『Fate stay night』 人を本当に愛することは、愛する人の本分を全うさせてあげること、、、たとえがそれが永遠の別れを意味しても

Fate/Stay night DVD版



評価:★★★★★星5つのマスターピース
(僕的主観:★★★★★星5つ)


■物語をより深く理解し、体感するための補助線に


この文章は、僕はとても気に入っており、きっとより深くFateの世界観に入り込む一つの大きな補助線になると思うので、自分自身も読みなおしたりしながら何度かゲームを再プレイしている。いや、本当に面白い物語だ。そして深い。何か本質的なものに届いている作品は、何度も再読に耐えうるので、それだけで人生を色鮮やかにしてくれる。けれども、本当に本質に届いている物語は、案外その奥深さを理解できていないケースが多い。これは、たくさんの友人といろいろ話しているうちに、感じるようになったことだ。もちろん、相手が全然分かっていねぇ!と思うこともあれば、ええっ!そんな見方があったのか!と驚くこともあり、そういう多視点を包含して、理解を深めていくと、一度出会ってしまった物語が不死鳥のように甦り、また素晴らしい感動をもたらしてくれることがある。そして、なによりも理解をしなくてさえ、深く喜びを与えてくれた作品を、より深くもっと寄り深く体感したいというのは、当たり前の感情だと思う。そんなより深く物語を楽しむための材料として、僕のブログの記事が役に立って、ちょっとでも、よりもう一歩の面白さを体感してくれると、僕はうれしいといつも思います。基本的には、プレイをしたことがある人を前提に書いておりますので、2回目にさらに深く理解するために、というものだと考えてください。


■物語全編を貫くイメージ〜不死性と正義の味方

いきなりではあるが、不死性とはなんだろう?。この問いは、かなり昔から追っているテーマなんですが、Fateというか、奈須きのこさんの価値観をトレースするには、この補助線なくしてたぶん理解できないと思うんですよ。死なないということは、人間を人間たらしめている「死」というものを拒否するということ。僕は、「時空を超えて物語を横断するイメージ」を解釈したい、といえばおこがましいが、明治学院大学の教授(いまでもかな?)四方田犬彦教授がいっていた言葉がとても好きで、


「物語ってのは、膨大な大衆芸能からある核が浮かび上がり、時間や国境を越えて連鎖していくもので、何がオリジナルか?という議論はできない」

というような(僕の誤訳かもしれないが)いっていたものが、お話を聞いたときに凄いイメージに残っている。これは、日本の江戸時代の歌舞伎などが、戦前のチャンバラ映画になり、それが香港映画のアクションになり、ハリウッドのアクションへと転化していく様を追った何かの映画論だったと思うが、ようは、どれがオリジナルだ、と指し示すことはできない。最良のものの核が、パクリのようにオマージュのように、その土地土地のオリジナルな意匠や物語の触媒になり、物語は作られていく、という考え方だ。さて、そういた時に、当時、中央大学総合政策学部の教授だった中沢新一先生が、現代資本主義社会で、とても興味深い世界的なシンボルはいくつかあって、その一つが、ヴァンパイアの物語だ・・・といっいたことを大学時代に聞いた覚えがある。その時は、サンタクロースの贈与もそうだ、といっていたが、その話は、既に本になった。が、吸血鬼についてはまだかかれていない。そのイメージがずっと頭の中に残っており、時折、それってどういうことなのかな?とずっと頭の片隅で考え続けている。


ある時、それは「不死性」についてが、核心なんじゃないか?と思った。


秦の始皇帝の昔から聖杯伝説に至るまで、洋の東西を問わず、不老不死を求める伝説・神話は多い。そして、もちろん様々なサブカルチャーでの不死性を求める話の、原型というのは、実はどれも似ているような気がする。たとえば、アニメーションとマンガの傑作『AKIRA』は、不老不死のエネルギーを持ったテツオは、巨大化して醜く膨れ上がった巨魁となった。この『Fate/Stay night』の凛ルート:Unlimited Blade Worksの最後も、ドロドロの肉魁と化した聖杯を、ぶった切ることでその物語が終わらされている。つまりね、不死性の帰結や正体を、どろどろの腐り果てた巨大な肉片の固まりや人間の憎悪の塊と見なすようなんだよね、さまざまな作品では。

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なんでだろうか???


人類の永遠の夢である、「不死」ってものが、物凄い醜いもの、として捉えられているってことですよね。この聖杯戦争での、聖杯は、望むものをすべて与える、とされる。この「望むものすべて」というのも、不死のアナロジーだと思うのです。


人間というものの欲望というものが行き着くと、不死性にたどり着くようです。


しかし、不死性はいったなんなのか?ということは、実はよく読み解かないと非常に理解しにくいものです。いろいろな物語・・・とりわけSFや吸血鬼ものなんかでは、この不死性の話は、よく出てくるのですが、実はこの本質までちゃんと説明しながら書いているものは少ない。たぶん、著者が漠然と分かってイメージで捉えているもので、論理的に言葉で捉えてはいないからだと思うんです。この辺の構造をよく整理できると、こういった系統の物語もっと本質的に理解できるんではないか、僕は思っています。先ほどの、醜い巨大な肉塊として最後はイメージされることが多いのにも、理由があると思うのでです。けど、なんとなく原作者は、このほうが相応しいと書いていて、それがどういったロジックを持ってそうなるのかまでは明確に意識できている人は少ないと思うんですよね。さてごたくはいいから作品論にいきましょうか。


■物語で本当に言いたいこと〜正義の味方は歪んだ欲望なのだ


この物語は、まったく同じ設定での三部作のようもので、1)セイバールート、2)凛ルート、3)桜ルートの三つで構成されていますが、それぞれに独立した物語と捉えることが可能でありつつ、世界観や設定が同一のモノをつくられて、この物語世界の本当の姿は、この3つ全てを見ないと理解できないようになっています。

その3つを俯瞰してみると、基本的にこの物語の全ての核心は、衛宮士郎という人間の救済(=サルベーション)を軸に描いています。いったいなにをどうやったら、士郎にとって救済が訪れるのか?。あんな風に悲惨な体験をしてしまった子供が、いったいどうすれば、救われたと思える日が来るのだろうか?、それがこの物語のキーの疑問提示です。そして、士郎という人格そして彼の持つ人格のドラマトゥルギーを読み解くときに、そこに不死性に関する議論が、深くセットされています。ちなみに、この


不死性


聖杯


正義の味方


という概念は、作品世界では、等価として考えられています。良い作品の基本なんですが、「常識で表層で理解されていること」を飛び越えるような概念の提示があって、それが体感できなければ、本当は物語の真の意図を理解したことにならないと思います。とりわけ、「正義の味方」という「善のモノ」「プラスもの」「望むことが個人として決して間違っていもの」を、鮮やかに「醜い間違ったもの」として転換していく様は、見事。


たぶん、奈須きのこさんの世界観には、こういった、プラスであるものとマイナスであるものが個人の中で究極に葛藤させられるというシュチュエーションこそが、人間が生きることだ!という思いがあるのではないかな、と僕はいつも思います。「不死性の醜さ」に「正義の味方」という、通常では善悪に単純に割り切れてしまうものを、全く等価なモノとして描く、奈須きのこさんに、脱帽です。



■セイバーシナリオの本質〜ボーイミーツガール・少年は少女を救うことによって自分が救われる


さて、上記の「いったいなにをどうやったら、士郎にとって救済が訪れるのか?」というグランドテーマを軸に、その本質を理解するために不死性のことを念頭に考えましょうということでしたが、それぞれの個別の3つのシナリオを作品分析を進めていきましょう。


このセイバーシナリオは、基本的に、セイバーという女の子が救済される話を描いています。ただ、難しいのは、セイバーという少女は、国家の指導者・・・国王としてのマクロの重責を担い、それを全うした英雄であって、いってみれば、シゴトとして公人としての人格が、完成されてしまっているんですね。えっと、つまり、彼女は、「選ばれし者」として、自分のプライベートの全てを捨てて、全体のために人生を捧げた人なんですね。そういう公人にとっては、個としての意味はありません。個としての価値がない場合は、女性であることも男性であることも意味を持ちません。そういう個の次元にかかわるしあわせの全てを拒否し、捨て去ることで彼女の全うした役割は成り立っているからです。にもかかわらず、そういう存在であるセイバーを、救う、ということは、救済することはどうすることか?というのがこの物語のドラマツゥルギーです。


えっと、上で書いていることが凄い矛盾のある問題提起であることが分かりますか?。


セイバー=公人として完成された存在(=個人としては存在していない!)


まず僕は、この定義を前提としています。セイバーという存在に、セイバーという名の少女の「個」は、「個人として意味と価値」は存在していないといっているんですね。にもかかわらず、このシナリオを「セイバーという女の子が救済される話」だといっているわけです。この飛躍を読み解くところが、このシナリオ読解の肝です。


■物語を理解するための基本構造の補助線〜士郎とセイバーの動機の入れ子構造を理解する


このセイバーシナリオは「セイバーという女の子が救済される話」だと上で書きました、けれども、このFateという作品の根幹には、士郎という主人公が救済されるということをの意味を深掘りした作品なんで、その上位のグランドルールが隠れているんですね。これが二重になっている、ということを念頭にこの作品を体感しましょう。僕の好きなアニメーションの『コードギアス・反逆のルルーシュ』などが典型ですが、スザクとルルーシュという二人の視点と動機を通すことによって、同じものを全く違う視点で観客に大観させて、世界の複雑さを理解させる手法で、これはどうも主観性による一人称が行き過ぎた70〜90年代日本の感情移入の形式の一つの脱皮点のように僕は感じます。

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まぁ脱線は置いておいて、ようは二つのテーマが同時に並立していると考えながら、このシナリオを眺めてほしいということです。さて、具体的にいますと、


1)衛宮士郎の子供時代のトラウマの克服


と、


2)セイバーという少女アルトリア(アーサー王)の死の直前の望み


という二つの願望が、並立しています。この二つは、まったく同型の望みで、どちらかが明確な答えを出すと、片方に強い影響を与えるという脚本の構造になっています。士郎の決断が、頑ななセイバーの考え方をひっくり返していることからも、またセイバーほどの強い意思の持ち主が意見をひっくりかえしたことに強い納得感を与えるのは、この問いの構造がとてもよくできたものだからだと思います。いいかえれば、読者にとっても、「なるほど!」と思わせる説得の構造になっているんですね。どちら側に感情移入しようとも。


基本は、士郎のセイバーへの恋心、愛情で眺めるのが感情移入としては大多数だと思います。それが、「最も常識的で平凡で当たり前の感覚」だからです。もちろん、上で書いたように、よい作品は常に「常識と思われる概念をぶち壊したりひっくり返すことにその作品の本義を置くことが多い」という読書におけるグランドルールを鑑みれば、エロゲーとして、恋愛ゲームとして、「人が人を好きになるという当たり前の気持ち」「可愛いと思うものを愛でる気持ち」の嘘くささや底の浅さを、これでもかとえぐるところに、作品としての秀逸さがあります。


ちなみに、セイバーへ最初に、「好きだ」という言葉を述べた士郎が、頑なまでに拒否されたシーンは、よく分かっているなぁ、と感心しました。彼女の誇り、彼女の人生の価値は、そういった個としての幸せを捨て去ることと引き換えに手に入れた誇りです。自分が不幸でも、まわりの人間を守りたくて彼女は、エクスカリバーを抜いたんです。だから、個としての自分を省みろ、という要求は、彼女に誇りを捨てろというのと同義なんですよね。だから、たとえ士郎を好きでも、彼女は、それを拒否するのが当然なんです。ここで、ただ単にセイバーかわいい、とか思っちゃっていた観客の心をぶち壊します。うんうん、えー作品やなー(笑)。


ちなみに、僕はここで拒否するセイバーに悶えましたよ。愛しくてねぇ。・・・・だって、間違いなく彼女は士郎が好きなんですよ。好きになる理由は、FateZeroのキリツグに扱われた対応の過去やキリツグが残しっていった問題提起と自分のテーマを考えれば、ひかれない筈がないんです。でも、誇りが、彼女の持つ本分が、それを明確に拒否するんです。なんと、なんと誇り高いって、、、そして、なんて孤独なんだって。公人は孤独です。人の上に立つということは、その過酷な孤独の全てを引き受けることこそ、なんです。こんな恋愛のやり取りの一描写で、この深さが描かれてしまう…うーん奈須きのこさすがです。

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■元に戻すこと〜世界の理(ことわり)を捻じ曲げること


さて、二人の持つ動機と考え方のベースは上記だとすると、二人の持つ動機は同形の構造をもっているということが敷衍できます。もう少し具体的に敷衍すると、二人の聖杯を得ようとする目的は、


個人にとってあまりに過酷で救いようのない結末があったとして、それを変えて元に戻そうとする意思


を持つということです。


けど、「元に戻すこと」とは、どういうことなのか?。これが士郎の正義の味方たろうとする動機の根源となっていますよね。この「元に戻すこと」ということの意味をよぉっく理解していないと、この脚本の意味や、セイバーやシロウが、決断した倫理の意味がぼやけてしまいます。僕には、閉じていくナルシシズムへ拒否という意味で、とても清々しい決断であったと思います。構造的には、

1)自分ではどうにもならない巨大な悲劇


2)それによって大切なものがすべて皆殺し、ぶち壊される


3)その悲劇に対する無力感

4)その全てに対して、贖罪意識を持つ

という構造になる。これって、スタート地点が、1)〜3)であって、これって個人にとってはどうしようもないことであって、ここを変えろとか間違っているといっても、仕方がないことです。だって、自分で変えることのできない大きなマクロの出来事を、個人が責任を負えというのはおかしな話じゃないですか。大きなは悲劇が欠落した人間を作り出すように、この二人は、個人よりも周りの人間の幸せを優先するという非常に特異なキャラクターを持っています。これは、マザーテレサのような、利己心が強烈に他者愛へ転化した、個人としては壊れたキャラクターだと思うのです。これは、イエスキリストの十字架のようなもの。なぜ、全体の罪を個人が背負わなければならないのか?って話。そのどちらも、彼らが自ら望んだことではなく、世界から背負わされた重荷であるというのがポイントです。


そう、だから、本来は「背負う必要のないもの」を背負わされているのです。


が、、、、このストーリーの難しいところは、シロウもセイバーも、ナルシシズムの世界に逃避しようとしたきっかけは、個人の欲望ではない、というところに難しさがある。個人の欲望ならば、なるほど、ナルシシズム的自己完結を抜け出すことは、倫理的にただ「正しい」で斬って捨てることが可能だ。


が、シロウは、子供時代に家族を皆殺しにされ、燃えさかる大火災の中で瀕死の重症をおい、自分以外の全ての人間が苦しみながら死んでいったことに対して強い贖罪意識を持ちながら生き続けている。セイバー(アーサー王)は、女の子でもあるにもかかわらずエクスカリバーを手に取ったため、王という非人間的な役割を全うし、自らの愛した国土と民衆のために全人生の全てを捧げ、個人としての幸せを統べてて捨てたにもかかわらず身内に背かれ、国が崩壊した。そして、それほどの自己献身にもかかわらず、彼女は自らのせいで滅びた国への強い贖罪意識を持っている。二人とも、なんら自分に責任はないことで、大きな十字架を負わされてしまっている。そういった悲劇にもかかわらず、彼らは「自分を捨てて、周りの人を優先させる」という自己否定をマインドセットしてしまっています。これって、ようは究極の「正義に味方」を志向しているんです。マザーテレサも真っ青な、純粋な正義です。自分を捨てて、世界のために生きようというのですから。


美しく見えるでしょう?


・・・・これ自体は、非常に美しい行為のようですが、これって、実はよく考えて裏返すと、とても醜い行為なんです。わかりますでしょうか?。それはね、目に見える形では美しい行為ですが、このロジックの次元で考えると、人間の「個」が「個」として存在するということが、否定されているんです。そもそも「自分が一番大事」という大前提があって、「にもかかわらず他者を、自分より優先させる」ということがあると、それは確かに美しい行為です。けど、もし「自分が一番大事」という前提がないとどうなるか?。それはね、優先順位が存在しない世界ということなんです。自分が大事、その自分を基点とした愛する人が大事という世界の混沌に対する優先順位による秩序付けがなければ、そもそも人間の個の重さや価値というものの優先順位が、失われてしまうんです。




それは、何もない世界。




究極の善意から出発した正義の味方という意識が、往々にして大量殺戮や世界の否定にたどり着くのは、このためです。マルクス主義などの、人間の醜さ(=個の価値)を否定した考え方が、収容所や大量殺戮に結びつくゆえんです。




価値の優先順位が、まっさらな世界。



それが仮にあるとすれば、人間を人間たらしめている欲望だけが、価値の順序なく混沌としている状態なんです。意味分かりますでしょうか?。つまりね、すべての人を平等に感じるということは、裏を返せば、価値の重み付けがない、すべての人がどうでもいい!ということになります。だから、それならば全員を皆殺しや消去してしまえ、という考えとは裏表なんですよ。とんでもない聖人が、とんでもない悪人に逆転してしまったり、また逆もしかりなのは、これらの聖人が、「個」というものを重視していない全体のマクロの次元の話しかしていないからなんです。ちなみに、大きな声では言えませんが、宗教の創始者、近くで見れば新興宗教創始者の履歴を追うと、とんでもない犯罪人が多いのは、このためです。行き着くところまでいかないと、聖なるものに転化しないんでしょうね。・・・・その人間が「個」としての欲望を持たなければ、世界に対する優先順位付けが消えてしまい、そもそも「個」の優先順位の闘争の場として編みあがっている人間の世界が、意味をなくしてしまうんです。これは、人間存在を固定する真理の一つだと思います。


話を戻して、シンプルに問い直すと、世界すべての不条理をその背に背負うという行為は、一見美しいように見えて、実は非常に世界のあり方に危ない形での挑戦を叩きつける。それは一歩間違うと、全能感溢れる神の志向・・・・・自分が気に食わない存在を、皆殺しにし続ける旧約聖書的なユダヤの神と同じ視点になってしまうんです。その危さを常に持ち続ける問いなんですね、これは。つまり「元に戻すこと」というのは、たとえば、大災害で死んでしまった人々を生き返らせれば、その死に涙した人や、苦しんで抜け出して新しい人生を生きている人やなどの、その後、積み重ねられた時間というものを否定してしまうんですよ。だれかの望みを、何の根拠も無くかなえるということもまた、そうです。


正義の味方は、自分が救うと決めた人しか救えない


というキリツグのセリフは、このことを深く理解した上で語られています。正義というのは、実は、ある価値観でまっ白な世界に区切りを入れることで、区切りを入れるということは、「全てを救う」という命題と両立しなくなるんです。その矛盾が、人間を苦悩に叩き落す。こう考えると、正義も悪も、そんなもの価値観という大きな概念のバリエーションに過ぎなくなります。どっちも、似たようなものなんですね。どの角度から、どの立場から見ることによって、どっちともいえていまう。これはとりわいけ仏教の説話に多い感覚ですが、人間が日常に生きるということは、それこそがすなわち悪を為していることなのだ、という理解なしに生きることは許されない、という考え方です。


この「元に戻すこと」というのは、この世界の理を、捻じ曲げることなんです。つまり、世界のあり方自体に、強制的に干渉するとことであって、ソドムとゴムラの気に食わない人々を皆殺しにする神の視点と同じ事なんですよ。そんなことは、人間がするべきことではないし、それを本気でしようとしたら、善意を出発点とした人類の壮大な実験であるマルクス共産主義が、スターリンの虐殺や収容所を、クメールルージュによる虐殺を生んだようなことにしかならないのです。アーチャーの過去を振り返れば、彼がいかに危く暗い人生を歩んできたかが良くわかります。たぶん、この志向を持った個人は、いまの時代ならば暗殺者かテロリストとして使われるしかなくなるでしょう。究極の善意が出発点であるだけに、なんと悲しいことでしょうか。ただ大きな悲劇や巨大な苦しみがその個人に、大きな十字架を負わせただけだというのに。



■究極の善意は、世界を滅ぼす悪意との裏表〜マクロの思考を抱く選ばれた者(=指導者)は、悪と善のはざまで孤独に苦しみ続ける


セイバーもシロウも、マクロ的な志向を抱いて生きています。それは、その発想の原点の善意と強い使命感は、とてもではないが否定できないくらい素晴らしいものです。


自分を犠牲にして、混乱し殺し合う国を守ろうとした少女


助けてもらった御礼に、全てに恩返ししようとあがく士郎

そのどちらも素晴らしい。・・・・けれども、それを現実の世界で貫くのは、無理がありすぎる。蛮族にさらされる国を防衛しようとしたセイバーは、軍隊を整えるために、勝つために、毎回、小さな村を枯渇させ皆殺しにするほど税を巻き上げ準備をして、敵に当たった。そのかいあって、全ての戦に連戦連勝。が、、、、そのあまりに人情の無い無慈悲な戦略に、周りの部下達は戦慄していく。それは、個を大事にしないマクロの次元の意志の下では、いつ「従っている自分自身」も切り捨てられるかわからないからなんだろうね。この部下の気持ちはわかるよ。でも、それ以外のどんな方法があったのだろう?。指導者として、未熟な国家を守るために、どんな選択肢が残されていたというのだろう。・・・・実際に彼女が身内に背かれて死んだ後、一瞬で、国は四散している。これは、指導者の孤独だ。この孤独に耐えることこそ、指導者・・・エリート(選ばれたもの)なんだと思う。が、あまりに救われないよね。


■不死性をめぐるナルシシズムとの戦い〜衛宮士郎の決断と倫理


ちなみに、二人には、実は大きな違いがあって、

1)セイバーは既に王として、その責任をほぼ全うして貫いた後


2)シロウはこれから

という違いがあります。この極端な望みが、聖杯という人間存在のありうべき姿を、飛び越えて、捻じ曲げて達成させてしまうチャンスが与えられた時に、どう振舞うかは、この二人では立場が違うのです。繰り返すと、この作品の全てのドラマツゥルギーの目的は、救済(サルベーション)、に視点が置かれています。そして、このセイバールートは、


すべてを救おうとしていたシロウが、セイバーを救いたいと思った、という物語です。


ところが、セイバーは、自分が国を守りきれなかったことに対する贖罪意識から、それまでの自分の過去をすべて消去してでも、もう一度、国を守りぬける指導者を探し出し、歴史を変えようとしています。自分が無能だったから、国を守れなかったんだ、と。この不可能な望みを聖杯の力で成し遂げてしまおうと彼女は戦います。自分の生き様を否定しているんですね。




その彼女を、救うとはどういうことか?。




たとえば、「僕が愛するから女性として生きてこの世界に残ってくれ」なんていう選択肢は無意味です。だって、女性であることや人間であることすべて捨て去って彼女は、王座につきました。いまさらその選択肢を持ち出すのは、いかにそこに愛があってもありえません。いや、そんな選択肢を出すこと自体が、真に愛していない証拠です。


だから、この提示に、セイバーは、断固拒否しています。バカを言うな、と。そう、だからシロウという人間が、セイバーという個人を救うためには何ができるか?と考えた時に、彼女と同じ選択の前に立ち、彼女と同じ苦しみの中で、彼女の願いを否定しなければならないんです。そうでなければ、セイバーほどの英雄が、自分の意思決定を翻すことはありえません。あったら、物語世界として、陳腐ですよ。そんなの。人一人の意思決定や思い込みを、翻意させるのは、本当に難しい。ましてや、指導的立場になってマクロを動かした人の持つ確信を翻すのは、物凄く困難なはずです。恐ろしいまでの思い込みが無ければ、人の上には立てないものなんです。


ちなみに衛宮士郎という個人の持つ経験は、1)〜3)すべてのルートで同じです。「世界を救済したいという願い」が、あらゆる局面から試され続けるという物語になっています。ようは、その目的が持つ厳しさに、何度も何度も試され続け、心を削り取られていくという構造です。厳しいですねー(笑)。そこで、セイバーが、もう一度全てを「元に戻したい」と願うことに対して、過ぎ去ったことは戻すべきではなく、セイバーが考えるべきことは、「元に戻すこと」ではなく、自分が自分の信念を貫いて、その信念に背かないで生きた生き様に対して納得することであって、結果をどうこう考えることではない、と考えることなんです。これを、納得させることが、彼女の個人としての幸せ・・・・彼女の救済につながるんです。


そして、そのためには、彼女に言葉でいうことは無意味で、同じ選択肢の構造の前に立つ自分自身の「全てを助けたい」と「元に戻したい」という誘惑を、捨て去ることが必要となります。・・・・・過去の大災害の時、自分の周りで死んでいった人々を生き返らすという選択肢を与えられたシロウは、その全てを極限の痛みの中で、拒否します。それは、不死性のアナロジーである、「全てを元に戻す」という世界の断りを捻じ曲げることを拒否したということです。どんなに自分にとって心地よく、正義の味方を貫けるとしても、悲劇をなかったことにできるとしても、その「世界のあり方」を曲げてしまうのは、自らの甘えであり逃げ・・・ナルシシズムの逃げなんです。自身の究極の夢を、自らの意思によって拒否したこと、そのことを身をもって示したが故に、セイバーは翻意します。この契機によるセイバーの翻意が存在しなければ、彼女は、個人として救われることなく、いつまでも国を救えなかったこと、救えなかった自分を責め続けるだけでしょう。


だから、最後の最後のシーンで、

「最後に、一つだけ伝えないと」




「……ああ、どんな?」




「シロウ――――貴方を、愛している」




セイバールート/15日目/黄金の別離

となるんです。彼女が、マクロの問に閉じ込められていたものをすべて解放したからこそ、彼女は救われ、個人としての自分を生きることが許されるようになったんです。だから、他人を愛することを自分に認めてあげることができるようになったんですよ。彼女が解放、救済されなければ、個人として、女の子として他者を愛することは認めることができないんです。




・・・・そして、そう思えた瞬間が、永遠の別れの瞬間なんですね。



それは、このセイバーの納得の構造が「彼女のいままで生きた生き様に対する肯定」なわけだから、「それ以外の人生をやり直す」というのは、彼女の生き様に対する否定になってしまうからなんです。彼女は、「自分の生きた生き様」を肯定することによってしか、自分自身の個を取り戻すことができず、個を取り戻した刹那、彼女にとっては、士郎の元にとどまることはできないんですね。自らの人生を誇るならば。




泣けるじゃないですか。




見事な愛ですよ。悲劇ではあるが、真実の愛。ほんと陳腐なセリフですが、このゲームを延々やって、最後の消える直前のこのセリフには、心を打ち抜かれましたよ。なぜって???。士郎は、「このこと」をすべて分かっているんですよ。彼女の自分自身を全うさせて誇りを取り戻させることは、彼女の「過去の生き様の肯定」です。つまり聖杯の力によって士郎の元へ来たことは「彼女が自分の生き様を否定した」から、肯定した瞬間、セイバーは士郎の元に入ることができません。・・・・彼女を現世に引き止めるのではなく、彼女の本分全てを達成させ、そして彼女の生き様を肯定させてあげる、、、、いや、お見事だよ衛宮士郎くん。そして著者の奈須きのこさん!。




これが、真の形の救済でしょう。



そして、こういうのって、真実の愛だと僕は思います。セイバーシナリ「それ」以外のエンドで終わらせることは、ありえない、からです。その他のルートでは、そうでもないのですが、セイバーの素晴らしい生き様には、その他の選択肢はないと思うんです。そういう意味では、奈須きのこさん、非常によく分かっているなぁ、と感涙です。


ああ・・・・すげー長かった(笑)。くどい文章を、もし読んでくださった方がいたら、感謝感激です(笑)。

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以上


2006年10月13日掲載分の加筆版