TURN 11『想い の 力』アーニャ、かわいいよアーニャ(笑)〜アーニャがルルーシュの妹説の妄想でお腹いっぱい


□皇帝のギアスの問題〜記憶をいくらでも入れ替えられることが生む妄想の数々


えっと、まだ完全に妄想の域なんですがナイトオブシックスのアーニャ・アームストレイム卿が、ルルーシュのほんとうの妹なんじゃないか!?という妄想で盛り上がっています。ちなみに、根拠も整合性もないので、あくまで思い込みの幻想です(笑)。リアルタイム視聴は、こういうわけのわからん思い込みができるところが、たまらないんですよねー。ちなみに、久々に、漫研のチャットで1時間ほど、思いのたけを・・・。アーニャがかわいいっすよ、妹バンザイ!・・・と意味不明な絶叫を繰り返していただけだった気もするが・・・。いままで何となくかわいいなーとか思っていたんだけど、口で出すとなんか、あっ、ほんとにそう思っていたんだ!と自分の気持ちに気づいた今日この頃です。僕はどうも、無口な無表情の女の子に魅かれるらしい(笑)。


この物語には、皇帝のギアスの能力=記憶を入れ替えることができる、というものと、ルルーシュの母が殺されたこと、、、つまりは「閃光のマリアンヌ」の謎が、ストーリーの本筋に関わる根本の謎として君臨していて、その内容いかんによっては、ルルーシュの信じているすべてがウソかもしれないという危うい構造を常に持っているんですよね。でも、ある種ルルーシュが現実にどんどん裏切られて堕ちて行く物語、ととらえると、それはそれでわかりやすい話ではあるんですが。GiGiさんは、ハチクロと並び立つ「自虐の詩と呼ばれていました(笑)。


そうなると、やっぱり、一番のキングスベンの一つである、ナナリーが実は、自分のほんとうの妹ではなかった!という可能性が、物語上捨てきれない、、、、だって「ほんとうの弟でなかったロロ」と対をなす話になりますよね。そして、ナナリーが、ユフィの後継者となったことに加えて、そもそもの根本をウソがあってもなお、彼が、ナナリーを妹として愛せるか?というのは、重要なポイント・・・巨大なドラマツゥルギーとなるので、個人的には、そういう脚本は好きだなーとか思う。


というのはね、この11話で、CCが戦闘でアーニャにぶつかったところの追憶の3カットと、アーニャの写真のデータの中に幼き日のルルーシュの写真があることを見ると、何となくそういう妄想広がるんですよね。アーニャ好きだから、、、ですけど(笑)。とりわけ、1カット目のシーンは、ルルーシュと手をつないでいる妹からの視点でしかあり得ないでしょう?。・・・ひさしぶりに、スローモーションで調べたよ。


あっ、ちなみにことわっておきますが、完璧に妄想ですから!。


でもそうすると、、、、泣けるなー。でも、、、ロロにかけているあの優しい言葉を見れば、記憶が全て嘘であっても、嘘の世界での自分が見出した真実を正しいといいきれる強さは、きっとルルーシュにはあると思う。今のルルーシュには。ちなみに、嘘の世界であっても、そこで起きた気持ちはすべて「本物だ」というものを力強く宣言して、現実に僕らに見せてくれるのは、シャーリーの思いなんですよね。あれもね、泣けるよ。いい女だよねーシャーリー。



□学園=日常=守るべきものに敵がいること〜学園の日常という現代日本の守るべきもの集約点


この作品に限らず、日本の現代のアニメやマンガの物語のドラマツゥルギーは、「学園生活の日常の戯れ」を守るべきもの集約点としてとらえるモノが多い気がする。あくまで、ありうべく「理想化された学園生活」ではあるのだが、まぁ日本の戦後は、類を見ないほど徹底的な思想統制で平等化が熱狂的ににすすめられた世界で、、、とは言え、経済戦争で戦うだけあって現実はそんな平等なんかは本当はうその相当の競争社会だったのだが、しかし、学校空間と地方公務員の世界だけには、このちょっと気味が悪い思想統制的な「真っ白な平等の世界」が、広がってしまい・・・それが理想化の根拠(とそのねじれによる恨みといじめ)となっているという、なかなかひねたもので・・・って意味不明になったな、、、、、


えっと、ようは、日本の戦後の物語空間には、真の意味での平等な「人間同士の紐帯」を実現できる、、、経済的なものや肩書を排除した理想の空間が広がっており、その「学校空間的なもの」と「戦争の真っただ中」がストレートに結びつき、その中間の組織が抜けるという世界観をすぐ描きやすい。いまゆるセカイ系のことね。機動戦士ガンダム00もそうだし、ガンダムシリーズなんかはまさにそうだし、ネギまだって、この類型はあらゆるところに見出すことができる。このことが日本現代社会の到達点の一つで、、、、それは著しい郊外型の病理でもあるし、同時に、ナショナリティーを排除して共産主義の理想に近い再分配の論理による平等空間が持つ、一つの凄さでもある。個人が個人としてしか存在しないという役割のない世界というのも、世界中探してもそうはないだろう。。。。まぁある種の仮構ではあるのだが、、、、。


まぁその是非は置いておき、その世界に行ったり来たりする舞台演出は、日常と非日常の対比を浮き上がらせて、しかも本来は「顔が見えないはず」の敵などを同じ学園に入学させちゃうことによって、外部環境が異なったら、本来そこにいた人たちはいったいどんな感じだったろう?というシュミレートをさせることによって、戦争が行われている意味や葛藤を、個人のレベルでドラマに仕立て上げることができるというなかなかうまい仕組みになっている。


スザクや、アーニャ、ジノなんかがアシュフォード学園に転入してきちゃうなんて言うご都合主義は、まさにこの類型的ドラマツゥルギーの典型だよねー。でもやっぱりこの演出は効いている。なにが?って。戦うべき相手が、「敵という記号」ではなくて、「人格を持ったひとりの人間」として浮かび上がってしまうので、戦う意味がとても厳しくなるんだよ。こういう意味で、善悪二元論を排する一つのとても大きな見事な方法論なのかもしれない、と最近は思う。