『天使が見た夢 LA VIE REVEE DES ANGES』 エリック・ゾンガ監督 なにを信じて生きていくのが、自分を支えるのか?

天使が見た夢天使が見た夢
エロディ・ブシェーズ

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評価:★★★★4つ
(僕的主観:★★★★4つ)


■なにを信じて生きていくのが、自分を支えるのか?


エリック・ゾンカ監督。41歳の男性。・・・えっえ?そんなオヤジが、こんな繊細で切ない二人の少女の心を、「ここまで」描けているの?。うえーさすがフランス、とちょっぴり唸ってしまいました。いや、なにがあるというわけでもないヨーロッパな感じの映画なんです。ヨーロッパは、既に経済の最盛期を過ぎて、長期的で構造的な不況がもう100年近くも続いている地域で(アジアやアメリカの発展のほうが例外)そういった日が沈みっぱなしの無味乾燥で、明日に希望をもてない世界で「どうやって生きるか?」が、重要なテーマになっています。日本社会も、このへんの斜陽の成熟が、よくわかる社会になってきましたよね。ニートワーキングプアの問題が焦点があてられるのは、日本がGNP2〜3%とという高度成長を目指す社会だから、おかしく見える現象であって、100年以上前に斜陽を迎えたヨーロッパでは、「そういう物質的な条件」「夢も未来もない環境」で、それでも満足して、この砂を噛むような人生を、どう楽しんで生きていけるか?ということに情熱を傾ける社会に転換しました。この作品は、この100年続く構造的不況の中で、いったいなにをよすがに生きていくことが正しいことか?というヨーロッパ的問いを、非常に秀逸に表しており、僕はお気に入りの作品です。


この作品には、繊細な二人の女の子が出てくるのですが、Elodie Bouchez(エロディ・ブシェーズ)が演じるバックパッカーで根無し草のイザ(←このこがかわいいっ!!)が、事故で植物人間になった「サンドリーヌ」という自分には全く関係のない女の子の病院に通いつめて、とても愛情を注ぐのです。まぁ、はっきりいって、理由もわからないし、病院にいきなり潜り込んでサンドリーヌに愛情を注ぐのは、まぁ変人ですね。もう一人は、華やかなもう一人のマリー。彼女は、金持ちのボンボンにくびったけになっていく。このマリーが精神的の追い詰められるのに比較して、イザはなにかの確信を得たように心が安定していくように見えるところが、おもしろかった。



つまりね、なにを「信じる」か?という対象の選択による異なる帰結を感じたんですよ。つまり、マリーは、物質的な分かりやすいもの(男、お金、はやなかさ、遊び)に自分を依存させていて、最終的には「男性の心」に自分の心を依存させます。フランス映画らしく、もちろん、『愛の真実』なんていうものは、一切信じていません。男の心は(=女もね)移り変わるものであって、真実の愛はないのだ、ということをココでは繰り返し表現しています。マリーの存在は、日常世界に生きる倦怠感や不毛感を、これでもかと再現します。男に入れあげて、苦しんで捨てられるというのは、あまりにありがちな都市のワンシーンですね。そして、「そこ」の不毛感から抜け出す術を、ほとんどの女性は知りません。まぁココでは女性ですが、人間誰しもそうですね。


では、そんな「他人を信じることができない」ような不毛な世界で、なにを愛し、なにを信じれば、いいのか?という二項対立の問いがこの映画では表現されているように感じます。そのもう一方の問いの答えは、イザが体現します。「なんの意味もなく、なにも変動しない」植物人間の女の子へ、愛情を注ぎます。ある意味変質者ですが(笑)。これは、移り変わる人の心に依存するべきではなく、意味のないものにコミットした方が、人生は幸せになれるという監督の絶望宣言でもあるような気がします。実にフランス映画っぽい。ただそこが映画の微妙なところで、「なんの意味もなく、なにも変動しない植物人間の女の子」への愛情が、意味がないようでいて、イザの心を安定させ孤独に閉ざされていた心を、世界へと開くアクセスキーとなるさまが見えるんですね。



これは、うまい。ただ無意味なものであれば、それは日本社会が伝統的に誇る萌えやオタク文化(この行為も上記の日常の不毛感への解決手段の一つなのです)でもいいのですが、そういった趣味的な文化があまり存在しない欧米では、それが一足飛びに信仰的なモノへ飛び出すんですね。これは、たぶんキリスト教的にいえば、コーリングの体験なんだと思います。もしくはアメリカのプロテスタント的に言えば、回心(コンヴァージョン)ですね。無意味なものへの仮託を通して、世界全体との感覚をチューニングする・・・って難しいなぁ、それわ(笑)。なんか、ちょっと宗教的で好きな表現ではないですが。



・・・・・・えっと、順を追って説明すると、イザは、意味のないものに、コミットしてがんばりますよね。別にそれで女の子が助かるわけでもないし、ほとんど功利的(=トク)という意味では、意味がありません。けど、彼女は不毛な、金や男の世界には、行きません。いっても意味のないことを知っているから。だったら、無駄に生きないで、「何かを真剣に一心不乱に思い込む(=集中する)」ことを選ぶんです。



この一心不乱に集中する行為



これは、オタクでもマザーテレサのようなボランティアでも、「何でもいいのです」。ただ、集中する、あるものごとへ自分をコミットすると、その対象があればその対象に左右されますが、その対象に意味がない場合には、「集中する行為そのもの」に意味が発生してきます。えっと、これってキリスト教でいう祈りとか、仏教で言う座禅の悟りの行為に似ています。科学的に云えば、ランナーズハイのような、過度の集中によって脳内のエンドルフィンが放出されたりするもののようなもので・・・・・ってどんどん難しく(笑)これって、僕はコリンウィルソンの「至高体験」というマズローの心理学を下書きにした著作のパクリです。興味がある方はどうぞ。

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えっと、話を戻すと、ようは、そうした過度の集中によって満たされる心理的充実感中で、いままで感じ取れなかった感受性の扉が開くことにより、生きるのが楽になる・・・・というプロセスが、この作品は、よく描けているな、と思ったのです。ここは、僕の憶測で解釈していますが、イザとマリーで、なぜイザが、「そういう選択」をしたがゆえに、心が充実して幸せそうになっていくのか、という疑問がこの作品のキーとなります。まぁ説明抜きで、実感として、僕は、ああイザの生き方はいいな、と感じました。


まぁ、僕はビジネスマンという、イザとは真逆のマリーと同じ都市生活、近代資本主義社会の住人として、自己実現を目指しているのですが、それは、ある種の回帰的振る舞いであって、そもそもイザのように生きることの無意味さを深く感じ入った挙句、どっちにしても無意味であるのならば、なにをやっても無意味なんで、すべては無意味なんだから、自分にとって有意味に生きられればそれでいいという諦念があって、いまの人生のフルコミットを選択しています。・・・ってわかるかなぁ?(苦笑)。