テキトーな考えのヒント/内面のドラマトゥルギーとマクロのドラマトゥルギー(1)

定義めちゃくちゃでいいっぱなしなんだが、ふと考える。僕には、どうも大きく、「この世界」を二つのドラマトゥルギーの組み合わせとして観察しているようなんだな。これ、前提に読んでくださると、僕の文章は、ほぼすべてこの概念が基礎にあるので、たぶんよく読めるようになると思うし、わけのわからない用語はたいていこの概念の言い換えであったりするので。その二つとは、


1)内面のドラマトゥルギー
(キャラクター・人間の動機の構造/ほんとうにもとめるもの/幻想)



2)マクロのドラマトゥルギー

(政治経済など、人間の意志の介在を許さない、それ自体自律的で生態的な力/人の意思や幻想とは別の論理で動くもの)


ちなみに、ドラマトゥルギーって、適当な用語で、かっこいいから使っているというだけの、スノッブな理由に過ぎません。「ストーリー」といっても、「物語」、といってもほぼ言い換えられる。えっとね、「トゥルギー」には、「動的で、展開していく圧力の志向性がある」という意味を込めているので、なんとなく特殊に言ってみています。←ただのスノッブな動機です。


えっと、以下に書く文脈からこの用語の使い方を感じてほしいのだけれども、、、、


僕は、人間の「振る舞い」や「行為」には、すべて「内的な理由がある」と考えます。人は、いろいろな「行為」をするんですが、その行為が「どういう心理的な理由から」生まれてくるかを、長時間観察して、その理由を少しづつ重ねて体系化していくと、「その人自体」の「行為の根拠や仕組み」が理解できて、その人の行為を予測できるようになります。僕は、これを「スケッチ」と呼んで、周りの人間や、そして自分自身も、よくメモをとって数カ月観察します。そうすると、ほとんどその人の動機は把握できるようになって、その人がどういう人生を送るかも類型化できます(←これ、自分に利害関係がない場合は、物凄い確率で当たります)。これが僕の処世術であり、組織の中で生きるスキルとなっています。


そうして観察されて、ある程度抽象化された「行為の発動の仕組み」を、僕は、「動機」とか「動機の構造」と呼んでいます。


そして、これを、僕は、人の心の中にある「物語」とか「ドラマトゥルギー」(形容詞に内的なとか人格のとかが良くつきます)と読んでいます。すべて人間は、心の中に物語を持っている、と僕は呼んでいます。ちなみに、これを、「幻想」とか「個幻想」とも呼んでいます。この幻想や物語が関係性を持つ場合を、二人だと「対幻想」と呼び、3人以上になると「共同幻想」と呼んでいます。


「幻想」とかよんでいることから分かる通り、これは、人間の頭の中にあるイメージを指しているので、自分の意思でコントロールするのは、至難の業ですが、基本的にコントロールすることが「できるはず」のものです。つまりいかえれば、これが自覚的で顕在的なものを「意思」と考えるからです。


ちなみに、この心の中にある動機の根本的な原理や、人生の行動を基幹的に支配する最も重要なものが、すなわち、「その人自身」ということになります。その人の本質であり・・・よく僕は、それをよく「自分」と呼んでいます。よく、「汝、自分自身を知れ!」というように、自分の中にある「自分」を客体化する表現があるのは、「いまその時の現在性を生きる自分の意識」と、自分の行動をオーダー(秩序づける)する「本当の自分(=たいていは過去に体系づけられたモノ)」というものは、別のものであるからだと思います。


さて、この自分自身の動機の構造を、僕はなぜか、「物語」とか、人格の「ドラマツゥルギー」と呼びます。時には、「解決すべきもの」とかよく評します。


それはなぜか?


人間が、自分の行動を支配してしまうほどの「動機」の構造ができるからには、理由と原因があります(あるはずです!)。そして、たいていの人は、この「自分の構造のあり方」に「自覚的」にはなれません。僕が、「自覚的である」とか、「この人はわかっているなー」とかいう表現をするときには、人間というものが、「自分(=現在性を生きるいまという自制)」の視点と、その「自分自身の意識や行動のあり方を秩序づける自分」との二つの対立の力学がある、ということに自覚的だと感じた時です。それをプラスで称揚するのは、そうした対立の力学が、自分の内部にあることに「自覚的な人」は、とても賢く人生を生きるからです。自分自身の「本当に求めていること」に自覚的であれば、それに騙されたり、間違った努力や行動をしたり、本質から逃げたりしにくくなるからです。


ただし、動機の構造は、たいていは、「負の体験」や「大きな簡単には達成できない目標や目的」や「家族や親の世代からの連鎖」によって形成されるものなので、そういった「重荷」に自覚的になるのは、非常に負担がでかいことなので、ほとんどの人間は自覚的なることができません。また人間という生き物は、「自分の本質」から目をそらすのが大好きな生き物で、こうした行為をハイデガーとかの実存主義では、退廃とかそういった感じの言葉(忘れた)で貶しています。


つまり、これは、これが「解決されるべき目的をセットされたもの」であることを示していると思います。人が生きるということは、この「自分」の本質を見極め、その「自分」を解放し、全うさせる(=物語を結論まで終わらせること)ということなのだ、というのが僕の人生観なんです。つまり、ドラマトゥルギーには、時間的な展開の力学がセットされていると考えているので、こういうちょっと特殊な言い回しにしてあります。


えっと、ここでいう「力学」には二つの切り口があるのがわかりますよね?


つまり「現在性を生きるいまの自分(=意識)」というものと、「本当の自分(=無意識)」が、常にパワーバランスで指導争いをしています。基本的に、人間の行為は、いまの自分に傾きがちです。つまり対立の力学があります。


それと、また「本当の自分」というか「人格のドラマトゥルギー」というか「動機の構造」には、「解決へ向かわなければならない」という時間的展開の志向性が常に存在しています。この展開の圧力と、「自分自身の本当に求めているもの」に向き合いたくない「いまの自分」が、「虚偽問題」を発生させて、、、本来は解決に費やされるべきエネルギーを、全然違うものに振り向けたり、解決ではなく隠ぺいに向かわせるというのが、もう一つの力学です。えっと、展開の圧力が、常に間違った方向へ流れていってしまいやすいということです。


あっ、細かくなってきた・・・・・



まぁ僕は、人間、、、、それは、物語世界のキャラクターであっても、リアルな人間でも同じですが、心の中に動機の構造があり、それを「本質的に解決に向かわせる」力が働いていると考えます。この自分自身の心の中にある動機の構造・・・テーマは、リアルな人生だと、10年とかそれくらいの期間によって「現実に試されます」。


が、それは置いておいて、物語の世界ではあれば、それは、物語の尺や物語自体の持つテーマなどとリンクして、展開していくことになります。僕が、物語の主人公やキャラクターの動機を分析するとか、動機がわからねぇ!、とか、という言い方を言う時は、こういう考え方が背景にあります。



・・・・2)まで行きつかなかった。まっ、とりあえず、今日はここまで。