名前の由来〜ペトロニウス(Gaius Petronius Arbiter、27年 - 66年)

ペトロニウス(Gaius Petronius Arbiter、27年 - 66年)は1世紀の帝政ローマ時代の文人。『サテュリコン (Satyricōn)』の著者とされる。皇帝ネロの寵愛をうけて宮廷に仕え、また60年から61年までビテュニアの属州総督を務め62年に補欠執政官となる。後に親衛隊長官のティゲリヌスに中傷されて66年に自殺を命じられた。

歴史家タキトゥスが『年代記』16巻18 - 19節にわたってペトロニウスについて記述している。

ガイウス・ペトロニウスについては、生前までさかのぼってもう少し眺めてみたい。なにしろ昼日なか眠って、夜を仕事と享楽に生きた人であるから。他の者なら、さしずめ精励恰勤によるところを、この人は無精でもって有名となった。資産を食いつぶした人によく見かけるような、大食漢とか放蕩者としてではなく、贅沢の通人として世に聞えていた。彼の言うことおこなうことは、世間ばなれしていて、どことなく無頓着に見える場合が多かっただけに、いっそう快く、天真爛漫な態度として受けとられた。それにもかかわらず、ビテュニアの知事として、ついで執政官として彼は精力家であり、そしてそのような任務によく耐えうる人物であることを証明した。それから後、ふたたび悪徳の生活にもどり、というよりも背徳者をよそおって、ネロのもっとも親しい仲間にはいり、「趣味の権威者」(elegantiae arbiter)となる。こうしてあらゆる歓楽に飽きたネロは、ペトロニウスがすすめるもの以外は何も、心を引くものとも粋なものとも考えなくなる。これがティゲリヌスの嫉妬を刺激した。ペトロニウスを競争者と、いや快楽の知識にかけては優越者と見てとった。それで彼は、その前にはあらゆる情熱も膝を屈するもの、すなわち元首の残忍性に訴えた。「ペトロニウスはピソ(ネロの暗殺をくわだてた犯人)の共謀者スカエウィヌスの友人でした」と非難し、証人として、ペトロニウスの奴隷を一人買収する。その他の奴隷はみな牢獄に閉じこめ、主人を弁護する手段を奪った。もうこうなってからは、ぐずぐずと不安や希望をのばすことに我慢できなかった。もっとも、一気に生命をやっかいばらいしたのではない。血管を切ってから、気の向くままに流れ口を閉じたり開いたりして、そのあいだ、ずっとペトロニウスは友人と閑談する。それは真面目な話題ではなかったし、そうした話をして沈着冷静の名声を求めようともしなかった。彼が耳を傾けたのは、霊魂の不滅とか哲学の教義などを説教する人にではなく、ばかばかしい歌やふざけた詩句を興ずる人に対してであった。奴隷のある者には惜しみなく物をほどこし、ある者には鞭を与えた。饗宴の席につくと、眠気をもよおすままにまどろんだ。強制されたとはいえ、できるだけ自然な往生をとげたように見せたかったのである。遺言付属書の中にも、死に臨んだ人がたいてい陥るような、ネロとかティゲリヌスとか、そのほかの権力者に対するあの妄言を記さなかった。それどころか、ネロの破廉恥な行為を、彼に汚された少年や女の名とともにあげ、一つ一つの愚行の新奇な趣向を詳しく述べ、それを封印してネロに送った。それから彼の死後に犠牲者をつくるため使用されないように、自分の指輪(認印にもなった)を壊した。
タキトゥス年代記』16巻18 - 19節
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A6%E3%82%B9

映画『クオ・ヴァディス』の描写や、塩野七生さんの『ローマ人の物語』を読むと、このガイウス・ペトロニウスという人が、趣味人で歴史に名前を残すと同時に、執政官(当時のローマの最高行政官)などの重職も耐えうる有能なテクノクラートであったことがわかる。こういう人、こういう生き方っていいな、と憧れます。