『放課後ウインド・オーケストラ』 宇佐 悠一郎著 何かにコミットするときとは?


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宇佐 悠一郎

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いずみのさんのお薦めで読んでみた。総体的には、★3つくらいの平均的な作品ではあるが、驚くほど読後感がいいので、このタイプの典型的なドラマツゥルギーをうまく組み立てているんだと思う。とりわけ、そうだなー大学生ぐらいまでの世代には、とってもお薦めします。

とはいえ、僕自身が、ある程度年齢のいった社会的な大人というかもうそろそろオヤジといってもいいような世代なので、正直いって、ストレートな少年マンガものは、時々、ある種のなんというか「青臭さと揶揄」をもってしか見れない。良いものは良いものなので、それがどんな表現媒体であっても、絵柄であっても、対象世代であっても、「それ」がレベルを超えている水準である限り、十分感情移入して楽しめるくらいには柔らかな感性はしているつもりだが、仕事の重圧、家庭の責任とかさまざまなな「責任主体」を背負う大人としては、やっぱりある種のノスタルジーのような「懐かしさ」や、「若さっていいのぅ(笑)」的な羨望を込めた青臭さへ危なっかしく思う「上から目線」を抜きに、こういう作品は見れない。物語にを受け手である主体にも、その物語世界を解釈する文脈が心の中にあるわけで・・・いいかえれば、心の中に、「自分」というもう一つの「視点」がフィルターとなってかかっているわけで、それが30代とかであれば、30代のある種の社会的属性がついた視点で、物事を俯瞰してしまうのは、どうしようもないことだ。


ファンタジーなんかは、そもそも世界を一から作るので、そういう既視感は、起きにくい。『グインサーガ』とか『ランドリオール』などもそうだが、「世界そのもの」を完全に描いてしまえば、そういう主体文脈は消えてしまうので、まっさら主体で感情移入がある程度可能だが、、、でも、なかなかそういう風に、自分の自我の殻を浮かせて、白紙で自由な主体として、物事に接するというのは、難しいものだ。僕は、それができるように、できる限り、物事の価値の曲と曲を理解しようと、幅広く情報接種を心掛けてはいるが、たとえば、仕事や家庭でテンパっているときの重圧による「リアル感」というのは、物語のフィクションレベルを簡単にぶっ飛ばしてしまう破壊力があり、かつ時系列的な圧倒的な一貫性が存在するので、よほど気をつけても、社会の中にはっきりとした「役割」を持つ人では、なかなか自由に対象にコミットすることは難しいものだ。それは、最優先にコミットすべき現実を、既に選択して、日常のほとんどをそれに費やしているからだ。


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おっと、話がそれた。ということで、僕はこの作品の総体的な評価は、まぁ部活モノの典型的な作品で、「若さっていいのぅ」的なジジイ感覚で、青臭い感覚にノスタルジーを感じるという感じがしてしまう。というのは、こういう感覚は、僕も部活やゼミで、人を率いる立場にあったりしたので、よくわかるんだ。ああ・・・そういえば、中学とか高校とかで、こういうのってあったよなー。みたいな。気恥しい、おままごとみたいなことだったけど、真剣に「みんながんばろう!」とかいったり、辞めようとするやつを説得したり、、、部費の予算で悩んだり(苦笑)。なんというか、こういう感じは、既視感がとてもあるよ。普通に生きて、部活動とかに参加していれば、いれば、こういう経験は、あるはずだもの。裏返せば、こういう部活動をしなくて、そういうのにあこがれた薄い自分の寂しさもね。


何にもやる気がなかった薄い主人公が、何の因果か偶然か、偶然巻き込まれ型で、ブラスバンド部の部長になって、部活を守って、それを盛り上げていく立場になってしまう。まぁ典型的ですよね。とても丁寧にさわやかに描いているので、もし同世代ぐらいの若者が読んだら、とても丁寧でよい作品だと思う。ただ、まぁ「それだけ」でもあるよね。

けど、個人的に「この系統の類型」(以下に説明します)は、なんというか「らしい」というか、時代だなぁ、と思うんですよね。



1)薄い平均的で、強い動機を持たない主人公の男の子

が、


2)基本的に世界を「眺める」俯瞰的なポジションであること(=内発的な強い動機がないこと)


しかし、


3)なんらかに「偶然に」巻き込まれるように、コミット(=参加)していくこと


にもかかわらず


4)やはり反復として2)の内発的動機の薄さを維持し続けること


最近読んだ、サンデーの『神のみぞ知る世界』も全く同系だったので、これは00年代以降の基本の「世界への姿勢」なんだと思う。というのは、今の若者(ってのは、10代のことね)は、多分こういうある種の内発的動機のない俯瞰的ポジションで、安定して世界を見ているんだと思うのだ。あのね、なんというか、いま20代の後半くらいまでの人は、社会に出る時、大学に入る時、高校に部活をしている時に、「後輩がどんどん動機というか強い熱意が失せていく」というのを、不思議に思いいらだった経験があると思うんですよ。いなやんつーか、たとえば70年代には、安保のような革命を志向する若者の香りが強く残っていたし、ウッドストックやライブエイドのようななんというか、カウンターカルチャー(対抗文化)の若者のエネルギーって減る傾向はあっても充溢していたし、その香りは、そうだなー70年代の後半くらいまでの生まれの若者は、まだまだ残っていん敗というわけでもなかったと思うんだ。それは、「動機」が強くある世代ということ。実際には、70年代の後半には、東京などの首都圏の文化は、もう完全にそういったものは消え始めていたが、世代だけではなく当時は地域間格差情報格差(田舎と都会の差が激しい)があったので、やっぱりそういう香りはのこっていたと思う。

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そういうころは、毛沢東造反有理でも、北朝鮮主体思想でも、アメリカのジョンレノンやカウンターカルチャーでも何でもいいのだが、強い主体が、、、いいかえれば、「強い内発的動機」が、まるでさもあるようにふるまわれていた。けど、80年代の物質的なある種のバーを越えた後は、そういった強い主体を支える動機が解体されていくような時代感覚を僕は感じるんだよね。たぶん、80年代に生まれていると、もう全くそれ以前の世代とは、意識が違うように僕は感じる。まっ、もっともそれは世代間格差の「小さな差異」にすぎなくて、大枠の人間行動は、どの見とどこへいっても、いつの時代も変わらないので、「小さい」ちゃー小さいのだが、漫画家や映画監督などのクリエイターやマーケッターには、「この差異」が重要だと思う。この小さな部分が、売れ行きを左右すると思うんでね。


えっと、つまりね、強い主体があるかのごとく振る舞われた80年代以前の「世界を見る視点」というのは、とても、強い動機に満ちていた。「世界を解釈しよう」というのが、全面になんのてらいもなく出る「熱い時代」だったのだ。理由は簡単、貧乏だったからだ(笑)。それ故に、わかりやすい物質的欲望の開放と目標設定が、人間の動機をシンプルに駆動していた。

けど、物質的な豊かさがある程度、無前提な環境変数になった80年代以降、、、たぶんGNP1万ドル以上と、ある種のストックなんだとおもうのだが、ここの都市に住む市民は、人称や属性を消去されやすい消費者としてのグローバルシチズンになりつつあるんだと思う。いいかえれば、物質的な要求がある程度、生まれながらの前提」なので、「ほしいものがない」ということになり、「世界を解釈するという熱い動機」が、非常に重たい、めんどくさいものになってしまったのだ。

いや、人間が生きる実存は、いつの時代でも「世界を熱く解釈していく」だというのは、変わらないんですが、、、、総体的に、内発的な動機が生まれにくい環境下になったので、なんというか、基本ベースの姿は、薄い人格にならざるを得ないんだよね。けど、そうはいっても、現実の人間世界のありかたは結局変わりはしない。世界に対して、自ら働き変えることでしか、世界は変わらないし、自分の充足は訪れない。

つまりはね、なんらかのコミット(=何かに自分自身の人生をかけること、的な意味で考えてほしい、より、スケールを小さくすると、何かを決断して「やる」と主体的にかかわること)をすることなしに、人生は豊かにはならないし、実存の充足は訪れないという人生・人類の普遍の原則は、別に変らないんだよね。俯瞰して見ていても、なにも、自分自身の主体感覚は得ることも、成長することもない。

ところが、基本的に内発的ベースが生まれにくい環境下では、、、、それは、豊かで多選択肢があふれているという意味なんですが、そういう状況では、「何にコミットするかが自明ではない!」という問題点が発生する。

そこに、ある種の偶然が発生するのですが、あっ、これは生きて普通に生活していると、いろいろ起きます。さすがに、女の子が空から降ってきたりはしませんが、ちょっと見方を変えると、似たようなことはよくあります(笑)。けど、その「物語の種」にコミットするかどうかは、その人の「意志」によるんですよね。もしくは「慣れ」に。

ちゅーことで、えっと、ようは、ある人間が、偶然に何かに出会い、それに巻き込まれていく中で、中途半端なりにコミットしていくことで、世界と自分自身が変わり、、、、という類型は、つまり、いずみのさんと海燕さんと話していた「契約と再契約」と同型のドラマツゥルギーなんですよね。これって、生きていく上でも普遍かも、と思います。

ただ、今の時代は子の前提条件が、「内発的な強い動機を持たない」のが「大前提である」として、いきなり熱くコミットし続けることに照れがないような、昔の『巨人の星』とか、『アタックナンバーワン』や『デビルマン』的なストレートなコミットメントが発生しない。また、ある程度コミットする時また後も、基本的に、コミット(=没入)し過ぎることへの微妙な抵抗感が常に継続するというスタイルをとると、非常にすーーーっと、対象読者層に理解されやすい構造にあるようだと思うのです。

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って、この漫画を念頭に置いて書いているが、難しくなりすぎて、、、、うーん、マンガの紹介じゃないですね・・・これ。僕は、だからまだ普通の部活漫画としていいだけなんですが、この平坦で内発性がない世界で、偶然にコミットしていくことはどういうことか?という少年漫画に重要な部分を、この作者がよくわかって書いている気がするので、とてもこの後が気になるんですよ。ドラマとしては、まぁ普通の形をとるとは思うのであまり興味ないのですが、この主人公らの世界への距離が気になる・・・。