葉隠れって何ですか?〜武士道と葉隠れは違うんじゃないの?

惑星のさみだれ 5 (5) (ヤングキングコミックス)
惑星のさみだれ 5 (5) (ヤングキングコミックス)

おおっ、大きく表示させる方法ってあるんだな!(発見)。先日、LDさんやいずみのさんと話している時に、いろいろ気づきがあったので、メモメモ。はじまりは、『惑星のさみだれ』だった。えっとね、下記を読んでもらえるとわかるんですが、僕はLDさんがいい!というので、勧められて読んだんですが、イマイチ最高だ!とまでいえない、、、とてもやろうとしていることに比較して全体像が見えていない勉強不足感というか、青臭さを感じて仕方がないので、その物語のパーツや構成の持つポテンシャルは、★4つ以上のものなんだが、うーんイマイチ、、、という評価を下している。今でもそれは変わらない。なんというか、ものすごい惜しい感があるんだよね・・・・。ただ、ダメ出しではない、この人は、将来化けそう!という予感だから。ただ、今の時点では、たぶん、着地は限界があるのではないかな、という気もする。

惑星のさみだれ〜The Lucifer and Biscuit Hammer』2巻 水上悟志著 前世の記憶とフラッシュバックによるミステリー劇の手法(『僕の地球を守って』)と『Fate/Staynight』の劇空間の手法を思い出させる
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080809/p7

惑星のさみだれ』1巻 水上悟志著 セカイ系の典型の構造ではあるが・・・
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080809/p5


それでもって、LDさんが、

「主人公がね、地球を壊したい!と叫ぶ女の子に、おもわずついていきます!と人生のすべてをかけちゃうんですよ」もうそこに、めちゃくちゃ惚れてるんです。


byLDさん


という風に言うんですが、彼曰く、これは誤読の可能性があって、たぶん作者はそこまで分かっていないんじゃないか?たぶん、新世紀エヴェンゲリオンオンの類型に連なるセカイ系のヘタレ克服物語のドラマツゥルギーに回収されてしまうのだろとは思うのだけれども、少なくともこのパーツには、ほれ込む何かがある!と言われたんですよ。


ちなみに、僕は、それって、うーん、なんだろう?、確かに僕も同じものを感じるんだけれども、うまく言葉にならないんだよね。って話になりました。それが、上記の2巻の「御意っていきなり言うのはおかしいよな!」という記事につながります。で、では、LDさんが誤読だとは思うけど、主人公の雨宮夕日のいきなり、地球をビスケットハンマーで壊すことにしびれてついていってしまう、それを妨げる一般人がいたら躊躇なく殺そうか考えてしまう、このテンションはなに?という疑問を少し敷衍してみました。トカゲのノイは、「おまえは命の重さもしらないガキなんだ!」というのですが、LDさんいわく、いや、夕日はそんなこと重々承知でこのテンションを維持しているはずなんだ、というのです。


ここの解釈って、キーの部分で、トカゲのノイのいっていることが正しいか、どうか?ということで、この主人公の雨宮夕日の動機の着地点が決まります。ノイの言うように、「まだガキだから命の重さが分かっていない」のならば、ヒューマニズム的に、今後この重さを理解する方向に少しづつ成長していくという典型的な00年代のセカイ系のリアルが感じられない若者の成長物語、という形式をとります。実際に、この作品の5巻までの流れは、もう完璧にそういうエピソードで、満ちているので、こちらの解釈が王道だと思うんです。


が、しかし、それにしては、時々、非常にその「当たり前の解釈」を超越するような発想や断片のエピソードが、雨宮夕日にはあるんですね。僕は、たぶん作者はこれを自覚して書いていないだろうから、そういう意味では、勉強不足なんだけれども、けど、逆にいうと何の脚本の設計もなしにこういうことが描けてしまうのだから、こいつのポテンシャルは高いんじゃないか?という話の流れになりました。


いや、ちなみに、こんなのテキトーな読者のたわごとと誤読だとは思いますが・・・・(苦笑)


んんで、このいきなり「御意」とかいっちゃって、すぐ人を消そうなんていう倫理を飛び越える夕日の感覚って、最大限大きく見積もると何なのか?って考えると、LDさんいわく、



葉隠れ武士の思想



だ!というんですね。聞いているほうは、ええっーーーーそこまで飛んじゃうの???って、それって何?って感じですが(笑)、これがものごっつおもしろい。

死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)
死ぬことと見つけたり〈上〉 (新潮文庫)


ふむふむ。この話がもっとも、葉隠れ武士の思想をあらわしているという話で概略を説明してもらった。つーか、LDさんの概略って、もうすっげぇおもしろくて、それって小説そのものよりおもしれーんじゃないの?っていつも思うくらいなんですが、上記は幕府が鍋島藩をつぶしたいんだけれども、いろんな理由を使って潰そうとするのを、ことごとくそこの家老とその部下が抵抗する話だそうなんです(僕は読んでいない)。


けど、この家老Aと、その部下の武士Bというのが、LDさんいわく、気が狂っているんですよ。シグルイ(笑)っていっていました。なんというか、やることなすこと、ものすごい極端なんですよ。何かあったら、何も言わず、すぐかなたで相手を切り殺す、そんで、すぐ切腹しようとする(笑)。普通言葉ってのは、社会の処世術で、いろいろ本心をごまかすとかそういうためにあるものじゃないですか?けど、とりわけこの武士Bってのが、もう、えっ?ってくらい、全くコミュニケーションの通じない人なんです。もう、怖いくらいに、死が同時にある。幕府の命で、ある問題に対する謝罪をしなければならないので、江戸城に途上の最中に、ちょっと旗本に、道で馬鹿にされたそうなんです。その瞬間、主人を馬鹿にされたのは許せない(という言葉もなし)で、そこの旗本(旗本って直参ですよ!)を次々に皆殺しにするんですよ。武士B(笑)。

シグルイ 1 (1) (チャンピオンREDコミックス)
シグルイ 1 (1) (チャンピオンREDコミックス)

いや、え???、、、あの、いま鍋島藩をつぶさないために、何とか謝りに来ている時に、道端で馬鹿にされただけで、いきなり殺戮ですか???(笑)それって、、、ところが、この武士Bはすぐ取り押さえられるんですね。そんで、旗本は逃げて行ってしまう。そんで、旗本が逃げたことを知ると、いきなり上着を脱ぎ始めて、申し訳ない、と切腹しようとするんですよ。もう、殺すか殺されるかしかない(笑)。その、気狂いぶりに、家老のAも困っちゃうんですが、、、それでも叱れないんですね。なんでかというと、鍋島の武士は「そうあるもの!」という規則を作ったのが彼だからなんですよ。それに合わせて、完璧に正しいことを実践しているBを怒りようがないんです。



「お主は恐ろしい男だ。王の命に反して王の命に帰ろうとする」
宮城谷昌光楽毅」)


楽毅〈1〉 (新潮文庫)
楽毅〈1〉 (新潮文庫)

ちなみにアマゾンのレビューで類似のもので、これがあると書いてあったんで、これも確かに面白そうなんで、探してみるかなー。



ちなみに、上記の話を、葉隠れ的なもの、とLDさんは呼んでいました。

葉隠〈1〉 (中公クラシックス)
葉隠〈1〉 (中公クラシックス)

葉隠れには二部あるそうで、一部は、武士が身につけるべき教養とか常識を重んじろ!みたいな道徳なんですね。ところが第二部が、「死ね」なんですよ(笑)。


えっ????


いや、あの、「死ね」だけですか?って感じ。新渡戸稲造の武士道などソフィスティケーティッドされたものは、「死ぬことと見つけたり」といった風に、死を覚悟していきろみたいなニュアンスに代わるんですが、葉隠れは、一切の条件がなく、ただ「死ね」だけなんだそうです(ほんとか?(笑))。これって、僕的に翻訳すると、生きていく上で、言葉とか計算とかそういったものはすべて排して、ただ自分の信じるものとを定めた時点で、それに対して躊躇なく殉教しろ、信じることが見つかった時点で、イコールおまえは死んでいる!という状態になれ!ということを言っているんじゃないか?って思うんですよ。

そんな生き方なんてあるのかよ?って思ったところ・・・・


風雲児たち 30 (30) (希望コミックス)
みなもと 太郎
4267903255

これって、下記の話を書いた外伝なんですが…・

宝暦4年(1754)、幕府は西国の雄、島津薩摩藩木曽川長良川揖斐川のいわゆる木曾三川の堤防普請工事を命じました。いわゆる「宝暦治水」です。

 家老、平田靱負を総奉行に1000人におよぶ薩摩藩士はこの濃尾の地で堤防工事を行いました。
 工事は苛烈を極め、また、監督の幕府役人の嫌がらせなどがあり、抗議と絶望のため切腹してはてた薩摩藩士も数多くいました。
 工事までに、切腹52名、病死32名。工事費用50万両。

宝暦5年の工事終了後、総奉行平田靱負はあまりの犠牲者の多さと、費用が掛かり過ぎたことの責任を負って自害しました。

 これら、多くの薩摩藩士の尊い犠牲により木曾三川は整備され、かれらを「薩摩義士」として称えました。

http://oniheru.fc2web.com/douzou/satsumagishi.htm


ちなみに、この解説ではさらっと書かれているんですが、漫画で物語として追うと、壮絶な切腹の嵐なんですよね!。なんか、役人に口でちょっと嫌がらせを受けたんだけど、本来ならばすぐぶち殺すんですが、薩摩藩を守るためにできない!という苦しさで、もう躊躇なく、バタバタバタバタみんな切腹するんです。ほとんど理由にもならないような理由で。


それを見て、周りの農民も、幕府の役人も震撼するんですね!、やべぇ、こいつらやべぇよ!!って(苦笑)。


しかも、総奉行平田靱負は、ものすごい莫大なって何十億レベル?借金を、大阪の大商人にするんですが、それって、薩摩藩の印鑑ではなくて、自分個人のサイン?だったか印鑑でするんですね。つまり、借金を踏み倒すつもりで、工事が成功しても失敗しても、どっちにしても切腹することを最初の段階から決めているんです。


・・・もうね、、、、狂気なんですよ。



薩摩藩を守る、主君を守る、と決めたら、もう命とか、関係ないの。バタバタ意味もなく理由もないくらいの感じで、死んでいく。



これ、相手は怖いですよね。


こういう「相手が理解不能な状況を作り出して」強制的に、相手が交渉の土台に乗らざるをえないように命をバンバン投げ出すっていう殉教の覚悟が、常にあるということで、異様な緊張感を周りに持たせる、言葉に出したこと行動に起こしたこと重さを常に徹底的に突き詰める・・・・そういう超緊張感のある現実社会を作り出す、というそういう目的が葉隠れにはあったんではないかな?とか思うんですよ。



えっとね、僕はなるほど、と思ったのは、つまり、LDさんがいいたいのは、いまの現代の「キレる子供たち」のような命の実感がないとかそういうことで、命を平気でやり取りすることへの批判というようなものではなく、そもそも、その重さを重々わかった上で、それでも平気で投げ出せてしまうような精神の在り方というものがあって、こういったあるコミットへの殉教意識というようなものは、まったく異なる文脈に支えられているので、本来この系統の話を描くならば、「これ」を描かないとおかしいし、そうでうないとつまらないヒューマニズムに回収されてしまうよ?って事が言いたいのかな?と僕は思いました。


とすると、死に対する意識では、ここでは二つの類型があることが、提出されているんでしょうね。ふむ、この類型は本当にあるかもしれないので、メモメモで、もう少し考えてみます。けど、この葉隠れ的な意識というのは、かなり汎用可能な概念なので、もう少し追ってみたいと思います。