『プルンギル〜青の道』 クォン カヤ 江戸川 啓視 著 これ何気に大傑作だと思うのですが・・・絶版かぁ・・・


プルンギル-青の道 1 (1) (BUNCH COMICS)プルンギル-青の道 1 (1) (BUNCH COMICS)
クォン カヤ

新潮社 2002-10-09
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今日、LDさんに貸したんだけれども、これって、何気に超ウルトラ名作だと思うんだよね。むしろ、漫画より小説にすべきだったと思うが・・・。このイメージ、この物語は、ちょっとないぜ。しかも戦前の日本列島と朝鮮半島の確執がありつつも、それを超えるグローバルな大陸の歴史が物語に食い込むその壮大さ。イメージとしては、米原万里さんの『オリガ・モリソヴナの反語法』や『嘘つきアーニャの真っ赤の真実』というこの数年で最高レベルだと思う、傑作小説と同じにおいを感じます。それとIRAやイギリスなどの国際謀略をの『リヴィエラを撃て』などこのあたりを、同時並行に読んだので、イメージが広がって最高でした。

オリガ・モリソヴナの反語法 (集英社文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)
米原 万里

角川書店 2004-06
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リヴィエラを撃て〈上〉 (新潮文庫)リヴィエラを撃て〈上〉 (新潮文庫)
高村 薫

新潮社 1997-06
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本は、やっぱりなんというか、、、ウンベルト・エーコーとかさっき書いた西垣通さんの『1492のマリア』のような、膨大な知識がないと、また解析する頭がないとさっぱりわからないものは行き過ぎな気はしますが、とはいえ、やっぱりバックグラウンドの知識と体験が、濃く、広く、深いほど、より様々なものを深く感じ取れて楽しい気がします。よくノーベル賞を取った、ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオさんの『大洪水』とか、中上健二の『千年の愉楽』とかジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ『ミルプラトー』とか(ってこれは哲学か・・・)、中沢新一さんの『チベットモーツァルト』でも、アルベール・カミュの『異邦人』や『シューシュポスの神話』でも、まぁなんでもいま思いつくままに書いたんですが、なんでも、その背後にあることの知識が深く深くあって作家がその題材を選びぬいたテーマや作家を取り巻く日常を知らないと、、、もちろん、知らなくても素晴らしいものは素晴らしいのですが、、、それでも、知ると間違いなく知らなかった時の何百倍ものその本が面白くなります。

フランスのニースにイギリス籍の父とフランス籍の母との間に生まれる。18世紀にブルターニュからインド洋モーリシャス島に移った移民の家系であり、父母はいとこ同士。父は医師であり、ジャン=マリが8歳の時、イギリス軍に外科医として従軍した父に従い家族でナイジェリアに移住。ナイジェリアでは英語、フランス語の環境で育ち、この間に集中的に読書をし文学に目覚めた。作家デビュー前は英語で書くかフランス語で書くか迷ったすえ後者を選んだと言う
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%AA

これは、ル・クレジオさんのウィキの説明ですが、例えばこの人の本をよく読むためには、イギリスとフランスのローマ時代までさかのぼる確執や関係、言語に関する類似性の問題や、フランス文化帝国主義の問題や、ナイジェリアの移民や植民地統治、それに当然、ヨーロッパの植民地政策のことなどなどが、頭で深く体で深く体感していないと、僕はたぶんさっぱりわからないんだと思うんですよ。物事には文脈というものがあって、それ抜きに純粋に作品が孤立して存在するとは僕には到底思えないんです。そういう言説がよくあるんですが・・・でも、それで本当にわかるの?っていつも思う。極端な話、イギリスとフランスとアルジェリアモーリシャスに少しでも住んで、友人がいて、一度しかない人生のいくらかをそこにかけるようなコミットをしなければ、、、、なかなか本質的なことは感じられないと思うんだけれどもね。もちろん、イギリス人、フランス人、アルジェリア人に友達や家族がいないと全然わからないだろうね、ほんとのことは。そして、その言葉だけで、この「〜人」が物凄い欺瞞に満ちた定義だってのがわかるしさ。

大洪水 (1977年) (河出海外小説選〈5〉)大洪水 (1977年) (河出海外小説選〈5〉)
望月 芳郎

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僕は、小さいころに世界中の本を読みたい!と願うような読書少年でしたが、「本を読む」という行為は、僕にとっては「ちゃんと理解して体感する」ということなので、それでサン・テグジュペリ坂井三郎が好きになれば飛行機の免許を取りに行くし、ヨーロッパの文学が知りたければ住みたいと思うし、友達を深くつくろうと思うし、なんでもコミットしてその何分の一化でも体験できれば、それを核に「想像力で補完する」ということはできます。が、ゼロの状態では、あまりに人間は偏見や自分の「今生きている世界の文脈」に身体が支配されているものだから、なかなその無意識の支配から離脱することはできません。振り子は一度振りきれないと、結局は少しも動かないものなんです。

だから、「たくさんの本を見たい!」となれば、人の何倍も活動的に世界にコミットしなければ、きっと読書の世界が啓く知の豊饒さにアクセスほとんどアクセスできていないと思うんですよね。そういうことを思いました。


うん、もっともっと世界にアクセスして、もっともっと勉強して、もっともっといろいろなことを体験しよう!


そう思います。いい本に出会うと。だって、世界は素晴らしく豊穣で美しいもの。もったいない。