『漫画をめくる冒険』 泉信行著 それは誰の主観(プライヴァシー)か?という問いから始まる知的スリラー

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http://www1.kcn.ne.jp/~iz-/pfp/gtoltb_01.htm
(僕的主観:★★★★★5つ)

「ピアノ・ファイア」のいずみの(イズミノウユキ)泉信行氏の現時点での集大成の一つである『漫画をめくる冒険』を読ませて頂いた。

ちなみに、中身を読めばはっきりわかるが、このタイトルの「めくる」は、誤植ではありません。まさに漫画が「めくる」という動作を伴う形状をしたメディアであるところからこのタイトルが選ばれています。秀逸です。

ゲラの段階から読んでいるので、驚きはないかな、と思っていたのですが、こうして本の形で「実物」が出来ると、なんだか感動します。ここで記事にとり上げさせてもらうのですが、これは仲間内の同人誌なので、たぶん僕がこれを受け取った時点(ということは3月初旬)で、日本全国でこの本を手に持つ人は12人*1しかいないはずです。


なぜこんなこと書くかというと、友人の特権として、この本を日本全国で最速で読め、手に取れた、ということを自慢したいがためです。きっと、この本を読みたい!と思う人は多いでしょうが、まだ売ってないもんねー(笑)と、調子に乗って自慢したいのです。これはまだ上巻ですが、下巻の執筆が期待されます。上巻は、5月の文学フリマまで販売予定で、その後同人誌専門店へ委託する予定とのことです。だからまだ時間がかかるでしょう。


・・・これほどの画期的な作品*2は、コマーシャルベースの出版物として全国で流通されることを切に願います。友人だ、という理由だけではなく、一人の漫画好きとして、もっともっと深く漫画を楽しむ方法が広がり、そして日本が世界に誇る文化を理論的に解明していく最前線の武器としてたくさんの人が汎用的に使えるように、です。


ちなみに、複雑な事象が平易に噛み砕かれていてることと豊富な事例から考えて、誰にでもわかるように書かれている点*3がこの本の凄みで、基礎理論としての価値以外に、商業ベースの価値が十分にあるものだと僕は感じます。明らかに、面白いです。エンターテイメントという意味で。最終のくだりは、鳥肌ものです。良い文章がすべからくそうであるように、まるで物語を読んでいるようなダイナミックな知的スリラーを味わえると思いますよ。しかし、、、、理論的な話がメインで概念の整理や再構築にもかかわらず、なんでこんなに面白いんだろう・・・・不思議な気がする(苦笑)。


・・・再度すべて読み込んでみると、よくぞここまで、、、と個人的には、アイディアの初期段階から話を聞いているので、なかなか胸がいっぱいになります。ウェブ上で『ネームの文法』が2006年の6月頃に公開され、その直後に「視線力学の基礎」がユリイカに掲載されたのですが、僕が彼と出会ったのがその直後ぐらいなんですよね。友人として、彼に作品論等で個別に論じるのではなく基礎理論の領域を追求して、必ず形にすべきだ、と偉そうにも強く勧めた一人でもあるわけで、それをこうも見事な独創に仕上げた氏には、感動します。特に、伊藤悠さんと、確か池袋の居酒屋で、これ絶対に形にして世に問うべきだよ!と酔っ払って語っていたことを今でも思い出します。確か『スクールランブル』が高踏的でさっぱりわからんから講義してほしい!(笑)と頼み込んだ時だったと思います。僕が関西に出張時にほぼ徹夜明けの朝、喫茶店スクランの話を何時間も説明してもらったのも、なんだか思い出すと美しいエピソードだなぁとか思います(笑)。結果に結実することは、本当に素晴らしい。


もともと彼のブログや仲間内の漫画への熱い語りなどで、アイディア、作品論や断片の記事として出ているのだが、作品論的なものは、ともすれば個人の「感想」の域を出す、それは社会的なもしくはアカデミズム的な意味では有用性を持たないので、仕事としては一段低いもののように僕は感じてしまいます。しかしながら、具体個別な事象の積み重ねを、抽象度を上げて理論化するという知的行為は、非常に特異な才能のいるもので、それを為すのは難しい。ましてや漫画論の領域は、いまだ未熟な領域で、基礎的概念すら定まっていない領域です。日本が世界に誇る文化あるにもかかわらず、です。また漫画論の領域は非常にマーケットとしてはパイが小さい*4わけで、アカデミズムの援助がなくば、理論的なものを追求し続けるのはとても困難だと思います。だから在野の立場で、こういう本が出ることは、素晴らしいことだと思います。



■知的興奮を味わえること〜明快な論理で、複雑な事象が明らかになっていく

映画理論における「半主観的映像」の概念を引きつつ、「客観的な映像を主観化」したものであるこの「半主観的映像」が、キャラクターの眼の位置から見た映像としての「主観ショット」以上に、「キャラクターと観客を同化させる上で効果的である」ことが多いことが、確認され、ここから、漫画における主観性の表現が論じられていくことになります。


要するに、その場面で視点人物となる当のキャラクターがコマの中に描かれいても(つまり、視点人物の眼の位置から見られた絵ではない)、そのコマの絵は、基本的にそのキャラクターの主観のフィルターを介して捉えられた絵である、ということがありうるということですね。


宮本大人のミヤモメモ
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20080316

文字だけで見ると分かりにくいが、豊富な図の事例を見ながらだと、たぶん感覚的に一発でわかると思う。ちなみに、この「半主観的映像」の概念もそうだが、「ネームの文法」の視線力学やスクランの対比構造のアーカイブ化などの作業だけを断片で見ると、それは技法論なのではないか?*5、という疑問を素直に見ると感じてしまう。

いずみのさんがやっているのは、要するに新手の技法論ではないか、という疑念を持っている人の心配も、この一冊で払拭されると思います。


宮本大人のミヤモメモ
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20080316


宮本さんの解釈と合っているかはわからないが、マンガ全体の仕組みやあり方を考察するというよりは、局所的な一部の技術について論じているだけではないか?という、いいかえれば全体ではなくて、ただの部分(それも局所な)の話なのではないですか?という疑問が起きやすいというのは、いま現在発表されているものだけで考えれば確かにそう思う人もいるだろう。実際に、僕も、視線の力学のベクトルの概念やスクランの対比構造の話「だけ」を聞いたときは、基礎理論として有用とは思っても、部分にしか過ぎないよなーと疑問に思ったものだ。


が、それは杞憂なのは、この本を読めばわかると思う。とりわけ、最終的に第二章「それは誰の主観(プライヴァシー)なのか?」の最終の「すばるのつれていく世界」では、彼の見つけ出した基礎的な道具立てが、ある一つの次元に集約されていく知的スリラーを味わうことになるはずです。そうか、泉信行氏の表現したかったことは、「これ」なのか!ということが、ヴィヴィッドに伝わってくる。まるで、ダンサー宮本昴が、凡人の観客をゾーンと呼ばれる選ばれた人間しか体験できない超感覚と集中力の領域に連れ出して、体験させてくれるように。いや、本当に見事です。まるで、僕は、スバルにとんでもない世界に連れて行かれる呉羽真奈のような気分になります。


・・・少し先に行き過ぎましたが、ミトリによる映画理論の「半主観的映像」の概念から導き出される漫画表現における主観性のありかたをベース*6に、ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』などで有名な文学の実験的理論であるストリーム・オブ・コンシャスネス(Stream of Consciousness)の技法が、漫画では非常に容易に実現できるという部分は、キタキタキタぁ的な気分になりました。本来文学では、視点の切り替えというものは、読者を混乱させるため強いタブー視をされているが、これが本に載った漫画ならば、一転して読み解きやすいということになります。

漫画はそれだけ柔軟な伝達能力を備えているということですが、この柔軟さにかけては、マンガは小説を上回るだけではなく、おそらく映像メディアをも超えると考えてもいいでしょう。<本に載った漫画>は、「複数の情報を並べて物語を展開する」という表現において、何よりも適した形式を備えたメディアです。読者が自由に視点変更の瞬間を読み返して確かめることもできれば、ページをめくるテンポを自由に調節できるという点で、<本に載った漫画>にすぐるメディアまだ他にないように思えます。


p135:第二章「それは誰の主観(プライヴァシー)なのか?」/”ストリーム・オブ・コンシャスネス”より


まだ流通していないものなので、これ以上書きませんが、何が面白いかっていうと、この本がアカデミズムの中から出た「わけでもなく」、アカデミズムに向かって書かれても「いない」が故に、漫画を大好きな「僕ら」に向かって書かれていることだと思います。泉信行氏自身、漫画を深く愛する人で、より深く漫画を楽しみたいが故に見つけ出してきた「読み方」であって、これを読むとより深く漫画を、物語を体感できることになるのは間違いありません。

何はともあれ、この本が、少しでも早く、少しでも多くの人に、読まれるようになることを、強く強く願う次第なのであります。


宮本大人のミヤモメモ
http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/20080316


僕もこれに、強く強く同感です。

できれば、マンガの奥深さが、その奥にある最高にエキサイティングな楽しさが、たくさんの人に共有されるように!。

*1:チャットで話している時に、直送したのは12人のみといっていたので。

*2:宮本大人氏も書かれているが、「伊藤剛さんの『テヅカ・イズ・デッド』の「次」を切り開いて見せてくれる画期的な仕事」との評に僕も同感です。http://d.hatena.ne.jp/hrhtm1970/

*3:通読して感心したのが、物凄いわかりやすい点。はっきりいって、定義における誤解が起きようがない。通常、人文系の文章には、難解で言葉をこねくり回し、語彙の定義が取りようによっては変わってしまうことが多いのですが、普通に文章が読める人であれば、誤解しようがない明晰さと平易さが、素晴らしい。

*4:そもそも漫画論は、本としては売れないそうです。ヲタク向けの本が、ヤンデレ大全とかのムック的なモノばかりで、知的な領域ではあまり本を買う人がいない。そうなると、在野で研究することは、非常に難しくなってしまう。本を出しても儲からなければ、アカデミズムに所属する以外に研究する方法の選択肢が極端に小さくなるのだ。

*5:ようは、取るに足らない枝葉末節の一部の技術に焦点を当てた話なのではないか?という疑問。こういった物事の理論化を行う際には、それが全体なのか?部分なのか?という議論は常に疑問視されるものです。
http://t3303.ifdef.jp/negima_log06.html#0617
http://t3303.ifdef.jp/negima_log06.html#0619

*6:竹内オサム氏の『マンガ表現学入門』で、なかなか理解できなかった視点の同一化の問題は、ここであっさり乗り越えられていると僕も思う。