物語を「批評」するときの姿勢について

まあ、それはそれとして簡単な事のようで意外にこれ(何を作ったかを汲み取る努力)ができていない。あるいは意識できずに批評をする人が多いようです。その原因は「ショートケーキの味わい方しか知らない」か「とにかくショートケーキ“だけ”が大好き!」という事があるのでしょうけどね。しかしだからと言ってカレーライスに対し…


「何だこれは?全然、甘くないじゃないか!?液化してしかも茶色で汚らしい!第一、いちごが乗っていないじゃないかぁ!!!」


……とショートケーキとしての批評をするのはかなり的外れである事は分かると思います(笑)こういう事って、よく見かけるし、自分の心当たりも無きにしも有らずじゃないでしょうか?(笑)まあ、これは“おたく”としては恥ずかしいのですね考え方の出発点が間違っている事に気がつかなければ、その人にとっては全て正論にしか思えないわけで、その事を理解するまでは相当長い事迷宮をさまよっているだろうし、自分は迷宮にいる事にさえ気がついていないワケです。…というよりカレーをショートケーキとして批評する人が、実は一人だけではなかったりするもんだから、世界が狭いとカレー=ショートケーキ論がまかり通っちゃったりするからさらにキツいんですけどね(笑)しかしそれは結局、狭い世界の出来事で、これを回避・緩和するには、そういう事があるという意識を持つ事に限るワケです。だから「創り手が何を創ろうとしているか?」を汲み取る意識を持つことは批評の基本といえます。

批評について「カレーとショートケーキ」編/今何処(今の話の何処が面白いかというと…)
http://blogs.yahoo.co.jp/ldtsugane/7261777.html

漫研のLDさんのブログで、彼の批評スタンスが、語られているのですが、いやーこの比喩は、とっても上手いって僕は思いますね。あのね、人ってのは、幻想で生きている生き物で、「自分の視線」という思い込みから解放されるのは、本当に難しい。これの大きなものが、僕は、ナルシシズムの檻と呼んでいますが、こういうことに自覚的でない人と話すのは、ほんとうにつかれる。

これは、ビジネスの場でもいえることで、よくビジネスがまともに動いているところでは、


何がファクトか?


ってことが、凄く重要視されます。議論や情報を分解したり分析したりするときに、それぞれの「素材」が、ちゃんと事実に基づいていて、主観が混ざっていないかどうか?という部分がシビアにより分けた報告が出来ないと、聞いている上司は本当にイライラします。「〜と感じました」「〜と思いました」…とか語尾がつくと、それだけで聞く気もなくなります。


「お前が感じたことなんていらねーんだよ!」


って、思うからです。議事録やレポート出張報告書で、最後に「所感」などの個人の感想を書く部分が別にあるのは、そもそもファクト以外は普通は書かない、という大前提があるからなんです。このへんの物事の主観と客観を分けて他人に報告する・・・・見たものから「個人・主観の感想を出来るだけ排する」という姿勢は、議論や分析の大前提なんですよね。感想などは、その次、に来る。そうでないと、書いている人が全く信用できなくなってしまいます。


ちょっと違う話にずれてしまいましたが、、、そもそも高い客観性を持って、作者がいいたかったこと、そこに書かれている演出方法などを普遍的ツールでより分けた上で、「では自分がどう感じたか?」とか、それらを総合するとどういう視点が得られるか?というステップを経ないと、なんだか、ちゃんとわかっているのかな?って思ってしまいますよね。

ちょっと話が違う方向にずれましたが、この姿勢は、本当に有用ですよね。超共感です。