは、特殊な意味があるはずだと思いました。何か僕もよくわからないですが、「そんな感じ」がします。ここは重要なので、今後も考えていきたいものだなぁと思いました。あと、高齢者に、これが問われるようになっていく構造が出てきたのは、特筆されるべき指摘だと思いました。僕の自分自身の何者か衝動を、どういなしてきたかのまとめを、再確認するよい機会になりました。

『スーパーカブ』(2021) トネ・コーケン原作 藤井俊郎監督 そこにもう救われない最後の1%はいない。観た最初の1話でずっと感動して泣いていました。

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評価:★★★★星4つ
(僕的主観:★★★★★星5つ傑作!)

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■第一話「ないないの女の子」が示す救われない最後の1%はいないこと

1話の「ないないの女の子」出来が素晴らしすぎて、最初からな涙ぐみながら見ていました。これは、とにかく今(2021)に見る物語だと思いました。『ゆるキャン△』や『よりもい』の時も思いましたが、同時代性の文脈に沿っている作品は、ぜひとも「今」見たい。なぜいまか?といえば、この時は「今、この時の時代性の文脈」に激しく依存しているので、この文脈が変わってしまうと、受ける感動が変わってしまうと思うからです。素晴らしい出来で、かつ繊細な演出意図によって作られている作品なので、全部★5つのパーフェクトなんですが、ちょっと下げているのは、僕のブログが必ずしもアニメが好きでないくても、見たら最高!というものを紹介しようという「ジャンルを越境できる」ことを念頭に置いているの、もし、数年後にこのブログを見て、アニメを特にみていないけれども「見てみよう」と思うと、強度が下がるのではないかと思うからです。

ここでいう時代性の文脈とは何か?

物語三昧のブログ、もしくはアズキアライアカデミアのラジオをずっと聞き続けている人はわかると思うのですが、「持たざる者」が、それでも救済される方法あるのか?という問いです。ざっくり具体的なレベルに落とすと、異世界転生をしたがる今の日本のサブカルの文脈は、「自分が現在のセカイ時間において不遇で不幸なので、違うところに行ったら幸せになれるのではないか?」という装置だとすれば、次々に様々な主人公が登場するのは、それぞれの人間が持つ「不幸」にどう対応すれば異世界で幸せになれるのかの、条件を振って物語を作っているのだと考えたのです-----そうすると、最後に、本当に何も持っていない「1%(実際の数字ではなくて、最後に残った部分という意味)」は、どうにも救いようがないじゃないかという文脈でした。当時、下記のように描写しています。

芥川龍之介カンダタのたらす糸はたくさん、実はたくさんある〜けれども、90%をカバーするものに漏れてしまう層を救えるのか?そもそもいるのか?

さて、先日LD教授と話し込んでいた時に、この作品群は、ターゲットとテーマがうまくかみ合っていないという話になった。より正確に言えば、最初は、ターゲットに設定していた層への疑問に答えようとするのだが、物語上それができなくなるというだ。

それはどういうことか?といえば、『僕は友達が少ない』などのタイトルがそもそも、友達がいないと感じている孤独を苦しむ層の救済とまでは言わないが、そのタイトルに共感を得る人間を対象にしているはずだったのだが、この物語のハーレムメイカー的なラブコメの構造から、実は、お前もてないって言って女の子にモテまくりだし、友達いないって周りにたくさんいるじゃん!と突っ込みたくなるような環境にどんどん変化していく。物語が進むということは、カタルシスに進むわけで、そうならざるを得ない。仮に最初に本当に友達がいないとしても、まじで一人もいなければ物語が進まないわけで、そうではなくなっていくところがこの物語のドラマトゥルギー(=物語が展開する力学)。極端なこと言えば、ただ気づいていないだけで、そもそも友達はいたんだよ!(=青い鳥症候群)な設定になっている。これはいいかえれば、本当に友達がいない孤独を経験している人からいえば、ああ、俺の求めているテーマや答えに全然リンクしていないで、離れていくのだな、と取り残されていく感覚を抱かせるはずだ、と。

ここでLD教授は、カンダタの話を出します。

蜘蛛の糸 (日本の童話名作選)
有名な芥川龍之介の小説ですが、カンダタは、生前悪い泥棒だったので、地獄で苦しんでいました。しかし、一度だけ小さな善行をなしたことがあって、小さな蜘蛛を踏みつぶさずに助けて生かしたことがあった。それを見ていた釈迦は、カンダタにチャンスを上げるように、小さな蜘蛛の糸を地獄に垂らして、助けようとする、、、という話ですね。

これは、どのような人間にも、蜘蛛の糸がありうることを示しています。まぁ無駄に使ってしまって、カンダタのように、他人を蹴落とそうとして糸が切れてしまうというのが、オチなんですが(笑)。でも、そんな細い糸が1本だけあっても救われる人はとても少ないじゃないか?と思うかもしれませんが、そうじゃないんですね。LD教授は、この糸って実はたくさんあって、90%ぐらいの人はって正確な数字が言いたいのではなくて、ほとんどの人は救われるための糸が垂れ下がっているんです。あとはそれにつかまればいいし、自分でその価値を壊してしまわない限りは救われるのです。この物語のように、大抵は自分で壊してしまうんですけれどもね。僕は、世の中は、ほとんどすべての人に、救済の道が細いながらも示されていて、実はほとんどの人には、糸がたらされているんだ、というのは同感です。

なにをいっているかといえば、先ほどの、これらの残念系青春ラブコメといわれたりする系統で主軸のテーマになっている「友達がいない孤独」ボッチの世界に、救いはありるのか?と問えば、それは、いくらでもあると思う、といっているんですよ。そもそも、ほとんどのケースが、友達がいないんじゃなくて、青い鳥症候群。いや、そばにいるじゃん?という話。もしくは、友達を作ろうとしていなかった、というだけ。そばに友達候補はわんさかいるのに、自分から拒否しているだけ。カンダタの糸はたくさん垂れ下がっている、というのはそういう意味のことです。


やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

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しかしながら、Youtubeでも解説していますが、3つの段階を考えて分析しています。

0)不幸なのはたいてい親か家庭(社会)のせい

1)恋人(ラブコメ)か友達によって救われる

しかし、恋人ができれば救われるみたいな話は、結局は「持っている者」だけが救われて、どうしてもモテない人とかは、どうにもならないじゃないかと絶望する。谷川ニコさんの『私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!』の議論ですね。だから、ここで語られている問題意識は、人間の幸せは、お金、学歴、容姿、恋人(異性)、友達などの外部要因では決まらないという話でした。いや、これも実はおかしな話で、世の中の過半の人は、、、たぶん90%ぐらいの人は、これで救われちゃったり、幸せに「なれてしまいます」。

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しかし、そうはなれない人が、次に向かいます。

2)自分の「好きなもの」を探して、それに打ち込もう。

問題は外部(=お金とか自分の外にあるもの)に依存しているからだ。外部はアウトオブコントロール(自分に都合よくできていない)。だから、「自分の心の中にある」「好き」というものを軸に、趣味に打ち込めば、外部の偶然性に頼らずに、充足を得ることができるぞ!

しかし、「好き」が、自分の心の中にないんです。言い換えれば、内発性がないんです。

ここで困ったんですよ、、、、「好きなものも探せない」「育てることができない」といわれちゃうと、そういう無気力でエネルギーがない人は、社会から切りすたられて、死ぬしかないね、、、という結論になってしまう。これすぐっごい昔の物語三昧ラジオのアーカイブですが、ここで考え込んでいたことが、このように展開するとはと思うと感無量です。

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3)何もない「持たざる者」は、生きていても何一つ救済がない←いまここ


こういう感じだったんです。


ということは???


時代の文脈的に、「何も持たなくても」、幸せになれる方法を示してほしい!という要求があると、感じていたんです。


どうよ???


小熊ちゃん。


タイトルは?


「ないないの女の子」


です。


凄いわかっている感あふれるでしょう!


ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという文脈からの後退か?

さて、Youtubeのコメントが面白かったので、そこを注目してみましょう。「救われない1%」の層を救うには?という文脈の流れで、下記にありますように、『ゆるキャン△』により一つの到達点を示したと僕は考えています。要は、趣味=好きなものを通して世界を見ればキラキラ輝くという結論です。しかしながら、『ゆるキャン△』が、素晴らしく時代へ答えたのが、単純に「好きなものがあればいい」ということに甘えて、日常・無菌系の「女の子が戯れる日常」というオタクが好きそうなガジェッド・皮(ガワ)に逃げなかったことです。これはさすが製作者、とうなります。この場合は、原作者ですね。りんちゃんが、つまりは主人公が、仲良くなった友達や仲間と「一緒にキャンプを楽しむ」などという陳腐な作品にしなかった部分が、エポックメイキングでした。彼女は、「一人でキャンプに行く」のが好きなので、同調圧力に負けて、仲間たちと戯れるような、「自分の好きを捻じ曲げる」ことをほとんどしません。

ここでは、日本的同調圧力の空気をぶち壊せ!という文脈背景に基づいて、

友達がないと幸せになれない

友達はいらない

という2項対立のテーマを、あっさり止揚しています。いわんとしていることがつたわっているでしょうか?。つまりは、「自分の好きを貫く」=「友達は必要ない!」という命題と、「一緒に時を過ごさなくても」「友達足りうることはできる」という風に話を展開させているのです。ここが、普通の日常・無菌系をはるかに超える強度を生み出したポイントでした。

ゆるキャン△』に示された、どこにいても、独りぼっちであっても、一緒にいるという共時性

ゆるキャン△』は、なので日常系・無菌系の文脈なしでは、いまいち何をいっているのわからない系譜のものになると思うのですが、この作品の日常系としての出来の良さ以外のポイントで、文脈として注目したポイントは、SNSの使い方です。前回の『よりもい』で関係性について到達した結論は、結局、一周回って、心の中に絆があれば、どこにいようが(ばらばらで一緒にいなくてもいい)問題ないということでした。ましてや、SNSなどのサービスが共時的に体験をできるシステムが整いつつあるので、それが「目に見える」。えっと、順番は逆じゃないんですよ。りんちゃんとなでしこの関係が、LINEで描かれていて、遠くにいても「同じところにいるような」関係性が、生まれた!のではないんです。関係性が内在している、、、言い換えれば絆が生まれていれば、仮にSNSのようなサービスがなくても、そこに絆の共時性はあるはずなんです。今までそれが見えなかったし、記録に残らなかっただけ、なんですよね。それが、あぶりだされて、目に見えるようになっただけ、なんです。この絆の「目に見える」というところの演出が、とても素晴らしかったのが、『ゆるキャン△』のアニメでした。そして、これは演出だけにとどまらず、大きな文脈の中のある種の結論として、機能していると僕は考えます。


これは、ぼっち、というテーマのアンサーです。


上で話しましたね。ぼっちであるのは、一人でいることとか「状態」ではなくて、心の在り方なんだということ。りんちゃんは、あれだけ仲良くなっても、ソロキャンをやめません。なぜって、一人でキャンプするのが好きだからなんです。一人でいるから、独りぼっちというわけではない。それが端的物理的に最終回で描かれているのは、りんちゃんとなでしこが、特にお互い連絡もしないで、個別にソロでキャンプに出掛けて、行き先が一緒で出会ったことは、彼らの関係性が絆までレベルアップしていて、もう特に言葉で語り合わなくても、とても思考や行動がシンクロしやすくなっているさまを描いているんですよね。あそこに、SNSいらないと思うんですよ、実際は。ただテクノロジーがあるので、それが目に見えるように炙り出されている現代性を見せているだけ。

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さて、しかしながらこの最前線に思える『ゆるキャン△』には、一つの問題がありました。いや、この物語自体の問題じゃないんですが‥‥それは、そうはいっても


友達はいたほうが幸せ


という風に読み取れてしまう点です。これでは議論自体は、前の議論に答え切れていません。「好きなものは貫いたほうがいい」けど「友達はいてもいい」。それに、ゼロから「何かを好きになる」という内発性のスタートポイントは何か?というテーマにもこたえられていません。LDさんが、こだわる議論のポイントでもあって、そもそもシャープな答えとしては、


「友達はいらない!!!!」


と、こたえる方が潔く、かつ深いんです、答えとしては。でも、時代は、「いらない」というところまで、極端に行く必要はない、と結論付けているようにペトロニウスは感じています。


そこで来たコメントが以下だったんですね。鋭い。

田沼小石
なるほど、そう観ましたか。
物語全体を通してみると『ろんぐらいだぁす』でロードバイクを手に入れたら、仲間と世界が広がったよ……というのとほぼ同じなので、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からは後退した作品だなと思っていました。

ただそこに小熊の“なにもなさ”を加味すると見方が変わるわけですね。視点が変わることで世界が変わるというのはわたモテが実現したことですが、スーパーカブはそれを最短で表現したと考えると凄い。与えられる情報が少ないというのは原作小説からそう(琵琶湖から数ページ後には九州上陸しますし)なので、演出が本当に良い仕事をしているのだと思います。

この文脈が発展するなら、いずれはスーパーカブを手に入れるという過程さえ必要なくなるのかも……と妄想します。藤子F短編集の流血鬼のように世界の方が勝手に変わるなら……ただそれだと異世界転生となにが変わるのだろうか……と、考察すべき事は多いですけど。

この指摘、ゆるキャンの友達だっていつも一緒に居る必要は無いという革新的な文脈からの後退というのは、なるほどと思いました。


後半になると、普通の日常系になるので、普通に眺めていると、これが意外に面白くなくなるっていきます。いや素晴らしい演出なんですが、ようは通常の「無菌系・日常系」の作品と構造が同じになってしまって、「どこかで見たことがある物語」になるからだと思います。日常系の頂点は、マンガ『あずまんが大王』とアニメ『ゆゆ式』だと僕は思っていて、もしこの系統の最高峰を見るなら、あちらだなと思うってしまう。というのは、最初の1話の視点が、あまりに衝撃的過ぎて。まぁあの1話で、もう完璧なんですけどね。

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petronius.hatenablog.com


上で置いたわたモテの解説動画で疑問いあげていたのは、主人公のもこっちが、「何一つ変わっていない」のに、なぜ幸せになっていくか?という疑問点でした。明らかに作者は、「自己肥大をこじらせているもこっち」が不幸になるというか、世界との違和感、ズレがあって、それをギャグにするという不条理コメディを意識しているにもかかわらず、わけわからず幸せな日常ハーレムものに展開していく様は圧巻です。しかしながらこの「視点の変化」が、何によってもたらされたのか、ずっと具体的にわかりませんでした。あの話の本質は、「自分が何も変わらないのに」「世界のほうが変わる」というところに力点があって、でもなんで変わったのが、よくわからなかったから。しかし、スーパーカブを見れば、「自分と世界が変わる」のに、自己啓発的な決断や意志みたいなもの、さらには才能やお金などは、全く必要ないんだ、というのがストレートの示されていて、唸りました。


そして、その答えは、「ただ移動すること」なんです。


ちなみに、「手に入れる必要さえない」、、、、となると、「世界の方が変わる」話なので、まさに異世界転生です。そ結構この辺整理されてきたなと思います、どんな文脈があるかわかってくると、面白いですね。


ちなみに、物凄いずれるというか蛇足ですが、この「移動すること」に自由を見出すというのは、まさにクロエジャオ監督が、ノマドランドで描いたものです。


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2021-0508【物語三昧 :Vol.120】『ノマドランド(Nomadland)』2021 Chloé Zhao監督 雄大アメリカの風景を移動しながら野垂れ死ぬことを幸せだと思いますか?-128



■漫画版と比べると日常系として描く脚本と、純文学的に描く脚本の違いが際立って理解できます

これは監督が、素晴らしいですね。マンガと比べると差異が際立ちます。

スーパーカブ(1) (角川コミックス・エース)


ええとですね、上で描いてきた「なにもないこと」からでも人は幸せになれるという時代の文脈をちゃんと理解すると、監督が、何を演出したかったかが、はっきり読み取れます。


逆に言うと、まったく異なる解釈をマンガはしているので、演出表現を比べると、その差が際立ちます。ぜひとも読み比べてみましょう!。


覚えているので注目しておくのは、最初の第一話ですが、主人公の小熊ちゃんのシャワーシーンです。


これ、オタクのアニメ好きの文脈から考えると、サービスシーンです。それだけでなく、第一話で、主人公を好きになってもらい、感情移入するためには、ぜがひでもここでちょっぴりエッチなシーン(笑)を出しておくべきです。まぁ、いってみれば昨今の日常系アニメの演出の「文法」みたいなものです。アニメを見たときに、僕はそう予期してみていました。いきなり朝シャワーを浴びるので。彼女はかなり貧乏なので、水の節約を考えると、朝のシャワーを浴びるタイプとは思えないので、原作に理由があるか、とかいろいろ考えながら、おっぱい見れるかな?とか、スタイルどうかな?と、普通に男脳エンジンで考えていたら、驚いたことに、ワンカットもシャワーシーンをうつさなかったんです。後の話では、普通に小熊ちゃんのシャワーサービスシーンは、出てくるので、わざわざ第一の登場シーンで「あえてうつさなかった」のは演出です。これ、素晴らしい!!!!って、唸りました。「なにもない」少女として描くときに、性的な身体を描いてしまったら、それそのものが、魅力的なものとして、写ってしまうし、そもそも「何もない」という彼女のネガティヴさを演出するのにそぐわなくなってしまいます。物凄い上品で、おっと思いました。これは、凄い傑作かもしれない、と。


マンガ版は、最初の登場シーンから、シャワーシーンを、サービスシーンとして、描いています。


これどういう解釈の違いか分かりますか?


アニメ版の藤井俊郎監督は、あきらかにこのアニメーションで、「日常・無菌系のアニメーションの現代的な文脈」の文法を、あえて外して描いているんです。いいかえれば、これは、日常系じゃないって、宣言しているようなものです。


マンガ版は、ストレートに、『ゆゆ式』などの後継の文脈としての、日常系の少女たちが戯れるオタク的な文脈の文法で描いています。


これが、演出の「差」というやつです。随所に出てくるので、この視点で差を探してみるといいですが、「受ける圧倒的な印象の違い」は、この監督の強い演出意図に支えられていると僕は思います。


これ、監督がすごく難しい決断をしているのが分かりますでしょうか?。


一番、マーケティング的に「売れる路線」の文法をあえて外しているわけですから、これ、物凄く挑戦的なことにチャレンジしていることに、僕は敬服します。


こういうのを、文脈が分かっている物語、だと僕は思います。だからこそ、「今見るべき物語」なんです。安易なマーケティング的な言説に、のらない。

スーパーカブ』 藤井俊郎(監督)インタビュー
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

https://st-kai.jp/special/supercub-002/


■イージライダーを思い出す、自由への逃走、闘争なのかそれとも、今ここでの穏やかな解放か

バイクに乗れば速く走れる。バイクを使えば遠くまで行ける。バイクの魅力としてまず浮かぶ事柄だが、女子高生がホンダのスーパーカブに乗るようになるトネ・コーケン『スーパーカブ』や、ヤマハのスクーターで女子高生がキャンプに向かうあfろゆるキャン△』を読むと、そうした便利さに加えて誰かとの、あるいは何かとの繋がりをもたらしてくれる存在として、バイクの魅力が漂ってくる。
バイク×女子高生の物語、なぜ人気に? 『スーパーカブ』『ゆるキャン△』が描く“繋がり”|Real Sound|リアルサウンド ブック

ああ、あとこの話もしたいですが、疲労で疲れ切ったので、ポイントを挙げておくだけにします。


■エリックサティのクラシックがいい。

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――ドビュッシーが多いですね。
藤井 それは好みですけど(笑)。サティ、リスト、ショパンも使ってます。なるべく聴きなじみのあるもので、かつ基本的にピアノの独奏曲でセレクトしました。
――感情が変化するアタック音などにピアノを使ってもいますね。
藤井 ええ。クラシックとの親和性も高いし、作品のテイストとも合うと考えていたので。音楽の打ち合わせの際にその意図を説明させてもらったところ、クラシック曲と同じように実際のピアノの鍵盤を叩いて収録していただけて、結果とても贅沢なタッチ音になりました。
https://st-kai.jp/special/supercub-001/

後、音楽のが素晴らしく上品で、、、、本当に監督わかりすぎてて、素晴らしい。


■参考
petronius.hatenablog.com

petronius.hatenablog.com

スーパーカブ』の“リアルすぎる表現”にみる日本アニメ35年の「リアルと嘘」
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ccdccf455d2f23ef725f709e15891edf9b6a2c3

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』 渡航著 (2) 青い鳥症候群の結論の回避は可能か? 理論上もっとも、救いがなかった層を救う物語はありうるのか?それは必要なのか?本当にいるのか?
https://petronius.hatenablog.com/entry/20130603/p2

「僕は友達が…」  そうか、恋人じゃなくて、友達が欲しかったんだ!これはびっくり目からうろこが落ちた。
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20130329/p1

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Academia/いきいきごんぼ+三名様+アフロ田中+はがない+ラブコメと結婚後もの 2021/06/06

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『The Rider』 2017 Chloé Zhao監督 オグララ・スー族の馬とともにある人生の美しさとIndian Reservation(インディアン居留地)残酷さ

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評価:★★★★★星5つマスターピース
(僕的主観:★★★★★星5つ)

■見たきっかけと
2021年の第93回アカデミー賞作品賞受賞の『ノマドランド』の Chloé Zhao監督の第二作目。『ノマドランド』が、あまりによかったので興奮してノラネコさんに話したところ、それならば『The Rider』『Songs My Brothers Taught Me』のサウスダコタ・パインリッジ・リザベーション二部作を、ぜひ見てくださいとおすすめされたのがきっかけでした。

■見るべきポイント
観るうえで少し知っておきたい前提知識は、以下の文脈。

アメリカ中西部のサウスダコタ州のパインリッジ居留地 (Pine Ridge Indian Reservation) が舞台

パインリッジは、ウンデット・ニーの虐殺があった場所であり、平原インディアンの最大部族であるスー族の支族、オグララ・スー族の人々が自治権を持つリザベーション(居留地

Indian Reservation(インディアン居留地)は、アメリカの白人がフロンティアに入植していく過程でネイティヴアメリカンの土地を奪いどんどん追い詰めていった場所

この場所での失業率や産業のなさは極端で、そこに住む限り、豊かな生活や教育を獲得できる機会は限りなく低い

ワイオミング州ウインド・リバー・インディアン居留地を舞台にしたTaylor Sheridan監督の『ウインド・リバー(Wind River)』2017も同時に見ると理解が深まるのでお勧めです。


アメリカ社会において、ネイティヴ・アメリカンの扱いが歴史的にどういうものであり、今現在どういう状態なのか?という知識なしには、よくわからない物語でしょう。日本における田舎と都会の格差で考えるとわかりやすいとノラネコさんが指摘されていますが、居留地での閉塞感、閉じこめられて抜け出ることができない絶望感、アル中と教育なさが連鎖する空間の「どこにも行きようがない」感覚を前提に物語を見ないと、主人公たちの絶望が分からないでしょう。

演技的な視点では、『ノマドランド』もそうなのだが、ドキュメンタリー風といわれるように、映画の登場人物がほぼ本人というところが、クロエ・ジャオ監督の凄さ。ふつうそんな素人に演技させれば、演出がまともに機能しなくなってしまうはずなのだが、信じられないほど情感が細やかに演出される様を見ていると、いったいどういう撮影方法をしているのか驚いてしまう。これの一つをとってもアカデミー賞の風格あふれる監督であると思う。

驚くのはここからで、クロエ・ジャオの選択は、ジャンドロー自身に主人公を演じさせたこと。役の苗字こそブラックバーンと映画用に変えられているが、ファーストネームは同じブレイディ。演技経験などもちろん皆無の彼に、自分自身が経験した過酷な運命を再現させたのである。さらに信じがたいことに、ブレイディの家族や、落馬の後遺症に苦しむロデオスターら周囲の人たちも当人に演じさせている。中でもブレイディの自閉症の妹の演技は本作の重要ポイントとなったが、プロの俳優も顔負けのリアリティで、彼女は観る者の心をわしづかみする。自身の経験を再現するという、簡単そうでハードルの高い作業を、クロエ・ジャオ監督が的確に導いたと言える。

https://www.banger.jp/movie/55463/

■Be a man!(男らしくあれ!)の同調圧力として単純にとらえてしまっては、この作品の深さが分からなくなる

物語は、主人公ブレイディ・ブラックバーン(ジャンドロー)が、ロデオと馬の調教で生活していたが、落馬事故で馬に乗るのが難しくなってしまい、もしロデオや乗馬のような激しい動きをすれば、ほぼ死ぬか再起不能になってしまうだろというところからはじまります。これが実体験であり、俳優がその再起不能になった本人であるというのが凄いところなのですが、この作品のドラマトゥルギーは、主人公ブレイディが、「命を懸けてでも馬に乗るか?」という部分にドラマトゥルギーがあります。なので、ドラマを分解すれば、「命を落とすか半身不随になって再起不能になるのがほぼ確実」で「それにもかかわらずロデオに復帰したいと主人公が悩ん」でいるわけです。ただし、彼にロデオを教えてくれたあこがれのロデオスターは、落馬の後遺症立つこともしゃべることもできない状態になっています。このままロデオどころか乗馬をしているだけで、「そのようになる」という危険性を見せつけられてもなお、ブレイディは、馬に乗りたがるのです。そこにこの物語のキーがあります。

日本で、この映画を鑑賞した人の感想を読むと、「同調圧力」という言葉をよく目にする。
再起不能になるかもしれない怪我を負ってでも、再び馬に乗ることを当然だと考える、パインリッジの若者たちには、確かに日本の田舎にもある同調圧力的な力が働いているのかもしれない。
外の世界での可能性を諦めたジョニーも、様々なプレッシャーは感じていただろう。
だが、都市も田舎も基本的に同質の社会で、気に入らなければ出て行ける日本とは、はじめから選択の重みが違う。
馬に乗れるのと乗れないのとでは、経済的な格差に繋がる。
そして彼らにとって、カウボーイであることは、誇り高きラコタ・ネイションのアイデンティティと同義なのである。

単純に映画を見ていると、カウボーイ仲間から「早く復帰しろよ」という圧力が何度もかかり、主人公時代も、それ以外に生きるすべが知らず、父親から「Be a man!(男らしくあれ!)」とのみ育てられてきた、激しい同調圧力が垣間見ることができます。カウボーイ物は、基本的にこの米国にお「男らしくあれ!」という同調圧力の強さの象徴として描かれてきており、その激しさのアンチテーゼとして、アン・リー監督の『ブロークバック・マウンテン(Brokeback Mountain)』などが描かれているのです。これは、男らしさの協調であるカウボーイの男性の同性愛を描いたところに物語に力点があります。


が、、、、僕は、この話を、Be a man!(男らしくあれ!)の同調圧力の犠牲者の物語、とはとれませんでした。


もちろん、そういう側面があるのことも、土壌があることも否定はしません。しかし、この作品の白眉であり、最も印象的なシーンは、主人公ブレイディが、馬とともに荒野を駆けるシーンでした。サウスダコタの荒野。暗く、汚く、何もないところで、そこでスーパーの商品陳列を、何の喜びもなくしている主人公の姿は、哀れの一言で、「底辺の生活」がありありと感じられました。しかし、その現実は何一つ変わっていないのに、彼が馬とともにサウスダコタの平原を疾駆するシーンになった瞬間に、その美しさに、アメリカの自然の雄大さに、胸がつかれるような、痛むような感動を覚えました。これが、平原インディアン、オグララ・スー族の「馬とともにある人生」なのだ、という鮮烈な感覚が、ビビッドに伝わってきたからでした。


このシーンから、もう僕は、ブレイディが、同調圧力の犠牲者であるようには一切見えなくなりました。『ノマドランド』の話と同じ類型です。安楽な、都市での白人中産階級の生活をするよりも、物質的には底辺であっても、「馬とともにある」人生でのたれ死んだほうが、その美しさに包まれているほうが、生きている「かい」があるんじゃないかというのが、映像でガンガンつたわってくる気がするのです。そうなると、ブレイディが、なぜ再起不能か死ぬ確率が高いのわかりきっているのに、馬を捨てられないかが、切ないほどわかります。

リベラリズム的な同調圧力を超えて

この問題、選択肢の構造で、僕は「安楽な資本主義での都市生活」よりも「自分自身のアイデンティティのある」生き方のほうが、たとえ「のたれ死んでもよいのではないか」という難しい問いが語られているように感じました。この問いが難しいのは、ほぼ百発百中で「のたれ死ぬ」のが分かっているからです。確かにアイデンティティのある生き方のほうが美しく気高くあれます。しかし、既に、そのような選択肢がない状態で、この問いが語られるところの難しさが、クロエジャオ監督のマイノリティへ向ける限りなく寄り添う視点に感じます。だって、物質的には、アメリカの実際の空間、生活としては、最底辺中の最底辺で、明日生きていくのも難しいような生活をしているのですから。それでも馬がいいとは、単純い言えるのでしょうか?。

ここでは、都市の中産階級的な生活こそが正しい!という「大前提」のリベラリストの傲慢さ、マジョリティの冷酷さが激しく感じられる気がしました。少なくとも、2020年の民主党共和党の大統領選挙での大激突は、「これ」が背景にあるわけで、それに対して敏感さがないというのは、アメリカではありえないと思います。ただ物質的に恵まれている都市の中産階級になるために「資本主義の最底辺の機能の駒で労働力を切り売りする人生にエントリー」するのが、本当に幸せかよ?って。

アイデンティティと一体になっているものを、簡単に一部分だけは解体して変えることはできないところが難しい

これ、難しい問いかけだと僕は思いました。なぜならば、このBe a man!(男らしくあれ!)の同調圧力と、オグララ・スー族の馬とともにあるアイデンティティは、重なっているものなので、都合よく櫃だけ抜き出して帰るというのがむずかしいからです。キャンセルカルチャーに代表されるような、ポリティカルコレクトネスが、正しく左翼の末裔なのだと思うのは、「一部分だけ人工的に考えて」それを変える為ならば、その他はすべて専横したり皆殺しにして、一旦更地にしてしまってもかまわないという激しい暴力性があるからです。これを、若い、女性の、しかも中国人のChloé Zhaoが作っているところに、凄みを感じます。彼女を評して「マイノリティに寄り添う視点」といいますが、まさに「寄り添っている」のであって、人々の生きる「生」がそんな単純じゃないことをまざまざと見せつけてくれます。

■これを底辺ととらえるのか、それとも豊かなオグララ・スー族の馬ともにある人生ととらえるのか?の難しい二択

しかしながら、主人公のブレイディ・ブラックバーン(ジャンドロー)の生活をどう考えればいいのだろう?。というのは、物質的な視点、「白人中産階級の都市生活者」の視点で考えると、最底辺も底辺ですよね。多分、これを告発して否定するというのがリベラル的な視点になるんでしょう。その視点で見ると、彼は教育を受けに外に出ていくか、仕事を探して居留地を出ていくのが正解になってしまうでしょう。『Songs My Brothers Taught Me』が、まさにそういう話です。しかしながら、それはすなわち彼らが、「馬とともにあり」「綿々と親から同胞から伝えられてきた」生き方-----アイデンティティが消滅するという意味でもあります。つまり、ちゃんと物質的な生活の豊かな世界に行けという話は、アイデンティテェイを殺せ、消せということと同義なんです。これ近代化とともに消えていく「その土地に住むことであるアイデンティティ」や「近代的な都市生活にフィットしない慣習」をどのように考えるかという大きなテーマと結びつくと思います。僕は、2011年の傑作台湾映画『セディツク・バレ』を連想します。

なぜ、こうした首狩りなどの野蛮な行動が美しく見えるか?と問えば、それは、そこに明確な信仰と尊厳に結びついた世界観が存在するからだ。異世界ファンタジーを描くときに、そこでのセンスオブワンダーを感じられるかどうかのポイントは、その「異なる」世界の異なる宇宙観を描けるか?どうかだ。もう少し言えば宗教、信仰が描けるかどうか?。どういうことかといえば、、その社会の持つ優先順位価値の体系が、我々の文明社会と明確な差を持って描けるかどうかが一つのポイントにあると思う。

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また、この文脈でアメリカのものであれば、有名な2009年のジェームスキャメロンの『アバターAvatar)」ですね。『セディツク・バレ』を、洗練化したというか、「怖さ」を抜いたような脱色した感は否めないですが、同じテーマだと僕はお考えています。この文脈で、全部見同時に連続で見ると、描き方の違いが、受ける印象の違いが面白いですよ。日本人にとっての『セディツク・バレ』と同じをアメリカ人でいうならばたぶん1990年のケビンコスナーの『ダンス・ウィズ・ウルブズ(Dances with Wolves)』に当たるのではないかと思います。

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同様にこの文脈で、転載、沢村凛 さんの小説『ヤンのいた島』をおすすめします。沢村凛 さんは、マイナー?な感じがしますが、読む小説すべてが、とんでもない傑作です。解説もったいないので、だまされたと思って、読んでみるのを進めします。『The Rider』の文脈ではないですが、沢村凛さんなら、まずは下記がおすすめです。素晴らしいセンスオブワンダーを感じられる骨太のファンタジーです。

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アメリカがアメリカンドリームで上に上ることもできるけど、いきなり最下層に容易に落ちやすい競争社会である恐怖

さて、せっかくなのでも一つの視点。

かなりの貯金をしていても、職を失ったり、病気になったら貧困層に転がり落ちるのがアメリカなのだ。

cakes.mu

僕がいつも尊敬してモニターしているアメリカ鵜っちゃーの一人である渡辺由香里さんが『ノマドランド』に寄せた記事で、最もなるほど、と思ったのは、ここ。アメリカというのは、医療保険がほぼない社会なので、いったん大きな病気をした瞬間に、「人生が積んでしまう」というのが、日本人員はどうもわかっていない。「この前提」を理解していないと、アメリカに住む人のと生活実感のスタート地点が、わからない。これは、僕は、『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』を説明するときに強く強調した部分です。

この辺りの大病してしまうと、破産して、本人も、残された家族も、地獄に落ちるのと同等の貧困層に転落してしまうリスクが、中産階級の普通の生活している人にさえ常にリスクとして隠れているアメリカの構造を実感しないと、なぜいきなりこんなにウォルターが追いつめられるのかはわからないでしょう。マイケルムーア監督のドキュメンタリー映画の『シッコ』などを補助線おすすめします。ちなみに、アメリカにの保険制度を知れば知るほど、日本やフランスの公的保険が、いかに良くできているのかと驚きます。さすがに、アメリカの医療保険をめぐる構造は、ひどすぎると思います。「これ」一点で、アメリカが成長しているから、日本を出てアメリカに移民したりすべきだ!みたいな能天気な議論は、単純には成り立たないと僕は思いますよ。これ、全然貧乏人とか貧困層の話じゃないですから。それなりの中産階級でも、即日ホームレス、破産に叩き込まれて生活できなくなるリスクが常にあるんですから。だからグローバリズムの負け組のラストベルトの中年白人男性層が、死亡率が劇的に上がって(確か先進国中へ平均寿命が下がっているのなんてここだけだったはず)、トランプさんを支持して政権が誕生しちゃうのも、この背景の切実な苦しさ、今目の前にある貧困をみないとだめなんですよ。総論としては、オバマさんや過去の民主党医療保険改革の理想はみんな認めていると思うのですが、しかし、実際は共和党との妥協の中で、医療険はオバマケアのせいでめちゃあがって、さらに生活は苦しくなっているのが実感で、本音のところでは、オバマケアのせいで生活がさらにひどくなったと、凄まじい恨みと不満を持っている層が厚くいるように僕はとても、周りの友人の話を聞いていて思います。理想は否定できなくとも、それで実際の生活がめちゃくちゃ悪くなれば、本音で人は、そんなの許容できないものだともいます。寛容さは、経済のパイの拡大があってはじめてなんだ、としみじみ思います。


ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン1-2 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督  みんな自分の居場所を守るためにがんばっているだけなのに 
『ブレイキング・バッド(Breaking Bad)』シーズン1-2 USA 2008-2013 Vince Gilligan監督 みんな自分の居場所を守るためにがんばっているだけなのに - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

また、アメリカの「格差が激しくある社会に生きること」と「最下層に容易に落ちやすい」という社会の前提を踏まえた上で、「格差」をどう考えるか考えてほしいのです。そのラインで、テイラーシェリダンの新フロンティア三部作を見ると、アメリカ映画やドラマ-----だけでなく政治が全く違って見えてくること請け合いです。

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とりあえず、参考の記事等々をいろいろのっけておきますので、おすすめです。何かを見るときは、文脈や背景知識をリンクさせると、面白さが数十倍に膨れ上がるとペトロニウスは考えています。

■参考

ブレイキング・バッド カテゴリーの記事一覧 - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために

ノラネコの呑んで観るシネマ クロエ・ジャオの世界「Songs My Brothers Taught Me」と「ザ・ライダー」

ノラネコの呑んで観るシネマ ノマドランド・・・・・評価額1750円

ザ・ライダーのノラネコの呑んで観るシネマの映画レビュー・感想・評価 | Filmarks映画