自己責任論〜「私は努力してワーキングプアにはならなかった」への反論方法

湯浅はセンの貧困論(貧困とは単なる所得の低さというよりも、基本的な潜在能力が奪われた状態)をベースにしながら、貧困に陥る人は「溜め」が奪われている、ということを提起する。「貧困とは、このようなもろもろの“溜め”が総合的に失われ、奪われている状態である」(p.80)。
 「溜め」というのは湯浅独特の言葉である。

「“溜め”とは、溜め池の『溜め』である。……“溜め”は、外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となる。/“溜め”の機能は、さまざまなものに備わっている。たとえば、お金だ。……しかし、わざわざ抽象的な概念を使うのは、それが金銭に限定されないからだ。有形・無形のさまざまなものが“溜め”の機能を有している。頼れる家族・親族・友人がいるというのは、人間関係の“溜め”である。また、自分に自信がある、何かをできると思える、自分を大切にできるというのは、精神的な“溜め”である」(p.79)

http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/hanhinkon.html
湯浅誠『反貧困』/紙屋研究所さんより


ふむふむ、自己責任を語る上で、なかなか興味深い。僕はこういう話あまり好きではないので、余裕のない今では、まず読むことはないと思うけれども(苦笑)。でも、ブログで少しの記事なら読める。・・・・僕自身は、自分も頑張ってあがいて成長している人(=今は成長できていないので努力しているという意味)なので、どうしても、自己責任論に逃げがちなので、この辺のロジックは、よくよく直視しておかないとなー。とかとか思ってメモメモ。


ちなみに、この「溜め」という概念は、わかるなー。なんというか、これは逆に言うと、「溜め」を意識して作っていくと、失敗が「本当の意味での失敗や脱落」をしないで、自分を守る力になるブランケットになるということも、示しているんだよね。僕は普段、意識的にこういう、いざ厳しい状態に追い詰められた時に、多少失敗しても、厳しい攻撃にあっても、「耐えきれる」状態を作ろう作ろうと意識している気がする。


まっ上は蛇足。ここで議論になっているのは、構造的にそういった最低限の「溜め」を奪われた、とか、そもそも自分の意思でそれを維持したり作り出せない人がどれくらいの数がいるのか?また、それはどういう構造で生まれたのか?ってことだ。


こういうのって、そもそも申し訳ない意見として、左翼の人々の意見は聞く気になれないんだよな…ぁ。もちろん右翼の人も。なぜならば、イデオロギーに左右される人ってのは、幻想を見るので、部分を見て全体を語る癖があまりにありすぎるんだよね。まぁもう仕方がないんだけれども、、、世界は、洗脳合戦をしているようなものだから。。。。誰も現実なんか、みやしないもんね。


それに社会科学的手法の大規模な浸透やフェアな統計って、なかなか「世間」とか「大衆」社会には、なじみがないんだよねぇ。僕も、もう大学を卒業してから、自分の人生を生きるので精一杯で、そんなマクロのことなんか考えている、、、ことは考えているけど、少なくとも意見したいりかかわる余裕などないもの。政治家とかマクロを志す人は、ほんと志高いと思うよ。僕は家族と自分を守って、楽しむので精一杯だもの。それ以上は、今のレベルでは考えられないなぁ・・。


ちなみに大規模統計で云うと、いまのところ日本の格差が広がっているかどうか、というのは、「何ともいえない」というのが本当のところで、少なくとも100年単位では、まだ格差(貧困や貧富の差の再生産)が広がっているという明確すぎるほどの統計データはまったくないと、、、僕が知っている限りは思うなぁ。いや、それがあるのならばこういう論争にはならないものね。


まぁ、ただ、『グインサーガ』のシルヴィアの話を読んだ後で、単純に、甘えている奴らが悪いという論陣はれないなーと思ったペトロニウスでした。・・・物語と現実に僕はあんまり境を感じないので、なんとなく最近こういう話に目が行ってしまふ。

反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124)
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