『水滸伝』 10濁流の章・11天地の章 北方謙三著 男の最もかっこいい死に様を描く! 

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評価:★★★★★星5つ スターピース(僕的主観:★★★★★星5つ)

■革命の物語としての水滸伝〜先が見えないことが胸を熱くさせる


読んでいる途中で、傑作というのはわかるものだ。北方版水滸伝は、傑作だ。日本戦後大衆小説の到達点などという美辞麗句が並ぶが、確かにそういいたくなる気持ちがわかるほどの出来だ。この水滸伝を読んでしまうと、少なくとも大元の原典のストーリーなど読めなくなってしまうよ。見事に再構成されている。もともと実はあまり魅力的な物語とは思っていなかったんだよなー水滸伝は。三国志と比較すると、国家としての「戦略」の次元がなくて、ただの英雄譚・ファンタジーとしか思っていなかった。それを近代小説のレベルまで再構成し、かつチェ・ゲバラ晁蓋)とフィデル・カストロ宋江)の二人を中心とした超大国アメリカ(=宋)へ挑戦する革命の物語に仕立て上げた時点で、現代のわれわれが読んで胸を熱くさせる偉大な物語に変貌した。


これは、自らを読書好き読書人とするのならば、読んでいなくてはもったいない物語だ。例えライトノベルとか大衆小説とかファンタジーと呼ばれようと、ああいったエンターテイメントの世界で田中芳樹さんの『銀河英雄伝説』を読んでいなければ、それはもったいないよ、普通思うでしょう?。富野さんのファースト『機動戦士ガンダム』でもいい。それとか、大河ロマンが好きならば、たとえば、『三国志』を読まないで、どうするっ?って思うでしょう?。


そういうレベルの作品ですよ、これわ。


同じように、これほどの物語を読まずしてっ!と思うよ。僕は団塊の世代Jrに当たるので、安保闘争の後の世代で80年代に青春を過ごしている人なので、そもそも革命という言葉の持ちロマンチシズムや熱さにひどく鈍感です。いや嫌悪しているといってもいい。ロマンなくして、浅間山荘事件や内ゲバの結果や政治的な達成度のあまりの低さ・・・・つまり、「意図」でも「経過」でもなく、「結果」を知っているので、ロマン(=幻想)が抱きようがないんですよ。


僕の一つ上の世代に人は、まだ革命が敗れた屈折なんかがあるんですが、80年代が子供時代の人には、もうそれはに理解不能ですよね。80年代の消費市場の爛熟期には、革命なんてルサンチマンは、意味を為さないもの。けど、僕はこの物語で初めて、革命のロマンティシズムという物語の美しさとカッコよさを知って気がします。・・・・やっぱり、成功した革命を見ないといけないのですね。今度キューバ革命を、ちゃんと勉強してみようと思います。・・・そのためには南米の政治経済や歴史を学ばないとな・・・ってちょうどブラジルへの進出を検討してマーケティングしているので、いいチャンスかもしれないなぁ。片手間ではあるが・・・。ふむ、「時」なのかもな・・・。

水滸伝』には、晁蓋宋江という二人のボスが出てきますが、晁蓋宋江ゲバラカストロの関係です。梁山泊キューバ島、梁山湖がカリブ海、層という大きな国がアメリカ合衆国という想定のもとに書いたんです。

 そうすると、アメリカ合衆国が、原典にあるような、どうにもならない国だったらこまるわけです。強力な権力の、恐ろしい部分みたいなものをちゃんと描かなきゃいけない。そういうことも考えて、かなり強力な宋という国を考えたんです。


p306 あとがき


ちなみに、いま、僕は10巻まで読んだのだが、この作品は、、、先がどうなるんだろう?って凄く不安にさせる力があって、これは小説の構成として見事だなと感じる。


というのは、原典水滸伝の結論は、「招安」だからだ。


最後は、反乱軍だった梁山泊が、皇帝に招かれて官軍になる、という筋立てだ。これは、実際にあった宋代の政治的解決方法。・・・でもね、カストロが、アメリカ合衆国に、招かれて軍の偉い人になったりすると思う?。それはありえない。この北方版梁山泊のメンバーも、強烈な反国家権力志向を持つ革命集団であって、独裁者(=皇帝)による専制政治システムなんて許せるわけがないのだ。明らかな共和制志向が、中国の専制システムに馴染むわけがない。だから、結末がさっぱりわからなくなる。ああ、読んでいて胸が熱くなる。先が見えない、というのは生きるに、楽しむにとても大事なことなのだ。

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北方謙三氏のあまりにわかりやすい「濃い」本質〜男の死に様はどうあるべきか?

なんというか、それにたぶん北方謙三という人の本質が・・・・明らかにこの人は、非常に「濃い」人のようで、その書きたい本質は見事にわかる。たぶん「男の死に様」が描きたい人なんだろうと思う。その他の水滸伝に比べると短編を読んでことはないが、これほどの見事な背景がなければ、この「男の生き様」的なハードボイルドは、僕は好きではないだろう。いや、運が良かった。この作品から北方ワールドにはいったことは。この作品は、淫する魅力があって、なめるように読んで、そのくどさ、臭さ、ウザさ・・・・を普通ならば、ちょっと斜に構えて読んでしまいがちな「熱さ」に浸っていると、それが涙が毎回あふれるほど感動するのだ。こんなに涙腺が緩むのも珍しい。志という言葉を聞くと反射的に、すかしと斜に構える気持ちが発生するのだが、それがちゃんと溶けて昇華される。これは、志が意味を持つ、マクロの背景を描き切れているから、シンプルに斜に構えることなしに没入できるんであろう。


僕は、ほんとは、志とか革命という言葉が嫌いだ。


リアルの世界では、こういった人を掌握するのに都合のいい言葉は使わせてもらうが、しかし「個人として」の人生哲学では、抽象的なビジョンに支配されて足元がおぼつかなく弱い自己を克服するのが僕の人生の命題といってもいい。言葉や志などという空虚なものでは、飯は食えない。ほんとうの意味で、人は動かない。個人としても幸せをつかめない。等身大の充実もない。それが、ぼくの実感。


こういう言葉を吐くやつらは、このことの真の深さや、日常の生活するということの大切さを感じられない、バカが多い。とくに日常の実感がないやつら、生活世界での充溢を見つけられない奴らの、逃げ道にすぎないんだ。最高のブルジョワシーになって、それを味わいつくした勝者として生きて、それでも人生を否定るすのならば、それはわかる。


が、「できないから」、ルサンチマンに凝り固まるのは醜すぎる。できて、可能な力を持って、体験を積み重ねて、、、その上で、発言するならしろ!って思う。・・・ほんとうは、めくるめくような生活世界の深さがあって、まっとうに生きる日常の世界にも、溢れるほどの豊饒さが充溢しているのだが、実存を封殺されて生まれてくる都市文明社会のわれわれには、なかなか素直にシンプルにそれを体験できない。疎外(アリエネーション)されているので、簡単ではないのは重々承知ですが・・・。等身大によほど素晴らしい家族と生育環境に恵まれれば(ってそういう家庭も多いけどね実際・・・)素直に体感できるのだが、なかなか・・・・ね。まぁでも、それでも逃げるのは、だめだ。自分の本質から逃げて幸せになんか、なれるわけはない。逃げるのではなく遠回りして異なるアプローチをする、といいかえるべきなのだ。自分は自分からは逃げられないのだから。


けど、まぁ僕のブログを読んでいる人は、僕が、会社や組織で、まるで宋江のようにビジョンを語り、志を持てと、いつも熱血まっしぐらなのことをいっている人だというのがよくわかると思います(笑)。いや、自分でもよくいうよなーとか思うんですが・・・目的論的に直線的に自分を奮い立たせて、駆り立てていないと、なんだか生きている実感が感じられなくなってくるんです・・・まぁこのへんの、等身大の実感のなさは、意識して回復に努めて、、、10年近くかかってたが、ほぼクリアできたので、最近は日常でも幸せいっぱいな感じはあるんだが・・・でも、やっぱりもともとがテオロジ・・・目的論的な生き方で自分の動機を駆動するように刷り込まれているので(三つ子の魂百までだよ・・・)そのスタイルは、もうかわらないよね。それに、そもそも仕事では、結社(アリエネーション)では目的論的なコミュニケーション手法以外に人をまとめるのは、僕は嫌だもの。目的のない組織なんてクズだ。



とはいえ、・・・・僕はそういう「志」のような言葉を並べたてながら、何一つその言葉を信じていない・・・。自分でも嫌な性格だなーと思う(苦笑)。たぶん屈折したロマンチストなんだろうと思う。物凄く夢と志に強いあこがれがあるのだけれども、だからこそ「実現できない志」に対しては容赦なく断罪する。そして小さな志、実現可能なレベルのものには、なんら魅力を感じない。王になれないのならば、死ね!とか思っているもの。基本はそこ。そして、世界を変えるような王になれなかった、、、、というかすぐになれない自分は、生きている意味がないと思っているので、そもそも「生きる価値はありません」というのが僕の人生の前提的なスタンス。



この屈折の果てに、では、このゴミのような腐った資本主義社会で、ゴミのような価値のない人生を抱えて、才能も価値もなにもない、、、意味すらもないこの身体を抱えて、僕はなにを為すべきなのか?というのが、僕の個人的な大きな問いとなる。現代文学の大きな問いである、意味も価値も失われた都市文明社会の住人が、いかに実存を回復し、持つことができるか?という20世紀の課題とほぼニアリーイコールです。現代に生きるビジョニストは、こういう問いを抱え込まざるを得ないんですよ。屈折して考えないと、ただのお気楽バカになる。夢や志にストレートにしゃべる人間は、たいていがファシストだと思っていい。自分の暗いルサンチマンを、マクロを支配して同化することで、回避する。だから、志は死ぬほど大事だが、しかし同時に最も信じてはいけないものなのだ。


生きる意味がないのならば、生きるのが苦しいのならば、逃げるか?逃げて逃げて、そこに何かがあるかも、というのも一つのソリューション。実際、僕もバックパッカーで一人で世界を放浪したのも、そういう部分があった気がする。けど、どこまで逃げても、結局、「自分」つまりは「自分を構成する生まれてからの記憶」から逃げることはできない。ならばその本質を、解決してやることしか、その本質を燃やしてやることでしか、結局は、自分は自分になれない。そして、「なにかを為す」こと「実存すること」・・・いいかえれば、自分が自分であること、そのためには、「いまその時の目の前の手触り」と「自分の本質(=それをまっとする目的)に向かってコミット」する以外に、人間にできることはありはしないのだ。そして、そういったマクロとミクロのダイナミズムが重なる人生を生きれる人は幸せだ。


なぜ、この革命のロマンチシズムの物語に、僕は何度も涙するか…それは、この作品に出てくる男たちが、夢半ばで倒れるその瞬間に、



「最高の人生だった!、真実の友と志をオレは得た!、そしてオレが死んでも「志」は未来に向かって友が引き継いでくれる!」



と、感極まって死んでいくんだ、バタバタと(苦笑)。そして、こういったほとんど全体主義ファシズムか革命か?みたいな、強制されてやったら最悪の秩序破壊行為が、ちゃんと意義のある文脈で描かれているので、普通は、、、そんなシンプルな美しい実存はねーよ、と思うようなことが、物語の世界ではあるが、見事に成立しているからだ。たぶんこんな多くの登場人物をかき分けて、小さなエピソードで、この「生き切った感!」というか、「男の最もかっこいい死に様」をばかすか書ける北方謙三氏は、この手のドラマツゥツゥルギーが本当に好きで好きで、物凄く追及してきて書きこんできたんだろうと思う。小説が上手いもの。だから、ほんとうに、いいよこれは。シンプルには、ハードボイルドや革命が、大嫌いな僕が、すげぇ!と思うのだから、見事な作品なんだともうよ。