『水滸伝』 『楊令伝』 北方謙三著 そのわかりやすさ、見事に簡潔な文体、潔く19巻でまとめる構成力、、、小説家としてのレベルの高さを感じる

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評価:★★★★★星5つ マスターピース
(僕的主観:★★★★★星5つ)


僕は、ご承知のとおり、グインサーガ、という百巻を超えるファンタジーの大河小説がとても好きで、またその作者である栗本薫さんがとても好きです。もう神と思っているといってもいい(笑)。ただ、この人のグインサーガに関する批判には、言葉が冗長すぎる、ということがよく言われるんですね。とりわけ、40巻くらいを超えてからは、だらだらし過ぎてもう終わった作品だ、という批判が根強い。それは、僕も何となく感じることではあります。たしかに、後半は惰性で読んでいる、過去のテンションの記憶で読んでいる、といっても過言ではない。実際、1〜40巻くらいまでの超ド級のテンションは、後半にはなくなっているし、もともとの癖である内面を冗長すぎるほどに書きすぎる、という欠点は、小説が長い分だけ、余計目立ってしまっています。それが鼻につくほどうざいということも、物語があまりに進まなくて疲れるというのも、よくわかる意見です。


この批判は、十分すぎるほど正しい批判だ、と僕は思います。けれども、子供時代に刷り込まれるように栗本薫作品を体験し、もう生涯の伴侶のように愛しているので、そういったなんというか、自分の巨大な体験(=初めて出会った時の衝撃)に比して、あまり意味をなさないんですね。自分の大好きな恋人が、他人からいかに本当のことで欠点を指摘されても、全く気にならないように。


また同時に、僕にはこういう反論も心の中にありました。


それは、大河ロマン(=国家・国際レベルで全体と個をすべて包括させるダイナミズム)を、しかも3軸の対立以上で描こうとした時、そもそも小説としては、少なくとも20〜30巻を超えるレベルで描かないと全く描ききれないはずだ。いいかえれば、そもそも冗長すぎるほどに長く世界を描かなければ、これらの人生にも似た、複雑怪奇に原因と結果が切り離されてさざ波様に様々なことへ波及していくような「世界」そのものを現前できないんだ!と。だから、そこに冗長を見出すやつは、読みのレベルが甘いんだ!と。


この反論は、かなり今でも正しいと僕は思っています。その大きな理由の一つは、大河ロマン(=国家・国際レベルで全体と個をすべて包括させるダイナミズム)を描くことを志向していながら、そのテンションと物語の凄みを十全に発揮しきって、潔く短く終わるという小説や物語を僕は見たことがなかったからなんです。だから、まぁそのギリギリまでを、30巻くらいかけて到達している栗本薫は、天才だ!と。それが、多少、批判されるようなことがあっても、それは本質の批判ではないって、思っていたんです。


北方謙三さんの水滸伝に出会うまでは!


この作品を振り返って、まず言えることは、信じられないほど小説が読みやすいってことだ。簡潔、簡明。しかも物語の展開が、ほぼ会話とエピソードだけで進みます。冗長さなんか、毛ほどもない。会話だけだから、内面の細かい描写もほとんどない。近代小説とは思えない、骨太さ。だから、サクサク、サクサク、この数カ月の夏バテと気苦労で、精神的にも肉体的にも苦しくてたまらなかった・・・・電車で読んでいる最終に寝落ちすることがしばしばあるような、最悪の状況で、全く問題なく読み進めることができた。


これぞ、エンターテイメントっ!って読了後感心する。


しかも、108人以上もいるような巨大な登場人物を、それぞれの個性や内面や煩悶を、深く深く浮き彫りにしながらも、全く内面描写に文字数を費やしていないんですね。・・・・うまいとしかいいようがない。そして、水滸伝のようなもともとファンタジーであるようなものをベースにしながらも、これって歴史小説大河ロマンなんです。つまりね、これだけ、独自の解釈を盛り込んで、しかも、ファンタジーのような創作説話集の『水滸伝』をベースにしながら、「歴史小説」の本義である、歴史そのものとのリンクを全く失っていないんですね。もちろん時代小説的なものと微妙な中間点なものであるのは、もともとが創作物をテーマにしているだけに、しかたがないことではあります。


が、歴史、、、国史北宋から南宋へ至るダイナミックな時代背景、遼、金、そしてモンゴル王朝へと続くダイナスティ・コンクエスト(征服王朝)の「本質なるもの」が見事に切り取られている。まさか、水滸伝から始まって、靖康の変燕雲十六州の射程まで切り取られるようになるとは思ってもみなかった。女真族完顔部(ワンヤン部)の族長で、金の初代皇帝である完顔阿骨打(1068年-1123年)が、ただの阿骨打(アクダ)という青年として出てきたときは、まさか「そこ」につながるなんて思ってもみなかったですよ。それだけ、水滸伝の19巻の物語の「完成度」が高過ぎて、その「次」を思い浮かべられなかったというのも大きいとは思う。それにしても、完全なる架空の出来事をベースにしながら、この中国史の本質的な歴史の流れに一切逆らわない、というかそこからインスパイさされる見事さに、もう脱帽するしかない。北方謙三さん、これほどまでに偉大な小説家だったとは、腰が抜ける。栗本薫さんも、物凄い小説家だが、その創作物の完成度・小説家としての職人レベルからいうと、北方謙三氏と比べると子供と大人ほどの開きを感じる。すげぇ、、、なんていい時代なんだ。こんな凄い小説家たちと同時代に生きられる僕は、幸せすぎて、泣いちゃうよ。


そして20年近い疑問点の一つが、一つ解消した。


大河ロマン(=国家・国際レベルで全体と個をすべて包括させるダイナミズム)を、しかも3軸の対立以上で描こうとした時であっても、たしかに最低限の長さは、小説でいえば20巻近くかかるのは、しかたがないとしても、しかし、非常に簡潔に、エンターテインメントとして、短く完成させることができる、できるんだ!ということが、わかった。大収穫だ。

グイン・サーガ 100 豹頭王の試練 (ハヤカワJA)