原作付きのアニメ化は、アニメ界にとって害になるからやめるべきだ(アニメ好きの立場からの批判) by 井汲 景太

メディアミックスすることをどう思うか?〜井汲 景太さんのコメントに対する返答

http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080915/p1

先日のこの記事へのメールにての井汲景太さんの返答を、全文掲載させていただきます。・・・こういう往復書簡的なものって、なんか、知的でかっこいーですよね(笑)。改行は多少いじらせていただきました&強調等は全て管理人ペトロニウスの勝手な意思で行わせていただきました、が、文章関しては100%そのままの転載(のはず)です。何か問題等がありましたら、お知らせください。修正します。が、いいよね、本質と関係ないし(笑)。

細かい修正なんかする暇あったら、次へ進みましょう!。ちなみに、LDさん、蛸壺派って意味教えてください。・・・かなりいろいろ出たので、構造をいったん図式化とか、コンセプチュアルに見える化しかしないと、わけがわからなくなるので、追々させていただければ…(時間ないけど)。僕も、このテーマ真剣に考えたことがないので・・・。まだ深くは読み込んでいないけれども、とにかく、この領域のモノを深く愛する真摯な姿勢があって、いいなーと思います。こういう議論って、愛があるかどうか?ってのがすべての基本だと思うんですよね。そして、批判のための批判ではなく、何かを「よきこと」へ向かわせたいという熱意から出るべきだと僕は思います。


どうもこんにちは、ペトロニウスさん。


さて、先日のコメントですが、あれはメディアミックスすることへの、(原作ファンの立場に立った)批判というよりも、アニメ界にとって害になるからやめるべきだ(アニメ好きの立場からの)批判の方が実はメインだったりします。メディアミックス論とはちょっと違う所に、本当の力点はあります。

「どうせ(あのすばらしい)原作にとって害になるからアニメ化するべきじゃない」という理屈なら、「結果として優れたアニメ化に成功する」ことで実はその批判は力を失うんですね。でも、そーじゃないんです。私が強く批判しているのは、それが「アニメ界にとって」害になるから、ということが大きいんですね。(私の立場は、LDさんおっしゃる所の「蛸壺派」*1におそらくよく当てはまるのだと思います。確かめたことはないですが)

以下、詳しく述べていきます。


今のアニメって、原作ものが多すぎませんか?9割くらいが原作つきアニメ。これって健全な状況なのでしょうか。


以前ペトロニウスさんの所から海燕さんの

メディアミックスの良否は「わかってる度」が決める。/SomethingOrange
http://d.hatena.ne.jp/kaien/20070927/p1


を見たことがあったんですが、そこで語られている通り、そういう原作ものアニメってのは基本的に「原作通り」に、場合によってはそれにプラスアルファして、原作ファンのお気に召すように、原作とそのファンに「奉仕」することのみを求められていて、それだけが存在意義なんですよね。いや、それはわかるんですよ。私も、マンガや小説、ゲームのアニメ化を否定する立場を一旦離れれば、それに求める唯一にして最大の要素は「原作のために尽くす」ことです。しかし、それって、アニメの側からすれば単なる「従属」です。アニメって、そういうものなの?「原作」の価値を再現し、あるいは高めるための道具であって、その一部として下風に立つ、それだけがアニメの存在意義なの?アニメの側がそれでよし、とするのは、アニメというジャンル・表現技法の価値が、単独では成立し得ない脆弱なものだ、ということを、自ら認めているに等しいと私は思います。


そんなのは嫌だ!


アニメという大衆娯楽が日本で独自の発展を遂げ始めてからかなりの年月が経ちましたが、結局未だにそれはジブリブランドという唯一の例外を除けば「普通の人が、普通に受容する」ジャンル*2ではなく、むしろ普通の人からは黙殺され、たまに意識に上るときには奇異の視線で・あるいは侮蔑を以て見られることがほとんどでしかありません。

それは「普通の人が、普通に受容する・できる」ようなものを、結局はほとんど作ってこなかったことの、当然の報いです。その大きな理由の、すくなくともひとつはこの、「原作ものを作って、原作のために尽くす」ことを当然のこととこころえ、狭い範囲の人たちの方だけを向き続けてきたことによるものですね。アニメというものそれ自身に一般的に見るべき価値があるものだということを、示す意思・気概がない、あるいは希薄であるようなジャンルに、誰が関心を寄せるというのでしょうか。

………というようなことを言うと、大抵は何通りかの紋切り型の反論が返ってくるんですね。例えば「大衆受けを狙ったら、それは多くの人に迎合した、薄いものになってしまう。普通の人向けにそうやって堕落した作品を作るくらいなら、一部のマニア向けにハイレベルな作品を作り続けた方がずっとましだ」とか。いや、本当にそうなんでしょうか?それは本当に「ハイレベル」なんでしょうか?一部の愛好者にしか支持されないような要素を嫌というほど詰め込んだ現状の日本アニメの数々を、それは本当に見て反映した主張になっているんでしょうか?それは現状では単に、「アニメというものそれ自身に、見るべき価値なんかない」という現実に向かい合わぬ、単なる逃げ・言い訳としてしか機能していないんじゃないでしょうか?


あるいは、人によっては「スタージョンの法則」を持ち出したりもしますね。「どんなジャンルの作品でも、その大半は無価値な屑の集まりだ」「だから、アニメに程度の低い作品がたくさんあろうとも、それを根拠に普通の人が見もしないでアニメの価値を認めないのは誤りだ、それは単に世間の見る目がないだけだ」という論法です。だけどこれは、別にそういう固有名詞をつけて恭しくありがたがるほどの大げさな話ではなくて、理屈そのものは中学生でも思いつくような開き直り・屁理屈に過ぎません。それは、「現にマイナーであるジャンル」を支持する―――少なくとも、それへの支持を訴えようとする―――立場の人間は、使ってはいけない理屈です。

スタージョンの法則スタージョンのほうそく、英語:Sturgeon's law)とは、SF作家シオドア・スタージョンの言葉から導きだされた格言である。

1.「常に絶対的にそうであるものは、存在しない。」("Nothing is always absolutely so.")

スタージョンはまた、これより有名な格言も残している。それは正確な名称としては「スタージョンの黙示(すっぱ抜き)」として知られているものであるが、現在では「スタージョンの法則」といった場合、実際にはこちらを指すことがほとんどである。例えば、オックスフォード英語辞典でもそのようになっている。

2.「どんなものも、その90%はカス(crud)である。」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87


例えば、「SKET DANCE」の「ジェネシス」や「ジャガー」の「笛タンク」(どっちもウソ競技ですが)みたいなマイナージャンルの愛好者が、スタージョンの法則を持ち出して「だから『ジェネシス』(『笛タンク』)をやってみもしないで価値がない、なんて決めてかかるのは間違いだ、頭が固い証拠だ」などと言っても、誰も耳を貸しゃあしないですよね。

話が音楽やら絵画やらの分野になっても同じです。「見もしないで・やってみもしないでその価値を否定する」ことが誤りだ?それは自分の立場を弁えない、醜い負け犬の遠吠えでしかありません。世の中には、普通の人が全然縁のない、マイナーなジャンルのものは山ほどある。それを否定するのに、それらをいちいち全部体験・実践してからにしろと要求するなど、傲慢にも程があります。そんなものをいちいち全部「きちんと評価が出せる程に」体験・実践できるような暇は、この世の誰も持てません。それを見もしないで・やってみもしないで「普通の人が」否定するだなんて、当たり前の話です。興味を示すに足る実績を積んでいないようなものを「世間」が否定するのは「当然の権利」であって、「スタージョンの法則」を盾にその権利を否定しようだなんて了見は、お門違いもいい所の思い上がり、甚だしい勘違いです。


そういったものの価値を訴えたいと思う人は、まず普通の人が興味を示すに足る「実績」を積み重ねるのが先決で、その後で初めて、話を聞いてもらうよう「お願い」することが許されるに過ぎないわけですね。(私個人としては、アニメはそれに値するだけの実績を十分積んできてるとは思っていて、それにふさわしい扱いをしようとしない「世間」の側が不当だとは思ってるんですけどね。しかしこれは「結果がすべて」という類の話であって、「こちら側」がどのように理屈を捏ねようと、「現に、どうであるか」と言ったら「実際に、普通の人に受容されていない」以上、それはそれで事実として受け入れざるを得ない、と思っています)


それからまた、「『普通の人』『世間』に認めてもらおう、などという考えは権威主義に侵されているだけ。別にアニメはマイナーなままで構わない、むしろ今の『これ』こそがいい」みたいな反論もあるでしょうね。でも、それじゃあ結局アニメ界は持たないんですよ。




アニメ産業に関する公文書/2007年9月27日 (木)/たけくまメモ
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_6661.html

(以下に引用するように議論も荒い点もあるので注意。コメント欄での話に参考になることが多いかな?)





テレビ局はアニメのお金の中抜きをしているか?/ニセモノの良心
http://soulwarden.exblog.jp/6469132/
“要は、アニメの市場規模自体が小さいというのが一番悪いって話。”




切込隊長BLOG(ブログ)
http://kirik.tea-nifty.com/diary/2007/09/post_3cc4.html
“たけくまさんの問題意識に一石を投じるのであれば、仮にスポンサーが支払っ
た5,000万、アニメの制作にかけられるのが800万という構造については、


そ れ は 地 上 波 波 料 & 広 告 費 用 を 含 む ん だ ぜ

という話です。彼らはテレビに広告を出すのに5,000万を支払っているのであって、アニメを制作するのに5,000万を払っているわけではありません。夕方の時間帯に1クールの地上波広告(テレビCF)を出すために3,000万払ってるわけで、別に広告主はアニメそのものの作り込みだけを求めてお金を出しているわけではない以上、経済産業省らが問題の所在を指摘する資料を作って「コンテンツ立国だ」といってもお門違いな部分は多少なりともあるような気はします。波料下げろというなら話は分かるけど、それは放送行政であって管轄は総務省放送村ですからな。経産省が何言っても無駄無駄無駄無駄。”


“夕方や深夜の時間帯がアニメで「埋め」する編成になっているのは、コンテンツのバラエティリティを確保することだけじゃなくて、アニメが相対的に制作費が安いから、というのもあります。アニメ製作者で「うちらは安い給料で使われている」という考えを持つ人が多いのも事実で、同情もするんですけど、じゃあ二倍なり三倍の制作費を投じてペイするアニメがあるのかと問われると「……」
という話になります。”


要するに、「普通の人が、普通に評価して、普通に見たいと思わない」だから金が回らない。これに尽きます。それが端的に顕れているのが、テレビのゴールデンタイムに放映されるアニメと言ったら、子供向け・ファミリー向けの毒にも薬にもならない「無難」なものしかほとんどない、ということですね。「普通の人」はアニメなんか見ないで、実写ドラマやバラエティーを見る。要するに、そういう「金を出させてくれ」とスポンサーが望むようなコンテンツにならない限り、アニメの未来はなく、このままジリ貧でやっていくしかないのです。


GiGi さんの
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20080913/1221280859
http://d.hatena.ne.jp/GiGir/20080914/1221425030


“お金を払う意思のある人だけを囲い込んでその小さな輪の中だけで回していて
も、それは文化の緩やかな死でしかない。それではいったいどうすればよいのか。
それを考えて考えて考えて出た一つの答えが、

・ それに誰がお金を払っているのかを可視化することで、タダで見れるものも
自分以外の誰かが対価を肩代わりしてくれているという認識を広めること

だったんですね。”

なんかもここら変に切り込んでいる話で、傾聴に値するとは思いますが、いかんせん私の見るところ、「普通の人」を介在させず、「仲間うち」だけで回すんであればそれは解決策にはなっていないと考えています。「普通の人が、普通に見て普通に楽しむ」作品や、それが「普通にそこにある」環境。それを目指し、それに至らなければ、結局何をやっても無駄でしょう。………もちろん、そうなったからと言って、それで何の問題もないバラ色の未来が来るかと言ったら来るわけないですよ。そういう状況になったら、今度は拝金主義と視聴率至上主義が熾烈になり、よい作品作りに横槍が入ることは多々あるでしょう。だけど、アニメ以外のテレビコンテンツは、みんな長年その土俵で戦ってきたわけで。中には、そんな風潮に迎合した程度の低いものも多数あることは確かですよ?だけど、誰もが自分の利益を追求する戦場で、自分も相手も得をできる成果を挙げてみせるというのが資本主義の世の中の鉄則であり、議論以前の大前提のはず(※)で、そこで「程度の低いものがいっぱい出るじゃないか」という能書きは、それこそ「程度の低い」言い訳に過ぎません。そういう場で成果を挙げられないようじゃ、結局はアニメってのは2流、3流のジャンルでしかないことに変わりはないです。

この辺り、ペトロニウスさんの仰る

また、コミュニケーションの売価にお金を払う層がいるという市場上の特質があったとしたら、それをも巻き込んで、そういった構造を前提にオリジナルを作り出すのは当然であって、その努力を放棄しない限り、構造自体に問題はないと思うんです。質が落ちることで、誰が悪いか?って言ったら、そこに参加している供給者も消費者も等しく責任があって、こればかっりは参加者の志なんで、構造が先にあって、「だから」悪くなるというロジックは僕は好きではないのです。

つまりは、「ある種の売れた記号(=原作)を媒介に、市場の流通量を増やすことだけを志向されていて、その流通量の一時的増大における「祭りへの参加感覚」を、消費者は購入」するという商売上の問題点は、もうすでに構造化しています。民主主義と大量消費の経済システムを肯定している社会である限りは、これは大前提の肯定されるべきことです。言い換えれば既に、ビジネスをする上での所与の前提であるので、これは供給者側が越えるべき壁であって、消費者側の責任でも何でもないのでは?と思います。

というのはまったく同感です。で、

僕は、少数の「よく分かっている人々とのみ」ただ本質について盛り上がるか、もしくは自分自身の内部で本物を見極めればいいというような鑑賞態度がいいとは思えないんですよ。どうせ本質がわかる人なんて、一つのパイで本の数パーセントですよ(苦笑)。それ以外の95%の人々は、意味もわからず断片に萌えたり感動したり、自分勝手に解釈して記号として戯れているだけです。けど、、、大衆社会というか、流通にたくさんの人がいるマーケットにモノを流すってもともとそういうことじゃないですかね?。<<



とすれば、現代社会においては、プリミティヴな感情は、常に肯定されてしかるべきで、自分の好きなものに関連するものが好きだという人がたくさんいること、それを自分がそこに交わらなくても横で見ていることは、少なくとも僕にとっては、「結構うれしい」ことです。少なくとも、なにもないよりは、あったほうが、、、、パイの100%の母集団の総数が大きくなればなるほど、その本質を理解する可能性のある人数は大きくなります。もちろん幻想と誤解もより大きくなりますがね(苦笑)。

については、「そのパイが『大きければ』いいよ?でも大きくないよね?近い将来に大きくなる見込みもないよね?むしろダメダメだよね?」ということを問題視している、というスタンスですね。

※ 「スタージョンの法則」ってのは、もし引き合いに出すとしたらこの形で行うべき法則であって、自己正当化を無限に許してもらえるような錦の御旗なんぞじゃありません。上で挙げてみせた形のものは「普通組」の仲間にも入れてもらえないようなミソッカスジャンルの愛好者が、自己憐憫のあまり都合よく引っ張り出した、現実から目を背けるためのさもしい方便にしかなってないのです。

“物語に貴賎なし”―――というのは本当だと思います。私も、別に「内容」に貴賎があるから原作つきアニメを否定するんじゃありません。ただ、それが狭い「身内」の方のみを向き、「普通の人が、普通に受容して、普通に楽しむ」という、自らの依って立つべきステージの構築に余りにも目を塞いでいる「ものの見えなさ」をこそ蔑んでいるのです。「普通の人が、普通に受容して、普通に楽しむ」ことを尊ぶ価値観を「権威主義」と評して眉を顰める人もいることでしょう。それが権威主義であることはまったく否定しませんが、でもそれくらいの権威を志向することくらいはむしろ当然の「心意気」であり「身の処し方」ですよね?(笑)

そう考えると、先ほどのハイレベル云々は結局ただの言い訳に過ぎませんね。結局は、金を出す立場で「決定権を持つ」層の人たちがどれほどそのコンテンツに価値を認めるか否かという問題で、それは「普通の人が」アニメを見ようとするかどうか、ということに、残念ながら全面的に依存する話です。

あとまあ、「原作もの」を正当化しようとする代表的な口実としては、「いや、これは単に原作をなぞっただけのアニメ化などではなく、原作を超えていて、知らない人にとっても見るべき価値のある作品なんです。例えば○○が◇◇で、それに□□が☆☆だったりもするんですよ」という類のセールストークが多いですね。いや、そんだけご大層なものを作れるんであれば、別に最初から原作抜きで作ればいいよね?そんだけ原作から抜きん出て、最早原作とは別物な程素晴らしい作品が作れるなら、それはオリジナルで作った方がずっとずっと価値があるし、そうしたって同じくらい売れるはずでしょ?何でそうしないの?

結局、原作ものアニメというのは、精巧なコピーにすればするほど「原作ファン」が耽溺し精神的満足を得るためだけの能しかない、無価値なものになってしまうし、逆に原作に立脚しない価値を追求すれば、それがそもそも「原作もの」であることの存在意義を失ってしまうばかりなのですね。ですから、「今現在の日本のアニメ界の現状では」という前提の下では、原作つきアニメは残念ながら成功する・しない以前に一切の価値を見出せません。私が「内容的に優れているかどうか、ということ以前に、優れていようがいまいが既に敗北している」と言い切っているのは、もちろん

構造的に出資者たちがオリジナルを超えることをアニメの監督らに期待していないわけだし、しかもうまく記号化して中身をスカスカにして流通量を上げたほうが、より売れるという仕組みそのものから生まれているから、そもそもその存在自体が、敗北している、と喝破するわけですよね。

という部分も大きいんですが、それよりもむしろ今述べてきたように、「普通の人が、普通に受容するという環境を目指す」という「現実に切り込んでいく努力」を放棄しているということを糾弾している、という所が最も大きいのです。

で、

それってプリミティヴな感情ですよね。好きなものを、みんなが話題にしてくれて、それについて語ることが楽しいってこと。仮に、その好きなものの「本質の理解が」明らかに幻想で、ただ単に幻想を媒介にディスコミュニケーションしているだけであっても。話題によって、つながっている感覚を得たいってこと。それが、流通段階の商売人に金を奪われているだけだとしても。


とか

だから、僕は、基本的に、見るか?と言ったら、メディアミックは、やはりあまり見ないんですが、それでも横目で盛り上がっているのはうれしいし、もしかしたら何か起きるかも、と思い続けているのは、うれしい。まぁ起きることはまずないですが(苦笑)。でも、その広がりが、10年後とか次の世代に広がっていくことは、確実にあります。だからまー何もないよりは、あったほうがいくね?と思います。駄作だろうがなんだろうが、それを楽しいという人はいるわけだし、それが楽しいという人の「楽しいと思う気持ち」を否定する権利はなんびとにもないわけですし。

というお気持ち自身は実はよくわかります。私も同感ですから(笑)。ただ同時に、それは狭い「アニメ村」の中だけでしか通用しない理屈だ、と思ってるんですね。そこら辺は、


世界を相手に考えるスケールを持つことは、今後の人口が減る日本では必須
http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20080606/p3


なんかでペトロニウスさんが「グローバルスタンンダード」の名の下に色々なものをばっさりと切り捨てられてることとパラレルな感覚なんじゃないかと思っている次第です。

………などと言いつつも、先般書いた通り、ここで述べてきたことはここ数年前提となっている状況が変化しつつある所もあるので*3、妥当さを欠く部分もあるかと思います。諸賢のご叱正を請うところです。―――うん、つまり私は LD さんや GiGi さんほどには人間ができてないんだな(笑)。だからこんな形でしか書けないんだ(笑)。

願わくば、今の「大人になったら、アニメは卒業するもの」という、空気のように当たり前にそこに存在する前提(当たり前すぎて存在することすらほとんどの人が気付かない前提)がなくなって、「アニメというものが空気のようにごく当たり前にそこにあって、ごく普通の人が、ごく普通に、アニメを受容して消費する」輝かしい未来が訪れん事を。

by 井汲 景太

*1:LDさん、引用箇所というか定義を教えてください。

*2:これ、、、がいまいち僕には、僕には抽象的すぎてわかりません。たとえば、TVのバラエティーやトレンディードラマだって、構造的にすでに「良作」が出ないような仕組みができています。なんか、向かうべきモデルがよくわからないんですよね。GONZOとかジブリにしても、志は、やっぱり井汲さんが言うような形だったと思うのですが、それって、そもそも本当に正しいモデルか?という気もします。大衆に迎合することは質を下げるこういうなので、メジャー化すると確実に衰退するんですよね・・・かといって、狭い身内の論理に入っていることがいいことかどうか?というのは、わかる議論ですが。

*3:これは、説明してもらえませんか?僕、何が変わっているのかがわかりません。もし、ここ数年で、井汲さんの議論が否定される可能性が生まれているのならば、次はそこを話しましょう。そうしないと、意味のない議論になってしまうじゃないですか。もちろん構造の整理という意味では、すごく重要なことだとは思いますが。