プラグマティズムの権化〜明治時代のエートスとは?

新渡戸稲造の『武士道』に対する記事で、tujigiriさんがコメントしてくれた言葉が、とても頭に響いている。先の見えないものを調べようとするときには、物事には仮説が必要で、やっと、僕がこのあたりの時代に見出しているエートスの差異や構造が、なんとなく見えてきた気がする。

「なんちゃって読書人」としては、こういう瞬間、とてもワクワクする。何かがつながって、見えなかった大きなものが見えてくる感じ。丁度、浅田次郎さんの『珍妃の井戸』(つまりは清朝末期の小説)や佐々木譲さんの『昭南島に蘭ありや』、片山杜秀さんの『近代日本の右翼思想』などを読んだりと、「このあたり」のイメージが頭の中に広がり始めているのいるので、これでついに、中学生時代以来の課題である、伊藤博文大久保利通の事績やエートスへ、足を踏み入れる時が来たのかな、と思ったりしている(ああ、この100年に一度の大不況とプライヴェートが大変な時に、何を無駄に思考しているんだそう(苦笑))。その時のキーワードが、プラグマティズムの権化」というのは、確かにそう思う。初めて気付いたが、これは、僕が後藤新平に対して持っているヴィジョニストの指導者にして実務的テクノクラートであるという矛盾を体現するタイプのリーダーのイメージで、それと同じ系譜に属するものなんだろう、という仮説がつながってきた気がする。

うん、おもしろういよ、おもしろい。『風雲児たち』は最高に面白い本で、これによって江戸時代から日露戦争までを読み説く大きな「幹」になったが故に、その大きな反動として、このみなもと太郎さんが、その後大正期に、日本の共同体が変質していく時期にシンボルとなった勤皇、尊王思想をかなり忌避して捨象しているような感じもわかってきた。この時代の僕の頭の中で失われていた日本近代史の構造が、かなりまとまりつつある。うむ、なんちゃって読書人として、これは醍醐味だな。

ただ、そういうのとは別に、幻想的な文学作品だと思って読むと、新渡戸稲造さんの『武士道』は、確かに世界的ベストセラーになったというのがうなずける、教養あふれる文章だ。まさに、明治の知識人の徒花のような素晴らしい本だった。これは、会社の経営者から勧められた本だが、安岡正篤など、こういう系列の本を、勧めたり読むむ風習というか習慣が、企業経営者にはあるようなのだよな。この習慣は何のためにあるのかな?と思う今日この頃。だって、これが社会改良になんの役ももたらさない、幻想(=ロマンティシズム)だとすれば、こういったものにいれあげる経営者とか指導者って、アホウ?ってことになりませんか。でも、こういうの進める人多いんだよねぇ。読書会も多いみたいだし。僕には意味不明。意味不明なものって、そそられる。分からないもの、見えないものを、霧を晴らすようにクリアーにしたいって、いつも思うもの。この世界は、なんでこうなんだろう?っていつも疑問に思うと、人生が楽しい。