間違ったやり方で得た結果に意味はあるのか?〜R2 第12話「ラブアタック!」

間違ったやり方で得た結果に意味はあるのか 


父を失い、その代償としてルルーシュのキスを得る事になったシャーリー。その時のスザクのセリフ“間違ったやり方で得た結果なんて意味がない”。これはゼロ=ルルーシュに向けられた言葉ですが、シャーリーもまたこの言葉によって言いしれぬ罪悪感を得る事になった。これは、第1期に繰り返し繰り返し問い続けられたテーマで、最終的にそれはルルーシュが全てを失って幕を閉じるという結末を迎えます。


 一転、再開したR2においては第8話「棄てられた仮面」で語られたように“例え偽りであっても”美しいものはある、そう信じるというテーマが上乗せされているんですね。それは本当に正しい事なのか、嘘に嘘を重ねてそれを守ったとしてそれは許されるべき事なのか。それはこの、嘘に嘘を重ねたシャーリーとルルーシュのファーストキスというシチュエーションで見事に問われる形になっています。


http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20080628/1214686298
シャーリーの恋

最近は、GiGiさんのところで予習したり勉強して、正座してテレビに向かう今日この頃です。いや、待つべき「時間」があるってのは幸せです。本当はアニメやブログなんて、やる余裕全くないのだけれども、、、とりわけ休日にきょうは特に、、、でも、こういう風に時間がないところで、ほっとする時間もない時に、ほんの20分だけでも、待っていたもを見ると本当に心が、、、何というか喜びが倍増される。身体もわかっているんだと思う、「今この時しかないのだ!」ってことが。気合い入れて体に取り込もうとするし。・・・この感覚って、リアルに追いまくられて、現実の大変さに迫られている人にしか、なかなか伝わらないと思うのだろうけれども、、、それに、なんというかな、余裕がないので文脈を追ったり類推すらできない場合・・・また普段のリアルの課題や「しなければいけないこと」が心の比重に深く重く乗っている時に、、、そういう時に見る、現実を超えるようなファンタジーは、本当に心を解放してくれる。


非日常の戦争などに生きる人にとっての、「日常」や「学園の等身大の人間関係」というのは、たぶんこういうものと同じ効果をもつんだと思う。つまりは、ルルーシュが、アシュフォード学園やシャーリーに感じる感覚って、こういうものなんだと思う。日常と非日常は、ある種の戯画であって、そんなことあるわけねーだろの物語のご都合主義なんだけれども、この落差がもたらす人の感覚というものは、本当に大きなものがある。


ちなみに、「逃げることによって得た力もそれは自分が得た力だ」と僕はいつも思います。けど、この物語は、そのことの「深さ」を追求しているのです。それは「償うことのできないほどの罪」を犯した時に、それでも人は前に進めるか?・・・それを、どのように乗り越えるか?・・・です。たとえば、唯一の愛する女性の父親を自らの野望のために殺してしまった時、、、、そのことは、どのようなマクロの理由があろうと・・・マクロ的には正当化できようと(まさにしなければいけないことであろうと!)、それをしてしまったら、関係性は終わりです。けど、、、それでも、、その関係性が、その人が好きならば、大事ならば、いったいどうすればいいのか?。これってのは、「罪」に対する、、、、、現実は、「そこで終わり」ではなく、「続いていくものだ」ということを踏まえた時に、いったいどういう償い・・・・この言い方は嫌だなぁ、、、犯したことは償えないのだ・・・けど、、どう乗り越えるのか?。なぜならば、スザクを王と呼んでいたのですが、プロセスが「正しくなければならナ」というのは正論であって、しかし、プロセスを正しい形にすると、マクロの大きな変革は絶対に成し遂げることができない!という非常に悲しい現実の法則があるのです。これは、グランドルールといってもいい。もちろん、ときにはこのすべてのグランドルールへの挑戦者たちの屍を乗り越え継承して、すべてのプロセスを正しく踏まえ結果を出す存在がいて、、、それを、LDさんいわく、「王」と呼んでいますが、、、それは特異点で、そんなことは普通の人間には、100人いたら99人にはできないのです。もちろん、ルルーシュのような普通の人には、それはできません。けど、ではどうする?。この正しいプロセスを絶対化するときに、世界の変革はなせない・・・いいかえれば「どんなに過酷な現実でも受け入れて、我慢して生きていくしかない」のです・・・・仮に妹が、、、ナナリーが死んでも・・・ね。




これって、見てみたいテーマです。王としてのスザクがあまりに英雄的で、非現実的な凄いテーマと考えると、このテーマはとても、現実的なテーマです。ちなみに、今回のテーマは、なるほど情報圧縮のパターンで、アニメの『時をかける少女』の完全にパロディになっていますよね。このシャーリーの恋は、1期からですから実に、、、1年ぐらいの置いておかれた伏線ですが。テーマと課題は、まったく1期のままなんですが、その試練を受ける側のルルーシュが全く違う人間になっていますよね。・・・・これは、時かけと同じテーマで、個人が、、、一人の人間が、ある種の「曲げられない世界のルール」・・・を、恣意的に曲げて、個人の人格を踏みにじるという行為に、個人が耐えうるか?という問いです。いや、それが大事な人で、ちゃんと人間だと認識できていれば、もちろん不可能です。時かけの主人公は、その巨大な重責に耐えきれませんでした。理由は???・・・一番の理由はマクロの志がないからです。個を省みないほどの何かの価値にコミット(=志を持つ)しなければ、人間は、自分と同じ重さを持つ個人の人格を踏みにじり抹殺する行為に耐えられないのです。・・・そして、ルルーシュは、その志・・・マクロの志を持っています。けど、彼にとって、シャーリーは日常の象徴であり、そして等身大の彼を愛してくれ、そしてルルーシュもまたそのひた向きな誠実さを深く愛している・・・そんな個人と、、、どう向き合うか?、この状況で!というお話です。


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守るべきもののために全てを捨てて影となる


 この、守るべきもののために己を捨てて影に徹するという生き方をしている人物がコードギアスにはもうひとり居て…それはカレンの母なんですね。娘との約束のために己を後妻の住む屋敷のメイドとして生きるカレンの母と、ルルーシュを守るために己を捨てて黒の騎士団の一員となる咲世子。まさに目的のために手段を選ばない生き方の極地とも言えそうです。この2人の最大の違いはその能力…性能差なわけですが…もしこの2人が対比だとするとなかなか厳しい話だなと思いますが、はたして。

http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20080629/1214694086
咲世子の行動原理


これ、、、、泣けるので、心にとどめておこう。カレンのテーマは、これ抜きには語れまい。