全能感を満たすことは演出技法の奥義の一つではあるにしても、本質的な構造が悪ければ、ダメなものはダメではないか?

鉄のラインバレル Vol.3 [DVD]


久しぶりに見る、「許せないレベル!」★1です。


■人気や受け入れ具合はわからないが、僕としては究極駄作と判断するしかないな・・・・
とある魔術の禁書目録』の15話の話でも書いたのだけれども、なるべくよいとか悪いとかいった場合は、最後まで見るように心がけてはいるので、何とか踏みとどまってみている。漫研のLDさんの意見ではないが、『何が悪いかを読み解きながら見るのもおつなもの』という高みまで行くというよりは、自分なりの「読み」をアニメでも確立するために、足掻いているといった感じ。『鉄のラインバレル』は、最新話まで見ても嫌悪感がつのるばかりなので、たぶん製作陣が狙っている部分が、僕には耐え難いことなんだろう。これどれくらいの視聴率やロボットなど関連グッズの売り上げがあるんだろうか?。それにネットの評価も気になる(←といって調べるまではめんどくさくてできない、ダメな俺(苦笑))。




■「やればできる俺」的な全能感の追求か?

設定とかマキナのデザインとか、お金はかかっているし、作りこんでいるし、たしかに


谷口悟郎が考えたコンセプト「やればできる俺」的な全能感を満たしてあげることで子供たちを誘い込む演出


とか


同じくコードギアスで使われた速度の速い展開という脚本


など形式はまねているので、経験や思い出が少ない子供が初めて見れば、「そういうものか」と世界観を受け入れて、それなりに見る可能性はあると思うので、そのあたりは気になる。どれくらいひきつけるものなのか?と。この辺は、僕が嫌いなことと、マーケットの数字は別の問題なので、注意深く観察したいところ(←といってもブログでの僕には検証の手段がないんだけれども(てへ))。しかし、「受け手がどれくらい見るか?」という部分は横に置いて言うと、やはり許せないし、嫌いだ。それは、やはり2点に集約できると思うんだが、


(A)主人公の全能感の肯定が、なんのバイアスも現実性もなしに、自己のルサンチマンに集約されている


(B)自己のルサンチマンに納得できる倫理・道徳的な根拠がない

これだ。これを読み解くと、(A)は、主人公の早瀬君は、


「ロボットに乗れて世界を救うヒーローとなる」


ということと、


「自分が努力もたたかいもせずにひねくれて現実をうらんでいる(恨み=ルサンチマン)」


ということを、結びつける契機を、ラインバレルのファクター(搭乗者)になることで、得ることになります。


これはロボットアニメの基本ですよね。子供は何もなければただの無力な子供で、現実に力を及ぼすことができないのだが、戦局に影響を与えるような兵器の搭乗者になることで、「世界を救うヒーロー」になるという形式。この形式には、自分のルサンチマン、言い換えてもっと抽象度を上げると「実存のあり方(=ほんとうに心のそこから願うこと)」を、接続させるという仕組みが隠れています。


けれども、普通、このことは、「あってはいけないこと」なんです。まず第一に、現実にありうるはずがありません。これは子供(つーか大人も持つけど)の「夢」なんです。そういう「届かない夢」があるからがんばれるという、吊り餌のようなもので、現実にはありえません。


だから、もし仮にこの夢が「かなってしまった」としたら、現実に、すさまじいリアクションが起きるはずですなんです。なぜならば、大人の世界では、現実と戦うために数千年の叡智と殺し合いの果てにいまある組織(=国家)を形成し、ギリギリのところで、その現実と戦っているわけで、そういった連中がそういったバランスオブパワーを冒すことを許すはずがありません。

たとえば、日本政府が、もし仮に世界を滅ぼせるような敵と対等に戦えるロボットを偶然に手に入れることができたら、まず諸外国がすることは、そのロボットを手に入れるか、戦後を見据えて日本を滅ぼすこと(=それに類する支配する、とか)を考えます。それがバランスオブパワー。人類が滅びる危機を回避する目的と同じくらいに、世界のギリギリの秩序を、矛盾があっても、守らなければならないからです。ここでは、差別や悲劇で金儲けにする仕組みを守ることと、同時に個人の自由と誇りを維持することが、不可分で分けられないものとして登場します。それが、これまで何万人規模の組織が背負ってきた、人類の敵を倒す、人類を救うという重荷の背後にあるもので、そういった矛盾が一気に、個人の肩にかかってきます。


無責任に見える大人やド汚い組織の取引や妥協を「なぜ、そういうことをしなければならないのか?」ってことが、主人公一人に迫ります。「世界の重荷」を背負っている「大人たちと組織の悲惨なほどの苦しさ」が、ヒーローとなった主人公(=受け手の感情移入して仮託する視点)に集約されることで、この世界のあり方を垣間見るという、というところにこの物語のバイアス(=寄り道・全能感を捻じ曲げる力)があり、このことをよりよく描いてこそ、それほど大人と世界が苦しんでいたことを、一人の個人や子供が解決するという「全能感」の演出が輝くんです。単純な話、演出上の問題ですが、困難はデカイほど、達成感はでかいからです。時々難しめの物語を作る人は、この点を間違えます。難しいことを、社会の矛盾を、語ることは、バイアスであって、全能感を受け手に感じさせるためのサブ条件なんです。


ただ、今回のラインバレルのように、そういった主人公の全能感を、ほとんど去勢する契機を、脚本/演出で出すことなしに進めると、主目的である「全能感を感じさせる」ことが、逆に消えて行ってしまうんです。細かくは、話さないですが、脚本上、親友が死んで諌めるところが、そのターニングポイントであったんでしょうが、それが全く生きているように感じません。また、早瀬君のナルシシズム上は、どう考えても、親友は死んでいなくなってくれたほうが、ストレートな要求です。好きな女の子を取られる可能性や、恨みの重なる過去を消せるわけですから。だから、主人公の心にとって本質的なインパクトがない。細かく書きませんが、小さなエピソード一つ一つに、そういった全能感の「断念」効果的に演出することが皆無です。これは、最低の脚本だと思う。


さて、(B)に行きましょう。とはいえ、全能感を満たすことは、正しい脚本だから、いんんだよ、ストレートにすべて満たしてやろうじゃないか?としたときに、それはありだと思うんです。そういうノリノリは、実際のところ、逆に言うと、80年代以前のものは、そういった「え?」っていうような、ストレートな全能感訴求物語や主人公がいました。とはいえ、80年代以前は、そもそも物質的に日本が貧しかったという前提があったが故に、ましてや製作者の上のほうは、日本が高度成長の始まるまだめちゃくちゃ貧しかったころの名残を残している世代がたくさんいて、そういった現実から逃れる「夢」であった部分があり、それは受け取るほうも感じたはずです。いまはそうではありませんが。


とすると、やっぱり次にくるのは、「その全能感を主人公が求めるのはなぜなのか?」という、主人公のキャラクターのモチヴェーション、つまり動機構造になると思うんですよね。動機の理由を全く描かないで、そういう人物だということを「前提的に話を進める」手法は、ハードボイルド小説やSFや政治経済小説などなどマクロを中心に描こうとする、言い換えれば、ここの途上人物の内面を語る余裕がなく、そんなものにも興味がない系統の物語に多くあります。が、しかし、『鉄のラインバレル』は、明らかに主人公の早瀬君の動機を、過去自分の無力感を「ルサンチマン(=恨み)」として悶々として抱える演出を初期に何度も繰り返しています。動機を描いたからには、その動機をどう解決するか?という物語上の圧力が発生してしまいます。また、物語の「路線」、「テーマ」などマクロ構造と、ストレートにリンクしてしまいます。するに決まっていますよ。





■手法にもルールがある、それを踏み越えることは悪手〜とにかくオレは早瀬が嫌い!(マジで(笑))
そうすると、この早瀬君の動機って、


腐ってやがりますよねっっ!!
(↑これが言いたかった!!(笑))


まぁよくある感情だとは思うんですが、よくありすぎて目が背けたいです(笑)。ちなみに、目がそむけたいものに「直視を要求する」というのは映画のなんかだと『アンダルシアの犬』とかの物理的なものから、ありとあらゆるものがありますが、それは基本的にブンガク(=あるテーマを解決する隘路に入り込むもの)であって、アニメでいうと、やっぱり『新世紀エヴァンゲリオン』の「逃げちゃやダメ」だ、に代表されるような、徹底的に主人公の自我をえぐって告発して解体していくという手法もありますが、はっきりいって、この作品はそういう覚悟も全くありません。主人公が大切なのは自分であって、他者じゃない。だから平気で、一般市民にどれほどの損害を与えても殺しても(そういう描写はなくとも、大規模戦闘をを都市で行ってそうでないはずがない)全く気にならないのです。身近な人間でさえ、ほとんど視界にないのですから。


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こう断言できるのは、彼の初期に描かれていた記憶の原風景は「好きな女の子を守れずに、自分が劣等感を抱く男に取られた!」とことを恨みにもっていることからです。

これって、「女の子を守りたい」でも「劣等感を克服して自分が成長する」でもなく、自分が、自分が、自分が!という全く持って救いがたいナルシシズムになっていることがわかりますよね。

えっと、その後、彼の解決の手段としては、「世界や(女の子)を救えるような力がほしい!」になっています。いいですか?(笑)ポイントですが、「好きな女の子自体をどうやって救ううか?ということさえ、その女の子が何をほんとうに考えているか?さえ考えない(=他者がいない)」わけだし、無力な自分を肯定して「そこから自分にできること(『ストライクウィッチーズ』の宮藤!)」を探して努力することもなく、「天から力が降って来ること待っている!」様なクズ野郎なんですよ!。もっと悲惨な境遇ならばともかく、あんなかわいい幼馴染の女の子がいて(しかも、強い親友よりは早瀬をスキっぽい)、心から友情を感じてくれている幼馴染の男がいて、、、おい、こいつなんだ、その最低の考え方は!!!!って思ってしまいます。

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つまり、AとBでわかることは、この主人公の自己肯定感や「全能感」に対して、バイアスをかけたり、動機に正当性を与える演出・脚本が、全くなされていないんですよ。信じられない!!!。ギアスのルルーシュは、どんなに人の命を弄んでいても、「ナナリーを救うため」という動機の正当性があったし、その正当性すら「ナナリーはそう望んでいない」演出によって粉々に打ち砕かれます。また、なによりも主人公は、親に捨てられ戦災孤児になり、物凄く悲惨な地獄を体験しています。また植民地11での日本人という抵抗の正統性も背負っています。そうした中で「得た力」であって、そこでどんなに全能感を、外面的な出来事で起こしても、主人公のルルーシュの内面には常に強い自己韜晦と自己批判と苦しさがあふれています。そこを積極的に描かないのは成功でしたが、「普通に解釈して読み込めば」それは自明のことでした。それとはぜんぜん違うのですよ。

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結論としていいたいのは


なんの正当性もないルサンチマンに対する自己批判的な色彩のない全能感の肯定は醜悪だ。

ということです。これは真善美の問題で、それはお前(=ペトロニウス)の思い込みだろ!といわれると、確かに科学的根拠はありません。でも、僕はこういう物語は許せないし、人間として美しいとはとても思えない。美学の問題として、Ugly(=醜い)としか思えません。こういう人物が、周りの女の子みんなに支持(=惚れられる)されるとか、組織の仲間が理念や命を投げ打っても助けたいとか協力したいと思うのは、まったく理解に苦しみます。一般ピープルの僕、たとえば、世界を守る組織の下部にいる一民間人だって、こんなやつに協力したいとは思わないでしょう。そんなの絶対に感情移入できないよ。


もちろん、初見のそこまで深く考えたりしない人は、そこまで悪くとらないかもしれない。けど、長く見られる名作になることはあり得ないし、こういったバックグラウンドの構造になんの美学も哲学ない脚本は、なんか肯定できない。視聴率はどのあたりなんだろう?。そうはいっても、外面上のお金をかけているレベルや技術は、それなりのものがあるので・・・。


ちなみに、ほぼ同じミス(=構造上の欠陥)のあるアニメーション『とある魔術の禁書目録』の1〜5話のは、たぶん原作自体が主人公の「記憶喪失」ということで、ほとんど解決してしまっている。ほんとは、その前の「なぜそういう動機を持つにいたったか?」というのは、本当が疑問ではあるんだが、むしろ無駄な過去の記憶を作るよりは、「もともとそうやつだった」と演出したほうが、ハーレムメーカーとなれるので、いまの時代にマッチした作品フィールドを形成するのに役立つと思う。つまり、作品の持つテーマ(=何を本質的に主張したいか)が違うと割り切ってしまえばいいのだ。このテーマは、ハーレムメーカー上条当麻の、「誰でも助ける」性格から生まれる英雄物語と思いきってしまえばいいのだ。


ちなみに、記憶喪失がすべてを解決している、というのは、



(1)記憶喪失という非常に大きな欠落を、主人公が代償として支払っている


(2)記憶がないということを、インデックス(=一番好きな女の子)に負い目に感じさせないために、黙秘している

ということで、主人公が非常に屈折したしており、自分の外面上の全能感(=右手の力ことや事件の解決の結果)を、内面上の自己肯定感(=ナルシシズム)に転換することができずに、ぐっと耐える構造になっているところだ。こういう主人公は、動機がなくても、いいやつだなーと思うよ。だって彼は何の根拠もない不安の中で、それでも女の子(=他者)を救いたいって思っているんだもん。それは、動機による行動根拠の説明がなくとも、十分に、彼が「そういう人格である」ということを受け入れることに納得を与えると思う。だって、自分が限りなく損をしても、人を助けたいと思うのは、自己犠牲だもの。世界は、代償があるところに、正統なフィードバックを返すと僕は思いたい。(現実はそうではないですが(笑))

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■アニメーションは、過度に尖っていいわけではないと思う〜とりわけロボットアニメは、少年の夢の最大公約数の題材だと思う
ちなみに基本的に90年代以降00年代の大衆規模で人気を得る作品のコンセプトは、谷口悟郎さんのいう「やればできる俺」でいいと思う。僕の言葉で言うと、「ナルシシズムの地獄からの脱却」という考え方と、置いている力点のポイントは違うが、同じことだと思う。

90年代以前は、あまり屈折せずにストレートに「やればできるんだ!」と主人公の視点を置けば良かったのだが、この時代の境で屈折した自己意識が入るようになっている。「やればできる俺」というコンセプトには、同時に「本当はやってもできない」もしくは「現実に踏み出さないでいるからいえること」という前提と皮肉が裏に隠れているニュアンスを僕は感じる。いまの次代でモノを考えたり、たくさんものを見ている人はおおむね同意してくれると思う。

僕のナルシシズムの地獄からの脱却」も、ナルシシズム(=やればできると現実の根拠なく考える)世界に留まることは人間にとってはすさまじい苦痛であるという前提があって(1)一回ナルシシズムに陥って、そこから(2)脱却することを目指すというコンセプトになっている。いずみのさんや海燕さんたちと話した、(1)契約-(2)再契約のコンセプトと同じことだ。


そういったことを前提にしているという時代背景と、倫理や道徳文脈からのアプローチをすべき話題ではないが、よほどブンガクブンガク的な文脈がない限り、やはり青少年をマーケットとする物語が、「正しい形での自分の成長と未来を信じる」ようなものでないというのは、あってはいけないと思うのだ。というより、そういうものでないと、カタルシスがないと思うよ現実的に。理由は簡単だ。ほとんど過半、、、いや95%ぐらいの青少年は、「現実的にそういうふうに現実を生きることを前提として要求されている」から。あまりにその文脈を離れるのは、マーケットを青少年とする「物語」にあってはいいと思わない。特にアニメーションは、テレビで放映する前提があるものだから、最大公約数的なものが求められると思う。少数の受け手しかいない前提の文学作品とは違うものだから。大多数の不特定多数が見るものが、こんなに倫理・道徳的に歪んでいるヒーローであっていいとは、とてもじゃないけど思えない。ましてや、ロボットアニメは、構造上、ロボットの売り上げとかを考えると、少年全てをマーケットとして考えて作るものだから。僕は断固として、絶対の確信を持って、人には薦めないし、いわんや、自分の子供には見せたくない。他の登場人物たちが真剣ないい人が多いので、言いづらくはあるが、唾棄すべき駄作だ。