『水滸伝2』 北方謙三著 国家を守る側と覆す側の戦い〜素晴らしい物語は敵の目的も同じものであったりする

水滸伝〈2〉替天の章 (集英社文庫) (集英社文庫)水滸伝〈2〉替天の章 (集英社文庫) (集英社文庫)
北方 謙三

集英社 2006-11-17
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□民を守るべきか?国体を守るべきか?〜善悪二元論を排する成熟した視点が物語にダイナミズムと複雑さをもたらす

文官による武官の統制が、蔡京には絶対に譲れない線であった。それはまた、宗建国以来の伝統といってよかった。


p133

この宋の国の為政者側の頂点に立つ男が、この蔡京だ。そして、それを裏から支える青蓮寺(CIAのような情報機関)のリーダーが、袁明だ。水滸伝の革命勢力に対する体制側の代表者がこの二人なのだ。ここ、、、を読んでいて、とてもしびれた。さすがだなー著者と思った。それは、まず良い物語を描くときに、、、成熟した世界を描くときの第一条件である、「敵対している相手側も巨悪ではなく、同じ夢を、大きな志を、持っている可能性がある」ことを描き、善悪二元論を能天気には信じない視線があるからだ。


この国家体制の描写で、王安石(確か実在じゃなかったかな…)という改革派のリーダーの後継者として蔡京を描いている。唯一梁山泊側と違う点を上げるとすれば、「民のためか、国体のためか?」という次元の違いがあることであって、秩序と平和を望むことは全く同じ目的なのだ。僕は水滸伝をいくつか読んだはずだが、このようなきちっと秩序を重視する有能な宰相としての敵側を描いたシーンはなかったと思う。また、文官による統治を重視するという視点から、CIAのような情報機関が深く根強く勢力を張っているという権力の描写は、誠に見事。


とりわけ、1巻から軍の腐敗をこれでもかと見せられている側は、「国が腐っているのだな…」と思いこんでこの物語を読んでいるはずだが、実はそれは、権力者の手のひらに乗ったことなのだ。蔡京と袁明は、わざと無能な軍の指導者を配置したり、全体として統一された軍事力が生まれないように、連係プレーが取れないように構造的に腐敗を管理しているのだ!。それは、軍閥が跋扈しやすい連邦国家である中国を、文官で統治するという政治手法では、確かにそれしかないといえるだろう。強烈な外敵が存在してさえ、一致団結するのが難しいこの国で、このバランスをとること・・・・しかも徽宗のような文化人の能天気な皇帝を抱えて、、、このような為政者側の苦悩をも描くのは、僕は、凄く好感がもてるなー。もうすっかり歴史も、水滸伝の細かいディティールも忘れているので、ハマりながら少しづつ読んでいこう。



□60年安保闘争・・・あの理想主義の左翼はどこへ行ったのか?〜民のために起こす革命を描くという使命感


どうもね、この作品の北方さんは60年代安保闘争に強いシンパシーがあって、ちゃんと成功した革命を描きたくてキューバ革命を題材に書こうとしたが、あまりに生々しくて、この話を書いた、という風に紹介してくれた人が教えてくれた。このことをバックグランドにして読み込むと、なるほど、いろいろなものがすっきりと見えてくる。つまりは、これはキューバ革命として読んでみればいいのだ!。これまで、水滸伝にはなかった、政治力学とその理想主義の根拠が原理的に描かれるようになるからだ。うむ、少しづつ読み込んでいこう。



□志だけじゃ、本当は人のつながりは血肉が通らないのだ

「いや、孔亮、おまえにゃあわかってねぇ。俺はそう州でしばらく動けなくて、その間に、安道全も林冲も行っちまった。追ってみたが、山塞の中だってよ。安道全は、兄弟以上なんだ。林冲は、血を通い合わせた友だちなんだ。この二人のためなら、命はいらねぇ。山塞にいるんなら、俺も山塞に入りたい。そのために、みんなに信用される仕事をしなけりゃならねぇんだ。志なんか、くそくらえなんだよ。それを恥ずかしいとも、俺は思っちゃいねぇ。」


白勝は、言葉では言いにくいが、なにか大切なものを持っている、と花栄は思った。それは、志と較べても、決してつまらないものではない。


「おかしなこと言って悪かった。一緒にやろう、白勝」


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浅間山荘事件やリンチ事件などを見るまでもなく、左翼が失敗しやすい最も堅著な理由は、彼らが世界を理念・論理的に捉えて、「現実の人間とは理念や論理などの言葉によって生きている存在ではない」という当たり前のことを忘れてしまうからだ。また、どんなに正しいことのであっても、仲間を裏切れなかったり、いまの現実を捨てきれない人間の保守性というものを完全に無視してしまうからだ。もちろん、そういった無知蒙昧な民衆の蒙を開くことこそが、左翼の左翼たる由縁であるとは思うが・・・・しかし、こういった「極端さ」が、革命に結びついたときに、現実の「人間らしさ」の否定におうおうとして結びついてしまう。


この反省をに立つならば、日常を捨てきれない人間の小ささや、妻を愛してしまって志を忘れてしまい、どんなにとうと宇井志でも妻を守ることに比べれば意味がなくなってしまったり、、、、戦う理由も、「志」があるからではなく、志がある奴が、友だちだから・・・・そいつのために戦いたい、、、という、そういう理由「こそ」を肯定できることが、たぶん革命を、価値あるものにする唯一の方法だといえるのだろう。革命は、そもそも「その民」を守るため、、、民の生活や生きていく関係性の日常を守るために起こすものだから、非日常を愛する革命の同志たちが生きやすい世界を作ることではないのだ、ということを描かないと、すべてはウソになってしまう、と思う。そして、こういう描写が、60年代安保などを信奉する人によってちりばめられる「革命の物語」が描かれるというのは、なかなかオツなものだな、、、とかおもいました。


いや、面白くなってきました。


ちなみに、普通ならば1週間もあれば全部読んでしまいますが、いまは、英語をコツこと勉強しながらであったり、いろいろ理由があって、物凄いゆっくり読んでいます。まぁそういう「読み」もたまにはいいよね。